今現在、
原発事故関連の
風評被害が蔓延しつつありますが、そんな時期だからこそ振り返ってみたい
山本七平のコラムについて以下ご紹介したいと思います。
■責任追及者の責任
「政府の責任」と「党」との関係について、少し考えてみたい。
この言葉は、しばしば労組や野党やマスコミによって濫用された。
たとえば「それによって生ずる混乱の責任はあげて政府にある」といってストをする場合や、ある種の言葉尻を捉えて政府を追及する場合等々、新聞や声明にはしばしば「政府の責任」が登場した。
それらの中には、「なるほどこれは政府の責任だな」と思われるものもあるが、普通の常識から考えれば「これを政府の責任というのは少々無理だ」と思わざるを得ないものもある。
むしろ「そう言っている者の責任だろう」と思われる場合もあるし、「言葉尻を捉えているだけで、追及している方がむしろおかしい」場合もあるし、「人類のだれもが予測できなかった事態に対処していなかったから、といって責任を追及されたら、だれもこれには対応できないだろうな」と思われる場合もある。
だがこの場合、政府は決して反論しないし、「それは政府の責任ではない」と反論する言論機関もない。
大体、反論して事を荒立ててもつまらないし、政府を弁護して保守反動の手先などと言われてもつまらない。
いわば聞き流していれば、実体がない以上、その声は当然に消えてしまうという前提で、すべての人がこの「政府の責任」という言葉に対応しているわけである。
言葉の誤用・濫用は、しばしばその言葉を殺す。
そうなると、本当にその言葉を使わねばならぬ事態が来ても、殺された言葉では何の効果もない。
事実「政府の責任」という言葉が出てきても、政府も、その言葉を耳にした者も、何も感じないという事態にすでになっているであろう。
さらに大きな問題がある。
「政府の責任」の追及は新聞の役目であると新聞は自任し、一般人もそう思っている。
ということは新聞が追及しない限り、どんな誤った決定を下しても政府は免責されてしまうということである。
たとえば新聞の誤報がパニック状態を起こし、政府がこれに押し流されて「誤報に基づく緊急対策」を実施し、その結果国民が被害を受けているような場合、新聞はこれを追及しない。
もちろん誤報に基づこうと、パニックが起ころうと、これを基にして「最終的決定」を下し、その「実施を命じた」政府にその責任があり、この「政府の責任」は決して新聞の「誤報の責任」にすりかえてはならず、両者はそれぞれ責任を負うべきことは言うまでもない。
しかしこの場合、新聞が「政府の責任」を追及すれば、それは否応なく自らの「誤報の責任」をも追及する結果になるから、この場合は両者ともに頬かぶりになり、共にこの責任問題に触れまいとする態度を生ずる。
こうなると、真に追及さるべき「政府の責任」はうやむやに放置され、これを追及しても人は「またか!」と思い、新聞も取り上げないから否応なき「無責任体制」となる。
清浦雷作東工大名誉教授から、『環境問題の虚と実(1)化学工業の受難――虚報による実害』を送っていただいた。
発端は、多くの人は忘れているであろうが、余り広言できぬ病気をもつ一老人が朝日新聞の記者に会うところからはじまる。
それが、まだ診断が確定しない前に「大牟田にも水俣病?」の大見出しとなって新聞に載る。
これは有機水銀だけでなく無機水銀からも水俣病が出るということであり「第四の水俣病」ということで、翌日の各新聞は競ってこれにとびつく。
その結果、どこの魚もみな危いとなり、苛性ソーダ工場が漁民に封鎖される。
政府はあわてて「アジならアジは一週間何匹……」といった「週間魚介類摂取量」なるものを公表する。
それが、逆にパニックをあおる。
それに便乗して、「怒りをぶちまける」式の売名屋が出る。
だが結局、虚報のパニックは消え、嘘のように平静にもどる。
だがその結果、狼狽した政府の水銀汚染対策推進会議の決定は残った。
すなわち水銀法から隔膜法への転換である。
それがどういう結果になったかは、清浦名誉教授の論文に詳しく出ているから一読されたい。
結論を引用させていただくと、日本の化学工業は「潰滅へと転落して行く」ことになりかねない。
建設には長年の努力と汗が必要だが、破壊と大量失業は一片の虚報で事足りるという一例である。
だが、今はそれを問わない。
問題は、この間における「政府の責任」である。
新聞も野党も、おそらくこの責任は追及すまい。
では、追及されなければ放置してよいのか。
もしそれを放置すれば、新聞との癒着による無責任体制になる。
この場合、この問題に決着をつけて責任の所在を明らかにすることは、議会を通じての党の役目であると私は思う。
【引用元:「常識」の研究/責任追及者の責任/P82~】
「政府の責任」という言葉が死んでいくプロセスが、わかり易く説明されてますね。
マスコミのチェック機能がなぜ働かない場合があるのか、この説明が上手く当てはまるのではないでしょうか。
今回の放射能騒ぎでもこのコラム同様の事態が起こる事でしょう。
「政府の責任だ、
