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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。

日頃、左翼のブログをオチしている私ですが、この度、村野瀬玲奈の秘書課広報室の「国旗、国歌、国家意識(「愛国心」)を考えるリンク集」という記事をつい最近読みました。

これは、日の丸・君が代強制問題について、強制反対の立場から書かれたブログ記事のリンク集なのですが、幾つか拝見していてどうにも違和感を感じてしまったので、今日はそのことについて書いて行きたいと思います。

この問題についての私のスタンスというのは、以下過去記事↓を読んでもらえばわかると思います。

・”当たり屋”してまで表現の自由を守る教師の皆さんへ
・”内心の自由”を「手段」として利用する人たち
・日の丸・君が代を問題にする人々と、かつての元号廃止論者の類似性
・日の丸・君が代「強制」反対を叫ぶ者たちのどこがおかしいのか考えてみた。

今こうやって自分の過去記事を読み返してみると、かなり恥ずかしいものがありますね。かなり感情丸出しですごく攻撃的だし…orz

今でも、彼ら強制反対派に対しては嫌悪感を抱いていないといったら嘘になりますが、彼らの気持ちや主張についてはわからなくもありません。

ただ、やっぱり彼らの主張には、大きな誤解というか認識間違いがあると思うので以下、指摘していこうと思います。

彼らの記事を眺めていて多かったのは、「なぜ、強制しようとするのか?」という疑問や反発でした。

確かに、学校の式典時だけを見てみれば、強制というのが当てはまるように見えるのですが、強制する側も強制したがっているのは、「式典時」だけであって、いつ如何なる場所でも強制しようとしているわけではないのは、賛否いずれの側も認めるところだと思います。

強制に反対する人たちは、この強制自体を問題視し、「思想・信条の自由」と絡めてこの問題に反対しますが、この点が一番の「勘違い」だと思います。

これはおそらく「思想・信条の自由」に係わる問題ではありません。
なぜなら、本当に思想・信条の自由を規制しようとするならば、「式典時」だけを問題視するということは有り得ないからです。

したがって、強制しようとする側には、全く「思想・信条の自由」を侵したという「意識」は皆無でしょう。
(逆に強制されると受け止める側は、百パーセント「思想・信条の自由」を侵されたと感じるでしょう。賛否の間に、物凄い認識のギャップがあるわけです。)

では、なぜ強制しようとするのか?

これは、もともと日本の教育のあり方に原因を求めることができると思います。

例えば、江戸時代の新井白石の「教えて治にいたる」という言葉や、石田梅巌の「形は直に心なりと知るべし」という言葉があります。
また、「守・破・離」という言葉にもあるように、日本の教育というのは、まず「形」から入ります。

なによりも「形」重視なんですね。

ですから、強制を反対する人の中には、「偽物の愛国心」だとか「形だけの愛国心」だという批判をする人もいるわけですが、これは当然のことで仕方のないことなのです。とりあえず「形」から入ることが大事なのですから。

そうした「形」から入るという教育を受けることで、自然と集団になじんでいく。

日本人というのは、口ではなんと言おうと個人主義で行動しておらず、「和」を基にした集団主義の行動原理で動いています。

この辺りの説明については、岸田秀山本七平の対談を参考にしてもらえば、よく理解してもらえると思うので、以下過去記事↓を参照してください。

・日本人の組織とは?

さて、そのような日本の教育の在り方を当然と考える人たちから、強制反対派の方々の主張を見てみると、ワガママ言っているようにしか見えない。

個人主義が、単なる利己主義に見えてしまうわけです。
そして、その行為が、組織の「和」を乱し、組織やコミュニティを損なうものと受け止める。

大多数の日本人は「形」から入る教育を当然視していますから、強制反対派の主張に反発します。

そしてそのことを、強制反対派の人間は、「右傾化」や「戦前回帰」だと受け止めてしまう。
誤解が誤解を呼んでいるようなものかも知れません。

しかしながら、今まで述べたように、これは「教育のあり方」から発した誤解であって、「思想・信条・内心の自由」の問題ではないことは明らかです。

ましてや、右傾化とか戦前回帰と受け止めることは明らかに間違いで、単なる「利己主義」に対する反発と見るのが妥当でしょう。

結局のところ、私が強制反対派の人たちにお願いしたいのは、「強制」自体を問題視するのではなく、「形」重視の教育のあり方が原因なのだということに気付いて欲しいということですね。

そして、問題視するならばそうした教育方法であって、強制そのものではないということを理解しない限り、この問題はいつまでたっても堂々巡りに終わるのではないでしょうか?

現状のままでは、多分、強制反対派の意見というのは、反発を招くだけの結果に終わるんじゃないかと思います。

【追伸】
以前はこうした視点に気付かず、感情的に攻撃的に鬱憤を晴らすような記事を書いていたのですが、なぜなのか自分で解釈できるようになった今では、昔ほど強制反対派に対する反発を感じなくなりました

これも、そうした視点に気付かせてくれた山本七平岸田秀のおかげですね。


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テーマ:日の丸・君が代問題 - ジャンル:政治・経済

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コメント

yuichさんへ

yuichさん、コメントありがとうございます。
レスが大変遅れてすみません。

ご紹介のwikiデータの分析は興味深いですね。
結構法律で国歌を定めている国って少ないな…という印象を持ちました。

ただ、どうなんでしょう?
法律で定められている国々を、同じ特徴でくくることが出来るかちょっと私には判断しかねます。

  • 2010/09/11(土) 22:50:42 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

英語版wikipediaでちょっと国旗国歌について見てみました。

そうするとこういう項目がありました
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_national_anthems
>List of national anthems
直訳すると「国歌一覧」でしょうか。

で…上の一覧を見ると所々にofficialやde jure(法定・公式)がついている国があります(ついていない国が殆どですが)。
つまりこのリストを見ると国歌を法律で定めている国が一目で分かるのですが
よくよく見ると国歌を法律で定めている国はこの一覧だと
中国、イスラエル、イタリア、日本、スイス(及び台湾)だけですね。。。

上の国はイタリアを除いていずれも「極右指向」「愛国主義」「祖国防衛」を国是とする(していた)国ばかりです。
特に日本は大日本帝国時代の極右指向の酷さは言うまでもありません。

  • 2010/08/31(火) 17:51:27 |
  • URL |
  • yuich #eacSy1vI
  • [編集]

社会規範か強制か

 キンピー さんの最近の近代認識についてのコメントは実に素直な気持ちが出ているように感じます。
 ところで、私は常にすべてのコメントを拝読させていただいているのではないせいか、少し前(8月6日付け)のあなたのコメントを逃しました。
  
>「授業中は席につく」「教師の話を聞く」という型でも良いわけでしょうし、これこそ思想に関係なく最低限の社会規範です。 (8月6日、キンピーさんコメント)

「授業中は席につく」「教師の話を聞く」 が思想に関係ないのかあるのかは各人の受け取り方次第なのです。学校儀典の国旗掲揚・国歌斉唱も同じことです。
 しかし、キンピーさんは後者、つまり国旗・国歌に対しては強制とし、前者を社会規範と認識されるようです。
 それは何故なのですか?
 私はどちらも国家社会で生活する人間としてのマナーの問題と捉えます。




  • 2010/08/21(土) 18:36:02 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
  • [編集]

キンピーさんへ

>その責任の一端は「思考停止」「ひとりよがり」等のレッテルを貼ったぐらいで快感を覚える一知半解さんにあることを過去のコメントを読んでご確認ください。

自分としては、なんの根拠もなくそのような指摘をしたつもりは毛頭ありませんが、キンピーさんの立場からみれば、そのように受け止められる気持ちになるのもわからなくはありません。

ただ、左翼の主張に「ひとりよがり」な面が多々あるのは事実ですし、そうした主張に大変辟易している身としては、そう指摘せざるを得なくなるのもご理解いただきたいと思います。
(そう指摘される側としてははなはだ面白くないでしょうが、指摘されないといつまでも気付かないでしょ。特にひとりよがりという欠点については。)

もちろん、私も喧嘩を売っているつもりはありませんから、表現には気をつけていきたいと思いますが、これはキンピーさんご自身にも、ご努力をお願いしたいところです。

>山本七平って左翼に置き換えると吉本隆明のような感じがするのですが、「ぬるい」ところに留まらず、もう少し掘り下げるなり幅を広げるなりしてみてはいかがでしょうか。

>しかし山本七平の知ったような口ぶりは、山本七平というブランドがあるから許される部分が大きく、他の思想から同じ問題にアプローチしている人々にとって、七平語りを真似てみても唖然とするだけで、下手をすれば嘲笑の対象になってしまいます。

アドバイスありがとうございます。
山本七平ブランドというのがあるのかどうか知りませんが、決してブランドの威を振りかざしているのではなく、山本七平の意見が至極理に適っていると思うから、引用しているだけなのです。

もちろん、理に適っていると思えば、山本七平だけではなく、岸田秀や司馬遼太郎、井沢元彦あたりも拙ブログで引用させていただいておりますので、自分自身としては、一辺倒だとは思っておりません。

もちろん、そんな引用ではなく、己自身の言葉で語れれば一番良いのでしょうが、そんな文才があれば、最初からそうしています。
開き直りと言われちゃいますけどね。

引用魔ですから、どうしても虎の威を借るように思われてしまうことはやむを得ないのかな…と。
これはどうしてもやむを得ないと割り切って考えておりますので、そうした批判については、甘受し、抗弁するつもりはありませんのでご承知おきくださいませ。

  • 2010/08/21(土) 01:21:00 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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キンピーちゃん
他所様のブログを跋扈しまくってるキンピーちゃんが管理人さんに泣きつくとはね!いい加減真面目にアイドル目指したらいかがですか?

>魯迅が改造の対象とした同胞の処刑に好奇な視線を向ける支那人

だいたい普通サヨクは中国人を支那人とはよばないんだよねー。そして共産党を追い出されるわで推測すればインチキ左翼を思い浮かべるんだよねー。だから国家転覆をはかる赤軍とかの一派と思ったんだよ。
インチキ左翼は小泉バンザイの新自由主義者どものインチキ右翼と変わんないだよ。

  • 2010/08/19(木) 17:39:22 |
  • URL |
  • yuich #4UfHUiQY
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一知半解さん

アンパイヤーのお出まし恐縮です。
しかし
>「具体的には、単なる罵倒、相手への揶揄などに過ぎないコメント」
はyuichさんに限ったことではないでしょう。
その責任の一端は「思考停止」「ひとりよがり」等のレッテルを貼ったぐらいで快感を覚える一知半解さんにあることを過去のコメントを読んでご確認ください。
キメ台詞を組み込んだコメントを得意げになって書かれていることは、あの生き生きとした文章を読めばうかがい知れます(笑

もう一つ。
山本七平って左翼に置き換えると吉本隆明のような感じがするのですが、「ぬるい」ところに留まらず、もう少し掘り下げるなり幅を広げるなりしてみてはいかがでしょうか。
何でもかんでも一つの枠に押し込んで、その中で処理しようとするのは山本七平も吉本隆明も同じなのですが、そういうのって「ひとりよがり」以外の何ものでもありません。
稀に本質を突きますけどね。
しかし山本七平の知ったような口ぶりは、山本七平というブランドがあるから許される部分が大きく、他の思想から同じ問題にアプローチしている人々にとって、七平語りを真似てみても唖然とするだけで、下手をすれば嘲笑の対象になってしまいます。
これも本質を突くのが稀な故にですが(笑

基本は山本七平でイイとしても、右でも保守でも他の思想に触れればワンパターンから逃れることができると思いますし、一知半解さんは他のガラクタと違って、そういう望ましい変化を自分で作っていける人だと思いますけどね。

では、また呼んでくださいまし。

  • 2010/08/19(木) 00:25:41 |
  • URL |
  • キンピー #-
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キンピーさん、コメントくださる皆さんへ

>ご自身のブログに左翼を招いたのは「yuich」さんのようなコメントを見せつけるためですか?(爆

最初にお断りしてますように、お玉さんのブログで議論できなかったから…という理由に過ぎません。

キンピーさんのお腹立ちもわからなくもありませんが、それは邪推というものです。

なお、この場を借りて、コメントくださる皆様にお願いいたします。

拙ブログのコメント欄運営方針(フルオープン・削除なし)をご確認いただいた上で、コメントをご投稿ください。

具体的には、単なる罵倒、相手への揶揄などに過ぎないコメントはご遠慮くださいますようお願いいたします。

  • 2010/08/18(水) 23:36:26 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

一知半解さん

ご自身のブログに左翼を招いたのは「yuich」さんのようなコメントを見せつけるためですか?(爆

  • 2010/08/18(水) 21:19:33 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

キンピーちゃんは共産党を除名されてるんだ!
じゃあサヨクどころか赤軍かなんかの国家転覆を謀るテロリスト集団の支持者なんだー。
わー怖い怖い!

  • 2010/08/18(水) 17:39:20 |
  • URL |
  • yuich #1.XgeJoc
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yuichさん

論理的に語ることができずロマンチズムに逃避するのはウヨの特性でしょう。
背伸びして語ったところで、劣化した左翼の二番煎じのような言説を垂れ流すのみ。
惨敗すれば勝手に勝利宣言。
こういうものは滑稽でしかありませんが、元来根無し草ですから行き当たりばったりで自分の足場を見失い、最後は開き直るしかないことは仕方の無いことかも知れません(苦笑

しかしそれにしても「悪人」とは、ネトウヨを良く言い過ぎです。
悪人とはもっと狡猾であったり、悪を悪と自覚して手を汚す覚悟のある者をいうのです。
歴史上の人物で言えばチェーザレやレーニンでしょうか。
覚悟も無いネトウヨに悪人の称号など与えられるはずもなく、ネトウヨとはもっとひ弱で時勢に流されるスネオ君タイプでしょう。
魔女狩りに熱狂した民衆や、魯迅が改造の対象とした同胞の処刑に好奇な視線を向ける支那人と同じで、せいぜい権力者に踊らされて民衆を暴行しまくった文革の紅衛兵。それらと同種です。
つまり市民、国民にすらなりきれていない「マス」としての大衆でしょう。
このエントリーでは型や権威に埋没する「マス」ではなく(しかも強制的にw)、実感できる確かなものに根を持つようにアプローチしてきましたが、もともとネットという匿名性に埋没している世界では逃避癖が治らないのかもしれません(笑
ま、私は思想の方向性までとやかく言うつもりはありませんので、先達の思想に触れてまともな右翼・保守になっていただきたいものです。

っで、yuichさんは私の思想を知りたいようですが、コミュニストであり共産党の批判者であり共産党の支持者でもある私は、過去に批判が祟って何度も査問された上に共産党を除名を言い渡されましたが(マルクスレーニン“主義”および、共産“主義”政権下なら銃殺ですねw)、もともと何かを信仰しているわけではありませんので、思想の方向性は変わらず今に至っています。
信者というと自身を褒め称える民衆に向かって「私は断じてマルクス主義者ではない!」と言い、「全てを疑え」と言ったのはマルクス。
そして“自分で考える人”であるハイデッガーに対して「あなたと私が現象学だ」と言ったのは、これまた“自分で考える人”であったフッサールですが、そういった姿勢だけでも目標にしていきたいと思っているだけです。

  • 2010/08/17(火) 20:43:38 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

キンピーちゃんを見てもわかるように、わざと、挑発してそれにのってくると、あいつらは、悪人だという。だから言っていることも、まちがいだといいたいみたいです。
左翼のひとは、追い詰められると、ネトウヨは、悪だからほっとけというが、なぜなら、論理的に、話すと負けるからね^^
それとも、キンピーちゃんはサヨクじゃなくって、狂信者集団の小沢信者かな?
もしかしたら、同じく狂信者集団の創価学会の人かな?


  • 2010/08/17(火) 17:23:44 |
  • URL |
  • yuich #149fUFk2
  • [編集]

yuichさん

ネット右翼とは自信の無い根無し草が、排他的な歪んだ願望に取り付かれて「自身に都合の良いネットからの情報を鵜吞みにするバカ」という認識しかありませんし、質の悪い左翼と同根の病巣を持っているように思います。
特に共産党を信仰している人たちとネット右翼は非常に似ていて、彼らからすれば信仰するものがあれば、国家主義的正義でも共産主義的正義でも場合によってはカルト宗教的正義でも何でも良いわけです。
ネットで真実を知るほどおかしいと思う人が多くなるのではなく、根無し草が多いだけで、それが各種カルトへ振り分けられているだけです。
彼らの特徴は、「我々は騙されている」「我々は不当に扱われている」ということでしょうか。
ま、左右問わず質の悪い者が増えることは日本にとって不幸なことですがね。
ネットはネットで便利ではありますが、コメントでやり取りしていて思うのは、情報が断片的で知識が圧倒的に少ないということでしょうか。
まとまった知識というものはネットから得ることは難しく、まとまったマトモな情報は学術的・専門的な書籍から得るのが正攻法ですので、もう少し努力してもらいたいものです。

とくにネット右翼というカテゴリーに当てはまる人には、まず戦前の保守・右翼思想家達の文献を読むことを薦めているのですが、とにかく右翼でも保守でも良いですから、質の良い人に出てきてもらいたいものです。
たとえば西洋と和の融合させた田邊元・西田幾太郎・和辻などから、皇国史観の平泉澄まで。また八紘一宇の概念。
その中で平泉先生のことを何度も書いたのは、平泉氏が根無し草を日本の歴史の中にもう一度根付かせようと信念をもって行動されたからであり、私としては平泉史観に同意しないものの、その手法の正しさにおいて敬意を持っているからです。
平泉先生ならば明仁と同様に、日の丸君が代の強制には反対するでしょうね。
ま、そういうこともネット右翼には分からないでしょう。

  • 2010/08/16(月) 21:05:38 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

きんぴーちゃんへ

それとネット右翼がおおいのわ朝日などのマスコミが真実を曲げて報道するからネットやらない人はだまされてるんだよネットで真実をしるほどおかしいと思う人が多くなるからだと思うのですが??どうでしょう

  • 2010/08/16(月) 11:22:33 |
  • URL |
  • yuich #wkWFaQRY
  • [編集]

いつぞやコメント書いていたyuichさんでしたか。
ノンポリを装いながらの「どっちもどっち論」。
おつかれさまです。

  • 2010/08/15(日) 22:36:56 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

あははは、ここのコメント読んでいると、右翼も左翼も皆んなバカって答えしか思いつかない。まあ、中立の人はあまり意見言わないけど、思想が偏ると、自分たちの【前提】ばかりが優先されるから、話し合いは無理ですね。

  • 2010/08/15(日) 17:16:10 |
  • URL |
  • yuich #3bhHww26
  • [編集]

Saizwong 氏

何か勘違いしているようで。
文面の中に私の名前が出てきたから相手をしてやったまで。
基本的に貴方のコメントはなんら意味をなさないものが多いのでスルーです。
相手にしてほしかったら、それなりのコメントをよろしく。

  • 2010/08/15(日) 16:54:22 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

壊れてるなぁ・・・

 ただキンピーさんの仰るとおりの原書を調べたら内容は全然違いましたっていう単純なお話。どうせあなたは原書は調べられないと思ってはったりかましたんでしょ。
 きちんと調べて引用する最低限の努力もしないで構築した歴史観と、それに基づいた日の丸君が代反対論なんてそれこそ意味が無いのでは?
 私に向かって印象操作しても事実が消えるわけじゃないんだし、まず自分で基本から始めないと。
 幸いなことにここのブログ主の引用はきちんとしてるから、まずはその辺りから始めるようにしてはいかがでしょうか。

Saizwong さん

自らは何の根拠示さず心の叫びを披露したわけですね。
いつもの「何か語っているようで何も語っていない」コメントよりはマシですが、なんら共感できるものではありませんね(苦笑

  • 2010/08/15(日) 12:07:42 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

>キンピーさん

 学者がいかに南朝正統論を叫ぼうと、あなたが大嘘つきであることに変わりは無い。
 漠然と学者という権威を出すという典型的すぎる詭弁を行わないで下さい。

 明確な事実としてあるのは、あなたが日の丸君が代に対して構築している歴史観の元となる史実はあなたの言う史料の中には存在していないこと。
 ただの思想をあたかも確定した事実のように述べて相手を恫喝し、教育に対して不誠実な態度をとることを正当化するなどもってのほか。
 こんな歴史を先に教えられてもただかわいそうな人が増えるだけです。

  • 2010/08/14(土) 22:41:31 |
  • URL |
  • Saizwong #aswhZyPU
  • [編集]

Saizwong氏

南朝正統は学者の一致したこと。
これは思想ではなく史実。
よって北朝を認めるか認めないかが思想の問題。
相変わらずズレてるね(苦笑

  • 2010/08/14(土) 20:31:22 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

>思想であって史実ではありません。

うん、思想と史実は区別しなきゃいけないよね。

で、天皇家が南北朝に滅亡してその後はまがいものってのは、これ「どんな王朝でも百代もすれば必ず滅亡」とする「百王説」っていう仏教の末法と同じような平安~南北朝で広まった思想でしかないんだよね。

ちょうどその百代目で編纂を終えている「大日本史」もその思想の影響が見られるっていうのは良く言われていること。
ただし、tikurin氏の言うように水戸光圀は本来100代目で終わらせるつもりはなく、その後の天皇についても書かせるつもりだったことは確か。
ですから、編纂者の中にそういう思想があったことは史実と考えられても、100代で終わったことが史実とはとてもいえませんよね。
実際に天皇家が終わったなんて大日本史には全く言及されていないんですから。

このようにキンピーさんの主張には事実と思想が入り混じって述べている部分があるようですから、ご自身で発言されたのを機に整理してみてはいかがでしょうか?

  • 2010/08/14(土) 12:17:51 |
  • URL |
  • Saizwong #aswhZyPU
  • [編集]

仮)山田二郎さん

加憲や恣意的解釈が出来ないように文書を書き換える改憲派がいますが、それが有効だとは考えたこともありませんし、国民の中にも多数になりきれないようです。



tikurinさん

日教組の連中と、私は違います。
お前の思想はどうなんだ?と問われれば、包み隠さず主張するだけであって、教育現場の問題と私の主張は別問題です。
ちなみに平泉先生の世界観は「日本=天皇の居る国」ですので、天皇制の崩壊後も「ありがたいことに天皇として居てくれる」まがい物系の天皇も崇拝しておりますが、これは単純に平泉先生の思想であって史実ではありません。
ま、これがホントの独りよがりですが、平泉先生は覚悟をもって行動していらっしゃったので、そのあたりは共感しております。

  • 2010/08/12(木) 21:55:40 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

キンピーさんの本当の思想?

 キンピーさんの本エントリーでの主張は、公立学校の儀典における国旗掲揚・国歌斉唱について、教育委員会が教職員に「起立斉唱を求めた」ことについて、それは憲法に保障された個人の思想信条自由を犯すものであり、憲法違反だとするものでした。

 私の主張は、もともとこの問題は、”「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法的根拠はないから、その掲揚・斉唱を教職員に強制できない”とする、特定のイデオロギーに基づく政治的行動に対する対抗策としてとられたものであって、それ以上のものではない。従って、国旗国歌法の制定によってこの問題は一応の終熄を見た。といっても、この法制化によって可能になったことは、件の儀式において教職員に「起立」という外面的行為を求める程度(斉唱の事実は証明不能)であって、それ以上のものではない、というものでした。

 これに対してキンピーさんは、”「日の丸」に向かって起立を求めることは、個人の外面的行為の規制に止まるものではなく、その思想信条の自由を侵すもので憲法違反だ”と主張しました。しかし、日本は法治国家であって、公立学校の教職員は公務員になった段階で、「国民全体に奉仕する」者として、法令の遵守を義務づけられているのですから、入学式や卒業式などの儀典において、その主宰者側にある教職員が国旗・国歌を起立(斉唱)をする程度のことは、本人の思想信条にかかわらず求められて当然でしょう。おそらく裁判もその方向で確定すると思います。

 ところが、キンピーさんは、先の自説を補強するために、「日の丸・君が代(天皇)≠象徴」という論理を持ち出しました。そしてその論拠として、”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”と主張しました。これで、キンピーさんの「日の丸・君が代」強制反対の論理の中心はここにあることが判ります。つまり、上述した彼の憲法の思想信条の自由を絶対視する主張は、彼にとっては必ずしも本筋ではないのです。

 そこで、キンピーさんの”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”という認識が妥当かどうかということが問題になります。そこで私は、『大日本史』は、確かに南朝を正統としているが、南北朝合一によって北朝との葛藤関係は解消した(その正統の連続性を証する根拠として「神器論」や「君徳論」が論じられた)としており、事実、その編纂者である徳川光圀も、その後の天皇について「本紀」に加えるよう命令を下していた、と指摘しました。

 また、キンピーさんは、平泉澄の研究でも”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった”ことが証明されていると言っています。確かに氏は、南朝の正統性を主張しましたが、しかし、天皇制の終焉を告げたわけではありません。その証拠に、彼が戦後に書いた『少年日本史』にも孝明天皇や明治天皇の事績が記されています。要するに、彼が求めた天皇制とは、尊皇史観に基づく「天皇親政」であり、平泉澄はそれを昭和において復活させようとしたのです。

 以上で、キンピーさんの”天皇制は14世紀の南朝の崩壊とともには終わった。そのことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致している”という主張がいかに独りよがりな勝手な解釈であるかがわかります。
(長文ですので、つづきは私ブログ「竹林の国から」参照http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-c353.html

  • 2010/08/12(木) 21:25:55 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
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道徳に返る

 他の方の繰り返しになる部分もありますが、これまでのコメントを読んで自分なりに整理してみたので長文失礼ながら書き込みいたします。


 まぁ、強制性でいうのであれば、法や規則そのものが強制の側面を持っており、それはみんな大好き憲法においても例外ではございません。「自由」を謳う法もまた個々人の思想レベルに落とせばそれの強制の側面を否定できないのであります。

 で、他の方の主張のポイントである"道徳"に立ち返っても、そこには「してはいけない」「するべきである」という強制の側面があり、また、人々を管理するための法や規則が国民に根付いているこれら道徳に添う形で作られようとするのもまた自然の道理かと。

 そうすると、「憲法が上位だから~」云々の主張も実は的外れというのが分かってきます。

 元を辿れば、「国旗国歌には敬意を表すべきである」という道徳と、「思想・良心は守られるべきである」という道徳があり、前者を基にしているのが「国旗国歌法」や教育現場における規則であり、後者は憲法19条に現れているに過ぎません。

 それで、「国旗国歌には敬意を表すべきである」という道徳と、「思想・良心は守られるべきである」という道徳は、相反する道徳としてぶつかるかといえばそんなことはないと思います。十分に両立しえる内容です。
 国旗国歌に敬意を払う行動をとっても、内心の自由は守られているわけですから。

 仮にこれに反対するのであれば「国旗国歌に敬意を払う行動」が「内心の自由」を妨げるのか?という部分を突き詰める必要があると思います。

 また、いわゆる「思想統制」の話であれば、私は国旗と国歌をそれに利用することは国旗と国歌への冒涜であると考えます。
 現実に国旗と国歌を利用して思想統制を行おうという事実が確認されたのなら、「国旗と国歌に敬意を払うべきである」という道徳と「内心の自由を守るべきである」という道徳の両面から非難され、それに基づいて制定された法によって裁かれるべきでしょう。

 そして、第一に学校側に「思想統制」の事実が確認できるなら、式典による不起立、不斉唱、演奏拒否なんて中途半端な行動にはならず、真っ先に取るべき別の行動があると思うのですが、その辺りがやはり彼らの不自然なところとして表れますし、それを踏まえると、この事件においては「反対教師の道徳及び法の認識の欠如」というのが一番考える筋として通るのではないのかと思います。

  • 2010/08/12(木) 21:06:30 |
  • URL |
  • Saizwong #aswhZyPU
  • [編集]

キンピーさん

例え100%防げずとも、ある程度は防げます。
また、抜け穴や曲解する事が可能な条文は、それが出来ない様に書き換えていくのが当然のこと。
一時的な事ならともかく、日本のように解釈で誤魔化し続けるのは、最悪です。

  • 2010/08/12(木) 20:54:24 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
  • [編集]

仮)山田二郎さん

事細かく書いても同じです。
曲解してくる人間は曲解してきますので、やはり人民の不断の努力によって解決する以外にありませんね。

  • 2010/08/12(木) 16:11:36 |
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  • キンピー #-
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キンピー

その恣意的解釈を防ぐ為には、条文は事細かく書くべきでしょう。少なくとも、現場での勝手な解釈は認めてはいけませんし、解釈が出来る様なものは駄目です。現場解釈に教育的制裁したキンピーさんなら理解できると思いますが?

  • 2010/08/12(木) 12:18:04 |
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  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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仮)山田二郎さん

どんなテキストでも曲解しようと思えばできますから、恣意的に解釈できないテキストなどというものはありません。
権力の恣意的解釈を許さない戦いは人民の不断の努力によって成し遂げられるものであり、個人の権利は他人の権利との関係の中で解釈されるものです。
よって日教組の連中が、自分達の言い分に正統性があると考えるのであれば、戦い続ければいいでしょうし、権力側は個人の権利が他人の権利を侵害していると考えるのであれば、これまた戦い続けることになります。
ま、他人を強制する権利などというものが成立するのか私には疑問ですが。

  • 2010/08/12(木) 10:52:57 |
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  • キンピー #-
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キンピーさん

>>権力の正当性に関わる問題ですから。

なもんで、法律やら憲法と言うものは恣意的解釈を許したり、どうとでも取れる書き方はしてはいけないと言う事になります。少なくとも、裁判で専門家が一生懸命解釈をしなければいけないような欠陥憲法は改定か廃棄すべきものです。

  • 2010/08/12(木) 00:00:46 |
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  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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 主にキンピーさんと「個と共同体」という論点で意見を書かせて頂きましたが、それ以外の私の意見を開店休業中のブログに書いてみました。ご関心の方はリンク先をお読み頂ければ幸いです。こちらのブログに長文ばかり並べるのは管理人さんに申し訳ないですから。

論題だけここに書いておきます。

【「君が代は特定思想の表現であるから、それを歌わせることは特定思想の強制になる」という議論を批判してみる】

  • 2010/08/11(水) 19:02:02 |
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  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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仮)山田二郎さん

それは行政側についてもいえること。
というか、むしろ行政側が慎重にしなければいけません。
なんせ国家が間違うということは、権力の正当性に関わる問題ですから。

  • 2010/08/11(水) 10:22:49 |
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  • キンピー #-
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キンピーさん

訴えるのは自由ですが、確定するまでは身勝手な憲法解釈で動くべきではありませんよ。
現場に憲法解釈をさせる事は、危険ですらあります。

  • 2010/08/11(水) 09:26:16 |
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  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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仮)山田二郎さん

その命令が違憲ではなければ問題ありません。
しかし最高裁の両論併記にあるように、この問題は確定しておりませんので、気に入らないと思った方が訴えればいいだけかと。

  • 2010/08/10(火) 23:11:55 |
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  • キンピー #-
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キンピーさん

当然、思想信条は自由です。
ただし、あくまで業務命令に反した行動に移さなければと言う前提のもとです。

  • 2010/08/10(火) 22:22:29 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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kyusedaiさん

貴方の疑問は貴方のコメントの中に答えが書かれています。

仮)山田二郎さん

公務員とて思想は自由です。
っで、やはり排除というような考えからは国家主義的な国にしかならないのでしょうね。
そして保守は論を持たない人が多いですから、結局のところ論を補完するのは左からということでしょう。
その現象はこのエントリーでも見られますが。

  • 2010/08/10(火) 12:31:25 |
  • URL |
  • キンピー #-
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キンピーさん差別はいけない

>日の丸君が代の歴史観の型

 とは皇国史観のことでしたか。
 ところで、長い日本の歴史の短い時間に皇国史観を政治的に強制した時代が確かにありましたね。中高の歴史教科書では何故そのような経緯になったのかも詳しくは勉強しませんね。当時の困難な時代の為政者の国防意識など興味がありますが、マルクス歴史学ではその辺も実証的に確立されているでしょうかね。
 でも、それと現代の国旗・国歌の学校儀典が何か関係あるのですか?

