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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

言葉と秩序と暴力【その1】~アンチ・アントニーの存在を認めない「日本軍」~

ちょっと前の話になりますが、ブログ「超左翼おじさんの挑戦」のコメント欄において、共産党員である理さんという方が、菅談話に絡めて従軍慰安婦問題に対する保守派の対応を批難していました。
左翼にありがちな主張でしたので、次↓のように反論しました。

http://chousayoku.blog100.fc2.com/blog-entry-542.html#comment5831

上記反論の要点は二つ。

・自分自身に適用しない基準を他(日本国)に押し付ける偽善性について。
・自分の主張を通す為には、相手を罵倒し口を封じることも当然と考えていることについて。


つねづね左翼との討論をしていて濃厚に感じるのが、かなりの確率で反省とか懺悔を強要してくること。
実はこれ、日本軍のやり方と同じなんですよね。
反省を強要しながら相手の口を封じるやり方が。

日本陸軍の下級将校であった山本七平は、次のように言っています。

陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。』と。

そこで、今回から何回かに分けて、このことについて述べている山本七平の記述を紹介して行きながら、「反省を強要しながら相手の言葉を奪う」ことが、日本社会にどのような影響を及ぼしているのかについて考察していきたいと思います。

まず、ご紹介するのが、過去記事『アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~』でもご紹介済みの下記記述を再掲します。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

商品詳細を見る

(~前略)

確かに偏見とか偏向とかは非常にこまったことだが、これを是正する方法は実は一つしかないのである。

それはアンチ・アントニーの存在を認める」という以外にない

すなわちシーザーの死体の頭のところにアントニーが立って、事実・事実・問いかけ、をくりかえしていると、同時にシーザーの死体の足のところに「アンチ・アントニー」が立って、同じような方法で、アントニーの言う「事実」に反する「事実」を、同じように、事実・事実・問いかけという形でのべる以外にない。

ここで聴衆は、相反する二つの事実を示されることによって、「自分の判断」ができるはずである。

従って真に「偏向」しているものは何かといえば、それは「アンチ・アントニー」の存在を認めず、あらゆる方法でそれを排除し、その口をふさいでしまう者のはずである。

日本軍は絶対に「アンチ・アントニー」の存在を認めない

従って、この存在を認めない者を、私は日本軍同様と見なす
それが何と呼ばれていようと――。

(後略~)

【引用元:ある異常体験者の偏見/アントニーの詐術/P99~】

山本七平的観点から見れば、良心的日本人であろうが何であろうが、アンチ・アントニーの存在を認めず、排除封殺する人間はすべて日本軍同様です。

したがって、前述の理さんもその素質が十分あると見て良い。
如何に良心的日本人を演じていようが、異論を排除封殺しようとする人間は「日本軍」なのです。

そうした人間が、反省を口にする。
まさしく、「反省という語はあっても反省力なきこと」を地でいくようなものです。

さて、次回より、著書「一下級将校の見た帝国陸軍」から、言葉を奪うことが如何なる状態をもたらすのかについて書かれたフィリピンでの戦犯容疑者収容所での捕虜社会の惨状についての記述を順次紹介していく予定です。
ではまた。


【関連記事】
◆言葉と秩序と暴力【その2】~「戦犯収容所」の”暴力政治”の実態~
◆言葉と秩序と暴力【その3】~日本軍捕虜の「暴力的性向」を嘆いた日本人~
◆言葉と秩序と暴力【その4】~自ら”秩序”立てるイギリス人~
◆言葉と秩序と暴力【その5】~日本人の秩序は「人脈的結合」と「暴力」から成る~
◆言葉と秩序と暴力【その6】~日本的ファシズムの特徴とは「はじめに言葉なし」~

◆アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~
◆「トッツキ」と「イロケ」の世界【その5】~二種類いるトッツキ礼賛者~


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靖国参拝問題再考/~二種類の価値観に引き裂かれる日本人~

1読者さんからいただいたコメントを読んで、靖国参拝問題について考える際に何が問題なのか、 私なりに改めて再考してみることしました。

1読者さんがご紹介いただいた麻生元首相の主張にあるように、靖国神社は、軍国主義の象徴などではなく、あくまでも慰霊の場所であることを日本人の誰もが、まず認識すべきであるのが非常に重要です。

しかしながら、この基本認識すら日本人の間では共有されているとは言い難いのが現状でしょう。

なぜそうなってしまったのか?

