つまらんニュース↓だが、ちょっと気にかかったので取り上げてみた。
「福田首相は半人前」=鳩山民主幹事長 2008年6月26日(木)12:31
民主党の鳩山由紀夫幹事長は26日午前、党本部でオーストラリアのスミス外相と会談し、日本の政治情勢に触れ「参院で問責決議が通っており、われわれの認識ではハーフ・プライムミニスター(半人前の首相)だ」と、福田康夫首相を評した。さらに「民主党が政権を取れば、戸別所得補償制度で農業を立て直し、日豪間の自由貿易協定(FTA)もうまくまとめることができる」と強調、スミス外相は「政権奪取が成就するよう祈念する」と応じた。
来日中の豪外相、妻のクジラ料理を拒否した鳩山氏を称賛 2008.6.26 12:08
「幹事長は私より勇気がある」。民主党の鳩山由紀夫幹事長が26日、来日中のオーストラリアのスミス外相との会談で、夫人のクジラ料理を拒んだエピソードを披露し、外相から称賛を受ける一幕があった。
鳩山氏は会談で、「実はけさ、家内の手料理にクジラが出た。私はクジラを食べない主義なので拒否したが、日本の食卓ではクジラは好かれている現実がある」と話しかけた。スミス外相は「私は妻の出すものはすべて食べる方針だ。幹事長は私より勇気がある」とジョークで応じた。
ただ鳩山氏は環境団体による調査捕鯨への過激な妨害活動を「看過できない」と強く批判するのも忘れなかった。
夫人が出したのはシチュー風の料理だったというが、鳩山氏の地元ではホエールウオッチングを観光資源にする動きもあるためクジラを食べないことにしているのだという。
しかし、どうして日本人というのは、身内の恥を平気で晒すのだろう…?
確かに、福田首相は鳩山幹事長から見て、「半人前」なのだろうが、どうして公の場で外国の閣僚に、わざわざそのことを「ご注進」するのか???
(こんなことをやれば、
民主党の支持率がUPするとでも思っているのだろうか?)
このニュースでは、スミス外相の反応が記されていないから、何とも言えないのだが、どういう反応をしたのかちょっと知りたいところだ。
まさか、「そんなことありませんよ。立派な首相じゃないですか。」的な日本的お世辞が返ってきたとも思えないし…。どちらかと言えば、内心馬鹿にされているのではないだろうか…。
どうも、鳩山幹事長の対応を見ていると、日本人に接する態度で、外国人に応対しているとしか思えないですねぇ。
つまり、日本人向けの謙遜的応対(うちの愚妻が…、うちの愚息が…etc)を、外国人向けにしたら、相手にどう受け止められるか?という想定自体まったく考えて無いような気がしてならない。
それと、クジラを食べるのを拒否したエピソードなど、相手に単に迎合しているだけではないのか?
どうも相手の歓心を得んがための卑屈な応対に見えてしまう。
「日本の食卓ではクジラは好かれている現実がある」なんて、そんな「事実」があるか???
実際、普通の家庭じゃお目にかからんシロモノでしょう。
こんなこと言えば、相手にますます誤解されてしまうではないか!
卑屈なおべんちゃらも自分の身の丈に合っているのだろうからそれは自業自得でかまわないのだが、せめて誤解を招くような言動は慎んでもらいたいものだ。
与党もダメだが、野党のこういう対応を見ているともっとダメだと思ってしまう。
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もうあちこちのブログで取り上げられているネタですが、
毎日新聞、やってくれますね。
J-CASTニュース↓
毎日新聞英語版サイト 「変態ニュース」を世界発信 2008/6/20
痛いニュース↓
「日本の母親、息子の勉強前に性処理」「日本の女子高生、食物でセックス依存症に」…毎日新聞、“変態ニュース”を5年に渡り世界発信→批判受け削除
Birth of Blues↓
2008年06月22日
毎日新聞社が全世界に発信した「日本の母親はみな受験生にフェラチオ・日本の主婦はみなコインランドリーで売春」のニュースソース発見しますた
日刊サイゾー↓
毎日新聞が引用したとされる『サイゾー』記事について
裏付のない東スポレベルのゴシップを、仮にも日本を代表するといってよい大手新聞社が、英語版だけ5年間の長きにわたり垂れ流したそうですから、やり方も卑劣極まりない。
しかも、上記日刊サイゾーにあるように、引用元の記事には無いことも付け加えて垂れ流している点なども、実にひどすぎます。
まあ、そこら辺に対する非難や検証については、他のブログにお任せするとして。
そもそも毎日新聞が過去にどんな報道姿勢を取ってきたのか。
それは、百人斬り報道を見ればその一端が見えてくると思う。
ご存じない方もいるかもしれませんが、毎日新聞と言えば、かの「百人斬り」報道を行った東京日日新聞の後身です。
そこで、今日は
山本七平の「
私の中の日本軍」の中から「百人斬り」報道を行った
浅海特派員と東京日日新聞に対する糾弾の言葉を紹介しようと思います。
これを読んでいただければ、なぜ今回のような事件を毎日新聞が起こしたのか、ある意味納得できるかもしれません。
それではまず、二少尉が処刑された後の、
浅海特派員の態度に関する記述↓から。
(~前略)
新聞がこんなバカげたこと(註…百人斬りのこと)を事実として報道すること自体がどうかしているが、さらに今もなお「信憑性があるから記事にした」(浅海特派員)とか「以上四つの資料をごらんになって、なおも、ダンコとして『伝説』だと主張いたしますか」(本多記者)と強弁するに至っては、全くもう何といってよいやら言葉に苦しむ。
正気ですか? と反問したくなる。
(後略~)
【引用元:私の中の日本軍(下)/日本刀神話の実態/P96~】
未だに、百人斬りは事実だと思っている人は流石に少ないと思いますが、法螺を吹いた二少尉にも過失があるとか、百人は斬ってはいないにしろ何人か斬っているだろうとか思っている人はまだ多そうですね。彼ら二人は、日本刀で一人も斬っていないとしか思えないのですが…。
続いて、
浅海特派員の取材の態度を非難するくだり↓です。
(~前略)
「前線で砲煙弾雨の下を駆けまわって取材しております」というジェスチャーをし、あたかも「百人斬り」のすぐ背後にいて、白兵戦のどまんなかでそれを目撃したような記事を書き、法廷の証拠になってはじめて「現場は見ていない」と自白し、しかも、自己の記述に信憑性をもたすため、後述するように人を処刑台に送る偽証をし、あたかも歩兵の肉薄攻撃をうけている砲車の傍らにいたかの如くに書き、また「週刊新潮」によれば、戦場帰りの長髭をしごいて、突入する戦車隊の傍らにいたかの如くに大見得を切っているが、これも時日を調べれば真っ赤な嘘。
そしてそれらのすべては、あの、全身の毛を逆だてて恐怖している猫のような顔をして死んだ兵士の死体を踏台にしての、大見得ではないのか。
それだけではない。この記事は軍部へのゴマスリだろう。
確かに、国民は戦場のニュースに餓え、一方、記者の従軍の可否は、軍がにぎっていたから、報道の制約乃至は自主規制があっても仕方があるまい。
だが制約があることと、軍が喜びそうな虚報を出すこととは別であろう。
その上これは、外部からのゴマスリなのだ。
C軍医がたとえゴマをすっていたとしても、私は非難する気にはなれない。
彼は、不安と焦燥でそうしないではいられなかったのだ。
だがこれは違う。
まるで三流業界紙の記者が部課長のところへ来て、「エーエー、お宅は全くご立派でございますな。お宅の二少尉が日本刀をふりかざして駆け出せば、シナ兵の百人や二百人はバッタバッタでございますよ」といってもみ手をしているとしか思えない。
なぜか。
私が下っ端だったからだ。
下っ端中の下っ端だったからだ。
こういう外部のゴマスリが最も不愉快なのは、毎日第一線で苦労し抜いている下っ端だということは、経験者なら理解してくれるだろう。
会社であれ、役所であれ、軍隊であれ、それは同じだ。
「冗談もいい加減にしろ、ゴマスリ野郎が。こっちは殺されまいとして毎日死にものぐるいなんだ」と。
これが、どんな組織ででも、下っ端の、外部のゴマスリ屋への感情だろう。
だがそれは常に、ゴマスリ星にはわからない。今でもわからない。
そこで「人海作戦はご立派でございますよ」というようなことを全く無神経に口にできる。
(~中略~)
もし本当に従軍して兵士に接したら、この感情の万分の一ぐらいはわかるはずだ。
それがわからないのは、ゴマスリとジェスチャー以外、何も念頭になく、兵士などはじめから眼中にないからだ。
そのくせ踏台にはする。
だから兵士は怒る。
(~中略~)
だがその彼(註…野田少尉)が処刑されるとき、最後まで彼の心を乱しつづけたものは何であろうか。
人間は最後には諦める。
だれの罪でもない、自分が不運だったのだと自分にいいきかせ、自分を納得させる。
だが納得しきれないものが残る――何者かが、俺を踏台にして大見得を切り、ゴマをすった、それで俺は死体になるのではないかと。
(~中略~)
野田少尉が「未練を残すまい」といったその「未練」とは何だったのか。
私はこのことだと思う。
【引用元:私の中の日本軍(上)/軍人より軍人的な民間人/P201~】
上記の記述を読んで、私は
山本七平の人間観察力の鋭さを感じてしまうのですが。
次は、
浅海特派員が二少尉を見殺しにしたしたことへの批判と、新聞社の責任について言及した記述↓です。
(~前略)
それではここで、前につづく向井猛氏(註…向井少尉の弟)の証言を検討してみよう。
いずれも鈴木明氏が収録されたものである。
〈「浅海さんは、たしかに好意的にいろいろ相談に乗ってくれました。しかし、肝心の部分を書いてくれないのです。浅海さんに書いて頂いたのは〝
①同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。
②両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。当時とはいえども、残虐行為の記事は、日本軍検閲当局をパスすることはできませんでした。
③両氏は当時若年ながら人格高潔にして、模範的日本将校でありました。
④右の事項は昨年七月、東京に於ける連合軍A級軍事裁判に於て小生よりパーキンソン検事に供述し、当時不問に付されたものであります。
〝という内容のものでしたが、私はできれば、あの記事は創作であると書いてほしかったんです。
しかし、それはやはり無理だったのでしょう。
もっとも、当時は私は、あの内容でも十分大丈夫とは思いましたし、それにまだ軍人のプライドみたいなものが残っていましたから、あれ以上頭を下げて頼むことができなかったのです。今なら……」と、少し言葉を切って、「今なら、土下座してでも、ウソだったと書いてもらったと思いますが……」〉
何年かぶりで、あの当時「戦犯の証人」という言葉で呼ばれていた人びとのこと、およびその証言を思い出した。
