以下ご紹介する
岸田秀の記述を、現在の菅内閣のていたらくを連想しながら読んでみてください。
こういう分析を読むと、日本的組織とは平時には有効だけれど、有事になればなるほど弊害が露わになってしまうのは宿命なのか…と思ってしまいます。
「下士官は優秀だが上司・リーダーが無能であった」という日本軍の問題は、ただ単に過去の問題ではなく今現在の問題であり、また、その問題の原因は個人にあるのではなく、組織そのものが含有する問題であると言えるでしょう。
(~前略)
日本的集団では、リーダーは下の者たちに推されてリーダーになるんで、下の者たちの自発的な支持と協力に支えられています。
だから、一方的に強制的な命令を下したりしない。
みんなの意見をよく聞く。
上下、心を一にしてというのが理想です。
しかし、近代的軍隊ではそうはゆかない。
上官は命令権を持ち、部下は服従しなければならない。
ヨーロッパでは昔から集団というものはそういうものだったから、そのままその組織原理で近代的軍隊をつくることに無理がなかった。
集団においていちばん問題になるのは、無能なリーダーをどのようにして排除するかということです。
日本的集団では、無能なリーダーぱ下の者たちの人望を失い、その支持と協力が得られなくなって、おのずと排除されるという形をとる。
ヨーロッパ的集団では、業績の評価に基づいて排除される。
日本には業績の評価に基づいて無能な者を排除するという伝統がもともとない。
無能だということで首になった大学教授は一人もいないし、日清日露以来、太平洋戦争に至るまで、日本軍の将軍で作戦指導のまずさをはっきりと糾弾され、何らかの不名誉な処遇をされた者は一人もいない。
乃木将軍なんか、あちらだったら、軍法会議ものです。
それが日本では神社に祀られる。
伝統というものは、たやすく変えられるものではありませんから、これはある意味では仕方がなかったかもしれません。
しかし、軍隊では部下が上官を忌避することはできませんから、ここに悲劇が起こったのです。
つまり、日本軍では、部下が上官の命令に服従するというヨーロッパ的組織原理を取り入れて、無能なリーダーを排除する日本的方法を塞ぎながら、業績の評価によって無能なリーダーを排除するヨーロッパ的方法は取り入れられなかったわけです。
日本軍においては、だから、無能な司令官や参謀が続出したのは必然的だったわけです。
インパール作戦の牟田口中将(wiki参照)なんかは、どなり散らすしか能がなく、無能で卑劣な将軍の最たる者でしたが、ああいう男が排除されず、ビルマ第十五軍の司令官として強大な権力を持ち、八万の日本軍兵士をムダ死にさせる結果になったところに、日本軍の構造的欠陥がはっきりと現われています。
日本的集団は軍隊向きじゃないんです。
もし牟田口が店員を五、六人使っている個人商店の跡取り息子で、親父が死んで牟田口商店を継いだとすれば、店員たちに馬鹿にされ、嫌われ、逃げ出されて、店はつぶれたでしょう。
あるいは、彼に妹がいたなら、その妹が有能な店員と結婚して、牟田口商店をやってゆくということになったでしょう。
商売の世界なら当然脱落する彼のような男を排除するシステムが日本軍にはなかったということです。
【引用元:日本人と日本病について/組織と共同体/P158~】
タテマエではヨーロッパ的組織原理に従いながら、現実には日本的行動原理に従って行動する。
その矛盾が有事になればなるほど露呈するような気がします。
この矛盾を克服し、整合性をはかるような日本独自の組織論を構築していかない限り、第ニ、第三の
菅直人・
牟田口廉也が今後も続出することは避けられないのではないでしょうか。
単に個人を批難して済む問題ではないと思うのです。
(だからといって、
菅直人を批難するなといっているわけではないのでその点誤解しないで下さいね。)
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福島第1原発事故に端を発して、
脱原発を前提とした場合のエネルギー問題をどう解決していくか侃々諤々の議論が起こっていますが、その議論を眺めていると大体二つのアプローチに集約されるのではないでしょうか。
一つは、「太陽光や風力といった自然エネルギーで代替する」というアプローチ。
もう一つは、「贅沢な暮らしを見直し、自然に寄り添った昔の生活様式へと移行しよう」というアプローチ。
しかしながら、前者は「
数合わせさえ合っていればその内容や質は一切問わない」という”員数主義”的なものばかり、また、原子力発電の欠点を言い立てるばかりで、「電力の質」「安定供給の大切さ」「エネルギー依存の問題」等々を全くケアしていない言説がまかり通っているのが現状でしょう。