それは日本人自らが当然の如く従っている文化的伝統的価値観(ここでは死生観)について、自覚したことがなく、他国のそれと比べて相対化して把握し直してみたことがないからではないでしょうか。

靖国神社をまるで「軍国主義の象徴」の如く考えている日本人が見受けられますが、彼等は靖国神社がそもそも国を守るために命を落とした犠牲者を慰霊する為の施設であることを理解していません。
若しくは理解しようとしません。
もちろん、それを認めることは彼等の主張にとって都合が悪いからなのですが…。

ただ、ひたすら戦争を賛美し、人びとを戦争に駆り立てる装置であるように決め付けています。
決め付けた上で、それを排除すれば戦争を防ぐことが出来ると思い込んでいるようです。
あまりに短絡的かつ靖国神社の成り立ちについて無理解であるということが出来ると思います。

「死ねば仏(ここでは仏ですが神と言い換えても良い)」というように、日本人は、例え罪人であろうが悪人であろうが、分け隔てなく祀るのが、日本人の考える慰霊です。

この考えから敷衍すれば、例えA級戦犯であっても、昭和殉難者として靖国神社に祀られることは至極当然のことです。

しかし、そう考えない日本人がいます。
戦争犯罪人であるA級戦犯を合祀することは、先の戦争を肯定する行為で、反省していない証であると考えているのです。

しかし、この考え方は、非常に非日本的で、むしろ、南宋時代の宰相であった秦檜wiki参照)のように死後も唾を吐きかけるのを当然とする”中国的価値観”に似通っていると云うべきでしょう。
唾を吐きかけられる秦檜夫妻の像
(上記写真は、wikiより引用)

死者に鞭打ってまで悪を糾し続ける中国人のメンタリティから言えば、反省とはこれ以外にはありません。
死者に鞭打ち続けることが即ち中国流の「反省」なのです。

しかし、この考えは、前述の「死ねば仏」という日本人の伝統的価値観とは、到底相容れるものではありません。
私が靖国参拝に反対する日本人に、非常に違和感を感じるのはまさにこの点です。
とても日本人らしくないのです。

むろん、そうした考えで批難する日本人がいても不思議ではありません。
しかしながら、普段は自らも日本の伝統的価値観に従って行動していながら、靖国参拝の時だけ(つまり政治問題化した時だけ)、死者に鞭打つという中国的価値観を基に批判を展開するのであれば、節操のない単なるオポチュニスト(機会主義者)に他ならないのではないでしょうか。

そしてまた、靖国参拝を批判する際、A級戦犯だから…という基準で判断するならば、戦勝国のモノさし(判断基準)に則ってしか、物事を判定出来ない受動的・他律的な人間であるということでもあります。

このように他国のモノサシに事大した日本人が、靖国参拝を支持する日本人のことを、一方的に軍国主義者扱いし、反省が足りないと断じ、居丈高に糾弾する。

これこそ、事大主義に基づく「卑屈」というべき行為に他なりません。
これこそ、日頃彼らが批難してやまない「アメリカの犬」そのものの行動ではありませんか!

余談になりますが、なぜかそうした人間ほど、普段は米国に従属していることを嘆いているのをしばしば見かけますが、これほど滑稽なことはありません。
これは、事大主義者が今仕えている事大先が気にいらなくて文句を言っているだけの行為にしか見えませんね。
こうした人間によって、自立するということはありえません。あらたな従属先に事大するのがオチです。
ですから、こうした人間の自立論というものを私はまったく信用していません。

それはさておき、靖国参拝を批判する日本人というのは、自らが普段従っている文化的伝統的価値観を無視し、この問題の時だけ、死者に鞭打つという中国的価値観や戦勝国史観(東京裁判史観)に基づいて行動しているわけですが、そうなってしまった背景には、冒頭で指摘した、自らが従っている伝統的文化的価値観を自覚せず、ないがしろにしているからではないかと思うのです。

なぜ、そうなってしまったのかといえば、やはり敗戦による影響が一因でしょう。
明治時代に江戸時代を暗黒視したように、敗戦後は戦前を暗黒視してきました。

しかしながら、そうした敗戦のショックを経ても、日本人の死生観についてはそれほど変わっていないと思います。

ただ、モノサシ(価値観)ががらりと変わってしまいました。
戦後65年経っても、いまだに東京裁判史観に染まり、戦犯は死後も戦犯として扱うのが当然だというような思考が蔓延しています。

靖国参拝問題を考える際、こうしたモノサシ(価値観)の違いが混在し、それが故に混乱をきたしている、ということをまず把握する必要があります。

要するに日本人は、日本の伝統的価値観vs中国的価値観/東京裁判史観との狭間で引き裂かれているのです。
これを認識しないまま、この問題を論じることは日本人同士の間で不毛な結果しか生みません。

まず、靖国参拝について反対する人たちは、少なくとも自らがどのようなモノサシ(価値観)に立脚して批判しているかを自覚すべきでしょう。
自らが、他国のモノサシに盲目的に従い、どれだけ卑屈に振舞っているのか、気付いていただきたいと思う次第です。

そして、この問題を解決していくには、そうした価値観の違いを地道に説明し、中韓の「靖国参拝=軍国主義」との”一方的誤解”を解いていく努力をすべきなのではないでしょうか。