東京電力の責任だ」と騒ぎ、放射能の危険性がこれでもかと喧伝され、被爆しても因果関係が認められない程度の放射能レベルで大騒ぎしたり、本来水で洗ったり、ニ・三枚葉をむしれば安全性を確保出来る筈の葉物野菜ですら、全て危険視され出荷停止になる。
マスゴミは不安を煽り、それに引きずられ政府も追随せざるを得なくなる。
その結果、生産者は一方的に
風評被害を蒙ってしまう。
そしてある程度時間が経過し、ヒステリー状態が治まれば、過剰反応だったということになり、被害との因果関係が曖昧にされ、誰がその責任を取るのかはっきりしないままに終わる可能性が高い。
ひどい場合は、上記コラムの例にあるように間違った決定が是正されないまま、放置されてしまうことになりかねない。
いや、もっとひどい場合、マスゴミは自らが煽ったこと自体、知らんぷりして政府に一切の責任を押し付けてしまうことでしょう。
そして、終いには政府が補償する羽目になる。
それは結局、税金ですから全ては国民にツケが廻される。
最初に煽ったマスゴミは何の責任も取らないまま。
まさに、無責任な言動がもたらす災厄ですなぁ…。
まるでマッチポンプの様だ。
それはさておき、上記コラムの「水銀法から隔膜法への転換」のその後については、ちょっと気になったのでネットで調べてみました。
■ソーダ工業の歴史
(~前略)
昭和24年(1949年)頃まで隔膜法と水銀法が拮抗していた電解ソーダ工業は、その後水銀法が主流となり、その技術水準は世界でもトップクラスを誇っていましたが、昭和48年(1973年)に起こった水銀問題により政府は非水銀法への転換を決定することになりました。
その結果、日本のソーダ業界は昭和61年(1986年)までに隔膜法やイオン交換膜法にすべて転換されました。
その過程で、隔膜法か性ソーダは品質が悪く、コストも高いという欠点があったため、当時新しい技術として注目されていたイオン交換膜法の技術開発に業界をあげて取り組むことになりました。
製法転換で3,000億円を超える資金を投入したソーダ業界にとって、体力を消耗した中での新技術の開発は最も苦しい時代であったと言えます。
幸いイオン交換膜法の技術は、政府をはじめ多くの関係者の支援と努力もあり、日本を代表する技術に育ち、昭和54年(1979年)から商業生産に採用され、平成11年(1999年)には日本の製法はすべてイオン交換膜法になりました。
高品質、省エネルギー性など多くの特長を誇るこの技術は、現在世界各国に技術輸出されています。
(後略~)
(日本ソーダ工業会HPより抜粋引用)
幸いなことに、これについては禍転じて福となす結果となり、清浦教授の懸念は杞憂におわりました。
しかしながら、全てがこのように上手く行くとは限りません。
仮に、今回の騒動の結果、何が何でも「原発は廃止するのだ」という決定がなされたとしたら…。
ソーダ工業などという一業種の興廃の問題と違い、エネルギー問題は日常生活や経済成長に直結する問題です。
一時の世論に押されて、取り返しのつかない間違った判断をすることだけは避けねばならないと思います。
反原発の風潮が高まっている今こそ、このコラムを鑑みるべき時だと思い、ご紹介した次第。
余談になりますが、こうした無責任体制を正すのが党の役目だと
山本七平は指摘していますが、IT時代の現代ならネットがその役割を担う事もできるのではないでしょうか。
確かにネットには闇の部分も多いです。
自らの主張を通す為に、無責任に情報を垂れ流す輩がわんさか居る。
最近の私のツイートを見ている方はお分かりでしょうが、
上杉隆氏のようなフリーランス・ジャーナリストの言動について批判しているのは、彼らのようなネットツールを駆使したジャーナリストですら、無責任な態度で情報を垂れ流すなど、その言動は何ら既存のマスゴミと変わらないからなのです。
彼らは単に既存のメディアを敵視し、それに取って変わりたいだけの売名屋に過ぎないと私は見ています。
それは無責任な情報を振りまいてきた彼らの過去の言動をみれば明らか。
ネットは既存の政界とマスコミのもたれ合いによる無責任体制を突き崩す「ツール」になり得ます。
しかしながら、
上杉隆氏のようにその「ツール」を汚す輩が沢山いるのも事実。
そうした輩はたとえフリーランスとはいえ、既存マスゴミ同様、批判し続ける必要があると考えています。
ネットを第二のマスゴミにしない為にも…。
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東京電力福島原発事故を巡るニュースが錯綜していて、素人には何がなんだかわからない状況が続いてますね。
やたら危機を煽る人もいれば、事態を過小評価している人もいて、どちらが正しいのか迷ってしまいそうです。
しかしながら、原子炉の型や構造から考えて、少なくとも
チェルノブイリのような惨事にはならないでしょう。
もちろん、
スリーマイル島レベルの事故であることは間違いないので予断を許しませんが。
今回の原発事故で、日本での原子力発電事業の停滞は必至ですが、それでも現存する原発は今回の事故を踏まえ安全対策を講じた上で運用を継続して行くべきでしょう。
何しろ日本の現状において、原子力エネルギーに代わり得る安定的な代替エネルギーが近い将来見込めない以上、リスクを最小限に止めつつ運用し続けるしか選択肢は無いのですから。
