ここ数日の政局を眺めていると、我が国のリーダーの度し難き「愚かしさ」というものを痛感してなりません。
総理大臣になる前の発言↓だけでも、こいつはアブねぇ…と思っていたけれど、実際ここまでヒドイとは予想してませんでした…orz。
かの
村山富市よりもはるかにレベルが劣る。
【総理大臣になる前の鳩山語録集】
「私は、日本という国が日本人だけのためにあるものだとは思っていない」
「日本列島は日本人だけの所有物ではない」
「在日の方が日本の総理大臣になられたとしたら、それは素晴らしいことだ」
「(在日参政権問題で)日本人としての度量の広さを今、持たなければ、私は世界の笑いものになる日本だと」
「定住外国人の参政権ぐらい 当然、付与されるべき」
「小沢代表は最もクリーンな政治家」
「小渕首相は、マルナゲ(丸投げ)ドンだ」
「靖国参拝を中断しない限り、韓国・中国の信頼を取り戻せない」
「日本は他の国々に比べて外国人の比率がかなり低いこと自体が大いに問題である」
「虚偽記載問題についておわびして政権交代を」
「いつまでに何をやるという工程表をマニフェストで示すつもりはない。揚げ足を取られる危険性があるから」
「永住外国人の地方参政権は、愛のテーマだ」
「国立メディア芸術総合センターはいわゆる漫画喫茶の民業圧迫になる」
「秘書を信頼したのはうかつだった」
「今時侵略ない、戦車なんていらない」
「財源は必ず見いだすことができる。(財源に対する批判は)誹謗中傷だ」
「世襲が日本の政治をゆがめてきた。世襲の私が言うのだから間違いない」
「選挙直前に国民に聞こえのいい話をする政権に信頼を置くことはできない」
「簡単に筋を曲げる政治家に未来を託せるか」
「(「民主党の政策は夢物語だ」との批判に)夢は大事だ」
「私は日本列島の人間以上に、宇宙の中の人間だぞと思っている」
首相になってからは、言い訳ばかり。
ブレては、「
そういうつもりで申し上げたのではない。」と繰り返す。
見苦しいったらありゃしない。
「
学べば学ぶほど米海兵隊の抑止力が分かった」という発言にはいささか唖然としましたが、「
(尖閣諸島の)帰属問題は日中間で議論して結論を見いだしてもらいたいということだと理解している」というに及んでは、本当にあきれ果ててモノが言えません。
領土問題において一国の首相自らが、日本の支配の正当性を疑わせる発言をするとは耳を疑う。
単なる公約破りと違う重大な問題発言なのだが、それを殆ど問題視しないマスコミの姿勢も許しがたし。
一国の首相としては、度し難いほどの「愚かさ」と言ってよいのでは…。
しかし、愚かなだけならまだ良いんです。
愚かな人間でも、誠実な人間というのは確かに存在します。
いわゆる「愚直」というタイプですね。
だが、言ったことの責任を何ら取ろうとしない人間が、誠実であったためしはありません。
要するに、
鳩山首相は、「暗愚」かつ「不誠実」な人間に他なりません。
ルーピーという批判を、「愚直だ」と自ら都合の良いように解釈してみせるのも、また、「最低でも県外」との発言を、「できるだけ県外」と勝手に修正するのも、彼の「姑息さ」を示して余りある。
そんな”ルーピー”
鳩山首相でも、さすがに
普天間基地移設問題においては、常識的な
辺野古移設案に回帰せざるを得なかったわけですが、これは彼が信念を以った政治家ではなく、選挙民にリップサービス程度にしか考えていないただの見栄っぱりに過ぎないことを考えれば当然の帰結でしょう。
なかなか自分の間違いを認めない
鳩山首相ですが、普天間基地の移設問題を巡る迷走についてはさすがに自分に非があることを自覚はしているらしく、誠心誠意お詫びしてみせた。
しかしながら、お詫びすれども責任は一切取らないのも、ルーピーならでは。
でもこれって、
鳩山首相一個人だけの姿勢にとどまらないところが恐ろしい。
考えてみれば、このような首相を輩出した民主党政権そのものの体質に起因するように思う。
「結果責任を取らない」
「説明責任を取らない」
「自他共に同じ基準で律しない」
「強引極まりない国会運営」自民党時代だったら、首相の首が飛ぶような不祥事・失言が続いても、一切責任を取ることがなく、
小沢幹事長の締め付けの元、党内の「和」を整えることが最優先されてしまう。
「和」を尊ぶあまり、総無責任体制に陥っている。
そして、全ては選挙に勝つことが最優先事項とされ、前回の衆院選での最大の争点だった
郵政民営化についての見直しについても、