「戦犯の証人」とは、あらゆる方法で「逃げ」を打ち、親切そうな言葉は並べても自分は絶対にかかわりあいになるまいと伏線を張り、ああ言えばこういうで断言は絶対せず、言質は絶対にとられず、しかも何らかの印象を巧みに残すことで、ある種の「心証」を与えて身の安全を計り、すべての責任は結局被告だけに負わせ、自分は口をぬぐって知らんぷりしているだけでなく、ちょっと見ると、被告のため大いに弁護したかのように見せかけるのが、実にうまい人間のことである。
確かに浅海特派員の「証言」は、向井少尉の側、すなわち「殺される側」に立って、大いに有利な証言をしているかのように見える。
だがこの証言と、冒頭に掲げた向井少尉の手記を読み比べられればよい。
二人の間には、はっきりと深淵がある。
これが本当に「殺される者」と「殺される側に立つ」と仮称する者との、どうにもならないギャップである。
浅海証言の底にある絶対の前提は「身の安全」であり、すべてが一種の「逃げ」である。
それはそれでいい――それが本当に自分の生命にかかわることなら。
しかし、もしそれが自分の職業や地位や将来性を意味する「身の安全」なら、それは絶対に許されない。
人の命は、一新聞社、一新聞記者の面子とかえうるものではない。
浅海証言には確かに美辞麗句はある。
しかし決定的なのは「①同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より間きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」だけである。
②と④は、すでに相手が知っていることで、今さら言う必要はない。
③は、無用なお世辞である。
そしてその中で決定的なのは「記載されてある事実」という言葉と「聞き取って記事にした」の二つであろう。
人間が何かを聞く場合、聞く方に二つの態度があるはずである。
すなわち「事実として聞いた」のか、「フィクションとして聞いた」のか、という問題である。
(~中略~)
ところが氏の証言は「同記事に記載されてある事実は、向井・野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」となっている。
この証言は確かに非常に巧みで、典型的な「戦犯の証人」の証言の仕方で、どっちにころんでも、浅海特派員には全く責任はありません、という結果になっている。
従って、これでは偽証ではないかといわれれば、氏は「冗談じゃない。『記載されてある事実』はあくまでも事実だ、と証言したのではない。話をきいただけで、現場は目撃していないと証言しているではないか」と言えるのである。
しかし問題はそこなのだ。
そして向井猛氏が問題としていることも、そこなのだ。
浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。
そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。
いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分にかかわりなきものにし、すべてを二少尉の責任に転嫁して逃げようとしている。
しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危かったのなら、それでいい――人間には死刑以上の刑罰はない、人を道連れにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからといって、死が重くなるわけでもないのだから。
しかし、死の危険が浅海特派員にあったとは思えない。
それなら一体なぜこういう証言をしたのか。
確かに浅海氏が小説家で、これが「東京日日新聞」の小説欄に発表されたのなら、この証言でもよいのかも知れぬ。
しかし氏は新聞記者であり、発表されたのはニュース欄である。
新聞記者がニュースとして報道するとき、実情はどうであれ、少なくとも建前は、その内容はあくまで「事実」であって、この場合、取材の相手の言ったことを「事実と認定」したから記事にしたはずだといわれれば、二少尉は反論できない。
従って、すべてを知っている向井少尉がたのんだことは、「建前はそうであっても、これがフィクションであることは三人とも知っていることなのだ。
しかし二人は被告だから、残る唯一の証人、浅海特派員にそう証言してもらってくれ」と言っているわけである。
それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言することは、「二人の語ったことは事実であると私は認定する。事実であると認定したが故に記事にした。ただし現場は見ていない」と証言したに等しいのである。
すなわち浅海特派員は向井少尉の依頼を裏切り、逆に、この記事の内容は事実だと証言しているのである。
この証言は二人にとって致命的であったろう。
唯一の証人が「二人が語ったことは事実だ」と証言すれば、二人が処刑されるのは当然である。
これでは、この処刑は軍事法廷の責任だとはいえない。
(~中略~)
一体、この二人の「血の責任」はだれにあるのか。
私は、最終的には、やはりこの記事を掲載した新聞社にあると思う。
取材・原稿は記者の責任であれ、掲載は社の責任だと思う。
そしてこれが「証拠」たりえたのは、「新聞記事は事実の記載であって、フィクションの記載ではない」ということが、断固たる一つの前提になっているからである。
もう一つは、この記事が「戦犯の証拠」として昭和二十二年四月にすでに連合国側で問題とされているのを知りながら、二十二年十二月、二人が処刑されるまでの八ヵ月間、この記事を再調査することなく放置しておいた点にも責任があると思う。
当時なら、今とちがって、いくらでも証人はいたはずだ。
しかし今となってはもうどうすることも出来ない――私が何を言ったところで、処刑された人間は生きかえって来ないし、私の言うことは黙殺すればそれですむ。
もちろんこの問題はすでに法律的な問題ではあるまい。
しかし、もし本当にその意思があるなら、今でも、出来ることはあるはずである。
この事件は、今では、中国語圈、英語圈、日本語圈、エスペラント語で事実になっている。
しかし、明らかに記事の内容自体は事実ではない。
従って、これを事実と報じた人びとは、まずそれを取り消して二人の名誉を回復してほしい。
独裁国ですら、名誉回復ということはあるのだから。
そして二人の血に責任があると思われる人もしくは社は、遺族に賠償してほしい。
戦犯の遺族として送った戦後三十年はその人びとにとって、どれだけの苦難であったろう。
人間には、出来ることと出来ないことが確かにある。
しかしこれらは、良心とそれをする意思があれば、出来ることである。
もちろん私に、そういうことを要求する権利はない。
これはただ、偶然ではあるが、処刑された多くの無名の人びとの傍らにいた一人間のお願いである。
(後略~)
【引用元:私の中の日本軍(上)/不安が生み出す和気あいあい/P276~】
山本七平がこのように書いてから、もう数十年経ちました。
果たして、現実はどうか?
毎日新聞は未だ訂正記事も出さず、謝罪もせず、それどころか遺族が起こした
百人斬り訴訟を争う有様。
良心のかけらもないのか!毎日新聞よ!現在に至るまで、何ら後始末をしていない毎日新聞が、今回の騒動を起こすのも、謝罪のあり方がどこか浅海特派員の言い訳に似ているのも当然なのかも知れない。
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以前の記事で、使い続けてもう5年近くになる我が愛機
J-N51(
NEC製)を紹介しましたよね。
いい加減新しい
NEC端末が欲しいと思っていたところ、
iPhone3Gが
ソフトバンクから出るとのニュースを聞いて以来、欲しくて欲しくてたまらないモードだったのですが…。
<iPhone 3G>8Gが2万3千円、16Gが3万5千円 パケット定額プランも新設 サービス詳細発表がっくり…
だめだ、こりゃぁ~。
貧乏人には、厳しいっス。月最低でも8千円ぐらいかかるなんて…。
そもそも、父母嫁自分4名で、通信費月1万2千円ぐらいで収まっている現状なのに…。
そのほかにもいろいろ不満が。
・充電池を自分で交換できない。
・USIM(SIMカード)は
iPhone3G専用。他機種と差し替えて使えない。
・マイクロSDとかでメモリを増やせない。
・赤外線がない。
・タッチパネルで入力しづらい。
・コピペが現状ではできない、らしい。
・動画が取れない、らしい。
でも、3Gなのになぜ、USIMが差し替え出来ないの???
それが3Gのウリだったんじゃないのか?
携帯なのになぜ、充電池が自分で交換できんのだ??
これなら国産携帯+
ipodtouchの組み合わせのほうがマシだよ。
値段も高いし、変な仕様だし、期待して損したワイ。
ライトユーザーのオサーンには、所詮高嶺の花だった…。
やっぱり(不人気そうな)
NECの端末にしよっと。
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前回、虚報の見抜き方について、
山本七平の記述を「私の中の日本軍」の中から紹介しました。
今回も、そのことに関して参考になりうるような記述を、
山本七平の「
ある異常体験者の偏見 (文春文庫)」からも紹介してみたいと思います。
まず、
山本七平は、戦争の記録が次の4つ↓に分けることが出来ると分析しています。
鈴木明氏が『「南京大虐殺」のまぼろし』の中で、次のような事件を記しておられる。これはこの”まぼろし”の中で、確実に存在した事件の一つである。いわゆる”南京大虐殺”の記録は、私も『百人斬り競争』の分析に必要な部分を相当に徹底的に洗い切ったが、それらの記録は、明らかに次の四つにわかれる。
(1)多少の誤差はあっても確実に事実であるもの、
(2)伝聞と体験が混同しているもの、
(3)伝聞(戦場の伝聞は非常にあやしい)を事実の如くに記しているもの、
(4)政治的意図もしくは売名や自己顕示、また時流に媚びるための完全なデッチあげ
の四つであり、いずれ、それぞれの例をあげて分析してみたいが…(以下略)
【ある異常体験者の偏見/アパリの地獄船の章より引用】
私もこれを読んで、何となくわかったのですが、
山本七平には、出来たら「それぞれの具体例」を挙げて欲しかった…
特に(2)と(3)の違いが分かりにくく思えたので。
でも、証言には上記4つのタイプがあることを踏まえて、判断する必要があることはお認めいただけるでしょうか。
では次に、なぜ、一部の日本人に、「
南京大虐殺」「
従軍慰安婦」等、本当にあったか非常に疑わしい事件について事実だと認める、若しくは認めるどころか積極的に内外に宣伝するような輩がいるのか?
