以前の記事「
日本軍の実態【その1】~無能な司令や参謀が続出した日本軍~」の続き。
今回は、日本軍において無能な司令や参謀が続出したわけですが、それを許してしまった背景にどのような思考様式ががあったのか、ということについて
岸田秀の記述を引用紹介して行きます。
(前回の続き)
■死を恐れぬ勇気
日本軍は、本気で、個々の兵士が死を恐れぬ勇気をもてば戦争に勝てると思い込んでいたようです。
僕に言わせれば、この思い込みが日米戦争における日本軍の最大の敗因です。
実際、日本軍では、兵士に死の恐怖を捨てさせることに訓練の重点がおかれていました。
『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」とかいう宣言がもてはやされ、「死ぬのが怖い」というのは軍人が決して口にしてはならないタブーでした。
「立派に死んでこい」というのが出征兵士を見送るときの励ましの言葉でした。
世界のどこに出征兵士に「死んでこい」と励ます国があるでしょうか。
軍歌の『日本陸軍』には「勝たずば生きて返らじと/誓ふ心の勇ましさ」、『戦友』には「どうせ命はないものよ/死んだら骨を頼むぞと/言ひ交したる二人仲」、『露営の歌』には「勝ってくるぞと勇ましく/誓って国を出たからは/手柄立てずに死なりょうか」、『空の勇士』には「明日は死ぬぞと決めた夜は/広野の風もなまぐさく/ぐっと睨んだ敵空に」という文句がありますが、とにかく、日本軍の兵士は死を覚悟しなければならないことになっていたようです。
死ぬ覚悟をしていない兵士は戦う気がないと見なされていたようです。
戦うことは死ぬことだとされていたようです。
どこか変だと思いませんか。
死んだらもう戦えないのですから、戦争遂行のためにも逆効果なのは明らかなのですが……。
人間である以上、「死を恐れぬ勇気」をもつのはそもそも無理なことで、各部隊の兵士がそのような無理を貫くことを前提とした作戦は、どうしてもどこかで支障が生じ、必然的に失敗せざるを得ません。
アメリカ軍に大打撃を与えるチャンスがあったレイテ沖海戦に日本海軍が失敗したのは、そのような無理な作戦だったからでした。
そのことはすでにほかのところで指摘したことかあるので繰り返しませんが、「死を恐れぬ勇気」があれば勝てるという思い込みが日本軍の最大の敗因であるというのは、そういうことなのです。
この思い込みがあったために、非現実的な作戦を立てることになったのです。
アメリカの西部開拓が進み、インディアンが追いつめられ、絶滅に瀕していた頃、インディアンの諸部族のあいだに、あるまじないをすれば、白人の銃弾に当たらない、当たっても死なないという迷信が流行りました。
その迷信を信じたインディアンの戦士たちは、そのまじないに守られて、勇敢に騎兵隊に突撃しました。
もちろん、簡単に撃ち殺されただけでした。
このような迷信に縋らざるを得なかったインディアンの戦士たちの追いつめられた心境を思うと、哀れで哀れで涙がにじんできますが、死を恐れぬ日本兵は無敵であるというのも、このインディアンの迷信と同じような迷信ではなかったかと思います。
「生きて虜囚の辱めを受けず」とかで、日本陸軍が兵士に捕虜になることを厳しく禁止したのも、この前述べたように、日露戦争で日本兵が簡単に捕虜になったので、またそうなるのを警戒してということもありましたが、要するに、死ぬまで戦えということでした。
実際問題として、武器弾薬が尽きて負けが決定的になれば、それ以上戦うのは無駄で、そこで死を選んでも何の役にも立ちません。
むしろ、敵にとって好都合です。
ただでさえ物資が不足がちな戦場で大量の捕虜を抱えれば、管理が大変で、何かで捕虜を死なせたりすると、道義的非難を浴びますし、虐殺すればやはりいくらかは罪悪感をもたざるを得ません。
捕虜をどう扱うかは、各国とも頭痛の種です。
ところが、太平洋の島々などを守っていた日本兵は、敗北が避けられないとなると、美しく玉と砕ける玉砕と称して、捕虜になる前にバンザイ突撃などをしてきて死んでくれるので、アメリカ軍は大助かりでした。
アメリカ軍は捕虜を取らないという方針のもとに日本軍の捕虜を多く虐殺したとのことですが(ジョン・W・ダワー『人種偏見』一九八七年)、玉砕兵士はアメリカ軍に大いにその手間すら省いてやったわけです。
捕虜になって殺されるより、玉砕したほうがましかもしれませんが、いくらアメリカ軍が相手でも、捕虜になれば命が助かる可能性もあったし、捕虜収容所から脱走して戦列に戻る可能性(捕虜になるとスキあらば脱走しようとしたアメリカ兵やイギリス兵やドイツ兵と違って、日本兵は脱走しようとはしなかったようですが)もあったのですから、玉砕することはありませんでした。
(次回へつづく)
【引用元:日本がアメリカを赦す日/屈辱感の抑圧のための二つの自己欺瞞/P45~】
「玉砕がアメリカ軍に好都合だった」という指摘には、どうにもやり切れない思いを感じてしまいますね。
なぜ日本兵の多くが「降伏」または「投降」という選択をしなかったのか。
その心理については推測の域を出ませんが、そこには上記のように
岸田秀が指摘した「背景」があったことは間違いないでしょう。
余談ですが、「降伏」と「投降」はまったく意味がちがうそうです。
山本七平は、「私の中の日本軍」の中で、グアムの竹林に潜伏していた
横井庄一(wiki参照)に触れながら次のように解説していますので、以下引用紹介しておきます。
(~前略)
今ではもうわからなくなっているであろうが、降伏と投降は別ものである。
降伏とはスターリングラードのパウルス元帥のように、司令官が自らの責任で敵と交渉し、戦闘中止を部下に命ずることで、この場合は部下はあくまでも命令で戦闘を中止するのであって、何の責任もない。
日本の降伏も基本的にはこれと同じで、陸海軍総司令官で大元帥である天皇が降伏を決意し、部下に降伏を命じたのだから、われわれは降伏したのであって、しなかったわけではない。
投降はこれとちがって、その大部分はいわば敵前逃亡であって、これは軍隊が存在する限り、世界いずれの国でも銃殺刑である。
ノルマンディ作戦のとき逃亡したアメリカ兵が、フランス娘にかくまわれて十数年屋根裏にひそんでいた話、そして発見されたとき、恩赦するかしないかが問題になったことを新聞で読んだが、横井さんが、もし自分の行動を敵前逃亡と考え、竹林をこのアメリカ兵の屋根裏と同様に見ていたら、内地へ送還されれば「軍法会議」と考えるのは、軍隊の常識であろう。
司令官が降伏を命ずれば部下には責任がないが、しかし司令官は軍法会議にかけられ、極刑は銃殺刑である。
日本陸軍の高級幹部は、すべてを部下に押しつけて、最後までこの責任を回避しつづけた。
横井さんの悲劇はここにある、と私は考えている。
(後略~)
【引用元:私の中の日本軍(上)/ジャングルという生き地獄/P147~】
上記の指摘を鑑みると、日本軍の”玉砕”の背景には、一種の「責任回避」という要因もあったのかも知れません。
次回は特攻隊について述べた箇所を紹介する予定です。
ではまた。
【追記】
降伏や投降しなかった理由には、世間体といったものもあったのかも知れません。
それに関して書かれた
山本七平の記述を、過去記事で紹介したのを思い出したので以下ご紹介します。
◆「世間」をバックに発言することの怖さ
(~前略)
しかし人びとが忘れたのか、覚えていても故意にロにしないのか私は知らないが、もう一つの恐ろしいものがあった。
それは世間といわれる対象であった。
