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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「世間」をバックに発言することの怖さ

プロバイダーの移行手続きにミスがあり、すっかり更新が滞ってしまいました(汗)

それはさておき、今日は、産経新聞が運営するizaのコラムに、なかなか考えさせる記事があったので以下引用します。

■【コラム・断】世間って?

妙な言い方になるけど、僕は「世間」というものが好きではない。

正確に言えば、自分の意見を「世間」で包むというか、「世間」をバックにして言葉を発する仕方が好きではない。「それは世間が許さない」「俺だけじゃなく、皆が駄目と言うに決まってる」。こういう風な発言が、嫌いである。

近頃、世間とか世論とか、そういう人間の集合の声が強くなっているように思う。テレビ局などへの苦情は増え、昔に比べると、バラエティー番組も過激さがなくなり、無茶ができなくなった。不倫報道があったキャスターにも、視聴者には本来なんの関係もない話なのに、「世間」は厳しかった。

槍玉(やりだま)にあげる対象(主に個人)を進んで探す人が、増えている印象を受ける。一番批判「しやすい」のは、言うまでもなく犯罪者だ。

重大事件を起こした犯人の親のコメントが、最近気になる。

「腹を切れ」というのもあった。

犯罪加害者の血縁に対する「世間」の攻撃は凄(すさ)まじいから、対「世間」にはそのようなコメントでいいかもしれない。

だが、絶縁などせず、できれば見捨てないでいただきたい。子供を批判し、被害者に謝罪し続けながら、子供が死刑になるにしろならないにしろ、できれば最後まで近くにいていただきたい。色々な立場があっていい。

世間が一斉に「死刑」「死刑」と叫ぶ社会は一見「正義」だが、僕はそこに不気味さを感じる。「世間」の声が強くなればなるほど、そこから外れてしまった人の行為が、反作用のように過激さを増すように感じる。
(作家 中村文則

【引用元:iza】


「世間体」

根拠とか何もないのだが、比較的日本人というのはこの「世間体」というものを、非常に気にして生きているのではないのでしょうか。そうなってしまうのは、日本という社会が、同質性・均質性度が高いせいもあるからではないかと。
(そうは言っても、昔に比べると、世間体を気にしなくなった人も多くなったような気もしなくもない。給食費の滞納とか増えているとかいうニュースを聞くに付け、そう思ってしまう。ただ、これは都会など人間関係が希薄になり、人の目を気にしなくて済む状況がもたらしただけなのかも知れないが…)

上記のコラム子が指摘している『自分の意見を「世間」で包むというか、「世間」をバックにして言葉を発する仕方が好きではない。』という点は、私もそういう気がなきにしもあらずであるだけにハッとさせられた。

確かに、他者を批判するのに、これは容易で効き目のあるやり方だろう。
それが、マイノリティの意見を封殺しがちなのは否定できないような気がする。

世間体を気にしていたら起こるはずのない出来事が増えたのも事実で、これを批判したり批難することは必要だろうと思う一方、批難する際、批難の根拠を「世間ではこうだから」とかいう理由で論ずることはマズイのではないかとも思う。

結局のところ、批判するときには、「世間」というものを使わず、「自分はこう思うから…」といった自分をベースして批判する姿勢を持つというのが大切なんじゃないだろうか。そういう姿勢をとることが、相手を一個の人格と認めることにもなるのではないだろうか。

しかしながら、このことは、我々の社会ではあまり認識されていないような気がする。

実際、この手のやり方は、ネットでもマスコミでもよく見かけるし。

このことについて、もっと問題意識を持つ必要があるように思えてなりません。

そこで、このコラムを読んで、ふと思い出したのが、次の山本七平の記述。これも「世間」がキーワードでした。

■組織と自殺

自殺の原因や動機はさまざまであろう。
また実際には他殺に等しい、強要された自殺もあるであろう。

多くの場合、自殺の真因は不明だが、その中で最もわかりにくいものは、この両者の中間にある自殺、いわば本当に自分の意志なのか、実際は他人の意志であったのか不明の場合の自殺である。

自殺は本人の責任だから、その死に対してだれも責任を負う必要はない。

では強要された自殺はどうなるのか。それは他殺ではないのか

戦場にもさまざまな自殺はあった――もっとも自決と呼ばれていたが。

その中には明らかに強要された自殺、言い変えれば強要した人間の他殺、自殺に仮託した純然たる殺人もあった

ノモンハンでも多くの将校は自殺した―離れた天幕につれて行かれ、拳銃を与えられて、人びとは去る。最後まで抵抗した人もいたそうである。

そしてその殆どは、無謀な作戦計画と放言参謀の支離滅裂な”私物命令”のため、あらゆる苦難を現場で背負わされた責任者であった

その苦難の果てに、彼らは、強要されて死んだ。

そして彼らを殺した殺人者「気迫演技」の優等生(註…辻政信を指すと思われる)たちは、何の責任も問われず戦後にも生き、その「演技」によって民衆の喝采をはくしつづけた

こういう例、「自決という名の明確な他殺」で、糾弾されざる殺人者の名が明らかな例も、決して少なくない。

しかし、自己の置かれた位置が、必ずここに至ることを予見し、その屈辱の死を恐怖して、その前に自殺してしまった場合もある。

これが自殺・他殺の中間、本人の意志か他人の意志かが不明な場合である。

結末が明確な場合、多くの者は、「屈辱プラス死」よりも単純な死、名目的名誉が残っている死を選び、自己の死屍への鞭と遺族への世の糾弾だけは避けようとした

こういう場合、今ではもっぱら帝国陸軍の非情と非人間性が非難されている

しかし人びとが忘れたのか、覚えていても故意にロにしないのか私は知らないが、もう一つの恐ろしいものがあった

それは世間といわれる対象であった

軍が家族を追及することは絶対にない。

では、母一人・子一人の母子家庭、その母親でさえ、兵営に面会に来たときわが子に次のように言ったのはなぜか。

「お母さんがかわいそうだと思ったら、逃亡だけは絶対に、しておくれでないよ」――彼女が恐れたのは帝国陸軍ではなく、世間という名の民間人であった

その「後ろ指」なるものは、軍より冷酷だった。――少なくとも、正面から指ささぬので「指した人間」が不明だという点で。

こういう場合、本人を死まで追い込んで行ったものが、果たして帝国陸軍なのか世間なのかといえば判定はむずかしい。

それらは現在、新聞等で「組織の重圧に耐えかねて……」とか「組織内の人間関係に悩んで……」とか定義されているケースと似て、複合するさまざまな個人的・社会的・組織的原因に分けて解明することが、不可能と思われる場合である。

さらにこれに、戦場という異様な環境が加わる。肉体的に疲労の極に達すれば、人は、単に「動くのはもういやだ」という理由だけで自殺しうる。

また精神的疲労の極に達すれば、その一切から逃れたいという欲望だけで、自らの命を断ちうる。

また自殺のように見えて、実は、一杯の水、一服のタバコ、一片の青空に自分の命をかける場合もある。

そういう状態にあって、精神的・肉体的疲労の果てに、いま自分が歩いている道の先にあるものが確実に「屈辱の死」なら、人は疲労を押して、わざわざ、その「屈辱の座」まで歩きつづけようとはしない

殺されるとわかっていながら、そこまで歩いて行く場合も確かにある。

だが、少なくとも自己の手に拳銃がある場合は、歩いてそこにつくまでの時間を、その場にすわっているのが普通である。

(~後略)

【引用元:一下級将校の見た帝国陸軍/組織と自殺/P227~】


戦前も戦後も、「世間」というのは変っていないのだなと思いますね。ほんとに。
「世間」は人を殺しうるほどの力がある。というのを、この山本七平の記述を読むと、痛感します。


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【事務連絡】しばらく更新できません。

事情により、プロバイダを乗り換えることになりました。
ところが、その移行手続きに行き違いがあり、1週間から10日間ほどネットが出来なくなってしまうことに

そんな理由で、明日以降ブログの更新ができません。
また、コメントへのレスも出来ないと思われます。

ヨロシク…ニャ
ということで、済みませんが宜しく!


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残飯司令と増飼将校【その4】~自らを見る勇気がなかった者の悲劇~

前回の続き。
今回は、異常な精神状態となった者が、どのようになってしまうのか、山本七平の説明をご覧ください。

こういう状態で生きていれば、結局は一種の根元主義者(ラディカリスト)にならざるを得ない

彼らが何もかも否定し、社会全部を「めしい」と考えることによって、彼らだけの自己評価に生きるなら、その評価が依拠する根元は「絶対」であらねばならない。

ここに「天皇制ラディカル」ともいうべき「国体明徴」問題も起れば、彼らの自己評価のみに基づく行動も起る。

二・二六の将校、特にその推進者は、一言にしていえば中隊付将校、すなわち「ヤリクリ中尉」であり、その社会的な位置は、はたちを少し越えた最下級の貧乏サラリーマン、それと最末端の管理職、課長というより係長ともいうベき「ヤットコ大尉」である。

しかし「幼年学校」出の彼らの自己評価においては、天皇制ラディカルとして日本の根元を問い、それに依拠して一大革新を行うべき、自己否定に徹した革命家であった。

だがその中の典型とも言うべき中橋基明中尉の言動を見ると、異常に高い自己評価と異常に低い社会的評価との間の恐るべきギャップが、このエリート意識の強い一青年を狂わしたとしか、私には思えない。

そういう状態に陥ってしまえば、もう何も知ることができなくなる

社会のことも自分のことも、また彼の専門であるはずの軍事すらも――そして自分が何も知らないということすらわからなくなって、ただただ異常な高ぶりの中だけで生きている。

そのためすべてをただ不当だと感じ、怒り、幼児のように幻想を見、それに酔い、大言壮語し、感情を高ぶらせ、悲憤慷慨するだけになってしまうのである。

ひとたびこうなると、その人びとはもう外部のどんなことをも「知ること」が出来ず、目の前に起っていることを「見ること」もできなくなってしまう

そしてすべてを、その集団内の自己評価と相互評価に適合するように変形して受けとってしまう。日本軍の将校はそうであった。彼らは、目の前に起っていることが見えないのである。