前回の記事『靖国参拝問題についての「つぶやき」』ではかなり私も感情的に書いてしまいましたが、よくよく考えると、ただ単に相手を罵るだけでは、解決できない問題だと思うのです。

靖国参拝に反対する日本人に対しては、都合よくモノサシを使い分けることの愚と、それに基づく行為が卑屈であることを指摘し、かつ、中韓に対しては、価値観の相違による誤解であることを丁寧に説明していくほかにないのではないでしょうか。

何はともあれ、靖国参拝を政治問題化させないことです。
それこそが地下に眠る英霊に報いる唯一の道だと思います。


【関連記事】
◆靖国参拝問題についての「つぶやき」
◆日本は穢土/自国を貶める人間は、自分が「きれい」であることを証明したいだけ。
◆「私の責任=責任解除」論②「ごめんなさい」と言わない奴が叩かれる日本社会


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無神経で世間知らずのお坊ちゃん(良心的日本人)に与うるの書

菅談話を当然視したり、まだ謝罪が足りないと主張する”良心的”日本人の言動を見ていると、どうしても「日本人とユダヤ人」の次の一節が思い浮かんでならないので以下ご紹介。

気安く謝罪を行なうことが、どれだけ次代を危険に晒すことになるか、考えるキッカケとしてほしいものです。

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
(1971/09)
イザヤ・ベンダサンIsaiah Ben-Dasan

商品詳細を見る

(~前略/引用開始)

朝鮮戦争は、日米の資本家が(もうけるため)たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人がいる。

ああ何と無神経な人よ。
そして世間知らずのお坊っちゃんよ。


日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。
その言葉が、あなたの子をアウシュヴィッツに送らないとだれが保証してくれよう

これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。
朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。

この言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない

もちろん私は、必ずしもそれだけが原因とは思わないが、朝鮮人にはそう見えるのである。

われわれが三十八度線で死闘して、日本をも守ってやったのに、日本人はそのわれわれの犠牲の上で、自分だけがぬくぬくともうけやがった」という考え方である。

たとえこれが事実であっても、これは日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない
だが全く同じことを、第一次世界大戦の後に、ドイツのユダヤ人もいわれたのだ。

われわれが西部戦線で死闘していた間、あいつらは銃後にあって、われわれに守られてぬくぬくともうけやがった」。

ユダヤ人は確かにそういう位置にいた。
そしてその多くは商人であって戦後のインフレにも強かった。

しかし戦争を起したのはカイゼルとドイツの首脳であってユダヤ人はこれには責任はない。

しかし、戦争に際して、ユダヤ人だけが何か不当なことをしたように言われ、それが次第に拡大され、ついには、もうけるためユダヤ人が戦争を起したように非難され、それがアウシュヴィッツにつづくのである。

前述の文化人さんよ。
自分の子のためにも、このことを忘れないでほしい。

(~中略~)

もちろん政治天才の日本人が政治低能のユダヤ人のようなへまはやるまい。
またユダヤ人のもっていなかったもの、すなわち自らの政府と強大な武力をもっている。

しかし一方、かつては民衆の暴動であったものが、今や、一国の政府の行動として起される時代にもなっている

すなわち政府が先頭に立って、ある人種の全財産を没収し、その人種の全員を国外に放逐しても、たいしてニュースにもならない時代にもなってきた。

従って、全地球的な規模において、日本人が、今、どういう位置にあるのか、いろいろと考えさせられるのは、私だけではあるまい。

(後略~/引用終了)

【引用元:しのびよる日本人への迫害/日本人とユダヤ人/P194~】

ベンダサンが指摘するように、日本人はユダヤ人と違って、自らの政府と武力を備えています。

そういう点では、ただちに迫害を受ける立場にいるわけではないかもしれない。

しかしながら、日本政府の保護を受けられない場所があるとしたら?
そこに日本人がいたとしたらどうなるでしょうか。

2005年に中国各地で起こった反日暴動を思い出してもらえれば、およそ想像ができるのではないでしょうか。

あれは、日本政府(と中国政府)が存在したから、あの程度で済んだのであって、日本政府が存在していなければ、中国政府は見て見ぬふりを続けたかもしれません。

しかし、中国政府が今後も安定的に存在しうるとは限りません。

中国は豊かになりつつも、貧富の格差が極大化しつつあり、反政府暴動が起こる可能性が高まっています。

反政府暴動が起きたとき、在中の日本人の保護は出来なくなる可能性が大きい。
かといって、日本が自衛隊を現地に送るわけもいかない。

ちょっと考えてみただけでも、21世紀の現在においても、そのようなリスクがあるわけです。

相手の言い分を反論せずに受け入れてしまうことが、どれだけ相手の迫害に大義名分を与えてしまうか。

そうしたことに、無頓着のまま、誠実に謝罪すれば許してもらえると考えている世間知らずのお坊ちゃん共が、まだまだ日本には存在していることを、今回の菅談話と通じて改めて痛感した次第です。


【関連記事】
◆自己欺瞞と偽りの謝罪論【その1】
◆自己欺瞞と偽りの謝罪論【その2】
◆いい加減「日本は悪くない」論をぶつのはやめましょう。事実の認定のみで争うべし!