軍が家族を追及することは絶対にない。
では、母一人・子一人の母子家庭、その母親でさえ、兵営に面会に来たときわが子に次のように言ったのはなぜか。
「お母さんがかわいそうだと思ったら、逃亡だけは絶対に、しておくれでないよ」――彼女が恐れたのは帝国陸軍ではなく、世間という名の民間人であった。
その「後ろ指」なるものは、軍より冷酷だった。――少なくとも、正面から指ささぬので「指した人間」が不明だという点で。
(後略~)
【引用元:一下級将校の見た帝国陸軍/組織と自殺/P228~】
【関連記事】
・日本軍の実態【その1】~無能な司令や参謀が続出した日本軍~・アントニーの詐術【その1】~日本軍に「命令」はあったのか?~・アントニーの詐術【その2】~日本軍の指揮官はどのようなタイプがあったか?~・「世間」をバックに発言することの怖さFC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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最近、右よりのブログ記事もチェックしているのですが、ちょっとそれは余りにも過大評価ではないか!という記事を見かけたので、何度かコメントしてみたところ、(全員というわけではなく一部ですが)取り巻きのコメンテイター達から罵倒された挙句、ブログ主よりあっさりとコメント禁止措置を食らってしまいました…orz
そのブログ「
ねずきちのひとりごと」の当該記事はこちら↓
・勝利の要諦は至誠と愛情と情熱・・・藤原岩市陸軍中佐
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-789.html・いくつかの主張http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-792.html上記記事のなかで、ブログ主のねずきち氏は
インパール作戦を評価しており、(心情的にはわからなくもないのですが)余りにも自己正当化・自己欺瞞に溢れている点が気になってコメントしたわけです。
コメ欄を荒らす気も毛頭なかったし、なるべく丁寧な受け答えを心掛けていたんですけどね。
それでも、取り巻きの一部コメンテイターらの反応は、異論を唱えることを許さないヒステリック気味な雰囲気で、何となく宗教じみていたのが印象的でした。
罵倒されるのは慣れているので、特に気にはしてなかったのですが、ブログ主からあっさりコメント禁止措置を下されたのにはちょっと意外でした。
たしかに、コメント欄が荒れるのは嫌なものですし、自分の主張を覆されるのは気分が悪いかもしれないのは、私自身もブログを運営しているのでよくわかるんですけどね。
しかし、取り巻きのコメンテイターに反論させておくだけで、ブログ主自らは全く反論もせず、いきなりのコメント禁止措置はいささか乱暴でビックリしました。
まぁ、そんなわけで、ねずきち氏のブログでは、反論することが出来なくなってしまったわけです。
それ自体は仕方がないのですが、ねずきち氏が私に対してコメント禁止措置を言い渡したときの言い分↓には全く納得できないので、この場でちょっと反論しておきます。
>あなた方と私の考えは違うようです。
>このブログは、歴史から謙虚に学ぶことを目的としています。
>歴史への批判や揶揄を目的とするものではありません。
歴史から”
謙虚に”学ぶ???
それが目的ならば、なぜ、自己正当化したり、日本軍を必要以上に美化するのでしょうか?
それは、
単なる自己欺瞞、若しくは、「自慰」行為と言うべきでは???
どうも、ねずきち氏の思考には、「自虐史観に侵された日本人を覚醒させるためには、自己正当化・美談化して歴史を歪曲するのも当たり前」といった考えがあるように思います。
これも、一種の「
(正しい)目的は、(不正な)手段を正当化する」という一例ですね。
残念ながら、
岸田秀が指摘するように「
(不正な)手段は、(正しい)目的を”腐らす”」だけなんですけどねぇ。
そのよい見本が、取り巻きの一部コメンテイターの”ヒステリックな”言動に表れています。
あれのどこが愛国なんでしょうか。
彼らの言動は、
山本七平の次の記述を何となく連想させるものがあるように思います。
……九月号の「諸君!」で、林健太郎教授が「王様より王党的」という言葉を引いて「北京より北京的」「林彪より文革派的」な日本人に言及しておられるが、私の青少年時代に、日本国中の至る所で無遠慮に横行していたのはまさに「軍人より軍人的な民間人」であった。
彼らは軍人より軍人的に振舞い、軍部より軍部的な主張をし、本職軍人などは足元にも及ばぬほどの神がかり的主戦論者で、言論機関を利用して堂々と対米開戦を主張する大物から、徴兵検査場でだれかれかまわず「トッツく」小物のおにいちゃんまで、社会の至る所に蟠踞し、強圧的な態度であたりを睥睨していた。……
……「王様より王党的」そのままの、あの軍部より軍部的で、軍人より軍人らしく振舞い、軍人以上に好戦的言辞を弄していたあの「軍系民間人」……。
【引用元:私の中の日本軍(上)/軍人より軍人的な民間人】
単なる自己正当化ばかりしていれば、上記のような人間ばかりになるような気がするんですが。
これのどこが、歴史から”謙虚に”学ぶことなんでしょうか。
まぁ、ねずきち氏への反論はこのくらいにして、ねずきち氏が賞賛した日本軍の実態が、どのようなものであったのかについて分析している記述を、
岸田秀著「日本がアメリカを赦す日」から、何回かに分けて引用紹介していきたいと思います。
(~前略)
しかし、幕府に取って代わった明治政府の指導者たちは、日本が屈辱的状態におかれていることを十二分に痛感しており、この状態からの脱出を最優先の政治目的にしていました。
不平等条約の改正と富国強兵を主眼にしたのは、そのためです。
二〇世紀の初め(一九一一年)、不平等条約はすべて廃棄されましたが、それは日本が軍事的に強くなってゆくことと軌を一にしていました。
日本は、屈辱的状態から脱するには軍事力を強化するしかないと、ますます固く信じるようになりました。
しかし、日本は天然資源の乏しい貧乏国で、産業的基盤もまだ弱く、欧米諸国に対抗する軍事力をもつのは無理でした。
屈辱感を解消するに足る軍事力と、現実の経済力・工業力でもつことができる軍事力とのあいだに大きな落差がありました。
この落差が、そののち日本軍、日本兵が辿らなければならなかった悲惨な運命の最大の原因です。
この落差を、個々の兵士にとてつもない無理を強いることによって埋めようとしたのです。
日本は、日露戦争に英米の助力で辛うじて勝ったのに、自力で勝ったつもりになったことについてはすでに述べました。
この自己欺瞞は、この落差を少なくとも主観的に埋めたつもりになるために必要だったのです。
あまりにも屈辱的な状態におかれていて、しかも、着実に確実にその状態を克服する現実的能力を欠いていた日本は、屈辱感、劣等感を補償するために、現実を無視してでも、優越感に飛びつき、誇大妄想に逃げ込んで舞い上がったのでした。
この前も言ったように、「死を恐れぬ勇敢な日本兵」という神話ができあがりました。
日本兵は強い、とくに敵味方が入り乱れて戦う白兵戦においては日本兵にかなう者はいない、敵兵は臆病で死ぬのが怖くてすぐ逃げるから、日本兵が決死の覚悟で突撃すれば必ず勝つ、ということになりました。
(僕の子供の頃、「サッサと逃げるはロシアの兵/死ぬまで尽すは日本の兵/五万の敵と戦ふで/六人残して皆殺し」という手毬歌があり、女の子たちはよくこの歌を歌いながら、毬をついていました)