放射能の危険性も重大ですが、その危険性について正しい知識を持ってキチンと対策を講じればある程度はその害を防ぐことができる筈です。
しかしながら、原子力発電を止めた場合に蒙る日本経済への悪影響は、放射能の害よりもはるかに大きい。
エネルギーの自立が損なわれることでどうなるかは、ここ数日に行なわれた
計画停電での混乱を見れば明らかでしょう。
電力の安定供給は、まさに血液の循環に等しく、循環が止まれば人の生命の維持さえ危うくなるのですから、安定供給の維持は至上命題。
そして安定供給するために必要となる自主エネルギー源を殆ど自活できないのが日本の立場なのです。
過去の日本においてエネルギー不足がどのような影響を与えてきたか、歴史を振り返って考察した
山本七平のコラムを一部抜粋してご紹介しておきましょう。(過去記事「
◆「原子力の日」に思う。」では全文紹介済みです。)
■原子力の日
(~前略)
こういう新しいエネルギー(原子力のこと)と、それによって生産される電力が社会で用いられるエネルギーの主体となると、人間の社会はどう変化するであろうか。
過去における戦争は、しばしば食糧とエネルギーをめぐって起こった。
戦前の日本では「石油の一滴は血の一滴」などといわれ、これと食糧とが、世界恐慌の後遺症に苦しむ日本が満州に進出しようとした主要な動機であったといえる。
当時の記録を見ると、開拓民として満州に渡ったのは農村の土地なき二男、三男であり、その多くは寒冷・積雪地である。
今その順位を記すと、①長野、②山形、③宮城、④新潟、⑤福島、⑥群馬、⑦熊本、⑧石川、⑨秋田といった順になっている。
歴史に「もし」はないが、当時日本が豊富なエネルギーをもち、これらの地に工業を興して就業の機会を得られるようにしていたら、満州事変から太平洋戦争へという悲劇を防ぎ得たであろう。
もちろん現在でも問題はすべて解決したわけではなく一方で過密を生じ、その一方で過疎を生ずるという問題は残しているとはいえ、昭和初頭のような苦しい状態ではない。
日本の農地は限られているが、就業人口は減少して多くが第二次、第三次産業に移っている。
それを可能にしたのが豊富なエネルギーであることはいうまでもない。
従ってエネルギーの確保は日本の死命を制する問題であるとともに、その創出は日本の将来に大きな可能性を与える。
と同時に、原子力はある国または地域がエネルギーを独占して国際政治に猛威を振るうことも抑止しているわけであり、原子力はこの点でも「エネルギーなき国」といわれた日本の将来と国際政治に大きな力をもっている。
このような点から見れば、「原子力の日」は日本にとって、新しい方向へと踏み出した重要な日だと言わざるを得ない。
毎年この日には必ず、エネルギーと日本の将来という問題を、各人の問題として考えたいものである。
(終)
【引用元:原子力の日/「常識」の非常識/P88~】
今も被災地においては「石油の一滴は血の一滴」であるのが現実です。
その石油からの依存を減らすのは、残念ながら現状では原子力しか見当たらない。
反原発のヒステリックな論調が高まりつつ現在こそ、上記コラムを鑑みるべきだと私は思うのです。
いたずらに原発の危険性というデメリットばかりに捉われるのではなく、そのメリットも把握した上で、今後の原子力を考えるべきでしょう。
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(ツイッター以外では)久しぶりのブログ更新です。
遅まきながら、まず初めに、このたびの大震災にて不幸にもお亡くなりになられた方々のご冥福を祈念するとともに、被災され今現在も救助を求めるなど苦難の状況が続いておられる方々が一刻も早く普通の生活を取り戻せますよう、お祈り申し上げます。
また、救助や原発事故対応にあたっておられる方々のご活躍とご無事を心より願っております。
さて、チョット前の話になってしまいましたが、今回の東北地方
関東大震災についての石原都知事の天罰発言がかなりの反響を呼びました。
石原都知事の言いたい事もわからなくはありませんでしたが、このニュースを聞いたとき「
随分と不適切な発言をしたものだなぁ、かなりの反発を喰らうだろう」ととっさに思いました。
案の定、悪評プンプンでしたね。
結局のところ、発言撤回に追い込まれてしまいました。
もちろん、あのような発言は撤回するのが当然だと思います。
しかし、私がちょっと納得行かなかったのは、石原都知事を「人として許せない!」などと声高に糾弾している当のご本人たち自身が、「天罰」とか「前世の報い」とか「親の因果」という”発想”に全く捉われることはないのか??という疑問を抱いたからです。
何の罪科のない人たちが、突然の天災に襲われる。
その不条理に直面した時、その理由を天罰や前世の報い、親の因果というフレーズを思い浮かべ、理由付ける日本人は意外に多いのではないでしょうか。
石原都知事は、それを自分の主張に合わせて都合よく解釈し、思うままにしゃべってしまった。