私と親しかったN兵長は、何回も召集された自称「十年兵」で、ノモンハンの生き残り、九州人で自ら「砲を捨てて逃げヨッタ敗残兵デスタイ」と称していたが、彼が何よりも驚いたことは、当時の関東軍の「偉カ人」がソヴィエト軍についても近代戦についても「何一つ知りヨラン」だけでなく「何一つ見ヨラン」ことであった。

もちろんこれは、アメリカ軍についても「何一つ知りヨラン」「何一つ見ヨラン」ことへの驚きと共に思い出したことで、そこでも、目の前で起っていることが何一つ見えないのである。

「大本営チュートコは、気遣イとメクラの寄り集りジャロカ、ありゃみんな偉カ人のハズに」と――確かに彼の目の前にある現実は、その「偉カ人」が現実を「見ヨラン」で「知りヨラン」が故に起ったことであった。

新聞等で、「あさま山荘の銃撃戦」や「ロッド空港の乱射」に対する、赤軍派やそのシンパといわれる人びとの「評価」などを読むと、ただただ自己評価の中に閉じこもっており、それは「何一つ見ヨラン」「何一つ知りヨラン」という彼の言葉を思い出させる。

赤軍派の移動の仕方が「ゲリラ教範」に反すると獄中から批判した同志がいたが、それを読むと、彼らが知っているのは、ただ「ゲ」「リ」「ラ」という三文字のカタカナだけで、それをただ彼らの自己評価への裏づけとして使っているにすぎず「何一つ見ヨラン」「知りヨラン」のである。

北部ルソンにも、現地人クーシンと米人ヒントンに率いられたゲリラがいたが、その実態は、赤軍派などとは似ても似つかぬものである。

ゲリラの戦士は、女づれのモヤシとは関係ない彼らはただ彼らの間だけで通用する相互評価と自己評価においてゲリラであると夢想しているに過ぎない

あさま山荘の銃撃戦」も同じである。

独特の表現を連ねた、全く正気とは思えないような大仰な「評価」があるが、簡単に言ってしまえば、あれは「戦い」でも「銃撃戦」でもない

戦場なら五分で終り、全員が死体になっているだけである。今ならバズーカ砲、昔なら歩兵砲の三発で終りであろう。

一発は階下の階段付近に撃ち込んで二階のものが下りられないようにし、二発目は燃料のあるらしいところに撃ち込んで火災を起させ、三発目は階上に撃ちこむ、――砲兵が出る幕ではない。

だがこれも、彼らだけで通用する「評価」では、「権力に対して徹底的に戦い」「その戦いを全世界に知らしめた」大戦争になってしまう

また前述の「週刊文春」の記事でも、岡本公三は「これはテロ事件ではない。革命戦争なのだ……自分は革命戦争の先兵なのだ」というわけだが、「どの方向へ撃ったかわけがわからず」「事件直後、極度の興奮からヒステリー状態で口もきけないほどだった」という。

これでは、応射されたら腰を抜かしたことだろうし、第一、危くってそばにおいておけない。

こんな兵士は私は見たことがない、これで兵士だの先兵だの戦争だのとは、全く恐れいった自己評価である。

だが以上のように言えば言うほど、彼らは自己評価の枠の中にひっこみ、絶対に耳を傾けようとしなくなる

それはかつての青年将校も同じであった。

そしてこの自己評価と彼らの内部だけで通用する相互評価が、社会の評価から隔絶すればするほど、これもまた一種の呪縛となって彼らを規制していく。

しかし現実の生活では最低サラリーマンであり、その下の下士官は、職業人とすら認められない。

この緊張関係は、内部へか外部へかは別として、いつかは彼らを決起させ、その自己評価を社会に認証させねば耐えられないものになっていく

彼らがせざるを得ないことは、それだけなのだ

認証させればよいのだから、それ以後のことなど彼らが考えているはずがない

従って、二・ニ六の将校に何ら「決起後の改革のプラン」がなかったのはあたりまえのことで、そんなものは、はじめからあるはずがない。

岡本公三も同じで「あとのことは後継者がやってくれると信じている。……後をついでいってくれる者たちが出てくると思う。自分たちの死は無駄にはならない」のである。

二・二六の将校は、決起後のある一時期、時間にすればわずか十数時間だが、陸相や軍事参議官と対等にわたり合うことによって、この自己評価を社会に認証させえた

そしてそれが崩れ去った後でも、最後まで彼らが求めたものは、「勅使御差遣」という「自己評価への認証」であり、それがすべてだった

テルアヴィヴの三人も同じであろう。

大学といわゆる学生運動の中だけでしか通用しない相互評価と自己評価の中で彼らは生きてきた。

だがたとえその中では「ゲリラ」であり「パルチザン」であり「革命の戦士」であっても、それは集団内あるいは大学内でしか通用しない。

社会は彼らをかつての下士官以下にしか扱わず、一人の社会人・職業人としてすら認めようとはしない。

しかしそうされればされるほど、自分をそう扱う人びとを「めしいたる民」と軽蔑し、反発し、無視し、一方、自分の自己評価を認証してくれた者(または、くれたと誤認した者)の指示なら、地の果てにまで飛んで行き、何でも指示通りに行うようになる

アラブ・ゲリラは彼らをゲリラとして扱ってくれた。

これは彼らの自己評価への認証である。
それで十分である。言葉が通じようと通じまいと、そんなことは問題であるはずがない。

がんらい彼らの言葉は、昔の軍隊と同様に、そのグループ以外にはだれにも通じないし、通じなくすることによって自己評価を保ってきたのだから、通じない方がいい。

まして「現地の実情」や「パレスチナ問題への理解」など、そんなことは関係がない。

ニ・二六の将校だって「自己評価」と自分たちだけの言葉の中に閉じこもって、日本の実情など何一つ知らなかったし、認めなかったし、フィリピンにとび込んでいった日本軍は、テルアヴィヴの三人同様、現地のことなど何一つ知らない。現地の言葉が話せる将校すらいない。

同じことである。

東亜解放」とか「世界同時革命」とかいう言葉で、相手が自分たちの自己評価を認証してくれているはずだと、勝手にきめこみ、一方的に連帯しているつもりだけなのである。

アラブ・ゲリラから武器と命令をわたされたときが、彼らにとって、本当に、自己評価が認証されたと感じた時であったろう。

それだけのために、と言って彼らを笑う資格がだれにあろう

同じことをやってきたではないか。

それらが、個人として行われようと、集団として行われようと、一国家として行われようと、自らの現状を、自ら冷たい目で見る勇気のない者が常に行なってきたことではないか。

日本の軍人は、日本軍なるものの実状を、本当に見る勇気がなかった

見れば、だれにでも、その実体が近代戦を遂行する能力のない集団であることは明らかであり、従ってリップサービスしかしない社会の彼らに対する態度は、正しかったのである。

社会は、能力なき集団に報酬を払ってはくれない、昔も今も、いつの時代も。

結局彼らが「何一つ見ヨラン」「何一つ知りヨラン」となったのは、相手ではなく、自分を「見る」勇気がなかったからである。赤軍派を生み出した一つの集団も、おそらくは、同じように、自分を見る勇気がないだけに相違ない。

そしてMさんのような人が、偶然その集団に入って行ったら、きっと言ったに相違ない「あれじゃーね。テルアヴィヴの三人が出るのはあたりまえだよ……」と。

以上が、前述した、もう一つの理由である。

(~終わり)

【引用元:私の中の日本軍(上)/残飯司令と増飼将校/P64~】


一般社会の扱いに問題はあったとは言え、その扱いは彼らの能力にふさわしいものであったわけです。

結局、それを真正面から受け止めず、自分を見る勇気を持たなかった者が取る行動とは、いつの世も似たようなものなのかも知れません。

かつて、日本は”一国家として”自らを見る勇気を失いました。これは否定できない事実ではないでしょうか。

また、今の日本がそうした状況に陥らないと断言できるか?私にはちょっと自信がありません。

それはさておき、山本七平の記述を読んで見た限りでは、今回のシリーズの発端となった自衛隊がクーデターを起こす「可能性」については、ほぼないのではないか、というのが私の考えです。

第一に、山本七平も指摘しているとおり、自衛隊そのものが、社会から称揚されていない点が戦前とは異なりますし、自衛隊員も、戦前の将校が抱いていたようなエリート意識がありません。

第二に、クーデターを起こす際の拠り所になるような(例えば、国体明徴といったような)思想が欠けています。

第三に、自衛隊員の生活状況に、それほど生活困窮の度合いが見られないこともあるでしょう。

こう考えてみると、天木直人氏のブログに見られるような「自衛隊のクーデター」を危惧する論調については、杞憂に過ぎないと言って差し支えないような気がします。

むしろ、そのような論調は、根拠に乏しい狼少年のような行動として扱ってもいいのではないでしょうか。


【関連記事】
・残飯司令と増飼将校【その1】~ニ・ニ六事件が起こった背景には~
・残飯司令と増飼将校【その2】~困窮した下級将校~
・残飯司令と増飼将校【その3】~集団では極端に称揚され、個人では徹底的に軽蔑された軍人たち~


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残飯司令と増飼将校【その3】~集団では極端に称揚され、個人では徹底的に軽蔑された軍人たち~

前回の続き。
前回、残飯司令等の内容まで説明がありました。今回はそうした立場に置かれた将校がどのような精神状態に陥っていたか。そして、将校の下に属する下士官の立場とはいったいどのようなものだったのか。山本七平の説明をご覧ください。

だが「こんな安月給で忠節なんぞつくせるか」とは絶対にいえない。

それを口にすれば、「軍人」そのものの否定になってしまう。
従って、二・二六の将校などに「問題は月給でしょ。あなた方の本当の不満は自分たちの地位と責任に対する社会の報酬があまりに低いということでしょ」などといえば、そう解釈する人間を逆に軽蔑し、今でも軽蔑するであろう。