一方、後者の「昔・自然に還ろう」的なアプローチも、根強いものがあるような気がしています。
そこで今日は、このアプローチについて、
山本七平の著書「ある異常体験者の偏見」の一節を紹介引用しながら考えていきたいと思います。
まず「昔・自然に還ろう」的なアプローチの問題に入る前に、前段として「認識論」に関する記述から入っていきます。
では引用開始。
■鉄格子と自動小銃
言うまでもないことだが、客観的な事実とそれに対する各人の判断は、全く別である。
「事実とは何か」
「それは私の判断である」といいうるのは厳密にいえば幼児だけ。
両者を混同しやすいのはだいたい高校生までで、少なくとも一人前の人間は、両者は別だということを知っているはずである。
従って「アパリの地獄船(註)」といっても、これは船倉に入れられ、飢え、食物を支給されなかったという非常に特異な状態におかれた人間の判断であって、客観的な事実はまた別であろう。
(註)…米軍に投降した山本七平ら戦犯容疑者たちがアパリ港からマニラへ移送される際に乗った船のこと。米兵捕虜が虐待されたという「バターンの死の行進」の復讐ではないか、とも言われた。
だが人間は異常な肉体的・精神的状態で異常な場所におかれ、外部との連絡を遮断されてしまうと、単に判断が狂うだけでなく、「判断」と「事実」とは別だということすらわからなくなるのである。
(~中略~)
こういうことは確か学生時代に、哲学の時間に「認識論」とか「判断論」とかいう講義で、私も、教えられたはずである。
しかし大体、私のような怠け学生には、哲学の講義などというものはねむいだけだし、さらに、「哲学」の講義そのものを、わかり切ったことを妙な屁理屈をつけて一ひねりした言葉の遊戯にすぎないように感じ、成程「スカラー(学者)の語源はスコーレー(ヴァカンス)か」とか、確かに「大学教授と乞食は三日やったらやめられない」はずだなどという下らぬことを考えて「三日やったらやめられない怠け学生」生活をすごしていたので、何一つわかってはいなかった。
そして戦場で、「なるほど『事実』と『判断』とは無関係だ」と悟らざるを得なくなって、今度はまた、「哲学などというものは、明けても暮れても異民族と戦争をしていた民族が生み出したのではないか」という妙な妄想にとりつかれるようになった。
そしてこの点でも、「日本語では戦争はできない」とつくづく感じたわけである。
簡単にいえば、われわれは「社会的通念」というものを信じていれば、それで生きていける社会にいるわけである。
従って「世の中なぞ絶対に信じない」という人は本当には存在しないわけである。
なぜなら、そういう言葉をロにする人は、その言葉が相手に通ずることを、絶対に疑っていないし、この言葉には、みなが信じている「世の中」すなわち社会的通念が確固として存在していることを前提にしているからである。
ところが「戦場という『世の中』」は、何一つこういうものはない。
特に分断され寸断されてジャングルにこもった小集団などには、基準とすべき通念などは全くなくなっている。
こうならなくとも、戦場では、「社会的通念」がないから通常の社会で使われている言葉が、使えなくなってしまうのである。
世の中が信じられないとは、本当はこういうことであろう。
簡単にいうと、われわれは「女の人が来た」という。
これに対して、「いやその言葉は正しくない。君が見たのは一つの形象であり、『女の人』というのは君の判断にすぎない。
相手は女装した男性かも知れぬ。君がどう判断しようと相手の実体はそれと関係なく存在する。
また『来た』というのは君の推定であって、そう思った瞬間、相手は回れ右をして行ってしまうかも知れぬ。
従って、そういう不正確な言葉は使うべきでない」などといえば、全く閑人の無意味な屁理屈である。
しかし戦場では否応なしに、そういう言い方にならざるを得ないので、ここに本当に「世の中が信じられない」状態の言葉が発生するのである。
先日Aさんが遊びに来た。
彼は時々戦争映画を見たり、戦争小説を読んだりして憤慨する。
憤慨するぐらいなら見たり読んだりしなければよいのだが、彼の場合は、憤慨するのが一種の道楽になっているような面もある。
もっともこういう道楽の人は案外多い。
何でも彼が見た映画(だったと思う)では「敵が来た」と報告する場面があったのだそうである。
「バカにしてやがる、そんな報告するわけネージャネーカ」といつものように彼は憤慨した。
確かにその通りで、こういう場合は「敵影らしきもの発見、当地へ向けて進撃中の模様」という。
