ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
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(前回の続き)
そして金大中事件は、私にとっては、「あの実感が、もう完全に消失したんだな」と思わせた事件でもあった。
そんなことを考えていたとき、いわゆる「長沼判決(註1)」が出た。
(註1)…長沼ナイキ事件。以下wikiより抜粋。札幌地方裁判所(裁判長・福島重雄)は1973年9月7日、「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」とし「世界の各国はいずれも自国の防衛のために軍備を保有するのであって、単に自国の防衛のために必要であるという理由では、それが軍隊ないし戦力であることを否定する根拠にはならない」とする初の違憲判決で原告・住民側の請求を認めた。(wiki/viswiki参照)
私は法律家ではないから、判決への批判はできない。
しかし何回も読むうちに非常に強く感じたことは、この憲法が出来るに至った一つの民族の体験、それに基づいて、当時、程度の差こそあれ、すべての人がもっていたはずの「実感」が、これまた完全に消失したのだなと思わせた判決であった。
否、これは福島裁判長だけの問題ではない。
「上告すれば合憲ときまっている」とか、やれ青法協(註2)がどうのこうのとか、やれ判決が事前にもれたとかもれないとか、こういった議論自体が、この憲法の背後にあった民族の体験とも言うべきものが、すでに忘れられていることを示していよう。
(註2)…青年法律家協会(wiki参照)の略。
否それ以前にすでに、この憲法はマッカーサーの押付けだ、否、幣原首相の発想だという議論の仕方が、すでに最も重要な点を欠落させている。
もちろんマッカーサーという存在は無視できない。
「戦功を横取りして部下を憤激させた」このメイ将の目的が、占領政策を成功裏に終らせ、それによって政治家として名声も確立して次のステップヘと進むことだけであり、「平和憲法」も彼にとってはその手段の一つにすぎなかったであろう。
それは否定できまい。
彼が日本人のために何かをしてくれたなどと考える者があれば、それは「占領ボケ」が未だに抜けていない証拠であろう。
またヴェトナム戦争に関する日本の報道と西欧の報道をつき合わせてみると、日本の報道における戦争観は、ほぼ完全にマックの戦争観だといえる。
無理もない。
すでに多くの人が、プレスコード(註3)によってマック宣撫班となった当時のマスコミにその思考を統制され、そこで育ち、そのままに成長してきたマック制下の申し子であり、またマスコミはその体質をそのままもっているのだから。
(註3)…以下wikiより抜粋。プレスコード(SCAPIN-33:最高司令官指令第33号「日本に与うる新聞遵則」昭和20年(1945年)9月21日付)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(以下GHQ)によって行われた、書物、新聞などを統制するために発せられた規則。
しかし皮肉なことに「マックの戦争観」と「平和憲法」とは絶対に相いれないのである。
この矛盾は後にマック自身が自ら露呈するわけだが、結局は、この矛盾が、戦後の、戦争に関するすべての報道、記述、解説にそのまま出てくるのである。
そしてあるときは「マックの戦争観」で、ある時は「平和憲法」で、と使いわけて、マック同様に、それが自己矛盾でないような顔をしているか、マック的な尊大な態度でごまかしつづけているわけである。
『朝日ジャーナル』で穂積龍哉氏が、戦争中は「全国の津々浦々に無数の”東条”さんが存在した」と記されているが、戦後は未だに「無数のマックさん」が健在で、この矛盾にちょっとでもふれると、「占領軍総司令官」の如くに激怒するわけである。
最近もある人が激怒して、「理由はいわない、ただもう絶対何も書くな」という手紙を送って来た。
マック制下に、今までのようなことを書いていれば、一種のプレスコード違反だから、最終的には、いわば「黙れ」といわれるのが当然であろう。