これらの観念が現実の裏づけがあってできたとは思えません。
白兵戦で日本陸軍が勝った戦さがあったでしょうか。
旅順攻略戦でしょうか。
奉天会戦でしょうか。
そんなことは聞いていません。
戦争に勝つためには、兵士の戦意や勇気などの精神的要因だけでなく(近代戦ではその重要性はだんだんと減ってきていますが)、軍資金、武器、情報などの現実的要因が不可欠です。
戦略や補給などのことも無視できません。
日露戦争においては、勝利の現実的要因に関しては外国(英米)の援助に頼るところが大でした。
ここで、屈辱感から逃れるために、自力で勝ったと思いたかった日本は、現実的要因(外国のおかげで手に入れたもの)を軽視し、もっぱら精神的要因(自分で持つことができると考えたもの)を強調するようになりました。
このことがその後の日本軍の全体的戦略構想を決定づけました。
日米戦争は日露戦争の勝利から数えて三十六年目に始まりましたが、言ってみれば、日本は、日露戦争の勝因だと自分が思い込んでいたところの勝因と同じ勝因でアメリカに勝とうとしたのです。
いま述べたように、この勝因は、現実的要因を考慮の外においた空想的勝因でした。
空想的勝因によって現実の戦争に勝てるわけはありません。
空想的勝因によって日米戦争に勝とうとした日本は、どこそこで作戦を誤ったとか、敵の物量作戦に圧倒されたとか、不運が重なったとか、誰それが怠慢であったとかのことで負けたのではなく、初めから不可避的に負けるに決まっていました。
戦争中、日米の戦いは精神と物質の戦いだと言われていました。
高貴な精神が下賤な物質に負けるはずはないので、この戦争は日本が勝つに決まっているということでした。
このような考え方の背後に誤った日露戦争観があったわけで、何度も言いますが、日露戦争の勝因を正しく見なかったことが日米戦争の敗因でした。
個々のまずい作戦はそのような現実離れした全体的戦略構想の一環なのです。
ガダルカナル作戦の辻政信参謀、インパール作戦の牟田口廉也中将などは、後から見れば、実に馬鹿げた非現実的な作戦をやっており、そのため日本軍は無意味に莫大な損害を被りました。
これらの作戦の敗北の責任が彼らにあることは間違いないですが、彼ら個人を責めても始まりません。
彼らは、普通のまともな集団でなら、大法螺吹きの空威張り屋だと馬鹿にされて放り出されかねない、現実感覚を喪失した誇大妄想的人物でしたが、問題は、そのような人物がリーダーに選ばれ、権力をもち、その意見が通るようになる構造が日本軍にあったことです。
なぜ日本軍はそのような構造の集団になったかということです。
ガダルカナルやインパールの作戦のときの参謀や指揮官がたまたま不運にもとんでもない無能な人だったということではないのです。
(次回へ続く)
【引用元:日本がアメリカを赦す日/屈辱感の抑圧のための二つの自己欺瞞/P43~】
上記引用のように分析すること、若しくは、こうした分析から自らの欠点に気付くことこそ、歴史から”謙虚に”学ぶ、ということじゃないでしょうか。
私はそう思います。
次回もこの続きを紹介してきます。
ではまた。
【追記】
一応、ねずきち氏の記事にトラックバックしてみますが果たして通るかどうか。
”謙虚に学ぶ”といいながら、批判を全く受け付けない姿勢はいただけません。
せめて、トラックバックぐらいは受け付ける度量を見せることを、期待したいところです。
【追記の追記】
どうやら、トラックバックが通ったようです。
後は、削除されなければいいのですけれど。
【関連記事】
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前回の記事
「必見!【与謝野VS鳩山】/「平成の脱税王」・「鳩山原則」など名文句誕生!」に、一読者さんから非常に参考になるコメントを頂きました。
これだけのご意見を、コメント欄にうずもれさせておくのはもったいないと思い、記事への転載を申し出たところ、快く応じて下さり、修正・加工(強調や色付け)まで了解していただけました。ありがとうございます。
それでは、以下引用紹介させていただきます。
『平成の脱税王』というのは、確かに上手い表現ではあるのですが、現実を考えると笑うに笑えません。
平成19年度の日本全国の個人脱税総額が約70億円。
鳩山首相1人の脱税総額は、約7億円。
1年の個人脱税総額の10分の1に当たるほど巨額なものです(内1億円は時効成立)。
今後、追徴課税その他の処分があるとしても、これほどの犯罪を犯しそれを認めている(=修正申告に応じている)にも拘わらず、未だに「知らぬ存ぜぬ」を押し通し首相に居座る無神経さは、完全に倫理崩壊を起こしており、背筋が寒くなるほどですね。
最近は、ニュースを見たり読んだりしていても、問題の本質や事の重大さがよく分からなくなってくることが少なくありません。
それだけ、民主党の出鱈目さや甘いマスコミ報道に感覚が麻痺してきているのかもしれませんが、さすがにこの前の小沢不起訴後の民主党の馬鹿騒ぎには、少々違和感を感じて調べてみたので、本エントリーとは直接関係ありませんが、簡単にまとめてみたいと思います。
1月15日~16日、「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反(虚偽記入)容疑で、元秘書の石川知裕衆院議員ら3人の逮捕で始まった今回の騒動は、2月4日、特捜部が3人を同容疑で起訴、小沢氏については不起訴とすることで、一段落したようにも見えますが、果たしてどうなのか。
これをもって、検察 vs.小沢氏で、小沢氏の勝利などという論説もあるのですが、こうした見方は正しいのかという問題です。
もともと元秘書ら3人の逮捕は、2004年~2005年の水谷建設等のヤミ献金の公訴時効を睨んだ特捜部の従来の捜査の延長線上にあるもので、とくに驚く点はないということは、以前もコメントしましたが、この時点で特捜部が小沢氏の逮捕・起訴を考えていたかというと、個人的にはかなり疑問だと思っています。
現職の国会議員である石川容疑者の逮捕が過大に評価され、検察の暴走あるいは決意の現れと賛否も分かれる問題ですが、基本的には石川容疑者の精神状態を含む周辺事情による判断の結果に過ぎず、そのいずれでもないだろうというのが個人的な感想です。
(ほとんど知られていないことですが、ここ2・3年、検察の捜査に微妙に絡む形で小沢・鳩山・藤井といった民主党首脳周辺において、事務所の焼失や元秘書らの不審死または行方不明などが相次いでいましたから、検察がこれらを意識しなかったとは考えにくいことです。)
これ以後、おそらく検察にとっても予想外の事情から、2月4日、特捜部は「現時点では小沢氏は不起訴」という表明をせざるを得なくなるのですが、以下で時系列に従って要点だけを整理してみます。
1.市民団体「真実を求める会」小沢氏を共犯として告発へ2010年01月22日17時00分 / 提供:ZAKZAK(夕刊フジ)
http://news.livedoor.com/article/detail/4563766/
<民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入事件で、市民団体が21日、小沢氏と秘書らが政治資金規正法違反容疑(虚偽記載)にあたるとして、東京地検に告発状を提出した。>
↓