確かに彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応「敵影」らしいと判断し、こちらへ来ると推定したにすぎないわけである。
そして対象はこの判断とは関係がないから、味方かも知れないし、別方向へ行くのかも知れない。
しかし、だからといって一般の社会で、「女の人が来た」といわずに「女影らしきもの発見、当方へむけて歩行中と判断さる」などといえば、それは、逆に頭がおかしいと判断されることになろう。
そしてそのことは逆に「事実」と「判断」とを峻別しなければ生きて行けない世界とはどんな世界なのか、さらに現実にその世界に生きるとは、一体どういう状態なのかが、今の人には全く理解できなくなったことを示しているといえよう。
しかし少なくとも外国で何かを判断する場合、また外国を判断する場合は、この心構えが必要であろう。
(続く)
ここまでが前段となります。
上記を読んでつくづく思うのですが、我々日本人は『「事実」と「判断」とを峻別しなければ生きて行けない世界』を想像することが出来ない世界に生きているという”認識”をすることが、問題対処にあたってまず必要とされるのではないでしょうか。
そうしないと、なんら問題の本質に迫ることが出来ず、批判も的外れ、対処もままならないという結果に終わってしまうことでしょう。
上記のなかで、
山本七平は「一人前の人間は、両者は別だということを知っているはず」と書いていますが、一体今の日本にどれだけ一人前の人間がいるのでしょうか?
身体は大人でも、この区別が出来ていない人間が多いのではないか…とつくづく思ってしまいます。
それはさておき、この続きからが本題です。
(続き)
事実、別種の生活形態は非常に理解しにくいものである。
「幻の日本兵」事件の原因にも明らかにそれがあるが、同じ日本人のわずか三十年前の生活形態すら、今ではもう理解できなくなっているようである。
たとえばカトリックの『世紀』という雑誌に、武市英雄氏が「中国の農民は、日本の農民よりも物事をよく知っている……」として、人糞利用の例をあげている。
もちろん、こう明言された以上、中国の農民と日本の農民を徹底的に比較研究した上での対比であろう。
そうでなければ、日本の農民への実に失礼な断定といわねばならない。
しかしその短いパラグラフを読んでいるうちに、私のように人生の半分を人糞利用の世界で生きていた人間には、瞬間的に「公害」ならぬ「黄害」の世界が実感としてよみがえってくるので、何ともいえぬ奇妙な気持になってしまうのである。
光化学スモッグで窓があけられないのは大変にこまるが、しかしその昔、郊外にあった私の家では、真夏にどんなに暑くとも畑に肥料がまかれると、「黄害スモッグ」で窓があけられなかった。
周囲ことごとく畑であり「肥料をやってはならん」などという権利はだれにもないから、これ以外に方法がない。
しかも当時は冷房はないから、炉に入れられたようになってしまう。
排気ガスは確かにこまるが、何町もつづく肥車の列をすり抜けて登校するのもなかなか大変であった。
「田舎の香水」などといっても今では意味が通じまいが、田舎ならずとも郊外から着飾ったお嬢さんがパーティーなどに出てくると、香水の如くに異臭をふりまくことは少しも珍しくなかった。
何しろ全日本の田畑にことごとく人糞がまかれるから、「西洋人はバタ臭く、日本人はアレ臭い」といわれたものである。
ピクニックやハイキングが盛んになったのは、人糞利用の率の低下と比例しているのではないかと思う。
さらに「肥料会社に勤めていると世の誤解があって娘が嫁に行けないから転職した」などといっても、今では一体それがどういうことなのか理解できないであろう。
もちろん、こういう偏見や感覚的なことはどうでもよいことだが――といっても当人にとっては「どうでもよいことではない」が、それよりも何より恐ろしいのは回虫の蔓延であった。
水銀中毒の恐怖がなかったかわりに回虫への恐怖があり、公害で日本人は滅亡するという話はなかったが「結核亡国」と並んで「回虫亡国」「脚気亡国」という一種の「滅亡教」的発想は当時もあって「死のう団」などという団体まであった。
また、日本軍の最大の敵は敵軍でなく、結核・回虫・脚気だといわれていた。
子供がひきつけを起せば反射的に人びとはその原因を「虫」だと考え、「虫切り・虫封じ」という職業があって、大きい看板をかけており、また新聞・雑誌を開けば必ず大きなスペースで「虫下し」の広告があり、気味の悪い回虫の絵が入っていた。
回虫卵は風でもとんで来るといわれ、神経質な母親は、そのために子供にマスクをかけさせたそうである。