これは、「この点に触れるな、その前で思考を停止せよ」ということであり、そしてここで停止すると、金大中事件と長沼判決とを、同一の基準で見ていくということが、できなくなるわけである。
だが「マックの戦争観」の日本人に与えた影響は、後まわしにして、この平和憲法発布の当時、これに少しも違和感を感じさせなかった一つの「実感」へとまず進もう。
それは一言でいうなら「あれだけやってダメだったのだから、日本国が生存をつづけようとするなら、発想を変えて、別の方向に生存の道を探らねばならない」といった感じてあろう。
この感じは、少しくわしく説明しなければならない。
それは「……いざというときに役に立たない自衛隊……」といった言葉があるが、それよりもはるかに強烈な「あの陸海軍が、いざというときに役にたたなかった」という実感である。
「無条件降伏をした」という事実、それは否定できない事実であり、その現実を直接目にした者には「大日本帝国陸海軍は無用の長物であった」という判定への、いかなる釈明も受けつけ得ないのである。
少なくとも軍隊にとって「無条件降伏」とは、釈明できる事態ではない。
しかし人は、自分が払った犠牲がすべて無駄であったとは考えたくない――従って種々さまざまな「言いわけ」は出てくるであろう。
しかし「無条件降伏」とは、その軍隊が「一国の安全保障も、独立の保持もなし得なかった」という決定的な最終的判決であって、その判決には「長沼判決」のような控訴の余地などはないのである。
そこでまず何よりも前に、この判決をはっきりと再確認しておこう。
そして私がのべた「あれだけ……」という言葉は、この結果と戦争中のこととの対比だけではないのである。
戦前の日本の軍備が、海軍においては、当時最大の軍事国家来英の六割から七割、陸軍は装備は劣悪とはいえ最盛時で七百万人であったという。
中ソ国境にソヴィエト軍百万が集結したとか、ヴェトナム派兵最盛時のアメリカ軍が約五十万とかいう数と比較すれば、この七百万がどれほど膨大で、従ってどれほどの大負担かは想像できよう。
海軍が一流軍事国家の六~七割ということは、今になおせば、米ソそれぞれの六~七割ということになろう。
海空軍、戦略爆撃機からミサイル・原水爆まで、もし米ソの約六~七割の軍備を保持すれば、今の日本はどうなるであろう。
おそらくその生活水準は終戦直後ぐらいにならざるを得ないであろうが、戦前の日本は確かに、それだけのことをやったのである。
そしてそれだけやっても、無駄だったのである。
今とは規模は違うであろう。
しかしそれが国民生活に及ぼす影響は、今それをしたら現出するであろう状態に似ていたように思われる。
零戦は世界一であった。
アメリカ兵の中で「ゼロ・ファイター」の名を知らない者はいなかった。
それが人類の生み出した最高のプロペラ戦闘機であったことは彼らも認めていた。
また戦艦大和が人類史上最大の戦艦であったことも事実であろう。
しかしそれらが造られているとき、東北の農民は飢えていた。
凶作でカユをすすり、凶作で娘を売る、といったさまざまな悲惨な物語が伝えられた。
今、街頭で、西アフリカやバングラデシュの飢饉のため募金が行われている。
ところが私の学生時代には、専ら「冷害で餓死に瀕した東北の農民」のために、街頭募金が行われたのである。
今では想像もつくまい。
「トチの実もドングリも食べつくし、ワラモチで飢えをしのいでいます」といって、その実物を机に並べて街頭に立ったグループもあった。
私はどうもこういうことは苦手で、「寄付はするが、街頭には立たない」とことわったため、ひどく非難されたので、今もおぼえている。
こういうこと、すなわち「国民が飢えに瀕しても原爆や戦艦を造る」といったことは、多くの民族が通過しなければならぬ一段階なのかも知れない。
だがそれはいずれの国民が行おうと結局はすべて無駄なのである。
いまどき一、二個の原爆や水爆をつくるということは、太平洋戦争の直後に戦艦大和をつくるぐらいの愚行であり、軍事的に見れば、栄光を追うおいぼれの老将軍や軍事委員会主席の白昼夢に基づく浪費にすぎない。