しかし結局はそうだったのだが、それが「自分たちをこんな状態にしておく社会が悪い、陛下の股肱、国家の柱石に残飯をあさらせるような社会はマチガットル、そんな社会は絶対に改造せにゃ軍は崩壊する、日本が滅びる」という考え方になっていくのである。

これは自己を基準にして社会を否定することだから、社会への絶対的な否定へとエスカレートし、ついには自分たち以外のものは「何もかもイカン」となる。

自由主義はイカン、共産主義は許せんはもちろんのこと、政府もイカン、警察もイカン、大学もイカン、娯楽もイカン、英語もイカン、装身具もイカン、パーマネントもイカン、贅沢は敵だとなり、さらに海軍はイカン――贅沢だ、敬礼が厳正でない、にまで至り、ついには、国民は全部盲目なのだ、おれたちが指導し、覚醒させなきゃだめだという考え方になっていく

いわゆる昭和維新の歌の「めしいたる民、世におどる」という言葉は、彼らの感情を実によく表わしている。

これはまた岡本公三が「週刊文春」の記者に語った以下の言葉と実によく似ている。

――他のセクトはどうか。「みんなダメだ」――PFLPの理論は正しいと思ったのか。「PFLPは我々と連帯している。だから正しいのだ」――つまり、君たちと連帯していない組織はダメということか。「その通りだ」

これはまさに当時の軍人の生き写しである。

一般社会の人間は全部めくらだ、そう考えない限り、彼らは社会の自分たちへの仕打ちを許せない。

しかしそれは結局、社会のすべての価値判断を拒否してこれと断絶し、軍隊内だけの自己評価と、互いの間だけで通用する相互評価の中だけで生きていくことになる

だがこの評価は日本の社会にも世界にも通用しない
触れればすぐにくずれてしまう。

そこでさらに断絶はひどくなり、ついには自分の集団内だけで通用する特別の言葉を使い、それによって社会とも世界とも一切の接触を断っていく。これは当然の帰結であった。

しかし、その彼らよりさらに不安定な位置にいる人びとがいた。

下士官である

最低のサラリーマンとはいえ、将校は、一つの「職業人」としての社会的地位はもっていた。

しかし、将校の社会的地位の急激な低下を皺よせされた下士官は、その社会的地位に関する限り、もう絶望的で救いがたい状態であった。

社会は彼らを「職業人」とすら認めなかった。

日本という学歴社会およびそこから生み出されたインテリは、口では何といおうと、実際には労働者や農民を蔑視している

彼らが口にし尊重する「労働者・農民」は、一種の集合名詞乃至は抽象名詞にすぎない

これは昔もおなじで、当時の新聞や御用評論家がいかに「軍」や「軍人」をもちあげようと、それは「軍」「軍人」という一種の集合名詞・抽象名詞に拝脆しているのであって、この軍という膨大な組織の最末端に現実に存在する最下級の「職業軍人」すなわち下士官は、現実には、徹底的に無視され嫌悪され差別され軽蔑されていた

これがいかに彼らを異常な心理状態にしたか!

下士官を象徴する「軍曹」という言葉は、軍隊内ですらウラでは一種の蔑称であった。

「モモクリ三年カキ八年、低能軍曹は十三年」であって、彼らはあらゆる劣等感にさいなまれつづけていた。

集合体としても個人としても、同じように扱われれば、すなわち「軍」も「下士官」も同じように扱われるのならば、たとえ低く扱われても、それはそれなりの安定がある

戦後の自衛隊はそういう状態に安定しているのかも知れない

しかし「軍」という名で極端に賞揚され、「下士官」という名で極端におとしめられる――これをやられると、どんな人間でもある程度は精神が異常になってくる。

私は当時の軍人の精神状態は、下士官に一番はっきりと露呈していたと思う。
そしてその精神状態は、結局は、下級将校も同じなのである。

「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう。

集団へのリップサービスでは最高の敬意を払い、その個々の構成員は、一個の社会人としてすら認めないほど蔑視し、最低の報酬しか払わず、最低の待遇しかしない

これが一番ひどい扱いだと私は思う。

最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである。

だが、一般社会には、彼らを蔑視しているという意識さえなかったのである。またそれによって、彼らが(そしてまた将校も)屈辱的な社会的地位の低下と徒らなる賞揚に異常な精神状態になっていようなどとは、だれも夢にも考えなかった

それは戦後に書かれた、横暴で無知な下士官の描写によく表われている。

そのほとんどの場合、書いている本人が、自分が内心どれだけ下士官を蔑視していたかを忘れている――というより、今でも全然そのことが念頭にないのである。

日本のインテリ特有の一種の鈍感さであろう

下士官は、このことをいわば肌で知っており、この点では異常なほど敏感――というより一種の対「社会アレルギー」という状態になっていた。

従って、お世辞はもちろんのこと、好意にすら耐えられず、自分に向っての何気ない微笑すら容赦できなかった。

「バカヤローッ、軍隊には愛嬌はイラネーンダ、ナレナレしいよ、コノヤロー」

彼らは、本心から自分に好意をもち、本心から自分という人間を対等に扱ってくれる人がいるなどとは、絶対に信じなかった。

そして軍隊内だけでしか通用しない自己評価と相互評価だけで生きていた
そしてその評価のうらづけは、現実には将校の位置である。

彼らは内心では将校を軽蔑しつつも、これを半神のように扱うよう兵に要求した。これも、将校より下士官が嫌われた一因であろう。

そしてそれがかもし出す一種の雰囲気、たえずイライラしたような緊張感は、全軍隊を一種異様な精神状態にしていった。

一般社会から実際には無視される。
すると今度は、彼らが一般の社会人を人間と認めなくなる

これが面白いことに、新聞などで報ぜられる大学騒動のときの先進的な助手や大学院生の言葉と非常に似た感じになってくる。

岡本公三の長兄のことが雑誌に出ていたが、相手のほおをてのひらで軽くヒタヒタと叩くというその姿は、あのころの最も冷酷な下士官を髣髴とさせる。

また、「ガスが爆発すると人は死にます、機動隊とは限りません。しゃーないやないすか、そんなもの」という滝田修の言葉は、内容だけでなく、表現まで下士官そっくりである。

結局これは、社会の彼らへの扱いの裏返しである。「軍」で賞揚され「下士官」で蔑視される。

すると「お国のため」と「お国」を賞揚して、そのお国を構成する国民の一人一人は人間とは扱わない

同じように、「人民のため」と「人民」は賞揚しながら、その人民を構成する個々の人間は「そんなもの」になってしまう

(~次回に続く)

【引用元:私の中の日本軍(上)/残飯司令と増飼将校/P60~】


上記の説明で当時の軍人の異常な精神状態が、ある程度つかめたのではないでしょうか。

集団だともてはやすのに、その集団に属する個々の人間には蔑視で応える。
そして社会は、そのような扱いを受けた人間がどのようになってしまうのか全くの無関心。

そうした背景が生まれる一因に、インテリ・知識人特有の無神経さが関わっているという指摘にはハッとしました。これは今でも通用することじゃないか…と。

社会から疎外されたと感じる人間を生み出さないためにも、これら山本七平の指摘を改めて考えてみる必要があるような気がしてなりません。

それはさておき、次回はそういう異常な精神状態に陥った者がどのような行動を引き起こすか、そのことについて山本七平の記述を紹介していく予定です。お楽しみに。


【関連記事】
・残飯司令と増飼将校【その1】~ニ・ニ六事件が起こった背景には~
・残飯司令と増飼将校【その2】~困窮した下級将校~


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残飯司令と増飼将校【その2】~困窮した下級将校~

前回の続き。
それでは、残飯司令や増飼将校とはどういったものか、山本七平の記述を紹介していきます。

さてここで少し「将校」なるものの実体を書いておかないと、以上のことを的確に説明できない。

今では、軍隊とか軍部とか軍人とか非常に簡単に片付けられているが、将校一つ取りあげても、その構成は実に複雑であった。

軍の末端を支えているいわゆる下級将校(青年将校もこの中に入るわけだが)は、大体四系統に分れ、はっきりと差別があった。

第一がもちろん士官学校出の将校で、これは今の官庁でいえば東大出であり、階級は同じでも別格であった。

次が「少候」と「特進」である。
これはいずれも軍隊内俗称だが、正規の名称は知らない。この二つはいずれも一兵卒からの叩き上げ、いわば「現場出身」で、軍隊における「無学歴将校」である。

このうち「少候」は、准尉・曹長のとき「少尉候補者試験」という将校登用試験に合格して、一種の短期の士官学校に派遣された人、階級は少佐どまりであった。

何年いても少佐以上にはまず絶対になれない。苦学力行型の人が多く、また型破りの名物将校が多かった

「特進」も一兵卒からの叩き上げだが、「少候」とはちがって、一に年功序列だけで将校になった人で、大尉どまりであった。

従って「老齢」といいたい人が多く、私か軍隊に入って何より驚いたことの一つは、自分の父親と同年輩のように見える中尉・少尉がいたことである。従って大尉ともなると文字通りの「老大尉」であった。

軍隊は一種の膨大な官僚機構であり、従って非常に細かい「規則・服務規定」があり、これを「成規類聚」といったが、こういう細かい規定に通暁している、いわば「生き字引」的な存在がこの人たちで、多くの場合、普通の社会における「万年課長補佐」のような地位にいた。

課長は東大すなわち陸士出で、あらゆるポストは出世への腰掛けにすぎず、実務を握っているのはこの人たちであった。

従って年齢といい風貌といい「軍人」というより「吏員」といった感じ、いわば「軍隊事務官」とてもいいたい感じの人が多かった。そして当時、最も生活にこまっていたのがこの人たちであった。