>戦前戦後とその呪縛のせいで日本の中世史や文学が非常に薄っぺらいものになっているのをご存知無いのでしょうか。
特に室町時代は近世・近代へ続く大切な準備期間なのですが、子供に日本史を教えるにあたり非常にマイナスに作用しております。

 どうも、このキンピーさんの文章では何をどう言いたいのか判然としません。ただ、中高学校歴史教育は特に室町時代に関係なく全体的にまさしく薄っぺらであると思います。
 しかし、歴史以外にも各種教科を勉強しなければならず、かといって授業時間はおのずから限度がありますから歴史教育が薄っぺらになるのはまあ仕方ないのでしょう。

 それとね、我が国の文字・国家様式が歴史上支那文明に大きく影響されて来た事実を日の丸・君が代軽蔑の理由にしているようですが、それは単に歴史を差別の物差しとする方法論です。道草クー太郎さんのご指摘どおりそのようなことではマルクスが泣くのではないでしょうか。
 朝鮮半島では檀君以来5000年の歴史だそうですが、皇国史観でも皇紀2600年と日本神話に依拠し、和服を呉服と呼び、漢字をそのまま漢字と呼んできた我が国の素直なおおらかさを学びましょうや。

  • 2010/08/09(月) 21:41:09 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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キンピーさん

>>他者から「あいつマナーが無いな」と思われようが、それを上回る信念があればそうするでしょう。
当たり前のことです。

上回る信念があれば、公務員の立場にしがみつきはしないでしょう。なにせ優秀な方々ですから。

>>私刑でしかありません。

私刑と言うよりは、異物は排除すると言う考えですよ。コミュニティの一員としては、我が強すぎると言うか、我のみの方はコミュニティの一員としてはいてくれない方がよいですから。(理想はともかくね)

  • 2010/08/09(月) 13:33:48 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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クー太郎さん

貴方もしつこいですね(苦笑。
最後の質問は掘り下げて一から説明しただけでしょうに。
大阪西区の事件と日の丸君が代の関係性など論証できっこない。
なのにクー太郎さんは、このセンセーショナルな事件を引き合いに出し、安易にご自分の論を補強しようとしただけです。
こんなデタラメな補強をするのも、ご自分の主張の自信の無さの表れですが、論理の不備を私から指摘され、答えられないで右往左往しているだけではありませんか。
そろそろ「関係性は確認できない」と仰ってはいかがでしょうか。

仮)山田二郎さん

他者から「あいつマナーが無いな」と思われようが、それを上回る信念があればそうするでしょう。
当たり前のことです。
また役所の通達とは法と同じですので言葉には厳密でなければいけません。
よって、いろいろな思いはあるでしょうが、仮)山田二郎さんの説明で強制が行われたのであれば、私刑でしかありません。

  • 2010/08/09(月) 12:51:07 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>キンピーさん。
 馬鹿なことを言うもんじゃありません。アプローチを変えたのではなくアプローチの対象をスリ替えたのですよ、あなたは。誤りを指摘されても誤りと認めずになし崩しに議論が続けられると思っているようですが、それは私への甘えであり、社会への甘えでしょう。なし崩しにあなたに合わせてやることも可能ですが、テーマがテーマだけに、それはしません。私はあなたのむき出しかつ脆弱な自我に迎合しない強硬な「外部」として対応させて頂きます。

 レスが欲しければ、自分のお尻を自分で拭いてから出直しましょう。拭けずに議論を投げることもあなたの自由ですが、強いキンピーさんの登場を期待してます。

  • 2010/08/09(月) 10:18:04 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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キンピーさん

>>学習指導では「ふり」ではなく敬意を抱くようにするのが目的です。

学習指導要領などが、そういう風に書くのは当然でしょう。どのみち根っこから変える事は、日本では出来にくいのですから。

>>それと国旗国歌に対する責任とはいったい何でしょうか。

国旗国歌に対する責任ではなく、思想を絶対視した行動に対して、排除・阻害される事になる責任。当然、何らかの式典で国歌斉唱時に着席したりすれば、その人の評価は悪いように固まるでしょうね。

ちなみに、この考えは共産党には適用されません。なにせ共産党は、表向き、その手の排除・阻害する事を否定していますからね。

  • 2010/08/09(月) 03:46:09 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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クー太郎さん

クー太郎さんは、「公共性から切り離された個」などとありもしないこと前提とし、そこから大阪西区の事件へ言及されていったのですから「だったら論証してみてください」というのが、前回以前のコメントです。
そして前回は、事件の母親と日の丸君が代の関係性をいくら言っても論証される気配がありませんので、アプローチを変えただけでしょうに。

子供を放置して死なせた母親は、以前は育児に熱心であったという報道もありますが、事件の場面だけを切り取って形而上的に眺めてみれば、それは短絡的なものでしょう。
この母親に限らず、あらゆる強盗や殺人も一場面だけを切り取れば、短絡的なものでしかありません。
このような見方自体にも問題はありますが、日教組の連中は本当に社会性に媒介されないむき出しの自我を振り回しているのでしょうか。
主に彼らが日の丸君が代を否定する理由は、共同体の歴史を省みて国旗として扱うには問題があるという意見や、現在の主権在民とうい日本社会において、特定の家族を崇め奉る歌は国歌にふさわしくないというものでしょう。
日の丸は過去の評価の問題になりますが、君が代に関しては社会性に媒介されないどころか、おもいっきり社会性に媒介されており、社会性に媒介されることなく国歌として誕生し、史実とは異なる皇国史観にしがみ付くことでしか存在することができない「君が代」が異物として存在しているから、反発を受けているだけでしょう。

さて、いつになれば事件の母親と日の丸君が代の関連性を論証していただけるのでしょうか。

  • 2010/08/08(日) 23:05:27 |
  • URL |
  • キンピー #-
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「そのような主張」とは次のどれのことですか?>キンピーさん

(前々回)
>そんな君が代を公教育で強制しないことが、こんにちの公共性の無さの原因であると
>するなら、それなりの論立てが必要です

(前回)
>「君が代を強制しないことが公共性喪失の原因だ」はクー太郎さんが大阪西区の事件
>でもって強調されたことでしょう。

(今回)
>クー太郎さんの問題意識は、「共同体から切り離された個」を想定し、国民国家体制
>の公教育においては国民未満の子供を共同体につなぎとめるために、国旗国歌の強制
>は必要である。
>という立場です。

(前々回)(前回)は公共性喪失の原因論でしたが、(今回)はその原因論がスッポリどこかに消えてしまいましたね(笑) これらが全て私の「同一の主張」であるという無理を押し通した上で「主張内容を論証せよ」と? 無理の何階立てでしょうか(呆)

 キンピーさん。私の「主張」内容にも関わるので皮肉半分でちょっと聞いて下さい。誤認したのに「誤認しました」と言えない人は弱い人です。「誤認しました」と言える人は強い人です。その強さの源泉を突き詰めれば「共同性」なんです。人は共同性の絆によって自我の外部に連なる社会を自我の内面に織り込みます。それは、自分自身を外から見る自分という「第二の自分」を形成することでもあります。それがむき出しの野生の自我に社会性を付与する。そういう自我は良い意味で強いのです。なにせ「個」でありながら「個」を超えているという人間本来の在り方ですから。しかし、子供を放置して死なせた母親の自我はどうでしょう? 「遊んでる方が楽しい」というむき出しの自我がそのまま行動に短絡しているでしょう。自我が自分を外から眺める自分を獲得できていない場合にはそうなります。「個」が「個」のまま社会に媒介されていない野性の自我。これは人間本来の在り方から外れており、弱いのです。「エンコーして何が悪いのさ」のガキもそうだし、「センコーの話聞くのかったりーしぃ」のガキも同類。そういうガキたちにとって一見「個」に敵対するような共同性が大切なんです。「個」を社会的動物である人間にするためには。国歌や国旗だけでそれはどうにもならないわけですが、さりとてそれを否定する理由も無いのです。そして、社会性に媒介されないむき出しの自我を振り回して共同性のシンボルを否定するサヨク教師は否定に値すると。そういうまとめにしておきましょう。

  • 2010/08/08(日) 19:04:35 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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結局

 確かに大層なことを言っているようで、個の自由を絶対視した方針では、普通に話せない、聞けない、読めない、書けないのコミュニケーション不能人間を量産しただけですからね。
 だけど、そういう機能不全に陥っている人間に限って、まるで自らが特別であるかのような振る舞いをして自己補填するから実にやっかいで。
 ありがたいことに、それはこのスレでも既に体現していただいておりますが。

 そのコミュニケーション手段が無い人間がどうして共同体を作れましょうか。
 仮になんらかの集団にいたとしても、それってお互いに集団であるという思い込みで作られているだけなんじゃないかと。

 この個人の自由やらを絶対視する考えは社会で生きていく能力を奪うどころか、むしろ自ら放棄させるように進めるのですからほんとに世話ないです。

 教える立場の人間が自分から共同体のシンボルを放棄するのですから、そこから退出を命じられるなんて当然の処置でしょうに。

  • 2010/08/08(日) 13:23:06 |
  • URL |
  • Saizwong #aswhZyPU
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クー太郎さん

クー太郎さんの問題意識は、「共同体から切り離された個」を想定し、国民国家体制の公教育においては国民未満の子供を共同体につなぎとめるために、国旗国歌の強制は必要である。
という立場です。
そしてその文脈で問題のコメントが2010/08/03(火) 10:30:33に書かれています。
ここでは「共同体から切り離された個」なるものが「こんな母親を世に送り出す社会に貢献していないとどうして言えますか?」と。
だから私は、そのような主張をされる前に論証してくださいと言っているまでです。
どうぞ。

そのこととは別にクー太郎さんの誤りをマルクスからいえば、「共同体から切り離された個」とは生産手段からの引き剥がしであって、思想信仰を含んだ個性と共同体の分裂ではありません。
日本でいえば明治の家長父制の導入により、女・子供そして跡継ぎ以外の人間の権利が法的に奪われました。
「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような一つの協同社会」をマルクスは目指したのですから、クー太郎さんの誤りは明らかです。
次に現象学的にいえば共同体から切り離された個などというものは無いのです。
マルクスから事業を引き継いだレーニンは、唯経において間違ったマッハ批判をしてしまいます。
ここにマルクスレーニン主義の「つまづき」があり、この「主義」の世界観はガリレイ以上ニュートン未満に留まっています。
だいいち共同幻想から説明しても、資本主義によって全ての共同幻想が無くなるなどといったことは無く、思想信仰を含んだ個性という意味での「共同体から切り離された個」などというものは無いのですから、わざわざ人工的な共同性で縛る必要はありません。


仮)山田二郎さん

学習指導では「ふり」ではなく敬意を抱くようにするのが目的です。
それと国旗国歌に対する責任とはいったい何でしょうか。

  • 2010/08/08(日) 13:19:50 |
  • URL |
  • キンピー #-
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キンピーさん

意味の分からないもの唾棄すべきものにでも敬意を抱く振りをさせるのも教育です。

高校や義務教育レベルの教育は、手段を目的化してもかまわないと思います。
本質がどうたら意味がどうたらと言う事を考えるのは、研究者の仕事ですし、実社会に出れば、責任を取る事を前提にすき放題出来るのですからね。

  • 2010/08/07(土) 22:31:02 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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キンピーさんの誹謗に抗議します

>キンピーさん。
>「君が代を強制しないことが公共性喪失の原因だ」はクー太郎さんが大阪西区の事件
>でもって強調されたことでしょう。

 根拠のない思い込みを繰り返されても返答は同じ。「君が代を強制しないことが公共性喪失の原因だ」などという議論を私はやっていません、ということです。私に事実無根を指摘された時点であなた自身がログを再確認し、必要な引用も付して「この部分で道草は確かにそういう議論をしている」と示すべきではないですか? 「自分がこう思ったからこうだ」では他者には通じませんよ?

>事件の容疑者である母親と日の丸君が代との関係性が全く明らかにされていません
>がその指摘は2010/08/03(火) 11:57:27でなされております。

 あなたの「指摘」は下記の通り。

(キンピーさん発言) 2010/08/03(火) 11:57:27
>っで、クー太郎さん的には、公教育において君が代・日の丸を強制することが、風俗
>で稼ぎ、自己の欲望のためにホストクラブで散財する人々を作り出さない。あるいは
>歯止めになると仰りたいようですが、どうしてそういうことがいえるのでしょうか?

質問への無粋な質問返しなうえに内容も頓珍漢だったのでスルーしましたが、養育放棄事件はあなたの

(キンピーさん発言)2010/08/02(月) 22:01:13
>共同性から切り離された「個」などというものがあろうはずもなく

という牧歌的認識への反証として“共同性から切り離された「個」”の一例を挙げたのです。これに対してあなたは同意も反論もせず、「別の見方」も対置しなかった。つまり、自ら発した言葉をうやむやにしたわけですから、「あなたは反論どころかその件については何も自論を述べていない」という私の指摘は正当であり、

>「反論が無かったから」などと嘘までついて居直る

というあなたの発言はこれまた事実無根の誹謗ということになります。
さあ、マルクス主義者らしく撤回と謝罪をどうぞ(笑)

  • 2010/08/07(土) 18:40:37 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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クー太郎さん

「君が代を強制しないことが公共性喪失の原因だ」はクー太郎さんが大阪西区の事件でもって強調されたことでしょう。
事件の容疑者である母親と日の丸君が代との関係性が全く明らかにされていませんがその指摘は2010/08/03(火) 11:57:27でなされております。
「反論が無かったから」などと嘘までついて居直るのであれば、どうぞ論証なさってください(苦笑

  • 2010/08/07(土) 15:29:35 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>そんな君が代を公教育で強制しないことが、こんにちの公共性の無さの原因
>であるとするなら、

 キンピーさんも人の話を聞けない自我肥大の世代ですか?
「君が代を強制しないことが公共性喪失の原因だ」などという議論を私はやっていませんが…。そんな粗暴な「総括」をされても他に誤解する人はいないでしょうから私は困りませんけどね。

 困るのはキンピーさんの方。自論の正当性は自分の論で示すべきものであって、相手の主張を曲げることで得られるものではありません。マルクス主義を自任するなら、自論を「つぶやき」レベルから「社会性を持った言説」に高める姿勢が必要でしょう。自分だけにしか通用しない「内心の正当性」に自閉して事足れりというのなら、「社会を内面化できていない自我」の振る舞いと同様であり、対話という簡単な社会的行為にすら耐えられないと言わざるを得ません。

>大阪西区の虐待死事件と日の丸君が代の関係性がなんら論証されていません
>ので、

 あなたは反論どころかその件については何も自論を述べていないですよね。観念的で類型的なサヨク的「理念」は並べても「現実的で具体的な問題」に即した議論を一貫して回避しているのがここでのあなたです。

>君が代はどこから切っても「ダメ」だらけなのですから仕方ありませんね。

という言葉にもそれがよく表れていると思います。

  • 2010/08/07(土) 13:54:41 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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クー太郎さん
特に君が代はどこから切っても「ダメ」だらけなのですから仕方ありませんね。
しかし、そんな君が代を公教育で強制しないことが、こんにちの公共性の無さの原因であるとするなら、それなりの論立てが必要ですから、反論されるのはクー太郎さんの議論の甘さのためです。
といいますか、大阪西区の虐待死事件と日の丸君が代の関係性がなんら論証されていませんので、最初から甘すぎるのですが。

仮)山田二郎さん
意味の分からないものに敬意は抱けないでしょう。
手段が目的化しており本末転倒です。

  • 2010/08/07(土) 12:36:46 |
  • URL |
  • キンピー #-
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とりとめのないキンピーさんの議論

 キンピーさんの議論は、日の丸君が代を「型だからダメ」だと言ったかと思うと「歴史観だからダメ」だと言ったり、察するに「ダメ」まずありきで理由は文脈に応じて後から何でも動員するってところでしょうか? マルクス主義の立場を自称しての議論なら、もっと一貫性を持った論陣を張らないとマルクスが泣きます。

 子供をはめこむ型が「日の丸」「君が代」である必要性は無い、それに異論はありません。そもそも、そんなことは私の論点に上がったこともない。国旗は「日の丸」で国歌は「君が代」以外絶対に認めないなどと私が書きましたか? 別に国歌は「インターナショナル」でも良いですよ(笑)

しかし、

>「授業中は席につく」「教師の話を聞く」という型でも良いわけでしょうし

という対案(?)は対症療法さえしていれば病因は考えなくても良いというようなもの。それは論点外しというものでしょう。論点外しだから対症療法そのものについても真剣に考えているかどうかは疑わしい。

 授業で席につかず、教師の話を聞かない「ガキ」はすでに「生徒」ではなく、「生徒」でない者にとっては教師も「教師」ではないのです。学校がモノを教えられるのは「教師/生徒」という関係が成立しているからであって、その関係を作る作業はすでに学校教育の範疇ではありません。だから対応に精根尽き果てて精神をおかしくする真面目な教師が増えている。

 そんな教師を病に追い込むもう一つの要因も不起立系サヨク教師たちが煽っているのです。それは、「子供にも人権がある」とのブルジョア思想の立場から大人と子供、国民と国民未満を対等な関係に置き、「話して納得させるのが真の教育で、管理や強制は教育ではない」「生徒が主人公」といういわゆる「民主教育」の思想です。これは体罰の禁止に典型的に現れているわけですが、これが教師の手を縛ることで「ガキ」を放任するか対峙して挫折するかという閉塞空間ができてしまっています。

 この「民主教育」と国旗・国歌拒絶の「平和教育」がセットになって「平和と民主主義の教育」という信念体系を構成しています。革新の顔をしていながら時代の変化に対応できない保守主義であって、それゆえに教師集団が利権集団と化している現実もある。場当たり的な批判回避でこういった現実を消し去ることはできません。教育の現実に関心が無いのに浅薄なイデオロギーだけで口を出すのは頂けませんね。

  • 2010/08/07(土) 09:54:44 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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そもそも、

国旗や特に国歌の歴史的な意味なんて、研究者でもない者に教える必要もなければ知る必要もないでしょう。
しょせん旗であり歌でしかないのですから。

  • 2010/08/06(金) 23:27:44 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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kyusedai さん

特に君が代ですが、アレの意味も含めて教えるなら皇国史観を前提としなければなりません。
戦前戦後とその呪縛のせいで日本の中世史や文学が非常に薄っぺらいものになっているのをご存知無いのでしょうか。
特に室町時代は近世・近代へ続く大切な準備期間なのですが、子供に日本史を教えるにあたり非常にマイナスに作用しております。

  • 2010/08/06(金) 22:49:46 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>日の丸君が代の歴史観の型にはめれば学業に支障がありますし

 日の丸君が代の歴史観の型とはなんですかこりゃ。左翼ではそんな表現を用いているのでしょうが、意味が全く理解できませんワイ。
 そんな型にはまっている学校儀典はどこにあるのでしょうか。

  • 2010/08/06(金) 21:30:58 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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仮)山田二郎さん

任侠系を見ると、型にはめることによって、「無能で有害なアウトローを作り出すだけです。」ということがいえます。
この現実を見れば日の丸君が代の強制が、共同性を育むなどとはとても言えないわけで。

  • 2010/08/06(金) 21:16:12 |
  • URL |
  • キンピー #-
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極々一部の天才以外は、まずは型どおりにやらせ、その上で守るべきかどうかの段階に移らせないと、無能で有害なアウトローを作り出すだけです。

  • 2010/08/06(金) 20:56:19 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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クー太郎さん

日の丸君が代の歴史観の型にはめれば学業に支障がありますし、子供をはめこむ型が日の丸君が代である必要性はありません。
「授業中は席につく」「教師の話を聞く」という型でも良いわけでしょうし、これこそ思想に関係なく最低限の社会規範です。

kyusedai さん

マルクス・レーニン関係なく、歴史や社会科学の基本は唯物史観です。
しかしマルクスが描いた歴史観では足りないから近代科学や哲学と組み合わせて説明させていただいております。
このあたりの実践は、現在の中国でもみることができます。
経済発展のために暴力的な用地収奪が行われ、農村から出稼ぎに出てくる者の窮状をご覧になればよろしいかと。
中国も前例に倣って共同体破壊の代わりに国旗法の制定・国旗の昇降儀式を厳格に教育現場で行うように1990年に通達が出されていますね。

  • 2010/08/06(金) 20:26:43 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>しかしブルジョア国家によって共同体の破壊がなされたのも事実で、根無し草のようになった人間も多々生まれました。
そういった人の中で自分の歴史や文化に目を向けず、安易に何かにすがりたいのであれば「日の丸・君が代」はちょうど良い。

 キンピーさんのこの捉え方はつまりマルクスを通して社会を観るという方法ですね。
 とすると、あなたの言う歴史とはマルクス史観ということなのでしょうね。
 私は共産・社会主義関係の本はレーニンのあの薄い帝国主義論とどこかの大学の古い教科書である経済原論しか読んだことはありませんが、それによって国旗・国歌観が影響されたことはなかったです。
 でも、マルクスを勉強し、その影響を受けて後に日本の社会状況を解析しなれればいけないということもないですよね。だってそうなら、それこそ金日成語録の北朝鮮全体主義みたいになってしまいますからね。
 反日の丸・君が代にマルクス主義を持ち出すのはちと狭量と思います。

  • 2010/08/06(金) 18:01:28 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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>キンピーさん。
>子供を育てる責任というならば、まず歴史を教えるべきでしょう。
>いきなり君が代日の丸という型にはめては学業の妨げです。

 君が代斉唱・日の丸掲揚はまさに「型」です。そして、「型」というものは子供には必要なことです。共同体の教育機能の多くの部分は理屈抜きの「型」から入る。型であり、理屈を排除した伝統行事や祭祀、親の強権、子供同士での自我の衝突、近所の恐いオヤジの叱責、そういう幼い「個」には理不尽と思われるような異界を知る中で子供たちは自我の外部に「社会」があることを学び、その社会との対峙においてこそ自我を育むわけです(宗教文化が浸透している社会では神の権威もそれを媒介します)。歴史無き幼き自我と長い歴史の上に築かれた社会(外部)が最初からフリーで連結できるはずがありません。逆に、市場を入口にして社会へのフリーパスとして機能するマネーの問題性もここにあるわけですが。

 そうやって自我の中に最低限の社会を内面化させた子供たちが義務教育段階に進むのがかつての日本社会だったわけですが、共同体の機能喪失と子供たちの自我(我欲)がマネーと交換ですんなり受け入れられる消費社会の浸透によって、今はただの「ガキ」が教室に入り込んで来る時代。それとモンスターペアレントもね(笑)。だから、学校で歴史や算数を教える以前に基本的な生活態度や「授業中は席につく」「教師の話を聞く」という最低限の社会規範までゼロから教えなければならないのが現状でしょう。子供に公共的な縛りが必要なのは、右とか左の問題ではなくヒトという社会的動物が「DNAレベルで」方向付けられていることです。教師が生徒の面前で社会性を欠落させた自我を振り回していることの教育的な意味を考えなければなりません。

  • 2010/08/06(金) 13:31:42 |
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  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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クー太郎さん

>2.26
決起した青年将校の多くが農家の次男・三男でしょう。

子供を育てる責任というならば、まず歴史を教えるべきでしょう。
いきなり君が代日の丸という型にはめては学業の妨げです。
それとマルクスの解説はそのとおり。
しかし19世紀の世界観では限界があります。
それと共同幻想とか言ってるバナナの親父はナマコみたいで苦手です(苦笑
フッサールか廣松でよろしく。

  • 2010/08/05(木) 22:27:47 |
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  • キンピー #-
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国旗と国歌の意味

 むしろ、共同体のために作られた歌やシンボルはその成立する経緯や使われてきた歴史は調べてみると裏には負の面を持つってのは世界各国のものを見ても良くあることで、むしろ、そういう成立経緯や使われてきた歴史があるほうが正常なんじゃないかって思うぐらいですがね。

 その国にふさわしい国旗と国歌ってのは実は単にその中にある歴史が国民にとって良いものであればいいってものでもないんじゃないですかねぇ。

 これにあれこれと難癖付けて思想の自由を用いて拒否する現象ってのは、これまでの歴史において見なかったものであることは確かですが。

  • 2010/08/05(木) 20:31:18 |
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  • Saizwong #aswhZyPU
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2.26事件の話も唐突で意味不明ですが、キンピーさんは自分で書いていることがあまり整理されていないように見えます。

>マルクス主義としては国旗国歌などいう抽象的なものに立脚せず、歴史文化に立脚し、新
>たな規範を構築しようとするのは当然です。

それはマルクス主義者である大人の世界でどうぞってことですよ。子供たちには関係の無いこと。ただし、共同体を破壊され、社会というものを自己に内面化する契機を喪失した「根無し草」たちが、社会の共同幻想である「歴史や文化」に立脚する大人になれるかどうかは甚だ疑問ですね。ほとんど論理矛盾のようにも見えますが?

>だから私は日の丸を掲げ、君が代を歌う人を咎めたりはしません。
>哀れだとは思いますが。

 これも大人を相手にどうぞご随意に。子供たちには関係の無いこと。大人には子供を哀れむことより育てる責任があります。

>ブルジョア国家によって共同体の破壊がなされたのも事実で

「も」ではなく、それが主要な社会過程です。それから、破壊したのはブルジョア国家ではなく資本制という社会システムです。ブルジョア国家といえども資本の論理に解消できない固有の論理があり、学校に国歌や国旗を持ち込むのはブルジョアジーではなく国家という名の共同体の論理。

ですから、

>ブルジョアが差し出すのが標準語であり国旗国歌という「くくり」でしょう。

という見方も混濁しています。

 ブルジョア社会が市民社会(私人としての現実的生活の場)と政治国家(観念的な公的政治生活の場)に分裂した二重構造の社会だというのはマルクス主義に限定されない社会論の基本でしょう。マルクスは(抽象論に留まりつつも)それらを再統合する新しい共同社会を共産主義社会として展望していたわけであり、共同体から切り離された「自立した個人」を理想としていたわけではさらさらありませんよ。キンピーさんは「自立した個人」に無限定な期待を寄せているように見えますが、資本制が成熟すればするほど「自立した個人」は本当に「ヒト」なのか?とすら疑うような生態を晒しているように私には見えます。経済による共同体破壊と公教育の機能不全、人間の「壊れ」、国歌・国旗の導入、これらの事象は分裂した市民社会と政治国家の矛盾先鋭化として関連づけて考えるべきであり、リアリティのない「軍靴の響き」的な文脈でしか考えられず「内心の自由」なんぞに自閉するのは左翼の思想的怠慢というものです。満腹して思想鈍磨した公務員サヨクは逝ってヨシです。

  • 2010/08/05(木) 20:27:36 |
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  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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仮)山田二郎さん

意識せずとも共同体と意識が統一されているということです。
何処へ行っても自分のスタイルを貫く。
別に頑張っているつもりは無いけど、それがごく自然な態度。
しかしブルジョア国家によって共同体の破壊がなされたのも事実で、根無し草のようになった人間も多々生まれました。
そういった人の中で自分の歴史や文化に目を向けず、安易に何かにすがりたいのであれば「日の丸・君が代」はちょうど良い。
だから私は日の丸を掲げ、君が代を歌う人を咎めたりはしません。
哀れだとは思いますが。

  • 2010/08/05(木) 13:23:19 |
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  • キンピー #-
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キンピーさん

>>関西の人間が関東に住んでも言葉を失わないのは、共同体と意識が統一されているからです。

関西人の場合は、良くも悪くも方言を使っていると言う自覚がないだけの話です。また恐ろしい事に、関西弁は自然にうつります。

  • 2010/08/05(木) 07:10:09 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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ブルジョア経済が求める共同体の解体=自立した市民(個)の進行は2.26事件(とうの昔)で白昼のもとに晒されましたが、共同体解体の変わりにブルジョアが差し出すのが標準語であり国旗国歌という「くくり」でしょう。
この人工的な「くくり」は伝統的共同体に反発されるわけですが、それを政治権力という暴力によって、推し進めれば全体主義傾向になるのは避けられません。
現に日本でも明治から昭和初期まで民衆の反発はありました。
この「くくり」は当然ブルジョア社会を形成するに必要なものであって、またブルジョア社会で行われる公教育なるものはブルジョア社会を維持するために必要な人材を作ることに主眼が置かれます。基本的には。
マルクス主義としては国旗国歌などいう抽象的なものに立脚せず、歴史文化に立脚し、新たな規範を構築しようとするのは当然です。
ちなみに言葉というものは存在論的にいえば、風雪に耐え意味づけられたものであって、伝統的共同体と切り離すことはできません。
関西の人間が関東に住んでも言葉を失わないのは、共同体と意識が統一されているからです。

  • 2010/08/04(水) 18:50:43 |
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  • キンピー #-
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 お国言葉を使うか「標準語」を使うかは肉体密着型の習慣であったりコミュニケーション手段選択の問題だったりしますから、共同体への自信とはあまり関係ねえっぺよ(笑) ただ、「標準語」への統一という発想は、人々を市民社会における均質な「個」として地域共同体から切り出すことに価値を見出す近代崇拝の立場からのものでしょう。

 さしあたり「標準語」への統一は未完であっても、大量消費経済は生活様式そのものの「標準化」を鉄の必然性をもって進行してきました。このプロセスにおいては、大阪弁地域だろうが東北弁地域であろうが地域に存在した伝統的共同体は切り縮められ、解体されてきたわけです。今や「家族共同体」とてその射程圏内でしょう。かくて、共同体が担っていた社会規範の継承や社会的教育機能は弱化し、それと共に子供たちが自己=「個」=を相対化する契機も希薄化して行った。共同性という自己制御を喪失し、肥大化した「個」が増殖している所以です。その歪みが最初に社会に露呈する現場が学校。

 そういう事実認識を踏まえて公教育というものを見た場合に、公共的なものを忌避し「個人の自由」を排他的に振り回すサヨク教師って一体どこを見てるの? というのが私の切り口でしたが、「個人の自由・権利」に絶対的価値を置いているらしいキンピーさんとは現実認識も危機意識もほとんど共有し得ないようです。キンピーさんは、良くも悪くも伝統的左翼共同体の一員として「個」を形成されてきたのでしょうね。「共同体」の問題は「やれ反動だ」「やれ全体主義だ」などといって軽んじてよいものではありません。その視点が無い左翼は永遠に国民大衆と心が交わることはないでしょう。

  • 2010/08/04(水) 16:19:09 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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kyusedai さん

そういうことは近代になりきれていない国民に対しては有効かもしれませんね。
北朝鮮とか。

しかし訛を矯正ですか。
私は関西の人間なので、どこへいっても自分の言葉で喋ります。
これは自分の共同体に自信を持っていることの裏返しであり、そういう認識が確立されている人間には日の丸も君が代も必要ありません。
標準語って気持ち悪いだけでしょ。

  • 2010/08/03(火) 22:53:02 |
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  • キンピー #-
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仮)山田二郎さん

私は公共機関で歌わせることを強制することも、歌わせないことを強制することも違憲であるという認識です。
学校で教えることができるのは「国旗は日の丸、国歌は君が代」まで。
この逆を教えてはいけないが、日の丸君が代に対する認識を教師が表明することは自由です。
また認識の問題とは別に、和音の連続なんて学問的に「変」だから、音楽の教師が君が代なんて弾けないという理由は当然でしょう。
子供に変なことを教えてはいけないのですから。

  • 2010/08/03(火) 22:47:12 |
  • URL |
  • キンピー #-
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  キンピー さん

 私はままもなく定年退職という年代でして、かなりの田舎人です、そして昔も今も相当に訛っています。
 それでね、昭和40年代頃には全生徒が学校で綺麗な標準語を話しましょうと各担任に指導されたのです。特に独特のイントネーションを直しましょうとです。
 それから20年も経た昭和60年代には、今度は、県紙(地方紙)上で我が県の方言を大切にしましょうという一種キャンペーンのようなものが展開されました。
 私は頭にきて、これはどういうことなのかとその原因を調べたことがあったのです。
 そしたらね、一人の人間に行き当たりました。
 その人間とは昭和40年代に県の社会教育課課長だった人物です。彼が訛りの矯正を全県的に提案・指示し、同じく彼が20年後、方言を大切にと訴え始めたのです。
 役人根性とはまさに彼のようなおせっかい人物を言う言葉だと感じましたよ。各県民の話す言葉など県の役人があれこれと指図すべきものではないはずでからね。
 県民各自が話す言葉などそれぞれ各自の自由に任せて良いことではないですか。
 勿論、通じない言葉は排斥されるでしょうがね。
 
 しかしね、反日教師の反日の丸・君が代行動は個人の内心の自由ということで放って置いて良いことではないのです。
 なぜかと言うと、何度も言うようにマナーの問題だからです。反日の丸・君が代に納得できる理由が無いからです。
 マナーの悪い教師を学校には置けないのです。マナーの悪い教師は未熟者として上司の指導を受ける対象とされ、その指導を拒否するのであれば学校から排除されるべき対象になるのです。それがなされないと正常な学校運営は不可能となるからです。
 なぜなら、大きく内心の自由を学校教育に認めてしまうと、生徒に対しあれこれと教育することが出来なくなってしまうのですよ。
 つまり、内心の自由の制限があって初めて授業も学校行事も可能になるのではないでしょうか。
 言葉をを変えれば、内心の自由を制限される体験を通して生徒は社会人として成長できるのですよ。
 また、その状態を全体主義とはいわないです。

  • 2010/08/03(火) 22:44:49 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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異論は大事でも、

身勝手に実行しては駄目です。(特に子供に影響力が高い教職者は)
やるなら場所をわきまえるべき。

  • 2010/08/03(火) 22:01:02 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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仮)山田二郎さん

近代憲法における国家と個の関係において、人権規定を最高のものとしているのは国家の限界を定めるものであって、すなわち「公共の福祉」とは公権力を人権に優先させるものではなく、「他人の権利」と解釈されることが多いようです。
よって、母親の権利に対して子供の生存権は「他人の権利」として公共の福祉に当てはまりますが、国旗国歌の強制には当てはまりません。
むしろ他人の権利という観点から積極的に異論を保護するべきです。
子供への虐待と国旗国歌の強制という二つの問題を「公共の福祉」というフィルターを通すと、全く違う問題であることがより明確になります。

  • 2010/08/03(火) 20:00:18 |
  • URL |
  • キンピー #-
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要は、

公共の福祉の為には、個人の権利は制限されなければいけないと言う事でしょ。
で、この個人の権利を制限できない事が、虐待されている子供の保護が事実上不可能な事にも繋がってたりするだけ。

  • 2010/08/03(火) 17:29:40 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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マルクス=「生産手段の所有を回復する」で、カンボジアのような先祖がえりを目指したのではありません。
そして個とは常に社会性という共同性を帯びて存在しており、刻々と変化する人間共同社会から個を形而上的に切り離して分析することは無意味なことです。
このあたりはマルクスレーニン「主義」の弱点でもあるわけですが。

っで、クー太郎さん的には、公教育において君が代・日の丸を強制することが、風俗で稼ぎ、自己の欲望のためにホストクラブで散財する人々を作り出さない。あるいは歯止めになると仰りたいようですが、どうしてそういうことがいえるのでしょうか?

  • 2010/08/03(火) 11:57:27 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>キンピーさん。

 公教育は近代国家の自己再生産装置であり、フランスでも日本でも近代国家と公教育はほぼ同時に誕生したというのが歴史的事実。だから、何も全体主義だけに有効な装置ではなく、国家の性質に左右されるというだけのことです。その「有効性」の程度問題も1930年代の壮健な公教育と、機能不全に陥った現代の公教育を比較した上で論じられるべきでしょう。ちなみに、近代国家に背を向けたカンボジア・クメールルージュが公教育を根絶やしにした血の歴史も忘れるには早すぎます。

>共同性から切り離された「個」などというものがあろうはずもなく

あれれ。じゃあ、マルクスが革命によって回復しようとしたものって何だったんでしょう…などという話は「近代」(資本主義社会)のありように鈍感な、自称「近代政党」にこそ問いたいのですが、よもやキンピーさんまで? まさか資本主義社会の原理的傾向を否定しているとも思えませんが、一般大衆が肌で感じていることを言語化できないというのは民衆とともにある(はずの)左翼として致命的なんじゃないでしょうか?

 具体例で語るなら、「もっと遊びたいから」と子育てを放棄して子供を死に追いやる母親って一体どんな共同性に連なっているのでしょう? 社会が連綿と引き継いできた親としての責任、社会の一員としての責任を自己に問うことなく「楽しいか楽しくないか」を行動基準にしている姿は、

>共同性から切り離された「個」

でなくて何なのでしょう? 「楽しいか楽しくないか」ってどう見ても個内部に閉じたモノサシですよね? 風俗で稼ぎ、ホストクラブで散財するというのが彼女の「楽しみ」だそうです。共同性から切り離された「個」でもマネーを持ってさえいれば市場は満面の笑顔で受け入れてくれますから。

 公教育に責任を負う教師でありながら「不愉快だから歌わない」「個人の自由だから歌わない」と主張する人々の行動が、こんな母親を世に送り出す社会に貢献していないとどうして言えますか? 生徒たちは彼らがどう行動し、何を語るかを見たり聞いたりしているのです。教師たちの目には「反動的教育行政の悪官吏」の顔は見えても、生徒たちの顔は見えないのでしょうね。それって、教育の外から教育の場に持ち込まれた闘争だからでしょ?

  • 2010/08/03(火) 10:30:33 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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クー太郎さん

公教育とは全体主義にとって最も有効な道具です。
これは理屈云々ではなく歴史的にそうであるということですが。
また、共同性から切り離された「個」などというものがあろうはずもなく、ただの異論を『共同体から切り離された「個」』などという異物に仕立てる必要も無いかと思います。

  • 2010/08/02(月) 22:01:13 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>キンピーさん。
 超国家主義者の言説を持ち出している時点であなたが学校という空間に射程を絞れていないことが分かります。公教育がどういうものであるかを考えもせず「全体主義」で塗り潰していては空回りするだけでしょう。

 共同性から切り離された「個」の押し出しはブルジョア社会が原理的に標榜しているものです。公共空間で職責を忘れ「内心の自由」にしがみつく教師たちは新自由主義者同様、ブルジョア思想の原理的実践者です。やっている本人たちは進歩的だと思っているのでしょうが、その進歩性は封建社会よりブルジョア社会の方が進歩的である限りでの進歩性でしかない。進歩的であったブルジョア社会が機能不全に陥っている時代に、彼らのブルジョア思想がブルジョア社会に代わる新しい社会の「卵」なんかになれるわけがないのです。

 親たちがこの教師たちと同じ病に罹患した場合はモンスターペアレントとして学校に現れる。生徒たちが罹患した場合には生徒であることを拒絶したただのガキとして教室に現れる。そうやって学校が学校としての機能を喪失しつつあるのが現実です。「数学教育の強制はよい」などと言っても現場はそれすらままならぬ混沌に立ち至っている。国民未満が公教育によって国民になるプロセスを「個」を絶対化する社会が阻害している。これはブルジョア社会の自己矛盾であり、社会の閉塞です。ガキのままの「国民」が増殖しており、大阪の育児放棄事件など、私にはその象徴のように見えます。

 この閉塞への体制側からの処方箋の一つが国という「公共的存在」を愛することの導入。もちろん、愛する心などは強制で生まれるはずもなく、そんなことではこの流れは止められないでしょうが、抵抗教師たちには「公共意識の回復」について対案は無い。無いどころか「個」それ自体に絶対的価値があることを信じて疑わない人たちです。学校や社会が歪んでいるのは「個」が蔑ろにされているからだと錯誤している。だから非教育的かつ没社会的な「内心の自由」という私的で外部遮断的な「個」の世界で抵抗している。その抵抗は教師個人の自閉的満足の他に外部世界に何をもたらすのでしょうか? 学校のもつ公共性の更なる毀損であり、生徒が公共意識を身につけることへの更なる妨害でしかないでしょう。「卵」を思わせるような積極的なものは何も見出せません。

  • 2010/08/02(月) 15:16:02 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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一知半解さん

あぁ、質問があったのですね。
論理的に正しいということは否定できないところでしょうが、君が代については消極的賛成を含め70%の支持率ですが、残りの30%を自分達の意に沿わないかといって強制する理由にはなりませんね。
法治国家という観点からみても強制を可とする根拠がありませんし。
もし強制に根拠を与えるとするならば、道草さんのロジックに乗っかるしかありません。
さてどうされますぅ?