2.小沢氏、不起訴の公算 東京地検、現状では「立証困難」2010/02/03 00:17 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020201001047.html
<…東京地検特捜部は2日、政治資金規正法違反容疑で逮捕した元私設秘書の衆院議員石川知裕容疑者(36)らの『共犯として告発された小沢氏』について、『現状では立証が困難として不起訴』の方向で検討を始めたもよう…>
↓
3.司法ジャーナル 2010年02月03日号【ニュース特報】
【やっぱり】時事通信、「小沢氏、不起訴の方針=東京地検」と報道、本誌編集長のコメント
http://www.shihoujournal.co.jp/news/100203_5.html
<●本誌編集長のコメント
「市民団体の告発捜査だったのだから、告発事実から見て『不起訴処分』は妥当な判断だ、と思う。小沢氏は党大会における検察との対決宣言、秘書のミスなどという捉え方の間違いなど、名を捨てて、不起訴処分を得た格好、不起訴といっても、潔白が証明されたわけではないことは確かだ。」>
↓
4.小沢氏の不起訴「不服」 市民団体、検察審に申し立てへ
http://www.asahi.com/national/update/0204/TKY201002040495.html
<陸山会の土地取引事件で、小沢氏本人を政治資金規正法違反(虚偽記載など)の容疑で刑事告発していた市民団体は4日、朝日新聞の取材に対し、不起訴処分を不服として検察審査会に審査の申し立てをする方針を明らかにした。審査会が2度「起訴すべきだ」と議決すれば、小沢氏は強制的に起訴されることになる。>
…という流れになっているわけです。
これをまとめると、3容疑者の逮捕後、21日になって、突如市民団体から小沢氏を共犯とする告発状が提出され、検察はこれに答えざるを得なくなり、2月4日、3容疑者の起訴に伴って、小沢氏については「現状では立証が困難として不起訴」という表明になったということになります。
通常、政治資金規正法違反(虚偽記入)容疑で政治家の責任が問われる場合は、秘書らの選任・監督についての責任が問われます。
(この立証が困難なことがザル法と言われる所以です。ただ、政治的・道義的責任の取り方としては、加藤紘一氏の事例からも分かるように、秘書が起訴されれば議員辞職というのが先例でしょう。
この意味では、石川氏はもとより、小沢氏も完全に倫理破綻を起こしています。
もっとも、今さら小沢氏に倫理を問うことは無意味かもしれませんがw。)
これに対して、告発状では小沢氏を共犯とする旨が主張されています。
これは一体どういう立論によるものなのか?
告発状の中身を知りたいと思って色々調べてみましたが、結局分かりませんでした。
想像ですが、仮に「共謀共同正犯」の理論を援用したとすると、気持ちは分かるもののかなり無茶な主張ではないか、などと勝手に考えていました。
(共謀共同正犯とは判例上確立された理論で、典型例はヤクザの親分と鉄砲玉の関係であり、背後にいる首謀者を処罰するためのものです。
ただ、産経がしばしば指摘するように、小沢事務所はヤクザの事務所と変わらないとはいっても、さすがに政治家と秘書の関係に適用するには無理があるような気がします。)
ところで、今回「真実を求める会」なる市民団体を調べていて面白かったのは、検索に掛かるのは、ほとんどがこの市民団体を検察と通謀した右翼の謀略と主張する極左系のサイトか、保守派を装って反米を強調し、小沢を貶めることは親米保守ないしアメリカの陰謀と主張するもので、ともに徹底的な検察批判を行なっていたことです。
しかも、元ネタを遡っていくと、大体2つか3つのサイトに行き着いてしまうのですが、この状況は、安倍内閣当時、形骸してすでに消滅していた岸信介氏と勝共連合や統一教会との関係を持ち出して、盛んにネット上で安倍首相らを誹謗中傷していたものに酷似していました。
当時は、いくつかの保守系ブログや某巨大掲示板にも引用されて、ある程度影響力がありましたが、今回はほとんど拡散していないと思われるのは、安倍内閣当時の誹謗中傷が、実は中核派などの極左勢力の関係者が保守派に成り済まして行なったプロパガンダだったことが明らかにされた(サイト記載の住所にネットユーザーが直接訪問して確認)ことの学習効果かもしれませんね。
一知半解さんと異なり、左派系のサイトにはあまり詳しくないのですが、とくに保守系を装った小沢擁護発言には極左残党の香りを感じてしまうのは、私の偏見でしょうか。
おそらく「真実を求める会」という市民団体が、いくつかの保守系団体と関係があるのは確かでしょう。
ただ、その意図は、この機会に乗じて小沢氏を逮捕ないし起訴することで、外国人参政権などの闇法案を阻止したいという思いからのものであって、検察やアメリカの思惑とは関係がないように思います。
検察にとっても、この告発に応じる形で小沢氏の事情聴取が行なえた点をプラスと評価する人もいますが、検察もこれで小沢氏の容疑が固まるとは考えていなかったでしょうし、小沢氏の不起訴を表明せざるを得なくなったのですから、「痛し痒し」であったというのが正直なところかもしれません。
ただ、今回調べていて初めて知ったことですが、昨年5月の裁判員制度導入と同時に、検察審議会の構成や権限が修正され、裁判員制度と同じく一般国民から選抜された委員が2度「起訴すべきだ」と議決すれば、強制的に起訴(正式には「起訴議決制度」と言うそうです)できるようになっていた点で、たとえば、政治家の汚職についても、法律家ではない一般国民の手によって、告発から強制起訴までの手段(できないのは捜査だけ)が確立していたことについては、もう少し注目されてもよいと思います。
※検察審査会-「起訴議決制度」
http://www.courts.go.jp/kensin/
※告訴・告発
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%8A%E8%A8%B4%E3%83%BB%E5%91%8A%E7%99%BA
※検察審査会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E5%AF%9F%E5%AF%A9%E6%9F%BB%E4%BC%9A
なお、今回の小沢不起訴後の民主党の対応については、またもや小沢氏を切る機会を失い、政策どころか政局も読めず自浄能力もないことを改めて明らかにしてしまいました。
おそらく今回の不起訴の本当の意味と政局への影響を一番理解しているのが小沢氏本人であると思われる(だからこそ必死に権力にしがみつき保身に走っている)点は皮肉なことと言うしかありません。
最後に、ロッキード事件を手掛けた元特捜部検事の堀田力氏のインタビューを引用します。
検察の方針として、小沢氏(鳩山首相も含む)の逮捕・起訴があるとするなら、4月・5月の通常国会終了後、罪名も政治資金規正法違反ではなく、小沢氏の不正な資産形成に直接関わる脱税その他の犯罪になるのではないかという、私の根拠のない憶測を補強してくれる内容になっていると思ったのですが、どうでしょうw
「検察は再び小沢案件に着手する」
~小沢一郎・民主党幹事長不起訴について弁護士・堀田力氏に聞く
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10095/
<(前略 - 最後の部分から引用)
―これで、小沢案件はすべて終了ということか。
それは、違うだろう。