私は石原都知事の「我欲が日本をダメにした」という考え自体には共感できなくもありませんが、それを天災と結び付けるのはまったく論理的ではないと思う。
しかしながら、彼がそう思ってしまった気持ち自体は理解できなくもありません。
ところが、それを「
人として許せない」とか「
コイツは人間じゃない」とまで罵る人達がたくさん現われた。
そこで私は問いたい。
そういうあなた方自身、口に出さずとも心の中では同じような発想を思い浮かべたことはないのか!と。
あなた方は、石原都知事の不適切発言をなじる事で、単に自らが正義漢であることをアピールしたいだけじゃないのか!と。
今回の騒動を見ていて、どうにもそうした人たちに対して、偽善の匂いを感じてならないのです。
それはさておき、本題に進みましょう。
今回の石原都知事の天罰発言は、いわゆる
関東大震災後に流行した「天譴論」と同じ類いではないでしょうか。
というのも、
山本七平の著書「禁忌の聖書学」で見かけた「天譴論」とそれに関する
菊池寛の主張を思い出したからなのです。
山本七平が本書の一章を設けて、
旧約聖書の
ヨブ記について書いているのですが、その中においてこの「天譴論」が触れられています。
なんの罪科もない善人ヨブが神とサタンの実験台とされ不条理な災難に遭う、というのが、いわゆる「
ヨブ記」なのですが、
山本七平は
ヨブ記のテーマを日本人に根強くある応報論と絡めて論じております。
現代においても非常に考えるべきテーマだと思いますし、それを考える上で非常に参考になると思いますので、以下長くなりますが(また、大変読みにくいと思いますが)抜粋しながらご紹介していきたいと思います。
■結末なきヨブの嘆き
幼時の強烈な印象は一生残る。
五つか六つの時、母に手を引かれてある神社の境内を通った。
祭りだったのであろうか、狭い参道の両側には見世物の仮小屋が並び、毒々しい色彩の看板を掲げ、盛んに呼び込みをやっていた。
その一枚の看板の前で、私の足はすくみ、呪縛にかかったように動けなくなった。
「さあ、お代は見てのお帰り、親の因果が子に報い、頭が二つに足が四本……」
看板にはその通りの絵が掲かれ、腰のあたりだけが布で隠してあった。
「見てはいけません」
叱責に近い口調で母はいい、強く私の手をひいた。
私は母に質問をしたかった。
しかし母は、質問を受けつけないような厳しい顔をしていた。
小学生になり、一人で行動をするようになると似たような見世物の看板と、「親の因果が子に報い……」という呼び込みに出会った。
児童福祉法などなかった時代の、ありふれた情景だったのかも知れぬ。
最初のこの経験から二十年ほど経った。
私はマニラ南方のカンルバン収容所の、戦犯容疑者収容所にいた。
何の容疑か自分でもわからない。
また周囲の人から見れば、学窓をポッと出て、いきなり戦場に連れて来られたような、全く世聞知のない私が戦争犯罪の容疑者になっていることが不思議らしかった。
「あなたのようなボンボンが何でこんな所になあ、前世でよっぽど悪いことでもしたのかなあ。ここに入れられちまえば、もうどうもならんよな。ピリ公(フィリピン人)に、首実検で、あの男だといわれりや、これさ」
といってその人は、揃えた指先で自分の喉をすっとかすった。
「何かあっても、前世の因果と思って諦めるんだな」
何とも納得できない不条理に陥ったとき、その理由を前世に求めるか前の世代に求める。
これが大体日本の伝統的な考え方であろう。
前に中村元氏と対談したとき、「前世の因果」と「親の因果」という、全く違う原理を徳川時代はもちろん、現代でもごく普通に併用しているのはなぜであろうかと私は質問した。
輪廻転生の世界には「前世の因果」しかないはず、それともインドにもやはり「親の因果」という考え方があるのでしょうかと。
先生は「原則的にいえばない」といわれた。
すると「親の因果」の方は、儒教の影響であろうか。
では日本に「死後の法廷」における「正しい裁き」という考え方があったのであろうか。
全然なかったわけではなく、これは道教の影響だとする学者もいる。
だが親の罪がこの世で免れても、死後の裁きで峻厳に処罰されているなら、子が親の責を負うのはおかしい。
「後世」という考え方はあっても、この「死後の神の裁き」という考え方が明確にないことを、日本人のキリシタン伝道師不干斎ハビヤンがすでに『妙貞問答』の中で指摘している。
以上のさまざまな考え方は、今では完全になくなっているとはいえないまでも、影の薄いものとなった。
もっとも理由なく絞首台に立たされたとき、その人がどう考えるか、これはわからないが――。
一体人はなぜ、以上のようなことを執拗に信じようとしたのであろう。
その前提はこの世の中は、義が支配し、これに違反した不義なる者は罰せられ、これに従った義なる者は報われるはず、と固く信じているからに外ならない。
この信仰は今も変わらず、変わったのは、その義が現世において、すなわち各人の出生から死亡までの間に、人間の力によって確立される、否、確立されねばならぬと信ずるようになった点だけであろう。
そう考えたとき、前世の因果も親の因果もまた死後の裁きも否定されねばならない。
それはこの世の不義・不正を黙認させ、義の追究を麻卑させる手段にすぎないことになる。