  • 2010/07/30(金) 13:05:37 |
  • URL |
  • キンピー #-
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一知半解さん

日教組の連中とエログロナンセンスが同一の効果があるとは思えませんが(日教組の主張はインパクトが無い)、全体主義の地ならしとして日教組の訴えがあると【仮定】しても、強制賛成派の訴えが全体主義的なものであることには変わりありません。
この部分について、どうすれば全体主義に陥らないのか。その処方箋を持って強制を主張されているのでしょうか?
どうせ持っていないでしょうけど、一応質問してみます(苦笑

  • 2010/07/30(金) 12:58:26 |
  • URL |
  • キンピー #-
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社会の底辺さん、キンピーさん、道草クー太郎さんへ

田舎への帰省を控え、仕事をこなすのが忙しく、なかなかお返事できずすみませんでした。
また、全員にお返事できませんが、ご容赦ください。

>社会の底辺さん

はじめまして。
コメントありがとうございます。
前回、お返事するのを失念してしまい、すみませんでした。

ボーイスカウトでの集団旗の扱いについて教えていただきありがとうございました。非常に参考になりました。

そうした経験の場を奪い、子供達の成長に機会を奪うことが、思想信条の自由を守ることだと勘違いしている左翼連中の自己中・ひとりよがりな振る舞いは本当に困りますね。

>キンピーさん

>貴方が前提としている【A日の丸君が代=B国旗国歌=C象徴→マナーとして強制して当然。】 という図式が成り立っていないことは何度も【論理的】に説明したはず。

貴方が幾ら論理的に否定したつもりでも、大多数の国民が日の丸君が代が国旗国歌だと認識しているのが現実なのです。

国民が象徴と受け止めれば、即ち象徴なのであって、幾ら南北朝時代に天皇制が終わっていたと”論理的”に証明してみせたとしても、その論理がみんなの「認識」となって受け入れられない限り、無意味なのです。

しかしまあ、「根本的な問題として南朝と共に天皇は終わった」などと、ひとりよがりの珍説をブッているところなど、まさしく左翼ならではの見事な唯我独尊的”様式美”ですね。

どうしても自説を認めさせたいとお考えなのであれば、とりあえず現在の国旗国歌法を改廃してからにしましょうね。

それも出来ずに、俺は正しいとわめいても、誰からも相手にされなくなるだけです。
ますます、ノイジーマイノリティになるだけかと。

それで宜しければ、ご自由におやりください。
左翼がますます支持を失うのは、私にとって悪いことではありませんから。

それはさておき、貴方の”ひとりよがり”かつ”強引な”主張を拝見していますと、やはり貴方の「思想信条の自由の護持」という”思想”が、自ら導き出したものではなく、他から与えられた「コピー」に過ぎないのだなということを感じざるを得ませんね。

コピーはオリジナルより劣化するとともに、柔軟性に欠けるという「特徴」がありますが、貴方のこの問題に対する姿勢を拝見していて、改めて納得した次第です。

強引なのも、ひとりよがりになるのも、キンピーさん自らの思考行動様式に根ざした主張ではないからでしょう。

その思想が、借り物で終わるか、自らの物と出来るか否かは、「思想信条の自由」という考えが、どのような過程を経て生まれてきたかを踏まえられるか否か、ではないかと思います。

残念ながら、そこまで踏まえることが出来ず、とにかく「思想信条の自由の護持」を”護符”のごとくありがたがり、”絶対化”したのが、キンピーさんであり、反対する教師達であるといえるでしょう。

その主張や行動が、オリジナルとはかけ離れて、偏狭かつひとりよがりになるのも、当然の帰結なのかも知れません。


>道草クー太郎さん

初めまして。
コメントありがとうございます。

どうも日本の左翼というのは、自国を貶める傾向が強いと感じていましたので、道草クー太郎さんのような考えの左翼の方がいらっしゃるとは、正直意外に思いました。

このようなお考えを持った左翼の方が、増えれば嬉しいですし、私の左翼認識も改める必要が出てくるのかも知れません。

>しかるに、国歌・国旗を戦前反動イデオロギー注入の突破口と捉える一部左翼教師たちは、あろうことか社会性を欠落させた「個人の自由と権利」をその最大の後ろ盾としており、当人たちの主観的意図とは裏腹に自由や権利主張への嫌悪、ひいては全体主義への地ならし役を果たしているように見えます。

仰るとおりですね。
ひとりよがりなだけに、そうした指摘も一切受け入れない。
困った人たちです。

しかしまぁ、国旗国歌を否定すれば、反戦平和が維持できるという彼らの浅はかで幼稚な思い込みには呆れて物が言えません。

  • 2010/07/29(木) 23:29:49 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

元左翼、左翼の亜流の立場からこういった見解もあります。

「国家は国民の諸社会の政治的・法的組織化であり、それは多様な秩序の一連の諸制度の形で現れる。我々の定式は次の通りである。すべては国家の中にあり、国家の外には何も無く、国家に反しては一切ない。」

ブルジョア国家の一員として、半人前の国民(子供)を指導するためには、強制は肯定されるものであり、国家の命を受けた国家権力の執行者である教師は、思想を理由に国家権力の執行=暴力を拒否することは許されない、ということです。
ま、左右とわず壁の側に立つのか、それとも卵の側に立つのか、という問題なのでしょう。

  • 2010/07/29(木) 19:07:11 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

右の人より過激かも(笑)

ダイスさん、はじめまして。
(1)を踏まえないことによる教育機能不全は色々な分野に見受けられます。例えば生徒と教師を「生まれながらにして平等」な関係に還元して教育する側の主体性を弱化させている現象、相手が国民未満なのに「話せば分かる」一辺倒で教育的体罰を否定する風潮、「子供の人権」なるスローガンで「教師(大人)の責任」を曖昧にしている現象など。
 
 「国民未満を国民にする」とは、基本的には権力の行使なんです。だって、この世に生れてきた子供は国家の存在を承認して生れてくるわけではないのですから(笑) それを担う教師が生徒と対等では公教育は成り立たないし、自己の権力に無自覚な教師ほど公私のケジメを付けられずに生徒を権力的に扱う。日常茶飯事となっている生徒への性的虐待なんてその最たるものでしょう。そのような教師が現実から逃避する最後の道が没社会的な「思想信条の自由」や「内心の自由」なのだと思います。

  • 2010/07/29(木) 10:03:05 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
  • [編集]

>おおみたから

中世と近世の間で意味が大きく変わってますね。
「公儀」なる言葉がキーワード。
だから中世と近世の間で天皇は終わったわけ。

KYさん

何とかも百回言えば何とやら。
そういった類のコメントが元々このブログでは散見されていましたが、無意味なコメントが多くなってますね。

  • 2010/07/28(水) 11:46:16 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

あらららら、
近代国家というものを捏造する際に国旗国歌は必要とされる。
そういう文脈であることが見えないのかな?
っで、日本は北朝鮮とは違い「近代」を成し遂げ、他の先進国と同様に少子高齢化に邁進しているわけですが、移民や外国人の就労を考える時期に、日の丸君が代の強制は無いだろうと。

  • 2010/07/28(水) 11:38:04 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

>道草クー太郎さん
 初めまして。
 上手なまとめですね。特に(1)をちゃんと押えている所がすばらしいと思いました。「教育を受けさせる義務」を国民が負わなければならない理由が、上手くまとまっていると。
 つまりは、国民になることによって国を通して相互利益が得られるメリットが大きいから、素直に愛国心だってもてるわけですものね。
 でも、残念ながらキンピーさんには理解できないと思いますよ。何しろかの御仁は「税金を取るから国家は悪だ!」ぐらいの認識しか持っていませんから。

>KYさん
>  ところで、「南朝で天皇家は途絶えた」という説に基づくなら、現行憲法の「天皇は日本国の象徴」という条文との整合性はどう取るのでしょうね(苦笑)?
 判って書いてるでしょ(苦笑)? あっ、初めまして、です。
 キンピーさんが整合性なんか考えてるわけ無いじゃありませんか。口では立憲主義とか言いますけれど、発言内容は『俺様主義』丸出しなんだから。

  • 2010/07/28(水) 00:19:44 |
  • URL |
  • ダイス #vIABNzxU
  • [編集]

生意気ですが・・・

 天皇が天皇であり続けたのはやはり民を「おおみたから」と呼んできたからなんでしょうね。
 戦後の学校教育はやはり間違っていたところがありますね。
 国防の大切さを子供の頃から学校でも教えないといけません。
 憲法改正を日本国民が真面目に取り組む時をそろそろ持たないといけないかな。
 今回のキンピー氏の発言を読んでそう感じます。

  • 2010/07/27(火) 23:19:58 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
  • [編集]

キンピー氏の「大人の事情」

 論点逸らし、質問無視、我田引水の史料解釈・・・探せばキリがありませんね(爆笑)。

  • 2010/07/27(火) 22:56:09 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
  • [編集]

Saizwong 氏

>「寶祚無窮」。つまり、「皇位は永遠なりは

それって「大人の事情」って読むんです(爆笑

  • 2010/07/27(火) 22:30:04 |
  • URL |
  • キンピー #-
  • [編集]

終わると言ってから続くねぇ

 まぁ学者の意見を持ってくるのはいいけど、普通に大日本史の原文は確認して検証できるわけでしてね。
 第一、その学者が自分の意見を補填する意見を言ってるなら、どこで言ってるのか普通に示せばいいのに、なにを無駄にふんぞり返っているのやら…。

>南朝の滅亡とともに大日本史は完成しているのです。

 あ、これ大嘘。
 tikurin氏も書いてるけど、大日本史の本紀の最後は後小松天皇紀で、記載されている最後の事件は永享5年(1433年)に同天皇が崩御したことです。(この時、既に院政しいてるけど)
 つまり、南北朝の終焉である1393年より40年ほど後のことまで記録しているわけでしてね。

 そして、〆の言葉は原書の漢文では「寶祚無窮」。つまり、「皇位は永遠なり」ですよ。南朝正統派であることは確かですが、皇統が途絶えたなんて言うのはこの資料においては明確に否定してるわけでして。

 まぁ、ネットの中でこの手の人間は珍しくはないので、私は最近はもう一度過去の資料を出し、自分で確認できるいい機会だと思って割り切ることにしています。

 >ブログ主の一知半解氏、大分本筋からずれてしまったようで、申し訳ないです。

  • 2010/07/27(火) 19:19:16 |
  • URL |
  • Saizwong #aswhZyPU
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横レス失礼いたします

>キンピー様

>【A日の丸君が代=B国旗国歌=C象徴
>→マナーとして強制して当然。】

上記の図式のうち国旗についてです。
先日、集団旗の機能について書き込ませいただいたことの繰り返しになりますが、
「日章旗は国旗であり、その機能から『日本』の象徴にならざるを得ない。
そして『日本』とは何か、については使用者や観測者の意図によって変わる漠然としたもの」
と考えますが、いかがでしょうか?

もうひとつは「君が代」から派生している話題について。
現憲法は昭和天皇の在位時に制定され、「今上陛下を日本統合の象徴」としています。
南北朝時代の話を持ち出すことに何の意味があるのでしょうか?
「万世一系」に疑義が付くことと、現憲法のどの条文が齟齬をきたすのでしょうか?

最後に。
儀礼におけるマナーを学ぶ場について、
教育者は子供たちにどういう形で提供すべきとお考えですか?

以上、お答え頂ければ幸いです。

  • 2010/07/27(火) 19:04:15 |
  • URL |
  • 社会の底辺 #HuBhO90w
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キンピーさんとは異なる左の立場で

初めまして。評判の悪い(苦笑)左の立場から意見を書かせて頂きます。

【公務員教師が置かれた社会関係】
(1)公教育は国民未満を国民にするための教育であり、国民未満の者は国民が享受する自由と権利は制約される。その裏返しとして国民が負うべき義務の多くを課されることはなく、国民による庇護の対象である。これは「近代国家」の基本仕様。
(2)公教育に携わる教師には何よりもまず公教育の目的を遂行する職責がある。他方、教育公務員も国民としての自由と権利を有し、公教育の在り方を批判することができる(ただし公教育の外での私的行為として。理由は職責から)。

【公教育における国歌・国旗の位置】
(3)国民未満を国民にする教育において国民のアイデンティティの一角をなす国歌を斉唱し国旗を掲揚するのは自然なことであり、公教育の目的と背反しない。歌わない歌は歌ではなく、掲揚しない旗は旗ではない。

【公務員教師による服務拒否行為の陥穽】
(4)自己を上記社会関係から切断し、「個人の自由と権利」を絶対化して押し通す思想はブルジョアイデオロギーの悪しき部分である。
(5)この種の「個人の自由と権利」は社会の少なからぬ人々の目に公共性を欠く放縦や自己中心主義と映り、その反動として自由や権利一般への否定的感情を引き起こす。
(6)全体主義はこの否定的感情を肥やしにして育つ。

 公教育の場で「愛国心教育」が強化された背景には、ブルジョア社会のもとで肥大化した「個人の自由と権利」とその一方で縮退する公共意識が政治的右翼のみならず一般の国民のなかにも「社会の危機」と映ってきたことが挙げられると思います。「愛国心」は戦争をしたい人たちの占有物ではなく、公共意識のシンボルとして広く国民に受け入れられているものです(戦争に利用されるのはその派生効果に過ぎない)。

 しかるに、国歌・国旗を戦前反動イデオロギー注入の突破口と捉える一部左翼教師たちは、あろうことか社会性を欠落させた「個人の自由と権利」をその最大の後ろ盾としており、当人たちの主観的意図とは裏腹に自由や権利主張への嫌悪、ひいては全体主義への地ならし役を果たしているように見えます。大正デモクラシーがエロ・グロ・ナンセンスという副産物を得て全体主義誘発の一要因となった自国の歴史をどう考えているのか、小一時間問い詰めたい気分です。

  • 2010/07/27(火) 18:56:36 |
  • URL |
  • 道草クー太郎 #X6AIgIjQ
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遅出しジャンケンをしておいて

 所謂A=B=C論争?が行われている時に「大日本史」のだ、の字もなかったのに、暫くたってから引用するって却って説得力ないですね。どうせなら論争の時に持ち出せば不自然でなかったのに。これも論点逸らしの得意な御方の十八番でしょうね(苦笑)。
 ところで、「南朝で天皇家は途絶えた」という説に基づくなら、現行憲法の「天皇は日本国の象徴」という条文との整合性はどう取るのでしょうね(苦笑)?

  • 2010/07/27(火) 18:39:49 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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ap_09さん

ちゃんと聞こえましたよ。
しっかり受け止めました。

論を失った貴方のうめき声w

  • 2010/07/27(火) 14:07:39 |
  • URL |
  • キンピー #-
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あ~
一知半解さんは誤解されているのかも。
理路整然も何も、南朝の滅亡とともに大日本史は完成しているのです。
つまり、皇国史観の歴史はそこで終わっている。
万世一系も天壌無窮も終わっているのです。
エントリーにからめれば君が代が日本の象徴などということはありえません。
貴方が前提としている
【A日の丸君が代=B国旗国歌=C象徴
→マナーとして強制して当然。】
という図式が成り立っていないことは何度も【論理的】に説明したはず。
A君が代≠C象徴 ですからどうしょうもないですね。

  • 2010/07/27(火) 14:02:57 |
  • URL |
  • キンピー #-
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横レスすみません

キンピーさんは絶対に議論をかみ合わせず、いつも話を逸らして相手を貶める言葉で締めくくるので、

1. 認知の歪みがある ―カルトで洗脳されてしまった人とか、心理的に抑圧か何か病的状態がある。
2. 故意にそのように振舞っている。カルト信者を釣る立場。この場合狂信的左翼というべきか。左翼思想の人がそのような人ばかりとは考えたくないんですが(本当に高潔なる社会正義をいうことを考えて欲しいなぁ)。ジョージ・オーウェルの『動物農場』に出てくる豚さんたちみたいなもんですね。

どうでもいいんですけど、絶対にまともな議論にならないので、不毛ですね。他の方の訂正コメントで勉強させて頂けるのが救いでしょうか。

あまりにも皆さんに無礼な態度なので、ちょっと意地悪コメントをしてみました。失礼。

一知半解 さん

どの時点で天皇は終わったのかは認識の違いがあるでしょうが、根本的な問題として南朝と共に天皇は終わったとういうことは、大日本史でも平泉先生の研究でも一致したところです。
しかし天皇の居ない日本なんて日本じゃない!という皇国史観の人々の我侭を満足させるために、あるいは國体護持で飯を食っているシロアリどものために、南北朝時代をタブーにし、「万世一系」「天壌無窮」などという嘘を戦前は教えてきたわけでしょうに。
その系統にある「君が代」というものを、またぞろ教育現場で強制すれば反発があって当然だと思いますよ。

ちなみに平泉先生は凛とした日本人というものが先にあって、そのイデオロギーとして天皇制を必要としたのです。
だから穏やかで懐も広い。
逆に昨今のように根っこの無い人間が、イデオロギーにしがみ付いて偏狭なナショナリズムを振りかざし、浅はかな自己実現を夢見るのとは全く違うのです。

  • 2010/07/27(火) 13:49:27 |
  • URL |
  • キンピー #-
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それにしても

 本来このスレは「国旗・国歌に対する敬意」について論じるためのものなのに、いつの間にか「大日本史」まで持ち出して「天皇の正当性云々」と論点が摩り替わってしまいましたね。このような論点逸らしをすること自体、キンピーさんの言うことに何ら説得力がないことの証左です。貴方は私たちの問いにまともに答えることを避けて論点逸らしばかりしてきましたね。その挙句が「南朝で天皇は終わっている」という、自己願望のみで導き出された珍説。現行憲法の天皇に関する条項とどう関係あるのか全く判りませんね。私には素人が専門分野に疎いことに託けた印象操作にしか感じませんでしたが。
 もう一度、思想的、法的、道義的な観点に立ち返っての議論を、と言いたいところですが、論点逸らしの大好きな御人には通用しないでしょうね

  • 2010/07/27(火) 00:04:53 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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キンピーさんへ

キンピーさん、横レス失礼。

>私に噛み付く前に、ご自身の思想の系譜にある思想家や研究者の声無き声に耳を傾けてはいかが?

tikurinさんは、あなたのごまかしに理路整然と反論しているのであって、「噛み付いて」いるわけではありませんよ。

あなたがごまかしではないと言うのなら、「憲法の天皇条項は14世紀にすでに寿命がなくなっている」ことを、「大日本史」から示せばいいだけのこと。

それをせずに、平泉澄先生の名前を出すだけで済まそうとしても、あなた以外誰も納得できませんよ。

  • 2010/07/26(月) 23:26:27 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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ちなみに平泉先生ほどの知性と礼節があり、日本人たることを自覚されている方であれば、日の丸君が代の強制などという反日的な考えには私とは別の文脈で反対されたでしょうね。
阿南惟幾を最後の陸軍大臣として推挙したのも平泉先生だったかな。
皇居を占拠して本土決戦を挑もうとした兵士たちを説得したのも平泉先生だったかな。

  • 2010/07/26(月) 21:00:30 |
  • URL |
  • キンピー #-
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tikurin さん

つまり正統性は南朝に有り、北朝はそうではないということが明らかになって、困ったということです。
このあたりの研究は平泉澄先生が詳しく、平泉史観に賛同はしませんが、その姿勢は真に立派なものであると思っています。
特に戦後の活動姿勢は、いわゆる「民主主義者」たちよりも支持しますね。

私に噛み付く前に、ご自身の思想の系譜にある思想家や研究者の声無き声に耳を傾けてはいかが?

  • 2010/07/26(月) 20:44:11 |
  • URL |
  • キンピー #-
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ごまかしは通用しません

キンピーさんへ
 キンピーさん、誤魔化してはいけませんよ。貴方は、”「憲法の天皇条項は14世紀にすでに寿命がなくなっている」。そのことを記した出典は「大日本史」だ”と言ったのであって、「南朝の終焉で『大日本史』は終わっている」といったのではありません。ところで、「大日本史」の本紀には北朝5朝も記してあり、そして南北朝合一後の後小松天皇紀で終わっています。

 ちなみに、その末尾の記述は、saizwongさんが私ブログで紹介されてた通り次のようなものです。

 「初め後醍醐天皇の南順させられしより明徳三年に至るまで、凡そ五十七年。皇統緒を分かち、京畿城を隔てしが、帝、祚器を受けたまふに及びて、海内始めて一統し、車書文軌を同じくし、世世相承けて、寶祚限りなし」

訳:後醍醐天皇が吉野に移動させられた時から明徳三年に至るまで凡そ57年、天皇家は二つの血統に分かれて事業を行い、京都と吉野と分かれていましたが、帝が三種の神器を受けることによって、国内は統一し、文物制度も統一したので、子々孫々繁栄し、皇統は永久に続くことでしょう。

 また、徳川光圀はさらに後小松天皇以降の時期についても検討を加えるよう命を下していたのです。(『日本思想体系「近世史論集」』解説「近世における歴史叙述とその思想」松本三之介)

 なぜか、もし北朝の皇統を否定したら朱子学的名分論で幕府の正統性を論証できなくなるからです。また、北朝はもともと武士が立てた朝廷ですからね。ただ、南朝を朱子学的正統論に基づいて持ち上げた手前、北朝の扱いに困ったということです。

 この連続性をつなぐ理屈として、中国の易姓革命の天意人心論や、徳の支配論、神器論などが提起されたのですが、結局、論賛が削除されてしまったように、どうにも幕府の存在と朱子学の正統論との整合性が説明できなくなってしまったのです。(これは外国の思想で己を権威づけようとするときに起こる問題です。)

 後期水戸学が尊皇攘夷の実践的政治運動を展開しながら、結局、倒幕論には至らなかったのもそのためです。

 私は、キンピーさんに、以上のような「大日本史」の成立事情を説明し、合わせて、それは「天皇制の寿命が尽きた」ことを記したものではなく、天皇制を朱子学の正統論によって復興することによって、その宣下を受けたという形で幕府の正統性を位置づけようとしたものだ、ということを説明したのです。

 これに対してキンピーさんは、「南朝の終焉で大日本史が終わっている」から、私の説明は大嘘だ!といわれる。そもそもこの言い分が上記のように間違っているわけですが、仮にそうであったとしても、記述が「終わっている」から「寿命が尽きた」とはならないわけで、このあたり、誤魔化しているのか、その区別がつかないのか・・・。

 重ねていいますが、前エントリーで私が説明したように、「大日本史」は「天皇制の寿命が14世紀に尽きたことを記した資料」ではないのです。つまりキンピーさんが「大日本史」はそれを記した資料としたこと自体が間違っているのです。さらに議論のはじめに戻れば、憲法の象徴天皇制と南朝の祭政一致の天皇制を混同することも間違っています。

 専門家ではないアマチュアの私たちが知っていることは限られています。だからそのことを自覚して、自分が「ものにしている」知識の範囲で謙虚な物言いをすべきだと思います。”はったり”ばかりかまして威張っていると、間違いを重ねるだけでいいことはありません。もっと自分に正直に”ごまかし”のない論を展開してくださいね。

  • 2010/07/26(月) 18:57:15 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
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はらいそ さん

論を持たない者の呻き声。
たしかに聞かせてもらいましたよ(苦笑

  • 2010/07/26(月) 14:40:57 |
  • URL |
  • キンピー #-
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キンピーさんの体当りギャグ

キンピーさんの体当たりギャグは毎度楽しませてもらってます。

先日も某ブログでも、「キリストの墓は青森にあった」と同レベルの電波珍説「君が代=挽歌説」を事実のように扱っておられ、大いに笑わせて頂きました。

これからもお笑い芸人としてのご活躍を期待しております。



  • 2010/07/26(月) 14:34:33 |
  • URL |
  • はらいそ #-
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tikurin さん

大嘘書いてはいけません。
南朝の終焉で大日本史も終わっているのですが(苦笑

  • 2010/07/26(月) 13:17:18 |
  • URL |
  • キンピー #-
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国旗、というか旗のこと

はじめまして、ちょこちょこROMさせて頂いているものです。

「国旗は国の象徴なのか?」という話題について、
とくにキンピー様の意見に感じるところがありましたので、書き込みさせていただきます。

旗は何らかのメッセージを表すためのものであり、
とくに集団旗は使用者の(あるいは所有者が念頭におく)所属集団を
識別させるためのものです。
こうした機能があることから、必然的に集団の象徴として扱われるのです。
この順番を間違うと、多分ものすごく混乱すると思いますよ。
旗が象徴なのではなく、旗だから象徴にならざるをえないのです。

国旗は、その使用者の所属集団が「国」であるに過ぎません。
この場合の「国」については議論がありそうですが、
「使用者が意識する集団は何?」
「観測者が意識する集団は何?」
が鍵です。
掲げた人が国家の統治機構を意識すれば、統治機構という集団の象徴になるでしょう。
見た人が日本国民を意識すれば、日本国民という集団の象徴でしょうね。
その程度のあやふやなものですよ。
集団旗はそもそも集団識別のためのものなんですから、べつにイコールで
「これでござい」と決まってはいません。
どういった状況でどのように使われているのか、それによって変わります。

日章旗であれば、使った人、見た人が感じる日本というものの象徴です。
国旗にはそれ以上のことを識別する機能はありません。
国旗国歌法でも「国旗とはなんぞや」という定義はありません。
「国とは、国家とはなんぞや!」なんていう高尚(?)な議論とは無関係ですよ。

もう一つ、儀礼の場での旗について。
自分はかつてボーイスカウトに所属していた経験がありまして、
あらゆる集団旗に対する一般的な儀礼を教わりました。
旗を地面につけるのは礼を逸するため、扱う際は必ず二人一組だったり、
旗を複數掲揚する際には集団によって並び順に序列をつけたり、
正式な場での旗の扱いは非常に気を使います。

集団旗の使用は、その集団に対する態度表明の手段の一つ。
粗末な扱いをすると「ああ、我々はこの程度の扱いか」と誤解されかねない訳です。
「そんな意図はない」といくら言っても、信じてもらえるかは相手次第。
それ故にホスト側が儀礼の場でゲストの旗を使用する際には、
旗の使用意図を誤解されないよう、
礼を逸しないよう、細心の注意が必要なわけです。

儀礼の場では旗をどう用いるべきか、用いられているのか。
これは所謂マナーの問題で、教えられないと身につかないものです。
相手を知らぬうちに侮辱せぬよう、旗に限らず儀礼のマナーはある程度、
教わる機会が必要と感じますね。

学校の式典は、そうした儀礼を経験することが出来る貴重な場の一つ。
式典とはなんのために行われるのか。
どのように振舞えば、主賓に対する礼を逸しないのか。
あるいは主賓に対し、どうしたら礼を尽していると感じてもらえるか。

礼儀とは思いやりの心を示す手段の一つ。
学校の先生方には是非とも、礼儀を教えるという
「主賓(子供たち)への礼儀」を示していただきたい。

…礼儀について書いていたら文章が固くなってしまいました(汗)
乱筆乱文、長文ですが、ご容赦願います。

  • 2010/07/25(日) 21:28:35 |
  • URL |
  • 社会の底辺 #HuBhO90w
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tikurin様

 >足利義満の時代の1992年
 「1492年」ですね?

  • 2010/07/25(日) 04:00:00 |
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  • KY #mQop/nM.
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14世紀に寿命がなくなた天皇制とは

キンピー様へ
>憲法の天皇条項は14世紀に既に寿命が無くなっている条文である。
>天皇家滅亡の出典は学術的に高い評価を得ている大日本史である。

 キンピー様は、ここで、『大日本史』を、14世紀に(南朝の消滅とともに)その寿命がなくなった後醍醐天皇による親政的天皇制のことを記述した歴史書だと言っているのでしょうか。キンピー様の言は誠に”ハッタリ”が多くて、上記のことばもその類だと思いますが、ここに氏の国旗国歌反対の思想的根拠が置かれているようですので、蛇足ながらその間違いを指摘しておきます。

 『大日本史』は徳川光圀が編纂に着手したもので、その目的は「官学としての朱子学」の採用によって徳川幕府の統治権の正統性を証明しようとしたものです。ではなぜそんなことをする必要があったか。それは徳川幕府が軍事政権であり武力で天下を取ったものなので、いつ、徳川幕府以上の武力を持った大名が現れて政権を奪取されるかわからない。そこで、中国の朱子学の正統論を援用して天皇の正統性を証明し、その天皇から将軍職を宣下された徳川家の統治は正当という論理で、その統治権の正統化を図ったのです。

 そこで、『大日本史』は「神武天皇から南北朝時代の終末すなわち後小松天皇の治世(1382‐1412)までを,中国の正史の体裁である紀伝体により記述しようとしたわけですが、何しろ中国の歴史と日本の歴史は違う。中国の歴史には武家の歴史はない。さらに鎌倉幕府以降統治権は実質的に武家の手に渡っている。特に、承久の乱で三上皇が流され(後鳥羽、土御門、順徳)、後堀河天皇が北条泰時により立てられて以降、統治権は実質的に幕府が握り、天皇家は「文化的象徴」に棚上げされてしまった。こうした状態を糺そうと、武家政権の内紛を利用して幕府からの権力奪取を図ったのが後醍醐天皇でした。

 この時、足利高氏は、北条高時の命によって上洛し、後醍醐天皇の起こした倒幕クーデター(元弘の変1331年)を平定しました(天皇は隠岐の島に流された)。しかし、その後高氏は北条高時に不満を持ち、隠岐の島を脱出した天皇方に寝返って京都に侵攻し六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は鎌倉に侵攻して幕府を滅亡させました。高氏はこの戦功によって後醍醐天皇より、その諱(尊治)の「尊」の一字を与えられ尊氏となったのです。こうして後醍醐天皇による建武親政が始まりました。

 ところが、その後醍醐天皇による建武親政は、その統治において公私の区別もなく、朝令暮改で、賞罰はでたらめ。そのためこの親政樹立に味方した武家の支持も次第に離れて行き、ついに足利尊氏の反意を招くことになりました。後醍醐天皇は、新田義貞と北畠顕家らに尊氏誅伐を命じましたが、尊氏は義貞軍を破って入京、しかし、北畠顕家軍に敗れて九州に敗走、その後再び勢力を盛り返して湊川で楠木正成軍を破って入京し、光明天皇(北朝第2代、第1代は北条高時が擁立した光厳天皇)を擁立しました。

 一方、後醍醐天皇は、神器を携えて京都を脱出して正統を主張し、吉野に南朝を立てました(1336年)。以後、後村上、長慶、後亀山天皇に至るまで、足利氏の推戴する寺明院統に対立し、この間、足利氏側の内紛および南朝側についた諸武将の奮戦によって勢力を維持しましたが、その後次第に劣勢となり、足利義満の時代1492年に南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に神器が渡されて、南朝は北朝に吸収されました。

 問題は、この間の事情を『大日本史』がどのように記述していたかということですが、『大日本史』は、中国の『資治通鑑』などの歴史書の紀伝体をまねたため、特に天皇の正閨問題を論じようとしたとき、北朝を偽朝として足利氏を叛臣に入れれば、現に存在する天皇家の正統性を否定することになる。また、幕府の統治権の根拠も否定してしまう、という矛盾を抱え込むことになりました。このため『大日本史』の編集方針は二転三転し、そのため、その完成までに250年もかかることになったのです。

 しかし、この『大日本史』が提起した南北朝正閨問題は、その論賛において、確かに後醍醐天皇に対する栗山潜鋒や三宅観覧による強烈な批判は書かれていますが、それが幕府の合法性を論証することにはなっておらず、結局「君、君たらずとも、臣は臣たり」ということで、天皇に対する忠誠心を思想的に純化するほかありませんでした。こうして「真の天皇制」を日本の歴史の中に求めることとなり、また、その臣の鑑として、楠木正成が賛美されることになったのです。

 一方、こうした「真の天皇制」を求める動きの一つとして、萬世一系の皇統に連綿する天皇統治の勤おう無欠という考え方が、国学思想によって打ち立てられる事になりました。ここから、幕府を天皇の統治権の簒奪者と見なす考え方が生まれたのです。さらに、幕末になって異国船が日本沿岸に姿を見せるようになると、全国至るところに「尊皇攘夷を叫ぶ志士」が現れ、それが公武合体から尊皇倒幕運動、そして大政奉還さらには明治維新へと発展していったのです。

 以上、少々長くなりましたが、『大日本史』は、14世紀に天皇の寿命(南朝の?)がなくなったことを論証したものではないこと。それどころか、それは、後醍醐天皇の失政によって崩壊した天皇親政イメージを、幕末において尊皇思想イデオロギーとして復活させたものなのです。これによって幕府の統治が非合法化され、その思想的圧力によって徳川慶喜は大政奉還することになったのですから、幕府にとっては極めてパラドキシカルな影響をもたらした本だといえます。
*続きはこちらまでhttp://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/

  • 2010/07/25(日) 01:38:04 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
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>問題になっているのは公の強制であって、これは違憲です。
私的な冠婚葬祭は議論の対象ではありません。

 う~ん、これは単なる為にするコメントですね。

  • 2010/07/24(土) 09:14:03 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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キンピーさん、体を張ってギャグをかまさんでも…

> 象徴天皇は憲法三大原則にある主権在民や個人的人権の尊重(思想信仰の自由)に反する条項であり、かつ政治利用を禁止されている。
 じゃあ、憲法9条は、憲法三大原則どころか日本国民の生存権を侵しているから無効ですねw
 えっ、生存権を侵しているとする根拠? 説明する必要ないでしょ、キンピーさんも、象徴天皇が憲法三大原則にある主権在民や個人的人権の尊重(思想信仰の自由)に反する根拠を説明していないしね。

 いや、恐れいちゃうよね。この程度で簡単に憲法の条文を否定できるのに「憲法は間違わない」なんて言えちゃうんだから。「憲法は間違わない」じゃなくて、素直に「俺様は間違わない」って言いなよ。少なくとも「自分に正直な人だね」って評価してあげるからw

 突っ込みついでに。
> 君が代日の丸に反対する教師が、他者に対して「起立させない」「歌わせない」、あるいは依頼だけであっても従わないことに対して報復するといった行動に出た場合、強制となりますので批判の対象ですね。
 こういう台詞は、実際に君が代日の丸に反対する教師が強制を行った時に、リアルタイムで「反対教師による強制」を批判する言葉として聞きたいですね。
 国旗国歌法成立以前に「反対教師による強制」の事例が多々有ったのですから(今もだが)。
 でもその当時の左派勢力というか9条護憲派というか、いわゆるサヨクの対応は「天皇憎し」で重大な人権侵害である「反対教師による強制」を免罪する方向で運動したのではありませんか。
 国旗国歌法にによる(キンピーさん達だけが言う)強制は、言うなれば『反日勢力による人権侵害』を是正するための措置である事お忘れなく。
 「俺個人が強制したわけじゃねぇよ!」ってな言い訳は「あり」でしょうが、それを承知で一言。「反撃しないと思って虐めていた相手に反撃されたら、とたんに被害者振る」ってのは、見苦しいです。

> あと、民意について尊重せよと仰りたいようですが、民主主義と立憲主義では立憲主義に軍配が上がりますので、民意と憲法の間に齟齬が生じた場合、憲法に従うことになります。
 民意をちゃんと憲法改正の手続きによって憲法として明文化せよ、との意見なら頷けますが、そういう意味ではありますまいね。
 そもそも民主主義と立憲制度は対立する概念じゃありませんから、どちらにも軍配は上がりません。
 「民意と憲法の間に齟齬が生じた場合」に採るべき道は、
  ①民主制度の手続きにより憲法を改正する。
  ②憲法解釈によって法との整合を図る。
  ③憲法(古い民意)を強制する。
の三つですね。
 私は、①が正論だと思いますが、キンピーさんは③なんですね。
 で、現在の日本国憲法成立の事情を勘案するなら、現憲法には「古い民意」の他にある解釈が成り立ちます。その解釈を交えるならば、キンピーさんの次の発言、
> これは「正誤」で考えれば簡単に分かることで、民主主義はたくさん間違いを犯しますが憲法は間違いません。
は、『GHQは間違いません』となります。

  • 2010/07/24(土) 01:31:00 |
  • URL |
  • ダイス #vIABNzxU
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大日本史かぁw

>キンピーさん
 大日本史の成立経緯と成立当時の世相を考えてませんねぇ・・・。
 まさかただ書いてあれば良いとお考えで?
 >「史料批判」
 これは分かりますよね?