従ってこのことへの神経質ぶりは、到底今の汚染魚への状態の比ではないであろう。
回虫は胃壁を破って移動して肺や脳に入り、時には眼球のうしろに入って失明さすなどともいわれて、人びとは恐怖した。
さらに体内の虫を殺す駆虫薬は、一種の「毒」らしく、軍隊のそれは、人によっては翌朝太陽が黄色く見えるといわれ、これをもじった戯歌があった。
回虫卵は絶えずロからとび込んで来るから、つい駆虫薬を連用する。
女性が連用すると不妊症になるなどともいわれた。
こういうことすべて、一時期の魚への恐怖ぐらい根拠のないことかも知れない。
しかし人びとが恐怖しためは事実であった。
生野菜にも一種の恐怖があった。
陸軍は「禁ナマモノ」の世界である。
今では、水銀を連想しながらトロを食べている人はあっても、回虫への恐怖を頭のかたすみにおきつつ生野菜を食べている人はいないであろう。
それだけ「黄害は遠くなりにけり」である。
しかし、公害を克服するということは、すっかり忘れてしまったこの黄害にもどることではないであろうし、人糞を畑にもどすという循環が、回生卵の拡大的再循環を巻き起し、それがどれほど日本人を苦しめつづけたかも、忘れるべきでないであろう。
餓死直前となると、この回虫の有無と脚気の有無は、実に大きく作用した。
「ガ島は餓島」にはじまる日本軍の飢えとの戦いは、一面、回虫との戦いであり、それはいわば「黄害」との戦いでもあったわけである。
ジャングルでは「虫(回虫)がつくとシラミもつかん」といわれた。
回虫のいる人間には本当にシラミもつかなかったか、と問われれば、この実態は私には確信できないが、虫のいる人間はシラミも敬遠するほど衰弱がひどかったとはいえたであろう。
回虫さえなければ、もっともっと多くの人が、生きてジャングルから出てきたであろう。
尚武集団(十四方面軍)の大部分は餓死であると、アメリカの戦史にも記されている。
大体、戦勝国の戦史は、相手が餓死しても、大激戦の結果絶滅したように書きたがるものだが、それがこうはっきり書かざるを得なかったことが、その実情を示している。
しかしその餓死の現場にあった者が、もう一つの原因をあげれば、回虫すなわち黄害である。
何しろ最低の食糧を同じように分配しても、回虫がいる者はそれが自分の養いにならず、いわば虫に横取りされてしまう。
そこで同じように食べながら普通人には見られない異常な飢餓感があるから、たえずイライラし、また自分の養いにならぬからぐんぐん衰弱し、顔がたちまち土気色になり、骨と皮になって、性格まで一変していく。
「虫が毒素を出すからだ」などともいわれた。
口から虫をはき出すようになれば、もうだめだともいわれた。
不思議なことに、虫がつく体質とつかない体質とがあった。
同じように生活していても、全く回虫がつかない人もいるのである。
私も幸い「虫がつかない」体質であった。
戦後しばらくたって、収容所で、ある軍医さんが一心に「駆虫薬をのんで回虫が出たという経験があるかないか」を聞いてまわっていた。
今ならばアンケートというわけであろう。
この軍医さんの話によると、何しろ生き残って収容所までたどりついた人間は、ほとんどすべてが、「虫のいた経験のない」人間だったそうである。
「虫の好かんヤツが生き残ったわけですなあ」といって彼は笑ったが、綿密な統計をとっても、おそらく同じ結果が出たであろう。
飢えのほかに、マラリア、アメーバ赤痢、熱帯潰瘍で、四十度の高熱を出しながら、血のまじった鼻汁のようなものを肛門から流しつづけたり、体にウジがわいたりしても、回虫がなければ何とか生きのびることも可能だったわけである。
そうなると飢えについでわれわれを苦しめたのは、実は「黄害」だったわけである。
人がいかに化学肥料を非難し、中国の人糞使用を賛美しても、私は、黄害時代の再来はまっぴらである。
そのことの賛美自体が、その人が「黄害」の苦しみを知らぬ「良き時代」の生れであることを示しているにすぎない。
というのは黄害の最大の被害者は農民であって、その害は今まで記したことでつきているのではないからである。
私は武市氏とは逆に、中国の農民が一日も早く黄害から脱却できるように願っている。
周恩来首相も、おそらくそれを願っているであろう。
公害の克服は、絶対に黄害や黄害時代を賛美しても、美化しても解決はしない。
というのはそれも結局は、「女形らしきもの発見……」の世界を知らぬ者の事実と関係なき虚妄の一判断にすぎないからである。
【引用元:ある異常体験者の偏見/鉄梯子と自動小銃/P175~】
私は「昔・自然に還れ」という主張は、上記の”黄害賛美”と同じ類いのものだと思っています。
なぜ危険な原発が必要とされ、たくさん作られたのか?