宗教がアヘンとされる理由であろうが、後述するように現代にも別なアヘンがある。
事実、不正な収奪に会って餓死しそうになりつつも、肥え太った不正な富者を見て、「来世では自分はああなるのだ、あいつは前世で餓死したに相違ない」と考えれば、それは不合理でもなければ不義でもない。
また偽証によって罪なくして絞首台に立たされても、死後には神の裁きがあり、そこでは自分は無罪で偽証した者が処刑されると思えば、何とかその苦しみに耐えられるであろう。
だが人間がそのすべてを信じなくなったとき、一体どうなるのであろう。
人間は自らの知性に絶対的な信を措き、それに基づいて義なる世界を打ち立てることができるであろうか。
また自らの信ずる義に基づく規範に生きつつ、それを神の義、簡単にいえば宇宙の秩序に即応しているものと信じていれば間違いないのであろうか。
旧約聖書の『ヨブ記』とソポクレスの『オイディプス王』は、以上の点で似た前提に立っており、こう考えると『ヨブ記』は果して俗にいう「宗教書」なのか私は疑問に思う。
というのは、簡単にいえば、故なき苦難に呻く全き善人ヨブに一言「前世の因果さ」といえばそれで終りであり、オイディプスには「親の因果が子に報いたのさ」で終りとなる。
いずれも劇が成立しない。
旧約聖書には「前世」という概念はないが、古い時代には『出エジプト記』に「父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者〈神〉」(三四7)とあるように、その罪が四代までは及ぶという考え方があった。
これをはっきりと否定したのが預言者エレミヤとエゼキエルである。
エレミヤの有名な「……その時、彼らはもはや、『父がすっぱいぶどうを食べたので、子供の歯がうく』とはいわない。人はめいめい自分の罪によって死ぬ」(三一29以下)という言葉は、「親の因果が子に報い」的な考え方を否定した最初のものであろう。
エゼキエルはさらにはっきりとこれを否定している。
面白いことに当時「親の因果が……」と同じような定型化された言い方が「父がすっぱいぶどうを食べたので……」であったらしく、エゼキエルもこれを用いて次のように言っている。
「主の言葉がわたしに臨んだ、『あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、「父たちが酢いぷどうを食べたので子供たちの歯がうく」というのはどんなわけか』。
主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ」(一八1以下)と。
だが当時の人びとはなかなかこれを納得しなかった。
エレミヤはイスラエル滅亡の時の預言者、エゼキエルはバビロン捕囚の時の預言者である。
人びとはみな、滅亡や捕囚の苦しみを受けるのは自らの罪でなく三、四代前の罪が自分に及んできたのだと考えたがった。
そこでエゼキエルに反論する。
だが彼はこれに対してはっきりと次のように言った。
「……あなたがたは、『なぜ、子は父の悪を負わないのか』と言う。子は公道と正義とを行い、わたしのすべての定めを守っておこなったので、必ず生きるのである。罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する」(一八19以下)。
これはきわめて重要な言葉で、責任はあくまでも個人に帰し、その責任を各人が神に負うという点で、個人主義の出発点だともいえる。
と同時に「親の因果だから仕方がない」という逃げ道はなくなってしまった。
前置きが大分長くなったが、以上の前提をはっきりしておかないと、『ヨブ記』の問いかけがわからないからである。
この未知の作者は、古い伝承を利用して、まず「罪なき義人ヨブ」を設定する。
神の義がこの世を支配し、エレミヤやエゼキエルの言うように、「前世の因果」も「親の因果」もなく、罪はすべてその人に起因してその人に帰するなら、彼は神から祝福されることはあっても、罰せられるはずはない。
そして旧約聖書の『箴言』は、この立場に立って人びとによき行いをすすめている。
ヨブはそれを行い、神もまたそれを認める人であった。
ところが、ヨブの知らぬ間に、天上で、神とサタンの間に妙な会話がかわされる。
神がヨブの義を指摘するとサタンは、ヨブはそれによって得る神の御利益があるから、そうしているだけであるという。
簡単にいえばヨブにとって絶対なのは御利益であって、神でも神の義でもない。
その証拠に、もし彼に何らかの大打撃があれば、彼はすぐに神を呪うでしょう、という。
サタンの言葉は確かに社会の現実を指摘しており、このことは、御利益をかかげて信徒を誘う新興宗教に示されている。
そこで神は果してその通りか否かをサタンに示すため、ヨブの身柄をサタンにわたす。
簡単にいえばヨブは御利益が絶対なのか、神が絶対なのかの試験台に使われ、彼にさまざまな災禍が下る。
彼を慰めに三人の友人が来る。
だがこの三人もまた「全能の神は正しき者に報い、悪しき者を罰す」を信じているから、これを裏返すとヨブに「隠された罪」があることになってしまう。