わずか一日6時間の審議のみで強行採決してしまう(自民党時代でも、ここまで短時間の審議はなかったと思います)。
【参考記事】(追記)
◆郵政改革法案、選挙優先の超短時間審議 民主が「民主」を否定
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100528/plc1005282207042-n1.htm
(一部抜粋/~前略)
数時間の質疑で採決する場合は通常、与野党ともに賛成している法案などに限られる。しかも、衆院解散・総選挙の引き金となった平成17年の郵政民営化法案の審議では、衆院での委員会審議は約110時間だったのと比べると、審議時間の多寡は歴然だ。
(後略~)
利益誘導、とにかく選挙に勝つこと”だけ”が最優先される政治に堕してしまっている。
これがあと3年も続いてしまうのか。
本当に恐ろしい限りです。
これをとめるには、兎にも角にも参院選にて民主党に鉄槌を下す以外にありません。
選挙が後生大事な奴らには、選挙結果で思い知らせる。
それしかないでしょう。
どうせ投票したって政治は変わらないと思っているあなた。
それは間違いです。
そう思えば思うほど、利益誘導政治の思う壺。
とにかく投票率を高めれば、組織票の影響が少なくなるのです。
とにかく選挙にいくことが大事なんですが…。
なんとか投票率あがりませんかねぇ…orz。
【関連記事】
◆小沢幹事長の”居座り”を座視すれば、民主党の強権的体質がますます露わになるだろう。◆”ルーピー”鳩山を一国の宰相に戴く一日本人の独白◆「日本は恥ずかしい」という民主党幹事長FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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鳩山首相の「抑止力」発言をキッカケに、海兵隊の「抑止力」についてあちこちのブログ上で侃々諤々論じられていますが、それを見て思ったことを書いていきたいと思います。
まずは、この問題を論ずるに当たって現状を分析してみます。
1.日米同盟の危機につながりかねない恐れこの問題を巡って、よく単なる一基地の廃止に過ぎないと、さも簡単ですぐ実施できるようなことを言う人が居ますが、物凄く勘違いしていると思う。
グアム協定やロードマップを読んでみてもわかることですが、
普天間基地の「移設」が条件となっている以上、仮に「移設」ではなく「撤去」ということになれば、数ある米軍用地の返還やグアムへの機能分散や米軍再編などにも悪影響を及ぼすことは必至です。
そうなれば、
日米同盟の深化どころか、形骸化に進みかねず、その影響は、日本の安全保障だけにとどまらず東アジア全体の安全保障にも及ぶことになる。
そうした点を全く無視して、「
グアム協定をいったん破棄して、撤去という形にすればいいのだ」などと、さも簡単にできる話であるかの如く取り繕い、無責任極まりない言動を弄ぶのが、「海兵隊抑止力無効」論者の特徴だといえるでしょう。
普天間基地を「移設」ではなく「廃止」しても
日米同盟に影響したり、抑止力が低下しないと主張している「海兵隊抑止力無効」論者は、次のような傾向が強い。
一つは、海兵隊が「抑止力」でないと思っている人たち。
海兵隊の軍事的役割が日本防衛用でないことだけを以って、海兵隊が現在の沖縄に必要ないと単純に思い込んでいる。
この人たちは、東アジアの安全保障とか無関心で、日本だけ安全であればよいというひとりよがりで視野狭窄の傾向が強い。
もう一つは、反米感情から米軍を追い出し、あわよくば
日米同盟を破棄したいと画策している人たち。
最初から
日米同盟を毀損しようと思っていながら、単なる一つの基地を廃止するだけの話に過ぎないと吹聴する。
これは確信的にやっているので、非常に悪質かつ姑息なやり方だと思います。
いずれにしても、「海兵隊抑止力無効」論を唱える連中は都合の良いことしか言わず、無責任な発言に終始する場合が殆どだと思います。
2.中国の脅威について最近の中国海軍の活動状況や東シナ海における一方的な
ガス田資源開発などの行動を見ると、ますます活発になることは容易に想像できます。
中国の進出の仕方は、南沙諸島などの例をみてもわかるように、力の空白地域が生じれば進出し、一方的かつ強引に自国領土に編入してしまう。
そのやり方は、漁船や調査船というように、軍事力を表に出さない形で既成事実を作り、相手の反応を窺いながら徐々に支配を強化していくというこそ泥のようなやり方です。