もう一つが「幹候」であり、これも本職の将校や下士官をいら立たせる奇妙な存在だったが、今回は一応除外しておこう。

「特進は食い意地がはって銭にきたない」

これが軍隊内の定評であり、また事実であった。
私なども、軽蔑はしないまでも、何となく「コセコセ、コマゴマと嫌な連中だ」という感じを持っていたが、今にして思えば、逆にそういう感じをもってすまなかったという思いもする。

この人たちは、恐らく一人の例外もなく、貧しい家庭の生れであり、多くは農村の次男・三男であった。兵役が終り、満期除隊になって故郷に帰っても生活のめどは立たない。

軍隊に残れば少なくとも衣食住は保障され、まじめに勤めていれば階級はあがり、准尉で退役になればわずかながらも恩給がついて老後の最低生活は保障される。

この人たちが軍隊に残ったのは、軍国主義に共鳴したのでもなければ、立身出世を望んだからでもなかった

軍隊という最低生活(われわれから見れば)でもよいから生活の安定を望み、准尉の恩給という最低の恩給でもよいから老後が保障されることを求めたという、非常につつましい人びと、いわば最も小市民的な生活の安定を求め、その代償として、生涯を下積みで送ることを一種の諦念をもって覚悟した人びとであった。

従ってその実体は、今の人が考える「軍人」とか「軍部」とかいった虚像からは、実に縁遠い存在であった。士官学校出は、彼らを差別しながら、実務は完全に彼らに依存していた

だが戦争とそれに伴うインフレは、この特進将校が求めたささやかな安定を遠慮なく奪っていった

特進の多くは、大体曹長のとき、すなわち営外居住を許されたころに結婚しているから、晩婚であり、中尉・大尉ぐらいのときに、育ちざかりの子供を二、三人かかえていた。

これでは生活が苦しいのは当然である。面白いことに、彼らはほとんどみな愛妻家であり、今の言葉でいえば「マイホーム主義者」といえようか。彼らは出世に縁なく、「万年大尉」が限界であったから、家庭にだけ希望となぐさめを見出していたとしても不思議ではない。

(~中略~)

「残飯司令」にはじまる渾名、というより一種の悪罵は、主としてこの人びとに、いわばインフレの被害をまともに受けている特進に向けられていた。

軍隊には週番勤務という制度があり、この週番勤務を統括するのが週番司令で、だいたい中隊長クラスの一人が一週間交代で部隊に泊りこんでこの任にあたる。

その下に各中隊で、中隊づき将校が週番士官として同じように交代で泊りこみ、その下が週番下士官・週番上等兵で、午後五時から翌朝九時まで、すなわち将校が帰宅している間は、すべてが週番司令の指揮下、つまり週番系統で部隊が運営される。

従って午後五時以後は、週番司令より偉い人は連隊にいなくなる。
この週番は公務であるから、当然夕食は部隊から支給され、いわば正規の「食事伝票」が切られて炊事にまわされているわけである。

ところが、特進が週番につくと、夕食時に家族がやってくる

将校の家族の面会にもいろいろと規則はあったが、五時以後の週番司令に関する限り、彼以上偉い人間は連隊にいないから、実際は自由である。

夕食直前に全家族が現われると、当番兵はもう何もかも呑みこんでいるから、炊事に話をつけて黙ってその人数だけの夕食を準備する。

連隊には三千人近い人間がおり、また動員中には一時的には万を越すこともあるわけだから、四、五人分ぐらいは実際はどうにでもなる。

事実、大きな蒸気釜や食缶・食器に付着した飯粒を洗い落した残飯だけでもバケツに何杯もあり、養豚業者が毎日のように引きとりに来るほどだから、実質的には何ということはないのだが――しかし、この家族の分は、食事伝票が切られていないのだから、もしそういう分がありうるとすれば、名目的には「残飯」以外にはありえない。

従ってこういう食事のことを「残飯給与」といった。そこで家族に残飯を給与している週番司令という意味で「残飯司令」と呼んだわけである。

だが「残飯司令」は、たとえ不正ではあっても、われわれには実害はない。

一番こまるのは「残飯出勤」であった。見習士官のころは、日曜日ともなると週番士官以外に自分より偉い人は中隊にいないし、この週番が同僚の見習士官ならば、この時こそはと全員羽根をのばして休養をとるわけである。

また兵士たちものんびりしている。ところが何の予告もなく、昼食直前に不意に中隊長が出現する。そして一回に何やかやと注意を与え、昼食をすますと帰ってしまう。これが「残飯出勤」で、全くの脅威であった。

「増飼将校」と「ポロかつぎ」は馬にちなんだ蔑称である。

馬にもやせた馬や太った馬がおり、それに応じて、またその他の健康状態に応じて飼料の量を加減した。飼料を一定量だけ多く与える馬を「増飼馬」といい、少なく与える馬を「減飼馬」といった。

特進将校には食事について、特に量について、口やかましい人が多かった。

幼時からの食習慣のためであろうか。昼食は将絞集会所で進隊長をメインテーブルにすえての会食なのだが、この際、「将集当番長」は、特進将校の食事の量には常に気をつかわねばならなかった。

彼らは「○○中尉は増飼」とか「××少尉は減飼でもかまわない」とかいいながら盛りつけをしたわけである。

これは馬の食槽に飼料を入れる入れ方と同じなので「増飼馬」ならぬ「増飼将校」という言葉が生れたわけであろう。

だがもっと別の意味も合まれていたともいわれる。
馬は一日ニ食である。従って「増飼将校」とは家庭の米代を節約するため一日二食ですませ、そのうめあわせに連隊で二食分食べている者の意味、端的にいえば朝食抜きで昼食を二倍食べている者の意味だともいわれた。

以上はいずれも私の直接の体験だが、さて「ポロかつぎ」になると噂しか知らない。

従って真偽のほどはわからない。ボロとは襤褸のことではなく馬糞の軍隊語である。馬房から馬糞をかき出す道具を「ポロかき」といったが、「ポロかつぎ」はおそらくこの語の転用である。

すなわちボロを持ち出させて、近郊の農家に肥料用に売るか食糧と交換することを言った。だが私は現場は知らない。知っているのは「精神訓話だって!偉そうなこと言いやがって、裏じゃボロをかついでやがるクセに」という兵隊の私語だけである。

だがこう書いて行くと実に類型的になってしまう。

もちろんこういった人びとは例外であったろうし、退役佐官の保険外交員も例外かも知れぬ。また以上のことも汚職というほどのことではない――しかしこういうことはすぐ兵隊の目にも社会の目にも入る

そしてその行為は、平生の言動とあまりにギャップが大きすぎるから、かえって軽侮をかう

彼らとて兵士の軽侮の目を感ぜざるを得ない。

特に、まじめで敏感でプライドの高い将校ほど、一部の同僚への兵士の目が気になる。

そして「こんなことで国軍は一体どうなる、兵の信服を失って、どうして戦場で彼らを指揮できようか」と真剣に悩む

私自身もその悩みを打ち明けられたことがあるが、そのロ調は本当に真剣そのものであった。

(~次回へ続く)

【引用元:私の中の日本軍(上)/残飯司令と増飼将校/P54~】


これを読むと、戦前の軍隊というのも、今の官僚組織とあまり変らなかったんだなぁ…と改めて思いますね。士官=キャリア、特進=ノンキャリアって感じでしょうか。

次回はいよいよ生活に苦しんだ将校たちが、どのような心理状態に陥っていったのか――山本七平の鋭い分析をお楽しみに。

【関連記事】
・残飯司令と増飼将校【その1】~ニ・ニ六事件が起こった背景には~
・残飯司令と増飼将校【その3】~集団では極端に称揚され、個人では徹底的に軽蔑された軍人たち~
・残飯司令と増飼将校【その4】~自らを見る勇気がなかった者の悲劇~


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残飯司令と増飼将校【その1】~ニ・ニ六事件が起こった背景には~

今回の田母神騒動を巡って、様々なブログが色んな事を書いている。

そんな中に、文民統制が既に崩壊していて、自衛隊がクーデターを起こすかも…と危惧している記事を見かけた。
天木直人氏のブログである。
以下、その記事における該当部分を引用する。

2008年11月07日の記事

■11日の参考人招致で行なう事は田母神の歴史認識の誤りを国民の前で正面から糾すことである。

(~前略)

田母神問題で明らかになった事のひとつは、わが国ではその文民統制という制度的保障が、いつの間にか完全に有名無実化しているという恐るべき実態であった。

田母神論文の不適切さを認めたからこそ、防衛大臣や防衛次官ら防衛省幹部が、責任をとって給与の一部返納などの処罰を受け入れたのではなかったか。

ところが、田母神前航空幕僚長は、その政府の命令に服する事なく、事情聴取に応じなかった。

更迭後の言動も、政府の方針に反して何が悪いと悪びれるところがない。

しかも、78名もの空自幹部が田母神前幕僚長に従って同様の歴史認識を競い合っていた。

更に、海自幕僚監部の精神教育資料にも、「敗戦を契機に日本国民は愛国心を口にすることのできない賤民意識のとりこになった」、などと書かれている事実が6日の参院外交・防衛委員会で明らかになった(7日朝日)。

政府、防衛省は、これら制服組の言動を知ってなお、それを制止できなかったのだ。

今を生きる戦後世代の日本国民は、軍事クーデターなどあり得ないと思っているかもしれない。

しかし、この国には、かつてまぎれもなく軍事クーデター未遂が行なわれた。

その結果首相以下要人が軍人に暗殺されている。

与野党の政治家は、まず、この文民統制の重要性と、その文民統制が危機に晒されている現実を、国民に知らせなければならない。

(後略~)

【引用元:天木直人のブログより一部引用】


果たして、現在の自衛隊がクーデターを起こすようなことがありうるのか?

そこで今日は、よく知られているニ・ニ六事件について、山本七平の記述を引用してみたい。

この有名なクーデターは一体どのような社会状況で起こってしまったのか?当時の軍人はどのような状態にあったのか?