そこでそれをヨブに告白させ懺悔させ、神に赦しを願えという論法になる。
だがヨブはそれを認めない。
そのため慰めはいつしか糾弾になり、激論となっていき、ついにヨブは神を呼び出し、直接に対決しようとする。
「おれが正しいのか、神が正しいのか」。
神はこれに大声で答える。
これが『ヨブ記』のクライマックスだが、その言葉にわれわれは果して納得できるのか、否、ヨブが納得したのか。
これが『ヨブ記』が問いかけてくる問題であり、前述のように、ある意味では、きわめて現代的な問題である。
そしてこういう考え方をすると、故なき苦難や冤罪に苦しむ者の救済は「死後の神の裁き」しかない。
だが、旧約聖書には現代と同様、この考え方が全くないし、もしあれば『ヨブ記』は成り立たない。
一体こういう世界での義の確立はどのように考えればよいのであろうか。
現代人も同じような世界に生きているのだから、ヨブの運命とその結末には、他人事とは思えぬ切実感がある。
(~中略~)
このエリパズ(註)の言葉は、おそらく、常にくりかえされる宗教家なる無神経人の”お説教”の要約であろう。
(註)…ヨブを見舞いに来た三人の友人の一人。
全く、苦しみうめくヨブを前においていい気なもんだという気がするが、重病人の傍らに折伏に来た者も同じようなことをする。
だが言っていることは、常々人びとが口にしていることにすぎない。
すなわち全き人というのはこの世にいない。
人は神の前に完全に潔白とはいえない。
人は土で造られた存在にすぎず、それ自体、不完全なものである。
では旧約聖書に「原罪」という考え方があるのか。
明確に「ある」とはいえないが、不完全な者、欠けた者、全き者ではないという意識は常にある。
だが「人間は完全ではないのだから」という言葉は、神なき現代の世界でも常に使われており、その意味でこれは歴史を超えて万人の持っている意識で、ヨブ自身、もちろんそれを否定はしていないし、あらためてそんなことを言われても意味はない。
というのは、その一般論は、ヨブの苦難の理由の説明とはなり得ない。
もちろんエリパズが本当に言いたいことは、ヨブには隠している罪もしくは忘れている罪があるのではないか、その報いではないか、ということであろう。
それは「……思い起せ、罪なくして滅ぼされた者がいるかを/いつ誠実な者が滅ぼされたかを」に現われている。
もしそうなら、ヨブが外面的にいかに正しく、いかに弱者を助けたとしても、それは「不毛を耕す者」で、その蒔いた種は「悲しみを苅り取る」にすぎないと。
エリパズは内心でおそらくそれに違いあるまいと思っている。
さらに「お前の言葉に一片の誠実があれば/これらの災禍の一つにも見舞われなかっただろう」と。
神は全能である。
私なら神に「赦しと救い」を求め、「全能者の懲戒」を拒むようなことはしない。
そうしたら神は必ずお前を守り、安らかな生涯と子孫の繁栄と平穏なこの世の終りが保証されるであろう、と。
不思議なことだが、いや当然なのかも知れぬが、人間は不条理を信ぜず、あくまで応報思想を信じたがる。
その点ではすべての人はまことに宗教的で、新興宗教の隆盛は当然であろう。
そのため常にどこかで「善因は善果を生み、悪因は悪果を生む」と信じたがり、そうならないのは、この世のどこかに「悪」があるからだと信じている。
「社会が悪い」「世の中が悪い」「政治が悪い」「環境が悪い」「友人が悪い」等々、この「悪い」には際限がなく、世の中には「悪」が満ち満ちているらしい。
そしてこの言葉の背後にあるのは「しかし私は正しい」であろう。
この「正しい私」が、悪の誘惑によって転落した者を見たとき、「悪の誘惑に負けたのだから当然だ」と思う。
そして何かの災難が「正しい私」によりかかって来たときは、「社会の悪」の犠牲者だと思えばよい。
これも一つの逃げ道、「前世の因果」も「親の因果」もなくなったとき、人は「社会が悪い」に逃れる。
では「社会が悪い」も封じられた場合どうなるか。
それこそ逃げ場はなくなる。
そこで、「社会の悪」という「悪」を生存させねばならず、そうなると、その犠牲者にならぬためには、ひたすらその悪を避けて善行を積めとなる。
そしてその善因の善果を得られぬ者は「社会の悪」というサタンの誘惑に陥ったことになる。
こういったすべての「善因、善果」論を要約したのがエリパズの言葉である。
(~中略~)
ビルダデ(註)の主張は完全な応報思想で、義なる全能の神は、正しき者を必ず報われるという。
(註)…ヨブを見舞いに来た三人の友人の一人。
「正義は必ず勝つ」とか「正直者は必ず報われる」とかいった言葉を人間は常に信じたがっており、これは、人間が最も好きな言葉かも知れない。
だがこの言葉を裏返すと恐しい。
というのは、「敗れた者は必ず不義」で「報われなかった者は不正直」となる。
ビルダデの言葉はこの考え方を端的に現わし、報われなかったヨブは不義で不正なはずである。
彼が日々神に祈り、敬虔な生活をしていたことをビルダデも知っている。
だが彼には隠された罪があるに相違ない。
「確かにお前は朝早く起きて全能の主に祈っている」であろう、だが潔白でもなく誠実でもない者の祈りはきかれない。
義なる神は「不信仰な者の捧げ物を受けることはない」と彼はいう。