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ある異常体験者の偏見【その4】~砲兵が予告した「冷戦時代」の到来~

以前の記事「ある異常体験者の偏見【その3】~戦争を引き起こす『確定要素』対『不確定要素』という構図~」の続き。

ある異常体験者の偏見 (文春文庫)ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平

商品詳細を見る


前回のつづき)

もちろんこれは彼にとってはお喋りであり、時間つぶしであった。

また当時は「冷戦」などという言葉はもちろんなく、冷戦時代を予測したものもなく、たとえ論理的帰結として当然そういう一時代が来ると言っても、だれ一人、耳を傾けるはずもない時代であった。

また私自身が、自分の発想の内部に、冷戦という要素があろうなどとは、夢にも考えていなかった。

これは、新井宝雄氏が、「強力な武器」対「精神力」という発想と思考図式が戦争の要因だなどとは、夢にも考えておられないのと同じである。

そして以上のような言い方はすべて、屁理屈か机上の空論として片づけられるのが普通であった。
当時の私ももちろんそう考えており、何かうまくはぐらかされたような気持であった。

しかし冷戦時代に入ってから、彼の言葉や当時収容所で質問したいろいろな人の返事を総合すると、こういう状態になるのが、当然の帰結であるように思えた。

彼らはそれと知らずに、私と話すことによってただ自分の体験を整理していくだけで、全く予測せず、冷戦という状態がありうることを予告していたのであった。

冷戦の基礎となった大陸間弾道弾は、その基本的発想は砲兵と同じであり、ただ規模が異常に大きい超長距離・超巨大砲であるというにすぎない。

そしてその基礎は、実はロケットの推力でなく、あらゆる不確定要素を一方の方程式で数になおして計算し、それを弾道に織り込んで誘導する技術である。

ロケットそのものの歴史は砲と同じくらい古い。
中国のどこかの博物館に昔の噴射式の火器が飾ってあって、「ミサイルを発明したのは中国人だ」と書いてあったと、だれかの中国紀行にあった。

書いていた人はやや嘲弄的口調であったが、これは恐らく事実である。

だれが考えても弾丸そのものに推力をもたす方が合理的で、日本軍にも噴進砲というのがあったそうである。

私は見たことがないが、おそらくバズーカ砲の類いであろう。
ただロケットがなかなか実用品にならなかったのは、精度の点で致命的欠陥があったからにすぎない。

いわば風向、風速、気温等の不確定要素に左右されるので、弾着点が算出できないのである。

こういう要素は普通の人が考えるよりもはるかに大きく作用する。
砲ですら例外でない。

発火時の火薬の温度だけで射距離は非常に狂うもので、これは「『撃ち方持て』の後のタマはのびる」という言葉に表われている。

射撃をすれば高温の火薬ガスと弾丸の摩擦で砲身は熱する。

これに砲弾を装填したところに「撃ち方待て」の号令がかかり、そのまま放置しておくと薬筒内の装薬の温度が上昇する。

それを忘れてそのまま射撃を再開すると、この砲弾だけは異常な遠方に飛んでいってしまう。

これがロケットともなると、その日、その時の気温の差だけで、射距離が常に狂う。

また向い風、横風、追い風も砲弾に作用するが、ロケットだと、比較にならぬほどさらにさらに強い影響をうける。

従ってミサイルの特質は、これらすべての不確定要素を計算して確定要素とし、それに基づいてロケットを誘導できるという点にあるはずである。

いわば電算機が生み出した兵器というべきであろう。

計算機を使うという発想は日本軍にもあり、その初歩的なものなら私も使ったことがある。

偏差盤といって、偏差交会法で使う一種の計算盤だが、ただこれは、精度が悪くて使いものにならなかった。

従って、当時の新聞・雑誌が書きたてたような、「ミサイル時代」という特別な時代が始まったわけではなかった。

規模が極端に大きくなり、測定の技術と計算の技術が異常に高くなったというだけで、友軍の頭越しに相手の心臓部に巨大な砲弾を送りこむという根本的発想には少しも変化はない。

従って原則は砲兵と同じで、あらゆる不確定要素を徹底的に追究し、計算して、これを確定要素に織り込むという態度にならざるを得ない

そして相互にこういう態度で、徹底的に不確定要素を消去してしまえば、計算が終ったときにすでに結果は出ている。

従ってあの老佐官がいったような結果

つまるところ砲兵だけになったら戦争は起らんな
測地が終ってあらゆる要素が確定したら、それで終りじゃろ

計算してすべての結果がもうわかっているのに

撃ち合ってみるバカはおらんじゃろ。だからいくさにはならんのじゃよ

という状態になったわけである。

つまり計算が終ったときに戦争は終り、だれも「やってみにゃわからん」とは考え得ない状態である。

従って「冷戦の思想」というのが特別にあったわけではないし、冷戦が極限まで進むと熱戦になるわけでなく冷戦と熱戦とは発想が全く逆方向なのである。

(次回へつづく)