過去の出来事の背景を調べれば、クーデターがどのようなとき起こりうるのか、という疑問にある程度答える事ができるだろうと思うからだ。

以下「わたしの中の日本軍」から引用していくことになるが、長いので何回かに分けてご紹介していくことにします。

■残飯司令と増飼将校

前章で述べた「特訓班」にMさんという老兵がいた。三十を越えていたであろう。もちろん結婚もして子供もおり、頭もうすく、でっぷり太っていた。特訓班人りは高血圧のためであった。

その彼が、ある日、ぽつんとひとりごとのように言った。

「あれじゃーね。二・二六が起るのはあたりまえだよ。二十越えたばかりの若憎があんな扱いをうければ、狂ってしまわない方がおかしいよ」と。

私は学校から軍隊へ直行した「世間知らず」であったが、Mさんは一個の社会人、当時の普通の常識的市民であった。確か都庁か区役所の課長か係長であったと思う。

この彼のような断固たる「常識的市民」から見ると、将校、特に青年将校は、その生活そのものが全く異常の一語につきる有様だったのである。一体この異常とは何であろうか。

二・二六などのルポや小説に登場するいわゆる青年将校は、戦前戦後を通じて、一つの型にはまった虚像が確固として出来あがっている。

彼らはまるで「カスミを食って悲憤慷慨し」「全く無報酬で、金銭のことなど念頭になく」「ただただ国を憂えていた」かのような印象をうける。

だがそういう人間は現実には存在しない

悲憤慷慨し、国を憂え、世を憂えていたように見える将校も、実際は月給をもらって生活している普通のサラリーマンであり、さらに収入という点では当時の社会で最も恵まれない「ペエペエの貧乏サラリーマン」だったのである。軍隊の「地下出版」には、次のような嘲笑がある。

・貧乏少尉のヤリクリ中尉のヤットコ大尉で百十四円――ヨメもモラエン アラカワイソー

・戦争ハ、ナゼ終ラザルカ、将校ノ戦時加俸ガナクナリ、ヨメノ来テガナクナルタメデアル


この第二の方は、『満期操典』という「操典」をもじった伝説的な地下出版物の一部だが、実に痛烈な皮肉である。

戦争がつづく限り、男性は不足し、相対的に女性はあまる。一方、将校には戦時加俸が入るから、この二つの理由で嫁の来てもあるだろうが、これがひとたび平和になれば、戦場から若い男性がどんどん復員してくる一方、将校は戦時加俸を打ち切られてますます貧しくなるから、そんな将校のところへは嫁の来てはあるまい――だから戦争をやめないんだろうという皮肉である。

もちろんいずれにも誇張があるが、大尉になっても「ヨメもモラエン」は、私の入営時すなわち昭和十七年の時点でみる限り、本俸だけなら事実に近かった。

皮肉といえば皮肉だが、軍部が勝手に起した満州事変、それにつづく「昭和十五年戦争」によって絶えず進行して行った悪性インフレは、貧乏サラリーマンにすぎない下級将校を徹底的に苦しめたのである。

部隊内では、将校は半神の如き存在である。

そこでその勢威から、だれでも、彼らが相当立派な門構えの家にでも住んでいるような錯覚をいだく。

しかし現実には、中尉クラスでは間借り、大尉クラスで、連隊の裏門に近い一年中日もささない百軒長屋がその住居だった。

連隊一羽振りのよくみえる「I連隊副官の家を探したが、どうしても見つからない。探し探してたどりついたら四畳半と三畳だけの裏長屋であった」というようなことは少しも珍しくない。

内地での私の中隊長も同じであり、ひどい裏長屋の一番奥の日の当らない一区画に住み、大尉夫人が、うすぐらい電灯の下で、髪をふりみだして一心不乱に封筒はりの内職をしていた。これは私の母が現実に目にした情景である。

そして当時、その中でも最も生活に困っていたのが「特進」といわれた将校たちであった。

将校の社会的地位の低下は、何も昭和に入ってから始まったことではなかった。ただその加速度が異常に早くなったにすぎず、この落下ぶりは、戦後の大学と大学生の低下ぶりによく似ている。

しかし、そうなる以前の低下ぶりも相当ひどいものだったかも知れない。

いわゆる「学士様なら娘をやろか」の時代には、陸軍少尉も学士なみであった。しかし学士様の方は勃興する資本主義の波に乗っていけたが、少尉様はそうはいかない。

『おはなはん』や『坂の上の雲』の時代には、佐官は社会の上流階級に位置していた。それが極端な言い方をすれば、昭和の初期には乞食同様と言いたいような地位にまで下落し、学上様とは決定的な差がついてしまったのである。

というと非常に大袈裟にきこえるかも知れないが、これは決して誇張ではない。
というのは軍人のうち将官になれる人は例外であり、ほとんど全部が佐官で退役になって恩給生活に入る。

恩給で生活ができれば悠々自適だが、インフレに一番弱いのが恩給生活者であることは昔も今も変りはない。

現役の尉官すなわち青年将校を苦しめたインフレは、さらに激しく退役の佐官を苦しめた。といっても、彼らには生活の知恵もなければ軍隊以外の社会に適応して行く能力もない。

何しろ幼年学校出身の将校なら、中学二年でいわば「軍隊生活」に入ってしまい、生涯の大半を軍隊という隔絶された社会でおくり、それ以外の社会は全く知らないのである。

生活苦に悩むこの退役佐官に目をつけた資本家がいた(と私は解釈している)。

そして「徴兵保険」という実に妙な保険を考え出したのである。どう考えてもこれは奇妙な保険であった。確か、男性に限り、十歳ぐらいで加入し、徴兵検査のとき満期になるという一種の生命保険であった。

一体全体、十歳で加入し二十歳で満期になる生命保険に、「保険」という意義が何かありうるであろうか。もちろんない。

ただこの保険の特徴は、勧誘員に生活にこまる退役の佐官を使ったという点にだけあると思う。

当時は、生命保険の勧誘員の社会的地位は実に低く、いわば「乞食同様の門前払い」があたりまえであった。

何と、かつての誇り高き連隊長や大隊長が、生活のためこの仕事をやっていたのである。

いずれの時代にもアイデアマンはいるものだが、当時の社会情勢を思い起すと、この「徴兵保険」とは実にうまいアイデアだったと思う。

退役の将校が軍装をしていても違法ではない。そこでこの勧誘員は、堂々と軍服を着て出現する。ところが当時の社会には「軍装」に対しては一応の敬意をはらい、「玄関払い」などは絶対しない習慣があった。

そこで「玄関」という第一関門は簡単に突破する。

ところが入ってきた中身は保険の勧誘員である。しかしこれも違法ではない。
退役になればどんな職業についても自由である。そして将校マントの下に隠しもっていたカバンの中から、やおら「徴兵保険」のパンフレットを取り出す。
実際は生命保険で、軍隊とは何の関係もないのだが、何か関連があるかのような錯覚を抱かすように話す。

軍隊とか徴兵とかいう言葉は、それ自体が「お上」を象徴する一種の威圧的な言葉なので、何となくかしこまって説明を関きはじめると、もういけない。この堂々たる「軍人さん」を追い返すことはできないのである。

わが家にも、立派なヒゲをたくわえた佐官外交員が何人か来訪された。
誇り高き青年将校にとっては、そのことも、またそれが彼らの落ち行く先の姿であることも、共に全く耐えられないことであったろう。

一つの夢と自負心をもって社会に出て、いわゆる定年まぢかの先輩たちのうらぶれた姿に大きな幻滅を感ずるのは何も彼らだけではないとはいえ、彼らにとって現実と夢はあまりに違いすぎた。

しかも彼らは当時の社会のエリートであり、士官学校は今の東大をはるかに越える魅力と威力をもっており、みな郷土の秀才、郷土の誉れとして入学し、一般社会から完全に隔絶した全寮制の中で、国家の柱石として徹底的なエリート教育をうけてきたのである。

その彼らにとって、これが光輝ある「帝国陸軍」の現実の姿であっては、「世の中はマチガットル」と考えても不思議ではない。むしろそれが普通で、そう考えなければ不思議である。

しかし一方、いわば外交員なら玄関払いをくわせるくせに、軍服姿ならば招じ入れるということは、そのこと自体、当時の社会が、それだけ軍人に遠慮し、かつ甘やかしていたことにもなる。

この感じは戦後の一時期の社会が、学生や大学や労組員に何となく遠慮し、甘やかしているのとよく似ている。

彼らは共に経済的にはひどく痛めつけられていながら、一種の特権階級であり、また治外法権的な保護を受けていた

面白いことに今の「学割」と非常に似た慣行があって、戦前には多くの場所に「軍人・子供半額」の札が下がっていた。

さらに面白いことに、軍隊と警察とが、今の学生・労組員・大学と警察との関係に似た、一種の強い緊張関係にあった。

(~中略~)

軍隊内はいわば大学の”自治”に似て、警察権は及ばず、何事があれ警察の介入は許されない特殊な社会である。

また外出した兵士にも、一切、警察権はタッチできず、これを統制する者は、第二種巡察と憲兵であるとされていた。

兵士がいかなる非行を行い、たとえそれが警察官の眼前で行われようと、警察官はそれを軍に報告はしても直接にはタッチしてはならない、兵士の身柄に手をかけるなどは、理由の如何をとわず言語道断だというのが軍の風潮であった。

(~中略~)

当時の軍人の警察への嫌悪感と両者の対立を示すものはこれだけではない。二・ニ六事件の直前の警視庁攻撃の演習はよく知られている。

将校にとっては警察も「腐敗せる体制の軽蔑すべき番犬であった」

そして新聞に報ぜられなくとも、さまざまのトラブルは、今の学生・警察間のトラブルより、はるかに多かったと思う。当時の軍隊にも「警察アレルギー」があったのである。

なぜこうなっていったか。
なぜ彼らの社会的地位が、まるで戦後の大学のように、異常な速度で落下していったか。

これについてはまた別の機会にのべるとして、彼らの実情に目を向ければ、そこには名目だけのエリート、その名にふさわしい収入を社会が絶対に支払おうとしないため、ひどい欲求不満にかられた「国家の柱石」たちがいた