それならヨブには隠された罪があり、今の状態は不敬虔者の末路を示していることになろう。
これは苦しむヨブを、さらに苦しめる言葉だが、ヨブはむしろ、その相も変らぬお説教にうんざりして答える。
ヨブ (ビルダデに答えて)全く仰せの通りさ、
どうして人が神の前に正しくあり得るか。
たとえ主と論争しても、
千の訴えに一つの答も得まい。
主は心に知恵があり、力に秀でた大きなお方、
だれが抵抗してなお耐え得たか。
主が私に耳を傾けてくれたなら、
私の言葉を判断してくれたなら。
だが、たとえ私が正しくても、主は聞かれない。
たとえ私が叫んで主の耳に入っても、
主が私の言い分を聞かれたとは思えない。
主が暗黒をもって私を潰されないように。
だが主は理由もなく私の傷を増し加えた。
私は息つく暇も与えられず、
苦しみだらけにされる。
以上につづく部分は相当にヘブル語原文と違っており、一部脱落があるので、ヘブル語原文の方が意味がはっきりわかる。
そこで次に中沢治樹氏の『ヨブ記のモチーフ』の訳を引用しよう。
どっちだって同じだ。だから、あえて言おう、
罪有る者も無い者も、彼はいっしょに滅ぼすのだ。
突然大水で人が死ぬと、
彼は無辜の災難を嘲笑う。
世は悪人の手中にあり、
裁判官は目隠しされている。
このあとに、これが「彼のゆえでなくて誰のゆえか」という後代の付加が一行ある。
おそらく、読者が記した感想であろう。
私はこの部分を読むと、菊池寛氏の「地震の影響」を思い出す。
関東大震災の後で、一時、「天譴説」が流行した。
第一次世界大戦による「成金輩出」と「軽佻浮薄」といわれた当時の世相と、「こんな状態が長続きするはずがない、いつかは……」といった危惧から来る不安が、大震災を契機に生み出した考え方であろう。
内村鑑三の弟子の藤井武は、「天譴」という言葉が、何か人に訴えるものがあったと記している。
また電車の中で、派手な着物を着た女性を面詰し「こんな派手な恰好をするから天譴が起ったのだ」といって、その袖を引きちぎるようなことも起った。
私の母がしばしば語った思い出である。
一瞬にして数十万の人が死に、東京は焼野が原となる。
その理由はだれにもわからず、だれの責任を問うこともできない。
そのとき人びとは、何らかの不義があったので天罰が下ったとしか思えない。
これが「天譴説」が発生した理由であろう。
だがこのとき菊池寛氏は次のように記している。
「……あの地震を天譴と解した人などいたが、私はあの地震で、天譴など絶対にないことを知った。若し天譴があるならば、地震前栄耀栄華をしていた連中が、やられそうな筈が、結果はその正反対であった。……私自身、あの地震を境として、人間が少し悪くなったような気がする……」
ヨブの言葉は、大震災で圧死されようとしている人が、何でオレはこのような目に合うのだ、まじめに今まで暮していた人間に、なぜこんな災難が降りかかるのだ、と言っているのに似ている。
その彼の言葉はやがて神の告発、神への抗議へと変わっていく。
(~中略~)
菊池寛氏の、大震災のため天譴を信じないようになり人間が少し悪くなったという言葉と、ヨブの「主に向って私はいう。教えないで下さい/不信仰になることを」を対比してみると面白い。
余りにも不条理な災厄は、人に、義の感覚を失わせる。
そうなると人が求めるのは、休息だけになる。
だが旧約には「来世」という観念はない。
ややそれに似たものが出てくるのは「旧約の終り、新約のはじまり」の書といわれる最後期の『ダニエル書』だけだが、これとて厳密にいえば来世ではない。
人は土から造られて土にもどるとは『創世記』以来、ほぼ一貫した考え方である。
旧約に明確に「物質」という概念があるかどうかは疑問だが、「土」と表現される物質的世界は神の倫理的支配はうけていないと見ている。
簡単にいえば物質には善悪も生死もなく、この考え方はきわめて現代的だが、こう考えると神の義はこの世だけを支配していることになり、そこで「全能にして義なる神」がいるなら、なぜこの世に悪や不条理があるのだ、という問題すなわち「神義論」になっていく。
(~中略~)
『ヨブ記』は何を書こうとしたのか。
善因善果・悪因悪果などという応報思想は何の根拠もない、その法則が神を拘束しているわけではないということであろうか。
そうかも知れぬ。
善とか義とかは、旧約聖書においてはそれ自体が絶対なものだから、報われようと報われまいと関係ないということになろう。
義なるがゆえの拷問・殉教という悲惨きわまりない道があるなら、サタンの挑戦への道具に使われて亡びるのも、これまた意義あることかも知れぬ――その人が「義」を絶対化しているなら。
だがそうまで徹底できるのは超人的人間だけかも知れない。
凡人は結局、応報思想に逃げ込んでそこに安眠したくなる。
(~中略~)
結局、凡人は応報思想から抜け出せないのであろうか。
この最も安直な考え方、お祭りの見世物の呼び込みの台詞に等しい思想は、すべての思想も宗教も殺してしまう。
では一体どういう解決があるのであろう。
「神の義」は「人の義」でなく、『ヨブ記』はこの二つの「義」の相剋と中沢治樹氏は前掲書で記されている。