【引用元:ある異常体験者の偏見/ある異常体験者の偏見/P20~】

本当に戦争を厭い、平和を望むならば、上記の「砲兵」のように彼我の戦力差を冷静に計算する態度を保つことが要請されるでしょう。
勿論、「やってみなければわからない」と思わせるような”不確定要素”を徹底的に排除しながら…ですが。

要するに「理性的」であれば、戦争は起こらない。
砲兵のような人間ばかりならば、冷戦状態になっても”熱戦”は起こらないはずなのです。

これは極当たり前のことですね。

しかし、その当たり前のことが、何らかの外部要因(飢餓・恐慌・天変地異・戦乱など)で出来なくなってしまう。

それは、人間が理性を無くす可能性を持つ「生物」である以上、どうしても避けられないことなのです。

理性の喪失を「避けられない」との前提で、平和を希求するのが、本当の平和主義者ではないでしょうか。

しかしながら、自称平和主義者たちの主張を見ていると、「人間は常に理性的である」という”無意識”かつ”絶対的”な前提が潜んでいる場合が殆どです。

そしてそうした自称平和主義者ほど、平和を維持したり実現したりする具体的な道程を何ら示すことが出来ず、空疎な言葉だけの情緒的な平和論を叫ぶ傾向が見受けられます。

要は、感情に訴えるだけの平和論だと言えるでしょう。

毎年、この時期に放送される戦争を考える番組を見ると、その殆どが戦争の悲惨さを強調し、感情に訴えるだけの”情緒”的平和論ばかりです。

そして、その感情に同調することが、「反省」と見なされてしまっているのではないでしょうか。
それは、反省行為ではなく、戦争が嫌だとか怖いという「告白」若しくは「懺悔」にしかなりません。

こういう状況を見ると、山本七平の「反省という語があっても反省力なきこと」という指摘を思い浮かべざるを得ません。

少し話を戻しますが、情緒に基づく平和主義は平和をもたらすでしょうか?

それは、たぶん否です。

情緒というのは所詮「不確定要素」です。

情緒という不確定要素を重視する”発想”は、冷戦の論理とは真逆で、むしろ「熱戦」につながる”発想”ではないでしょうか。

これで平和を維持するが出来るわけがありません。

情緒的で観念的な平和論からの脱却。
そして「砲兵的」発想の維持。

これこそが、まず平和維持に求められるものではないかと愚考する次第です。

しかしながら、テロリストが大量殺傷兵器を入手しかねない今後の世界においては、「冷戦の思想」だけでは平和を維持し続けることは難しいかもしれません。

何しろ、テロリストには「冷戦の論理」は通用しませんからね。

こうした難しい時代に対応した平和論をどのように構築していくか。
それが今問われているような気がします。

さて次回は、不確定要素が重要視された場合どうなるのかについて書かれた記述箇所を紹介していく予定です。
ではまた。


【関連記事】
◆ある異常体験者の偏見【その1】~日本を破滅に追い込んだ「思考図式」~
◆ある異常体験者の偏見【その2】~二通りある「負けるべくして負けた日本」~
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◆ある異常体験者の偏見【その6】~「確定要素」だけでは戦争できない日本~

◆平和主義の欺瞞【その4】~押しつけられた平和主義は平和の敵~

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靖国参拝問題についての「つぶやき」

今日は拙いながら、以下、筆の赴くまま私の心の思いを愚痴ります。
乱筆失礼。



毎年、この時期の靖国参拝を巡るニュース報道を見ていると、ため息が出てならない。
特に民主党政権となった今年はそうだ。

確か昨年までは、閣僚のメンバーの誰かが少なくとも参拝していた筈だが、今年は誰一人として参拝しない。

新聞によれば、自民党との違いを出したとの事。
そんなつまらん(違いを出すという)目的の為に、参拝問題を利用するのか?
慰霊とは、その程度の事なのか?

自国兵士の慰霊すら、特亜3国のご機嫌を取るためには出来ないのか?
情けない限りだ。

これこそが属国根性というべきものだろう。
日頃、親米保守派を「アメリカのポチ」呼ばわりしている奴が、この問題になると「被害者に配慮すべきだ」などと、善人づらしてのたまいながら、中韓のご機嫌を取る。

お前らこそ、本当の犬ではないか(怒)。

それはさておき、靖国神社への参拝に反対する人の中には、靖国神社が戦争を賛美しているから反対だという人がいる。

なぜ彼らはそんな風にひねくれて受け取るのだろう?
やむなく共同体の為に犠牲になったその高貴な精神を安んずるために、祀っているだけではないか!

