ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
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(前回の続き)
確かに歴史は戦勝者によって捏造される。
おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。
従ってマッ力ーサーも毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を握造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。
しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。
もちろん収容所時代には、マック制樹立の基とするための「太平洋戦争史」などは全然耳に入って来ず、私の目の前にあるのは、過ぎて来た時日と、それを思い返す約一年半の時間だけであった。
そしてこの期間は、ジュネーヴ条約とやらのおかけで、われわれは労働を強制されず、またいわゆる生活問題もなく、といって娯楽は皆無に近く、ただ「時間」だけは全く持て余すほどあったという、生涯二度とありそうもない奇妙な期間であった。
これは非常に珍しい戦後体験かも知れない。
そして、私だけでなく多くの人が、事ここに至った根本的な原因は、「日本人の思考の型」にあるのではないかと考えたのである。
面白いもので、人間、日常生活の煩雑さから解放され、同時に、あらゆる組織がなくなって、組織の一員という重圧感はもちろんのこと、集団内の自己という感覚まで喪失し、さらにあるいは処刑されるかも知れないとなると、本当に一個人になってしまい、そうなると、すべては、「思考」が基本だというごく当然のことを、改めてはっきりと思いなおさざるを得なくなるのである。
そしてほとんどすべての人が指摘したことだが、日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるということであった。
金大中事件や中村大尉事件を例にとれば、相手に「非」があるかないか、という問題と、「非」があっても、その「非」を追及することが可能か不可能かという問題、すなわちここに二つの問題があり、そしてそれは別問題だということがわからなくなっている。
また再軍備という問題なら、「是か・非か」の前に「可能か・不可能か」が現実の問題としてまず検討されねばならず、不可能ならば、不可能なことの是非など論ずるのは、時間の空費だという考え方が全くない、ということである。
そしてそんなことを一言でも指摘すれば、常に、目くじら立ててドヤされ、いつしか「是か・非か」論にされてしまって、何か不当なことを言ったかのようにされてしまう、ということであった。
収容所時代から口の悪かったKさんなどになると、「長沼判決(註1)」「再軍備是か非か」「違憲か合憲か」などという議論は、識者は憤慨されるであろうが、全く下らない時間つぶしとしかうつらないらしい。
(註1)…長沼ナイキ事件。以下wikiより抜粋。札幌地方裁判所(裁判長・福島重雄)は1973年9月7日、「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」とし「世界の各国はいずれも自国の防衛のために軍備を保有するのであって、単に自国の防衛のために必要であるという理由では、それが軍隊ないし戦力であることを否定する根拠にはならない」とする初の違憲判決で原告・住民側の請求を認めた。(wiki/viswiki参照)
彼の言い方はいわば伝法口調だが、私が言っても、結局は表現が紳士的(?)だというだけの差だから、その通り記しておこう。
「バカは死ななきや治らないんだから、是か非か議論したきゃ、させときゃいいじゃネエか。
第一アンタが下らんことなんか書く必要ないよ。アンタが何と言ったって、可能か不可能かを現時点の現実の問題としては考えないという体質は、変るわけじゃないんだから。
再軍備論?
議論させときゃいいじゃないか。
今は何を言ったってだめだよ。
だが、いつかはまた『一時』だけ目がさめるさ。
簡単なことなんだがなあ。
どれだけの軍備をもったとこで、どっかの国が日本の港湾に機雷を敷設して、掃海させない程度に戦闘を継続したら、まず最初に燃料がなくなり、ついで食糧もなくなって、日本丸は数ヶ月で『アパリの地獄船』になるというだけだよ。
そうなったとき、どっかの国が全面戦争の危険をおかしても、その機雷を撤去してくれるかい。
『ニャンザン(註2)』があんなに憤慨しても、中ソは動かなかったんだぜ。
(註2)…北ベトナム共産党機関紙のこと。
北ヴェトナムに対してすらそうなんだ。
その現実をはっきり見ていながら、日本の場合、どっかの国が、原水爆の危険をおかしても、日本のために動いてくれると思っている人もいるのかね。