ゲーム理論の中に、「
他方が理性的であり、他方が強欲であれば、1つのアイスクリーム・ケーキを強欲の方は99%以上、食べる事が出来る。」という話がありますが、東シナ海のガス田開発を見ても、このゲーム理論どおりの展開となっています。
これに対応するには、力の空白地域を生み出さないよう努めるしかありません。
要するに
日米同盟がゴタゴタしているとか、海兵隊を撤退させるなどという事態は絶対に避けなければいけないということです。
むしろ、中国の進出活動に備え、積極的に南西方面の防衛力強化を図らなければならない事態といってよいと思います。
3.軍事力を単なる迷惑施設としか受け取れない国民性確かに基地周辺での騒音問題は迷惑施設そのものですし、年がら年中そうした苦痛を受けている住民の身になれば、そう思うのは当然であってそれを他者が云々言うことは出来ません。
しかしながら、そうはいっても安全保障の問題と、迷惑施設の問題を同列に扱うことはあってはなりません。
一般市民はそれで仕方ないかもしれない。
しかし、一般市民ならぬ首相や防衛相までが、臆面もなく迷惑施設と言ってのけるセンスのなさは救いがたいものがありますし、これこそ安全保障の重要さをまるでわかっていない証左でしょう。
この程度の認識しか持たない人間が、一国の安全保障を左右できる地位にいること。
これこそ本当に恐ろしいことです。
民主党は「国民目線で」政治を行うといっていますが、こと安全保障に関しては絶対に間違っていますね。
でも、
岸田秀の「
どんな国家でも、その国民一般の平均水準以上の指導者を持つことはできないんですよ」という指摘を鑑みてみると、安全保障の問題を軽視する「国民性」そのものが問われているような気もする…。
「安全と水をタダだと思っている」意識は、一回アメリカに占領されたぐらいでは抜けないのかもしれないなぁ…と思う今日この頃です。
それはさておき、そもそも迷惑施設と言われて、血と汗を実際に流しているアメリカ軍人はどう思うでしょうか?
そうした配慮すら欠けるのは、安全保障に対する認識の欠如もさりながら、ひとりよがり状態に陥っているからとしか思えない。
ひとりよがりになってしまうのも、主観と客観の区別がついていないからでしょうが、大の大人がそれでは、幼稚と言わざるを得ないものがあります。
とまあ、非常に雑駁ですが、抑止力論争に関わる分析についてはここまでにしておきましょう。
次回は、今後どうすべきかと言うことについて、考えて行きたいと思います。
ではまた。
【関連記事】
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前回の記事「
生物としての人間【その2】~理性信仰という名の空中楼閣~」の続き。
(前回の続き)
人間が農耕・牧畜で、自分の食物を”生産”するようになってからどれくらいたつのであろうか。
一万年か?二万年か?
それは諸説があって私にはわからないが、いずれにしても「種の進化」が行われうるほどの長い時間ではあるまい。
人間は、基本的には、採集経済時代の人間と変らないはずであり、そのことは、未だにその水準にある未開の人びとを見れば明らかである。
同時にそのことは、文明人という名の現代人の日本人も、食糧の給付という現在の「生物学的社会機構」が崩壊すれば、すぐさまその状態に還ってしまうことを示している。
だが、問題はこの還るという点にある。
私のいたのは、人跡未踏、絶対に人が往めず、その生活環境では「三か月以上の生存はおそらく不可能」といわれた場所である。
それはルソンの東海岸の近くで、この海岸は、台湾の東海岸同様、断崖絶壁であって、その上が、人間が通過できぬほど樹木が密生したジャングルである。
空は見えず、二十四時間水滴が落ちつづけ、湿度百パーセントで、山ビルが棲んでいる。
しかしそういう環境にも、人が住んでいた。
ネグリート族である。
だがその毒矢で命を落した者はいたが、彼らの姿を見た者はいなかった。
おそらく、生活の大部分は、屋根のように頭上を圧している木々の上で行われるのであろうが、われわれは、そういった形の、その状態での「生存の基本的訓練」を受けていないので、生存は不可能になる。
それは、裸でエスキモーの氷の村にほうり出されたに等しい状態といえよう。
それは、またその人たちが、そのままの状態では東京での生活が不可能なのと同じことである。
ここに、「未完成の生物」といわれる人間の弱点がある。