そもそも犠牲になった英霊のほとんどは、「国を守るため」に犠牲になったのであって、「他国を侵略しようとして」犠牲になったのではない。
勿論、これは、英霊から見た「主観」に過ぎない。
他国から見れば結果的に侵略と言われても仕方がなかったと思う。

しかし、他国からの見解を以って、英霊の気持ちを無視し、祀っている靖国神社をあたかも侵略者の顕彰施設の如く断ずることは、子孫である我々が取るべき態度なのだろうか。

断じて否である!
そうではないはずだ。

たとえ彼ら英霊の行為が間違っていたとしても、その高貴な精神まで否定することは私には絶対出来ない。

英霊の精神は尊びつつ、二度と誤った行為を起こさねばよいだけの話ではないか。
それなのに、なぜ、他国の基準を以って軽々しく侵略者の顕彰施設だと決め付け、参拝するものを軍国主義者扱いするのだ(怒)。

まさにこういう日本人こそ、精神的に卑屈極まりない事大主義者であると私は思う。
(これをみても、決して事大主義とは朝鮮人の専売特許ではないことは明らかだろう。)

英霊の精神を尊び、彼らの御霊を祀り安んずることが否定されてよいはずがない。
英霊を否定することは、純然たる国防すら否定するものに他ならない。

それは自らの共同体そのものの否定でしかないではないか。

自らの共同体を否定しておいて、良い社会が構築できるわけがない。
だから、靖国神社を否定する人びとによって、日本が良くなることは絶対に無いと私は考えている。

そもそも、他国であろうと、戦没者の慰霊施設は存在する。
それもそのはず。
共同体であるならそのような機能は必ず必要とされるからだ。
そして、それに敬意を払うことは当然とされ、当たり前のことながら他国人が容喙すべきことではない。
容喙するどころか、他の共同体の者であっても、敬意を払うのが常識である。

例えば、靖国参拝しないと明言した菅首相ですら、アーリントン墓地に献花しているではないか。
なぜ、他の共同体の慰霊施設に敬意を払う者が、自国の慰霊施設を参拝できないのだ。

菅首相らの行動は狂っているとしか思えない。
これをおかしいと思わない奴は、相当東京裁判史観に洗脳されているといってよいだろう。

また、靖国神社は戦争へ駆り立てる装置であるから反対だという人もいる。

靖国神社へ参拝することが、日本を戦争に追いやるとでも言うのか!
靖国神社に参拝した若者が、軍国主義に染まり、兵士になって人殺しを始めるとでも言うのか!

そんなわけがないだろう。
参拝ひとつで、人間が戦争マシンになるわけがない。
あまりにも人間が如何なるものか知らなさ過ぎる。
プログラムを入れれば、そのとおりに動き出すロボットだとでも思っているのか。
難癖つけるのもいい加減にしてほしいものだ。

また、A級戦犯が合祀されているから反対するのだと主張する者も多い。
実際、これを理由に参拝しない政治家が結構いる。

しかし、これは独立国の人間であるならば、到底採用し得ない愚かな主張である。

こんなことは、過去記事『日本は穢土/自国を貶める人間は、自分が「きれい」であることを証明したいだけ。』で紹介した岸田秀の発言を読めば誰でもわかる。
以下、当該部分のみ抜粋して引用しておく。

日本人と「日本病」について (文春文庫)日本人と「日本病」について (文春文庫)
(1996/05)
岸田 秀山本 七平

商品詳細を見る

(引用開始/~前略)

東京裁判を盲目的に認めた心理と同じですね。

東条英機らが靖国神社に祀られていたことが問題になりましたけど、戦犯というのはつまりアメリカの裁判で有罪になったんですよ。

彼ら指導者の誤りによって、多くの日本人が悲惨な目にあったという罪で日本人が彼らを裁いたのならば、たしかに靖国神社に祀るのは問題があります。

しかし、日本の基準ではまだ犯罪者であるかどうか決まっていないんです。

自分では裁判をせず、アメリカの裁判で犯罪者とされたその基準を盲目的に受け容れているわけですね。
彼らを犯罪者と見なすというのなら、日本の裁判でやるべきです。

実際、彼らは裁判にかけられてしかるべきほどの過ちを犯しています。
しかし、日本の裁判にかけていない以上、日本人が彼らを犯罪者扱いするのはおかしい

(後略~/引用終了)

【引用元:日本人と「日本病」について/純粋信仰/日本は穢土/P137~】

A級戦犯を分祀すべきと主張する者は、そもそもA級戦犯と言う分類が戦勝国によるものだということすら忘れている。
戦勝国の下した判定を何の疑問も抱かずに、判断基準として用いている。

そしてその判断基準に基づき、靖国参拝派を軍国主義者呼ばわりすらしている。
これこそ、彼らが親米保守派をあざける際に用いる「米国のポチ」という罵言そのままの卑屈な行為ではないか!!