きっとその時にまた『一時』だけで目をさますよ。しようがないさ、国民性だよ」
非常に乱暴な議論に見えるが、それは表現であって、内容は、乱暴とはいえない。
史上の多くの「敗戦」や「無条件降伏」を探っていくと、その原因が実は「飢え」すなわち食糧であったという冷厳なる事実にわれわれは気づくのである。
ナポレオンの敗北は「冬将軍」によるといわれるが、その記録を見ていくと、それが「飢え将軍」でもあることに気づく。
飢えはすべての秩序を破壊する。
日本軍とてナポレオン軍とて例外てありえない。
「……軍紀は全く消滅した。焚火をしている兵士たちの近くに将軍があたりに来ても、何らかの食糧をもって来なければ、兵士たちに追い払われた」と。
カイゼルの最後の参謀総長フォン・ゼークトは、第一次大戦を「将軍を侮辱した戦争」と呼んだ。
将軍が何を命じようと、参謀が何を立案しようと、兵士たちは西部戦線の塹壕にへばりついていた。
そしてドイツは飢えに敗れた。
戦争そのものが将軍を侮辱する時代は、すでに第一次大戦に決定的になっていた。
それなのに今でも、かつて「軍人勅諭」を金科玉条としたと同じように『持久戦論』を無謬論の如くに引用する人がいるということは、いわば「遅れ」の問題でなく「思考の型」の問題と考えざるを得ない。
というのは、第二次大戦において、この問題の範囲はさらに広くなり、「戦争は将軍を無視し」問題は補給だけになっていく。
補給が途絶せず、飢えさえなければ、いかなる大量砲爆撃にも平然と耐えられることは、金門島がよく物語っている。
この小島に撃ち込まれた砲弾の総数は驚くなかれ約百万発に近い。
これはちょっと想像に絶する量である。
しかし彼らは飢えないがゆえに平然としている。
一方、シンガポールでは、一門約四百発でイギリス軍は降伏した。
これは、国府軍が世界最強の軍隊で、イギリス軍は弱かったということではない。
日本がブキテマの水道用貯水池を押えて、給水を断ちうる状態になっただけである。
日本については言うまでもない。
そしてこういった事実を列挙せよというなら、いくらでもある。
そして世界はすでにこの冷厳な事実をはっきり計算に入れていると私は思っている。
軍備とは何か、それは食糧だという事実を。
すなわち兵を動かさずとも、食糧を動かすだけ、あるいはとめるだけで、そして必要とあらば燃料をも止めれば、それだけで一国を「無条件降伏」させうることは、すでに現実の計画として立案されていると私は考えている。
そしてそういう時代に、われわれが生きつづけて行く道を探るという点から見ると、「長沼判決」とそれをとりまくさまざまな議論は、相当に時代ばなれがしている、というより「可能・不可能」を算定する能力がないことを明らかにしているといえよう。
そしてこれこそ最初に取り上げた問題「確定要素・不確定要素」の問題である。
われわれは、「食糧、燃料を含めた軍備」という点で、全く、手段方法なき状態におかれているのである。
武器を並べ立てても、それは気休めにすぎない。
そしてこの客観的状態は、もちろん憲法を改正したからといって変化するわけでない。
では一体どうすればよいのか。
その道を発見するためには、われわれが今はひとまず故意に「憲法」という問題から離れ、同時にマック型戦争観を清算しなければならないと思う。
そうしないと、相矛盾したこの二つの問いにはさまって、しかもその二つに違反してはならないとなると、思考が一切不可能になってしまい、実りなき議論が空転するだけになってしまうからである。
その空転ぶりは「確定要素」対「人間」という新井宝雄氏の奇妙な対置にも出てくる。
人間は自らのうちに、絶対的といえる確定要素をもっているのであって、両者は対置する対象ではない。
その決定的な要素の一つは食糧であって、この絶対的な確定要素の計算を無視し、「可能・不可能」という考え方に立たなかったのが軍部であり、その結果が飢えてあり、餓死と降伏であった。
そしてこの事実を消したのが、実はマッカーサーなのである。
その結果、全く昔の軍部同様に、左は毛沢東を引用して、新井氏のように「人だ、人だ」と強調すれば、右も一人一人が、「国を守る気概を持て」と言っているわけであろう。
これは結局、同じことを言っているにすぎず、いわば左翼的表現と右翼的素現とでもいうべきものの、表現の差にすぎないのである。
われわれはまず、この状態から脱却しなければならないはずだ。
(この章終わり)
【引用元:ある異常体験者の偏見/マッカーサーの戦争観/P215~】
一下級将校の見た帝国陸軍 (文春文庫)
(1987/08)
山本 七平
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(前回の続き)
そして米軍が介入して暴力団が一掃される。
するととたんに秩序がくずれる。
「何んと日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」。
これが、この現実を見たときの小松さんの嘆きである。