だが不可能とわかっても人はそのとき、本能的に、農耕・牧畜以前と同じような行動をはじめ、その行動のために自滅してしまう。
「坐して餓死を待つ」という言葉があるが、人はこういうとき絶対に「坐して」いない。
全く理由もなく、理由もない方向へ、ふらふらと歩き出し、ふらふらと歩きつづけて、行き倒れになる。
おそらく採集経済時代の「生への希求の基本方式」すなわち「食の採集」がそのままに出てきて、「坐して」いられなくなるであろう。
そしてこの状態は、きわめてわずかの、支給された量以外に食物があるはずのない収容所に入ってもなおつづくのである。
従ってそれはもう、本能としか言いようがない。
■栄養失調
山の生活で、糧株は欠乏し、過労、長雨、食塩不足、栄養不良、それに加えて脚気、下痢、アミーバ赤痢、マラリヤ等により、体力が消耗しつくし、何を食べても一向に回復せず、いや養分を吸収する力が無くなり、というより八十才位の老人の如く機能が低下している。
いわゆる栄養失調者が相当数このストッケード(註1)にもいる。
(註1)…戦犯容疑者収容所を指す。
所内をカゲロウの如く、フラフラと歩き回っている様は、悲惨なものだった。
食欲だけは常に猛烈だった。
これは食べねば回復しないという意志の力も手伝っているようだが、少し多く食べればすぐ下痢をおこし、また衰弱する。
それでも食べるので下痢も治らない。
常にガツガツしている様は、餓鬼そのものだ。
自制心の余程強い人は良いが、そうでない人は同情を強要し、食物は優先的に食べるものと一人決めしているのが多い。
軍医氏の話によれば、「栄養失調者は、身体の総ての細飽が老化するので、いくら食べても回復しない。それに脳細胞も老化しているので、非常識なことを平気でやるのも無理はない」という。
なるほどと思われる解説だ。
この栄養失調者の群が、ゴミ捨場に膨脹缶を、炊事場に残飯をあさる様は、惨めなものだ。
後に彼等だけに二倍の食が給与されるようになった。
若い兵隊等はそれでも回復していったが、年の多い将校等の中には、いつまでも回復しない人が沢山いた。
いずれにせよ、この栄養失調者の群は、同情されぬ人が多かった。
この記述は、飢えについて人びとがもっている奇妙な錯覚を打ちくだくに十分であろう。
飢えは胃袋の問題ではない。
人間は、胃袋が空でありつづけても、頭脳の方は空にならず無変化だと人びとは錯覚しているから、飢えの恐ろしさがわからない。
といえば、「とんでもない、西アフリカやビアフラ(註2)の写真を見れば、飢えの恐ろしさはわかります」という人がいるかもしれないが、それが私のいう「わからない」の証拠に過ぎない。
(註2)…ビアフラ戦争(wiki)参照のこと。
人はそれらの写真を見て「恐ろしい」「かわいそう」といった感情をもつであろう。
だがそれはその人が飢えていないという証拠にすぎない。
同じように飢えれば、そういう感情はいっさいなくなる。
そして本当に恐ろしい点は、この「なくなる」ということなのである。
小松さんは末尾にはっきりと記している。
「いずれにせよ、この栄養失調者の群は、同情されぬ人が多かった」と。
ここは収容所であって、ジャングルのような極限状態でなく、他の人びとはそれほどひどく飢えていない。
しかし、写真のような姿を現実に目にしても、人びとは、ビアフラや西アフリカの写真を見るようには同情しない。
逆に恐怖に似た嫌悪感さえ抱くのである。
飢えが、自分に関係ない遠い異境のことだと思える間は、そして写真等でそれを眺めるにすぎない間は、人は同情する。
しかし、この小松氏の絵に対してすら、人びとはそれほどの同情を感じまい。
たとえそれが同じ日本人であっても――。
そのはずであって、それが自然なのである。
飢え乃至はそれを象徴する姿は、遠くて無関係な間は同情できる。
しかしそれが身近に迫れば、人びとは逆に嫌悪する、さらにそれが、本当の自分に迫って来れば、本能的な恐怖から、それに触れまい、見まいとして、その人を逆にしりぞける。
そしてそれは、その人がふだん声高に「人道的言辞」を弄していたとて、所詮、同じことなのである。
(次回へ続く)
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第九章 生物としての人間/P229~】
私がいままでなんとなく抱いていた「飢餓」に対するイメージというものを、決定的に壊したのが今回紹介した記述です。
特に、「
飢えは胃袋の問題ではない」という指摘には、今読み返してみてもハッとさせられます。
山本七平は著書「ある異常体験者の偏見」の中でも、この指摘に似た記述をしております。