それについて、次の
山本七平の分析がヒントになると思いますので紹介していきましょう。
グアム島でまた日本兵が現われたらしいという記事か新聞に出ていた。こういうニュースは何となく気になる。何気なく読んでいると「兵隊はみな天皇の声を知っているから、天皇の声を録音して放送したら出てくるであろう」という意味の横井*1さんの談話が出ていた。(註*1…横井庄一Wikipedia参照)
(~中略~)
いうまでもなくこの横井さんの談話は一種の「嘘」である。兵隊は天皇の声など知らない。戦後すでに三十年近くをすぎているから、「戦前そのもの」とは別の、戦後にそれを再構成した一種の「戦後神話」ともいうべきものが出来てしまっており、その「戦後神話」では「天皇の軍隊の兵隊は天皇の声を知っている」という言葉もしくは発想それ自体は必ずしも不自然ではないのかも知れぬ。
「戦後神話」しか知らず、「戦前」とは「戦後神話」だと思っている世代、「マック制*2」を「天皇制」だと思っている世代が、こういうことを言っても不思議ではないし、また戦前を体験している人々もいつしか「戦後神話」がしのびこんできており、この二つを自らの内に峻別することに、私自身が非常に神経質にならざるを得ないのが実情だから、戦後の日本に住みつづけた戦前の人が、そういうことを言っても、これまた必ずしも「嘘」とはいえない。(註*2…第二次大戦後のマッカーサーによる日本占領体制)
が、しかし、横井さんはそうではなく、それが「戦後に創作された神話」にすぎないことを、最も正確に知っているはずの人なのである。ちょっと考えると、そういう人はこの「神話」を否定しそうに思うが、面白いことにそうならず、そういう人がまっさきに、その神話を事実だと証言するのである。
(~中略~)
だが同時に「事実」を知っているはずのその人が、真先に神話を事実といえば、それは、一人間を「現人神」にするのも、「南京大虐殺」を事実にしてしまうのも、実に簡単なことであろう、そしてこれが日本を破滅させたのであろうとも思った。何しろ、それが事実でないことを確実に知っているその人が、真先に「事実だ」と証言するのだから、どうにもならない。
私は本多勝一氏にも横井さんと同じ面を感ずる。確かに「戦後神話」しか知らず、近代戦の実態を知らない人は『百人斬り競争』を事実だと本気で信ずるかもしれない。しかし氏は長年ヴェトナムの前戦で取材され、氏自らの言葉によればヴェトコンと「生死をともにした」はずなのである。
もし氏の言葉が嘘でないなら、戦後人には珍しく近代戦に参加し、その実態を本当に体験しているはずで、それならば「『百人斬り競争』などは事実ではない」と断言するはずなのである。ところがこの場合も、事実でないことを知っているはずのその人が、まずまっさきに「事実だ」と証言するのである。これもまた全くどうにもならない。
なぜそうなるのであろうか。結局これは、その時代の「神話」への「忠誠」を表明して身の安全を図り一億村の「村八分」いわば「億八分」にならないため、それが神話であって事実でないことを知っており、そう言明しそうだと当然に推定される位置にある者が、その「嫌疑」を払いのけるため、逆に自ら進んでその神話を事実だと証言する、ということなのかも知れない。
兵隊が「天皇の声」など聞いたことがないことは、だれよりも正確に横井さん自身が知っている。私自身は、最初に入隊したのが近衛師団で、昭和十八年一月八日の陸軍始観兵式に出場した一人だから、戦前に「天皇を見た」ことがあるかといわれれば、確かに「見た」。
しかしその声を間いたことはない。近衛の兵隊ですら、声は聞いたことがないのである。従ってこの時点では「兵隊はみんな天皇の声を知っている」などという人間はいない。いわば虚言症の患者である。ところがそれからわずか三十年足らずで、この言葉が新聞に出てもだれも違和感すら感じなくなってしまった。
取材した記者は戦後の人であろうから、その人の頭の中にはもう確固たる「戦後神話」がある。横井さんはそれにスッと自分を適合させてしまったわけであろう。とすると横井さんが語っているのは、記者の頭の中にある「神話」の代弁であっても「事実」ではない。
同時にこのことは、この「神話」がすでにすべての人にしみ通ってしまっていることを証明している。何百万という新聞の読者も、もちろんこれに少しも違和感を感じまい。
従って今ここで事実を言うと逆に人びとが「事実」の方に違和感を感じ、それに対して一種の拒否反応を起し、そしてその違和感を感じさせたものを排除してしまおうとする。だがそうなるとその者は「億八分」になりかねない。そこで「事実を知っているらしい」という「嫌疑」をうけたものが真先に「神話」を「事実」だということになるわけである。
そしてこの傾向は、激烈な生存競争で足のひっぱり合いをしている社会の一員とか、疎外され差別され蔑視されるという境遇のものほど、逆に、強く出てくる。
これは非常に悲しむべきことだが、私にとっては否定できない事実である。前述のように私は内村鑑三の弟子を両親としていたので、真先に「神話」を「事実」だと証言して「嫌疑」から逃れたいという誘惑が、どれほど強烈で、この誘惑への抵抗がどれほど苦しい戦いかよく知っている。――何しろ「一言ですむ」のだから。
そしてその一言さえ口にすれば、生存競争で脱落しないですむ場合があるのだから。従って私は横井さんに、同情こそすれ、非難などする気は毛頭ない。
さらに、こういう態度は、本多勝一氏の例を示すように、横井さんだけに特有のものでもない。各人の中に「横井さん」がおり、もちろん私の中にも「横井さん」がいる。従って、今ここで問題にしようと思うのは「横井さんその人」ではなく「われらのうちなる横井さん」である。
【ある異常体験者の偏見/横井さんと戦後神話の章より引用】
とりあえず、神話を「事実」だという人間が現れる背景については、上記の
山本七平の解説で何となくお分かりいただけるのではないでしょうか。もちろん、これだけでは山本七平の真意が伝わらないでしょうから、次回でこの続きを紹介していきたいと思います。
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テーマ:歴史 - ジャンル:政治・経済
なかなか根性のある
ハムスター見つけました。
引用元では、とっとこハム太郎を引き合いに出していましたが、私は
おじゃる丸に出てくる
北斗のキミちゃんを思い出しましたね。
一応知らない人もいるでしょうから、画像貼っときます。
↑渋いおっさんは、キミちゃんの飼い主の
冷徹斎。
↑なかなかキュートでしょ。ハム太郎に引けを取らないと思うのですが。
それでは、12回転半の大技を決めた
ハムスター↓をご覧ください。
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前回のエントリーで、
南京大虐殺について取り上げましたが、この問題を論ずるとき、必ずといっていいほど問題となるのが資料や証言の扱いでしょう。
そこで今日は、
山本七平の「
私の中の日本軍」から、虚報の見分け方に関する記述を抜粋して紹介していきましょう。かなり参考になると思いますよ。
いわゆる「南京大虐殺」について、戦後にいろいろと言いている人に共通する点は、その人たち自体が、すでに「クルマ時代」「新幹線時代」の人なので、二本足しかない集団の動き方の本当の実感が全然つかめず、そのため、想像に絶する突拍子もないことを平然と事実だと言っており、本多記者の「殺人ゲーム」は、実はそういったもののほんの一例にすぎないのだから、まずその感覚を排除しなければ、実態はつかめないであろう。
現代のスピード感にマッチする記事があれば、そのことだけでそれは虚報といえる。
次に大本営的・新聞的な「一斉に突入! 敵を急追!敵、算を乱して壊走」といった表現はすべて振りはらわないとやはり実態はつかめない。
「戦場は盲人のプロレス」と言った人がいたが、これは戦場の一つの実感である。お互い全く相手の位置も実体も実力も出方も皆目わからない。「急追・猛追」などをしたら、どんな陥穽に陥るかわからないし、第一、補給がつづかない。
従ってすべての行動は、いわば盲人同様にまず「手さぐり」ではじまるわけである。双方ともに手さぐりだから、その動きは実にのろく、にぶく、絶対にさっそうとはいえない、これはいずれの場合でも同じである。面白いもので、いさましげに書かれた虚報にも、ついついこの実体は、顔を見せてしまう。
たとえば「百人斬り競争」のそもそもの出だしが
「常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速は、これと同一の距離の無錫、常州間をたった三日間で突破した。まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』をくわだてた二名の青年将校がある」
であって、この「神速」なるものが、実は一日平均わずか七千メートル、車なら十分たらずの距離、それを六日つづけて行くのだから、この「快進撃」の実態がどれくらいひどいノロノロ運転かは想像がつくであろう。
その速度ならぬ遅度は、自分で歩いて実感されればよいわけだが、日本軍の基準ならこれは確かに快進撃であろう。そしてこの遅度の大きな原因の一つが「さぐりあい」である。
【私の中の日本軍《下》「最後の言葉」の章より引用】
まず虚報の見抜き方として、現代の感覚を捨て去って判断することや、大本営的・新聞的表現を排除する必要があるということですね。続いて紹介するのは「
ヒトラーの原則」です。
虚報には常に一つの詐術がある。
それは何かを記述せず、故意にはぶいているのである。そしてそれは常に、それを記述すれば「虚報であること」がばれてしまう「何か」なのである。
本多記者の「殺人ゲーム」では、ベンダサン氏が指摘したように武器が欠落しており、武器を記入するとこの文章が成り立たなくなるわけだが、浅海特派員の「百人斬り競争」でも、ある言葉を故意に欠落させてあるのである。それは「目的語」である。
すなわち「何を」斬ったかが書いてない。
最初にただ一ヵ所「敵」という言葉が出てくる。しかし「敵」という言葉は、「敵国」「敵国人」「敵性人種」「好敵」「政敵」等、非常に意味の広い言葉で、必ずしも「小銃・手榴弾・銃剣等で武装した完全軍装の正規軍兵士=戦闘員」を意味しない。
しかもこの非常にあいまいな言葉は一ヵ所だけで、あとはすべて「目的語」がなく、従って一体全体「何を斬った」のかわからないのである。
もちろん・すなわち「戦闘中ノ行為」の記述であることは疑いないが、斬った相手が戦闘員なのか非戦闘員なのか、一切わからない。
なぜそういう書き方をしたか。そうしないと「虚報」であることが、一目瞭然になってしまうからである。それは、記事にはっきりと「目的語」を挿入してみれば、だれにでもわかる。次にそれを例示しよう。〔 〕内が「目的語」の挿入で、この部分はもちろん原文にはない。
〈無錫進発後、向井少尉は鉄道線路廿六・七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、一旦二人は別れ、出発の翌朝、野田少尉は無錫を距るハキロの無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵〔小銃・手榴弾等で武装した戦闘員、完全軍装の正規軍兵士〕を斬って先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は、奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士〕を斬り伏せた。
その後、野田少尉は横林鎮で九名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕、威関鎮で六名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕、廿九日常州駅で六名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕、合計廿五名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士〕を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕斬り、記者が駅に行った時、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった〉
「ヒトラーの原則」というのがあるそうで、それによると「大きな嘘をつき、しかも細部に具体的な事実を正確に挿入すると、百万人を欺くことができる」そうである。
そして日本語の場合は、このほかにさらに、主語・述語・目的語を一部か全部を巧みに省略し、さらにそこに「感激的美談」でも挿入すると、ほぼ完璧にそれができる。ただし外国語に訳すとばれる。
この記事はまさにその原則通りであって、距離とか地名とかを実に正確にした上で、目的語を省略している。この原則は、本多勝一記者の「殺人ゲーム」でも、実に、模範的に守られている。
【私の中の日本軍《下》「捕虜・空閑少佐を自決させたもの」の章より引用】
次に紹介するのは、省略ではないですけど、伏字にすることで虚報であることを隠そうとした具体例ですね。
陸軍もお役所であり、典型的な官僚の世界であり、いたるところで「ハンコ」が必要で「日本軍はハンコがなければ戦争はできない」という冗談があったほどである。
また「部隊印」と「部隊長印」があり、これは今の社会で使われているあの四角い「社印」「社長印」とほぼ同じ形で、すべての書類にベタベタ押してあった。
部隊印の保管責任者は副官で、I副官は縞の布袋にこの二つの印を入れ、肌身離さずもっていた。
事実これは大切な印で、もし盗用・悪用されて、だれかに勝手に「作命」でも作られたら、その被害は到底「小切手印の盗用」の比ではあるまい。まず副官が切腹ものである。
「百人斬り競争」の野田少尉の「○官」が「副官」だと知ったとき、この創作記事の悪質さを瞬間的に感じさせたのがこの「印」であった。
大隊命令に押す「印」は野田少尉が保管責任者のはずである。おそらく彼も肌身離さずもっていたであろう。
元来「部下の兵士」といえるものがないに等しい副官が、大隊長を放り出して、印をもったままただ一人であっちのトーチカに斬り込んだりこっちの無名部落に斬り込んだりしたら一体どうなることか!