そしてこの嘆きを裏返したような、私的制裁を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない。
そしてその人たちの密かなる主張は、もしそれを全廃すれば、軍紀すなわち秩序の維持も教育訓練もできなくなると言うのである。
それを堂々と主張する下士官もいた。
「いいか。私的制裁を受けた者は手をあげろと言われたら、手をあげてかまわないぞ。
オレは堂々と営倉に入ってやる。
これをやらにゃ精兵に鍛え上げることはできないし、軍紀も維持できない。
オレはお国のためにやってんだ。
やましい点は全然ないからな。
いいか、あげたいやつは手をあげろ」
そしてこの暴力支配は将校にもあり、部下の将校を平気で撲り倒し、気にくわねば自決の強要を乱発し、それをしつつ私的制裁絶滅を兵に訓旨していた隊長もいる。
石田徳氏は『ルソンの霧』(朝日新聞社)で自決強要の恐怖すべき現場をそのままに記しておられるが、こういった例は決して少なくない。
収容所は、それらがただ赤裸々に出てきたにすぎない。
そしてここまで行かなくとも、暴力一瞬前の状態に相手を置き、攻撃的暴言の連発で非合理的服従を強要するのは、だれ一人不思議に思わぬ日常のことであった。
そして戦後にもこれがあり、多人数の集中的暴言で一人間に沈黙を強いることを、だれも不思議に思っていない。
なぜか。
なぜそうなるのか。
軍隊にはいろいろの人がいる。
動物学を学んでいたYさんは、これを「動物的攻撃性に基づく」秩序だと言い、収容所とは鶏舎で、その秩序はちょうど「トマリ木の秩序」と同じだと言った。
雄鶏は、最も攻撃性の強いものがトマリ木の一番上にとまり、その強さの序列が上から順々に下がりトマリ木の序列になる、と。
帝国陸軍は、「攻撃精神旺盛ナル軍隊」だけを目指したから、動物的攻撃性だけが主導権をもち、野牛(バッファロー)の大群が汽車に突撃するような攻撃をし、同時にそれを行うための秩序が、暴力という動物的攻撃性だけの「トマリ木の秩序」になった、と。
そう言われれば「戦後的ケロリ」は、攻撃が頓挫した野牛群が、ケロリとして草をくっているのと同じことなのか?
また軍制史の教官だったというA大佐は、日本軍創設時に原因があると言った。
そのころは、血縁・地縁を基礎とする自然発生的な村落共同体が厳存していたころで、その中の若衆制度という、青年期の年次制「組」制度が輸入の軍隊組織と結合し、若衆三年兵組、二年兵組、初年兵組という形になり、その実質には結局手がつけられなかった。
そのうえ陸軍は自然発生的な村の秩序しか知らず、組織をつくって秩序を立てるという意識がない。
これはヨーロッパの、アレキサンダー大王のマケドニア方陣以来の、幾何学的な組織という考え方とそれを生み出す哲学が皆無なため、そういう組織的発想に基づく軍隊組織とは、内実は全くの別ものになった。
従って軍人勅諭には組織論はもとより組織という概念そのものがなく、「社儀を正しくすべし」の「礼」だけが秩序の基本だった。
だから外面的な礼儀の秩序が虚礼となって宙に浮くと、暴力とそれに基づく心理的圧迫だけの秩序になってしまった。
一人への公開リンチによる全員への脅迫が全収容所を統制し得たのと非常によく似た形、すなわち一人の将校を自決させることによって、全将校とその部下を統制し、同時に私的制裁が末端の秩序を維持するという形になってしまった、と。
いろいろな原因があったと思う。
そして事大主義も大きな要素だったに違いない。
だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。
一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。
陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。
日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。
何かの失敗があって撲られる。
「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。
黙って一回撲られた方が楽なのである。
海軍二等水兵だった田中実さん戯画の「〈泣いている兵隊〉言い訳すればするほど徹底的にやられた。無実の罪がくやしくて泣く」は、この状態をよく表している。
そして、表れ方は違っても、その基本的な実情は、下級将校も変わらなかった。
すなわち、「はじめに言葉あり」の逆、「はじめに言葉なし」がその秩序の出発点であり基本であった。
人から言葉を奪えば、残るものは、動物的攻撃性に基づく暴力秩序、いわば「トマリ木の秩序」しかない。
そうなれば精神とは棍棒にすぎず、その実体は海軍の「精神棒」という言葉によく表れている。
日本軍は、言葉を奪った。
その結果がカランバン(註)に集約的に表れて不思議ではない。
(註)…フィリピンの戦犯容疑者収容所があった場所。