 で、「南朝の滅亡と共に天皇家は途絶えた」を史実とする史料はどこを見てのどう考えた結果なんですかね?大日本史の中にそれがあるのかな、かな?

 私からふっといてなんだけど、実は史料云々でこれまでのあなたの論が補填されるわけでもないよね。 
 トピックからあんまりずれるとブログ主に悪いので、場所を移してやりましょうか?
 貴公のご指定の場所でどうぞ。

  • 2010/07/23(金) 21:55:29 |
  • URL |
  • Saizwong #aswhZyPU
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うぁ。
無知もここまでくると哀れだねぇ。

天皇家滅亡の出典は学術的に高い評価を得ている大日本史でしょうに。
だから戦前は天皇家が滅亡していることには触れなかったけど足利尊氏は国賊だったわけ。
こんなことを知らずに堂々と参戦してくるSaizwong氏の勇気に乾杯!


っで、ダイス君への説明がちょっと不親切だったので憲法の文脈でも否定しておく。
象徴天皇は憲法三大原則にある主権在民や個人的人権の尊重(思想信仰の自由)に反する条項であり、かつ政治利用を禁止されている。
であるから憲法原則と天皇条項の性質そのものによって、思想信仰の自由と並び立つことは無い。

よって「マナーか思想信仰の自由か」という問題の前に、象徴天皇を持ち出して思想信仰の自由を打ち消すことは出来ない。
別の方法を考えましょう。

ほな。

  • 2010/07/23(金) 20:39:41 |
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  • キンピー #-
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南朝の滅亡で天皇家が途絶えた?

 ちょっと見ない間にこの議論随分と続きましたねぇ。
 きちんとしたお互いの論のぶつけ合いというのが成立しないのは残念ですが、皆様の書いている内容は非常に参考になりました。

 あらかた語りつくされてますが、まぁ、エントリーの題である左翼が「思想・良心の自由」を持って国旗国歌を否定し、自分たちは強制されていると考えるのは変でしょうね。それと実際の強制行為がどうかという判断はまた違うわけですし。

 また、完全にブログの題からずれますが「14世紀に南朝の滅亡で天皇家が途絶えた」という史観は、少なくともきちんと史料批判された史料に基づいて述べられた史実ではないかと。
 史料によっては不自然な点が見られ、血筋の継続が怪しいのは2~3箇所指摘されていたと思いますが、どれも南朝滅亡関連ではありません。

 キンピー氏が史実を知っていると語る以上はその史観は史料根拠に基づいていると思いますが、一体どのような史料を使ったのか非常に気になるところです。
 まさか、~という偉い学者の書いた本を読んだから、とかではないと信じたいのですが。

 ちょっと自分のコメントを読み返してみたら、いたる所で「国旗・国歌」○が「国旗・国家」×になっていました...orz
 さらに「大恥を書」く×なんていうのもありますし、他にもあると思いますが、久しぶりの長文コメントのせいでの誤変換ということで、ご容赦くださいm(_ _)m

  • 2010/07/23(金) 19:14:22 |
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  • 1読者 #-
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ダイスさん

ぶー。
私は「史実」というものを前提として注意深く書いたのですが、「しじつ」という意味がお分かりになりませんでしたでしょうか。
憲法の天皇条項は14世紀に既に寿命が無くなっている条文ですね。

ほな。

  • 2010/07/23(金) 11:46:27 |
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  • キンピー #-
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結局、逃げるんですね

 キンピーさん
 >明らかに行政側に非があります
 リンク先の記事を読んで、どう解釈すればこのような見解が成り立つのか、世界の七不思議です。世羅高校の校長はむしろ行政サイドが動くことを期待していたのに、反対派の教師たちは地元の解同まで動員して集団リンチさながらのつるし上げをしていたことが明らかになっており、非は100㌫教師側にあるのに、あなたの読解力は流石に私たちの常識を超えてますね(苦笑)。「ジミンガー」ならぬ「ギョウセイガー」理論ですか?

>論を持たないがために非礼な物言いをする輩はいましたが、場が荒れなかったのはこちらが自制したためであるとご理解ください。
ま、どちらかというとそういうバカを見て、気分を害するというより、さらに安心しましたが。

っで、ウダウダ言う前に、ご自分の立てた稚拙な命題の不備を克服してから質問してくださいね。
ではまたどこかで。

 結局私たちの質問にまともに答えることも出来ずに勝手に「勝利宣言」してエスケープ、ですか。「オブイェクト」や他の板にも見受けられますね。更に相手をバカ呼ばわりして「安心した」ですか。何か必死に不安を押さえ込んでいる物言いのようにしか感じませんが、私が貴方の精神安定剤代わりになれば、それはそれで他人様のお役に立てて光栄に存じます(爆笑)。
 どうか他の板でもせいぜいピエロを演じてくださいな。

  • 2010/07/23(金) 02:00:10 |
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  • KY #mQop/nM.
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>キンピーさん

 売り言葉に買い言葉みたいなやり取りは好きではないのですが、一応お答えしておきます。

>上級の判例があったからといって、下級の判例が無くなるわけではないのです。
 それはそうです。
 憲法の教科書の教材くらいにはなるでしょう。
 ただ、実務的には効力がなくなる、そういうことです。

>判断する人が違えば判例も変わるということは、全くもって正しい認識…
 それは一般論としてはそうでしょうね。法的な意味はほとんどありませんが。

>…おそらく三審制の理解も無いのでしょう。
 三審制は、キチッとした階層構造になっていることくらい理解しておきましょうね。
 どこかの国の首相のように、「憲法には三権分立がどこにも書かれていない」と言って大恥を書かないくらいには、勉強しておくことをお勧めします。

  • 2010/07/23(金) 01:08:43 |
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  • 1読者 #-
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立憲主義は間違わないんだよねw

> A国旗国歌=B君が代日の丸=C象徴
 A=Bは、国旗国歌法により明らか。問題は、B=C。
 ここで「B君が代日の丸=B'皇室(天皇)の象徴」と仮定する。この仮定は、日の丸君が代に反対する方々がよく使う仮定であるから、キンピーさん個人がどう考えるかはともかく、それほど無茶な仮定ではない。
 さらに「C象徴」とは「C日本の象徴」であろう。よって、「C日本の象徴=C'天皇」である。これは憲法第1条より明らか。
 つまり、A国旗国歌=B君が代日の丸=B'皇室(天皇)の象徴=C'天皇=C日本の象徴、である。よって、「A国旗国歌=B君が代日の丸=C象徴」は、正しい。

 キンピーさんには、「A国旗国歌=B君が代日の丸=C象徴」ではないとする運動として、日の丸君が代に反発する方々を説得する運動をお勧めします。「B君が代日の丸=B'皇室(天皇)の象徴」ではないってね。

  • 2010/07/22(木) 23:28:41 |
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  • ダイス #vIABNzxU
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キンピーさん、1読者さんへ

キンピーさん

>すなわち「当たり前のこと」となっていないものを、あえて強制するのは思想信仰の自由への侵害となります。

そもそもですが、まず「当たり前のことになっていない」と断言されていることが、非常に疑問ですね。

そりゃ、キンピーさんにとっては当たり前ではないのかも知れませんが、法律ではっきりと「国旗国歌=日の丸君が代」と定められているんですけど…。
「法律で定められていることが、当たり前ではない」とはよくわからん理屈ですね。

キンピーさんの当たり前というレベルが、世間で言うところの「当たり前」とはかけ離れていることはわかるのですが…。

ところで、当たり前であれば、強制することは良いのでしょうか?それとも悪いのでしょうか?

そこら辺のキンピーさんの認識も再確認したいところです。

しかしまぁ、なんだかんだ言って、私の質問にケチをつけて、回答をしてくれませんでしたね。
稚拙であろうがなかろうが、一般論としてお答えいただいてもよさそうなものですが…。

結局、都合の悪い質問には答えないでひたすら逃げるという左翼にありがちな反応をありがとうございました。
左翼の対話力の限界というものを改めて確認でき、勉強になりました。

>ではまたどこかで。

では、超左翼おじさんのところでまたお手合わせ願いましょうか。
あちらならあなたのホームグラウンドみたいなものですから、きっと(質問の核心にはお答えいただけないでしょうが)お付き合いいただけるでしょうし。
これからも、よろしくどうぞ。


>1読者さん

こんばんは。
こちらこそご無沙汰してます。
論点を整理してくださるコメントをありがとうございます。

>ただ、ある種の問題を、憲法就中人権保障の問題と絡めて政治闘争を展開し、裁判所に多数の訴訟を提起して裁判闘争を併用しつつ、それらの裁判で(裁判の勝敗は問わず)少しでも有利な判断が出れば、マスコミを使って大々的に報道して、社会問題もしくは政治問題の提起に利用するというやり方は、戦後左翼の常套手段であり、過去にも多くの例があります。また、その中心的な役割を日教組や自治労といった官公労組が担ってきた点には注意が必要です。

まさに、仰るとおりですね。注意が必要です。

結局のところ、彼らは政治闘争をしたいがために、恣意的に人権問題に絡めているだけなんですよね。

本当のところ、思想信条の自由など、彼らにとっては自らの主張を振り回すためのツールに過ぎないのです。
まさに「お為ごかし」そのものです。

そういう連中が理想とする社会が、住みよい社会になるとはとても思えません。

  • 2010/07/22(木) 23:06:31 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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一知半解さん

日教組の反対理由を克服する努力について。
まず貴方の前提をすっ飛ばしてもらっては困ります。
貴方のA国旗国歌=B君が代日の丸=C象徴という等式が成り立たないわけです。すなわち「当たり前のこと」となっていないものを、あえて強制するのは思想信仰の自由への侵害となります。
それでもなお皆で君が代を歌いたいと思われるのであれば、そう思われる方が同意を取り付ける努力をする責任があります。
不可能と思うのであれば諦めてください。
ちなみに「大したことない~安心」と言ったのは、強制派の認識がやはりA=B=Cの認識であることが確認できたことと、それを打開するような言論を持ち合わせていないレベルであることを確認できたことで「安心した」ということです。
論を持たないがために非礼な物言いをする輩はいましたが、場が荒れなかったのはこちらが自制したためであるとご理解ください。
ま、どちらかというとそういうバカを見て、気分を害するというより、さらに安心しましたが。

っで、ウダウダ言う前に、ご自分の立てた稚拙な命題の不備を克服してから質問してくださいね。
ではまたどこかで。



1読者 さん

目に付いたのでサービスです。
判例は判例。
上級の判例があったからといって、下級の判例が無くなるわけではないのです。
こういったことを理解しないのであれば、おそらく三審制の理解も無いのでしょう。
ですから判断する人が違えば判例も変わるということは、全くもって正しい認識であって、貴方の認識が間違っているだけです。

  • 2010/07/22(木) 21:27:38 |
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  • キンピー #-
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(つづき)
 これらの判例を時系列にしたがって概観すると、2007年の日野「君が代」伴奏拒否訴訟に関する最高裁判決以降は、その他の下級審裁判所でも、事案による微妙な違いは認められるものの、一貫して「職務命令(ないし職務命令違反による処分)は思想及び良心の自由を保障した憲法19条に違反しない」という立場に立っていることが分かります。
 これは、最高裁判所だけに憲法の有権的解釈の権限があり、かつ最高裁判決には下級審に対する先例拘束性が認められることの当然の帰結ですが、この点からは、判例の趨勢はほぼ確定したと言うことができそうです。

 キンピーさんの取り上げた判例は、b.の(1) 2006年9月21日東京地裁判決だと思われますが、これは2007年2月27日最高裁判決以前の下級審判決にすぎず、その意味で、職務命令が憲法違反に当たるかどうかに関して「その都度裁判してください」とか、「判断する人間が違えば判決も違ってくる」というキンピーさんの判例理解は、明らかな誤りだと言えます。
 おそらく上記判決の控訴審判決でも、特段の事情が認められるか、同種の事件で最高裁大法廷における判例変更がなされない限り、2007年最高裁判決を踏襲した判断が示されることになるでしょう。

 なぜこのような判決が下されるようになったのかについては、最近も<2010年3月4日、北海道教職員組合日高支部において国旗国歌を入学式や卒業式から排除するため「『日の丸君が代』強制に反対するとりくみについて」という闘争マニュアルを配布していたことが発覚>という事件があったことからも分かるように、国旗・国家に関する問題を提起している教師達は、必ずしもこれを純粋な思想・良心の自由の問題と考えているわけではなく、これを政治闘争に利用しているのであって、その結果、b.(2) の判決が言うように、教育現場における「儀式的行事の雰囲気を乱し、保護者らに不安を抱かせ、地方公務員法で禁じられた信用失墜行為にあたる」状況を看過できなくなったこと、及びそれが、tikurinさんの言葉を借りれば、日本国のディグニティーを汚すことを目的にしていることが、一般社会はもちろん、裁判所にも広く知られるようになったからではないでしょうか。
(まぁ、シンパの人達は、いわゆる戦後教育の影響による幼稚な感情論と中途半端な憲法理解からこの運動に追随しているだけだと思いますが、常識に基づく論争が成り立たないという点では、まったく同じです。)

 ただ、ある種の問題を、憲法就中人権保障の問題と絡めて政治闘争を展開し、裁判所に多数の訴訟を提起して裁判闘争を併用しつつ、それらの裁判で(裁判の勝敗は問わず)少しでも有利な判断が出れば、マスコミを使って大々的に報道して、社会問題もしくは政治問題の提起に利用するというやり方は、戦後左翼の常套手段であり、過去にも多くの例があります。また、その中心的な役割を日教組や自治労といった官公労組が担ってきた点には注意が必要です。

 最終的には、最高裁判決が確定することによって沈静化することが多いのですが(この点では、最高裁は一般的に社会常識に則った判断をしてきたと言えます)、非常に時間がかかりますし、このような身分保障に守られた公務員の地位を反国家的な政治闘争に利用するというやり方は、戦後政治の宿痾そのもので、この点の抜本的な解決がなされない限り、今後も様々な混乱が続くことになるような気がします(安倍政権がこの点の解決を目指していたことは、以前にも述べたことがありました)。

 また、現在の民主党政権は、こうした組織の支持によって成り立った政権であり、外国人参政権問題や夫婦別姓問題などにも類似した側面があることを忘れるべきではありません。

 なお、国旗・国家に関する問題は、諸外国では一般に常識または礼儀の問題にすぎず、思想・良心の自由を絡めた政治問題になっているのは日本固有の事情であると言われていますが、日本も早く国際的に常識的な状況に立ち戻るべきだろうと思っています。

  • 2010/07/22(木) 19:18:15 |
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  • 1読者 #-
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 一知半解さん、ご無沙汰しています。

 時間がなくて、ずっとROMに専念していましたが、ここでちょっとした論点整理と簡単な意見を述べてみようと思います。

 確かに、国旗・国家に関する問題を、思想・良心の自由の保障の問題に絡めることができないわけではありません。
 一般論として、思想・良心の自由は内心の自由にとどまらず、外部的行為を伴うものですから、外部的行為に対する制限が思想・良心の自由の侵害になりうる場合もありますが、反面、その外部行為が他者の権利・利益や社会に具体的害悪を及ぼす場合には、信仰の自由の場合と同様に、国家による規制の対象になることも当然あります。

 ただ、いわゆる国旗・国家に関する問題は、公立学校の教師がその当事者となる場合がほとんどであり、この場合には、公務員としての服務宣誓を行なっている点も関連して、一般には職務命令及び職務命令違反の処分が思想・良心の自由の侵害に当たるか、が裁判での主要な争点になっています。

 裁判に至る経緯や個々の裁判例の具体的内容については、すでにtikurinさんが詳細に述べて下さっているので、これらの問題はtikurinさんにお任せして、やや重複する部分もありますが、ここではこの問題に関する判例の変遷を概観しつつ、その趨勢について考えてみたいと思います。

 まず、Wikiの「国旗及び国歌に関する法律」という項目に、近年の判例がコンパクトにまとめられていたので、かなり長くなりますが引用します。(URLだけでは不便だと思ったので、あえて該当部分全部を引用しましたが、読み飛ばして下さっても構いません。)

 --------------------------------------------------
a.確定判決

◇日野「君が代」伴奏拒否訴訟 2007年(平成19年)2月27日最高裁判所第三小法廷判決

 東京都日野市の市立小学校の入学式で1999年4月に君が代のピアノ伴奏するようもとめる職務命令を拒否した音楽教師が、それを理由とする戒告処分が違法であり取り消すように東京都教育委員会を訴えた裁判の判決が、2007年2月27日に最高裁第3小法廷で下された。それによると、「校長の職務命令は思想及び良心の自由を保障した憲法19条に違反しない」、その職務命令は「特定の思想を持つことを強制したり、特定の思想の有無を告白することを強要したりするものではなく、児童に一方的な思想を教え込むことを強制することにもならない」とされ、教師側の敗訴が確定した。

b.係争中

 東京都教育委員会(都教委)は2003年10月、「卒業式での国旗掲揚及び国歌斉唱に関する職務命令」として、「国旗は壇上向かって左側に掲げる」「式次第に国歌斉唱の題目を入れる」「国歌はピアノ伴奏をし、教職員は起立して国旗に向かって起立し斉唱する」などという項目を作成し、違反した場合は服務上の責任を問われるという、「国旗掲揚・国歌斉唱の義務」を各都立高校に通達した。だが、職務命令に従わない教職員がいたことから、都教委は従わなかった教職員に対し処分を行った。

(1) 2006年9月21日東京地方裁判所判決*

 処分された教職員のうち401人は、「国歌斉唱の起立・強制は、憲法で保障された思想及び良心の自由を犯している」として、都と都教委を相手取り、2004年1月から順次「強制される必要はないことの確認」と「処分を撤回する」ことを求め東京地方裁判所(東京地裁)に提訴した。

 この裁判の判決が2006年9月21日にあり、東京地裁は
・ 国旗及び国歌が軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは歴史的事実であり、国旗国歌をよしとしない人も多い
・国旗や国歌に反対することも、思想及び良心の自由の範囲内であり十分尊重されるべきで、国旗への起立やピアノ伴奏を伴った国歌斉唱という都教委の指示に従う義務はない
・国旗や国歌は強制されるものではなく、国民に自然と定着させるべきもので、それが学習指導要領の理念だ
・国旗への起立や国歌斉唱強制は「不当な支配」であり違反(教育基本法10条1項)であり、都教委のしたことは思想及び良心の自由を侵害した行き過ぎた処分
 として、都と都教委に、国旗国歌の強制による処分の撤回と、原告1人当たり3万円の慰謝料を支払うよう命じる判決を出した。

 都教委は2006年9月29日、東京高等裁判所(東京高裁)に控訴した。

(2) 2008年12月15日福岡高等裁判所判決

 入学式や卒業式での君が代斉唱拒否を理由とする北九州市の処分などは違憲として、教諭らが取り消しなどを求めた訴訟で、福岡高等裁判所は、2008年12月15日、
・校長の職務命令は合憲
・職務命令が教職員の歴史観や世界観自体を直ちに否定するとは認められず、思想や良心の自由を定めた憲法に反するとはいえない
・教諭らの不起立行為は儀式的行事の雰囲気を乱し、保護者らに不安を抱かせ、地方公務員法で禁じられた信用失墜行為にあたる
・教諭らは同種の職務命令違反を繰り返しており、裁量権の逸脱とはいえない
 として、減給処分4件の処分を取り消した一審・福岡地裁判決の原告勝訴部分を取り消し、処分は適法とするなど、教諭ら原告の請求を全面的に退けた。

(3) 2009年10月15日東京高等裁判所判決

 卒業式の国歌斉唱時の不起立を理由に再雇用を拒否されたのは違憲・違法だとして、元都立高教諭が都に賠償などを求めた訴訟で、東京高等裁判所は、2009年10月15日、
・国歌斉唱時の起立を命じる都の職務命令は合憲。都には広範な裁量権がある
・処分歴を理由にした不合格は不当とはいえない
・元教諭の行動は、教育を受ける権利に影響を及ぼし、厳粛な卒業式の場では重い違反行為に当たる
 として、約210万円の支払いを都に命じた一審・東京地裁判決を全面的に取り消し、元教諭の訴えを棄却した。

(4) 2010年1月28日東京高等裁判所判決

 都立高校の元教諭ら13人が、卒業式などで国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に、定年後の再雇用を拒否されたのは不当だとし、都に賠償を求めた訴訟で、東京高等裁判所は、2010年1月28日、
・起立や国歌斉唱などを指示した都教育長通達や校長の職務命令は、思想・良心の自由を定めた憲法19条には違反しない
・再雇用に当たっての裁量権は広く、著しい乱用に当たるとは言えない
・原告らは職務命令に違反して戒告処分を受けており、再雇用に際しての低い評価はやむをえない。都教委側に裁量権の逸脱はなかった
 として、計2750万円の支払いを都に命じた一審・東京地裁判決を全面的に取り消し、元教諭らの請求を棄却した。

(5) 2010年2月23日東京高等裁判所判決

 元教諭10人が、通達・職務命令に違反し、卒業式の国歌斉唱で起立しなかったことで、再雇用の合格を取り消したのは違法として、処分の無効確認と損害賠償を求めた訴訟で、東京高等裁判所は、2010年2月23日、
・職務命令で国歌斉唱や起立を求めるのは特定の思想の強制や禁止に当たらず、思想・良心の自由を定めた憲法に反しない。
・不起立は職務命令違反や信用失墜行為に当たる。都の判断は不合理とはいえず、裁量権の逸脱はない。
・起立は社会への所属感を深め教育上の効果も期待できる。
 として、元教諭らの請求を棄却した一審・東京地裁判決を支持し、元教諭らの控訴を棄却した。
 --------------------------------------------------
(つづく)

  • 2010/07/22(木) 19:16:05 |
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  • 1読者 #-
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キンピーさんへ

キンピーさんのご意見を伺ってまして、またまた疑問点が出てまいりました。
まとめに入っておられるようですので、回答の有無はキンピーさんにお任せするとして、一応質問させていただきます。

>学校教育を貴方は問題にしているのですから、日教組の反対理由を克服して反対できないようにすれば?と言っているだけです。

それは不可能なことだと再三申し上げました。
あくまでもそのように主張されるならば、教育する際、いちいち合意を得る必要が出てきざるを得ません。
勿論、合意を得ない「教育上の強制」は、すべて不可能になります。

こうした教育上避け得ない問題点に対する返答は、いまだにいただけないようで残念です。

この問題点に対する対処法を示さないまま、一方的に自分の主張を繰り返すのは、やはり無責任であると思わざるを得ないのですが…(もちろん、考えなくてはならないというわけではないのですけどね)。

それと、一つ疑問に思ったのが、合意を取り付けるのが日教組であれば、教育を受ける子供の意見は無視してよいと考えておられるのか?それとも、子供からも合意を取り付ける必要があると考えておられるのか?

合意を必要とする範囲は、教師のみでよいのか?
それとも、教えられる子供も含むのか?

この点に関する、キンピーさんの見解をぜひ伺いたいものですね。

>ご自分のブログへ誘導したわりには大したことがなかったですね。
>もっとボコボコにされることを予期したのですが逆に安心しました。


そんな…(笑)。
あいにく私は、apeman先生のように自分のホームグラウンドで相手をいたぶるような趣味は持ってませんよ。

ありがたいことに、当ブログにコメントいただいている方は、皆様、対話力を備えていらっしゃいますので、理由なく相手を非難する人はいらっしゃいません。

確かにこちらではキンピーさんが少数派ですから、ツッコミが多かったと思いますけどね。

これからも安心してコメントくださると嬉しいです(笑)。
賛成意見ばかりというのもさみしいですから。

それと断っておきますが、私も誘導したくて、誘導したわけではありませんから。
本当ならお玉さんのブログでやりたかったのですけれど、あいにくそれが許されなかったので、お出ましいただいたということに過ぎません。

しかしながら、お出でいただいたのはキンピーさんのみだったのには正直残念です。

以前、秋原葉月さんのブログ上で、この問題について議論したことがあるのですが、議論を進めていくと応答拒否されたので議論が深まらないまま消化不良となってました。

(お玉ブログを見ているであろう)秋原さんとか、村野瀬さんら有名な左翼ブロガーさんとか、その取り巻きさんとかお越しいただけないかなぁ…とかすかに期待していたのですが、やっぱりダメでしたねぇ。
(完全アウェイの拙ブログはダメでも、ホーム寄りのお玉さんのコメント欄ぐらいにはお出でいただいてもよさそうなものですが…。)

所詮、彼らのような内弁慶左翼には、異論者との対話を期待するというのは酷な話なのかも知れませんね。

  • 2010/07/22(木) 18:42:56 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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ま、堂々巡りの観やエントリーからの逸脱がありますので、私的にそろそろまとめに入ります。

強制賛成派とお見受けする方々の意見として、「国旗国歌は国家の象徴であり、日の丸掲揚・君が代斉唱は思想信仰の問題ではなくマナーの問題であって、学校において判断力の乏しい子供に対し、日の丸を掲げ君が代を歌うことを躾けるのは思想信仰の自由でいうところの強制ではない」従って学校教育に日の丸君が代を定着させるように全体として取り組むべきということですね。
しかし
ap_09さんにも説明したとおり、A・日の丸/君が代=B・国旗/国歌=C・象徴 という等式が成り立つならばA=Cも成り立たなければならない。
しかしA=Cは中華思想に毒されていない人や史実に忠実である人には成り立たないため、よってA=B=Cの等式も論理的に成り立ちません。
論理的に成り立たないものを認めるか認めないかは思想信仰の自由の範疇となり、したがって強制賛成派のような【意見の押し付け】は粛々と排除されるべきものであると断言できます。

以上。

PS:
一知半解さん。ご自分のブログへ誘導したわりには大したことがなかったですね。
もっとボコボコにされることを予期したのですが逆に安心しました。

  • 2010/07/22(木) 13:18:32 |
  • URL |
  • キンピー #-
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ap_09さん

A・日の丸・君が代=B・国旗・国歌=C・象徴
という等式を描いておられるようですが、AとCは「必ずしもそうとは言えない」ということを私の認識でご説明させていただいております。
それに対して「いかなる場合においても等式は成立するのだ」という言説をいまだかつて耳にしたこがございませんので、貴方の前提は破綻したままです。
よって公の場で日の丸君が代を強制することは憲法に違反しますので却下です。

また学校で日の丸君が代を「国旗国歌である」と教えることは可としますが、それは必ずしも学校教育でなければならない理由は無く、「歌わせる」「歌わせない」「立たせる」「立たせない」ことに対して強制がなされた場合、行政機関の一員である教師による強制となりますのでこれも憲法に反します。
そして「教師は同意した」とありますが、憲法に反する法令や通達は無視できますし、それによって報復を受ければ裁判で争うこととなります。

憲法ですが、誤りについてなんら論証されておりませんので却下です。
そして改憲されるということが、憲法の寿命が尽きたときであり、アメリカ・ドイツ・フランスでも憲法の理念をそのままにして、人権条項を充実させてきたという歴史があります。
ようするに人権の進歩に憲法がついていけなくなった時に改憲されています。

最後に教師の強権については、学校教育に必要なものであれば強権を発動させることも可です。
しかし学校(公)で国旗掲揚国歌斉唱しなければならないという法はありませんし、そもそもそのような法は違憲になりますから作れません。
よって、「日の丸君が代は国旗国歌である」という事以上のことを教える根拠が無いので、教えるも教えないも教師の自由です。
ただ「日の丸・君が代」を思想信仰上の理由で拒否する生徒が出てきた場合、その意見は尊重されなければいけません。


一知半解さん

私は全員などとは言ってませんよ。
学校教育を貴方は問題にしているのですから、日教組の反対理由を克服して反対できないようにすれば?と言っているだけです。


KYさん

相対化はできない問題でしょうね。
明らかに校長に強制を強要した行政側に非があります。


kyusedaiさん

問題になっているのは公の強制であって、これは違憲です。
私的な冠婚葬祭は議論の対象ではありません。

  • 2010/07/22(木) 12:36:39 |
  • URL |
  • キンピー #-
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社会生活は善意に基づいて

>マナーと思想信仰の自由は別ものであり、両者が両立しない場合があることを理解する知性があるのであれば、同じ教師が生徒にマナーを教えることと矛盾しませんし、何の問題もありません。

 そうですか知性をもって調和しましょうという意見ですね。
 私はね、それでは社会生活はなんとも格好悪いというか、ぎすぎすした調和、つまり調和ではなく不調和状態を脱せないと思います。
 葬儀にも神式・仏式・キリスト教式等々ありますが、普通の社会人はそれぞれ見よう見まねで各作法に従うようです。
 勿論完全に各作法を行うことは出来ませんが、遺族はそれでも充分にありがたいと感じることでしょう。
 その状態が出現するのは各人が善意を本に行動するからと私は認識します。それが調和と言うものではないでしょうか。

 合意を取り付けてと言いますが、悪意(この場合、いわゆる知ってて従わないの意味)ある人々と合意を取り交わすのは通常容易ではありません。
 反日の丸・君が代教師には社会人としての善意を持って(大人として)各式典に臨むことを私は切に希望しますよ。

  • 2010/07/22(木) 10:02:57 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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何でも「板ばさみ」と言えば相対化できると思っているのですか?

 世羅高校の校長自殺事件について検索したところ、リンク先にあるように、事件について詳細に検証したサイトがありましたので貼り付けて起きます。サイトには国会での質疑も記載されていましたが、どう読んでも教育委員会から校長に圧力がかかった、と言う解釈は成立しません。むしろ反対派からの一方的な、ヤクザまがいの恫喝ばかりが目立ちます。校長はむしろ教委からの通達に一縷の望みを託し、反対派の教師連中と交渉を持とうとしていましたが、彼らは「国家を歌わせるのなら掲揚していた国旗を引き摺り下ろすぞ!」と脅迫し重圧に耐えかねた校長が自殺に追い込まれた、というのが真相ですね。マスコミでも「両者の板ばさみになって」という報道が目立ちましたが、そんなものはとっくの昔に嘘だとばれています。当の昔に通用しなくなった「どっちもどっち論」を持ち出して「強制はよくない」とシラばっくれるその態度は何様のつもりなのでしょう?幾ら価値相対論を持ち出しても、一人の人間を自殺ぬ追い込んだ反対派のヤクザまがいの暴挙は許されるものではありませんし、その在業は永遠に消えないでしょう。
 キンピーさんは、何が何でも国旗・国歌の問題を「思想信条の自由」にこじつけたがっていますが、他の皆さんも口がすっぱくなるほど仰っているようにこれは既に「社会常識」の範疇に入っているんですよ。教師としてするべきことを放棄してイデオロギー闘争に現を抜かすって、民間企業ならとっくにクビですよ。何せ入社時に約束したことを平然と破るのですからクビは当然でしょう。それをされることなく「教え子を戦場に送るな!」とシュプレヒコールを繰り返すその醜態はまさに「税金泥棒」に他なりません。それに彼らは自分たちが国旗国歌に敬意を払わなかったり、校長をつるし上げる行為が自ら教師の職務を貶めていることに気付かないのでしょうか。一連の行為を見た生徒は「俺たちの目上の言うことに従わなくてもいいんだな」と誤解してその先は学級崩壊ですね。しかし国立市のように教師が生徒を扇動して校長に土下座させる、という狂気の沙汰が行われたくらいですから「知ってて」やっている教師たちもいるのでしょう。
 常識や秩序が崩壊すれば「内心の自由」だってどうなるか判らないのに、自らそれを脅かすような凶行を平気でする国旗国家反対教師たちの人格をマジで疑いたくなりますね。

  • 2010/07/22(木) 01:04:03 |
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  • KY #mQop/nM.
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キンピーさん、デルタさんへ

仕事が忙しく、なかなかパソコンの前に座れませんでした。レスが遅くなって失礼。

>キンピーさん

これまでのご意見を伺いまして、思ったことを述べさせていただきます。

まず、「全員の合意形成の努力をしろ!」とのご指摘ですが、これはやはりap_09さんがサイコパスの例を挙げて反論されていたように、最初からできもしないことを条件に挙げて反対しているに過ぎないように思います。

もし、全員でない大多数の合意で良いのなら、現状では合意は既に得られていると言ってもよい状態でしょう。
そういう状況にありながら、あえて上記の主張を掲げて反対するのはちょっと強引じゃないでしょうか。

まぁ、そのように主張されるのはご自由ですが、逆の立場(そうした立場に立つつもりがないから考えたことがないのでしょうけれど)に立った場合、キンピーさん自らが他に要求しているような行動を果たして取れるでしょうか?
日頃の左翼の方々の言動を見る限り、望み薄のような気がします。

ついでに言わせて貰えば、そこまで教育の現場に「合意の形成」を求めるのであれば、「どうやって合意に反対する者に教育することが出来るか?」という疑問にも答えてもらう必要がやっぱりどうしても出てきますね。

それに答えられないのであれば、そうした事態にはまったく考えが思い至らないことを露呈しているも同然で、自らの主張さえ通ればよいのだという無責任極まりない態度とのそしりを免れえないかと思いますが如何?

tikurinさんもコメントで指摘されていますが、キンピーさんの主張には、「社会の秩序が保たれなくなれば内心の自由もなくなる」という視点が決定的に欠けているように思います。

個の尊厳を重視すること自体は良いとしても、それが成り立つ為に必要な基盤を崩してまで、守るべきものだとは思いません。

そうではないと言うのであれば、こうした社会の秩序から受ける恩恵も拒絶すべきで、それこそがスジを通す生き方であると思うのですが、実際はといえば、公務員としての手厚い身分保障を受けつつ、義務を拒否するのが実態ですから、その尊い主張と現実の醜い行動との”落差”にはどうにも失望を禁じ得ませんね。

この問題は、単に法的処理で済む問題ではなく、共同体に対してどのように向き合っていくかを問う必要があると思っています。

私はその上で、こうした左翼の”ひとりよがり”の主張が、決して共同体にプラスの影響をもたらす事はないだろうと考えているが故に、彼ら反対教師の行動に対して非難をしているわけなのです。


>デルタさん

こんばんは。ご無沙汰してます。
コメントありがとうございます。

>というのは、去年バスケットの東アジア選手権での試合前の国旗掲揚に、各選手団がどういう態度を取ったか、を目の当たりにしたからです。

確かに、国によって接する態度が異なるのかも知れません。
ただ、他国はさておき、日本の場合においては、口ずさまずとも起立するというのが、最低取るべき望ましい態度と言えるのではないでしょうか。

日本人は、礼式がそのまま礼儀の秩序を形作っていますから、礼式の形は他国より重要視される傾向にあると思います。

デルタさんが例に挙げた東アジアの国々の対応を見れば、近代国家に普遍的な儀礼と決め付けるのは早計かも知れませんが、日本人にとっては、普遍的な儀礼であると言えると私は考えます。

  • 2010/07/21(水) 23:33:31 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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キンピーさんお返事ありがとう

>日の丸君が代は学業ではなく思想信仰の問題です。
これはなぜですか?
日の丸、君が代は他の方々が何度も言われるとおり、「象徴としての符牒」です。それに対して個々人が色々な感情、思想を投影しているにすぎません。感情、思想そのものは個人の主観が選択するもので、そこが思想・信仰の自由であり、言論の自由ではないですか?それをどれだけ多数の人が共有するかは、その次の段階です。キンピーさんの御主張はここで飛躍があるように思うのですが、いかがでしょう?