もし野田少尉が一方的にホラを吹き、浅海特派員が無知からそれを信じたのなら、何も伏字にするわけはない。副官にはそういう「自由」はありえない!
――もちろん最下級の少尉には副官であろうとなかろうと「自由」などはないが、特に「嫁」で「印保管責任者」で、部隊長の身のまわりから、部隊内の「家政的雑務」までその責任である副官に、そんなことが出来るはずがない。そしてそのことを知っているがゆえに、これを隠した以外に伏字にした理由はありえない――
これを一瞬強く私に印象づけたのが、あの「印」であった。
「ハンコ行政」という言葉を転用すれば、日本軍とは一面「ハンコ軍制」なのである。
【私の中の日本軍《下》「陸軍式順法闘争の被害者」の章より引用】
やはりこうしたポイントを押さえた上で、資料を読まないと簡単に騙されることになっちゃいますね。
どうも、こうした心構えを持たずに議論する人が多いのではないでしょうか。特に左翼の人々にそうした傾向が強い気がしてなりません。
今日はこの辺で紹介を終わります。
次回は、こうした虚報がもたらす害毒について紹介していく予定です。ではまた。
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今週の
日本のスイッチ投票結果を公開します。
●実施期間: 6/9(月)~6/11(水)
●参加者: 30341人↓あなたの答えは■で示されています
1.後期高齢者めぐる混乱は、首相問責に値すると
□思う…56%(17122人)■思わない…43%(13059人)
2.スピード社水着、試したら新記録連発の結果には
□もうびっくり…57%(17391人)■複雑な心境…42%(12770人)
3.国内発売決まったアップルの「iPhone」って
□私は欲しい…21%(6364人)■興味ないです…79%(23860人)
4.男子バレー、16年ぶりに五輪出場決めましたが
■正直驚いた…89%(27146人)□当然の実力…9%(2882人)
5.日本の宇宙実験棟「きぼう」、入り口にのれんって
■ほほえましい…54%(16377人)□ちょっと微妙…46%(13876人)
6.敗北宣言のヒラリー氏、もし副大統領めざしたら
□見てみたい…37%(11204人)■やめてほしい…62%(18956人)
7.たばこのカード「タスポ」、未成年の喫煙防止には
□必要な仕組み…30%(9245人)■効果少なそう…69%(21022人)
8.もう梅雨ですが、私が使う基本の傘は
□折りたたみ…22%(6647人)■長い傘…78%(23632人)
日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……716人いました。
このアンケート回答時には、iPhoneなんて興味が無かったのだが、いろいろ報道記事を読んでいると欲しくなってしまった。
ただ、どうみてもメールの片手打ちとか無理そうだよなぁ~。しかし、それでも欲しいと思わせる何かがあるんだよね。
今現在、ipodnano2Gを使っているけど、メモリ2GBしかないので全然足りないんです。なので16GB版が欲しくなっているこの頃です(以前の記事で、NECの
820Nが出ると聞いて嬉しかったけど、
T9入力以外機能が無さ過ぎて不満なせいもある)。
設問7の
タスポって、実際のところどうなんだろ?
タスポじゃなければ、自販機で買えないってところが余りにも融通が気かな過ぎでは?
今の運転免許証ってICチップ入りなんだから、運転免許証を非接触カードのようにタッチさせて、暗証番号を入力させるやり方で十分、成年と判断できるのに。
運転免許証を持ってない人だけ
タスポカード持たせりゃいいのにね。
これって素人考えなのかなぁ…?
ま、タバコ吸わないからどうでもいいんですが…。
それより一箱1000円にしたほうが、未成年者は吸わなくなりそう…。多分こっちのほうが有効なのでは?
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以前のエントリーで、「規範の逆転」について
山本七平の記述を取り上げたところ、おさふねさんから、次のようなコメントを頂きました。
シンガポールでの戦闘終了後における華僑粛清に関しては如何思われておられるのでしょうか?
既に日本では何度も裁判が行われ、資料も出尽くして動かしがたい事実である南京大虐殺と違い……(以下略)
おさふねさんの質問部分であるシンガポールの華僑粛清について、私は何の知識も持っていませんので、教えていただいた資料を読むまでコメントできないと回答させていただいたのですが、気になったのが上記下線部の部分。
そもそも、
南京大虐殺って、中国が主張するような30万人大虐殺説から、一部否定や完全否定までさまざま論議の的になっていますよね。
一体どういう状態であれば、「大虐殺」と言えるのでしょうか?
ネット辞典で「虐殺」の意味を調べてみると、
・むごい方法で殺すこと。という説明でした。
ただ、これをそのまま戦場に適用すれば、どんなケース(戦闘中に敵兵を殺した場合)でも「虐殺」になってしまいます。
どの国の軍法でも、戦闘
中の行為(敵兵を殺すこと)は、当然とされ虐殺には当たりません。
【追記】誤解を招くようなので、「中の」を省きました。戦闘”中の”行為であれば、虐殺とされる場合もありうるので。ということは、辞典の意味の「虐殺」ではない、「虐殺」という別の定義があるはずで、それに南京事件が当たるのだという話になると思います。
そこで私なりに、「虐殺」の定義を考えてみたのですが、私の場合は、次の条件でしょうか。
1)最初から殺害を前提に計画していたこと。
2)軍人・民間人・老人・女性・子供等問わず殺害していること。
考えていて、困ったのが、どこまでが「虐殺」で、どこからが「大虐殺」になるのか?ということ。
これって「数」の大小で分けられるものなんでしょうか?
ちょっと疑問に思ったので、ネットで調べたらやっぱり同じこと考えている人はいるもので、いろいろなHPが見つかりました。
20世紀の大虐殺ワースト20南京大虐殺を定義する定義バラバラ「南京大虐殺」最初のワースト20を見ると、どうやら100万単位になると「大虐殺」と呼んでいるようですね。
アメリカの
原爆投下や大空襲などは、中程度の「虐殺」でしかないようです(信じられないけど)。
ここで話を元に戻します。
おさふねさんや、南京大虐殺を肯定する方々に伺いたいのですが、一体、「南京大虐殺」というのは、どういう「大虐殺」があったから、動かしがたい「事実」とされているのでしょうか?
ここで自分のスタンスをはっきりさせておきましょうか。
私が今まで読んだ資料から考えるに、南京では多く見積もっても数万程度の殺害があったとしか思えません。
それも、ナチスの
ホロコーストやアメリカの
原爆投下のように周到に計画されたものでなく、戦闘行為で殺害したものや、偶発的なものがほとんどではなかったかと。
つまり、中国や一部の左翼がいうような「虐殺」なら、
「無かった」ということになります。こういう話をするといつも、いや、こういう証言があったとか、その証言は信頼できないとか水掛け論になってしまいます。
そこで、もし、(中国が主張するような)南京大虐殺があったと主張するなら、次のことについて納得のいく説明をお願いしたいと思います。
それは、虐殺された死体の処理に関する証言、もしくは死体が放つ腐臭について書かれた証言というものがあるのかどうか?――という点についてです。
なぜ、そんなことに関心があるかというと、私の愛読書「
逆説の日本史(
井沢元彦)」の中に次のような記述があり、その記述を読んでから、私もずっと疑問に思っていたからなのですが…。
それでは以下引用します。
「香華をたむける」という言葉がある。
「香」とは香料、具体的には香炉で炊く香木を意味し、「華」は文字通り華(花)のことである。
仏前に「香華をたむける」のは、仏教の発祥の地であるインドから伝わった習慣である。
では、ここで考えて頂きたい。
仏前になぜ香華を供えなければならないか、ということである。
「そんなこと、当たり前じゃないか」と思うかもしれないが、これにはちゃんと理由がある。たとえば中国では死者の棺の中に紙銭(紙で作った貨幣)を入れる習慣がある。これは「あの世で使うため」という、ちゃんとした理由があるのだ。
ヒントは、この習慣が生まれたのはインドであるということだ。
答えを言おう。
インドは熱帯だからだ。
すなわち一年中、日本よりひどい猛暑なのである。こんな中で死者が出たら、その死体はいったいどうなるか?昔のことだから、冷蔵庫もドライアイスもない。
おわかりだろう。死体はすぐに腐敗し猛烈な悪臭を放つ。だからこそ強烈な香料と熱帯の強い香りを持つ花で悪臭を防ぐ必要があったのだ。
現代は極めて管理が行き届いた社会だから、人が死んでも、その腐臭に触れるケースは滅多にない。
しかし、それでも日常のニュースに注意していれば、たとえば殺人事件発覚のきっかけが中途半端に処理した遺体の臭いによるケースがしばしばあることがわかるだろう。
経験者の弁によれば、あれほど人間として耐え難い悪臭はないそうだ。しかも、たった一体の腐敗臭でさえ実に広範囲に漂い、すぐにそれとわかるのである。
だからこそ、ナチス・ドイツはホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を行なうにあたって、初めから死体処理(犠牲者には申しわけない表現だが)の工場を準備していた。
また、ソ連軍がポーランド軍の将校を抹殺した「カティンの森の虐殺」でも、あらかじめ将校たちに自分の墓穴を掘らせたうえで、残酷にも射殺している。
これとは逆の話もある。
モンゴルのチンギス・ハーンは、ある時、都市国家の国民を皆殺しにしたが、全部殺してしまったために死体の処理をする者がおらず、死体が全部腐ってしまった。
そのあまりの悪臭に耐えかねて、チンギス・ハーンはその都市を放棄せざるを得なかった。
日本においては、歴史上おそらく最大の虐殺を行なったのは織田信長だが、それがほとんど焼き討ちという手段であるのも、全部焼いてしまえば死体処理の手間が省けるからである。
ちなみに、処刑された者の胴体は埋めてしまい、首だけさらすのも、その理由が大きい。それも完全に腐るまではさらさない。
では、死件処理について何の準備もなく、偶発的に「数十万人」を虐殺した軍隊が、ただの一体も腐らせずに処理するなどということが可能だろうか?