そこは暴力だけ。
言葉らしく聞こえるものも、実体は動物の「唸り声」「吠え声」に等しい威嚇だけである。
他人の言葉を奪えば自らの言葉を失う。
従って出てくるのは、八紘一宇とか大東亜共栄圏とかいった、「吠え声」に等しい意味不明のスローガンだけである。
人は、新左翼の言葉がわからないというが、軍部のスローガンも、実はだれにもその意味内容がわからなかった。
一体その言葉でどういう秩序を立てて、その中に自らが住みかつ人びとを住まわすつもりなのか、言ってる本人ですらわからない。
清水幾太郎氏の『わが人生の断片』に、ビルマ人に大東亜共栄圏の意味をきかれ、咄嵯に「アジア合衆国」と言って問題になり、それは「千成瓢箪」だと答えよと言われた面白い記述がある。
これがさらに八紘一宇となれば、一体それが、具体的にどんな組織でどんな秩序なのか、言ってる本人にも不明である。
こういうスローガンはヤクザが使う「仁義」という言葉と同じで、すでに原意なき音声であり、言葉を奪うことによって言葉を奪われた動物的暴力秩序が発する唸り声と吠え声にすぎない。
日本的ファシズムの形態を問われれば、私は「はじめに言葉なし」がその基本的形態で、それはヒトラーの雄弁とは別のものだと思う。
彼のようなタイプの指導者は日本にはいなかった。
”解放者”日本軍が、なぜ、それ以前の植民地宗主国よりも嫌われたのか。
それは動物的攻撃性があるだけで、具体的に、どういう組織でどんな秩序を立てるつもりなのか、言葉で説明することがだれにもできなかったからである。
「大東亜共栄圏とかけて何ととく」
「千成瓢箪ととく」
「ココロは、大きな瓢箪(日本)のまわりに小さな瓢箪(各国)がついているから」。
これはナンセンス・クイズであって説明でない。
説明できないはず、本人にもわからない「吠え声」なのだから――結局、日本軍は東アジアという広大な”カランバン”の動物的攻撃性的秩序に、現地人を巻き込んだだけであった。
従って一番気の毒なのは、そのスローガンを信じて協力した「ガナップ」(日本軍に協力した比島の武装団体)のような、対日協力者である。
大学紛争のとき、ある教授からある大学内の実情をきき、私は思わず「そりゃカランバンです」と言ったが――言葉によって自らの秩序を自ら立ててその中に住むか、言葉を奪って動物的攻撃性の「トマリ本の秩序」の中に住むかは、修正資本主義か社会主義かといった「高尚」な問題を論ずる前に、まず自らのうちで決断しておくべきことであろう。
そしてそれは決断の問題であって、知能の問題ではない。
というのはあのビックリ伍長でも、おそらくできることなのだから。
(後略~)
【引用元:一下級将校の見た帝国陸軍/言葉と秩序と暴力/P301~】
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03/10)
山本 七平
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(前回の続き)
小松氏が記しているように、日本軍を支えていたすべての秩序は、文化にも思想にも根ざさないメッキであり、つけ焼刃であった。
そして将校すなわち高等教育を受けた者ほどメッキがひどく、従ってそれがはげれば惨憺たる状態であった。
しかもメッキは二重にも三重にもなっており、それは逆に、生地まで腐蝕し、ひとたびそれがはげれば、メッキを殆どうけていない兵士たちよりひどい醜状をさらした。
従って人びとは、自己の共通の文化に基づく秩序を把握できない。
すべての人の見方・考え方・価値はばらばらであり、これは、小松氏の記している通りに、将校区画が一番ひどかった。
私は、この区画から、毎日、設営工場に出勤しており、そこで、捕虜の中から選抜された最も優秀な家具職人や建具職人と過していたので、小松氏が、兵隊の収容所の方がはるかに立派だし、居心地もよい、と書かれているのがよくわかる。
ここの方が、何ら虚飾のない、伝統的文化に基づく一つの秩序すなわち文化があった。
特に職人は立派であり、彼らはその技術においてアメリカ人よりはるかにすぐれ、従って何の劣等感もなく、また完全に放置しておいても、すぐに自ら職人的な秩序をつくり出していった。
従って暴力的秩序などは皆無であり、そしてそういう場所には、彼らは絶対に入ってこようとはしなかった。
隙がなかったのである。
いかなる暴力団もここには勢力をのばすことは不可能であった。
では一体、将校区画では、何かゆえにあのような暴力支配を生み出したのか。
なぜ、暴力があれば秩序があり、暴力がなくなれば秩序がなくなったのであろう。
理由は、一言でいえば「文化の確立」なく、「思想的徹底」のないためであったが、もっと恐ろしいことは、人びとがそれを意識しないだけでなく、学歴と社会的階層だけで、いわれなきプライドをもっていたことであった。
ある者は、はげたメッキをはげてないことにして軍隊的秩序を主張し、あるものは表層がはげた時二層の社会正義”雲上・おくげ的社会主義”を主張し、ある者ははげたメッキの上にアメリカ型民主主義という再メッキをしてそれを主張した。