>法令で決まっていることを教える限りにおいては問題は発生しませんし、それは教えるべきでしょう。
100%賛成です。

>しかし思想信仰の自由を侵害する「罰」は強制ですから批判の対象です。
私は前コメントで教師には職場においても思想信条の自由があり、表現の自由もあると書きました。規則に従うことを“同意”これを犯したのであるから罰があって当たり前だと思います。どこが強制で侵害になりますか?自分が最初に同意したので、職場の他人や政府に要求する以前に、自分の自分で言ったことを理由なく翻したわけですから、自分の思想・信条をまず侵害してませんか?自分に対する責任は免除して、人に要求すべきと理解してよろしいですか?

>あと、憲法が間違いを犯した事例を仰ってください。
フランスもドイツも戦後何度も憲法を改正しています。間違いを犯したというと犯罪を犯したという風に聞こえますが(憲法に従って立法された方が犯罪を定義しますから、定義上憲法が犯罪を犯すことは不可能ですね)、現状にあわない=そのまま旧法で行くのは間違いなので、改正したのだと思います。つまり間違いになったのですね。制定後一度も改正しない日本のような国は、珍しい部類だと聞きました。

>基本的に生命力が失われるまで
人間には自身の生殖行動のほかには、生命を作り出す力はありません。憲法はその人間が作ったものですから、生命力はありません。憲法の生命力という表現は主観による感情の投影による比喩ですね。文学的で、共感を求める意味では大変強力と成りうる表現です。宗教の集会で信者に対して使われる手法です。これが議論に侵入してくると、表現の自由が侵害されてしまいます。つまりそういう表現は論拠にはならず、それを根拠にして議論をするべきではないと思います。

>また、日本の通常の学校の教師はそのような『強権』を与えられている ・・子供には判断力がないという前提ですから、子供達にはそのような自由選択権はなく、先生に全面的に従うことが要求されています。
>キンピーさんはこの説明に異存がありますか?

この部分にお返事をいただいていません。ここに私たちに同意があるのかないのか明確でないと、先に進めません。お答えをいただけますか?

ap_09さん

日の丸君が代は学業ではなく思想信仰の問題です。
法令で決まっていることを教える限りにおいては問題は発生しませんし、それは教えるべきでしょう。
しかし思想信仰の自由を侵害する「罰」は強制ですから批判の対象です。

あと、憲法が間違いを犯した事例を仰ってください。
基本的に生命力が失われるまで間違いを犯すことなどありえないのですがね。

  • 2010/07/21(水) 21:43:49 |
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  • キンピー #-
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思想信条の自由をもって一概に「法」を否定するのは間違い

キンピー様へ

紹介いただいた判決文は「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件 判決趣旨」(平成18年9月21日)のものでしょう。

 この裁判での主たる争点は
 「在職中の原告らは,都立学校の入学式,卒業式等の式典において,国旗に向かって起立して国歌を斉唱する義務を,また,音楽科担当教員である原告らは,国歌斉唱時にピアノ伴奏をする義務をそれぞれ負うか。本件通達及びこれに基づき学校長が原告らに対し発した職務命令は違法か」です。

 そして、これに対する判決は、
 「学習指導要領の国旗・国歌条項は,法的効力を有しているが,同条項から,原告ら教職員が入学式,卒業式等の国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務,ピアノ伴奏をする義務までを導き出すことは困難であるというべきである。」というもの。

 また、 校長の職務命令の適法性については、
 「都立学校の学校長は,校務をつかさどり,所属職員を監督する権限を有しており,所属職員に対して職務命令を発することができ,所属教職員は,原則として,学校長の職務命令に従う義務を負うものの,当該職務命令に重大かつ明白な瑕疵がある場合には,これに従う義務がないものと解するのが相当である。」としています。

 そこで、当該職務命令に重大かつ明白な瑕疵があったかどうかということが問題になりますが、これについては次のようにいっています。

 「これを本件についてみてみると,原告ら教職員は,「教育をつかさどる者」として,生徒に対して,一般的に言って,国旗掲揚,国歌斉唱に関する指導を行う義務を負うものと解されるから,入学式,卒業式等の式典が円滑に進行するよう努カすべきであり,国旗掲揚,国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと,生徒らに対して国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは,上記義務に照らして許されないものといわなければならない。」

 しかし、このことは、原告ら教職員が思想・良心の自由に基づき、国旗に向かって国歌を起立斉唱することを拒否することを、上記の義務違反することにはならない。なぜなら、それは、式典の進行や国歌斉唱を妨害したり、生徒らに国歌斉唱の拒否を煽ったりするわけではなく、また、児童生徒に式典における国旗国歌に対する正しい認識をもたせ、これを尊重する態度を育てる教育目標を疎外する恐れもないからだ、というのです。

また、音楽科担当教員が国家のピアノ伴奏をする義務があるかどうかについては、入学式、卒業式等の式典における国歌斉唱の伴奏はピアノ伴奏でなくてもその他の手段(例えばテープ)でもできるし、式典の進行等が滞るおそれもないので、当該音楽教師にピアノ伴奏の義務があるとはいえない、といっています。

 そして,そうした原告ら教職員の行為が,「これとは異なる世界観,主義,主張等を持つ者に対し,ある種の不快感を与えることがあるとしても,憲法は相反ずる世界観,主義,主張等を持つ者に対しても相互の理解を求めているのであって,このような不快感等により原告ら教職員の基本的人権を制約することは相当とは思われない。」といい、

 結論として、「都立学校の学校長が,本件通達に基づき,原告ら教職員に対し,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱せよとの職務命令を発することには,重大かつ明白な瑕疵があるというべきである。従って,原告ら教職員は,本件通達に基づく学校長の職務命令に基づき,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務,ピアノ伴奏をする義務を負うものと解することはできない。」としています。

 この結論だけを見れば、キンピーさんの言い分が通るかのようです。しかし、キンピーさんの主張は、「憲法に矛盾するような法律はそもそも作れない」(7/17コメント)といい、ここでは国旗国歌法が問題になっているのですから、この法律自体が違法だといっているかのようです。また、その後「強制になるような国旗国歌法案は憲法違反になるからできない」ともいっています。これは国旗国歌法の運用が強制にあたる場合にはできない、といっているかのようです。ここは、ap_09さんの言われるように、このいずれかをはっきりしないと議論にはなりませんね。
*以下長文になりましたので私HP「竹林の国から」に掲載させていただきました。http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-bff4.html




  • 2010/07/21(水) 20:41:52 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
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キンピーさん

>君が代日の丸に反対する教師が、他者に対して「起立させない」「歌わせない」・・報復するといった行動に出た場合、強制となりますので批判の対象ですね。
その通りですね。初めて意見の一致点を見出しました。

>あるいは依頼だけであっても従わないことに対して
生徒は学校では先生の言うことに従うことが期待されています。従ってそれができない子供には罰則があって強制的に従わせることになります。これは報復とは違います。キンピーさんはどうでしょう?

また、日本の通常の学校の教師はそのような『強権』を与えられているわけですから、その役割は「自分の思想・信条を生徒に教える」のではなく、世間一般で最も支持されていることを教えることです。そのために指導要領があります。その上で自分の思想・信条を自由に生徒に伝える思想・信条の自由も言論の自由も、日本では与えられれています。
くだんの教師は生徒には強制力をふるう立場にありながら、なぜ自分で同意した上で選んだ職場でその規則に反する行動を平気で取れるのですか?これはウソをついて給料を得ることでもありますね。
学校に入学する時に子供には判断力がないという前提ですから、子供達にはそのような自由選択権はなく、先生に全面的に従うことが要求されています。
キンピーさんはこの説明に異存がありますか?

>民主主義と立憲主義では立憲主義に軍配が上がりますので、民意と憲法の間に齟齬が生じた場合、憲法に従うことになります。
私は日本の民主主義は立憲主義だと思っていました。民意は憲法、法律に反映されていることになっていますが、民意が直ちに社会の運営に反映されるわけではないのでその通りですね。憲法に則って作られた法律が、国民の行動を制限します。その意味では、まず法律、憲法に従う、法遵守、法治を実行、実現するのが不可欠ですから、この点はおっしゃる通りですね。

>民主主義はたくさん間違いを犯しますが憲法は間違いません。
この点は私はキンピーさんとは違う考えです。民主主義も憲法も間違いを犯します。法律も憲法も状況に合わなくなったら変えることができ、そのために立法府があります。法律や憲法が民意に合わなくなったら変えるべきなので、その場で法律や憲法という決まりを無視した行動を取ることではありません。
キンピーさんはどうですか?

kyusedaiさん

教師とて同じこと。
「国旗国歌へのマナーとして起立しましょう」と管理職が言えばいいだけ。
それでも起立しないことが本人の思想信仰であるのであれば、それはその教師の自由です。
マナーと思想信仰の自由は別ものであり、両者が両立しない場合があることを理解する知性があるのであれば、同じ教師が生徒にマナーを教えることと矛盾しませんし、何の問題もありません。

  • 2010/07/21(水) 20:33:53 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>さて、マナーについては教えるべきでしょう。それが大人の役割です。
しかしそれでもなお、日の丸君が代が「受け入れがたいもの」とするならば、その後の行動は自由です。

 はい、ありがとう。
 教師のマナー違反についての意見を伺ったのですけど、何故かキンピーさん(きっと独自な論理素子をお持ちなっている)に私の簡素な文章をご理解いただけないようです。
 

  • 2010/07/21(水) 19:49:49 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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KYさん

広島の校長の件は日の丸君が代を強制したい行政機構と、強制に反対する現場の職員との板ばさみになって自殺された痛ましい事件との認識です。
こういうこともありますから強制は止めた方がいいでしょうね。

ap_09さん

君が代日の丸に反対する教師が、他者に対して「起立させない」「歌わせない」、あるいは依頼だけであっても従わないことに対して報復するといった行動に出た場合、強制となりますので批判の対象ですね。
あと、民意について尊重せよと仰りたいようですが、民主主義と立憲主義では立憲主義に軍配が上がりますので、民意と憲法の間に齟齬が生じた場合、憲法に従うことになります。
これは「正誤」で考えれば簡単に分かることで、民主主義はたくさん間違いを犯しますが憲法は間違いません。

kyusedaiさん

貴方は論理的に思考することが苦手なようですが、私は学校の先生ではありませんので貴方を教育しようとは思いませんから、どうぞそのまま恥をさらし続けてください。
さて、マナーについては教えるべきでしょう。それが大人の役割です。
しかしそれでもなお、日の丸君が代が「受け入れがたいもの」とするならば、その後の行動は自由です。
「マナーが無いヤツだ」と当人が思われようがその人の自由です。

  • 2010/07/21(水) 12:00:50 |
  • URL |
  • キンピー #-
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>デルタさん

 「国旗掲揚」の時には、起立して掲揚される旗に注目する。国旗掲揚には、多くの場合、国歌が吹奏されるが斉唱する必要はない。
 「国歌斉唱」と明言された式次第の場合は、起立し、斉唱する。

 たぶん、これが国際標準です。リンク先を拝見しましたが、特におかしなところは無いと思われますが。
 国旗掲揚時の起立において、姿勢を正す(いわゆる「気をつけ」の姿勢)方が好ましい事は当然ですが、何が何でもって事ではないはずです。
 敬礼にいたっては、敬礼には敬礼の作法がちゃんと決まっていますので、知らずに実行すると「茶化している」と誤解される虞もあります。軍人や警察官などが、一目でそれと分かるように制服を着用している場合以外は「起立して姿勢を正す」にとどめておくのが無難ではないでしょうか。

 肝心な事は、国旗・国歌に対して「素直に敬意をはらう」事であって、通常、起立し注目すれば、万国共通で認めてもらえるという事です。国歌斉唱の場合は、歌いたい意思があっても、例えば他国の国家など知らないので歌えない場合も有りますので、とりあえず起立して静粛にしていればOKです。

 デルタさん自身が書かれた記事を読んで、東アジアにも「近代国家に普遍的な儀礼」が存在すると感じましたが、いかがでしょうか。

 このエントリーが問題にしているのは、日の丸・君が代に反対する勢力(サヨク教師)が、たかが上記した程度の事柄すら守れず、日の丸・君が代に対する一方的な解釈を「強制」した事と、そのサヨクによる強制に対する揺り戻しとでも言うべき「動き」の是非です。
 実際、日の丸・君が代に反対する勢力(サヨク教師)に反対する意見は、私が書いた以上の事を求めていないはずです。

  • 2010/07/21(水) 01:29:23 |
  • URL |
  • ダイス #vIABNzxU
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バスケットの国際大会にて

横レスすみません。

>「一方的価値観の押し付け」を理由に公の場所で国旗と国歌に敬意を示さなくて良いとしている近代国家は存在しますか?

この問いかけに対して、どうも私はしっくりこないのです。
というのは、去年バスケットの東アジア選手権での試合前の国旗掲揚に、各選手団がどういう態度を取ったか、を目の当たりにしたからです。
香港、モンゴル、日本、中国、台湾、韓国
の計6選手団を、真っ正面から見たのですが、
どこの選手団も、国旗掲揚(国歌吹奏)に合わせて歌っていませんでした。
また韓国を除いて、ヤスメの姿勢をとっていました。
(リンク先が、当時私が書いたレポートです)

というわけで、どうも東アジアには、
「国旗掲揚に注目し、国歌を斉唱する」
という儀礼のカタチが存在しないように思えるのです。
それを、近代国家に普遍的な儀礼とされる根拠は、どこにあるのでしょうか?

  • 2010/07/21(水) 00:49:15 |
  • URL |
  • デルタ #JnoDGgPo
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キンピーさん

キンピーさんのお立場は、「現状の国旗も国歌も認めない」のようですが、これで間違いないですね?

他の方も繰り返し述べておられますが、人間が複数集まって全員一致の合意があることはほとんどません。そのため民主主義は多数意見を全体の行動規定として採択するという制度だと思います。つまり世の中の規則は全員の同意がなくとも社会秩序を維持するために“内心は同意しなくとも”行動上はそれに従うということになります。しかし、個々人異なる意見や考えを持てる自由は重要であり、またその自由は良い社会を維持するために逆に重要です。

繰り返しになりますが、
>>「一方的価値観の押し付け」を理由に公の場所で国旗と国歌に敬意を示さなくて良いとしている近代国家は存在しますか?
私はないと思います。
この質問に対するキンピーさんのお答えを是非お聞かせく下さい。

>日教組は過去の行いを理由に日の丸君が代を拒否している。

日教組がそういう立場で自由に考えることには私自身としては異論はありません。しかし職務規定を無視して、子供や同僚に国旗掲揚、国歌斉唱をすることになっている場面で「自分の思想を押し付ける」のが問題だと皆さん繰り返しおっしゃっておられるのですが、
この日教組教師の行動は「思想信条の強制」に当たりますか?
私は当たると思います。教室で教師ご自身の信条を述べるのはかまいませんが、その際反対の意見もあることを子供達に伝えないならばことも、職務規定の違反、放棄であり、教師自身の信条を他者に押し付ける「思想信条の強制」でもあり、2重の過ちになると思います。

ここをキンピーさんに明確にお答えいただけないと、話が先に進みませんので是非お答えをお聞かせく下さい。

議論するためには、参加者同士の認識のどこに共通点、相違点があるのか明確にする必要があると思いますので、我々が同じページにあることを確認させて下さい。

この辺がすっきりすると、あなたも私も他の方々も、支離滅裂と感じなくてすむのではないでしょうか?

>kyusedaiさん

言葉と言葉のつながりがありませんから理解不能です。
それは前回指摘させていただいた時に仔細に論じております。

 ???

 そういう返しではなくて、もっと素直になりましょうよ。
 あなたは在日のお方ですか?

2010/07/20(火) 15:48:02 | URL | キンピー

 この文章を読ませていただくととてもそう思えてなりません。
 もしそうならもっと堂々と自分の主張を素直に述べていただけませんか?
 この天皇・日本国に対する観念的なコメントなどあなたの人間的な資質を下げるだけですよ。
 もっと素直に対話して見ませんか? 
 例えばマナーの問題(国旗・国歌に対する敬意)であるとの意見が多数出ているのですが、先生が国旗に対し非礼でも問題はないのですか?
 

  • 2010/07/21(水) 00:01:38 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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歌詞は、饒舌すぎる

スペインの国歌でしたっけ?
歌詞がないのは。
世の中が移ろっていくなかで、国歌に時を越えた普遍性を持たせるためには、歌詞は饒舌で邪魔をすると考えます。
ドラマ「北の国から」のテーマ曲にもし歌詞があったら、と想像していただきたいのですが……
どこかで、あのシリーズドラマの主題と歌詞とがあわなくなり、テーマ曲が差し替えざるを得なくなったのでは、と思うわけです。

今の君が代の歌詞は、3点で疑義を持っています。
・主権在民の世の中にあっては、法的にあるべきとしている社会の姿に合わない。
・古今集の本歌と初句が差し替えられている(本来は「我が君は」)
・凶事(国葬とか)で歌えない歌詞である。
特に、天皇の国葬で歌えなくなるような歌詞ですよね……。

というわけで、歌詞廃止を唱えたいです。

  • 2010/07/20(火) 22:48:03 |
  • URL |
  • デルタ #JnoDGgPo
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「価値観の多様性」と口を開けば仰りますが

 確かに近代国家では「価値観の多様性」を認めていますが、価値観に優劣や順序が自ずと付けられることとは別問題ですよね。
 キンピーさんはどうもこのことを無視している気がしてしょうがないのですが(苦笑)。日本以外の近代国家でも国旗・国歌を尊重することが常識になっていますが、これはその価値観が「常識」として大多数に認められていることに他なりません。まさか日本だけ、同じ価値観が大多数に認められていないのでしょうか?或いは他国で「国旗・国歌を尊重しない」という価値観?や考えが皆無だと言うのでしょうか?「価値観の押し付け」というのなら、日の丸を引き摺り下ろす、君が代斉唱の妨害をする、果ては校長をつるし上げて自殺に追い込む、と言った暴挙をしているのはむしろ反対派の方ですが、キンピーさんのほうからは未だに彼らの暴挙に対する批判は聞かれませんね。命令違反以前に、道徳的にも唾棄すべき「価値観の押し付け」に他ならないのにこっちは無視ですか。相変わらずのご都合主義ですね。それに貴方は他の方々からの質問を無視して一方的に自分の考えを繰り返し言うだけ。これでは議論にすらなりません。私も「国旗・国歌を尊重しない態度は道徳的にはいかがなものか」と問いかけているのに相変わらずだんまりですか。このパターンで果たして何処までレスが伸びるのやら(苦笑)。
 話は戻りますが、10年ほど前に、校長が反対派教師の集団吊るし上げで自殺に追い込まれた事件のあった広島でリンク先のような事件が起きたとのこと。これが事実なら、「日本は自分の国の歌を口ずさんだだけで異常者扱いされる地域がある」と世界の笑い者になるのは必定ですね。先述した国旗掲揚、国歌演奏に対して数々の妨害行為を働き、あまつさえ一人の人間を自殺にまで追い込む「実力行使」の何処が「良心に基づく行動」なのでしょうか?しかもこれって立派な「価値観の押し付け」ではないですか?こういう「お仲間」の矛盾した行動に警告できない限り、誰もキンピーさんの考えに同意しないでしょう。サヨクって「従う振り」すら出来ない石頭ばかりなのでしょうか?
 

  • 2010/07/20(火) 20:39:40 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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tikurinさん

「国旗,国歌に対し,宗教上の信仰に準ずる世界観,主義,主張に基づいて,国旗に向かって起立したくない教職員,国歌を斉唱したくない教職員,国歌のピアノ伴奏をしたくない教職員がいることもまた現実である。このような場合において,起立したくない教職員,斉唱したくない教職員,ピアノ伴奏したくない教職員に対し,懲戒処分をしてまで起立させ,斉唱等させることは,いわば,少数者の思想良心の自由を侵害し,行き過ぎた措置であると思料する次第である。国旗,国歌は,国民に対し強制するのではなく,自然のうちに国民の間に定着させるというのが国旗・国歌法の制度趣旨であり,学習指導要領の国旗・国歌条項の理念と考えられる。これら国旗・国歌法の制度趣旨等に照らすと,本件通達及びこれに基づく若枝長の原告ら教職員に対する職務命令は違法であると判断した次第である。」
判断する人間が違えば判決も違ってくる。
国旗国歌問題とはそういう類の問題です。

kyusedaiさん

言葉と言葉のつながりがありませんから理解不能です。
それは前回指摘させていただいた時に仔細に論じております。

ap_09さん

国旗国歌に対し合意が無いから「強制が必要」となるわけでしょう。合意があればそもそも強制など必要ありません。
少々仰っていることが支離滅裂です。
また公と私的な経済活動は違いますし、単なる職務命令とも違います。
憲法で否定されているのは公による思想信仰の自由への侵害です。
これが日本という法治国家の基本です。
それと【このエントリーの教育機関での強制問題】とは関係ありませんが、私の個人的な見解を知りたいご様子なので、少々述べさせていただきます。
日本の抽象的な概念(象徴)が「日の丸」であるとするならば、大陸の中原あたり(支那地域)を世界の中心とする世界観を持ち合わしていなければいけません。
しかし私はそのような世界観を有しておりませんので、「日の丸」=日本の象徴という認識は持ち合わしておりません。
日本の抽象的な概念が「君が代」であるとするならば、天皇による天壌無窮の国という国家観を持ち合わしていなければいけません。
しかし史実において南朝の滅亡により天皇家は途絶えましたので、「君が代」=日本の象徴という認識は持ち合わしておりません。
ただし日本国の法令において「国旗は日の丸、国歌は君が代」と定められておりますので、「歌い人は勝手に歌い、掲げたい人は勝手に掲げろ」という意見です。
私の認識はさておき、【このエントリーの教育機関での強制問題】に即して言えば、日教組は過去の行いを理由に日の丸君が代を拒否しているのですから、これは合意の努力によって大多数(全員とは言いませんが)によって日の丸掲揚・君が代斉唱が可能になるのではないかと考えます。

  • 2010/07/20(火) 15:48:02 |
  • URL |
  • キンピー #-
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フッサールのご説明をありがとうございました。それでその現象学あるいは彼の哲学と国旗・国歌に敬意を示すことと、どうつながるのですか?

>ですから国旗=国家などというものはありえないのです。
この点に関しては全員が一致していると思いますが、ご異存はありますか?

>白地に赤い丸(太陽ですね)が、日本という国を指し示しているのであれば、象徴しているともいえないはありません・・
日の丸は日本を象徴する国旗という点では同意と解釈して良いですか?

それで最初の質問に戻りますが
 >近代国家では「一方的価値観の押し付け」が禁止されている
とのことですが、「一方的価値観の押し付け」という表現は具体的ではなく、その解釈は広範囲に及ぶと考えます。どこに「一方的価値観の押し付け」の境界を引くのか、また「禁止」しているのか、個別に見ると大変難しいと思います。
そこで現実の話として、「一方的価値観の押し付け」を理由に公の場所で国旗と国歌に敬意を示さなくて良いとしている近代国家は存在しますか?

また、キンピーさんは法律や職務規定による規制、あるいは個人の自由な行動の制限を「一方的価値観の押し付け」と理解されているように思うのですが、それでよろしいでしょうか?

キンピーさん

すみません。タイトルは“キンピーさん”のつもりでした。

キンピー

キンピーさん、
皆さん何度も主張されているんで、こちらも繰り返しになってしまうのですが、
国歌も国旗も日本国を象徴しているわけで、日中戦争から太平洋戦争の時期の日本政府だけを象徴しているのではありません。この点、私たちに合意はありますか?

米国は個人主義で、文化の多様性を日本よりずっと尊重しますが、公務員でなくとも、契約上同意した職務命令にそむいたらクビです。それを逆恨みにして裁判に持ち込む人はいません。争点があるとしたら、契約に違反した事実があったかどうかだけです。
また法律や契約でなくとも、私は何かの儀式に参加したときに国旗掲揚国歌斉唱となれば、その国の歌の文句は知らなくて歌うことはなくとも、その儀式のルールは遵守しますよ。私はキリスト教徒でもなければ、アメリカ国民でもありません。ほかの国に行っても同じようにしますよ。世界中どこでもそうです。それが常識ですし、その国に敬意を示すという礼儀です。あなたは他の国を訪れても、その国が以前に何か他国に対してした行為に賛成しなかったからといって、その国の存在自体を侮辱する(国歌と国旗に敬意を示さない)行為の行使を、自分の信条だからと言って、公の場で表明して見せますか?批判は批判としてそれにふさわしい場で表明し、礼儀は礼儀として守るのが、世界中どこへ行ってもまともな人間として要求されることです。

また公に権威を与えられている者が職務権限で市民、住民に命令が下った場合、従わなければ拘束、場合によってはその場で射殺されても文句は言えません。日本はそこまで厳しくありませんが、それが法治国家の基本です。多様性を尊重するからこそ、かなめとなる社会秩序の維持については厳格なのです。おわかりになりますでしょうか?
多様性を尊重するためには、そのような社会秩序維持の仕組みと、国民・市民、その他すべての住民が場合によっては強制力を有する公的権力によって縛られる必要があるのです。暴動になったら軍隊が出動してでも鎮圧するのです。鎮圧された側がそのこと自体について裁判をおこすようなこともないし、考え方としては、そんなことを許してくれる日本のような優しさもありません。

日本以外に職務規定に違反するわがままを許してクビになるどころか、裁判まで税金使ってやってくれる国って、世界に他にあるんでしょうかね?
ご存知でしたら教えてくださいよ。

キンピーさん

>日本国という生活世界は、人格同士の社会的関係で出来ていますので、「長方形の布」とは別ものです。
ですから国旗=国家などというものはありえないのです。

 どうも、何と言うか困ったものですねーー

>>国旗は天皇陛下ではない。主権在民である以上、国旗は国家であり国民の象徴。

という主張に表れている

 「国旗は国家であり国民の象徴。」

を普通に解釈すれば、

 「国旗は、国家であり国民の象徴。」

という解釈になるんじゃないでしょうかね。
 つまり、主権が国民にある日本では、国旗は天皇の象徴ではなく、国家・国民の象徴であるとyuichさんはごく当たり前のことを主張したのですよ。
 正に当たり前すぎて、国旗が国家と同じとは中学生でも感じませんでしょうに。
 ずいぶん難しい本を読んでいられるようですが、人間の頭脳って、こんな簡単な文章がかえって理解できなくなるものなのでしょうかね。

  • 2010/07/20(火) 02:38:46 |
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  • kyusedai #MkgAoDiE
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キンピーさんへ
>さて国旗国歌をめぐる裁判ですが、判決は一定ではありませんね。もちろん東京地裁判決のように、思想信仰の自由に踏み込んだ判決もあります。

 東京地裁判決とは、下記の判決のことですか?

 ”判決によると、女性教諭は一九九九年四月、入学式の「君が代」斉唱の際に校長からピアノ伴奏を命じられたが従わず、式場にはテープ伴奏が流された。都教委は同年六月、地方公務員法違反(職務命令違反、信用失墜行為)として教諭を戒告処分にした。

 教諭側は「斉唱や伴奏は強制すべきものではない。処分は思想・良心の自由を保障した憲法第一九条に違反している。『君が代』が日本の過去のアジア侵略で果たした役割など歴史的事実を教えず、思想・良心の自由を保障しないで歌わせるのは、子どもの人権侵害に加担することになるからできない」と主張したが、判決は「公務員であっても思想・良心の自由は尊重されなければならないが、伴奏を命じた職務命令は外部的行為を命じるものだから、内心領域における精神的活動まで否定するものではない」と述べ、教諭側の主張を退けた。”

 ここには「職務命令は外部的行為を命じるものだから 、内心領域における精神的活動まで否定するものではない」と書いてありますよ。違う判決のことを指しているのでしたら、思想信条の自由を直接制限した判決文をお示しください。1

  • 2010/07/19(月) 23:36:38 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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しかしまぁ、強制を否定するだけで、なぜにここまで必死に食らいついてこられるのかワケがわかりませんね。

ap_09さん

貴方の勘違いをぶつけられても迷惑ですし、「教えて君」ではかなりメンドクサイわけですが、動的平衡に関して適当なサイトをお知らせしますので、あとはご自分で考えてください。
http://www.lohasclub.jp/lowcarbonstyle/contents17.php

そしてハイデッガーやフッサールは言葉を記号として使って、認識や存在に近づいていった人々で、こんにちにおける哲学・科学に多大な影響を与えました。
ハイデッガーについてはまともった本を読んだことはありませんが、フッサールなら何冊か読んでいますので説明可能ですが、貴方の理解力によって徒労に帰す可能性が大きく、とても1から10まで説明する気力がありません。
適当なサイトも見当たりませんし、、、
でもまぁ、全く説明しないのもアレなんで少しだけ、、そして一度だけ説明を試みます。
フッサールはイギリス経験論(マッハ的光景)からヒントを得て、直接経験→感覚へ、そして諸現出→現出者へとアプローチします(世界を認識するのは逆回転)。
たとえば日の丸であれば、それは「白地に赤い丸が描かれている」という直接経験による感覚を突破して「長方形の布」へたどり着くわけです。
しかし日本国という生活世界は、人格同士の社会的関係で出来ていますので、「長方形の布」とは別ものです。
ですから国旗=国家などというものはありえないのです。
白地に赤い丸(太陽ですね)が、日本という国を指し示しているのであれば、象徴しているともいえないはありませんが、イコールでは無いのです。
そして「日出国」が、日本だという中華思想にどっぷり浸った卑屈な国家観を是とするとして、歴史的にみれば江戸時代までに、日本における大陸文化の強い影響は終了しているわけですから、現在に生きる我々とは無縁です。

で、憲法とは何のために書かれたのか?というご質問で、さらに脱力してしまうわけですが、立憲主義というものの不理解がここにあるのだろうと結論付けても良いほどの質の悪い質問です。
これはwikiで事足りると思いますので、ご自分で調べてください。
その上で「人の仰ることを受けとめた上で返答することをせず」などという的外れの批判を撤回されることを要求します。

吉田 五郎太さん

このエントリーは強制の是非を問うたエントリーですので、強制されているのに「俺は強制されていない」とする言い逃れの技術(魯迅的には精神勝利法といいます)を論じても、少々話が違うように思いますが。

南溟さん

ap_09さんと同じくwikiの立憲主義を参照してください。

  • 2010/07/19(月) 22:47:08 |
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  • キンピー #-
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レス遅れ失礼。

>キンピーさん

>近代国家形成期にはマイノリティの排除や「押し付け」というものが行われましたが、
>しかしそれでは争いが絶えないわけで、現在の先進国では多様性を認めるということに
>落ち着いています。

先進国で「多様性を認めよう」と言えるようになったのは、経済成長や科学技術の発展のおかげで生活に余裕ができたからですね。そのためには、平和で安定した豊かな生活を送ることができる社会という前提がなければなりません。
このような社会を成り立たせていこうと思ったら、個人はやはり自分自身の主張ばかりを押し通すのではなく、我慢しなければならないこともあるわけです。ある会で「海に行こう」と決定しているのに、一部のメンバーがかたくなに「山に行くんだ」と言い張ったら、会そのものが成り立たなくなりますね。そのためには、今の日本にとっての社会のシンボルである国旗や国家に敬意を払うのがマナーだと思うのですが。
もちろん、個人が日の丸や君が代を日本の国旗・国歌としてふさわしくないと考えること自体は全くの自由です。そのような人の家に「日の丸を掲げ、君が代を流せ」なんてことは誰も強要していません。そんなことが強要されそうになれば、私だって反対するでしょう。しかし学校の式典はあくまで「公」の場であって、しかも学校の教師は公務員として公に奉仕する立場である以上は、この場で国旗や国歌に敬意を払うのは当然のことです。そもそも、こういうい人たちの「思想・信条の自由」とは、こんな式典程度で揺らぐほどやわなものなのでしょうか。
 最後に聞きますが、反日の丸・君が代派の人たちは、結局どうしたいのですか? 日の丸や君が代が日本の国旗や国歌としてふさわしくないと考えるのなら、それに代わる国旗や国歌を定めた方がいいと考えるのでしょうか。それならもっと建設的な姿勢でそのことを提案すればいいでしょう。ただいやだいやだと言い張るだけでは、子どもの駄々と一緒ですよ。

  • 2010/07/19(月) 19:50:14 |
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  • 南溟 #-
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自由研究『僕の考えた「理想の社会」の作り方』(でも中途半端)

色付きの文字……え~と、突然馬鹿丸出しのタイトルで失礼しました。
ひとまず、本エントリーの主題である『日の丸・君が代』に対する態度の是非については、すでに他の方々が様々なご意見を出しているようですので、そっちについては余り深くは書きません。
ちなみに僕自身の態度は『(国旗・国歌は)これでいいんじゃね?』という、いい加減な『現状肯定派』ぐらいに考えていただければ。

さてさて、
>キンピーさん
どうも、初めまして こんにちは。
当ブログの世話になっている、『吉田 五郎太』という者です。

さて、ここまでのあなたの主張を読み返してみるに、キンピーさんの理想とは、

『国家を始めとする“強権的な何か”に一切の信条・思想・行動を束縛されることのない、価値観が無限に多様かつ自由で、それらにきわめて“寛容”である社会(共同体)』
……という風に受け取ったんですが、それでよろしいでしょうか?
なるほど、一見すると非常に魅力的な社会に思えますねぇ。
そこで僕も、タイトルどおり、何十年かぶりの(汗)『夏の自由研究』のつもりで、自分のない頭を絞ってどうやったら上記のような『理想社会』が少しでも実現できるか?と考えてみました。

まずは目の前の実践的方法から考えると、本エントリーの主題『日の丸・君が代』については、“完全に放って置く”という態度をまず取りますね。
これは積極的に『無視・拒絶』するのではなく、呼んで字のごとく「放っておく」のです。つまり、「あ~ハイハイ、お好きにどうぞ。」という態度を(表面的だけでも)取っておき、儀典の場においては
“とりあえず起立しておき、適当に君が代を口パクしながら日の丸をボヘ~っと眺めておく(内心ではその日の夕飯のことでも考えながら)”
……とまぁ、こんな感じに。
なぜなら、肝心なのは『自分達にとって理想の社会体制を現実に築き上げること』であって、国旗・国歌なんてものはその後でも十分「否定」も「改定」も(もちろん事情によっては「現状維持」も)可能なんであって、要するに『(社会改革のためには)大した問題じゃない』、と考えるからです。
でもって、そうして『日の丸・君が代称揚派(?)』の皆様の目をごまかしつつ、僕だったら
『いわゆる「自尊史観」の人びと以上に日本人の文化・伝統・宗教感情をより深く研究するための機関もしくは団体の設立』
……これを目指すでしょう。お金があれば立派なシンクタンクがいいんですが……なければ同志の中だけの『勉強会』でもOKですね。
そうした上で、
1:日本人及びその文化・思想の『利点・弱点』を徹底的に暴きだし、
2:それを基にして特に現在の日本人が“何を欲し、何を嫌がって(不安に思って)いるのか?”一般企業並みのリサーチでもって洗い出し、
3:一定の結論・および『理想社会へのプラン』の原案が完成したら、それをいきなり全部表面化はさせず、2のリサーチによって判明した「日本国民が一番欲している部分」にアプローチをかけます。

ただしここで注意しなくてはならないのは、決して『お堅そうな話』にはしないことです。あと、『うわぁ~某駅前とかにいる連中とおんなじくせぇ~
……なんて風に思われないよう、細心の(本当に細心の!!)注意を払うことです。
(駅前でまじめに活動している方々には本当に失礼かとは存じますし、そのこと自体は否定しませんが、道行く人々のほとんどがその主張には大して耳を傾けず、ビラも基本受け取ってもらえてない現実を考えると、あまり効率的な方法ではないのかなぁ、と思えてしまうので……)
つまり、『こいつらの言うこと、(よくわかんねぇけど)面白いんじゃね?』
と思わせる手法・方法論が必要になるわけでして、とりあえず僕のイメージとしては……かのTVショッピングの某社長さんのようなアピール方法ですかねぇ。とにかく、
『今よりお得!』
『この話、乗っておかないと損ですよ~!』
『今なら○○の特典なんかも付けちゃって、お値段はリーズナブル!!』(……アレ?)