それは、その当時のエネルギーの「黄害」問題を解決するためでしょう。
エネルギー問題が、一国の安全保障を左右するという事実。
それは戦前の日本の歴史を振り返って見れば、いくらでも見つけることが出来る筈。
戦前の失敗を繰り返さない為にも、原発は必要とされた現実。
その現実を忘れ、まるで「
利権団体・官僚組織・自民党が推進したから」などと決め付け、批判対象を「諸悪の根源化」「悪魔化」するだけならば、それは「黄害」を知らない者の”たわごと”ではないでしょうか。
単に知的怠惰であることを自ら晒しているようなものだと思います。
今、我々日本人に最も必要とされるのは、リスクを正確に見極め、メリットとの比較考量を冷静に行なう態度です。
要は「判断」と「事実」を峻別することです。
それが出来なければ、放射能による健康被害どころか、安全安心な生活を送る為の基礎となる生活基盤までをも喪失してしまうことでしょう。
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統一地方選の前半戦が終わりましたが、とりあえず
反原発の風潮に乗った軽薄な議員があまり誕生しなかったようでなによりでした。
しかし、相変わらずネット上を観察していると、ただちに原発を停めろという人たちが無責任にわめいていますね。
こうした過激な連中を見ていると、やっぱり
反原発というのは胡散臭く見えて仕方ない。
風力発電とか
太陽光発電で代替できると盛んに喧伝しておりますが、これってまるで新興宗教の勧誘みたいなものでしょう。
そもそもそれが本当に実現可能なら、今からでもただちに代替手段として検討され、そして実行に移されている筈でしょうに。
ところが現実的には、そのように物事が運ばない。
そうなると、それを阻んでいる「悪玉」があるはずだと思いこむ。
(実際は、「現実」が阻んでいるに過ぎないのだが…)
利権構造・官僚組織・マスゴミ・アメリカの陰謀、etc…。
こういう「悪玉」に責任を転嫁して「現実」から逃避する。
そうした人たちと議論すると、えてしてYESかNOかの、二者択一の議論を迫られることになるわけですが、そこで本日の本題。そうした議論に陥る愚について触れている
山本七平のコラムをご紹介しておきましょう。
■「二者択一以外」の道
肺炎で一ヶ月ほど入院した。
やや快方に向かい、軽いものなら読んでよろしいという医師の許可が出たので、内外の軽いニュースを読んでいるうちに面白い記事にぶつかった。
日本にもカモシカ問題がある。
同じようにどの国でも、絶滅に瀕した動物を保護すると、急速に増加するが、今度はその動物による食害問題が起こる。
すると、保護をやめて一定数以上は射殺・捕獲すべきか、あくまでも保護すべきかが当然の問題になる。
日本でも檜の苗木をばりばり食べられてしまえば、山林業者にとってはカモシカは害獣ということになるであろう。
保護をつづけるなら、山林の保護をどうするか、業者への損害保障はどうすべきかが当然に問題となる。
そしてこういう場合、論議はしばしば保護か、捕獲・射殺かの二者択一になりやすく、多くの場合、両者とも自説を固持して譲らないという対立になりやすい。
イスラエルにもガゼルの問題がある。
これはおそらく最も美しい動物だが、同時に肉がこれまた「天国の味」といわれるほど美味だそうで、そのため乱獲されて絶滅寸前になった。
ところがイスラエル独立とともにその保護がはじまり、急速に増殖したが、こまったことにこのガゼルの好物がトウモロコシの苗なのである。
はじめはなかなか人里に近寄らなかった彼らも、人間が絶対に害を加えないことを知ると、平然と農場に入ってきて、トウモロコシの苗をばりばり食べるようになった。
その全国的な食害は総生産の一割に達するというから、問題は深刻である。
この問題をどう解決すべきなのか。