今回告発された事件については不起訴処分で終了、ということだ。
小沢氏が関わったさまざまな案件の中で、『今回の事件が突出して問題だと検察が思っているわけではない。』
今後、強制調査によって得た証拠あるいは証拠隠滅の痕跡などをたどって内偵、分析を新たに始めるだろう。
国民には不起訴処分などでは消えない小沢氏への疑念が残った。
これに応える責務が、検察にはある。
『証拠と時効という二つの壁をにらみながら、じっくりと時間をかけて調査を進めることになる。』
今回限りで終わらせたのでは、検察は責任を果たしていない。>
一読者さんのコメントを拝見しますと、まだまだ小沢幹事長の疑惑問題は続くだろうと予想できますね。
特に、政治資金規正法で立件ではなく、脱税とかそういう形での追及になるのではないか…という一読者さんのご指摘は的を得ているように思います。
それはさておき、今回一読者さんから教えていただきました元特捜部検事で、
ロッキード事件を担当した堀田力氏のインタビューから、いわゆる小沢擁護の「形式犯」論に対する、的確な反論部分をご紹介しておきます。
「形式犯」に過ぎない論を展開している人たちは一体これにどう答えるのでしょうか。興味深いところです。
(~前略)
―今回の検察の捜査には、さまざまに批判がある。
例えば、政治資金規正法違反は形式犯に過ぎない。
仮に不透明なカネを受け取ったとしても、贈収賄となるような権限行使の可能性は低い。
そもそも職務権限がない。
それにもかかわらずに、形式犯の可能性だけでここまで追い詰めるのはやりすぎだ、という批判だ。
それは、詭弁だ。
確かに政治資金規正法違反は、刑法のそれと違って形式犯だ。
だが、交通事故に対して業務上過失致死傷が成立するとして、他方では道路交通法違反も成立する。
これは、形式犯だ。
これの適用がやりすぎだとは、誰も批判しないだろう。
ひき逃げ、酒酔い運転摘発に、道交法違反は有効だ。
法律上は実質犯と形式犯に分かれているが、形式犯でも幅がある。
今回の不記載による政治資金規正法違反は禁錮5年以内の罰則で、罪が重い。
なぜか。
それは、隠さざるを得ないカネは後ろ暗いカネだからだ。
そもそも、人からおカネを貰うということは、相手が親であろうが他人あろうが法人であろうが、尋常な行為ではない。
だから、それをすべて明らかにし、それが妥当なものかどうか国民に判断し、投票にゆだねるということが法の趣旨だ。
贈収賄事件を立件できる可能性は、20件に1件程度だろう。
贈賄側と収賄側が結託するのだから、それを解明するのは至難の業だ。
贈収賄の立件ばかりに頼っていたのでは、いつまでたっても政治とカネの問題はきれいにならない。
だから、ザル法と言われた政治資金規正法の改正を進め、カネの出所を明らかにし、贈収賄を未然に防ぐ堤防の役割を託したのだ。
したがって、不記載の事実、国民がそれを知ったら決してその政治家には投票しないであろうカネの流れを明らかにするのが、検察の役目だ。
繰り返すが、隠したくなるような類の政治資金を授受するのはやめてくれ、というのが政治資金規正法の趣旨だ。
政治資金の透明化を図る決め手の法律なのだ。
それを形式犯に過ぎないと批判するのは、筋違いで詭弁だ。
(後略~)
【引用元:「検察は再び小沢案件に着手する」~小沢一郎・民主党幹事長不起訴について弁護士・堀田力氏に聞く】
結局のところ、「形式犯」論を主張している人たちというのは、政治資金規正法の立法主旨を正しく理解できていないのではないでしょうか。
若しくは、自民党憎しのあまり、目が眩んでいるとしか思えません。
その挙句、結果的に、最も「自民党的体質を体現」している小沢幹事長を擁護する羽目になっているのですから、いささか”皮肉な”結果ではないでしょうか。
立法主旨を踏みにじっている小沢幹事長による「検察の横暴」という”居直り的”主張にコロッと騙されているようでは、政治とカネの問題は、「百年河清を待つ」ようなものでしょう。
困ったものです
【関連記事】
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以前の記事「
聖トマスの不信【その4】なぜ日本社会では「責任の所在」が曖昧なのか?」の続き。
今回が、「聖トマスの不信」シリーズの最終回です。
(前回の続き)
あらゆる面から研究してイタイイタイ病の原因はカドミウムではないのではないか、と学者がいうと「国をあげて公害と戦っているのに何たることをいう。そんなヤツは資本家の手先ダーッ」ということになる。
あらゆる資料を検討すると「百人斬りは事実でないのではないか」というと「日中友好に邁進しているのに何たることをいう、そんなやつは、右翼と軍国主義者の手先ダーッ」ということになる。
いつもそういうことになる。
そして、たとえ誤った公害判決が出ても、無実の人間が処刑されても、これまた常に責任者という者がいない。
確かにいないであろう。
だれ一人、命令権も指揮権もないから。
そしてこれは常に、大は大なり、小は小なり、社会のあらゆる面で見られることであり、この論法で平和論をやると、まさに「軍隊語で語る平和論」になってくる。
一体なぜそうなるか。
理由はいろいろとあると思う。
しかしその中で最も大きなものの一つは、「トマスの不信」を表明することは、絶対にだれもおかすことのできない人間の基本的権利の一つだ、ということが認められないところにあるのではないだろうか。
そして最も重要なことは、「トマスの不信」を表明することは、絶対にその人の思想・主義・信条と関係ないということである。
たとえ彼が「自分の指をその釘あと(の穴)にさし入れ」ない限り云々……と言ったところで、彼は非難さるべき異端者でなく、聖トマスである。
道三と光秀は徳川時代にない名前だそうだが、同じ例を西欧にとるなら、ユダヤ教徒に絶対ない名前はカイン、キリスト教徒に絶対ない名はユダだといわれる。
トマスはそういう扱いをうけていないだけでなく、むしろ逆によき名とされる。
これはまた聞きの話なので、真偽のほどは知らぬが、エジソンの名のトマスは、その母が「トマスの如く徹底的に実証的な人間であれ」と願ってつけたのだそうである。
これは、エジソンの技師長で「世界で最初に電灯のスイッチをひねった」アプトンの娘さん、宣教師としてほぼ全生涯を日本で送ったアプトン女史が語ったことだそうである。
日本でも、トマスは聖トマスで、尊敬すべき名とされうるだろうが、戦争中、天皇に対して同じようなことをいったら、聖人にしてくれたろうか。
言うだけヤボとは、このことだろう。
もちろん、西欧でもアメリカでも、すべては理屈通りにはいっていまい。
「……は悪魔の手先……」といったポスターを毎晩はりに来る人間もいるのだから。
だが、これは、夜のひそかな行為であろう。
日本ではどうもこれが逆で、このポスターが公然と横行し、「トマスの不信」は、ひそひそと語られているのではないであろうか。
新聞には「”イタイイタイ病はほんとうにカドミウム中毒なのか”去年四月、日本衛生学会総会で提起され、はげしい論議を呼び起した問題が一年後の今月六、七日、札幌市で開かれた同総会で再燃した……そればかりか一時は『ごく一部の少数派』とみられていた懐疑派が次第に数をまして、今では決して少数派とはいえなくなった……」と記されている。
しかし親しい学者の話では、この少数意見と見えるものが、実は、潜在的多数意見であって、それが顕在化しただけだそうである。
もし事実なら、ポスターが横行して「トマスの不信」が秘かに語られたということかもしれない――せめて、この関係を逆転さすことができないのだろうか。