え~っと、まあこんな感じで『面白&お得感』を前面に押し出す形で、日本社会全体に猛烈に(かつ地道に←ここ重要)アピールを繰り返すのです。
こうして、全人口のうち、1%程度だけでも乗ってきてくれたら占めたもの。
『計画通り!』と某夜神月ばりの笑顔を内心に浮かべながら、さらなる人数獲得を目指していけば……。

と、ここまで自分の無い頭で考えてみましたが、いかがでしょうか?>キンピーさん

ちなみに僕自身やってみての感想は、
『カネはかかるし、賛同の前に恨みもたくさん買いそうだし、なによりドエライ時間もかかってメンドクサイ。これをやるくらいなら、今の体制をとりあえず維持しつつ、“ホントにヤバげな部分だけ”ちょっとずつ直していく方がいいや。』
……てな感じになりました。こんな僕にキンピーさんが『バーカバーカ、このナマケモノが!』などと思われても、仰る通りなので反論はできません。(汗)

長文&馬鹿文、大変失礼しました。

追記:文中「僕自身やってみて」とは「ここまで考えて(書いて)みて」という意味です。一応念のため。
あ、あと上記に掲げた『理想社会』が『幸福な社会』かどうかは、また別に考えなくてはいけないでしょうね。

さらに追記:タイトルと、若干文章変更します。これって『自由な社会』じゃなくて『理想的な日本社会』を作るための方法論ですね……。大変失礼しました。

  • 2010/07/19(月) 14:41:25 |
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  • 吉田 五郎太 #OAxxUYaQ
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>「国旗=国家」などという認識は成り立ちません。
誰もそんなこと言ってませんよ。言い出しっぺあなたのお説ですか?

>信を置かなければならないのは自分の認識ではなく
すると自分の信頼していないことについて、「言葉の意味ついて」信をおきつつ人に
>学習しなおすことをお勧めします。
わけですね。全然意味不明です。なにをどうやって議論するようおっしゃているのでしょう?

>日本国憲法には最大の公である国家が「思想信仰の自由」を認めると書かれているわけですから、「公だから国旗掲揚・国家斉唱」という理由がそもそも成り立ちません。
これも皆さんが繰り返し説明されているのですが、キンピーさんには少しもほかの人の仰ることを受けとめた上で返答することをせず、シュプレヒコールのように同じ言葉を繰り返しているだけです。自分で信じていないことを、意味もわからず繰り返し言っておられるのでしょうか?
理由がそもそも成り立たない理由が私には理解できないので、どうして理由が成り立たないのかご説明いただけますか?

>そもそも憲法とは何のために書かれたのかをすっかり忘れてしまっている議論です。
それでは何のために書かれたのか、何をすっかり忘れているのかご説明お願いただけますか?

>動的平衡については福岡伸一氏の著書で、たいへん読みやすいものが出版されていますので、参考にするならばそちらの方をお勧めいたします。
私にはキンピーさんが何のお話をされているのかさっぱり理解できませんので、ご自分の中に信がなくとも言葉に信を置かれるキンピーさんが、他人の著作を丸投げするのでなく、ちゃんとご自身の言葉でご自分のおっしゃっていることを理解されていることをお示しいただけるよう、簡単に要約して説明して頂けますか?そうでないと議論できないと思うのですが。

論は言葉と言葉のつながりであることは確かですが、信を置かなければならないのは自分の認識ではなく「言葉の意味ついて」ですね。
ですから「国旗=国家」などという認識は成り立ちません。
このことが理解できないのであれば、ハイデッガーやフッサールから学習しなおすことをお勧めします。

さて国旗国歌をめぐる裁判ですが、判決は一定ではありませんね。
もちろん東京地裁判決のように、思想信仰の自由に踏み込んだ判決もあります。
つまり現在の先進国は中国や北朝鮮のような後れた国家観ではなく、多様性を認める国家観でありますし、日本国憲法には最大の公である国家が「思想信仰の自由」を認めると書かれているわけですから、「公だから国旗掲揚・国家斉唱」という理由がそもそも成り立ちません。
ま、憲法の一文を抜き取って自分勝手な解釈をつているわけですが、そもそも憲法とは何のために書かれたのかをすっかり忘れてしまっている議論です。
「木を見て森を見ず」とはこのことですね。

最後に動的平衡については福岡伸一氏の著書で、たいへん読みやすいものが出版されていますので、参考にするならばそちらの方をお勧めいたします。

  • 2010/07/19(月) 12:00:59 |
  • URL |
  • キンピー #-
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「動的平衡」なんて小難しい言葉を使えば

 それで「レベルの高い議論をしている俺って賢いだろう」と勘違いしている方がいらっしゃいますが、「動的平衡」というのは本来物理用語で、他の意味で使うときは「定常状態(一定して変わっていない)」という意味で使うらしいです(Wikiより)。
 国旗・国歌問題でこの用語を使うと言うことは「この問題で国旗・国歌を強制する側とそれに反対する側との論争はずっと続いている」ということになりますが、よくもまあここまで妄想を書けるのかと感心します。自国の国旗・国歌にけちを付けて挙句の果てには焼いてしまう、こういう道義にも反したクレージーな所業が延々と続いている、なんて話を他国の例として聞いたこともありませんし、日本でも両者の対立が続いている、など妄想もいいところです。まあカルト信者によくある「思い込み」って奴ですね。「俺たちのやってることは正しいから昔から同じ事が行われているはずだ。そしてこれからも続くだろう」って。常識外れの行動を、さも半永久的に続く対立する思想の一方みたいに夢想する行為こそ道化ではないでしょうか?サイバトロンとデストロンの抗争じゃあるまいし。「変わっていない」と言うのなら、公の場で国旗・国歌反対とガナリ立てて、それが「正義」と思い込むその化石化した(浦島太郎的とも言うか)一般常識から隔絶した行動でしょうね。「王様は裸だ!」と言われても一向に気付かない(或いは気付きたくない)その道化ぶりは後世に伝えられるでしょう。
 
>自分は自分の言うことに信を置きませんと明言
 こういう矛盾したことをを平気で公言する人が
議論を吹っかけてあまつさえこの掲示板の常連さんを揶揄しているのですからなお更滑稽ですね(苦笑)。

  • 2010/07/19(月) 00:19:34 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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子供が屁理屈を覚えると

> 国旗国歌法の国会議論の中で罰則が入らなかった理由は、基本法に違反になるからであって近代国家にあっては当然の判断です。
 国旗国歌法が基本法に違反してるって?
 ここで言う基本法とは、思想信条の自由とか内心の自由の事でしょうね。

 あのね、二人以上の人間が共同で生活しようとすると、その生活の場を国と呼ぼうがキンピーさんの好きな共同体と呼ぼうが、必ず「公」と「私」って概念が必要になるんですよ。
 基本法ってのは、分かりやすく説明するなら、「公は私の領分を侵さないようにしようね」って事でしかないんです。
 だから、近代国家とやらの法律は、全て「公」の場での振る舞いを対象にしたものでしかないでしょう(私の範囲であれば殺人を妄想したとしても罪に問えないよね、当り前だけど)。
 国旗国歌に関する対立にしても、キンピーさんと反対の立場の人間は、「公」の場でのケースしか問題にしていないでしょ。

 キンピーさんの思想信条の自由の解釈だったなら、「医療の現場で、医師が、思想信条上の理由で、輸血が必要な患者への輸血拒否する」ことだってを容認しなければならなくなりますよ(有るよね、輸血を認めない宗教)。

 つまりはね、キンピーさん達の主張は、ただの我侭を「思想信条の自由」って言葉を使って押し通そうとしているだけなんですよ。ただの子供の我侭って事。最も「私」に近い共同体である「家族」の中であったなら、お尻を引っぱたいた後、押入れに閉じ込めて「反省しなさい!」って一喝して終わりのレベルの話。
 反日サヨク教師達は、「家族」でくくるわけにはいかない位置に立つ人間だから、しょうがない、大人への対応をするって事で、目に余るようなら懲戒の対象になるわけさ。これは、思想信条の自由への侵害とは言わないよ。我侭を排除することは人間の集団において、人権を守るために必要な措置だからね。

 自分の思い通りにならない社会は「悪」って認識しか持てないキンピーさんには理解できないだろうけど、我侭ってのは、どんな人間の集団でも拒否されるんだよ。国旗国歌法が無事成立したのは、その表れって事だね。

  • 2010/07/18(日) 00:56:43 |
  • URL |
  • ダイス #vIABNzxU
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横から失礼します

>>国旗は国家であり国民の象徴。
>「国旗は国家であり」という文章は、そもそもおかしいですね。

 おかしくはないですよ。キンピーさんの解釈がおかしいのです。

>思想信仰上、嫌だと言ってるものを強制はできない。それだけです。

 それでは、教師の指導に従って授業を受けるのは思想上受け入れられないとする生徒は、国語の授業中に校庭に出てサッカーをしたりしてよろしいのでしょうかね。そんなことを許していたら学校は成り立ちませんでしょう。
 個人の自由はそもそもその社会の中においては善意を持って行使されるべきだと思うのですがね。
 国旗・国歌は教育の場においては敬意を持って扱われるべきだと思いますよ。教育の場での式典において国旗掲揚・国歌斉唱を行うことは人倫に反することでも憲法に違反することでもありませんよ。反日の丸・君が代教師たちは大人の対応をすべきです。それが出来ないなら、その職場を辞するべきです。辞めさせるべきです。
 ま、私はそれぞれの祖国に忠誠心を持つ在日韓国朝鮮人生徒であればその場で国歌を歌わなくても良いと思いますが、せめて起立をし国旗に注目はすべきでしょう。

  • 2010/07/17(土) 23:57:42 |
  • URL |
  • kyusedai #MkgAoDiE
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キンピー様へ
 この件を巡る裁判で、当該教員の行為の適法性ではなく、その人の思想信条の適法性が争われたようなケースがありますか。もしそんなケースがあれば支援いたします。

(7/18追記)
 重ねて申し上げますが、問題になっているのは行為の程度であって、思想信条ではありません。”当該行事において国歌を起立斉唱しないという行為自体が、その人の思想信条の表明だから、起立斉唱を強制することはその人の思想信条を犯したことになる”という意見もあるようですが、それは人間の「外面的行為」を規制することによって社会の秩序を維持しようとする法治主義の考え方を危うくするものです。つまり、この件で問題になっているのは、あくまで外面的行為の適法性なのです。

 かって、国旗国歌法が制定される以前は、それが法的強制力をもっていないという理由で、国旗国歌の掲揚斉唱させないことが職員より校長に「強制」され、児童生徒にもそうした指導がなされました。そのため、それが法制化され、その結果、この問題は終熄することになったのです。現在問題になっている東京都の場合は「起立斉唱しない」という程度で、それもごく少数です。この場合、現在の東京都の対応が正しいか?率直に言って私は疑問に思っています。

 というのは、本来は、こうした民族や国家を大切に思う心情の育成はこうした法的な外面的強制によって可能になるものではないと思うからです。それは親から子へと民族の歴史伝統文化を学び伝えていく中で育成されていくものです。そうした伝統を日々新たに発展・継承する努力によってようやく維持されるものです。その意味では、かってのような政治的イデオロギーに基づく日の丸君が代反対運動が終熄した今日、この問題の真の解決をめざすためには、本道に戻ることが大切なのではないいか、私はそのように考えているのです。日本はそれのできる国柄だと思っていますので。

  • 2010/07/17(土) 23:29:59 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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アジとデマ

議論は言葉に言葉を重ねて積み上げてゆくものですが、その前提となる言葉に信を置かないと成立しません。

キンピーさんは自ら自分は自分の言うことに信を置きませんと明言されましたから、その時点で議論も対話も成立しないことになりました。

これ以上何を言っても無駄ではないですか?

tikurin さん

私は強制になるような国旗国歌法案は憲法違反になるからできないと言ったまでですよ。
そしてその後に続く貴方の文章は前提が間違っていますね。
裁判官によっては内心の問題に踏み込んだ判決もあります。
ですからその都度争うしかありません。

yuichさん

「主権在民である」以上、「国旗は国家であり」国民の象徴。
「以上」は「だから」あるいは「であるから」という言葉に置き換えることができますが、そうしてみると意味不明な文章になっていることがお分かりでしょうか。
あと、「国旗は国家であり」という文章は、そもそもおかしいですね。
国旗=国家であると仰っているわけですが、国旗は国を表す旗でしかありませんが、国家にはさまざまな機能があるといわれています。
国旗にはそれが無い。
また存在論からみると、国旗と国家はまるで違う。

それにしても一知半解さんのブログには摩訶不思議な人たちが集まるのですね。

  • 2010/07/17(土) 19:03:13 |
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  • キンピー #-
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裁判で問われるのは外面的行為のみ

キンピー様へ
>職務命令と憲法の間に矛盾がある場合、公務員としてどちらを選ぶのか?という問題ですが、白黒つけたいのであれば「その都度 裁判してください。」としか言えませんね。

この問題を裁判沙汰にしているのはどちらでしょう?

>下位の法だから「守らなくてもいい」ではなく、憲法に矛盾するような法律はそもそも作れないということです。

問題になっているのは国旗国歌法ですが、この法律は「第1条 国旗は、日章旗とする。第2条 国歌は、君が代とする。」と規定しているだけですから、これが憲法違反になるわけがありません。

>学校現場で度々問題になる職務命令違反ですが、体系的に見て職務命令自体が憲法違反という判断もできるし、思想信仰の自由を過小評価する裁判官もいるでしょう。だからその都度 裁判するしかないのです。

 で、裁判になっているわけですが、裁判で問題になるのは外面的行為だけで、その人の思想信条が問題になるわけではありません。ということは、裁判に訴えている人たちの目的は、件の公的行事における日の丸君が代の掲示斉唱について、その行事の主催者側にある職員にどれだけそれについて反対の外面的意思表示ができるか、ということを争っていることになります。これ、誰が見ても変ですよね。ところで、もともと彼等はこの問題を教育問題あるいは歴史認識の問題として提起したかったのではないですか。それを裁判に訴えたために、従来、国家統合の象徴として慣習的に扱われてきた日の丸君が代が国旗国歌として法定されることになり、その外面的行為の程度が争われることになったのです。ご苦労だとは思いますがあまり生産的とは思えませんね。
 つまり、この問題を教育問題として議論しようとするならば、この裁判とは切り離して論ずる必要があるのです。国旗国歌というのは国家の統合を象徴する意匠に過ぎませんし、それが戦争を引き起こしたわけでもありません。人間の思想が引き起こしたものです。そこで、その思想が問題になるわけですが、「日の丸」「君が代」に反対する人たちはまさか日本国家の統合に反対しているわけではなくて、その統合の理念に反対しているのでしょうから、結局、その歴史認識が問題となります。しかし、これは個人の思想信条の問題ですから、これを教育問題として論じる場合には、「国家統合の象徴としての国旗国歌」の意義は指導要領に則って教える。個人的歴史認識に基づく教化(インドクトリネーション)的教育は「中立法」に従って自制する、ということになります。
 そんな常識的な話にしかならないのですよ。すでにこの問題は。もちろん日本の国家統合に反対するのなら別ですが。

  • 2010/07/17(土) 17:21:10 |
  • URL |
  • tikurin #wQAHgryA
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国旗は天皇陛下ではない。主権在民である以上、国旗は国家であり国民の象徴。国民に選ばれた国会議員が国旗・国歌を否定して、何がおめでたいんだ。どこの国の…例え極右・極左政党の議員であっても国家に忠誠を誓う。日本だけだろう、国籍不明のこんなバカ議員が居る国は。君達も祖国に帰って、祖国の為に働きなさい!

  • 2010/07/17(土) 17:01:45 |
  • URL |
  • yuich #W.1RX.fE
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職務命令と憲法の間に矛盾がある場合、公務員としてどちらを選ぶのか?という問題ですが、白黒つけたいのであれば「その都度 裁判してください。」としか言えませんね。
後、下位の法だから「守らなくてもいい」ではなく、憲法に矛盾するような法律はそもそも作れないということです。
学校現場で度々問題になる職務命令違反ですが、体系的に見て職務命令自体が憲法違反という判断もできるし、思想信仰の自由を過小評価する裁判官もいるでしょう。
だからその都度 裁判するしかないのです。

っで、KYさん
動的平衡って言わなかったですかね?

  • 2010/07/17(土) 10:03:20 |
  • URL |
  • キンピー #-
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お気に入り

一知半解さま

君が代独唱のリンクどうもありがとうございました。
杜若さんやるな~ですね。

アカペラの歌声のすばらしく美しいのは言うまでもないんですが、オープン・スペースなのに音響がすごいすぐれモノですね。YouTubeなのに画質もいいし、こういう隅々まで神経が行き届いていて静謐な感じに、大変日本を感じます。

なんだかちょっと安心しました。

いろいろ好き勝手なこと言わせていただいてありがとうございました。
これからも山本七平の紹介を楽しみにしています。

「もうちょっと謙虚になりましょう」って?

 キンピーさんのコメントを拝見した時、コーヒーを噴きそうになりました。
 国旗国歌が気に入らないからと言って、規律しないだけでなく旗を引き摺り下ろしたり、斉唱の邪魔をしたり、校長をつるし上げて自殺に追い込む行為の何処が「謙虚」なのでしょう。そういうことは反対派の連中に言ってくださいよ(爆笑)。
 しかし相変わらずキンピーさんは人の質問や指摘を無視していますね。例えばどれだけ「法律に触れなければ何をしてもいいのか?道義的にはどうなのか?」と言う問いかけは完全にスルーですね。
 そのうち一方的な「勝利宣言」をして撤退するのも時間の問題でしょうか?

  • 2010/07/17(土) 00:09:55 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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キンピー様へ

 前コメントについて私見を申し上げます。 
>国旗国歌法は法律に過ぎず、9条や思想信仰の自由は基本法であるという違いがあります。

 法律は憲法の下位法だから守らなくていいということではないですよね。では国旗国歌法はどのように遵守さるべきか、それは地方公務員法の宣誓の規定や地教行法の服務規程によりますよ、といったのです。その上で、どのように、自分が、公立学校の入学式・卒業式等公的行事における国旗・国家の「取り扱い」において「反対行動」をとるべきかは、それによって起こるであろうストレスを予測しながら(法律に抵触するおそれがあるのですから当然です)自己責任で判断すべきものだ、といっているのです。

>国旗国歌法の国会議論の中で罰則が入らなかった理由は、基本法に違反になるからであって近代国家にあっては当然の判断です。

 国旗国歌法は「日の丸」「君が代」は「国旗」「国歌」であることを規定しているだけです。この法律に特別に罰則規定を設けることは不可能でしょう。だから、具体的には公務員の憲法・法律遵守の義務や職員の服務規程によって判断する他ないのです。その判断は職務命令権や服務監督権を持つ教育委員会や校長がやるわけで、状況を見ながらケースバイケースで判断するしかありません。

>思想信仰の自由を「他者を従わせる自由」にまで拡大解釈しているコメント・・・

 問題になっているのは、上記のような儀式で「国旗」の掲揚(示)や「国歌」の斉唱でどの程度の外面的に認識できる反対的行動がとれるかということです。思想信条を守るためには心の中で何を考えていてもいいわけで、口パクでもいいのです。それをあえて表に出すということは、自分の思想信条をそういう場で表明しているわけですから、当然上記の法律との適用調整を迫られます。いずれにしても、「思想信条の自由は憲法の規定だから(それに基づいた行為は〈7/18挿入〉)、他の法律の規定に優先する」ということにはなりません。そんなこと認めたら、一切の法律が無効になってしまいます。注意しなければならないのは、公立学校の教師は憲法下にある法律の規定に基づいて権力行使をする側の人なのです。従って、公務遂行中に私人に戻って無制限に自らの思想信条に則った自由な行動がとれるということにはなりません。 
 なお、君が代について違和感がある方もいると思います。ただ、憲法の第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と書いてある事も事実です。

>一方、日教組の言い分として、主なものに「日本帝国、及び軍部の過去の行い」が挙げられます。・・・(これは日教組の)認識論としては非常に強固です。・・・強制賛成派はすくなくとも「真理」とはいえない「観念的存在」を強制しようとしていることは自覚された方がよろしいかと思います。

 日教組のその認識が強固なことはわかりますが、強固だから正しいとはいえないし、謙虚であるべきとはみんなにいえることです。また、「国旗」「国歌」に賛成の人(強制賛成派ではない)の認識が曖昧だともいえません。つまり、人間はだれも「真理」には到達し得ないのだということを自覚して、自らの「観念的存在」を「真理」と見なして他に強制するようなことはしないで謙虚に議論することが大切なのです。

  • 2010/07/16(金) 23:48:34 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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コメントありがとうございます。

コメントいただいた皆様、こんばんは。
レスが遅れてすみません。

>キンピーさん

>ですので強制が続くのであれば不毛な争いも続きます。

ですから強制といっても、ダメなものもあれば、教育に必要不可欠な「強制」もあるのですよ。
キンピーさんは、そうした違いもまったく無視して、乱暴に「強制」=「悪」と決め付けてしまっている。

何度となく「強制も時には必要だ」と指摘させていただいているのですが、お分かりいただけないのか、故意に無視しているか、いずれかはわかりませんが、この点から逃げておられるのは残念ですね。

>あなた方が主張しているのは、この日本も「中国や北朝鮮のように近代国家になりきれない国のようになれ」と言っているにすぎません。

それは物凄い悪意のこもった”誤解”ですね。
これこそ、まさに「軍靴が聞こえる…式」の”被害妄想”に基づく主張と言えるでしょう。

そもそも、教育現場以外で、公権力によって、日の丸君が代が強制された例がありますか?

私が知る限り、ありません。

そうした寛容な日本社会を、中国や北朝鮮になぞらえるとは、冗談にも程があります。

>ま、みんなで気持ちよく歌いたいのであれば合意形成の努力をしてください。

「合意形成の努力」ねぇ…。
まったく妥協するつもりのない人とどうやって「合意形成」しろというのでしょう?

「不可能な要求を突きつけておいて、努力が足らん」とは、日頃「対話」を唱えることが大好きな左翼らしからぬ”言動”ですね。
そういうところが、常識が無いというか、マナーを知らないというか、独善的というか…。

だから、幾ら運動しようが主張しようが、一般市民から支持されないし、嫌われてしまうのです。
左翼の側こそ、謙虚になる必要があるのではないでしょうか。


>ダイスさん

>それでも、現行憲法の中核をなす条文なのだから「教える」こと自体は、やむをえない、と思っていたけど、立法化された日の丸・君が代に何が何でも反対する姿勢を見ると、「ならば」と思ってしまう。

そう思いたくもなりますよね~。
でも、彼ら左翼は、自らの主張に関してはツユほども「押し付け」だとは思っていませんよ。

左翼の特徴として、「自他共に同じ基準で律することができない」傾向が非常に強いですが、彼ら左翼は、自らの主張は「押し付け」ではなくて「絶対的な真理」だと思い込んでますから。


>ap_09さん

リンク先のyoutube拝見しました。

お礼に、私も以前杜若さんに教えていただいたお気に入りの君が代のリンク↓を貼っておきます。

・国歌独唱/第82回選抜高校野球大会
http://www.youtube.com/watch?v=_ORh8TKxsMU

>国に誇りを持ち、国民が一致団結することの確認を公の儀式の場で行うという考えが危険だと、いう発想そのものが、敗戦を引きずった属国、奴隷根性の証じゃないですかね?

戦前の国家主義に苦しめられた戦中世代なら、ある意味、やむをえない現象かと思いますが、まったく戦争を知らない世代が”羹に懲りて膾を吹く”的拒否反応を示していることこそ、「反省という語はあっても反省力なきこと」を表れではないかと思います。

日本を破滅に追いやったのは、日の丸君が代という”符牒”ではないのに…。

「日本人の思考・行動様式そのものに破滅の一因があるのでは…」と考えることもせず、ただ単に日の丸君が代をスケープゴートとして排斥することが、すなわち反省だと思っているその幼児的思い込みには、いい加減辟易します。

憲法9条は、そんな彼らには格好の”目くらまし”なのかも知れません。
アメリカ様より授かった憲法に、何の疑問も抱かず後生大事にありがたがっている護憲派こそ、属国奴隷根性の持ち主と言えるのではないでしょうか。


>tikurinさん

コメントありがとうございます。
「みどりの山河」のご紹介ありがとうございました。
初めて聴きましたが、やっぱりなんか有難味というか、荘厳さというか、欠けている印象がしました。

それはさておき、甘えているというご指摘ごもっともです。
安全な場所に居て、反抗することぐらい甘ったれな行為はありません。

吉田五郎太さんから教えていただいた阿川弘之氏の言葉↓が、彼らにはピッタリです。

『糧道を絶たれる心配の無い抵抗なんて、抵抗ごっこですよ。』

  • 2010/07/16(金) 23:37:17 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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キンピーさん

>国旗国歌法の国会議論の中で罰則が入らなかった理由は、基本法に違反になるからであって近代国家にあっては当然の判断です。

刑事・民事上の罰則がないからといって、法律・職務規定に従うと宣誓して職業についておきながら、自分の好みでその誓いを無視して税金で賃金をもらい、自分の嗜好を子供たちに勧めるのが権利なんですか?

知性、思想、国籍云々以前に、あなたは「人間」としてどういう方なのですか?

そのような考えの人が教師として子供達を指導することが好ましい(まさか正しいとは言えませんよね)とお考えなのですか?

“法律・職務規定に従うと宣誓して職業についておきながら、自分の好みでその誓いを無視して税金で賃金をもら”うような人たちは、表向き合意してもその言は信用できませんから、こうした人たちの「合意形成の努力を」するためには、どうしたらいいのでしょうね?

刑罰の適用という、強制力しか残されていないとは言えませんか?

あなたの主張は強姦殺人魔のサイコパスに、話し合いで社会規範に「合意形成の努力をしろ」と主張するのと同義です。

サイコパスは生物学的にそのように行動するべく生まれつきプログラムされていますので、話し合いによりその行動をやめる合意は永遠に形成されません。治癒不能です。

虎にむかってロバになれというぐらい無茶(虎に対してはむしろ残酷)なことです。

サイコパスは、一般社会から強制的に隔離するしかないのです。

ご指摘の「合意形成の努力をしろ」とはそのような努力をせよとの意味でしょうか?

「日の丸・君が代は国旗国歌法で定められた国旗国歌である。」
「憲法とは国家の基本法であり理念である。9条は日本国憲法の核を成すものである。」
「憲法とは国家の基本法であり理念である。思想信仰の自由を含む基本的人権の尊重は日本国憲法の核を成すものである」
これらを教育現場で教えることは何も問題ありません。
しかし国旗国歌法は法律に過ぎず、9条や思想信仰の自由は基本法であるという違いがあります。
国旗国歌法の国会議論の中で罰則が入らなかった理由は、基本法に違反になるからであって近代国家にあっては当然の判断です。
国会においても行政府の長がバランスのとれた答弁をしておりますので、私から長々と説明する必要も無いかと。
「「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」

っで、思想信仰の自由を「他者を従わせる自由」にまで拡大解釈しているコメントが見受けられますが、それは権利と権利がぶつかり合いますので、そのような自由はそもそも成り立ちません。
よって「みんなで歌いたい」権利(そんなものありませんが)を主張されるのであれば、前々からご指摘させていただいているように「合意形成の努力をしろ」と言っているわけです。

あと歴史観の問題が出ましたが、歴史観というより認識論でしょうね。
特に君が代については「かぐや姫」の物語と同じく、客観的時間・客観的空間から派生したものではありませんので、その物語にアイデンティティを求められない人がいたとして不思議ではありませんし、「物語自体が嫌いだ」といわれればどうしようもありませんね。
一方、日教組の言い分として、主なものに「日本帝国、及び軍部の過去の行い」が挙げられます。
これは過去をどのように評価しようが、客観的時間・客観的空間から派生したものですので、認識論としては非常に強固です。
よって反対する立場よりも賛成する立場の方が曖昧であって、「なぜ?」と問うならば賛成派の認識を問わなければなりません。
ちなみに「曖昧であるから無意味だ」などと形式的なことを言っているのではありませんが、強制賛成派はすくなくとも「真理」とはいえない「観念的存在」を強制しようとしていることは自覚された方がよろしいかと思います。
分かりやすくいうと「もうちょっと謙虚になりましょう」ということです。

  • 2010/07/16(金) 21:06:25 |
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  • キンピー #-
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日の丸君が代論争について

「日の丸」「君が代」をめぐる問題は、公立学校の教員が入学式や卒業式等の学校の公式儀式において、「日の丸」の掲揚(示)に反対したり、「君が代」の起立斉唱をしなかったりしたことから起こった問題です。また、児童生徒にそれを国旗、国歌として教えることを拒否する、といった問題も起こっていました。

そうした運動を推進する側の主張として、「君が代」「日の丸」を国旗国歌とする法的根拠がないということがいわれたので、平成11年に「国旗及び国歌に関する法律」が制定され「日の丸」「君が代」は法律上「国旗」「国歌」と規定されたのです。

いうまでもなく公務員の場合とりわけ公立学校の教職員の場合は、「その職務を遂行するに当たって、法令、当該市町村の条例及び規則並びに当該市町村の定める教育委員会規則及び規程に従い、かつ、市町村委員会その他職務上の上司の命令に忠実に従わなければならない」(『地方教育行政の組織及び運営に関する法律第43条』)とされています。

 また、「憲法の尊重、擁護、及び公務の民主的かつ能率的運営にしするための全体の奉仕者として誠実かつ公正な職務の執行を誓う」という「宣誓」をその身分の属する地方自治体の住民に対して行っています(日本ではこの宣誓は住民に対して、となっていますが、アメリカでは神に対して行われるものです。それだけの重さを持っているということです)。

 このような法的関係においてもなお冒頭のような行為を自らの思想信条の自由を理由にとる教職員もいますが、それは東京でも200人程度で全国的にはこの問題に伴う混乱はほぼ終熄したといえると思います。

 ただ、こうした運動の背景となってきた日本という国家のディグニティーに関わる「歴史認識」の問題はいまなお混迷の中にあるといえます。これは国民一人一人の歴史観の問題であるわけですが、日本国民として求められる基本的態度は、日本民族あるいは国民としての歴史において正しかったことも間違ったことも当然あるわけで、それをトータルに自らの問題として引き受け、それをどう修正あるいは発展・継承していくか、その方法論においてお互いに議論すべきだということです。

 ap_09さんの言われるように、外国から日本を見ればこんな平和で安全で親切で自由にものがいえる社会はない(あえて言っておきますがこれは戦後の人間だけの功ではありません)わけで、またそうだからこそそうした秩序の維持に果たしている国家の役割も見えなくなっているわけで、私は、今、日本のディグニティーを汚すようなことを言っている人たちも、アメリカに移住建国したピューリタンのような行為に出る人は一人もいないわけですから、まあ、本気にしない方がいいと思っています。

 あえていえば、甘えているのですよ。子どものように”誰もおれを生んでくれとは頼まなかった!”なんて・・・。それにしても、ある時代に生まれ合わせて、一つしかない自分の命を国家あるいは民族の生存のために捧げなければならなくなった、多くの人たちのことを思うと、自分の責任の重さということを思わざるを得ませんね。

 ところで、日教組は戦後「君が代」に代わる新しい国民かとして「みどりの山河」を普及させようとして、児童生徒にも謳わせたのですが、結局定着しませんでした。その歌は次のような歌です。http://bunbun.boo.jp/okera/mawa/midori_sanga.htm
時代の雰囲気がわかりますね。(「山本七平学のすすめ」談話室より転載)

  • 2010/07/16(金) 18:33:21 |
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  • tikurin #wQAHgryA
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そうだそうだ

権利の話なら、一度きいてみたいと思ってました。
国歌と国旗をに敬意を払って、日本と日本の人たちに感謝、すばらしい国の国民であることあることをお互い確認して誇りに思うという権利は認めてもらえないんでしょうか。
アメリカみたいに小さな政府で、弱肉強食で、格差社会で、人種民族のサラダで、個人主義・利己主義でも、みんなでこうして集まって、同じ国の国民として、国に敬意をはらい、一体感を共有して感動できるっていうのは、素直にうらやましいです、私は。
なぜ日本ではそちらの主張をする権利の方は認められないんでしょうね?

http://www.youtube.com/watch?v=wupsPg5H6aE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=lEdctv_bdDk&feature=related
国に誇りを持ち、国民が一致団結することの確認を公の儀式の場で行うという考えが危険だと、いう発想そのものが、敗戦を引きずった属国、奴隷根性の証じゃないですかね?

「押し付け」が、常に悪いと言うのなら…

 「押し付け」が、常に悪いと言うのなら、ぜひとも『憲法9条』の押し付けも止めていただきたい。日の丸・君が代に反対する人は、ほぼ100%9条護憲な人だしね、当然できるよね。

 学校で、「平和教育」と詐称して『何が何でも日本が悪い! だから日本は賠償する必要のない特亜に金を払わなければならない。外国に領土を侵されても黙っていなければならない。原爆投下や都市無差別爆撃を許容しなければならない。』って価値観を押し付けないでいただきたい。
 憲法9条こそ、それらの『何が何でも日本が悪い!』のシンボルであり、諸悪の根源!

 それでも、現行憲法の中核をなす条文なのだから「教える」こと自体は、やむをえない、と思っていたけど、立法化された日の丸・君が代に何が何でも反対する姿勢を見ると、「ならば」と思ってしまう。

 えぇ、「押し付けだから悪い」って理屈を拝借して、『学校で、憲法9条を教えるな!』

>一知半解さん
 ってなもんでどうですかね? 一知半解さんが言いたい事を表していると思うんですけどね。

  • 2010/07/16(金) 00:50:47 |
  • URL |
  • ダイス #vIABNzxU
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南溟さん、一知半解さん

近代国家形成期にはマイノリティの排除や「押し付け」というものが行われましたが、しかしそれでは争いが絶えないわけで、現在の先進国では多様性を認めるということに落ち着いています。
ですので強制が続くのであれば不毛な争いも続きます。
動的平衡といえばご理解いただけるでしょうか。
あるいは途上国の内紛を見ればご理解いただけるでしょうか。
あなた方が主張しているのは、この日本も「中国や北朝鮮のように近代国家になりきれない国のようになれ」と言っているにすぎません。
ま、みんなで気持ちよく歌いたいのであれば合意形成の努力をしてください。

  • 2010/07/15(木) 10:30:45 |
  • URL |
  • キンピー #-
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横から質問。

>キンピーさん

「人の嫌がることを強制するな」というのが、反日の丸・君が代派の決り文句ですね。しかしそういう人って、どんな星の下に生れ、どんな人に出会い、どんな人生を歩んで何をやってきたのか知りませんが、今まで「人の嫌がること」を人に強制されたことも、したこともないんでしょうかね。私はこういう人こそ、人間や社会、おのれ自身の人生にしっかり目を向けているのだろうかと疑問を感じるのですが。
たしかに、反日の丸・君が代派は今の日本の中ではマイノリティかもしれません。たしかにマイノリティへのいわれなき差別や偏見・抑圧をなくそうというのはもっともですが、そのためにはマイノリティの側もマジョリティと協調しようという姿勢が必要だと思いますが。「オレたちマイノリティはこんなに苦しんできたんだ、だからオレたちの言うことを聞け」なんていう態度では、かえってマイノリティへの偏見を増幅させ、問題の解決を困難にするだけですね。

  • 2010/07/14(水) 22:46:55 |
  • URL |
  • 南溟 #-
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キンピーさんへ

キンピーさん
レスありがとうございます。

>思想信仰上、嫌だと言ってるものを強制はできない。それだけです。

それでは、まだ善悪の判断もロクに付かない子供に、大人同様の権利を認めるのですか?
それで果たして基礎教育が成り立つのでしょうか?