だがここで誤解してならないことは、そういう状態を、その国民であれ当時の日本人であれ、圧政とは受けとらないことである。
ここに軍備というものがもつ奇妙な魔力、子供を異様にひきつけるある魅力にも似た魔力がある。
当時の日本人が、物すごい軍備の重圧下に苦しみうめき、かつ怨嵯の声をあげていたかのように言うのは、戦後に創作された虚構であり、当時はそういうことを言う人は例外であり異端者であって、一般はむしろ逆で、われわれのような「いわゆるインテリ」(この言葉は当時は一種の蔑称であるが)が、ちょっとそういった批判を目にすれば、最もそれに苦しんでいるはずの農民から面詰されるのが普通であった。
彼らは軍備を、軍艦や戦闘機や砲を、血と汗できずきあげた誇るべき自分たちの共有財産のように考えており、それらにケチをつけるような者は、ただではおかない、という面があった。
一方、軍の側にも明らかにこれに対応する考え方があった。
人間より兵器を大切にしたことは、前にもいったように事実であるが、兵器について必ずいわれたことで、今では忘れられている言葉は、「御紋章」と同時に「お前たちの父母の血と汗の結晶である」という言葉である。
この考え方は海軍にもあったようで、大和出撃の動機の一つが「国民に多大の犠牲を強いて造った戦艦を戦わずして敵の手にわたすことは出来ない」ということだったそうである。
いわば「身分不相応」な軍備が国民に極限ぎりぎりの犠牲を強いつづけて来たことを実感している当時の軍人には、「共有財産」を活用もせずに、勝手に敵手にわたして平然と「降伏」することは、何としても出来ないことだったのであろう。
誤解を恐れずにいえば、私がその位置にいれば、やはり同じことをしたであろうということである。
(次回に続く)
【引用元:ある異常体験者の偏見/マッカーサーの戦争観/P205~】
平和憲法成立の背後にあった「民族の体験(軍事力だけで覇権国になろうと限界まで頑張った末の無条件降伏)」があっさり忘れ去られてしまった原因に、戦後GHQの宣撫工作があるわけです。
そしてまた、戦後、日本人が憲法問題を考える際、必ずと言っていいほど不毛な議論に陥ってしまう一因として、このGHQが行なった宣撫工作の影響を見逃すわけには行きません。
そのことについては、次回以降、詳しい山本七平本人の説明に委ねる予定ですが、憲法論議を不毛なモノに終わらせているのは、何もGHQの宣撫工作だけではなく、「日本人の思考の型」そのものも一因なのではないか…と私は考えます。
過去記事『ある異常体験者の偏見【その6】~「確定要素」だけでは戦争できない日本~』に於いて、日本人が戦争を考える際、必然的に「不確定要素」対「確定要素」という”思考の型”に陥るという山本七平の指摘を紹介しましたが、これが「民族の体験」を忘れさせ、神学的憲法論争を助長しているように思います。
そうした状態から脱するには、どうしたらよいか。
まずGHQの行なってきた宣撫工作の実態、そして、憲法がGHQにどのように利用されたかについて把握することがファーストステップだと山本七平は指摘するわけですが、これについても、私の拙い解釈ではなく、ご本人の記述を読んでいただくのが一番でしょうから、次回以降のお楽しみとしてください。
それはさておき、今回引用した記述の後半では、戦後直後に日本国民が感じたはずの「実感」について詳しく述べられていますが、山本七平が指摘したこの日本の立場・条件というのは、戦後60年以上経っても変わりがありません。
この立場と言うものをまずしっかりと認識できれば、最近喧しい「自主防衛・核武装」という主張が、如何に不適当かを理解できるはずなのですが、それが認識できていない人達がだんだん増えているのが現状ではないでしょうか。
こうした威勢のいい危険な主張が、今後ますます増加するように感じられるのは、ちょっと心配なところです。
さて、次回は、少々日本的思考という論点から離れ、日本陸軍と海軍の違いについてと、虚報作成のわかりやすい実例について触れた記述部分を紹介していきたいと思います。
ではまた。
【関連記事】
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