「トマスの不信」を表明する権利は、人間の基本的な権利である。
たとえトマスがその不信を表明したところで、それは異端でも、反逆でもなく、また非難さるべきことでもなく、彼はあくまでも聖トマスである。
国によっては「トマスの不信を表明する権利を守る」ことが、基本的人権を守ることであり、それが新聞の最も重要な任務の一つとされているそうだが、不信を表明するとすぐに新聞記者の名で脅迫状が来る国では、それは望むべくもないことかもしれぬ。
では一体どうすればよいのか、真剣に考うべきことであろう。
と同時に、「トマスの不信」が当然と考えられる国々では、その不信がいかに強烈に表明され、いわば「釘あとに指を入れる」といった徹底さと執拗さでその対象が究明されたからといって、それはその国の政治体制がガタガタになったということではない。
戦前の軍部も今の新聞も、どうもこのことが理解できないらしい。
このことはウォーターゲート事件の報道で強く感じられる。
これは非常に危険なことと思われるので、くどいようだが、最後にもう一度、この点を寓話的にくりかえしておこう。
戦争中、もし「天皇の手にさわって徹底的に調べて、なるほどこれは現人神だと納得しない限り、そんなことは信じない」といえば許すべからざる国賊・非国民であった。
だが、国賊・非国民だという人自身がそれを信じていなかった。
増原式(註)の二重の虚偽である。
(註)…拙記事『聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽』参照のこと。
そしてこの状態は対象は変っても、今も同じと思われる。
一方トマスは「釘あとに指を入れ」云々といっても、そう思うならそう表明することは当然のこととされ、だれからも非難さえされず、あくまでも誠実な十二弟子の一人で、今に至るまで聖トマスである。
そしてこの状態もまた対象は変っても、今も同じように思われる。
「トマスの不信」を表明する権利は、絶対にだれもおかすことは出来ない、そして、おかすことが出来ないが故に、一方、プライヴァシーの権利も絶対に保護される。
そしてこの関係もまた日本では逆転していて、プライヴァシーは平然と侵害しておきながら、「トマスの不信」を表明すれば、あらゆる手段でこれを黙らせようとしているように見えるのである。
この関係も、逆転できないのであろうか。
(この章終了)
【引用元:ある異常体験者の偏見/聖トマスの不信/P148~】
なぜ、自らも信じてもいない「虚構」が絶対化され、それに対して「王様は裸なのではないか?」的疑問を呈することが、日本において、公の場ではばかられるのでしょうか?
私なりに、その理由を考えて見ますと、
1.集団主義であること。
2.形や礼を重視する国民性
3.話し合いに基づく「和」絶対という”規範”に縛られていること。
あたりが原因なのかなぁ…。
(う~ん、なかなか上手く表現できません)
ただ、今現在はネットと言うホンネを語れるツールが普及しているから、昔ならヒソヒソ語られるホンネが、広まり易くなっているのは間違いないでしょう。
そういう意味では、「聖トマスの不信」を語りやすい環境が整って来つつあるように思います。
ネットは匿名の世界なので、プライバシーの権利が自動的に保護され、ホンネを語る自由が保証されていますしね。
だから、プライバシーを侵害しながら、相手を黙らせるという従来の手段が通用しにくいのではないでしょうか。
ネットの匿名性を攻撃する人たちというのは、この「聖トマスの不信」を語られるのが嫌なんだろうな…なんてふと思う次第。
ただ、そういう環境が無くても、「聖トマスの不信」を表明する権利はおかすことが出来ないようにはならないものでしょうか?
仮にネットから匿名性が奪われたりしたら、元の木阿弥になるような気がしなくもない…かな?
相変わらずまとまりの無い文章で済みませんが、今日はこの辺で。
ではまた。
【関連記事】
・聖トマスの不信【その1】「事実論」と「議論」の違い・聖トマスの不信【その2】なぜ日本では、聖トマスが存在しないのか?・聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽・聖トマスの不信【その4】なぜ日本社会では「責任の所在」が曖昧なのか?FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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以前の記事『
聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽』の続き。
今回ご紹介する部分はちょっと長めです。
当時の国立衛生試験所食品部長が発表した
PCBの毒性に関する論文が、世間の常識と違っていたために当時の国会で問題視されたことを例に挙げて、二重の虚偽が軍人的断言法と結びつき、どのような結果をもたらすかについて解説していきます。
(前回のつづき)
事実を事実でないと嘘を言えという。
次に嘘を言いましたという第二の嘘をついて、第一の嘘の責任をとってやめろという、そしてやめると与野党も新聞も、これで事件が落着したという。
しかし、これは本質的には今回の事件は事件の終りでなく、ここが事件のはじまりであろう。
そこで私は『百人斬り競争』の扱い方でも今回のこの扱い方でも、みなが終ったとしたところを出発点にしたい。
そしてこの人びとが「終った」とするところを出発点とすると、これらと非常によく似たことが常に行われているように見える。
たとえば次のような記事がある。
「『PCB危険でない』国立衛試の部長が論文発表――国会で追及、厚相平謝り――国民の健康を守るための研究、検査を担当している国立衛生試験所の部長がポリ塩化ビフェニール(PCB)の食品汚染について危険性を否定するような論文を発表していることが、九日の衆院予算委員会でとりあげられた。
答弁に立った斎藤厚相は『まことに不謹慎。わたくし自身も憤慨している。申し訳ない』とひらあやまり。
野党席からは『あやまるだけではすまない、責任をとれ』と激しいヤジが飛んだ。
論文を書いたのは田辺弘也国立衛生試験所食品部長。
委員会では、細谷治嘉氏(社会)が一月二十二日付週刊新聞『月曜評論』に載った田辺部長の『PCB汚染食品の安全性』という論文を中心に質問を展開した」
以下の記事のつづく部分は同氏の論文の内容だが、新聞記事を読んても私などにはさっぱり要領を得ないので、『月曜評論』を取りよせて田辺弘也氏の論文を見てみた。
まず最初に感じたことは、論文の表題は『PCB汚染食品の安全性』であって、内容のどこを見ても氏は「PCB危険でない」とは一言もいっていないことである。
一体、なぜこういう表題をつけたのだろう。
またどうしてこの論文が問題になるのであろう。
斎藤厚相は何を憤慨しているのか、なぜ申訳ないのか、なぜ「あやまるだけではすまない、責任をとれ」なのか、私にはさっぱり理解できない。
田辺氏が、ここでのべているのは国産PCBに聞する「国立衛生試験所毒性部」の実験成果の中間的報告で、「完全な慢性毒性の成果を得るには三年の日時が必要」で「最終結論は未だ得られていない」とまず書いてある。
ただ「幸い米国で、PCBの慢性毒性及び次世代に及ぼす影響に間するかなり詳細な動物実験結果が最近発表され」たので、今までの日本の研究を手がかりに「米国の実験結果を検討」したのが、この論文である、と。