そうした「懸念」にどうお答えになるのか?
左翼の誰からも、この点に関するはっきりとしたご意見を伺えないのが残念です。

>価値観の違いがあったとしても必要な学力だと思われるものは授業で教える。
>国旗国歌は残念ながらそのような類の問題ではありません。


学校は学力”だけ”を育てる場ですか?
英語や数学などの知識を育てれば構わないものですか?

そうじゃないでしょう。
社会生活に必要な規範やルール・マナーも教える重要な「場」なのです。
単に学力だけでよいのなら、学校の存在意義はありません。塾に通わせれば済む話です。

キンピーさんが仰るように国旗国歌は学力という範疇には入りませんが、万国共通の国旗国歌に対する姿勢というものは、単に意味を教えるだけではなく、実地教育しておくことは重要です。
その後、共同体の一員として生きることになる子供達のためにもあらかじめ施しておく必要があります。

その上で、子供達に、共同体に対する自らの姿勢を考えさせれば良いのです。

価値観の強制は良くないというのは、教育の何たるかをまったくわかっていない暴論です。

教育に携わる教師が、そんなことすらわかっていない!
これでは、公教育が崩壊するのも当然でしょう。

  • 2010/07/14(水) 22:34:38 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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一知半解さん
思想信仰上、嫌だと言ってるものを強制はできない。それだけです。
価値観の違いがあったとしても必要な学力だと思われるものは授業で教える。
たとえば英語とか。
国旗国歌は残念ながらそのような類の問題ではありません。

KYさん
歌詞の解釈?お葬式の話でしょうか。ま、石原新太郎も同じ意見のようですけど。
それより「逆コース」って最近の教科書には載ってないのでしょうか。

  • 2010/07/14(水) 11:25:51 |
  • URL |
  • キンピー #-
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KYさん、キンピーさん、仮)山田さんへ

>KYさん

こんばんは。

>彼の言によれば「潰された」ということですが、根拠はちゃんとあるのでしょうか?

立ち位置が違うだけの話でしょうね。
本当に受け入れられるものなら、たとえ邪魔が入ろうと支持されるはずです。
「新しい日本の国歌」はそうした要素が無かったから、消えただけの話でしょう。
それが、キンピーさんには「潰された」ように見えるだけではないでしょうか。

>キンピーさん

>その質問にも既に答えておりますし、みっともないからお止めになられてはいかがでしょうか。

最初のコメント↓をよくよく読み返してみたのですが、やっぱり、キンピーさんの考えがよくわからないのですよ。

>国旗国歌の法的な意味を教えることは、学校でも家庭でもできますし、全く問題無いと思います。
>しかし、行為に対してまで他者が強制すると思想信仰の自由への侵害となりますので却下。


結局、キンピーさんのお考えは「思想信仰の自由の前には、強制は許されない」ということで宜しいですか?

そうであるなら、やはり次のような疑問が湧くわけです。

そういう意見の持ち主は、教育に不可欠な「価値観の強制」が「思想信仰の自由」とぶつかる時、どうやって教育を成り立たせるつもりなのだろうか?という疑問がね。

それとも、そもそも「価値観の強制」が教育に不要であると考えているなら、どのように教育を成り立たせるおつもりなのか、伺いたいと思います。

また、思想信仰と呼べるものが備わっていない半人前の子供に、そうした(大人が持つべき)権利を与えることが果たして正しいのか否かという疑問も浮かんでまいりますが、そこら辺、キンピーさんはどのようにお考えなのでしょうか?

左翼の思考様式がどのように成り立っているのか、興味ありますので、宜しければ教えてください。

>仮)山田二郎さん

こんばんは。
参考事例をどうもありがとうございます。

そのような状態も異常ですし、思想信条の自由に絡めて騒動を起こすのも異常なのではないかと。

ごく当たり前に、共同体のシンボルに対して自然体で敬意を表することが出来るようになって欲しいものです。

それが、精神的に戦後状態から脱却するということなのかも知れません。

  • 2010/07/13(火) 22:50:02 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
  • [編集]

参考までに、

私の通っていた小中学校では、「君が代」は天皇賛美だとかの説明はあったが、「君が代」を歌えるようには教えてはくれませんでしたよ。授業では1回テープを流してくれただけ、卒業式などでは、国歌斉唱とは言われるけど、歌うようには誰一人いわれなかったり…(実は、高校までは国歌斉唱ってのは「立って聞く事」だと本気で思っていたんだよね。)v-12
ちなみに現在、我が出身小中学校は、学級崩壊などの問題で、まともな稼ぎのある親御さん方は、通わせてなかったりするんだな。v-40

  • 2010/07/13(火) 21:07:33 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #JalddpaA
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「逆コース」懐かしい響きですね

 それで、キンピーさんは自分の「脳内想像」だけを証拠に「新国歌を潰す動きがあった」と騒いでいるだけなんでしょ?それを「歴史的事実」って誇大妄想もいい所ですね(冷笑)。お玉おばさんの掲示板を見ましたが、「君が代」の歌詞についてヤクザも顔負けの妄想解釈には笑わせていただきました。「石」を「国民を道具扱いした表現(捨石?)」という解釈など、何処をどうひねればそんな発想が浮かぶのか、低脳な私には想像も付きません。
 >レベルが低すぎる
 「心を映す鏡」はないものでしょうか(爆笑)?
自分が書き込んだサイトで他の常連投稿者にぼこぼこに反論された挙句、勝手に「勝利宣言」してトンズラするパターンを「週刊オブイェクト」でも見ましたが、そのときは決まって「この板の連中はレベルが低い」とか「理解力が足りない」みたいな捨て台詞が吐かれるのが常でした。ソウル五輪の時のこととか、国立市での蛮行について触れてるのに、それらを無視されるってのは、「レベルが低い」からなんでしょうかね(再爆笑)?

  • 2010/07/13(火) 20:26:16 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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KYさん
>根拠はちゃんとあるのでしょうか?

逆コースは歴史的事実です。

一知半解さん

私は貴方の質問に答えただけですよ。
質問の趣旨を後退させて何のつもりなのか知りませんが、その質問にも既に答えておりますし、みっともないからお止めになられてはいかがでしょうか。

  • 2010/07/13(火) 10:41:05 |
  • URL |
  • キンピー #-
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追伸

 既に10年前のものですが、日本の国旗・国歌に対する敵意をむき出しにしたクレイジーな連中のサイトがあったので晒しておきます。広島でかつて国旗を揚げる、揚げないでアカ教師から吊るし上げを食った校長が自殺した事件がありましたが、そういう連中を擁護するのが正気だと思い込んでいるので取り付く島がないみたいです。
 言い方を変えれば10年もこんなクレージーな考えをネット上に晒しておいてよくもまあ恥ずかしく感じないのか、感心してしまいます。何かと言えば「民主的」を連発しているサイトですが、道徳観念の欠片もない連中が「民主主義」を言っても説得力ゼロですよ(苦笑)。

  • 2010/07/13(火) 02:56:25 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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お玉おばさんの掲示板で

 >一知半解さま
 キンピー氏が「新しい日本の国歌」を紹介していましたが、これって受け入れられずに「自然消滅」したと私は聞いていますが、彼の言によれば「潰された」ということですが、根拠はちゃんとあるのでしょうか?

  • 2010/07/13(火) 02:43:52 |
  • URL |
  • KY #mQop/nM.
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キンピーさん、KYさんへ

土日仕事で忙しく、レスが遅くなってすみません。

>キンピーさん

レスありがとうございます。

どうも話を逸らされている感がぬぐえないので、もう一度キンピーさんの根本的な認識を伺います。

教育に「価値観の強制や押し付け」は必要だと思いますか?思いませんか?

この点のキンピーさんの見解を伺いたいですね。

私自身は必要だと思うが故に、子供に対する「強制」に限って限定的に容認しているだけなのです。

だから強制する立場に身を置くのは当然です。

教育が不要だとか、近代国家の体制が不要だとかいうのであれば、キンピーさんの主張にはスジが通っていると思います(到底賛成できませんが)。

左翼というのは、個人の尊厳に最大限の価値を見いだす傾向が強いように思います。
一種のアナーキズムなんでしょうが、それを体現したいのであれば、無人島にでも行ってやればいいのです。
(それが出来るのであれば尊敬できますが、そういう左翼ほど、国家体制に依存し、かつタカる傾向が強い。今回の反対教師どもがよい見本ですね。公務員という強力な身分保障に守られながら、わがままをこく。)

近代国家体制の恩恵に浴しつつ、体制を敵視するのなら、おのずと節度が必要とされるはずですが、日の丸君が代を問題視する左翼にはその「慎み」がない。
(誤解を招かないようあらかじめ断っておきますが、体制に異論を言うなということではありませんよ。)

そうした慎みの無い人間によって、よい社会が築けるわけがないのです。
共同体に対して、尊敬の念を抱かない人間によって、よい共同体が出来るわけがないのです。

日の丸・君が代問題は、そういう人間をあぶりだすわかりやすいリトマス紙ですね。

そもそも、日本は、「恩恵には浴したい、けれど、好き勝手やらせろ!」ということにかなり寛容な社会です。

しかしながら、そんな寛容な社会でも、子供の教育にまでそんなわがままを通すことには、非寛容です。

それは考えてみれば当然なのです。
いずれ共同体の構成員となる子供に、共同体を貶めるような価値観を植えつけようとする試みに拒絶反応を起こすのは、当たり前のことです。

それを、キンピーさんのように、「一方の価値観の強制」と置き換え、そうした拒絶反応を起こすことが、あたかも”前近代的”のように言いくるめるのは、まさに典型的な左翼ならではのひとりよがりで独善的な言辞だと言えるでしょう。

お玉おばさん処のコメント欄を見て御覧なさい。
◆国歌は自由に歌いたい、国旗は自由に掲げたい3
http://potthi.blog107.fc2.com/blog-entry-876.html
左翼以外の疑問や突っ込みばかりでしたね。

それに対して、左翼の対応はというと、キンピーさんのように言葉でごまかすばかり。
挙句の果てには、批判に対して無応答・封殺という対応に出ざるを得なくなる。
(そういえば村野瀬玲奈氏とか、秋原葉月氏のような同じ意見を持つ側の人間ですら、自由闊達(とまでは疑問ですが)なコメント欄には投稿してきませんでしたね。お玉さんのような比較的身内に甘い土俵ですら乗ってこない。左翼が如何に内弁慶で対話力に欠けるか、これ一つ見てもわかります。)

左翼の方々には、自らの主張を叫ぶ前に、自らの態度を省みることをお勧めしたい。

幾らイイ事を言っても、その主張が認められるか否かは、とどのつまり、その人の行動に拠るのですよ。

残念ながら左翼はそうした処が根本的にダメだと思います。
だから支持されない。嫌われる。
まあ、いくら指摘しても聞く耳持たないでしょうけど。
それだからこそ、左翼でいられるのでしょうけどねぇ…。


>KYさん

私の言いたいことをコメントして頂き、ありがとうございます。
仰ることに頷くことばかりで、まさに「我が意を得たり」でございます。

  • 2010/07/12(月) 23:39:46 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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言葉遊びには飽きました

 >近代国家では「一方的価値観の押し付け」が禁止されている

 ほほお、では国旗・国歌に敬意をはらっている全ての国が「前近代国家」とでも言いたいのですか?こんな馬鹿げた詭弁で自国の国旗・国歌を貶めているところが他にあるでしょうか(爆笑)?むしろ国旗・国歌に敬意を払うことこそ「近代国家の常識」ではないでしょうか?
 普遍的な慣習や社会常識を「価値観」の名の下に相対化して貶めたがるその真意が理解できませんし、何より道徳的観念の欠如には呆れてものも言えません。前レスでも「国旗・国歌に対する敬意を否定する行動を海外で取ったらどうなるか」という指摘もスルーですか。
 まあそれ以上に問題をややこしくしているのが、生徒を出汁にしてイデオロギーを刷り込もうとしているクレージーな教師たちですが、彼らに対しては「子供にイデオロギーを(しかも嘘八百まで持ち出して)押し付けるな!」とか抗議はしないのですか?全く、日本の他に自国の国旗・国家を貶めて生徒に教えているクレージー教師のいる国があったら教えて欲しいもんです。

  • 2010/07/12(月) 22:00:05 |
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  • KY #mQop/nM.
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KYさん

私はマナーについても言及しています。
マナーは教えるべきだとも書いていますよ。
そして強制できない第一の理由は一知半解さん宛てのコメントにも書いていますが、一方の価値観の強制は「近代国家」では排除されているからです。
そうであるにも関わらず、一方から強制が行われようとするならば、それに対して反発が出るのは当然です。
ま、いろいろ不満はおありでしょうが、文句があるなら前近代国家にでも戻してから言ってください。

  • 2010/07/12(月) 21:21:06 |
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  • キンピー #-
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続き

 >思想上の理由があるのなら

 これも私が「その理由に正当性があるか否か」と言ってたのに、無視しましたね。大体世界的な常識である「国旗・国歌に対して敬意を払う」ことを思想・信条の問題にこじつけること自体無理がありますし、ましてや「戦時中の軍国主義を髣髴とさせる」というヤクザの因縁レベルの、それこそ一方的な思想を教育の場に持ち込むことこそ糾弾されるべきでしょう。
 キンピーさんのレスを読んでいると、「強制」や「罰則」という文言にこだわり過ぎて国旗・国歌を否定する人たちの「独善性」「や道徳観念の欠如」に気付いていないように思えます。
 「社会常識」「道徳観念」に欠ける人は、法的に罰せられなくても、「常識に欠ける奴」のレッテルを貼られて社会的に排除される、道徳的に罰せられる、と言うことを理解して欲しいものです。自国の国旗を引き摺り下ろしたり、国歌斉唱時に起立しなかったり、斉唱そのものを妨害する行為を他国の人々が見たらどういう反応を示すか、言わずともわかると思いますが(苦笑)。

  • 2010/07/12(月) 19:04:50 |
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  • KY #mQop/nM.
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罰則がなければ何をしてもいいのか?

 キンピーさん、レス有難うございます。
 早速失礼ながら申し上げますが、貴方は私のレスをちゃんと読んでいませんね?
 >歌おうが歌うまいが各自の自由
 というお定まりの「価値相対論」でごまかそうと言う魂胆が見え見えですが、こと国旗、国歌については自由云々を超越したそれこそ「マナー」の問題でしょう。キンピーさんは「(国旗掲揚の時に)起立しないこと、国歌斉唱しないことに対して罰則がない」事を理由に「歌おうが歌うまいが各自の自由」と仰っていますが、そこには道徳的観点がすっぽり欠落していますね。「法律にないのだから何をしてもいい」と言う考えがどれだけ無軌道な人間を育てるか、その危険性を全く考慮していないその脳天気さには頭が下がります。ソウル五輪のときだったか、スタジアムの観衆が(何処の国かは忘れましたが)国旗が掲揚され、国歌が流れていっせいに規律したのに、日本から修学旅行に来た教師と生徒の一行だけがそれをしないので白眼視された、という逸話があります。大体自国の国旗や国歌に敬意を持たない教育をすること自体正気の沙汰ではないのに、そういう教育をした者、受けた者共に「それを国外でしたらどうなるか」という想定をしていなかったゆえに起きた喜劇でしょう。例え罰則がなくてもこの場合は道徳的な価値観から彼らは白眼視されたのです。
 それに「歌う、歌わないを強制するな」というカビの生えた価値相対論を振り回すのはもういい加減通用しませんよ。第一「歌うな」と実力行使をしてまで強制した例があるのに(国旗をポールから引き摺り下ろす、カセットテープを奪い取る)起立しない、だけに飽き足らない連中がこのようなことをして「掲揚や斉唱を強制するな」って正気なんでしょうか?国旗・国歌に敬意を払うと言う世界的な「マナー」を自覚することもなく、「双方の自由を守れ」と言いながらそちらの方は無視ですか?
(続く)

  • 2010/07/12(月) 18:51:36 |
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  • KY #mQop/nM.
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KYさん

一知半解さんは強制を問うているのですから、私は強制は出来ない(罰則が無いのですから)し、そんなものは各自の自由であると言っているのです。
そして君が代日の丸を好きな方も嫌いな方も自由に主張すれば良いんです。
ただし「歌え」とか「歌うな」とか、行為への強制は思想信仰の自由、良心の自由への侵害になりますので、この日本では認められませんよ、と当たり前のことを言っているだけです。
国旗国歌に対して起立することをマナーとして教えるのはかまわない。
いや、大人から子供へ教えてあげるべきでしょう。
しかしそのマナー違反を犯してまで、起立しないことに思想上の理由があるのであれば、責めることはできません。

  • 2010/07/12(月) 12:50:55 |
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  • キンピー #-
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反対する側の理由

 横レス失礼します。
 キンピーさんの言う「反対する側の理由」とは、この場合「国旗掲揚・国歌斉唱に反対するのは子供たちに思想・信条を押し付けるから」と言うことなのでしょうか?どんな事象にも反対の動きは付いて回りますが、ここで重要なのは「反対する理由が理にかなっているか否か」と思うのですが。勿論この場合、詭弁にも屁理屈にもならない与太話でしかないのですが。本スレでもあるように、もし本格的な「強制」ならば四六時中国旗・国歌を教え込まれることになりますが、実際は卒業式や運動会と言った限定的な「式典」の時に限られています。その時だけ「国旗を揚げましょう、国歌を歌いましょう」と教えるのを「思想・信条の自由の侵害」と主張するのは被害妄想が過ぎやしないでしょうか?
 あと「お互い相手の嫌がることはやめよう」ということですが、国旗掲揚・国歌斉唱を教える行為と、反日イデオロギーむき出しで、時には「平和教育」と称して偽写真や証言を持ち出してまで「日本=悪」と教える行為を同一視するのは無理があると思いますね。ましてや「日の丸は血と骨の象徴」と根拠のない珍説を元に国旗・国歌を否定する行為を同一視できますか?
 自国の旗や歌を否定することを教える、なんて狂った行為はそれこそ「左翼的な外国」だってやらないでしょうに。

  • 2010/07/11(日) 13:33:34 |
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  • KY #mQop/nM.
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一知半解さん

権利はオールマイティじゃないということですが当たり前です。
しかしそれをもって権利を排除する理由にはならないし、近代国家にあって逆に一方の価値観の押し付けこそ排除されております。
それと一般人云々が「当り屋」と仰いましたが、強制というものが一回限りのものであるならば、一知半解さんが仰りたいように一般人に対する強制にはならないでしょう。
しかし最初に書いたようにアプリオリ的な問題ではないのです。
今回の一知半解さんの反論は、まことに残念な言説のオンパレードで、これまた最初に書いたように「強制」の担保である罰則が無いのですから、合意の努力をしない限り解決しない問題でしょうね。

合意の努力の欠片も見えない一知半解さんの言葉にこそ、ご自信で批判の目を向けられるべきではないでしょうか。
貴方はなぜ強制する立場に身を置くのか?
まずそこからです。
そして「なぜ」を深めれば、接点が見えるかもしれませんし、ご自身の過ちに気づかれるのかもしれません。
少なくとも反対する側は、なぜ反対するのかを提示しているはずですけどね。

  • 2010/07/10(土) 11:38:07 |
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  • キンピー #-
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キンピーさんへ

キンピーさん、こちらでは初めまして。
なかなか当ブログに書き込んでくださる左翼の方がいない中、お越しいただきありがとうございます。
(どうも、左翼というのはとかく異論者との対話能力に欠ける人が多いのでしょうか?フルオープンにしてもなかなか書き込んでいただけないのであります。)

私が問題提起した「教育上の強制に過ぎない」との主張に、お玉さんのところでは誰も取り合ってもらえず、実に残念でなりませんでした。

まるで都合の悪い論点でもあるかのように用心深く誰も近づかず、ピント外れの主張をそれぞれが展開しているように見えてなりませんでした。

そこであのような問いを投げかけたわけですが、ようやくキンピーさんから初めてご意見をいただき、左翼の考え方の一端というものを伺うことが出来たのでありがたく思います。

それではさっそく頂いたご意見に対する私の反論を述べていきましょうか。

>国旗国歌の法的な意味を教えることは、学校でも家庭でもできますし、全く問題無いと思います。

う~ん、そうでしょうか?
可能性があれば問題ないというものでもないでしょう。
実際、ロクに教わらない子供もいますしね。

基本を身に付ける教育すら受けられないのは、永田先生が言うように「子供の成長する機会を奪っている」としか思えませんが…。

それに、意味を教えることだけではなく、国旗・国歌に対する接し方というものを、現実の場で子供に実地教育することが重要になるわけですが、キンピーさんはその点をまったく軽視されているせいか、何の配慮も考えてないようですね。

>しかし、行為に対してまで他者が強制すると思想信仰の自由への侵害となりますので却下。

あのですね、残念ながら思想信条の自由は、オールマイティじゃないんですよ。特に教育の場においてはね。
左翼はそれがまったくわかっていない。

そんな屁理屈を持ち出したら、教育は一切成り立たなくなりますな。
子供は、そういう”屁理屈”を小ずるく自ら都合の良いように援用しますから(まるで、左翼が自らに都合よく援用する様そのままですなぁ)。
そうした論理を振り回す日教組のおかげで、教育が崩壊するのも当然の帰結でしょう。

「守」段階の教育は、永田先生が言うように「価値観の押し付けと強制」が不可欠です。
キンピーさんのご意見は、教育の何たるかをまったくわかろうとしない極めて「自分さえ良ければ」的なご意見だと思いますよ。

>問1の続きで考えれると、子供も時間がたてば「一般市民」になりますので、強制になるでしょう。

強制が必要な子供に強制すると、大人への強制と見なされるわけですか?
子供と大人を同列に扱うとは、拡大解釈もここに極まれりですね。私から見れば、「当たり屋」の論理にしか見られません。

>日の丸が好きなら掲揚すれば良いし、嫌いならしなければ良い。

もちろん、一般の大人はそうであるべきですし、実際日本はそのような寛容な社会ですがなにか問題でもありますか?

>そしてお互い相手の嫌がることは止めましょうね。そういうレベルの問題です。

違います。
そんなレベルの問題ではありません。
事は、重要な子供の教育問題なのです。
子供の人間形成に、左翼の身勝手な論理を持ち込まないで頂きたいものです。

要は、自分の主張を通さんがために、子供を巻き込むのは止めろ!ということです。私が言いたいことは。

左翼は、そういう配慮がまったくなく非常にデリカシーに欠け傲慢だと思いますよ。
少しは、お玉おばさん処の左翼以外の反応を見てわかりませんか?
自らの傲慢さに対する反発すら感じ取ることができないのですかねぇ…。
(まあ、それが出来ていたら左翼なんか卒業しているだろうけれど(笑)。

>しかし合意無く公の場で「行為」に及んだ場合、一方からの強制になりますから混乱は避けられません。

子供への強制に、全員から合意を得る必要はありません。
その社会におけるスタンダードな価値観の強制は、教育上当然に必要とされることであって、合意を得る必要などどこにありますか?

そんなに自分の子供に歌わせたくなければ、ミッション系の私学に通わせれば済む話でしょうに。
どこまでわがままなんだか…。

>そしていまわざわざ出向いてコメントしにきたのは、単に暇だったからです(w

わざわざお手数掛けて申し訳ない。
今後も、暇な時で結構ですのでコメントいただけると嬉しいです。
宜しくどうぞ。

  • 2010/07/10(土) 00:47:31 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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問1.「守」という基礎段階の教育において、国歌・国旗に対する教育を強制することの是非について。

「強制することの是非」ですが。
国旗国歌の法的な意味を教えることは、学校でも家庭でもできますし、全く問題無いと思います。
しかし、行為に対してまで他者が強制すると思想信仰の自由への侵害となりますので却下。

問2.この問題は、一般市民に対する「強制」だと思いますか?思いませんか?

アプリオリ的な問題ではないわけで、設問のレベルが低すぎますね。
問1の続きで考えれると、子供も時間がたてば「一般市民」になりますので、強制になるでしょう。
まさか強制された子供が「一般市民」になった途端、日の丸・君が代が脳内から消えて無くなるわけではないでしょうし。


この問題は、君が代が好きな人は歌えば良いし、嫌いな人は歌わなければ良い。
日の丸が好きなら掲揚すれば良いし、嫌いならしなければ良い。
そしてお互い相手の嫌がることは止めましょうね。そういうレベルの問題です。
しかし合意無く公の場で「行為」に及んだ場合、一方からの強制になりますから混乱は避けられません。
気持ち良く公の場で掲揚・斉唱したいのであれば、『合意を得る努力をしましょう。』と、それだけのことですが、今は従わない者への担保である不敬罪もありませんし、合意を得るための努力を放棄し強制したのでは、いつまでたっても「空振り」は続くでしょうね。

ちなみになぜ某ブログで貴方の質問に答えなかったかというと、レベルが低すぎるorコメントを読めば分かる質問内容だったからです。
そしていまわざわざ出向いてコメントしにきたのは、単に暇だったからです(w

  • 2010/07/09(金) 21:32:52 |
  • URL |
  • キンピー #-
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スメラミコトさん、コメントの意味がわかりません。
何とも返事のしようがない。
意味不明なコメントには、回答できませんので以後ご承知おきください。

  • 2010/04/06(火) 22:35:09 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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狙撃依頼

管理人様。
こいつをちょっと土下座させてやってもらえませんか。
どうかお願いいたします

  • 2010/04/05(月) 01:50:21 |
  • URL |
  • スメラミコト #NqgXfLUo
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うろこさんへ

うろこさん、コメントどうもです。レスが遅くなって申し訳ない。

よく日の丸・君が代反対者に、あなたのような意見を見かけますが、揃って共通しているのは、「子供を育てる視点」というのが全く欠けていることですね。

要は反国家・反体制を気取ることばかり、気に掛けていて、まったく子供自身の教育問題ということに関心が無い。自らの権利を主張するばかりです。
そんな大人に育てられれば、その子供はろくな大人になれないでしょう。

私の尊敬する北大の永田教授がブログで素晴らしい事を書いています。
以下引用しておきますから、少しはこうした視点から考えてみたらいかが?

(~前略)

教育とは、人間形成です。

それは、守破離の段階を追って行われます。

「守」は学びの段階、「破」は洗練と創造の段階、「離」は独自の境地を構築する段階です。「守」をおろそかにしては、その後の「破」も「離」も達成不可能です。

「守」の段階で行われる教育は、基本的には、価値観の押付けと訓練の強制です。子供に対してこれをしっかりと提供してあげないということは、彼らが人生において「破」、「離」と成長していく権利を奪うことを意味します。

(後略~)


引用元:子供と人権(永田)
http://myhome.cururu.jp/camuispaceworks/blog/article/81001600510

  • 2009/07/11(土) 01:00:40 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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権力の横暴だと言うなら

勉強を強要する事は、教師の横暴に過ぎませんな。
働く事を強要する事は、会社の横暴に過ぎませんな。
他etc幾らでも出てきます。

ちなみに、上記みたいな事を暴力的に解決しようとせずに話し合いで解決しようとして、相手に開き直られてしまうと、周囲がひたすら迷惑を被る事になる。(学級崩壊や他人の仕事を押し付けられるなど)

  • 2009/07/09(木) 00:23:42 |
  • URL |
  • 仮)山田二郎 #-
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現実見たほうがいいんじゃない?
まともなら「解雇」はせんだろ?権力の横暴でしかないと思うよ。
よく、「教育の形」とか「国歌国旗掲揚は通例」とか言う人いるけど「誰が決めた教育の形」なのか「誰にとっての通例」なのかが、ごそっと抜けてるんだよね。
「正月に神社に参る?」
「ううん、行かない我が家の通例」
「私ん家は行くのが通例」
で、どっちかが正しい、間違っるって問題なの

  • 2009/07/08(水) 23:57:36 |
  • URL |
  • うろこ #qr7mm/lQ
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冥王星さんへ

【追記】

一応、冥王星さんの投稿内容は、私の携帯メールに保存されているので、コピペして再度UPすることができますが…。
どうしますか?ご指示ください。
よろしくお願いします。

  • 2009/02/25(水) 08:10:43 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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>国旗・国歌を尊重する価値観を強制される謂われはありません。

そんな難しい話ではありません。そこはこの記事でも書いたとおり「誤解」だと思う。

表面上は、国旗・国歌の強制とか、思想・信条の自由問題と受け取れるかもしれないが、この問題の本質は「躾け」の問題に過ぎないと思う。つまり、その場に応じたTPOをわきまえろという教育なんです。

TPOをわきまえろという価値観の強制になりますが、これは「式典時」だけの強制です。
いつも強制されているわけではないのですよ。

そうした教育としての「強制」すら許されないというのなら、世の中無秩序になってもおかしくないと思う。

無秩序の社会で生きていけますか?
冥王星さんは、アナーキストなのかもしれないし、それで生き抜いていける強い人間なのかもしれない。
ただ、世の中はそうした人間ばかりではない。

そんなに”短時間”の礼儀の強制すら嫌だというなら、こうした秩序だった社会の恩恵も受けるべきではないでしょう。こうした教師どもは、無人島にでも行って自活すべきなのが筋だと思うし、そうしてこそ、言行一致だと思いますが。

極論かもしれないが、一方で秩序の保護を受けながら、一方で平気で秩序を乱す連中に、思想・信条の自由を唱える資格があるとは到底思えない。

そうした点について、冥王星さんのコメントは正面から答えていないように思えてならない。
幾ら法だの定義だの持ち出して、それが出来ないうちは単なる感情論だ、と言われても納得できません。単に上手く言いくるめられているような気がしてなりません。
(もちろん、感情だけで論ずるな、というのはそのとおりだし、冥王星さんが、そうした感情過多で説明責任を負わない日本人の議論を許しがたく思っているのはわからなくもないですがね。)

日本の社会は、いささか狭量かもしれないが、現状はまったく許容範囲だと私は判断するし、それほど嫌悪すべき状況ではない。むろん、これは私個人の見解に過ぎませんが。

こうした社会が許せないのなら、自らの主張をマジョリティにする努力をするか、若しくはこうした社会で暮らすことを敢然と拒否すべきでしょう。いずれも出来ないなら、受忍すべき程度の事ではないでしょうか。
(そして、反対する教師達は、それのいづれも出来ていない)

>そんなものを基準にして教師を選ぶようならば、価値観の多様性を認めない親になるだけでしょう。
>結局はそういう価値観の教師を経験させた上で子供に判断させるべきであると思いますが・・・・


それはどうでしょうか?
私が保守的なのかもしれないが、やっぱり教育は「守・破・離」であるべきだと思う。
基本が出来てから、形を破ればいいわけで、今回の日の丸・君が代問題にしても、たった「式典時」の強制を子どもにしたからって、一概に多様性を認めない人間に育つわけではない。愛国者が育つわけでもない。礼儀がこなせればよいだけです。

そもそも、基本も出来ずに、応用が出来る人間がいるのでしょうか?
基本すら教えてもらいない人間に、価値観の多様性が養えるのでしょうか?

>そもそも、そういう教師がイヤなら、請願権で罷免すればいいじゃないですか?

それはいい考えですね。一つの方法を教えていただきありがとう。
私も、これから自分の子どもが通う学校にそんな教師がいたらそういう運動を起こすことにしましょう。

【追記】
冥王星さんから、『「日本の友好/世界の友好」~その違いとは?~』の記事について、コメントを頂いたはずだと思った(携帯にコメント投稿通知メールが入っているので間違いないはず)のですが、今パソコンでチェックしてみてもコメントがありません。ご自分で消去されたのならいいのですが…。ひょっとして私が間違って削除してしまったのでしょうか?もし、そうだとしたら申し訳ないv-421

  • 2009/02/24(火) 23:45:15 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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>>彼の言説の信用性を図るためにも、周知させる価値があると思ったからです。もっとも、詳しく説明を要請するならばやってもいいですよ。どうせ、具合の悪い事実から逃げるだjけでしょうから、議論になりませんが

 やれやれ。思い出しましたよ。
 田母神氏が、違法だ! と喚いていたわりには、どこの組織も彼を訴えてはいないのに、三権分立だのゴタクを述べていた冥王星氏だったかと。
 現実はどうですか? 都合の悪い現実は、あなたのほうでしょう。
 私が指摘したように、内閣は違法とは思っていないという声明は出していましたしね。
 司法だって、訴えられなければ動きませんよ。すなわち違法論なんて、とっくのとうに死滅しているんですよ。
 実際に、違法だと叫ぶための、法廷がご用意されていたのですか?
 ちなみに、反日教師たちは見事に法廷でご用意されておりますが。

 貴方は何が悪いのか分かってない人間の典型ですね。
 管理人さんが、荒れる原因になるから辞めてくださいとお願いしているのに、俺のブログに来てやればいい話でしょうがと。わざわざ忠告している。

 ちょうど、貴方の大好きな三権分立なる意見で、訴訟について見解を述べてもらいたいものですね。

http://srsa.jugem.jp/?eid=666

 本来、そこは管理人さん含めて、俺に謝罪すべきでしょう。
 まず、目的意図も
「俺の信用を貶める」
 ことが目的らしいしね。
 これで、
「荒らす意図がなかった」
 なんて、誰も思わないですよ。
 不特定多数に、俺の言説が間違っている必要性を感じるほうがおかしいのでね。
 俺の言説が間違っていると判断するのは不特定多数の人間であって、あるいは貴方のお仲間だけが、そう思えば良いだけの話で、貴方がワザワザ宣伝する必要性がない。
 間違っているのなら、多数の人が間違っていると判断するだけだ。

 以前、貴方と確か別の人が口論していて、そのときには、貴方のほうに理があって、相手の方が見苦しいといっていたけれど、今回のこの件に関しては、圧倒的に貴方は、そのときの相手と同じであることに気付いていない。

  • 2009/02/24(火) 20:07:50 |
  • URL |
  • sirokaze #-
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>お久しぶりです。コメントありがとうございます。
ブログ名称変更されたんですね。こちらのリンクも直しておきます。

お手数掛けます。26日にはブータン渡航しまして、ネパール難民問題でUNの金で視察させてもらいます。
 ちなみに、チベット民族のブータンでの内ゲバの報告をBBCにしますが・・・
 え?チベット人によってジェノサイドされたブータン少数民族の現実ですが何か?
多くの人が知らないチベット人による悲劇の話ですw

>強制に反対している教師に反論するのに冥王星さんの要求するレベルが果たして必要なのか疑問に思います。

簡単にいえば、「思想信条の自由の射程」の問題なのですが、その制限である公益性の問題について、明確な解決が行われていないのです。
 事実、この問題では、教育権の所在として最高裁判決でも明白な結論を見ていません。
(旭学力訴訟)

>そうなのかも知れませんが、家庭じゃ教えられない事柄だってあるわけですし…。

学習環境は学校・家庭・地域と広くあるべきだと思いますが、保護者が教育権を持っている以上は、国旗・国歌を尊重しない思想信条の自由は否定しきれません。その思想信条の自由は、公益性の射程であって、それを判断するのは司法です。
 問題は、教育権であって、場所ではありません。ちなみに、日本は義務教育規定からして、異常なのですから・・・・・

>厳密に言えば、私だってどうでもいいです。
ただ、通常必要とされる礼儀作法を教えられない、というより、それに反する行動をそそのかしたり、教育より、自らの政治的思想を優先する教師の存在には、黙ってられないだけですよ。

あくまでも、国旗・国歌を冒瀆する行為は勝手にすればいいと思います。その結果でどうなろうと知ったことではありません。
しかし、国旗・国歌を尊重する価値観を強制される謂われはありません。
国旗国歌法では、国旗・国歌が規定されただけで、尊重することを強制する規定はありません。司法では慣習として尊重することが一般化されていますが、それを反故にすることを違法とはしていないでしょう。

何度でもいいますが、国旗・国歌を尊重する看守は圧倒的多数ですが、それを尊重しない人間を排斥する活動は日本以外では見られません。
 現実、自国国旗を冒瀆したことを原因にして、罰せられた事例は知りません。
 そんなことを規定する必要性がないとも言えますが・・・
 ちなみに、いくらでも国旗・国歌を否定する人々を列記できます。そりゃ、井の中蛙の皆さんが知らないだけで、居ることは居るんですけどね。
 要は規定されているけど、罰することが明記されていないという類です。当然ですが、罪刑法定主義を採用している日本では、国旗国歌法だけでは罰することは不可能なのですが・・・まぁ、それを理解しない人もいるでしょうがw

>冥王星さんも、教職に携わっていられますけど、聖職に携わる人間として、彼らの行動をどう思われますか?「どーでもいい」で済む問題だと思われますか?