しかし、各人は、自らの主張に基づく行動を自らはとらなかった。
そして自らの行動の基準は小松氏の記す「人間の本性」そのままであった。
そのくせ、それを認めて、自省しようとせず、指摘されれば、うつろなプライドをきずつけられて、ただ怒る。
そして、そういう混乱は、兵士の嘲笑と相互の軽侮と反撥だけを招来し、結局、暴力と暴カヘの恐怖でしか秩序づけられない状態を招来したわけである。
われわれはここに、日本全体がいずれは落ち込んでいく状態の暗い予兆を見るような気がした。
それは小松氏だけではない。
そしてそうならないための、真剣な模索は小松氏の、ここに引用した以外の文章にも、所々に表われている。
だが、戦後の日本は常にこの模索をさけ、自分たちを秩序づけている文化とそれを維持している思想すなわち各人の自己規定を探り、言葉によってそれを再把握して、進展する社会へ維承させようとはしなかったのである。
従って、小松氏のあげた第十六条と第十八条(註)は、まだ達成されず、将来の課題としてそのままに残されている、と私は考えている。
(註)…「第十六条:思想的に徹底したものがなかったこと」/「第十八条:日本文化の確立なきため」
(終了)
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第四章 秩序と暴力/P120~】
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03/10)
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(~前略)
先日あるアメリカ人の記者と話し合った。
私は、キッシンジャーが、日本の記者はオフレコの約束を破るからと会見を半ば拒否した事件を話し、これは、言論の自由に反することではないか、ときいた。
これに対して彼は次のようなまことに面白い見解をのべた。
人間とは自由自在に考える動物である。
いや際限なく妄想を浮べつづけると言ってもよい。
自分の妻の死を願わなかった男性はいない、などともいわれるし、時には「あの課長プチ殺してやりたい」とか「社長のやつ死んじまえ」とか、考えることもあるであろう。
しかし、絶えずこう考えつづけることは、それ自体に何の社会的責任も生じない。
事実、もし人間が頭の中で勝手に描いているさまざまのことがそのまま活字になって自動的に公表されていったら、社会は崩壊してしまうであろう。
また、ある瞬間の発想、たとえば「あの課長プチ殺してやりたい」という発想を、何かの方法で頭脳の中から写しとられたら、それはその人にとって非常に迷惑なことであろう。
というのはそれは一瞬の妄想であって、次の瞬間、彼自身がそれを否定しているからである。
もしこれをとめたらどうなるか、それはもう人間とはいえない存在になってしまう。
「フリー」という言葉は無償も無責任も意味する。
いわば全くの負い目をおわない「自由」なのだから、以上のような「頭の中の勝手な思考と妄想」は自由思考(フリー・シンキング)と言ってよいかもしれぬ。
いまもし、数人が集まって、自分のこの自由思考(フリー・シンキング)をそれぞれ全く「無責任」に出しあって、それをそのままの状態で会話にしてみようではないか、という場合、簡単にいえば、各自の頭脳を一つにして、そこで総合的自由思考をやってみようとしたらどういう形になるか、言うまでもなくそれが自由な談話(フリー・トーキング)であり、これが、それを行なう際の基本的な考え方なのである。
従って、その過程のある一部、たとえば「課長をプチ殺してやりたい」という言葉が出てきたその瞬間に、それを記録し、それを証拠に、「あの男は課長をプチ殺そうとしている」と公表されたら、自由な談話というもの自体が成り立たなくなってしまう。
とすると、人間の発想は、限られた個人の自由思考(フリー・シンキング)に限定されてしまう。
それでは、どんなに自由に思考を進められる人がいても、その人は思考的に孤立してしまい社会自体に何ら益することがなくなってしまうであろう。
だからフリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず、そういうことをやる人間こそ、思考の自由に基づく言論の自由とは何かを、全く理解できない愚者なのだ、と。
(後略~)
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第十二章「自由とは何を意味するのか」/P309~】
Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。
http://yamamoto7hei.blog.fc2.com/
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