二・二六事件については、農村の貧囚が彼らを決起させた一因だというのが定説のようだが、私はそう考えていないもっともっと明白な貧困が彼ら自身にあり、また彼らの目前にあった

確かに退役佐官の保険外交員も憂うつな存在であったろうが、しかし候補生として軍隊に来たとたん、おそらく、衝撃をうけるほど彼らを驚かせたものは「残飯司令」や「残飯出勤」、また「ボロかつぎ」「増飼将校」などの存在ではなかったろうか。

(~次回へ続く)

【引用元:私の中の日本軍(上)/残飯司令と増飼将校/P48~】


長くなったので、今日はここまで。
次回は残飯司令等一体何なのか、説明が展開していきます。
お楽しみに。

【関連記事】
・残飯司令と増飼将校【その2】~困窮した下級将校~
・残飯司令と増飼将校【その3】~集団では極端に称揚され、個人では徹底的に軽蔑された軍人たち~
・残飯司令と増飼将校【その4】~自らを見る勇気がなかった者の悲劇~

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「自己の絶対化」と「反日感情」の関連性~日本軍が石もて追われたその理由とは~

やれやれ、なんだか田母神氏を巡って、すったもんだの大騒動になってきましたね。
言論の自由とか、文民統制とか色んな方向に議論が行っちゃってますが、一体どのように収束するのでしょうか。
これが、自衛隊の思想統制などと妙な方向に走ってしまわなければ良いのですが…。

それはさておき、前回「石の雨と花の雨と」を上げたところ、コメントを幾つか頂き、それに応える意味で、今回も新たに山本七平の記述を引用していきたいと思います。

なぜ日本軍が石もて追われたのか。
山本七平小松真一は、その理由に「一人よがりで同情心が無い事」や「日本文化に普遍性なき為」を挙げています。
今日はそれに関する記述を「日本はなぜ敗れるのか」↓の中から以下紹介していきます。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03)
山本 七平

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■自己の絶対化と反日感情

(~前略)

一体問題はどこにあるのであろう。
戦争中、「鬼畜米英」という言葉があった。事実、戦場には”残虐行為”は常に存在するものであり、もちろん米英側にもあり、その個々の例を拡大して相手の全体像にすれば、対象はすべて人間でなくなり、「鬼畜米英」「鬼畜フィリピン」「鬼畜日本軍」になってしまう。

そしてこういう見方をする人たちの共通点は常に「自分は別だ」「自分はそういった鬼畜と同じ人間ではない」という前提、すなわち「相手を自分と同じ人間とは認めない」という立場で発言しており、その立場で相手の非を指摘することで自己を絶対化し、正当化している

だが、実をいうとその態度こそ、戦争中の軍部の、フィリピン人に対する態度であったのである。

そして、そういう人たちの基本的な態度は今も変らず、その対象が変っているにすぎない――そのことは、前述の短い引用と本多勝一氏の日本軍への描写を対比すれば、だれの目にも明らかなことであろう。

そして小松氏には、この態度が皆無なのである。

氏は、実に危険な、おそらくフィリピンで最も危険な場所におり、しかも全軍がジャングルに引揚げるという直前、別の記録でみれば、到底どうにもならない”残虐状態”の渦中にあるはずなのに、その恐怖すべき相手であるはずのゲリラと悠々と交渉して相互の諒解に達している。

また、コンスタブ〔べ〕ラリーヘの対処の仕方などは、一種、みごとといえる。
というのは、この日本軍の養成した警察隊の、比島潰乱期における日本軍への反乱は、さまざまなゲリラより恐るべき諸事件を発生させているからである。

そしてそれらの事件の背後には、現地における対日協力者への、あらゆる面における日本側の無責任が表われており、この問題の方が、私は、戦後の反日感情の基になっているのではないか、とすら思われるからである。

前述の本多勝一氏の『中国の旅』における「治安維持会」(対日協力者) への定義などを読むと、戦後そのために苦難の道を歩んだ中国人やその一族がこれを読んだら、日本人なるものをどう見るであろうと、少々、慄然とせざるを得ない

悪名高きベトナムのアメリカ軍さえ、対米協力者の生命の安全とその保障および現地の混血児に対しては、少なくとも最後の最後まで責任をとった。

そしてこれを批判した者に対する、台湾人からの痛烈な再批判があった――事実、台湾出身の評論家林景明氏なども、この点における日本人の倫理観を強く批判する、アメリカのあの態度を批判するなら、戦争中徴兵した台湾人への軍隊内における強制貯金ぐらいは補償したらどうなのだと。

日本人は、一切の対日協力者を、その生命をも保障せず放り出し、あげくの果ては本多氏のように、その人たちに罵詈雑言を加えている、と。

これでは、もう話し合いなどは一切ない世界になってしまう

だが小松氏にはゲリラとも話し合いができた。そして結局、ゲリラとの話し合いのできる人間だけが、対日協力者とも話し合いができ、相互に納得できる了解に達しうることができたわけである。

小松氏が、以上のような話し合いをしたのは、言うまでもなく、日本軍の敗退がすでに決定的となった段階においてであった。それなら、緒戦当時、あの「四か月間」に、小松氏がやったような「話し合い」が、中部山岳州の残存米比軍やモロ族との間に、できなかったのであろうか。

できなかった

なぜであろうか。一言でいえば「日本文化に普遍性なき為」「一人よがりで同情心が無い事」のためであった

ではなぜ小松氏にそれができたのか、氏はそれを知り、そう書けたからにほかならない。

だがそれが言えない者、それが書けないもの、そこにあるのは、自己の絶対化だけであり、「他に文化的基準のあること」を認めようとしない、奇妙な精神状態だけであった。

絶対化してしまえば、他との相対化において自己の文化を把握しなおして、相手にそれを理解さすことができなくなるから、普遍性をもちえない。

言うまでもなく普遍性はまず相対化を前提とする。

それは相手が自分と違う文化的基準で生きていることを、ありのままに当然のこととして「知ること」からはじまる。

もしそれが出来ないなら、自分だけが人間で、他はすべて人間でないことになってしまう――鬼畜米英・鬼畜フィリピン人・鬼畜日本軍と。

そしてそれは「一人よがりで同情心が無い事」であり、その人間が共感や同情らしき感情を示す場合は、何らかの絶対者に拝脆して、それと自己を固定して自己絶対化を行なう場合だけである。だがこれは、本質的には共感でもなければ同情でもない

昭和十九年、私かマニラについた時以来、朝から晩まで聞かされていたのは、フィリピン人への悪口であった。「アジア人の自覚がない」「国家意識がない」「大義親を滅すなどという考えは彼らに皆無だ」「米英崇拝が骨の髄までしみこんでいる」「利己的」「無責任」「勤労意欲は皆無」「彼らはプライドだけ高い」等々――。

だがだれ一人として、「彼らには彼らの生き方・考え方かある。
そしてそれは、この国の風土と歴史に根ざした、それなりの合理性かあるのだから、まずそれを知って、われわれの生き方との共通項を探ってみようではないか」とは言わなかった。

従って、一切の対話はなく、いわば「文化的無条件降伏」を強いたわけである。

それでいて、自己の文化を再把握し、言葉として客体化して、相手に伝えることはできなかった

考えてみれば、そうなるのが当然であって、従って、そこに出てくるものは、最初にのべたように彼らを「劣れる亜日本人」とみる蔑視の言葉だけなのである。そしてこの奇妙な態度は、戦後の日本にもそのままうけつがれた

昭和二十二年、フィリピンから帰って最初に私が感じたことは、そのことであった。

多くの人は、進駐軍に拝跪し、土下座して、わずか二年前の自分の姿を全く忘れたように自己をアメリカと心情的に同定して、戦前の日本人を「劣れる亜日本人」と蔑視していた

これはまさに「反省力なき事」である。

そして同じことは、日中復交時にも起ったが、どのときも共に、この「反省力なき事」の標本のような人たちが、「反省が足りない」と人びとに、同じように拝跪することを強要していた

だがその人びとは、かつて、台頭する軍部に最初に拝脆した人びとではなかったのか!

そういう人々がフィリピンに来た。
緒戦当時の本間軍司令官は、陸軍切っての「西欧通」といわれ、確かにそれらしい配慮はあった。フィリピン人の殆どがカトリック教徒であることを考えて、土井司教(後の枢機卿)をつれて行ったり、また現地のパワー・エリートの多くがハーバードやエール出身のことを考慮して、同校卒業の大学教授なども帯同していった。

だが問題は、一司令官のこういった配慮で解決する問題ではなかった。
同時にそれらの人の殆どすべては、軍と意見があわず、きわめて短時日のうちに帰国している。それはむしろ軍の方で「やっかい払い」をした、と言った方が正確なような状態であった。

自己を絶対化し、あるいは絶対化したものに自己を同定して拝跪を要求し、それに従わない者を鬼畜と規定し、ただただ討伐の対象としても話し合うべき相手とは規定しえない。

結局これが、フィリピンにおける日本軍の運命を決定したといえる。

フィリピン人をせめて日米の間で中立化させておくこともできなかった悲劇、その理由は、引用した記録と小松氏の文章を読み比べれば、だれの目にも明らかであろう。

だがすべての人間に、それがなし得なかったのではない

小松氏だけでなく、同じようなことが出来た人もおり、そういう人びとには、フィリピン人から収容所への絶えざる「差入れ」があった

そのことを小松氏も記している。
従って問題は常に、個人としてはそれができるという伝統がなぜ、全体の指導原理とはなりえないのかという問題であろう。

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/自己の絶対化と反日感情/P145~】


ネットしていて、左右どちらにも見られるのですが、極端な人ほど「相手を人と認めない」ような気がします。最初から論議する相手ではなく、見下し軽蔑する対象としてしか扱わない。