常識と論理で考えれば、わかる話である。
俗に言う「南京大虐殺」の検証にはこういう視点が不可欠のはずなのに、これがほとんどといっていいほど行なわれていない。
もちろん戦争行為の渦中において、偶発的な虐殺つまり「非戦闘員の殺害」がまったく無かったとは言い切れない。だから「南京事伴」の歴史的検証は必要である。
しかし、中国側の言うような「三十万人大虐殺」がもし本当にあったのなら、九十九パーセントの遺体を処理したとしても(そんなことは絶対に不可能だが)、残り1パーセントつまり三千人の遺体が現場に残されたはずであり、それなら多くの人々がその腐敗臭に苦しんだはずなのである。
ナチスに百パーセントの「処理」(実に嫌な言葉だが)が可能だったのは、あらかじめ犠牲者を収容所に監禁していたからである。条件がまったく違う。もう少し冷静な議論をして頂きたいものだ。
いまのはほんの一例だが、一見まったく関係がないような「香華」と「大虐殺」も、歴史上の事象を考えるには、極めて有効なのである。
【逆説の日本史8室町文化と一揆の謎/第四章「室町文化の光と影編より引用】
南京大虐殺については、いろんな証言があると思います。
信頼できるものから全くの虚偽のものまで。
どんな証言でも構いません。
もし、南京大虐殺を肯定する証言のうち、上記の死体の処理もしくは腐臭に関する証言・証拠等ご存知の方がいましたら是非教えていただきたいと思います。
教えて頂ければ、私の考えも変るかもしれませんので。
宜しくお願いします。
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私は、正義づらしてその実、ワガママこいているだけという行為が大嫌いなので、左翼系のブログを見てはいつも憤慨
してます。
憤慨するくらいなら見なけりゃいいじゃん、と言われそうだが、私の場合は、憤慨するのが一種の愉しみと言うか、それへの反論を考えるのが道楽みたいになっているんですね。
そんな私の左翼ヲチ心を刺激してやまないのが、今までも何度か取り上げたことのある
「村野瀬玲奈の秘書課広報室」。
最近、彼女のブログでは、まるで私やネットウヨを挑発するかの如く(笑)、
日の丸・君が代「強制」問題や愛国心について取り上げていて、コメント欄では左右入り乱れて大いに盛り上がっているようです。
私もコメントしたいのはやまやまなのですが、いかんせん、彼女から出入り禁止処分を食らった身の上ですので、自重して自分のブログに改めて感想や反論でも以下書いていくことにします。
村野瀬さんや、それに賛同する人たちのコメント読んでいると、兎にも角にも「強制」はイカン、この強制を許していけばいずれ自由がなくなる!自由民主主義の危機だ!ということになるようですね。
ということは、この問題のポイントは、二つあると思う。
その1)都教委の指導&処分は「強制」に当たるか否か?
その2)当事者にとっては「強制」でも、その「強制」が妥当か否か?
それでは、この二つについて、考えていきましょう。
村野瀬さんらに言わせれば、当然「強制」とみなすわけですが、その左翼の判断は果たして、社会的通念に照らして妥当かどうか?
そもそも、この問題教師は、児童生徒への指導をするよう「命令」されたことを、「強制」と受け止めてしまっているわけです。そして命令違反に対して下された「処分」も「強制」だと非難するわけですね。
もちろん、「強制」と感じるか感じないかはその人の主観次第であるとは思う。
しかし、そのことと、「強制」であるかどうか?また、「強制」だとしてもその処分が妥当かどうか?はまったくの別問題。
どうも問題教師や彼女ら左翼は、「自分の(強制だという)判断」=「まごうことなき事実」と勘違いしているのではないんでしょうか?
世間一般で受け止められている事実とは、「強制」と呼べるような代物ではなく「業務命令&業務命令違反に対する処分」に過ぎないと思う。
それはこの問題を巡る社会の反応を見てもらえば、問題教師と彼女ら支持者以外には納得してもらえるのではないだろうか。
実際、ネットやマスコミなど世論の動向は、概ね彼らの主張に対し非常に冷めているのが実情。
ということは、やっぱり世間から見て、彼女らの判断は妥当でないのだろうね。
それでは、なぜ、彼女らは支持されないのか?
私なりに考えてみると、次の理由が思い浮かぶ。
1)左翼の(強制だという)判断を認めてしまうと、余りに自由の行使範囲が広すぎ、恣意的な権利行使が横行し、社会生活を営む上で害があると感じているから。
2)都教委が問題教師に対して下した処分が、社会的・一般的に見て許容範囲内であると受け止められているから。
3)問題教師が、公務員という公僕でありながら行政の命令に従わないことへの反感があるから。
(公務員という身分保障に守られながら、そうした活動を行える余裕をかましていることへの反感もある)
4)「内心の自由を守る」など自らの行為を勝手に規定し、被害者ぶっていることが、第三者には余りにも大げさに見え、シラケてしまい共感を呼ばないから。
こんなところだろうか。
大体、数分の間我慢して業務を果たせば済む問題なのに、それすら出来ない人間が、いくら「強制だ、
内心の自由の侵害だ!」と訴えようが、世間の同情を引けるわけ無いでしょう。
どうしても”死ぬほど”嫌なら式場で業務の遂行を拒否するのではなく、事前に自分の信念を表明し業務を欠席すると言うやり方だってあるでしょうに。反対を表明する手段だって、ネットを使うなり街頭に出て訴えるなり幾らでも他の方法はあるじゃないですか。
どうして、式の運営を”あえて”邪魔をするような抗議方法を選ぶのか?自分の信条と業務命令との折り合いをつけることは幾らでも出来そうなものだが…。彼ら問題教師には、そうした工夫も考え付かないのかなあ。
イカンイカン、私の愚痴は脇においといて…と、
世間が自分の思うとおりに、反応してくれない。
そのことぐらいは、彼女らにも少しは感じ取れるらしい。
そのせいだろうと思うのですが…。その主張に過激な言葉が並んじゃってます。
国旗国歌を強制する精神性があるという点で日本は中国、北朝鮮と似ていることになりますね
「国旗国歌の強制」とは、「精神内面への強姦」ではないでしょうか?
似非被害者ほど大げさなことをいいますが、上記の記述などまさに当てはまりますね。
北朝鮮と似ている…、だって?
精神的強姦ではないでしょうか…、ですって?
モノは言いようですが、余りにも物事の比較や引用が、乱暴でお粗末すぎるのではないかと。
気に入らないことを強制されたら、すべて「精神的強姦」と言えば世の中、済むでしょうか?
義務を果たさなくてもOKなのでしょうか?
全くこういうところも、被害妄想と言うか、幼稚な精神構造をお持ちというか、世間知らずでわがままな困ったチャンと言うか…。
前にも「当たり屋」と評させてもらいましたが、やっぱり行動様式がよく似ているなぁと思わざるを得ないのですが…。そう思いませんか?
世の中には、こういう人間がいても何ら不思議ではありませんが、こうした人間の主張を甘やかして認めてしまったら、さぞかしモラルは崩壊し、ギスギスして世知辛い世の中になるでしょう。
それどころか、仮に
人権擁護法案が成立したら、こうした連中に「精神的強姦」という理由で訴えられるとんでもない世の中になってしまうかも知れませんネ。
そんな予想はさておき、彼女ら左翼の主張を見ていると、次のような考えが背景にあると思います。
・強制は、いかなる場合でも悪であること。
・個人の自由と権利は、他の何者にも優先して保障されるべきと考えていること。
・国を個人と対立するものと規定し、否定すべき存在と考えていること。
わがままな行動を認めない”程度”の強制は許されるべきだと思うし、個人の自由と権利は、それを維持する社会の安定があって初めて行使できるものです。
それに、国という枠組みがあってこそ、個人が生活できている現実もある。
彼女らは、そうしたプラスの面が全く目に入らないのか、全く評価の対象としないのか?
私にはわかりませんねぇ。自分たちもその恩恵をこうむっているはずなのに…。
これらを否定したら、我々の社会はたぶん崩壊します。常識やモラルは通用しなくなり、全て法律でがんじがらめに規定しないと暮らせない窮屈な社会になってしまうでしょう。
自由や権利も大事だけど、濫用はいけません。
結局のところ、過ぎたるは及ばざるが如し、ということですね。何事も大事なのはバランスということでしょうか。
ま、そんなことが彼女らにわかっていたら、ああいう主張はそもそもしないと思うけど…。わかっちゃいるけど、言わずにはいられませんねぇ。
この問題については、まだ思っていることがありますが、この続きは次回にしておきます。
今日はこの辺でお終い。ではまた。
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テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済
とある事情(といってもなんのことはない、大学時代の友人の結婚式に参加するため)で、愛する家族を置き捨てて行って来ました、
九州旅行一人旅。
行くなら、地元グルメを堪能すべし!との思いで家族に隠れ、一人舌鼓を打ってきました。
ということで、だいぶ遅くなりましたが、幾つか感想をまじえながらご紹介。
まずは、宮崎名物?チキン南蛮↓
とにかくタルタルソースがてんこ盛り。タルタルソースも普通と違って、甘酢が効いている。しかし、あまりピクルスらしさを感じない所はちょいと残念かな。美味しかったけど量が多くて最後は飽きちゃったヨ~。
行った店の外観はこちら↓おぐら本店という名前でした。
ネットで調べてみたら、詳しく紹介しているサイトがありましたので知りたい方は
このHPをクリックしてね。
お次は、大分県の
佐賀関です。
佐賀関といえば、関アジ・
関サバが有名。とのことでレンタカー飛ばして行ってきたのが、この祐乃介↓というお店。
昼時を過ぎていたけど、結構お客が入っていた。カウンターで板前さんが捌くのを見ながら食したのですが、その時は板前さんと女中さんの二人しか店員がおらず、忙しそうで話しかける機会が無かったのが残念。そこで食べたのが
関アジ定食↓
炊き込みご飯にイカが入っていてお代わり自由だったのは嬉しいサービスでしたね。アジも美味しかったなぁ~
でも、それよりなにより美味しかったのが、単品で追加した関イカ!
舌の上でとろけるぅ~。しかも肉厚↓。1センチ以上あったヨ。
今日の紹介はこの辺でおしまい。次回続きを紹介する予定です。
余談ですが、一人で楽しんできたバチが当たったのか、先日子供と遊んでいてすっころんでしまい、左ひざを十針縫う大怪我をしてしまいました…
救急車で運ばれるわ、その後、化膿して毎日朝夕、点滴打つハメになるわ、と散々です。ハァ~
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テーマ:こんな店に行ってきました - ジャンル:グルメ
今週の
日本のスイッチ投票結果を公開します。
●実施期間: 6/2(月)~6/4(水)
●参加者: 31460人↓あなたの答えは■で示されています
1.もし、自衛隊機の中国派遣が実現していたら
□友好深まった…35%(11130人)■反発受けてた…63%(19952人)
2.自分の隣に住んでる人、どんな人となりか
■一応は把握…75%(23671人)□全く知らない…25%(7724人)
3.五輪水着問題、国内メーカーが改良型を提示です
□性能に期待…40%(12734人)■甘くなさそう…59%(18620人)
4.船場吉兆ついに廃業。私の記憶に刻まれたのは
□お店そのもの…17%(5448人)■女将のキャラ…82%(25884人)
5.バター不足で夜のお菓子「うなぎパイ」がピンチに
□困った事態…23%(7235人)■別に気にせず…77%(24149人)
6.国際宇宙ステーション、唯一のトイレが故障です
■それは危機的…77%(24290人)□なぜか親近感…22%(7021人)
7.日本航空のジャンボから鶴のマークがついに消滅
■少しがっかり…44%(13956人)□別にOK…55%(17430人)
8.GWを少し減らしていいので6月に祝日がほしい
■はい…47%(14887人)□いいえ…52%(16464人)
日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……889人いました。
設問6の選択肢「なぜか親近感」って妙だな…。どうでもいいけど。
今週はあまり面白いネタが無かったorz
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テーマ:毎日新聞 - ジャンル:ニュース
今日はやっこいお気楽ネタです。
ネットの動画って、見始めたものの終わりまで見ない場合って結構ありません?