ここには、ある一定の条件の下に行われた「自国と他国の実験の成果」という一つの事実と、DDTの資料を基にした推定か書かれているにすぎない。
しかしその「実験の成果」は、今のマスコミの論評や社会の通念とは非常に違う。
しかし、マスコミの論評や社会の通念と違うからといって、それに適合するように「事実」を曲げて発表したら、それこそ非難されて然るべきことであり、学者とは思えぬ「曲学阿世」と言わねばなるまい。
この場合、その結果が――もちろんこれは最終的結論ではないが――たとえ、PCBは無害と出ようと、PCBは今の通念の百倍も有害と出ようと、実験の現段階の成果という「事実」は「事実」であって、その「事実」を「事実」のまま発表するのが当然であって、それをしてはならない、という理由は全くない。
しかし、「最終結論は未だ得られていない」ので「PCBの如く、慢性毒性に関する知見の乏しい物質では危険なことが起らないとも限らないという心配も当然に起ってくる」。
だがそれは「最終結論」が出るまてはだれにもわからないのだから、一応、「化学構造の似ている点からDDTを初めとする有機塩素系殺虫剤」の人体に及ばす影響、これはすでに多くのデータが出ているから、これを基にして類推してみる、と。
確かに、新しい問題が起きたときは、それの実態はだれにもわからないのだから、一応、類似したものの過去のデータから類推する以外に、方法がないはずである。
これによるとPCBの「人体脂訪中の蓄積量は、一定濃度で止まるに違いないと考えられ、マスコミで報道されている如く、無限に加算蓄積されて行くとは科学的に信じ難い」と。
私は化学者でないから、氏の論文のうちの化学的専門的なことはわからない。
わからないから私には何もいう資格はない。
しかし、一つの成果が出たなら、その成果は率直に発表すべきで、発表してこそはじめて、学問上に誤りがあれば他の学者がこれを指摘できるのだから、発表しないで隠すことが最も悪いと思う。
この論文に誤りがあるなら、それは発表してこそはじめてわかる。
発表しなければわからない。
となると国立衛生試験所食品部長が誤った考え方をしていてもだれにもわからないということになる。
それが最も危険なことだから、マスコミの論評や世の通念と違うなら、違えば違うほど発表すべきである。
したがって発表は当然のことだと思う。
では一体全体、細谷氏は何を憤慨しているのか、また、斎藤厚相は、何を「不謹慎」と考え、「わたくし自身」も何を「憤慨し」、一体全体何か「申訳ない」のか。
田辺弘也氏はさらに「このように規制値以下ならば、PCBの検出された食品でも、心配のないことは明らかなわけであるが」しかし「β-BHC等、他の有機塩素剤との、互に毒性を強め合ういわゆる相乗作用の有無やその程度」という問題があり、それについての研究も進められている、と書かれている。
相乗作用などということは、私のような素人には全く注意が向かないことで、PCB、PCBといわれると何となく他のことは念頭になくなってしまうので「なるほど、そういう研究も必要なわけだな。するとPCBの規制だけてなく、それと関連してDDTの各人の自主規制といったことも念頭におく必要もあるわけかな」と認識を新たにする面もあった。
私は田辺氏が「科学的な事実にもとづいた論文で、内容に間違いはない。いま論文を打消したり否定することはできない」と新聞に発表されたのは当然だと思う。
すると斎藤厚相が最後に「『……不謹慎のきわみで誠に申訳ない。十分に注意する』と述べ、かろうじて責任問題についての明言を避けた」というのは一体全体どういうことなのであろうか。
何と注意したのか、うかがいたいものである。
「そういうものは発表してはならん」と注意したのであろうか、それはこまる。
そんな注意をされては、もしかりに食品部長が誤った考え方をしていても、だれにもそれがわからなくなる。
では、マスコミの論評や世の通念に適合するよう論文の内容を曲げろといったのか、それはもっとこまる。
では「あったこと」を「なかったこと」にする与野党共同「二重の虚偽の増原方式(註1)」ですべてをおさめろというのか、それが一番こまる。
(註1)…拙記事『聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽』参照のこと。
そうされることが、一番危険なはずである。
「事実論」は思想・信条・是非・善悪に関係がない。
一つの実験成果と資料とから、中間段階で一つの判断を下した際、その判断自体に「停止」を命じたところで意味がない。
というのは「停止」を命じてもその判断の基礎になった「事実」がなくなってしまうわけではないからである。
また「なかったこと」を「あったこと」にしても事実が生れるわけでなく、「あったこと」を「なかったこと」にしても事実が消えるわけでもない。
従って、田辺食品部長が、前記のような資料とそれに基づく判断を、何らかの理由で、逆に、故意に隠していたのなら、これは徹底的に追及さるべきだし、その際こそ厚相は「不謹慎のきわみで誠に申訳ない。十分に注意する」というべきであり、これは増原長官の場合も同じはずである。
以上、大分前置きが長くなったが、私がこの「PCB危険でない」という記事に興味をもったのは、実はPCBそのものに対してでなく、これこそまさに典型的な「軍人的断言法(註2)」の一例だったからである。
(註2)…判断を規制していって命令同様の一種の強制力を発揮する言い方。拙記事「アントニーの詐術【その1】~日本軍に「命令」はあったのか?~」参照のこと。
細谷議員は、だれかれかまわずトッツキ・カミツク参謀、俗にいうトッツキ参謀に似ており、斎藤厚相は、本心では地位と昇進と無難と無風状態しか念頭にない腰抜部隊長、そして田辺部長はさしずめ、資料その他を握っている部付というところであろう。
参謀に指揮権がない如く、国会議員も行政上の指揮権はない。
従ってこの場合、もちろん、田辺部長に命令が下せるのは斎藤厚相だけであり、細谷議員は、斎藤厚相に対しても田辺部長に対しても命令権があるわけではない。
しかし、もし、上記の問題で、実質的には細谷議員の指示をうけた斎藤厚相が、田辺部長に「十分に注意」して、その資料への彼の判断に対して、学問的に何らの理由も根拠もなしに、それを停止させれば、そしてあらゆる判断を次から次へと停止させて、一つの判断しか残らないように規制していけば、結局は細谷議員による一種の「命令」になってくるのである。
しかし、その結果何か重要な誤りが生じても、細谷議員には「命令権」はないから一切責任はない、ということになる。
資料を検討し、その結果一つの中間的結論が出てくる。
出てきたらそれはそのまま提示しなければならない。
一切、何も顧慮してはならない。
あらゆる資料を検討したら「日本は必ず戦争に負ける」という結論が出たのなら、それはそのまま発表しなければならない。
あらゆる方面から研究して、イタイイタイ病の原因はカドミウムでなく、従って三井金属は関係がないという結論が出たら、それはそのまま発表しなければならない。
あらゆる資料を調べて『百人斬り競争』という事実はないという結論が出たら、それはそのまま発表しなければならない。
たとえすでに「宣戦布告」がなされていようと裁判所の判決が下っていようと、処刑がすんでいようと、それは隠してはならないし、その発表を妨害してはならない。
こういうことは、きまりきったことのはずである。
だが、いつもそういかない。