ある農場の管理者があるときふと、彼らは猛獣を恐れるはず、そして多くの猛獣は糞または尿で自分のテリトリーを示すはずだと気づいた。
そこでテルアビブのサファリからライオンの糞をもらって撒いたところ、ガゼルはぴたりと来なくなった。
だがそれからが大変である。
というのは、それを聞いた農場主がみなライオンの糞をもらおうとサファリに来たのだが、残念ながらこれだけは「大増産」というわけにはいかない。
そこでライオンの糞の合成を研究することになった。
以上が記事の要旨で、ライオンの糞の合成というところで、何となくおかしくて笑ってしまった。
だが、さてと考え直すとこの解決法には面白い示唆が含まれている。
直接的には日本のカモシカ問題にも参考になるであろう。
というのは、何かカモシカが嫌いかつ恐れるにおいを、檜の苗木もしくはその周囲に撒いておけば、捕獲か保護かという二者択一のほかの第三の道が開かれるということだ。
だが、この第三の道を探すという解決法は、何もガゼル問題に限られているわけではない。
入院の直前に臨教審の第一部会が教育の自由化を主張し、これに対して第三部会長が「斬り死にしても阻止する」と言ったというニュースがあった。
「やれやれ、これでは教育の自由化の前に臨教審における論議の自由化が必要だな」と思った。
というのはこれでは、教育を自由化するか、おれを斬り死にさせないか、の二者択一となるが、この二者択一の前には議論は成立しないからである。
問題はしばしば二者択一という形で捉えられる。
だが本当に二者択一という問題は現実の世界にはない。
ただこれが最も把握しやすい形のため、どちらか一方を採らざるを得ないという思考の枠に人間を誘導しやすいというだけである。
簡単にいえば、臨教審のように、さまざまな分野の人を集めて論議させるということは、ライオンの糞の合成ではないが、二者択一以外の第三の解決法がありうることを前提としているはずである。
もちろんこの問題は臨教審だけでなく、すべての問題についていえる。
環境問題、貿易問題、また企業内の問題、各人の抱える問題、そのすべてについて、問題が二者択一のように見えてきたら、そのいずれでもない第三の道があるのではないか、ともう一度、探索してみる必要があるであろう。
【引用元:「常識」の非常識/「二者択一以外」の道/P231~】
私もこうした人たちと議論していると、どうしても「二者択一の選択」を迫られ、何を言っても敵と認定されてしまう事が多いように思います。
一旦そうなってしまうと、幾ら指摘しようが全て陰謀に操られているとか洗脳されていると勝手に決め付けられてしまうこともしばしば。
困ったもんです。
山本七平が指摘するように、少なくとも第三の解決法を求めてみて、それがどうしてもダメなら二者択一へと進むような姿勢を取りたいものですね。
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東北関東大震災の際に携帯電話が通じなくなったのは記憶に新しいところですが、ネットでiphoneのタダ電アプリ「
Viber」同士なら連絡できたという報告をネットで見かけたので、早速我が
iphone4にもインストールしてみました。
この
Viber↓って、あの
skypeを凌ぐとただ今、大評判のアプリらしいですよ。
ってんで、インストールにあたり参考にしたのが下記HP↓。
■Viberのアクセスコードが届かない。でもどうしても使ってみたいiPhoneユーザーの皆様へ【追記あり】上記HPでも問題視されているように、このviberを導入する際、最大の難関となっているのが、インストール後に行なうアクティベート(起動)をするのに必要なアクセスコードがSMS(ショートメッセージサービス)で届かない事らしい。
恐る恐るやってみたが、自分の携帯番号を入力してみたら、あにはからんや速攻でアクセスコードが届いて一安心。
おかげであっさり、我が
iphone4のViber化に成功!