そんな我慢の効かないオサーンの私ですが、次に紹介する動画は最後まで見ちゃったヨ。
(以下、18禁。良い子は開かないように!)←なんだ、やっぱりそういうネタかよ!ってツッコミはやめてね
【“面白動画紹介:男の喜ぶツボを押さえたショベルカーのテクニックとは?”の続きを読む】テーマ:YouTube動画 - ジャンル:テレビ・ラジオ
私は、
山本七平の本を読み返すたびに、その深い洞察力とそれをわかりやすい言葉で伝える記述力にほとほと感心してしまう。
そしていかに、自分を含め後世の人間が、戦前・戦中の日本について誤った捉え方をしているかと言うことを痛感させられてしまう。
(以前にも
この記事で紹介済みだが)
そんな
山本七平の力作が次の作品↓。
あまり他に第二次大戦の書物を読んだことの無い私ですが、それでも、次のように断言してしまいます!
日本がなぜあのような無謀な戦争に突入したのか?
その謎に迫るにはこの本こそベスト・テキストである!…と。
そして、この本を熟読し理解することこそ、「反省」と呼べる行為である!…と。この本を読んで、それでなお
百人斬りや
南京大虐殺を断固たる事実と主張する者は、物事の理非が分からぬ愚か者にちがいないのではないか。
若しくは、「判断」と「事実」との違いが分からず「自分の判断=即客観的事実」と思い込む幼児のような精神構造の持ち主ではないだろうか。
そのように思わざるを得ないほど、
山本七平の記述というものは、説得力を持っていると私は考えています。
さて、今日は、そんな「私の中の日本軍」から、「規範の逆転」について取り上げてみたい。
日本軍の行為をことさら取り上げ、糾弾することが好きでたまらない人たち(主に左翼の連中)の視点には、一体何が欠けているのか?
山本七平はそのことについて次に紹介する記述で鋭く指摘しています。少し長くなりますが紹介して行きましょう。
「百人斬り競争」を徹底的に調べられた鈴木明氏が非常に興味深いことを述懐しておられる。これは、鈴木氏だけてなく私にもある(と少なくとも、私はそう思っている。ただ時々、そうではないと人からいわれるが)そしておそらくだれにでもあることと思われるので、前の引用と一部重複するが、その部分を引用させていただく。
〈彼は向井少尉には好感をもっていないことを、はじめから明らかにしていたが、こと「百人斬り」の話になると「そんなこと誰が信じてるもんですか」といい、「一人斬ったなんていう話も信じませんなア」と吐き捨てるようにいった。
僕は、この、ある意味では重大とも思われる証言を、何故か遺族の人たちには、あまり語りたくないような気がした。
遺族たちの心の中には、「戦犯」といううしろめたさと同時に「勇士」というイメージがある。無実であるという心と「勇士であってほしかった」という心とが裏腹にあることが、僕には痛いほどわかるような気がしたからである〉
前述のように私は、こういった配慮が非常に少なく、何でもズバズバ言い、何でも徹底的に聞きただし、納得しない限りおさまらない人間と思われていたらしい。
だが、それはただそう見えるだけで、いざとなればその行き方はみなと同じであった。
本当にそういう人間だったら、あらゆる場合にもっと合理的に行動したはずである――自分の行動が合理的であったと思えたことは、ただ一度しかない。
そして「遺族たちにはあまり語りたくない」といわれれば、「事実は事実だ」といってこれをつっぱねることは、私には到底できないのである。
昭和二十二年一月二日、佐世保の近くの南風崎から復員列車に乗る直前であった。
どこかで見覚えのある一人の男が私の前に立った。そしていきなり「少尉殿」と言った。
私は驚いてその男を見た。
戦争が終ってもう二年目、少尉殿などといわれれば、言われた方が驚くのが当然である。
その男は私に、S軍曹殿の遺族のところに立寄ってから東京に帰るつもりか、ときいた。私は無愛想にうなずいた。
すると相手はいきなり大声で「行かんで下サレ」と叫ぶと、今にもつかみかかりそうな勢いで私につめよった。
私はあまり激する方ではないのだが、何しろ内地上陸以来、それまですっかり忘れていた寒さに痛めつけられ、その上連日徹夜の復員事務、さらに正月の休みで、どこの部課も責任者は休みであり、当直の人は、無理もないことだが、「正月早々仕事なんか出来るか、まったく変なときに上陸しやがって……」と毒づいてまことに不親切、という情況にもまれて疲労困憊し、すっかり神経が高ぶっていたので、つい言葉が荒くなった。
「ナニィ、そんなことは貴様にとやかく言われる筋合はない。行こうと行くまいとオレの勝手だ」
相手は答えて
「そりゃ勝手じゃろう。だが行って一体遺族に何を言わっしゃる気だ。いつもの伝で何もかもズバズバ言わっしゃる気か!墓ば掘り起こして手ばブッタギッタの足ばタタッキッタ(註)の死んだ人間の女房子供に言わっしゃる気か!」といった。私はぐっとつまった。
(註…山本七平は部隊長に命ぜられ、一度土葬した部下のS軍曹を掘り出して、遺骨を日本に持ち帰るため、自らの日本刀で遺体の親指を切断した事を指す)
前にもちょっと触れたが、私のいた部隊は東京と九州との混合編成であり、第一中隊が九州で、S軍曹はこの第一中隊と共に私たちより先に比島に来ていた。
彼は、温厚・篤実、すべて的確で沈着、思慮深くて機敏で壮健、社会のどの部門に行っても、またどんなに世の中が変っても、必ずリーダーになる資質を備えていた。
それでいて一面非常なはにかみ屋だった。
彼は兵技下士官だったので、編成完了と同時に自動的に本部付となったが、第一中隊の人事係准尉が「兵技でなきゃ絶対に手ばなさん」と何度も何度も私に言い、また第一中隊の兵士が何かの用事で本部に来たときは必ず彼のところに挨拶に来るほど、上にも下にも人望があった。
そしていま私の目の前に立っている男は、その第一中隊の兵士であった。
従って、私は彼の名を知らず、顔もどこかで見たような気がするなという程度にしかおぼえてなかったわけである。
S軍曹の家は唐津の近くであった。当時の交通事情からすれば、東京に帰る前に彼の遺族のところに立ちよるのが常識であった。
復員切符は途中下車無制限であったし、またたとえそこがどんな辺鄙なところであろうと、また宿がなかろうと車がなかろうと、食うや食わずの野宿や徒歩行軍を当然と考えて来たわれわれには、それはもとより問題ではなかった。
しかし「……何を言わっしゃる気だ……」と言われたとき、私は不意に虚をつかれたように感じた。
「何をいうか」などということは、全然私の念頭になかったからである。
相手は目ざとくそれを見てとって言葉をつづけた。彼がくどくどと言ったことを要約すれば次のようなことであったろう。
戦場と内地では全く規範が違う。つまらぬ情緒的自己満足のため無益に兵士を殺したことが逆に人道的行為のように見え、部下のことを考えて最も的確に処理したことが非人間的冷酷もしくは残酷にさえ見える。
私はあなたとS軍曹が、上官・部下というより親友であったことを知っている。だからこそ、あなたのことを遺族に誤解させたくない、また遺族を無用に苦しめたり悲しませたりしたくもない。
私が話す、どう話すかは私にまかせてくれ、そして「仏心があるなら」生涯S軍曹の遺族には会わないでくれ、何も言わんでくれ、と言った。
彼の言うことは理解できた。彼が私に注意したのは、一に私への親切からであった。私は自分の非礼を詫び、まっすぐ東京へと帰った。
しかしその結果、S軍曹の遺族は、「事実」は何も知らされていないことになった。そしてこれが全日本的規模で行われたように思われる。
一方、彼の言葉は、私にとっては戦場への決別となった。そして、戦場そのものへ入ったときにも、同じことを逆の立場で言われたのであった。
それは前にもちょっと触れたが、マニラに上陸してすぐ、一人の兵士が日射病(?)で昏倒し心臓麻痺(?)を起したときであった。
当時は輸送編成で、私は輸送本部付だったが、すっかり慌てて、すぐさま船舶輸送司令部に伝令をとばして野戦病院の場所をきき、倒れた兵士を担送しようとした。
そのとき、本部の先任将校であったS中尉が「山本!ヤメロ、ほっとけ」と言った。私は驚いてS中尉の顔を見た。私はかねがねS中尉を尊敬していたので、この非常にきつい一言に一瞬戸惑いを感じた。
彼は私を見て言った。死んだ兵隊のために動いてはナラン、それをすると、次から次へと部下を殺す。
彼の言ったことは事実であった。ほかの兵士も同じように、「地獄船」の異称のあったあの輸送船の船倉から出てきたばかりで、しかも乾期の真っ最中のマニラの炎天下にいるのである。
もし倒れた兵士を担架に載せて、四人の兵士にこの炎天下を野戦病院まで担送させたらどうなるか――その四人も次から次へと倒れて心臓麻痺を起すかも知れない、結局それは、一見、人道的・人間的なように見える処置だが、実は次から次へと部下を殺す残虐行為にすぎないのである。
確かに一般社会なら、「もうだめだ」とわかっても病院にかつぎ込み、万全の処置を講ずるのは当然のことであろう。
そしてそれをしないのは生きている人間をも大切にしていない証拠だといわれても、一言の反論もできないはずである。
路上に死体が放置され、人が冷然とその傍らに立っている社会などというものは、病的な社会に相違あるまい。
しかし一方から見れば、死者を丁重に扱い、あるいは盛大な葬儀をするということは、死者自体には関係なく、生きている人間の情緒的自己満足にすぎないともいえる。
病院にかつぎ込まれようと桟橋に放置されようと、死者自体は何も感じはしない。
従ってこの場合、これを野戦病院へかつぎ込もうとすることは、私の自己満足のための行為にすぎないのである。
もしその自己満足のため無理な担送をやらせ、そのため兵士が倒れたら、それは自己満足のため部下を殺したということにすぎない。
前述のように、その夜はシナ人墓地で野営した。S中尉は何度も何度も、「一般社会の常識的規範を戦場にもち込んではならない。それをすれば、立派な行為のように見えても、結局は部下を殺すだけのことになるのだ」と私に語りつづけた。
そしてそれがいわば「戦場の入口」であり、すべてが逆転する地点であった。
彼の言うことは理解はできた。しかし理解できたということは、いざというときにそう行動できたということではない。
いささか自己弁護めくが、われわれは他の民族よりも、情緒的自己満足のために行動し、あるいは行動させる傾向が強いのではないであろうか。
「やるだけはやった。やれることは全部やってやった、心残りはない」という自己満足、確かにあの兵士を野戦病院にかつぎこめば、たとえそれが出発点においてすでに死体であっても、私は「やれることは全部やってやった」と感じたであろう。
だが、もしその担送のため別の兵士が心臓麻痺で倒れたら、確かに私は自己満足のため部下を殺したとなるであろう。
だが、このことを一般の社会で話したらどうなるであろう。
野戦病院にかつぎ込もうとした私が人道的人間に見え、断固これをとめて放置させたS中尉は、逆に冷酷無情な鬼畜のように見えるであろう。――南風崎で「行かんで下サレ」と私につめよった兵士が、くどくどと言ったことも、煎じつめればこのこと、すなわち「私が冷酷無情にみえて、遺族が不当に悲しむから」ということであった。
そしてここが「戦場の出口」だった。
「何かのために何かをしてやった」という情緒的自己満足のため人を殺し、それを人道的行為と考える。
これは「岡本公三(wiki参照)の論理」であり、同時に「死者を担送する論理」だが、この論理は実に根強くわれわれの中に巣くっている。
赤軍派や学生運動のリンチにもこれが見られるだけでなく、NHKの通信員まで、同じ論理で淡水の工場排水の濃度を廃棄物で高め、この中に魚を入れて無理矢理魚を「虐殺」している。
彼のやった「行為」は魚を殺したということだけで、彼はそれ以外に何もしていない。
しかし彼は「環境問題キャンペーン」のためで、「基本的に私のやったことは間違いでない」という。