そうした連中がのたまう「反省」に中身が無いのは、卑屈な敗戦国根性に基づいているからに違いない。

あぁ、一体いつまでこうした状況が続くのだろうか…。


【関連記事】
◆日本は穢土/自国を貶める人間は、自分が「きれい」であることを証明したいだけ。
◆自己欺瞞と偽りの謝罪論【その1】
◆自己欺瞞と偽りの謝罪論【その2】
◆平和主義の欺瞞【その1】~日本人の平和主義は「強姦された女の論理」~


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改めて菅談話について考える

今回のエントリーは、ブログ「超左翼おじさんの挑戦」に投稿したコメントと、コメント投稿後、考えた意見の紹介です。
論旨が一部ダブっていますが、思いつくまま筆を進めた為ですので、ご容赦ください。
お題は、菅談話について。



投稿先記事はこちら↓
◆韓国植民地支配での菅総理談話・3

(コメント引用開始)

松竹さんのご指摘のとおりだと思います。
しかし、たぶんその事を踏まえての結論は、私と松竹さんとではまったく違うのかも知れませんが…。

そもそも韓国人が、他の植民地国と違って、なぜあれだけしつこく謝罪を求めるのかといえば、単に「支配されたから」なのではなく、「彼らのプライドが傷つけられた」からなのです。

自力ではなく、格下・野蛮であると思っていた国によってしか、近代化を成し遂げることが出来なかった…という彼らにとって認めがたく否定しがたい”事実”が彼らの面前にある以上、幾ら日本統治時代が善政であったことを指摘しても、却ってむきになって否定するだけなのは、ある意味当たり前でしょう。

彼らが躍起になって、ウソをついてまで日本統治を否定し続けるのは、彼らのプライドが如何に傷つけられたか、彼らの症状が如何に重いかを表していると思います。

しかし、ここで本当に問題であるのは、彼らの謝罪要求が、そうした彼らの”精神疾患”から由来しているという事にまったく気付かず、彼らの「症状」に迎合すれば、日韓関係が良くなると思い込んでいる日本人が多数いることです。

かつての日本は、悪しきパターナリズム(註)で韓国に接してしまいました。
その結果、いわば”押し売り”の日本の善意は伝わらず、却って恨まれるだけの結果におわりました。

(註)…パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉することをいう。日本語では「父権主義」「温情主義」などと訳される。

日韓関係を前進させるには、そうした彼らの症状に”迎合”するのではなく、韓国を一人前の他人として扱い、突き放して接してやることです。

それに、韓国のそうした症状に迎合し”甘やかす”ことは、結局、彼らを対等な相手と見ていないことでもあります。

そうした対応で、日韓友好など実現できるわけがありません。

そもそも、日本人の「謝罪」というのは、とりあえず怒っている相手に謝罪の意を示すことで、まったくの”他人”から、「俺とお前」という”二人称の関係”に入るための「ツール」でしかありません。

したがって、その「謝罪」というのは、言葉だけであって、実際の責務を伴いません。
このことをイザヤ・ベンダサンは、「私の責任=責任解除」という形式で説明しています。
すなわち「私の責任です」と懺悔することで、「責務を負う」のではなく「責務が免除される」わけです。

今回の菅談話もこの類いの「謝罪」です。

そして、残念なことに、この類いの「謝罪」は、日本人だけにしか通用しません。
これを以って、韓国人相手に「俺とお前」という関係を築くことは出来ないのです。

ですから、今回の謝罪も、日韓双方の誤解をますますひどくさせるだけの結果に終わることでしょう。

「どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそもの動機は、 善意によったものであった。」というカエサルの格言がぴたり当てはまりそうですね。

それはさておき、この「私の責任=責任解除」論については、拙ブログの過去記事にて紹介しておりますので、以下リンク↓を貼って起きます。

◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-54.html

(引用終了)


(以降↓は投稿後に考えた記述)

今回の菅談話は、はやくも日韓相互の誤解を増長させるだけに終わりそうです。

賠償の伴わない口先だけの謝罪は、相手を失望させるだけで意味がないどころか、マイナスでしかありません。
韓国側の不満を呼び起こし、日本人の間でも、キリのない謝罪にますます嫌韓感情を募らせることでしょう。

韓国が今回の菅談話を踏まえて、次々と具体的な賠償を要求してくるのは、火を見るより明らかです。

こうした懸念に対し、何ら相談もなく一方的に謝罪を強行するのは、民主党政権の「非民主的」体質をよく表しているのではないでしょうか。
国民的合意を得た上での謝罪ならともかく、こうしたやり方では、国内向けにも世論の分断を招くだけで、非常に稚拙なやり方といえるでしょう。

菅談話の問題点はまだあります。

それは実質的に、日韓基本条約を無効化しかねない恐れが非常に強い事です。
実際、韓国政府は「朝鮮王室(王朝)儀軌(ぎき)」などの文化財について「お渡し」という表現を勝手に、「返還」と自らに都合良く翻訳してしまいました。