ではこの二つの「義」の相剋は永遠に終らないのであろうか。
人はそう信じたくない。
そこで歴史的未来に相剋の終りがあリ得ると信じ、その社会を招来するために働くことが真の義であると信ずるようになる。
『ダニエル書』はそれが主題であろう。
そうなると応報思想への新しい逃げ道ができ、それに”科学的”という衣裳を着せると、因果論的応報思想が新しい装いで現われる。
「親の因果」のように、「資本主義という時代」の因果は必然的に社会主義社会さらに共産主義社会を生み出していく。
そして人は応報を未来に求めて動く。
ではその時代が来れば、「新しい神」の創造した世界の秩序すなわちその「義」と、そこに住む各個人の「義」に相剋はないのであろうか。
あるであろう。
処刑された者の名誉回復という奇妙な”復活”がある限り――。
そしてこの”復活”は『ダニエル書』を思わす。
だがその人自身は「塵と灰」に帰しており、ヨブの嘆きの如く、土に帰って戻ることはない。
『ヨブ記』は結局、断ち切られたように終る以外に、結末はあり得ない。
(「新潮」一九八七年十一月号)
(終)
【引用元:禁忌の聖書学/終末なきヨブの嘆き/P180~】
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ツイッターでもちょっと触れましたが、先日の日曜日、久方ぶりにミュージカルを観に行きました。
アンドリュー・ロイド・ウェッバーの処女作「
Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat」の来日公演です。
このミュージカルって
旧約聖書に出てくるイスラエルの祖ヤコブの子、ヨセフ (
wiki参照)の物語なんですね。
山本七平の著書「
禁忌の聖書学 (新潮文庫)」での紹介によれば、「
ヨセフ物語は
モーセによる『
出エジプト(オクソドス)』の前提となる『エジプト入国(エイソドス)』の記述」であり、その物語は「まことに現代的」で、「神は顕現もせず、介入もせず、奇蹟も行なわず、救いの手も差しのべず、さらに奇妙なことに『神に声をあげる』『神に祈る』と言う言葉すらない」とのこと。
物語の筋は「神なき世界の物語のように進行」し、「聖人も超人も登場しない」ところが、まことに”神無き時代(=現代)”的な物語である、と指摘しています。
まったくの余談ですが、
山本七平は、エジプト神話「二人兄弟の物語(インプとバタの物語)[
参照HP]」が、この
ヨセフ物語の種本じゃないかと推測してますね。
それはさておき、難しい話は置いといて。
このミュージカルはそもそもが子供向けなんですが、英米あたりでは非常にメジャーな作品らしく、学校の学芸会でもよく演じられるとか。
私が昔参加していた東京の合唱団にいた外人さんも高校生の時ヨセフを演じたなんて言っていたし、私自身、旅行で
イエローストーン国立公園めぐりしていた時に、田舎町でこのミュージカルの公演をしているのを見かけたこともあるので、英米で人気があるのは間違いないみたい。
私のミュージカル歴はウェッバーの「オペラ座の怪人」から始まって、ほぼ彼の作品はひととおりチェック済みな訳ですが、エンターテイメントという面に於いては、この「Joseph and the Amazing Technicolor Dreamcoat」の右に出る作品は無いんじゃなかろうかと思っとります。
しかしながら、何故か
劇団四季あたりで日本語化しないんですよねぇ…。
どうしてなんだろうか???
ヨセフ物語が日本ではマイナーだからなんだろうか?
不思議でなりません。
というわけで日本で演じられる機会も無く、また、結婚して以来、海外旅行が夢のまた夢となってしまった我が身では生の公演を見る機会は無いだろうな…と思っていたところ、たまたまこの公演があると知って、喜び勇んで観劇してきたという次第なんですね。
ま、感想はというと面白かったのですが、昔
ウエストエンドで(Phillip SchofieldやLinzi hateleyが出演していた)オリジナル・ロンドン・キャスト版を観劇した時と比べちゃうと、やはりいまいちだったかなぁ…。
やっぱり”初”体験に勝るものはありませんね(笑)。
最後にyoutubeで幾つか集めてきた動画クリップ↓をご紹介しておきましょう。
■Joseph Mega-Remix ↑これはエンディングで歌われる全曲入りのリミックスですね。わたしゃこのファラオがお勧め。
■Close Every Door - Phillip Schofield↑この人を
ウエストエンドのパラディウム劇場?にて生で観ました。
■Song of the King (Seven Fat Cows) Joseph Technicolor Pharaoh ↑個人的に一番好きな場面。ファラオが
エルビス・プレスリーそっくり。笑える。
■Benjamin song calypso ↑この曲も明るくてお気に入り。許しを請う場面にカリプソ曲調を使うなんてウェッバーはなんて天才なんだろう。
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