「公害キャンペーンのため」といって、むりやり「魚を殺して」虚報を発し、それを「間違いでない」とする考え方は「戦意高揚のため」「百人斬り」という虚報を発し、その結果二人の人間を処刑場に送っても平然としていられる考え方と同じであろう。
結局「何かのために何かをしてやった、それは意義あることであった」という自己満足のためには、虚偽でも虚報でも無差別銃撃でもリンチでも魚の虐殺でも、何でもゆるされるという考え方であろう。
本当にゆるされるのか。
これが「ゆるされる」とするあらゆる美辞麗句は、実は、人間が戦争をはじめたり、虐殺を行なったりするときに、必ずロにする言葉なのである。
この場合の「人」と「魚」との差は、普通の人が考えているほど大きくはない。
ヴェトナム戦争でも多くの報道がなされた。
すべてに目を通したわけではないが、私の見た限りでは、そこに共通するものは、書く者と読む者とが共に往む平和な社会における情緒的自己満足は充足させても、前述のように規範の逆転がすべてにのしかかってくるという状態の中で、ひとりひとりの人間がどう行動すべきかという基準を全く考えずに、また、一見人道的に見える情緒的自己満足のための行為が実は最も残酷な行為になるということを全く理解しようともせずに、すべてを知らず知らずのうちに自らの「情緒的自己満足」の充足のため批判しているように見える。
確かに逆転した情況の中で生きた体験がないから、そうなるのは当然のことだ、といわれればその通りであろう。
だが、それならば一方的断定は避けて、そこに何か、自分たちがいま生きている社会とは全く別の「理解しきれない何か」があるのではないか? 自分たちの批判が基準になったらさらに残酷なことになるのではないか? という疑問は抱いてほしいと思う。
それをよく考えないと、向井・野田両少尉を断罪すると同じような、全く見当はずれの奇妙な断罪を人に加えて、それによってただ情緒的な自己満足に酔いしれて、まるで酔漢がからむように、だれかれかまわず一方的にきめつけるというタイプの人間になり下がってしまうであろう。
先日、曽野綾子氏から『ある神話の背景』をお送りいただいた。
氏はこの中で、沖縄の「伝説的悪人」赤松大尉のことを、あらゆる方法で調査しておられる。
この中に多くの人の「赤松大尉糾弾」の辞が収められている。確かに彼には糾弾さるべき点はあったであろうし、戦場にいる限り、それはもちろん私にもある。
ただ私にとって非常に奇妙に見えたのは、ある評論家の「糾弾の方向」である。
それはまるで「死体をかついで野戦病院にかけこまないのはもってのほかだ」と言っているように私には思えた。赤松大尉の副官であったかつての一見習士官が「では一体、私たちはどうすればよかったのですか」と問うている。
それにはだれも答えられない。
そして曽野氏は、この「神話の背景」にあるいま私が要約したような「規範の逆転」を察知しておられる。
戦場を知らない女性でも、「目」のある人が本気で調べれば、それは察知できるのである。従って、それを知ろうともせず「逆方向の糾弾」をしている者――いわばマニラの埠頭での私の行為を人間的人道的と見、S中尉を冷酷非人間的と糾弾するような批判をしている者――その者は、ただその人が無知無感覚でかつ魯鈍な知的怠惰者であることを、自ら証明しているにすぎないであろう。
「情緒的自己満足のための行為」はそれを聞いた安全地帯の人びとを情緒的に満足させるから、この行為はすぐ「美談」になる。
戦場の美談の裏側は愚行であると言ってよい。
どこの国のどこの戦場であれ、日本国内で美談化されている行為がもしあれば、それはすべて愚行に違いない。
【私の中の日本軍・下/S軍曹の親指の章より引用】
戦場経験のある人たちは、その大多数が既に亡くなられており、我々の身の回りには、もはやそうした「規範の逆転」を身をもって体験した人は皆無に近いと思います。
ですから、
山本七平がいうように、「逆転した情況の中で生きた体験がないから、そうなるのは当然のこと」であって、何ら恥ずべきことではないでしょう。
しかし、逆転した情況に置かれた自らの先祖の行った戦争行為を、「規範の逆転」について全く考えようともしないまま平気で断罪する行為は、見過ごしてよいのでしょうか。
自分は今まで左翼の言動に言い知れぬ不快感を感じてはいたものの、どうしてなのか自分でもうまく表現できずにいました。
しかし、この山本七平の記述を読んで全てが氷解したような、胸のつかえが取れたような気分になりました。
自分は安全な場所にいて、なぜ当時の日本人がそのような行動に走ったのか、その背景も知ろうとせず、自らの先祖の戦争行為を声高に糾弾する。そればかりか、中韓の連中と手を取って、そのことに疑問を呈する同胞の日本人をも「反省が足りない」と非難してはばからない。
そしてそうした反省を示すことが、「日中友好・アジア連帯・恒久平和に資する」などとのたまう。
いったいこういう連中のどこが、「平和を愛する人たち」なんですか???
単に「私は無反省な者を非難している。だから私は正しいのだ」と世間にアピールしているだけの馬鹿者ではないか!!
そうした連中から漂ってくる「いかがわしさ」、「偽善」。
これが私から左翼の連中を嫌いにさせた正体だったのだ。
そういう連中が、平気で口にする「平和」。薄っぺらいものに感じてしまうのは私だけなのだろうか?
余談ですが、この記述の中に出てくる
曽野綾子氏は、今でも左翼の人々の間では嫌われているし攻撃されています。
今も昔も彼らの”情緒的満足感”に水を差す人物というのは、山本七平を叱ったS中尉同様冷酷に見えてしまうのでしょうか。所詮、「逆転の規範」を察知できない者には何を言ってもムダなのでしょうかねぇ。
(そういう私も、山本七平の記述を読まなければ、察知できないままだったと思います。そういう意味では、気付かせてくれた山本先生には非常に感謝しています。)
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今日は、携帯のお話。
私が現在使っている携帯は、
Jフォンの
J-N51という機種↓。
既に今年の10月で5年を経るというツワモノだ。おかげで充電池も二度交換している。
なぜ、そこまでしてこの機種を使い倒してきたかというと、それはひとえに入力方式。
NECの機種しか搭載していない「
T9入力」にどっぷり浸かってしまったからなのだ。
NECの携帯しか搭載していない入力方式なのでイマイチマイナーであるが、タッチ数を減らせて実に快適なのである。
簡単に説明すると、”おはよう”と入力する場合、
T9入力だと、数字の1+6+8+1と、4回タッチすることで、あ行+は行+や行+あ行のひらがなの中から自動的に日本語として考えられる組み合わせ候補(おはよう・いひょう・おはやい等)を挙げてくれるわけです。この候補の中から適切な候補を選び漢字変換する、ということになります。
普通の携帯だと、数字の1を5回+6を1回+8を3回+1を3回の合計12タッチもかかってしまいますよね(まあ、予測変換で実際にはもっと少なくてすむけど。でもそれでも最初の”お”を選ぶのに5タッチ必要としてしまいます。)。
まあ、この入力に慣れてしまって以来、欲しい
NECの新機種が全然でなくなってしまい、機種変しようにも出来ない状態でした。
ソフトバンクになってからは、ぱったりと
NECの端末が出なかったし、もうドコモに変えるしかないのか…と苦悩していたわけです。
そしたら、今日
ソフトバンクの新機種情報を見て、
NEC端末↓が復活しているではないですか
薄さ11.7mmのワンセグケータイ「820N」 長らく待った甲斐がありました。ようやく携帯買い替えできそうです
(これで、職場の連中にバカにされずに済む…のかな)
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テーマ:新機種情報 - ジャンル:携帯電話・PHS
今週の
日本のスイッチ投票結果を公開します。
●実施期間: 5/26(月)~5/28(水)
●参加者: 29948人↓あなたの答えは■で示されています
1.四川大地震やミャンマー水害の義援金、私は協力
□しました…15%(4514人)■してません…85%(25391人)
2.宇宙基本法成立。日本に独自の偵察衛星は必要と
■思う…60%(17888人)□思わない…40%(11957人)
3.米予備選、オバマ候補が事実上の「勝利宣言」は
■すっきりした…39%(11735人)□待たされた感…59%(17618人)
4.成田空港が30周年。実は一度も行ったことない
□はい…39%(11815人)■いいえ…60%(18084人)
5.出前バイクのホンダ「カブ」世界で6千万台販売
■すごい記録…88%(26399人)□不可解な人気…11%(3441人)
6.女子バレー日本代表、最終予選で五輪決定です
■良く頑張った…47%(14003人)□本番が大変…53%(15820人)
7.超インフレのジンバブエ、5億ドル紙幣を発行って
■事情気になる…58%(17369人)□一枚欲しい…41%(12426人)
8.バスタオルって、毎日必ず洗う必要が
■あると思う…42%(12536人)□ないと思う…58%(17366人)
日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……414人いました。
設問2について、日本独自の
偵察衛星を必要だと思わない人が40%もいることにガックリ
独自の情報を持つことの大切さを理解していない人がこんなに多いとは思わなかった。
これじゃ、欧米のマスコミに洗脳されるのも当然か…orz
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テーマ:毎日新聞 - ジャンル:ニュース
私は宗教というものに全く疎いのですが、日本人の宗教観について、29日の読売新聞に面白い調査結果↓が出ていたので取り上げてみます。
宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
調査は「宗教観」をテーマに面接方式で実施した。
死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%――がこれに続いた。
(2008年5月29日23時41分 読売新聞)
日本人の宗教観については、昔読んだ
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)に書かれていたことが、非常に印象に残っています。そこで書かれていたことが全て正しいのかわかりませんが、上記調査と符合する点があるような気がするので、以下、少々長くなりますが紹介していきましょう。
日本教徒・ユダヤ教徒
(前略)
ユダヤ人が庶民一人一人に至るまで、はっきりユダヤ教徒という自覚をもつに至ったのは祖国喪失の後である。事実、旧約聖書が最終的に編纂されたのは紀元100年のヤムニアの会議においてであり、タルムドの編纂はそれ以降である。
日本人はそういう不幸に会っていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていないし、日本教などという宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。
しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。
日本教徒を他宗教に改宗さすことが可能だなどと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮彫りにしてくれるのが「日本キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まず、この両者に焦点をあててみよう。
宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである。
だから私は宣教師にいう、日本に宣教しようと思うなら、日本人の『ヨハネ福音書』と『ロマ書』はお読みなさい、そしてそれがすんだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて『創世記』と『第ニイザヤ』ぐらいは読まねばいけません、と。
彼らは驚いていう。そんな本かありますか、と。
ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ、日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者がいますか?あたりまえです。殉教者のいない宗教はありません。西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全くわけがわからないという自信喪失の顔付になってくる。
そこで私はいう。いや何の御心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云々……」。
何十年かたったら思い出して下さい。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。
私は冗談を言っているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でものべたように神概念ではなく、「人間」という概念なのだ。従って日本教の『創世記』の現代的表白に次のように書かれていても不思議ではない。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
『草枕』を読まずに日本を語ってはならぬ。新聞記者などで、日本に二、三年いて、いっぱし日本通のような顔をした人間には、私はいつもそう言うことにしている。
(中略)
漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根元的な考え方である。
この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対蹠的である。
猫は主人公だけれど神のいない世界、神が主人公だが猫はいない世界、この二つの世界に同時に住めると思う人がいたら狂人であろう。
宣教師さん、日本教創世記、日本教イザヤ書はしばらく措き、日本教にはどんな一面があるか、ある事件を通じてお話ししつつ、日本教『ヨハネ福音書』に進もう。
昔、あなたのようにはるばる日本に来た一人の宣教師がいた。彼がある日、銅製の仏像の前で一心に合掌している一老人を見た。そこで宣教師は言った「金や銅で作ったものの中に神はない」と。
老人が何と言ったと思う。あなたには想像もつくまい。彼は驚いたように目を丸くして言った「もちろん居ない」と。
今度は宣教師が驚いてたずねた。「では、あなたはなぜ、この銅の仏像の前で合掌していたのか」と。
老人は彼を見すえていった「塵を払って仏を見る、如何」と。失礼だが、あなただったらこれに何と返事をなさる。いやその前に、この言葉をおそらく「塵を払って、長く放置されていた十宇架を見上げる、その時の心や、いかに」といった意味に解されるであろう。一応それで良いとしよう。御返事は。さよう、すぐには返事はできまい。
その時の宣教師もそうであった。するとその老人はひとり言のように言った「仏もまた塵」と。そして去って行った。この宣教師はあっけにとられていたというが、あなたも同じだろうと思う。
これを禅問答と名づけようと名づけまいと御随意だが、あなたの言った言葉は日本教徒には全く通じないし、日本教徒の返事はあなたには全くわからないということは理解できよう。
禅の公案には何を素材に使っても良いのである。仏典でも、金銅仏でも、猫の首でも、いわしの頭でもよい。もちろん、聖書でもよいのだということを忘れないように。日本人が、聖句を用いて盛んに禅問答をしても、驚いてはならない。
そういう人たちは、日本教徒キリスト派といって、聖書の言葉で禅問答をやるのにたけている人びとであるから。
川端康成氏がハワイの大学で言ったことをお忘れなく。日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。従って、「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが日本教『ヨハネ福音書』の冒頭なのである。
くれぐれも忘れないでほしい。あなたの生きて来た世界がユークリッドの世界だと仮定したら、日本教の世界は非ユークリッドの世界である。
(中略)
一方同じことが、逆の面から日本教徒キリスト派にも言える。聖書は日本語に訳されており、その訳文がすでに禅的であるが、その読み方・解釈となると、まさに禅である。
有名なイエスとピラトの問答の場面「われは真理を知らしめんとしてこの世に来れり」「真理とは何ぞ」といってピラトが返事もまたずに群衆の方へ出て行くところを、ある日本人牧師が解説していたが、ここの言葉と動作を、まことに絶妙な禅問答のように理解しているのには、私も非常に驚いた。
奇想天外とはこのことだろうが、いくら何でも、ナザレのイエスとローマ人のピラトに禅問答ができるわけはあるまい。
だがこんなことで驚くのは、私がまだ十分に日本教を理解していないからであろう。これも仕方がない。言外を語るということは、日本語が完全にできるようになって始めて出来ることなのだ。
そして実にこまったことに、日本教の根本理念を形成する「人間」なるものの定義が、すべて言葉によらず、言外でなされていることである。
従って日本教の世界に外国人は絶対に入れないし、外国の宗教も日本には絶対に入れないのである。いくら聖書を日本語に訳しても、日本人は、最も大切なことは、言葉によらず言外によるから(驚いたことに、いや驚く方がまちがいだが、あるミッション・スクールの先生で、生徒に、聖書の真理は「行間からくみとれ」と講義していた)、これはもういかんともしがたい。
聖書はその本文によらず、本文の言外によることになってしまう。従って、日本人にうけ入れられるのは、この言外だけになってしまう。それはもう聖書ではない。
前章でのべた法外の法と、今のべた言外の言、この二つが日本教の根本理念である「人間性」を定義しており、一切の異邦人は、この聖域に近寄ることを許されない。
ローマ軍はエルサレムの神殿の至聖所に乱入することができたが、日本教のこの至聖所には、たとえ原爆をもっても押し入ることはできない。
また異邦人は、日本語がペラペラにしゃべれても、この至聖所をうかがい知ることはまずできない。せいぜい、言外の周囲にあってこれを守っている言葉に近づくことができるだけである。従って何時間議論したって対話したって無駄である。ましてやその結果「日本人は結論をはっきり言わない」などという感想をのべるなら、言う方にはじめから、日本人と語る資格がないのだ、と言わねばならない。
とすればわれわれ異邦人が日本教に近づく道は三つしかない。
まず日本人が、一民族・一国家・一宗団であることを、他の国との比較の上で証明し、第二に、日本教を体現している人の言行と生涯を考察し、第三に日本教徒の他宗教(この場合はキリスト教)理解の仕方の特質を探ることである。
ではまず(1)からはじめよう。
日本では結婚しようとする男女が次のような会話をしても少しも不思議でない。「式は何でやろうか。神式もいいけどキリスト教式もいいね」。なるほどこれで良いはずである。いずれにせよ日本教でなのだから。
だがイスラエル共和国のような国ではそうはいかない。この国にはユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒(アラブ人)、ドルーズ教徒がいる。そしてそれぞれに宗教裁判所がある。
この宗教裁判所というものが日本人には非常に奇妙に見えるらしく、ある人などは中世の異端審問所のように考えていたらしい。早のみこみはこまったものである。私はいつも、これは日本の家庭裁判所と同じようなものですよと説明する。すると大体のことがわかるらしい。
事実ここで行うことは、結婚・離婚、養子縁組から相続、家庭内の法律的問題の調停であり、一審と二審があり、またここの調停もしくは判決に不服なものは本訴するわけだから、まさに日本の家裁である。
ではなぜこれが宗教裁判所となっているかというと、前記のような問題は、ユダヤ人はラビ法典に従い、イスラム教徒はシャリア法典に従い、ドルーズ教徒はドルーズ教法典に、キリスト教徒はキリスト教法典に従うから、どれもこれもまとめて「家裁」というわけにはいかないのである。
いずれの国でも国法のすそ野とも言うべきところに、宗教的な一種の慣習があり、多くの人はそれを守っていれば、だいたい、一生の間、裁判所などのごやっかいにならないのが常である。従って国民の大部分を規制しているのはむしろこの部分であり、イスラエル共和国ではそれが各々の宗教法であって、それの裁定を下すのが宗教裁判所である。
ところがもし日本で、日本には、神道、仏教、キリスト教の三宗教があるから、その各々の宗教裁判所をつくれと主張するものがいたら、まず正気ではないであろう。
私は今まで、日本において、こういった主張があったという話はきいていない。ということは、日本にはそんなものは必要でないし、必要があるなどと考えた人すらいないのである。宗典がちがえば生活のある面の規制がちがってくるのは当然だのだが、日本人の間にはそういった差はない。
ミッションスクール出で洗礼をうけたはずの女性が神式で結婚し、仏式で葬式をしても、だれも別にあやしまない。これを、宗教的に潔癖でないと考えるなら考える方が誤りである。日本人は実に潔癖なのだから。
これは、少なくともその実生活においては、ということは本心では、日本人はみな同一の日本教徒であることを、実際に示している。「何やかやと言ったってさ、所詮同じ日本人(日本教徒)じゃないか」。その通り、所詮同一教徒であって、実は、何やかやというのはその言葉尻だけなのである。
【日本人とユダヤ人/日本教徒・ユダヤ教徒の章より引用】
私自身、何かの宗教に入信しているわけではなく、していることと言えば神社仏閣にお参りしたときには、お賽銭を投げ手を合わせる事ぐらいなので、典型的な日本人ではないかと思うのですけど、日本教徒だという自覚は全くないなぁ。
仮にベンダサン(山本七平)のいうとおり、この日本教というものがあるのだとしたら、「人間味」さえあれば何でも許される点は、他の一神教と違って実に居心地の良い宗教と言えるのではないでしょうか。
他の一神教のように厳しい戒律もないので、女性も肌を晒せるし
、豚や牛も食えるし、中絶すら黙認される。許されないのは「非人間的」行為のみ。
宗教だとしたら、人間本位のゆるゆる宗教ですよねぇ。
そういえば、
井沢元彦は、逆説の日本史シリーズにおいて、日本史を貫いている原理として、和を尊ぶ精神や
怨霊信仰、
言霊信仰、
ケガレ忌避信仰を挙げていますが、これも日本教の構成要素とかになっているような気がしますね。
なんだかまとまらなくなってしまいましたが、「
無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである」という指摘や、キリスト教が普及しない実情を鑑みると、ベンダサンの言うとおり「日本教」が存在するといえるのではないでしょうか。
ただ、我々が自覚しないだけなのかも…ネ。
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テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術