過去記事にて紹介済みですが、該当部分を一部抜粋して引用しておきます。
・名文章ご紹介シリーズ【その3】~飢餓における人間と動物の違い~
(~前略)
「人間は被造物である」などという言葉の、哲学的・宗教的意味は私は知らないし、知る気もしない。
だが人間は、「一定量の食物を絶えず注入していない限り正気ではいられないという点では、麻薬中毒患者のような一面があり、『食物の禁断症状』を起すと、『麻薬の禁断症状』以上に狂い出し、麻薬中毒患者同様に動き出すように造られてしまった生物なのだ」と私は思わざるを得ない。
その人が、どういう思想・信条をもとうと、どういう社会制度の下で生きていようと、このことには差がない。
私は、医原性麻薬中毒の体験から、特にこの感が深い。
人間が傲慢になれるのは、飢えていないときだけである。
飢えてさえいなければ、神の如き気分になって、正義の旗印を高くかかげて全世界を糾弾できる。
従ってそういう格調の高い(?)、時には居丈高な論説などを読むたびに、私は「ハハァ、この人は満腹しているな」と思わざるを得ず、従って何の感動も受けないが、しかし決定的ともいえる「飢え」の中にあって、なお人が口にする鋭い言葉の中には、やはり「人間は人間であって動物ではない」と感じ、生涯忘れられないほどの強い感銘をうける非常に崇高な言葉もある。
(後略~)
【引用元:ある異常体験者の偏見/アパリの地獄船/153頁~】
上記の引用を読み返せば返すほど、「生物学的常識」という視点は、以外に(といっては語弊がありますが)重要なのではないかと思います。
飽食の時代にあっては、この重要性についてなかなか思いを至すことは難しいのでしょうが、この重要性を全く忘れてしまえば、いずれまた飢餓という状況に陥る可能性は否定できない。
この重要性を忘れないこと。
これも戦前から得た一つの教訓でしょうが、平和を声高に唱える人びとがその重要性をわきまえているかといえば、非常に怪しいものですね。
また、飢えれば同情心が一切無くなるという”恐ろしさ”についても、指摘されて初めて想像することができるのではないでしょうか。
「同情できる」というのは、自らが飢えていないことの証拠に過ぎないという
山本七平の指摘は、非常に鋭いものがありますね。
これも、飢えを体験した「異常体験者」ならではの視点といってよいのではないでしょうか。
山本七平のこうした記述を読むと、つくづく「
理性信仰」というものは、所詮、人間の傲慢さに基づく「砂上の楼閣」なんじゃないか…と思われてなりません。
次回も、この続きを紹介してまいります。
ではまた。
【関連記事】
・名文章ご紹介シリーズ【その3】~飢餓における人間と動物の違い~・生物としての人間【その1】~残虐日本軍を糾弾する左翼と、インパール作戦を称揚する右翼に通底する「生物学的常識の欠如」~・生物としての人間【その2】~理性信仰という名の空中楼閣~・生物としての人間【その4】~飢え(ハングリー)は怒り(アングリー)~◆生物としての人間【その5】~飢餓状態がむき出しにする「人間の本性」~◆生物としての人間【その6】~日本は単に物量で負けたのではない~◆生物としての人間【最終回】~人間らしく生きるために必要なこと~FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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前回の記事『
生物としての人間【その1】~残虐日本軍を糾弾する左翼と、インパール作戦を称揚する右翼に通底する「生物学的常識の欠如」~』の続き。
(前回の続き)
氏は、戦乱飢餓に苦しみつづけた中国人が、なぜ人間性悪説を考えたかを、次のように記している。
■人間性悪説
平地で生活していた頃は、人間性悪説等を聞いてもアマノジャク式の説と思っていた。
ところが山の生活で各人が生きる為には性格も一変して他人の事等一切かまわず、戦友も殺しその肉まで食べるという様なところまで見せつけられた。
そして殺人、強盗等あらゆる非人間的な行為を平気でやる様になり良心の苛責さえないようになった。
こんな現実を見るにつけ聞くにつけ、人間必ずしも性善にあらずという感を深めた。
戦争も勝ち戦や、短期戦なら訓練された精兵が戦うので人間の弱点を余り暴露せずに済んだが、負け戦となり困難な生活が続けばどうしても人間本来の性格を出すようになるものか。