こういう人々をみると、戦前から何も変っていないんだな…と改めて思わざるを得ません。

個人的な感想になりますが、いわゆるネットウヨの言動に対しては、今までの左よりだった反動という面もあって、感情的になり過ぎて馬鹿なこと言ってやがる…としか思わないのです(もちろん、こうした行き過ぎは正さねばならないと思いますが)。

それに対し、左翼と言うのは嫌ですね。

何が嫌かって、それはまさに山本七平が指摘したとおり、

『「自分は別だ」「自分はそういった鬼畜と同じ人間ではない」という前提、すなわち「相手を自分と同じ人間とは認めない」という立場で発言しており、その立場で相手の非を指摘することで自己を絶対化し、正当化している。』

としか思えないからです。
道徳的優位という偽善の衣を被っている分だけ、始末が悪い。
私の見るところ、左翼のブログには、そういう腐臭を思いっきり発散しているところが多いですね(本人はどうせ気付くことはないんだろうけど)。

話が横にずれちゃいましたが、結局のところ、「相手と話すこと」が個人では出来ても、日本人全体として出来ないのはどうしてなのかという山本七平の指摘は、よく考える必要がありそうです。


【関連記事】
・「石の雨と花の雨と」~石もて追われた日本軍/その現実を我々は直視しているか?~


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「石の雨と花の雨と」~石もて追われた日本軍/その現実を我々は直視しているか?~

前回、空自幕僚長の田母神氏が主張した「日本は悪くない」論について、余りにも自慰的だということを書きましたが、今回は、そんな「日本は悪くなかった」論に与する人たちに読んでもらいたい山本七平の記述を紹介したいと思います。

■石の雨と花の雨と

『週刊朝日』49年2月1日号の、森本哲郎氏と田中前首相令嬢、田中真紀子さんの対談の中に、次の会話がある。

森本哲郎 こんどの五カ国訪問旅行の感想を、ひとことで言うとすれば、どういうことになりますか。

田中真紀子 東南アジアと中しましても、みんなちがいますので、それを一括して、あのへんはどうだとか、アジアはひとつだとか言えませんね。

森本 絶対に言えませんよ。日本人はすぐ、アジアはひとつだなんていいたがるけれど、ぼくはあの言葉が日本人のアジア観を誤らせてきたと思います。……


この会話の結論は一言でいえば、「日本で言われるアジアなるものはない」ということであろう。

「アジアはない」、そう、確かに「アジアはない」。

私は、戦後三十年たって、活字になった「アジアはない」という言葉に、やっとめぐり会えた。そしてこれを読んだとき、何やらほっとした安堵感とともに、二人にお礼を言いたいような気持になった。

だが、この言葉は、だれにも注目されず、消えてしまったように思われる。そして相変わらず横行しているのが、「アメリカはアジアの心を知らなかった」といったような言葉である。

だがそういう言葉を口にする人は、「アジア」という語の意味内容を、その内心で真剣に検討したことがあるのであろうか。

「アジアはない」。この言葉にはすぐ反論が出るだろう。これは日本人のタブーに触れる言葉だから、激烈な反論かもしれない。では次のように言いなおしてもいい。

「われわれが頭の中で勝手に描いているアジアとかアジア人の心とかいった概念に適合する対象は、現実にはどこにも存在しない」と

三十年前、何百万という人が、入れかわり立ちかわり、東アジアの各地へ行った。私もその一人だった。

そして現地で会った人びとが、自分のもっているアジア人という概念に適合しなかったとき、「こりゃ、われわれの”見ずして思い込んでいるアジア人という概念”が誤っているのではないか、否、この広大なユーラシア大陸の大部分を占める地に、”アジアといった共通の像”があると一方的にきめてしまうのは誤りで、単なる一人よがりの思い込みではなかったのか?」

反省することができたなら、日本のおかした過ちはもっと軽いものであったろう、と私は思う。

われわれは、否、少なくとも私は、残念ながら当初は、そういう考え方・見方ができなかった。

そして、自己の概念に適合しない相手を見たとき、多くの人と同じように私も、いとも簡単に言ってのけた。

「ピリ公なんざぁアジア人じゃネエ」。

ピリ公とはフィリピン人への蔑称である。そして、アジアの各地で、実に多くの人がこれと似た言葉を口にしていたことを、戦後に知った。

これはどういうことであろうか。
自己の概念に適合しなければ、自己の同胞をすら「非国民め」と村八分にする精神構造から出た「非アジア人め」という相手を拒否する言葉だと思うが、一体なぜわれわれは、こういう場合、自己のもっている”アジアという概念”の方を妄想と思えないのであろうか。

一体なぜ、甚だ茫漠として明確でない自己の概念――というより妄想を絶対化するのか。

「アメリカはアジアの心を知らなかった」と言うなら、そう言う人は、「アジアの心」とやらを、本当に知っているのか。そしてそれは、その心を探し求めて、全アジアを経めぐった上で形成された概念なのか?

米海兵隊によるベトナムからの米人引揚げ作戦の報道は私を憂鬱にした

何万という難民がそのあとについて脱出していくが、石を投げる者はいない。その記事の一つ一つは、しまいには、読むのが苦痛になった。

形は変わるが三十年前われわれも比島から撤退した。だれか、われわれのあとについて来たであろうか

もちろん事情は違う。私が言うのは本当について来てほしいということではない。

だれかが、「日本軍のあとについて脱出したい、しかしそれは現実にはできない」と内心で思ってくれたであろうか、ということである。

もちろん何ごとにも例外はある。

しかしわれわれは、アメリカ軍と違って、字義通りに「石をもって追われた」のであった。

人間は失意のときに、国家・民族はその敗退のときに、虚飾なき姿を露呈してしまうのなら、自己の体験と彼らの敗退ぶりとの対比は、まるでわれわれの弱点が遠慮なく、えぐり出されるようで苦しかった

そしてその苦痛をだれも感じていないらしいのが不思議であった。

というのはそれは三十年前の、マニラ埠頭の罵声と石の雨を、昨日のことのように私に思い出させたからである。

私も同じ体験を記したことがあるが、ここではまずその時点の正確な記述である故小松真一氏の『虜人日記』から、引用させていただこう。

「……『バカ野郎』『ドロボー』『コラー』『コノヤロウ』『人殺し』『イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)』憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。隣の人の頭に石が当り、血が出た……」

これは二十一年四月、戦後八ヵ月目の記録であり、従って投石・罵声にもやや落着きがあるが、これが二十年九月ごろだと、異様な憎悪の熱気のようなものが群衆の中に充満しており、その中をひかれて行くと、今にも左右から全員が殺到して来て、ハつ裂きのリンチにあうのではないかと思われるほどであった。

だが、サイゴンの市民は、「アジアの心を知らない」米軍に、一個でも、石を投げたであろうか

護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた。考えてみれば、われわれは「護送」において常にここまではしていない

内地でも重傷を負ったB29搭乗員捕虜を、軍が住民のリンチに委ねた例がある。だが、私とて、もし「親のカタキだ、一回でよいから撲らせてくれ」などと言われたら、威嚇射撃でこれに答えることは、できそうもない。

だがこの一回が恐るべき状態への導火線になりうる。そしてこれが、後述する日本的中途半端なのである。

私は幸運だったのだろう。だがすべての日本兵がそのように幸運だったわけではない。

戦争末期、特にレイテ戦の後で、小舟艇でレイテを脱出して付近の島に流れついた、戦闘能力なき日本軍小部隊への集団リンチの記録は、すさまじい。

これらについては、もちろん日本側には一切資料はなく、戦争直後に、比島の新聞・週刊誌等に挿絵入りで連載された「日本軍殲滅記」から推定する以外にない。

また、小島嶼の警備隊・守護隊の中には、完全に消されてしまって、一切消息不明のものも少なくない。

だがそれらの島の多くは、最初から実質的には無戦闘上陸で、いわば「平和進駐」に等しかった。

比島における緒戦の戦場はほぼ、リンガエンからバターンまでに限定されていたのだから――。そして米軍の再上陸がおくれ、その際も無戦闘に等しい島もあったのに。

ベトナムの記録を調べても、このように悲惨な、「米兵落ち武者狩りの記録」といったものはない

では、彼らが人道的民族でわれわれが残虐民族だったからか

この図式は、戦争直後は断固たる「神話」であったが、今では「米軍人道主義軍隊神話」など、信ずる人はいるまい。

では何からこの差が出るのか。

「いやそれは違う、この二つを対比することは土台無理な話だ……」という反論は当然に出るであろう。私自身かつて、一心にこの反論をやったのだから。

もちろんそのときはまだベトナムはなかった。
従って題材はバターンであり、それが論じられた場所は、戦犯容疑者収容所であった。

憎悪と投石と罵声の雨の中で、人は平静でいられるであろうか。

不思議なほど平静で、彼らの表情とゼスチュアも、奇妙にはっきりと目に入る。
小松氏もそう記している。

だがこれは平静というより空虚と言うべき状態であろう。

心の中は完全な空洞になり、それがまるで筒のようになって自分を支え、一見、毅然とも思える姿勢をとらせているが、心には何一つない、という状態である。

そしてその筒は、硬直した無視と蔑視でできており、安全地帯でほっとしたとき、その筒がみじんにくだけてがっくりする。と同時に、くだけた筒に火がついたように、煮えたぎる憎悪がむらむらと全身に広がって行く。そしてそれが一応落ち着くと、奇妙な諦念と侮蔑にかわる

私かあの問題を取り上げたのは、ちょうどそういう心理状態のときだった。

そしてその背後にあるのは「ピリ公なんざぁアジア人じゃネエ」という、「アジアという妄想」に基づく、抜きがたい偏見であった。

「どうせやつらは、そういう民族なんだ。骨の髄まで植民地根性がしみこんでやがる。敗者には石を投げ、勝者には土下座する。確かにわれわれは敗れたさ、だが、やつらにゃ敗れる能力もないくせしやがって。そういうやつらなんだ、石しか投げられないのは……」