どうでもいいです。器物損壊に値する行動ならば公益性を明白に損ねていますが、個人として国旗国歌を尊重しない自由は認めるしかありません。
 それを教え子に強制することは違法でしょうが、それが強制であるという立証もできないで、「強制」だと述べている意見は説得力を感じません。
 たとえば、沖縄地上戦問題でもあったように「強制」という問題は、明確な定義を行って論じられるべきものでしょう。その強制の有無を明確化できない個人が「強制」「強制ではない」と論じているから、興味もないし、くだらないのです。
 例えば、私が、遅刻してきた教え子に、校庭2周を指示したとしましょう。それは体罰となりえますし、強制と言われるでしょう。
 しかし、それが強制というためには、私が教え子に無理強いしたことが要件になるでしょう。本人に罰則を受ける意思があって校庭2周したならば、強制とはならないはずでしょう。受け入れる前提があったのですから・・・
 この例えですら、強制の是非論の解決にはなりません。
 なにせ、「強制」という言葉の定義付けられないで恣意的に使っていることが多いから、納得できるものではないのです。
 昔、偽善者という言葉を多用した人にこう質問したことがあります。
 「君は私を偽善と述べたわけだが、それなら、本当の善を知った上で偽善と述べているのだろうね?真贋を述べる人間が真作を知らずに贋作を述べるような話ならば、取り合わないよ」
・・・・・このような話が多いのです。強制してない、強制である・・・のどちらにも当てはまる話ですが、「強制」を規定せずに、感情論で「強制」を論じるからこそ、齟齬が生まれるのです。
それを確認しないうちに、論争している時点で間抜けなのですが・・別にご自由に。
 少なくとも、感情論で政治を語ってそれが正しいと断定しなければご自由に・・・ですからw

>少なくとも、私は自分の子供をそういう教師に預けようとはとても思えません。

預けようとは思わないなら、預けないほうがいいと思います。
ただし、そんなものを基準にして教師を選ぶようならば、価値観の多様性を認めない親になるだけでしょう。
 結局はそういう価値観の教師を経験させた上で子供に判断させるべきであると思いますが・・・・
 ぶっちゃけ、画一的な価値観の教師だけで教わっても学習できませんけどねw
 それがいいならそれでいいと思いますし、そもそも、そういう教師がイヤなら、請願権で罷免すればいいじゃないですか?

 なんで、イヤならば罷免させようとしないんですか?
 なんのために、請願権をもっているんですか?

 冥王星からすれば、自分は何もしないで文句言ってるだけの愚痴こぼしとしか思えません。
 たとえば、某幕僚長などは、降格されたことに不満を持っているようですが、持論が正しいならば、メディアだけで弁明するだけではなく、司法で戦えばいいのです。
 それをしないで、正しいと自己規定して吠えているだけ・・・こんな国民は日本くらいですよ。
簡単にいえば、逃げているだけなんですよ。
なんのために、請願権があるんですか?公務員の罷免権を持っているにも関わらず、法律で罷免できないならば、法律上の規定で罷免させる努力をしないんですか?
 そういうのを口ばっかりと言えるのは理解できますか?
 例えば、冥王星は、移動図書館実現のために、地方議会の予算会議での市長答弁に対する質問書を何度も提示した上で、論にならない官僚に対して、請願権で罷免を要請したことがあります。要請して議会に図られる前に、予算が通りましたが・・・・・
 結局、批判するだけで問題解決の具体策を講じていない・・・という批判は可能でしょう。
 せっかく価値観を共通している人が集まっているんだから、請願権で気に食わない地方公務員を罷免したらいいがでしょうか?
 それとも、罷免権がないと思ってますか?

冥王星の根底にある批判は、他人任せの批判で口だけの批判で終わる姿勢にあります。
冥王星も愚痴ることがありますが、それに対するアプローチは数々行ってきましたし、自律的に活動しています。
 そういう部分では一緒にされたくありません。冥王星はここの皆さんよりも、多様性を認めるだけの度量がありますし、認めざるを得ない上で批判しているのですが・・・・せめて、言動一致していたいと思います。

>なぜ、ここで唐突にsirokazeさんを引き合いに出す必要があるのか疑問です。

せめて、sirokazeさんの主張を批難するに留めていただき、それ以上彼を攻撃したいのなら、本人のブログもしくはご自分のブログ上で行なっていただきたいと思います。

主張はごもっともですが、当人が返答しませんし・・なしのつぶてですから・・・
そもそも、sirokaze氏を引き合いに出す必要性があるのは、思考停止の典型例と間違いを認めない人間の一例としたまでです。
同時に、彼の言説の信用性を図るためにも、周知させる価値があると思ったからです。もっとも、詳しく説明を要請するならばやってもいいですよ。どうせ、具合の悪い事実から逃げるだjけでしょうから、議論になりませんが

>前にも言いましたが、私本人への批難なら幾らでも書いてもらって結構ですが、第三者を批難するのは控えて欲しいと思います。荒れる原因になりますので。

残念ながら非難の意図はありません。単なる事実の周知です。
例えば、特定の人物が無責任な言動をしていたとして、それを批判するのが問題ならば、それは表現の自由の静止でしょう。
 特段非難として不当とは思いませんが、管理人の意思を尊重するとしましょう。
 管理人権限であるこのスペースである以上は、従うのが道理である一方、批判に妥当性が感じられますから・・・・・

  • 2009/02/23(月) 16:22:35 |
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  • 冥王星 #-
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国会答弁さんへ

ちょっと誤解されているので、指摘しておきましょう。

>問題になっている、公務員はこの際置いておいて、公務員でない人に歌わせることはできないし、非難するのもおかしいと思います。
それとも、国会答弁では嘘をついてもいいとでも思っているんですかね。それを許容するなら、それこそ野蛮以外なにものでもないでしょうねww。

基本的に、国旗・国歌問題の本質は価値観の違いであって、相互尊重でしょう。自由主義社会の価値観として、自由権を相互に理解すれば、この問題は消滅するでしょう。
 簡単にいえば、相互不干渉であればいいのです。
それは両者に必要なことであって、強制する側、強制に反発する側の両者にあるといえるでしょう。
 次に、国会答弁における内閣答弁(行政側の答弁)は法的拘束性はありません。政治的拘束性は見出せますが、法を統制するのは、司法であって、国会答弁は立法経緯における趣旨にあります。
 つまり、国会答弁は立法経緯の参考意見にすぎないのです。立法の経緯で、立法側の意見が表明されるだけであって、それが拘束性があるものとは断定できません。
 最終的に、法を判断するのは司法権なのです。 

 ただし、国会答弁は司法と違って、民主的基盤のある見解としての尊重が行われるべきなのは当然です。国権の最高機関ですから。
 しかし、国会答弁が法の全てではありません。仮に司法見解が存在しないケースなどでは、国会答弁を参考にする必要性があるでしょうが、国旗・国歌に関する司法係争事例は多々あります。そこで社会慣習としての尊重が明言されていることを重視する必要性もあるのです。

>最後に、私も公務員でないので、国家など1度も、歌ったことなどないし、今後も歌うつもりはいっさいありません^^

ご自由に。ちなみに、冥王星個人は、「鳥の詩」が国歌です。


  • 2009/02/23(月) 15:29:15 |
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  • 冥王星 #-
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初めて間違いを認めたねw

間違いを認めるならば、それを公式で認めなよ。二度も、こっちのブログで事実確認を迫っても、回答しないし、間違いを認めなかった卑怯者は誰ですか?Sirokaze氏。
他人の間違いを批判するのは、自分の間違いを認めてからと述べるならば、まずは自分から認めようね。卑怯者のsirokaze氏。
そもそも、冥王星が間違った事実は認める必要性を感じない。簡単にわかることでしょ。言い間違いだと。それとも、Sirokaze氏はタイプミスをいちいち問題として糾弾することが当然なのかね?それだったら、かなり糾弾できると思うけどね。問題は、間違いの内容。
 F-15kは韓国型の特殊兵装で、今後の日本の防空で危険と想定されている有数の戦力です。どうせ、キチガイのように韓国を敵視しているメディアのせいで、誤解したんだろうけど・・・

問題は、F-15で二度も確認した末、間違いを認めなかったSirokaze氏の姿勢。
そういう姿勢で事実認識から逃避し続けるような姿勢であることを明示しただけ
そういう人間であることを明示しちゃいけないなら、もっと正々堂々と振舞えばいい。間違っていることを認めるならば、それで前へ進めるに違いないのに、だから、進歩できないだと思われ。実際、三権分立の原則さえ知らない知性だったわけだし。
批判というよりも、SIROKAZEなる人物の問題を周知させる意味で、付加しただけ

> 人をマチガイで糾弾するのだったら、せめてもの自分はマチガイで糾弾することはやめたほうがよろしいですよ。冥王星氏。

ちなみに、日本語の意味がわかりません。

>俺としては、この問題で「思想信条の自由」なんて言葉で規定するほうが愚かだと思う。
 比較文明の違いと慣習を、わざわざ現在時点で、思想信条の自由だ! などというのは、どうみても後付けの話だろ。
 冥王星氏は、歴史的にいつから君が代や日の丸が掲げられていたか。つまり、公式的にではなく慣習的にだ。

後付けである立証もない。第一後付けであることが不当である根拠さえない。
次に日本語として意味不明。
日の丸・国歌のオリジンを紐解いても有益とは思えないが、法定されている以上は、日本の国旗・国歌は決まっているとしか言いようがない。
 しかし、それをどう取り扱おうと個人の自由である。刑法92条の現段階では日本国の国旗への冒瀆は違法性がない。
 国際慣習法において国旗・国歌の冒瀆は違法性のある行為であっても、それをもってして罰する正当性はない。
 当然、村山談話の国際法的な意義を認めない方々は、国際法なんて法的拘束性を認めないだろうから、尚更、国旗・国歌の尊重など法的拘束性が見いだせない話。

さて、勘違いをしているようだが、あえて指摘しておくが
>冥王星氏も知っているだろうけれど、1998年8月9日の参議院本会議で、日章旗・君が代を法制化する国旗国歌法案が可決成立するまで、それまで慣習的に使っていたのだから、明文化されていないルールであったといえる。

国旗・国歌であることは否定できない。しかし、それを否定することをもって罰する根拠はない。それ以上でもそれ以下でもない。
国旗・国歌が定義されただけでしかない法律で、罰することはできないのであるw
簡単な理屈であるwwwもっとも、それも理解できない知性であることは言うまでもない。
 http://list.room.ne.jp/~lawtext/1999L127.html
まったく議論にならない。なにせ、国旗・国歌であることなど論争の対象ではない。
国旗・国歌に対する拘束性の問題である。こういう議論にならない事実確認を要請されるのは、徒労である。
所詮は、三権分立を理解していない低能の宿命ということだろうか?ゲラゲラ

 法治主義においてはそれ以上でしかない。
もっとも、sirokaze氏などのレベルだと感情論で説得を試みようとするだろうが、法治主義の限界を弁えてほしいものもである。
 

  • 2009/02/23(月) 14:58:50 |
  • URL |
  • 冥王星 #-
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所詮、反対派のコメントはこの程度のレベル…

レッドフラッグさん、

>はははっ。アンタの生き方が分かる。ネズミみたいにコソコソ要領よく立ち回っているんでしょうなあ。

まあ、そのように受け取ってもらっても構いませんよ。
実際のところ、私も市井の一小市民に過ぎませんし…。

ただ、「形から入る」というのは、とりあえずはそんなものでしょう。
そうしているうちに、自然と身についていく。

そのことをレッドフラッグさんのご指摘のように、上から目線で小馬鹿にして「自己満足」に浸るもよし。

ま、所詮、このような程度の反論(というか反論ですらない。投げ捨てコメのようなもの)しか、できないのが強制反対派の連中というのが、改めてよくわかりました。

  • 2009/02/22(日) 01:28:45 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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似た者同士

はははっ。アンタの生き方が分かる。ネズミみたいにコソコソ要領よく立ち回っているんでしょうなあ。
>うわべだけ従っていれば、実際、その子供が内心では反対していようが構いません。

  • 2009/02/22(日) 00:52:38 |
  • URL |
  • レッドフラッグ #55vdK3YM
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コメント下さった皆さんへ

>sirokazeさん、

コメントありがとうございます。

>ここで面白いのは、明確に東西で分かれるものがあります。
 それは日本と同じで式典で国旗を掲揚し、国歌を歌うのは、中国、韓国など、多数のアジア国家は、それをするということです。


そうなんですか?
私はちょっとアジア国家の慣習というかケースを知らないので、あまりそういう視点で考えたことがなかったもので…。

>それは反日中国上下朝鮮が反対するからという、低レベルなものを、さも個人の自由や思想信条の自由なんていう、言葉で糊塗しているわけだからですな。

ご指摘のとおりです。
素直に嫌いと主張するなら、その主張に賛成はできないものの「正直でよろしい」と受け取れるのですが、「思想・信条の自由というニセの説明」に拘泥しきっているのは、見ていて見苦しいの一言ですね。

そうした「ニセの説明」に本当に拘るのなら、筋を通して教職を辞めてから訴えるべきでしょう。それが出来たら「本当の説明」と受けとめる人も出てくると思うんですが…。
主張と行動が一貫してないからなぁ…。


>国会答弁さん、

コメントありがとうございます。

>問題になっている、公務員はこの際置いておいて、公務員でない人に歌わせることはできないし、非難するのもおかしいと思います。

まず、ご理解いただきたいのは、私が問題視しているのは、強制反対派の先生の行動であって、児童生徒の行動ではないということですね。

ぶっちゃけ、子供には、式典時に口パクでもよいから、その場にふさわしい態度を取れる人間になってもらえばよいわけです。

「形」から入るのを重視しているだけで、別にその子供達が、うわべだけ従っていれば、実際、その子供が内心では反対していようが構いません。

それと、国会答弁さんのいわれる反論はよく目にしますし、児童生徒に対する指導に、強制がまったくないか…と問われると、やっぱりそんなことはなくて、国歌を歌わせる教育には強制を伴う面はあると思うんですね。

で、そこでこの国会で約束した「強制はしない」を、どう解釈するか…ということになるんですけど、私はその答弁を厳格に当てはめ、教育に適用するなら、教育そのものが成り立たなくなる恐れがあるんじゃないかと思うのです。

そもそも、未熟な子供に躾けや礼儀を教えるのに、強制力を欠いて教えることが出来ますか?

私は、判断力が未熟な子供に大人と同じような権利は与えるべきではないと思ってます。
子供のうちは、とりあえず「形」を教える。そのための強制力は、社会通念上許される範囲なら許容する。

私はそれを「野蛮だ」とは思いません。

国会答弁で「強制はしない」という強制の内容というのは、例えば教育の場以外で、国歌を無理やり歌わされる場合を指していると私は解釈してます。

もちろん国会答弁さんが、歌うつもりがなければ、どうぞご自由にしていただいて何ら構わないと思います。

ま、それはお前の独自の解釈に過ぎない、と反論されるかも知れませんが…。

でも、余りに常識と乖離した解釈は、世の中から受け入れられないと思いますよ。

だいたい、私は式典時に国歌を歌ったからといって、愛国者に仕立てあげることができるなどとは、毛頭考えていません。
単に子供達には、最低限の礼儀を身に付けさせる必要があると思っているだけですので。


>冥王星さん、

お久しぶりです。コメントありがとうございます。
ブログ名称変更されたんですね。こちらのリンクも直しておきます。

>俺が思う「思想信条の自由」は・・・・・
>という論戦ならばまだしも、その水準になっていませんしw


ううむ。この問題は、そこまで深く考えなければいけないものなんでしょうか?

確かに、私の議論など冥王星さんから見れば感情論レベルかもしれませんが、強制に反対している教師に反論するのに冥王星さんの要求するレベルが果たして必要なのか疑問に思います。

>改正教育基本法では、家庭の教育責任が優先されています。
>国家に教育権があるという立場は揺らいでいるのです。


そうなのかも知れませんが、家庭じゃ教えられない事柄だってあるわけですし…。

>別に、国旗、国歌などどうでもいいんです。

厳密に言えば、私だってどうでもいいです。
ただ、通常必要とされる礼儀作法を教えられない、というより、それに反する行動をそそのかしたり、教育より、自らの政治的思想を優先する教師の存在には、黙ってられないだけですよ。

冥王星さんも、教職に携わっていられますけど、聖職に携わる人間として、彼らの行動をどう思われますか?「どーでもいい」で済む問題だと思われますか?

少なくとも、私は自分の子供をそういう教師に預けようとはとても思えません。

あと、このコメント欄での、sirokazeさんへの(破廉恥という)批難は少しおかしいのでは。

なぜ、ここで唐突にsirokazeさんを引き合いに出す必要があるのか疑問です。

せめて、sirokazeさんの主張を批難するに留めていただき、それ以上彼を攻撃したいのなら、本人のブログもしくはご自分のブログ上で行なっていただきたいと思います。

前にも言いましたが、私本人への批難なら幾らでも書いてもらって結構ですが、第三者を批難するのは控えて欲しいと思います。荒れる原因になりますので。

よろしくお願いします。

  • 2009/02/21(土) 20:55:14 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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よくいうよ。
 破廉恥なのは、冥王星氏のほうだろうに。
 こjこに関係のない話題じゃないの?
 もっとも、F-15kなんて書いてしまったのはF-15Jのマチガイであるわけだから、それは素直に謝るけれどね。あんたみたいに、謝らないで、論理を認めないカスとは違うんだよ。

 さあ、ではあんたがやった破廉恥行為

SIROLAZE氏

 誰だよ、それ(笑)。
 人をマチガイで糾弾するのだったら、せめてもの自分はマチガイで糾弾することはやめたほうがよろしいですよ。冥王星氏。
 あなたの言葉を借りれば、破廉恥な人間が他人を破廉恥と言い切れませんな。

 俺としては、この問題で「思想信条の自由」なんて言葉で規定するほうが愚かだと思う。
 比較文明の違いと慣習を、わざわざ現在時点で、思想信条の自由だ! などというのは、どうみても後付けの話だろ。
 冥王星氏は、歴史的にいつから君が代や日の丸が掲げられていたか。つまり、公式的にではなく慣習的にだ。
 それに対して、最初から反対論があったか?
 それからじゃないのか?
 その根拠はある。冥王星氏も知っているだろうけれど、1998年8月9日の参議院本会議で、日章旗・君が代を法制化する国旗国歌法案が可決成立するまで、それまで慣習的に使っていたのだから、明文化されていないルールであったといえる。

http://homepage1.nifty.com/1010/dango.htm

  • 2009/02/21(土) 16:19:25 |
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  • sirokaze #-
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ブログ名称の変更の申告のついでに

このコメント郡を読んで、思想信条の自由の是非の前に、
思想信条の自由の射程と規定を論じることをお勧めします。

俺が思う「思想信条の自由」は・・・・・
という論戦ならばまだしも、その水準になっていませんしw

思想信条の自由を語る前に、自由権を考えた方がいいでしょう。
特に、JSミル、ベンナムなど

そういう権利のベースになるものを前提にした話しとはちょっと思えない。
たぶん、「上から目線」などを感情論になりそうだがw


SIROLAZE氏のような破廉恥な人は別にしても(破廉恥であるのは、f-15kなどという日本にありもしない戦闘機の話を語りだしたウソつきですからw三権分立も知らないわけですし)

個人的には当人の自由としか言えません。
同時に、指導要領の法的正当性に関してもまだ法的正当性は確立していません。
旭学力テスト問題など教育権問題は決着をみていませんし、改正教育基本法では、家庭の教育責任が優先されています。
 国家に教育権があるという立場は揺らいでいるのです。
 それを助長するのが、私大の馬鹿学生と、私大卒業の総理大臣達でしょうが、偏見なので自重しましょう。
 
さて、国会答弁ではよく国旗は普遍的に尊重されるものと指摘されますが、普遍性はありません。
スイスではカントン(州)のシンボルが優先され国旗よりも広くシンボル化されていますし、インドネシア国旗を始め、各国の国旗は普遍的には尊重されません。
 自国の国旗を否定される行為でいえば、中国国旗・アメリカ国旗を冒涜するような人をどれだけ批判するのでしょうか?私が知る限りは、中国国旗を冒涜するチベット人を批判する人は知りません。
 
 ちなみに、バルセロナでスペイン国旗を見たことがありませんし、イラクのバクダード郊外ではイラク国旗が尊重されていることはありません。

 国旗の普遍性などは妄想です。
もっとも、頭の悪い人は、普遍性があるものと思い込んでいるようですが、それを証明する作業を行えないでしょう。
 なにせ、例外が多く指摘できますし、日本の刑法が日本国旗の冒涜を罰せないのです。
 極論すれば、日本国旗は冒涜としても罪にならないのですからw

 もっとも、国旗・国歌を尊重する人の価値観も守る必要性があるでしょうが、国旗ではなくても、器物損壊で罰することができるのですから、やり方を考えて係争してくださいw
もっとも、国旗・国歌を強烈に擁護しようとする人が、概してウソつきだったりしますw

ちなみに、voiceで渡部昇一がデマと吹聴しているようなので、記事にしましたが、もうこういう記事はできないでしょう。

別に、国旗、国歌などどうでもいいんです。精神論が好きな人は精神論だけで世界を語ってください。
それを強制される謂れはありませんし、自分の持論が正しいというならば、反論できるだけの論拠と根拠をもって抗弁してくださいw
もっとも、無知な人は、「それでも俺が正しい」と突っ張ることでしょうがねw・・・特に私大生w

さて、トラックバック箇所が見つからないで、管理人には申し訳ないですけど、ここにブログ名称変更の申請させてもらいます。
削除はお任せします。

  • 2009/02/21(土) 13:51:14 |
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  • 冥王星 #-
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野蛮な行為をしたのは誰かな

国旗国歌法制定時、政府の国会答弁でどのような説明をしたかは、ここにいる皆様なら
ご存知ですよね??
強制はしないと何度も言っていたはず。

問題になっている、公務員はこの際置いておいて、公務員でない人に歌わせることはできないし、非難するのもおかしいと思います。
それとも、国会答弁では嘘をついてもいいとでも思っているんですかね。それを許容するなら、それこそ野蛮以外なにものでもないでしょうねww。
最後に、私も公務員でないので、国家など1度も、歌ったことなどないし、今後も歌うつもりはいっさいありません^^

  • 2009/02/20(金) 02:51:50 |
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  • 国会答弁 #-
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 基本的に、国旗国歌に関して強制だ! なんていうのは、電波だと思いますな。
 また、アメリカの陰謀だ! とか、戦争が悪いんだ! みたいな戦後インチキ史観のなれの果ての電波説も、呆れたもんです。

 なぜ、電波説か?
 解説しましょう。

 洋の東西を問わず、国旗国歌があります。

 ここで面白いのは、明確に東西で分かれるものがあります。
 それは日本と同じで式典で国旗を掲揚し、国歌を歌うのは、中国、韓国など、多数のアジア国家は、それをするということです。
 逆に西洋に関しては、強制しませんが、元々帰属意識があるので、わざわざしないでも、普通にするものだということですね。
 このことから、東洋の文化は、国旗国歌は国が押し付けているわけではなく、アジア全ての文化慣習であり、それをもとに形成されているということがわかるわけです。

 これが結果的に、洋の東西を問わず、国旗国歌に関して、敬意を示すという意識に繋がっているわけです。
 しかし、こういった比較文明から、国旗国歌に反対する連中が、アジアアジア! と叫ぶような奇妙なアホ連中が多いということは、まったく矛盾しているわけで。
 文化文明を尊重する態度とはおおよそ言いがたい、未開人レベルの鬼畜だということだけが分かりますな。

 では、なんで反対するか?
 それは反日中国上下朝鮮が反対するからという、低レベルなものを、さも個人の自由や思想信条の自由なんていう、言葉で糊塗しているわけだからですな。
 そもそも、個人の自由や思想信条の自由は、その国が存続してこそ成り立つもので、結局社会形成に関して、あるいは文化、文明、慣習に関して、そういうものを他国の思惑に乗ってさも「個人の自由」なんて薄っぺらいもので否定する行為のほうこそ、愚かしいというものだと私は考えます。

 勤労しないのは自由だ! でも生きられませんが? っていうことと一緒。
 式典による国旗掲揚国歌斉唱は、このアジア世界の慣習化されたもの。それを否定することは野蛮な行為だと私は考えます。

  • 2009/02/19(木) 22:03:37 |
  • URL |
  • sirokaze #-
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人は自分の見たいものしか見ないのかもしれませんね

そうですか。
見れども見えずという言葉が有りますが、
同じものを見ていても、違うものしか見えないということがあるのですね。
こうなるともう議論の余地はありませんので、
この辺にしておきましょう。
(言い分は山ほどある事はあるのですが・・・・)

  • 2009/02/17(火) 07:26:23 |
  • URL |
  • 和久希世 #dN1wHbUA
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現状認識の問題

和久希世さん、レスどうもです。

残念ながら日の丸・君が代強制問題というのは、和久希世さんが考えるような日本の指導者による「愛国者を養成する」陰謀などではなく、単なる「礼儀」の問題に過ぎません。

なぜ、それがまわりまわって、アメリカ云々の問題にまでたどり着くのか?私にはさっぱり理解できないですね。

そもそも、「式典時」に強制されたら、即、愛国者が生まれるのですか?
子供達は、コマンドをインプットされたら、そのとおりに動くロボットなのでしょうか?

また、ネットで吠えるだけのネット右翼が、徴兵も厭わず戦場に赴くと思いますか?

いずれも「否」だと思いますよ。

少々厳しいことを言わせて貰いますが、和久希世さんはどうも、アメリカの存在や陰謀論に囚われて、そうした現実を把握できていないような気がしてなりません。

  • 2009/02/16(月) 22:52:09 |
  • URL |
  • 一知半解 #f2BEFQoE
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羹に懲りて膾を吹く

太平洋戦争直後アメリカは、まさに羹に懲りて、日本に平和憲法という膾を押し付けました。(この事にはアメリカの平和愛好者の意図も働いたとも聞きましたが・・・・・)
今アメリカは日本人はとうに腑抜けになっているということに気がついていて、
逆に羹を強制してくるようになっています。
だって米軍に60年以上居座らせて平気な者たちが右翼でございと、いきがっている国なのですから・・・・・
その上、守ってもらっているからと言って、莫大な思いやり予算なるものを毎年計上する現政権を、擁護するような腑抜け(又は詐欺師)が、「日本人よ毅然としてあれ」などと言っており、
それに騙された青年達が、自分達のことを勇ましい愛国右翼と信じているような国なのですから・・・・・

仰るとおり羹に懲りて膾を吹くという諺のような現象は、
かつての米軍もそうであったように、この社会にもしばしばあることですね。

しかし今はまさに、膾をあてがうことの愚に気づいたアメリカに日本(人)が、
「羹を強制されている時代である」ということを認識せねばならない時だと思います。

羹を次々押し付けられている時代に、
「羹に懲りて膾を吹くな」などとのんきな事を言う日本人が、本当に国防を考えている人たちなのかどうか疑わしくなってしまいます。
国防とは、軍を動かすだけで出来ることでないのは、アメリカの今の”ていたらく”を見られれば、よくお分かりになると思うのですが?

  • 2009/02/16(月) 07:47:02 |
  • URL |
  • 和久希世 #dN1wHbUA
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愚樵さん、和久希世さんへ

>愚樵さん

ご無沙汰してます。コメントありがとうございます。

>では、その「形」は、誰が決めたのか?

そこのところは、はっきり断定は出来ないような気が…。
ちゃかすつもりはありませんが、「柳は緑、花は紅」であるが如く「自然とそうなった」のではないですか?

>日本人は均質性が高いといわれますが、それがあるから「形」から入ることが出来るのでは?

そのせいもあると思いますね。
まあ、なんにせよ、日の丸・君が代については、一部のへそ曲がりを除けば、国旗・国歌という認識を皆が共有していると思うのです。

そして、強制する側には、「式典時という短時間の間ですら集団行動を取れないようでは、日本人の組織の中でやっていくことは出来ない人間が出来てしまう。それを教えるはずの教師がそういう行動をそそのかすとは何事だ」という問題意識があると思います。

つまり、日本人の尊ぶ「和」をベースとした行動原理という規範に抵触しているのです。

だから、反対する教師に強制する。
世間だって、組織に逆らうような人間を喜びませんから、その「強制」行為をさほど問題視しないし、逆に当然だと考える。
この問題は、賛否の間で物凄い認識ギャップがあるような気がして仕方ありません。

>また、同時に日本人は「形」にこだわらない部分もある。
>これは「合意」がなければ「形」は二の次ということになりはしますまいか?


私が思いますに、「形」にこだわらない場合というのは、その「形」を幾ら崩しても、「和」をベースとした”行動原理”に反しない場合だけだと思うのです。
日の丸・君が代強制問題における強制反対派の行動は、その原理を危うくすると受け止められているのではないでしょうか。

>そこについての合意が形成されていないが故に、「形」についての齟齬が生じている。

うーん、そうですかねぇ?
少なくとも、国旗・国歌については、おおかた合意は形成されていると思いますよ。
むしろ、否定する側の方が、その事実を認めまいとして、表向き「思想・信条の自由」問題にすり替えている気がします。

いわば「本当の理由や気持ち(日の丸は軍国主義の証だから嫌いだ等)」を言わないで、「ニセの説明(思想・信条の自由問題)」をしているのが実態だと思いますが。

実際のところ、反対派の教師達は、日の丸・君が代が嫌いという本音を隠して、表向き思想・信条の自由を振りかざしていて、はっきりと日の丸・君が代を認めないという人がいないじゃないですか。
そこに「作為的な偽善」を感じ取る人も多いと思いますよ。

>で、どのような「形」を選択するかの問題において、思想・信条・歴史観が問題にならないとは考えれないのではありますまいか?

もちろん、国旗・国歌を掲揚唱和しないという「形」も”あり”なんでしょうけど、それは現時点ではメジャーな形ではない。例えば私立のミッション系なら、そうした「形」もあると、おおかたの日本人は是認するのではないでしょうか。

ですから、世間一般的に言えば「教師たる者が、式典時ぐらい我慢して従えないのか?」というのが本音だと思います。
それを「思想・信条の自由」問題にすり替えてしまうから、反体制人間として扱われ、懲戒の対象にされてしまう。

これは、思想・信条・歴史観という問題以前の「礼儀」の問題に過ぎないと捉えるべきだと思います。


>和久希世さん

ご無沙汰してます。コメントありがとうございます。

>愛国心を強要する人は、大抵がお人よしを利用して、自分が良い目を見たい人と、昔から相場が決まっていることですし・・・・・

もちろん、そうした懸念をもつ人がいることは理解できます。
ただ、それは「羹に懲りて膾を吹く」ようなもので、取り越し苦労ではないでしょうか?

そもそも、式典時だけに強制することで、そんな愛国主義者が育つと本当に思われますか?
そんな簡単に愛国主義者を育てることは出来ませんよ。

これはあくまで「礼儀」を躾ける教育目的と捉えるべきでしょう。

  • 2009/02/15(日) 15:53:52 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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ご無沙汰しました

二月とは思えないような暖かいお日和ですね。
(関東地方では26℃以上のところも、何箇所か有ったそうですね。)

ところで、お示しの記事を読んだことはないのですが、
(国旗掲揚を強制することに反発をする人の中には、仰るような意味で、反発している人も有るかもしれませんが、)
私の場合はちょっと違うような気がします。
強制を反対する人の中には、「偽物の愛国心」だとか「形だけの愛国心」だという批判をする人もいるわけですが、これは当然のことで仕方のないことなのです。とりあえず「形」から入ることが大事なのですから。
と仰っている通り、形から入ることが教育には有効だからこそ、
「日の丸」という形に、(賛否共に)こだわるのだと私も思います。

そして日の丸を愛国心の象徴として用いる場合に、
同時にその愛国心の種類も、(太平洋戦争で盛んに利用された歴史があるために、)
偏ったものになるのではないかという危惧が生まれるのではないかと思うわけです。
左右を問わず、愛国心はそれぞれに持っていると思います。
(愛国心の無い人も又左右を問わずに有るかも知れませんが・・・・・)

只、そのこだわる処が違うということではないかと思うのです。
特に今のように、自分国がアメリカという、歴史にも残りそうなくらいに好戦的な国に、支配されている時代に、
過去の戦争の時に、不幸な形で利用された日の丸を、ことさら強制し始める政府が、
郵政民営化のように国民には実態を隠したままで、
勤勉な国民の汗の結晶の郵便貯金及び簡保の宿などの、日本人の財産を、
メリケンさんが手に入れやすいように、利権化してしまうような、
ちょっと信頼するに足りない政治家が、国を牛耳っているような時代に、

「お国のために死んで来い」と強制させた歴史的経緯を持つ、日の丸の重用というのに、
警戒感を持つ人が出るのは当然のことではないかと思うのです。(愛国心を強要する人は、大抵がお人よしを利用して、自分が良い目を見たい人と、昔から相場が決まっていることですし・・・・・)

  • 2009/02/14(土) 20:54:37 |
  • URL |
  • 和久希世 #dN1wHbUA
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お久しぶりです

一知半解さん、こんにちは。思うところを少し述べさせてください。

>また、「守・破・離」という言葉にもあるように、日本の教育というのは、まず「形」から入ります。

なるほどと思いましたが、すぐに次のような疑念が湧いてまいりました。では、その「形」は、誰が決めたのか?

日本人がまず「形」を重んじるのは、その「形」についての合意が広く形成されているからではないでしょうか? 日本人は均質性が高いといわれますが、それがあるから「形」から入ることが出来るのでは?

また、同時に日本人は「形」にこだわらない部分もある。それは結婚式などの「形」を見ると一目瞭然で、海外の人から見れば無節操としか映らないであろうほどの、こだわりのなさ。これは「合意」がなければ「形」は二の次ということになりはしますまいか?

そして、戦後の日本のおいて、もっとも「合意」が欠けているのは「国の形」でしょう。そこについての合意が形成されていないが故に、「形」についての齟齬が生じている。国旗国歌は、一知半解さんが指摘されているとおり、まさしく「形」ですが、国旗国歌を掲揚唱和しないというのもこれまた「形」です。で、どのような「形」を選択するかの問題において、思想・信条・歴史観が問題にならないとは考えれないのではありますまいか?

管理人のみ閲覧さま、コメントありがとうございます。

ご指摘の記事を私も見ていましたが、そうした「現象」は確かにおかしいですね。
そうした手段をとっているなら実に姑息だと思います。

それと、「話し合い」を唱える人ほど、話し合いにならない…というのは、困ったものですね。

  • 2009/02/14(土) 18:48:36 |
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  • 一知半解 #f2BEFQoE
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