支那の如く戦乱飢餓等に常に悩まされている国こそ性悪説が生れたのだという事が理解できる。
氏は、昨日まで立派な紳士と見えたものが、「山の生活」という極限状態で、どう変わってしまうかを見た。
それは言いかえれば、いま日本軍を批判していた者が、赤軍派の「虐殺の森」のような、日本軍以上の残虐さを現出するのを見るのと同じことである。
人はなぜそうなるのか。
人間とは生物である。
そしてあらゆる生物は自己の生存のために、それぞれが置かれた環境において、その生存をかけて力いっぱい活動して生きている。
人間とてその例外でありえない。
平和は、自分たち人間だけは例外であるかのような錯覚を抱かす。
しかしそれは錯覚にすぎない。
もちろんその錯覚を支えるため、あらゆる虚構の”理論”が組み立てられ、人びとはその空中楼閣を事実だと信じている。
しかし、その虚構は、「飢餓」という、人間が生物にすぎないことを意識させる一撃で、一瞬のうちに消えてしまう。
社会主義とか資本主義とか、体制とか反体制とか、さまざまな理論とか主張とか――しかし、人びとは忘れている。
人間という生物の社会機構の基本とは、実は、食物を各人に配給する機構だという事実を。
もちろんこの配給の形態は種々さまざまである。
貨幣・配給切符・直接給食等々々……。
しかし、つまるところは、人の口に食物をとどけることが、社会機構の基本であって、これが逆転して機構のため食物が途絶すれば、その機構は一瞬で崩壊する――資本主義体制であれ、社会主義体制であれ、また日本軍の“鉄の軍紀”であれ……。
それはそのはず、人間が生物である以上、食料を配給しない機構に属することはできず、そのためそれを避けて人が餓死を免れようと動き出した途端、その機構が崩れるのは当然のことである。
しかし人は、空気の存在を当然としてこれを忘れているように、社会機構のこの機能を当然として、それを忘れている。
そしてそれを忘れていることが、「生物学的常識の欠如」といえる。
ひとたび飢餓が来たらどうなるか。
いま行われているさまざまな議論、まず、一瞬で消し飛んでしまうであろう。
そのあとに何が来るか、それはおそらく、いまでは、だれも自信をもって答えられない状態だと思う。
そして、その答えられない状態、その状態におかれたときの人間の意識、その意識が形成する新しい「生物学的社会機構」これらを原初の姿で明らかにしているのがジャングルであり、それをそのままに記しているのが、小松氏の記録なのである。
(次回へ続く)
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第九章 生物としての人間/P227~】
私が常々左翼の議論を見ていて濃厚に感じるのが、人間の理性に対する絶対的な「信頼」なんですね。
「
理性信仰」とでも呼びましょうか。
いついかなる場合でも、人間は理性的に行動するものだと思い込んでいる。
これはまさしく彼らに”生物学的常識が欠如”していることの証だと思います。
彼らの理想的な主張が傲慢に見えてしまうのも、人間はいかなる場合でも理性的でいられるという「思い上がり」に基づいているからかもしれません。
しかし、そう「思い上がれ」るのも、その社会が平和でそこに生きる人間が衣食満ち足りていられるからこそ、なんですよね。
その前提となる平和が失われてしまえば、理性的でいられないのが人間であるという現実を踏まえない限り、いつまでたっても「安全と水はタダ」的な虚構の議論に惑わされてしまうことでしょう。
「
治にいて乱を忘れず」とか「
安きに在りて危きを思う」という格言がありますが、これを実際に実行することの難しさというのは、人間が生物であることを忘れがちなことに因るのかもしれませんね。
話は変わりますが、
普天間基地移設問題がキッカケで「抑止力」論争が護憲派ブログを中心に巻き起こっていますが、彼らの議論を眺めていると、やっぱりこの「生物学的常識の欠如」というものが根底にあるように思えてなりません。
以上、左翼の言動を念頭に書いてまいりましたが、これは何も左翼だけの問題ではないと思います。
(左翼の思考には、その傾向が濃厚に表れているだけで)日本人全体に当てはまる問題でしょう。
考えてみれば、極端に日本軍を礼賛しがちなネトウヨの思考の基本にも、左翼同様、生物学的常識の欠如が窺えますからね。
これも
理性信仰の一種でしょう。
こうした思い込みを排して初めて、現実を把握し対処できるのでしょうが、ネット上の議論を見る限り、それに程遠い人が多いように思えてなりません。