呪詛のようにこういう言葉が延々とつづく。

まるで自分の傷口をなめるように

だが、結局それが事実でないことは、比島独立運動史を多少とも読んでいたわれわれ自身、よく知っていた。

しかし、知っていながら、そう信じたい。またそういう呪詛を正面から反論する者もいない。いわば一種の自慰か創のなめあいであろう。

「違いますぜ、そりゃあ――」

収容所で、私の斜め前のカンバスベッドから、Sさんが言った。

どういうわけか彼はササミさんと呼ばれていた。本名なのか渾名なのか知らない。ササミさんは、やや猫背、浅黒い細長い顔で、顎が少ししゃくれ、声がハスキーだった。殆ど口をきかず、口を出さず、何か言うときは呟くように言う。温和そのものの人だが、その目には一種の冷たさがあった。

その彼が不意に言った。

「違いますぜ、バターンのときは違いましたぜ」

私は驚いて彼の顔を見た。当時「パターン」は禁句だった。

バターンの死の行進に、何らかの形でタッチしたなどとは、絶対だれも言わなかったし、ききもしなかった。

彼は、一兵卒から叩きあげた老憲兵大尉であり、あの行進のとき米軍の捕虜を護送した一人であった。彼は言った、

あの行進のことは誰も絶対口にしない。だからあなたは何も知らないだろう。

石の雨ではない花の雨が降ったのだ。沿道には人びとがむらがり、花を投げ、タバコを差し出し、渇いた者には水を飲ませ――それがどこまでもつづく。追い払っても追い払ってもむだだった。


「全く、あたまに来ましたよ、あれにゃ。でもわかるでしょ。彼らだって別に、いつも敗者に石を投げ、勝者に上下座するわけじゃありませんぜ

では一体なぜ彼らには花を、われわれには石を――、彼らはマッカーサーの「アイ・シャル・リターン」を先取りしたのであろうか。

そうではない。

彼らはそういう適性が最もない「感情過多な一面」をもつ民族である。また、あの時点では「計画的先取り」の名人なら、一部の華僑のように、「アイ・シャル……」をとらなかったはずである。

日本軍はまだ破竹の勢い、スタンレー山脈を越えてポートモレスビーに迫り、ソロモン群島へと進出し、豪北派遣軍を編成してポート・ダーウィンを占領するつもりでいた。豪州側もそれを覚悟し、豪北一帯を放棄するつもりか、人間・家畜の南下撤退大作戦を実施していた――という状況がまだまだつづくのだから。

では一体なぜか。

私は、ある意味で最もよく比島の実情を知っているササミさんから、さらに詳しい当時の状況と、彼の意見とを聞きたかった。だが、以上の数語を呟くようにぼそぼそと語り終わると、彼はまた取りつくしまもない黙念の人にもどってしまった。

しかし少し調べれば、自分の呪詛が、結局自己を語っているにすぎないこと、言いかえれば、自らの尺度で相手を計っているにすぎないことに気がついたはずだ。

というのは、その時点ではフィリピン人ゲリラが、比島解放の”英雄”だったはずだ。

だがそのときでも、彼らはこの”英雄”を「勝てば官軍」とあがめていない。ゲリラのうちフィリピン人に残酷なことをしたものを、その勝利の暁に堂々と裁判に付している。

一方対日協力者は、対日協力者であったという理由だけで処刑はしていない。従って比島には、厳密な意味での”戦犯”はいない

それが一見きわめて感情過多に見える彼らが、あの戦争直後の集団ヒステリー的状態の中で行なったことなのである。

このことは、彼らには彼らの哲学とそれに基づく規範があり、それがわれわれとは別種のものであることを物語っている。

従って花を投げるにも石を投げるにも、彼らには彼らの基準があったのである。

われわれはそれを知らなかった

そして知ろうとさえせずに「ピリ公なんざぁアジア人じゃネエ」と言って、「アジア」という妄想を固持していたのである。

(~後略~)

【引用元:一下級将校の見た帝国陸軍/石の雨と花の雨と/P72~】


田母神氏の論文を読んでいて強く感じたのが、「一人よがりの思い込み」です。それと自らの創を隠すかのごとき「自慰」。
だから、上記引用の「石の雨と花の雨と」を思い出した。

「日本は悪くない」と言う前に、「石もて追われた」という厳然たる事実をまず知りましょう。そして直視しましょう。

なぜそうなってしまったのか?
そのことについて、我々は果たして考えたことがあるのでしょうか。

そうしたことに全く思いを至らせることなしに、「日本は悪くない」と言うのは、正にこの問題点から目を逸らすだけの自慰行為でしかないような気がします。

【後続記事】
・「自己の絶対化」と「反日感情」の関連性~日本軍が石もて追われたその理由とは~

【関連記事】
・いい加減「日本は悪くない」論をぶつのはやめましょう。事実の認定のみで争うべし!


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いい加減「日本は悪くない」論をぶつのはやめましょう。事実の認定のみで争うべし!

すっかり、更新が滞ってしまいました。いろいろ書きたいネタというのがないわけではないのですが、何しろ書くのが得意でなく、(たいした内容でもないし、引用ばかりなのに)一つエントリーを上げるのにも書き直したりと試行錯誤している有様なので、前回のアントニーの詐術シリーズが終わったあと、しばらく書く気が起こりませんでしたよ。

さて、それでは本題に入りますが、航空自衛隊の空幕長の田母神氏が書いた論文が話題となっていますね。今日はそれに関して思った事を書いていこうと思います。

内容自体は、どこかで読んだことのあるような内容の主張でしたね。保守派からみれば、細部で?な処(アメリカの陰謀をぶち上げている処など。証明できない事を主張している段階でどうかと思う)もあるけれど概ね頷ける内容じゃないでしょうか。山本七平に出会う前の私であれば、そのとおりだ!それなのになぜ首を切られるんだぁ~などと考えていたかもしれません。

でも、最近思うんですけど、なんだかんだ言っても「俺だけが悪いわけじゃない」的主張じゃ何の解決にもならないんですよね。

幾ら自分で正しいと思っても、それは一面的な見方に過ぎないし、実際に被害を受けた相手に通用するものではない。だってそれほど被害を受けたとは思えない韓国ですら、その論理は通用しないんですから。
確かに、田母神氏のような主張は、我々日本人から見れば、「日本だけがなぜこんなに責められなけりゃならないのだ」という感情に訴えかけてくるがゆえに、つい飛びつきたくなる主張なんですけど。

それに、一度示した談話というのはなかなか取り消すのは難しい。
個人的には、村山談話もどうにかしたいところですが、何よりも悪評ぷんぷんの河野談話は是非撤回させたいところなんですがねぇ~。

ただ、一旦公的に認めてしまったことを覆すには、確たる証拠を揃え、国内的にコンセンサスを得たとしてもかなり難しいのではないか…とちょっと絶望的にすらなります。つくづく河野洋平が恨めしくなりますね。

どうすればいいのか?
私自身も、具体的な解決策というものを提示できないのですが、この問題については、もはや善悪等が絡む解釈についての論争はなるべく避け、事実の認定のみについて争う姿勢をとり続けるしかないのではないでしょうか。事実を提示し続ける。それだけしか対抗手段は残されていないような気がします。

そして、もう一つ言える事は、今回のような立場の人によるこうした主張は何の役に立たないどころか、却って有害でしかないのではないか…という事。

こうした主張をしたいのであれば、公人たる立場でやるべきではないでしょうね。
田母神氏は、確信犯的に問題提起して自らの主張を広めたいのかも知れません。
日本人には心情的に受け入れやすい説ですから、日本人の間には受け入れられていくかも知れませんが、このやり方は対外的に印象が悪すぎると思います。

結局のところ、田母神氏の主張は、余りにも自慰的要素が強すぎるのです。
そうした開き直りが許されるのは戦勝国の権利だと考えるべきなのかもしれません。
敗戦国がいまさら悪くなかったと主張しても、取り合ってもらえない…そう覚悟を決める必要があるのでは。

それに、こうした論議は不毛です。
賛成する者には、反対する者が非国民のように見えてしまうし、反対する者からすれば、反省のない往生際の悪い奴としか見えないでしょう。

「日本は悪い/悪くない」…にばかり焦点が当たり、それを認めるか認めないかで、「反省した/していない」という結論にいつも矮小化されてしまう。なんだかなぁ。

いつもは、左翼のスタンスに厳しい自分なんですけど、今回ばかりは、この田母神氏の主張に同意する人には、次のことを考えてもらいたいですね。

1)生半可な対応は中韓の代弁者である左翼の連中に揚げ足を取られる危険性があること。

2)所詮、悪くないと主張しても、それは解釈の問題であって、いかようにでも受け取ることは出来る以上、水掛け論に終わらざるを得ない。確実な事実認定でのみ争うべし



そうしないと、道徳的優位性の衣を被って「反省が足りない」とのたまう傲慢な左翼の連中をますます付け上がらせることになってしまう。

反省が足りないと文句を言うだけが取り柄で、その実、批難することや揚げ足を取ることだけは得意で何ら反省の中身について考えたことの無い連中、そういう連中に、「反省が足りない!」といわれることだけは避けたいものですね。

今回の「日本は悪くなかった論」を眺めていて、ふと思い出したのが、山本七平の「一下級将校の見た帝国陸軍」の一章「石の雨と花の雨と」。

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これは、「日本は悪くなかった」論に与する人たちに是非一度目を通してもらいたい。
そうすれば、如何に自分の主張が一面的で、自慰的なものに過ぎないのか。
そして、本当に反省すべきなのは、一体何なのか?それを考えるよいきっかけになると思いますので。

今日はもう長くなりましたので、「石の雨と花の雨」については、次回取り上げて行きます。
お楽しみに。


【関連記事】
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「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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