「返還」と訳せば、「不法に奪った」という意味合いになるためです。
日本統治を全否定したい彼らにとっては、その方が都合が良いし、実質的に日韓基本条約を形骸化させ、更に賠償をせしめる事が出来るかもしれないから。

このように韓国側の行為は、実に姑息極まりないものですが、このように相手がつけ込む隙を与えてしまった事は、きちっと咎められるべきでしょう。

それでは何故こうした悪影響があるにも関わらず、菅内閣は謝罪を強行したのでしょうか?
心理的にいえば、幾つか原因が考えられます。

一つは前述したように「私の責任=責任解除」という思考行動様式に捉われている事。
もう一つは、良心的日本人に良く見られる自分の”無罪証明”という衝動に捉われている事。
もう一つは、贖罪意識が入り混じったパターナリズムに捉われている事。

現世利益的には、在日団体からの見返りを期待しての行動や、補償が実施される際の利権目当てと言った処でしょうか。

何れにしろ、今回の菅談話は、まさしく民主党政権の外交的失点であり、愚劣極まりない行為であると言って良いでしょう。

それでは、本来、日韓関係はどうあるべきなのでしょうか。

日本側で注意すべきことは、「善政を施してやったのに…」と言ったパターナリズム丸出しの主張は控え、事実の指摘だけに務めることではないでしょうか。

そして、相手の甘えにも似た謝罪要求には断固拒絶し、同文同種といった思い込みを捨て、他人としての大人の付き合いに移行すべきなのです。

日韓関係の問題は、韓国側にのみ原因がある訳ではありません。
依然として悪しきパターナリズムを持って接している日本側にも十分原因が有るのです。

それを理解する事が、今後の日韓関係に必要なのですが、現状を見る限りでは、その前途は暗いかも知れません。


【関連記事】
◆過去記事サルベージ:菅談話の背景にある「私の責任=責任解除」論
◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか
◆「伝統的規範」と「社会の変化」を調和させることの難しさ/~「日本スバラシイ論」を疑え!~


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過去記事サルベージ:菅談話の背景にある「私の責任=責任解除」論

今回の菅談話の発表を見て、ツイッターでもつぶやいたのですが、こうした謝罪行為が繰りかえされてしまう背景には、やっぱり著書「日本教について」においてイザヤ・ベンダサンが指摘した日本人の行動原理である「私の責任=責任解除」論があるとしか思えません。
日本教について―あるユダヤ人への手紙 (1972年)日本教について―あるユダヤ人への手紙 (1972年)
(1972)
イザヤ・ベンダサン

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そこで、この「私の責任=責任解除」論についてご紹介した過去記事↓のリンクを貼っておきますので、未読の方は参考にしていただけると幸いです。

◆「私の責任=責任解除」論①
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-45.html

◆「私の責任=責任解除」論②「ごめんなさい」と言わない奴が叩かれる日本社会
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-46.html

◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-54.html

ちなみに、上記の記事『◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか』については、ブログ「中国の掲示板」を運営されている、中国に詳しい楼主さんより、下記記事↓にて褒めていただいた記事でもあるんですヨ

◆お人好しが多すぎる日本/ブログ「中国の掲示板」より
http://chinabbs.seesaa.net/article/102698004.html

◆お人好しが多すぎる日本/ブログ「中国の掲示板(FC2版)」より
http://chinabbs.blog40.fc2.com/blog-entry-1219.html

それはそうと、本当はこの菅談話についてキチンと書いて見たいのですが、なかなか時間が取れず、このような手抜き記事となってしまいました…Orz。

今後またいずれ、この件に関わると思うベンダサンの記述を、じっくりと紹介して行きたいと考えておりますので宜しくお願いします。
ではまた。


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長崎への原爆投下の日ということで、過去記事をサルベージ。

皆様、こんばんは。
帰省から戻ってきて、なんとかブログ更新をする時間を確保できるようになりました。

が、旅行疲れもあり、以前のエントリーのサルベージという手抜き記事で今回はご勘弁ください。

自業自得で仕方がないことですが、長期の休みを取ったことで仕事がたっぷりたまってしまい、休暇明けから残業する羽目に…。

ブログ運営を行なうエネルギーを養うには、しばし時間が必要なようです。

そんなこともあり、皆様から頂いておりますコメントへの対応は出来ないままになってしまいそうです。
申し訳ございませんがご理解の程、よろしくお願い申し上げます。

それはさておき、本日は長崎への原爆投下の日ですので、せめて前年の関連エントリーの再紹介をしておこうと思います。

以下、リンクですのでまだ未読でしたらご覧いただけますと幸いです。

◆「敵への憎悪」は理解できても、「人種的憎悪」は理解できない日本人
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-238.html

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一知半解

Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

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