これでタダ電話できるぜ!と喜んだのもつかの間、よく考えてみりゃ、タダ電できるのは同じViberをインストールしたiphoneのみなんだよなぁ~。
自分の電話帳でViberを導入しているユーザーがわかるのだが、対象者はたった二人しかいなかった…Orz。
(早速、明日職場のiphone使いの後輩にインストール勧めて、タダ電仲間を増やす事にしよう。)
さらに、調子に乗って手持ちの
iPodTouchにも下記HP↓を参考にしながらインストールして見た。
■iPod touch 「iPod touch」に電話アプリ「Viber」■「Viber」を使用してiPod TouchをiPhone化しよう!上記HPの指示に従い、
heywireのアプリをインストールして、必要な電話番号を手に入れたはいいものの、その番号を入力してcontinueボタンを押してもSMSが送信されて来ない。
よくよく考えてみれば、
iPodTouchにはもともと電話番号が無いのだからSMSが届かないのも仕方ないのかも…。
と思っていろいろネットを調べてみるとSMSが届かない場合は、画面右上にある「No code」ボタンを押して、画面指示に従い、別の携帯電話番号を入力すれば、その電話番号宛に自動音声の電話(勿論英語です)が掛かってきてアクセスコードを読み上げて教えてくれるらしい。
そこで、早速先程Viberをインストールしたばかりのiphoneの携帯電話番号を
iPodTouchの画面上に入れ直してみると、iphone側に(電話ではなく)SMSが着信。見てみると違うアクセスコードが書かれている。
やったぜ!と思い、
iPodTouchにそのアクセスコードを入力したら、見事にアクティベート成功!
早速、iphone側に電話してみようとしたら繋がらない。
なんで?と思い、調べて見ると、
iPodTouch側に我がiphoneの電話番号が登録されてしまい、iphone側の設定が無効状態になってしまっていた…orz
これでは意味がないと思い、
iPodTouchの設定をディアクティベート。
どうしたらいいのか、悩んだ挙句、最初から入力し直し、「No code」ボタンを押して、自宅の固定電話番号を入力してみる。
すると、途端に自宅の電話が鳴り出したので受話器をとってみると英語の自動音声が流れ出した。
ヤターo(^▽^)o
自動音声から流れるアクセスコードをメモって、iPodTouchの画面に入力したら、アクティベート成功!
試しにiphone側に電話してみると見事に通話出来ましたo(^▽^)o
で、iPodTouch側の登録された電話番号をチェックしてみると、案の定
heywireでゲットした電話番号では無く、自宅の固定電話番号が付加されてました。
これって結局、
heywireに登録した意味はまるで無いという事ですよね。
なにはともあれ、今回の作業で、SMS機能の無い固定電話番号でもViber登録に使えるという事が分かりました。
(もちろん、SMS機能が無いですから、アクセスコードを知るには上記「No code」操作をする必要がありますよ。)
今後、iPodTouchで電話すると相手のViberには、自宅の固定電話番号が表示されてしまいます(といっても国番号「+81」が自宅の固定電話番号の先頭に付いているのでちょっと見慣れない)が、特に問題なさそうに思えたのでこのまま使うことに決定。
なんだかんだで、1時間以上掛かりましたよ、ふぅ。
でも、iPodTouchで通話するのは、イヤホンマイクを使わないといけないので実際余り使わないかも…。
だけど、このViberは、
アンドロイドアプリでも提供されるというし、将来的にタダ電話相手が増えれば、非常に使えそうな気がしますね。
iPodTouch+
WIMAXルータで通話できちゃうのですから。
そうなったら携帯電話契約しなくてもいいかも知れません。
ま、こんなViber導入記でしたが、今後、iPodTouchを
iPhone化しようと考えている方の参考になれば幸いです。
【追記】
何度か、通話を試みて気付いたのですが、iPodTouchにイヤホンマイクが刺さっていない待ち受け状況では、着信して2コールぐらいですぐに切れてしまいました。イヤホンマイクをつなげていない場合、すぐにiPodTouch側で受話器を取ったとしてもこれまたすぐに切れてしまいます。
これではやっぱり、iPodTouchだと発信専用としてしか使えないかも。待受けではちょっと辛いな…。
また、当然のことですが、iPodTouch側が何らかの拍子でWIFI未接続状態の時にはいくらコールしてもつながりません。そのタイミングで「Switch to GSM」ボタンを押すとViber自宅の固定電話が鳴り出してしまいます。つまり、ソフトバンクの3G回線で電話を掛けていることのなりますから注意。
普通に通話料金が掛かってしまいます。
【関連記事】
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