資料に基づき検討すると「日本は必ず負ける」という結論が出る。
だが、発表したらどうなっていたか。
いや、それをほんのすこしほのめかしただけで、軍部のお先棒かつぎの議員が「戦線で兵士がお国のために死を賭して戦っているのに、ナニゴトダーッ」という。
すると担当大臣は「政府も国民も総力をあげて戦っているときに、こういうことを発表するとはまことに不謹慎、私自身も憤慨している。厳重に注意する……」というと議員席から「責任をトレーッ」というヤジがとび、同時に「そんなことを発表するやつは非国民の敗戦主義者だ」ということになる。
そして戦争が終ればみんな知らんぷり
「おれの責任じゃないよ、第一指揮権はないしね」
あらゆる面から研究してイタイイタイ病の原因はカドミウムではないのではないか、と学者がいうと「国をあげて公害と戦っているのに何たることをいう。そんなヤツは資本家の手先ダーッ」ということになる。
あらゆる資料を検討すると「百人斬りは事実でないのではないか」というと「日中友好に邁進しているのに何たることをいう、そんなやつは、右翼と軍国主義者の手先ダーッ」ということになる。
いつもそういうことになる。
そして、たとえ誤った公害判決が出ても、無実の人間が処刑されても、これまた常に責任者という者がいない。
確かにいないであろう。
だれ一人、命令権も指揮権もないから。
そしてこれは常に、大は大なり、小は小なり、社会のあらゆる面で見られることであり、この論法で平和論をやると、まさに「軍隊語で語る平和論」になってくる。
(次回へ続く)
【引用元:ある異常体験者の偏見/聖トマスの不信/P142~】
昔から、日本の社会って「責任の所在」が曖昧なのではないか…と常々思っていたのですが、
山本七平はそれがなぜ起こるのかを実に見事に解き明かしてくれていると思います。
名目上の責任者と、実質の責任者とが別れているのは往々にしてあることですが、日本の場合はその傾向が特に強いように思います。
それはやはり、話し合いに基づく「和」絶対という”規範”に縛られ、「聖トマスの不信」を表明することが憚られること、そして話し合いの結果、(誰かが命令を下して結論を出したという形ではなく)自然と結論が出たという「形」に拘るために、責任の所在が曖昧になってしまうのではないでしょうか。
そうした傾向に二重の虚偽や軍人的断言法が加わったことが、戦前の日本を誤らせたわけですが、
山本七平が指摘するように戦後も大なり小なり同じような構図が繰り返されているわけですね。
それを避けるには、「聖トマスの不信」を犯してはならないという原則を大切にすることが重要になってくるのでしょう。
次回はその重要性について述べられた部分を紹介していきたいと思います。ではまた。
【関連記事】
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今日は、最近話題となっている大相撲のことについてつらつらと考えていきましょうか。
まず、
朝青龍の引退の件。
これは、まあやむを得ないだろうな…とは思った。
そもそも、日本人の相撲取りなら、もう既にニ・三度は引退に追い込まれていたくらい不祥事を過去にも起こしていたのだ。
しかしながら、今まで処分されずにきてしまった。
結局のところ、甘やかされていたといえる。
なぜ、甘やかされていたのか?
やっぱりその理由は、外国人力士だったということがあるのではないか。
外国人だから大相撲のしきたりもわからないだろうし、身内(日本人)じゃないから、言っても仕方ない…という意識が背景にあったのだろう。
次に、
大相撲協会の理事選挙の件。
TV報道を見て知ったのだが、今までの理事選挙が、事実上、誰に投票したか明白な公開投票だったことには、ビックリ。まるで旧ソ連の選挙のようである。
さすがに今回の理事選では、世間の注目を浴びた所為か、きちんと秘密投票の形態を整えていたが、おかげで裏切り者が誰かという犯人探し、そして、
安治川親方の引退騒動が起こってしまった。
こういう
大相撲協会の動きをみていると、やはり改革が必要なのではないだろうか。
そこで、改革すべきポイントは何なのか考えてみたい。
一番重要なのは、今まで慣習となっていた「しきたり」「不文律」を、はっきりと明文化することが必要ではないか。
特にこれだけ外国人力士が増えている現状では、過去のように日本人同士の通念というものが通用しない世界になっているのだから、外国人力士でも理解できるように、日本人力士が当然の如く従っている「行動規範」を明文化すべきだろう。
要は、品格、品格と言っているだけでは、通用しないんだな。
どういう行為が、品格があると言うことなのか、具体的に列挙してわからせるしかないんじゃなかろうか。
そのための「行動規範の明文化」なんですね。
そして、外国人力士を雇う際には、その「行動規範」に従うと宣誓させるなり、契約を結ぶこととする。
外国人力士を従わせるには、彼らの「契約」という概念に頼るしかないだろう。
何をすべきか、何をしてはならないのか。
そのことをはっきり明示した上で、それに従うことを承諾しないと力士としない、という風にしないと、また、
朝青龍のような事例が起こってしまうだろうし、厳しい処分が取れなくなってしまう。
明文化という対処を取りもしないで、どうせ身内ではない外国人力士にはわからないだろうから…という”思い込み”が、この問題の背後にあるような気がしてならない。
それが、外国人力士に対する「甘やかし」という状態を生み、今回の事態を招いたのではないだろうか。
これは、「身内」と「よそ者」という差別の一形態かもしれない。
差別はよくないが、そうした差別を潜在化させたままにするのではなく、その差別をはっきりと意識し、それに対応する「行動規範の明文化」という措置を講ずる必要があるんじゃなかろうか。
外国人力士を排除するならそうした措置は必要ないだろうけれど、これだけ国際化が進んだ以上、そうした手当てを講じない限り、今後も同じような問題に悩まされてしまうのではないかな。
余禄として、行動規範を明文化していく作業をすれば、今まで従ってきたしきたりが合理的な理由に基づくのか、単なる因習に基づくのかはっきり意識でき、取捨選択をすることができるようにもなるだろう。
これは何も、日本相撲協会だけに言えることではなく、否応無く国際化を迫られている日本人全体に言えることなのですがね。
今回の一連の騒動を見ていると、そうした問題が縮図として表れているような気がするんですよ。
なんだか、上手くまとまりませんでしたけどこの辺で。
駄文を考えるのにも、疲れますね。ふぅ~。
今日はこの辺でオシマイ。ではまた。
【追記】
記事を挙げたところ、次のようなコメント↓を頂いた。以下、一部抜粋して引用する。
あなたは知っていますか??
大鵬、柏戸両横綱が拳銃密輸で書類送検されている事を。。
他にも過去の横綱は朝青龍の比にならないくらいの規模のスキャンダルをしていますが。。。 あいにくそうした事例は知らなかったのですが、そうした事例があったことを考えると、
朝青龍の事例は厳しすぎると言えなくもない。
これでは、外国人だから差別したのだ…という見方も否定できなくなってしまう。
今後は、どのような不祥事を起こしたかによって、処分を一律に下せるよう、相撲協会は基準を明確化・明文化する必要があるでしょうね。
そうしないと、やはり差別という指摘から逃れられないのではないだろうか。
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