さて、次回は、「飢え」というものが如何なる状態なのか、そうなったときの人間はどのような行動を取るのかについて述べた箇所を紹介していく予定です。ではまた。
【関連記事】
◆生物としての人間【その1】~残虐日本軍を糾弾する左翼と、インパール作戦を称揚する右翼に通底する「生物学的常識の欠如」~◆生物としての人間【その3】~飢えは胃袋の問題ではない~◆生物としての人間【その4】~飢え(ハングリー)は怒り(アングリー)~◆生物としての人間【その5】~飢餓状態がむき出しにする「人間の本性」~◆生物としての人間【その6】~日本は単に物量で負けたのではない~◆生物としての人間【最終回】~人間らしく生きるために必要なこと~FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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テーマ:日本人論 - ジャンル:政治・経済
憲法記念日ということであちこちのブログで憲法について取り上げている中から、私個人的に一番鋭い!と感じた記事を紹介していきたいと思います。
それは、日頃から愛読している
CSW(カムイスペースワークス)ブログにて北大教授の永田先生が書かれた記事でした。
護憲派の人たちと議論すると決まって、国家権力は憲法によって拘束されるべきであるという考え方(いわゆる
立憲主義)というものを前面に押し出して、だからこそ、憲法改正してはならない、と結論付ける傾向が強いですね。
これは、単なる宗教的護憲論に比べて、理論的なので一見反論しづらいものがあります。
そしてまた、彼らは
立憲主義を主張する一方で、国民の義務とか国の在り方というものを憲法に記すことを非常に嫌がる傾向にあります。
憲法には、権力を拘束すると共に、国民の義務をキチンと記すべきだと思っていたので、この点については、私は非常に不満でした。
しかしながら、そうは思いつつ、なかなか
護憲派のこうした論法に対してどのように反論するか、上手く表現できないでいました。
ところが、永田先生は、非常にわかりやすい表現を用いて、
立憲主義が陥り易い陥穽についてズバリ指摘しています。
この記事の中から、その該当箇所を引用紹介していきます。
・憲法記念日(永田)
(~前略)
憲法とは、国の在り方を規定するためのものです。
憲法は権力を縛るためのものだと思っている人が多いですが、大間違いです。
誰が権力を握っても大したことができないようにガチガチに縛った上で、誰が政権を取っても同じとばかりに政治に関心を持たないのは有権者の怠慢です。
我々の投票行動こそが権力を縛るのです。
これ以外のもので、権力を縛るべきではありません。
条文で権力を縛るのを自縄自縛といいます。
我々国民が付託した権力なのです。
縛られるのは我々なのだと気付かなければいけません。
また、権力を縛ると有権者が劣化します。
例えば、日本国総理大臣に核ミサイルのボタンを押す権利が与えられていたとしたら、それでも「お灸を据えたい」という傲慢で無責任な投票動機を保持する人がどのくらいいるでしょうか。
(後略~)
【引用元:CSWブログ/憲法記念日(永田)】
上記を読むと、結局のところ、民主主義というものがキチンと機能するためには、主権者自らが、権力の負託について責任と結果を持たなければいけないということを改めて考えさせてくれるように思います。
いくら立派な憲法条文が出来ようとも、権力を監視するのは、主権者である国民自身であるはず。
それを条文で縛るのは、永田先生が指摘するように、国民自らを縛り国民の無関心と怠慢を招き、結果的に民主主義そのものを駄目にしてしまう。
現状の
民主党政権というものが、民主主義の劣化ぶりを見事に証明しているのではないでしょうか。
「
自民党にお灸を据える」という非常に無責任かつ軽率極まりない判断で、”
ルーピーズ”
民主党政権を誕生させてしまいました。
小選挙区制というのは、主権者であることの「重み」を自覚しない有権者にとっては、危険な選挙制度であるといえるのかもしれません。
こういう状態になってしまったというのも、「押し付け」られた憲法を戴き、自らの判断を失ってしまった状態に慣れてしまった所為もあるかもしれない…と私は考えているのですが…。
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テーマ:国家論・憲法総論 - ジャンル:政治・経済