今回ご紹介する
山本七平のコラムは、我々日本人が、もっとも気に留める必要がある事だと思います。
◆現実的態度とは
資源問題は、人類がこの世に出現すると同時にはじまった問題である。
かつての人類は、各人・各民族の行動半径が狭かったが、狭いなら狭いなりにその世界という限定された場所において資源問題に苦しめられた。
そしてその跡をたどると、当時の苦しみは、地球という狭い世界で人類が資源問題に苦しむのと、原則的には変化がないように見える。
この問題が最も端的に出てくるのは、砂漠地帯におけるオアシスの争奪戦である。
オアシスという「生存の資源」を奪取されれば奪取された者は家畜もろとも全滅する。
一方、奪取しそこなったらしそこなった方が同じ運命になる。
もちろん降伏はない。
降伏しても、水の量には限度があるから生存は不可能、その者もやはり家畜もろとも死ぬ。
この、双方が自己の生存をかけた資源争奪戦のありさまは、旧約聖書の出エジプト記に象徴的に記されている。
エジプトを脱出したモーセの一行は、シナイ中央部のオアシス、カデシ・バルネアとアイン・カデースを目指し、ここを根拠地にしようとした。
ところがここには先住者アマレク人がおり、どちらがオアシスを占拠するかの死闘が演じられた。
一方がオアシスを奪取すれば、他方は周辺の丘陵に逃げる。
しかし、そこにいれば餓え死にするからすぐ逆襲に転じてオアシスを奪還する。
奪還された方は、一時待避しても状況は結局同じだから再奪取の攻撃をかける。
これが繰り返されて、一方が一人残らず死滅するまでつづくのである。
日没になり、アマレク人は文字通りに全滅し、モーセの一行は、はじめてオアシスを確保したと聖書は記している。
われわれには、少々ものすごさが過ぎて、そういう現実を見たくない思いのする物語である。
だが、これが彼らの「生活の座」すなわち「目をそむけることが許されない現実」であり、そこにあるのは「生存か死か」であっても「是非善悪」ではなかったことが、端的に示されている。
われわれに、見たくないことから目をそむけ、触られたくないことに触らず、考えたくないことを考えずにいた方が幸福だといった傾向があることは否定できない。
いわば「触らぬ神にたたりなし」で自分の方からそれに触らないでいれば安全だという一種の宗教的信念である。
興味深いことに、砂漠の民の伝統が最も嫌って徹底的に排除するのがこの考え方で、彼らは前記のような現実を無理矢理にも人の目につきつけようとする。
それはある面では、われわれが本能的に目をそむけたくなるような、強烈な一種のリアリズムであり、宗教とか信仰とかいった言葉まですべて、このリアリズムの上に築かれている。
まして現実面における対策はすべてこの現実を踏まえており、この現実を踏まえていない対策は、彼らにとっては対策ではない。
われわれは、こういう世界に住んでいなかった。
そして自らの伝統に基づき国内的には「勝ち抜き勝負」的な「優勝劣敗」の淘汰の世界を排除し、相互扶助的・家族主義的な長幼序列の世界をつくっている。
伝統だからそうなることは不思議ではないし、それがわれわれの「現実」だから、それに「現実感」をもつことも否定できない。
以上のことが、資源問題(だけでなくすべての問題について言えることだが)について、われわれが、国内的な対処において最も現実的な態度をとれば、世界的な視点において、最も非現実的な態度になってしまう理由であろう。
われわれには「エネルギーのオアシス」はすでに奪取され、その配分を受けられるのは、余剰がある間だけだという明確な意識はないが、この意識をもたないのはわれわれだけのように見える。
だがそういう態度は、われわれには現実的なのであろう。
オイル・ショック以来、日本人は現実的になったと言われる。
だがその現実的態度が果たして世界に通用する現実なのか、もう一度検討する必要があるであろう。
【引用元:「常識」の研究/倫理的規範のゆくえ/P185~】
資源問題とは関係ないのですけど、最近、
護憲派の方々と議論していて思うのですが、彼らには上記の視点というものが欠けているか、軽視しているような気がしてなりません。
「現実を見ろ」と突きつけても、嫌がって顔を背けるような傾向が強いように感じます。
ま、これは
護憲派に限ったことではないと思いますが。
(
護憲派はその度合いがヒドイような気がしますね。そう指摘する自分自身も、現実を直視しているかと問われれば怪しいものですけど(汗)
ただ、日本以外の世界はこの「強烈なリアリズム」を基に動いているということを、頭の片隅にでもしっかり憶えていないといずれ痛い目にあうことでしょう。
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いよいよ衆議院が解散する運びとなりました。
民主党が政権を取る可能性が非常に大きいわけで、「反」民主党の私としては、非常に憂鬱なのですがこれも民主主義体制を取る社会では仕方あるまいと、自らを納得させている今日この頃です。
世論調査などを見ていて、一番意外だったのが、「(ソースはどこだか忘れましたが)自民党政権が民主党政権に変わったとしても、変わらないと考えている人の多さ」ですね。
つくづく、政治というのはイメージでしか判断されないものだな…と痛感しました。
マスコミの報道姿勢が、民主党寄りであるのが一因なのでしょうが、それでもちょっと調べれば、政策の違いなどわかるはずなのに…。
確かに、現在のこの閉塞感を打ち破ってくれないか…という国民の変化を求める気持ちというのが、背景にあるのでしょうけど、個人的にはそんな程度の考えで投票先を決めて欲しくないですね。
安直にイメージで選択して、そのイメージに裏切られたら、また、だまされたと被害者ぶるのでしょうか。
どうも、そういうことになりそうな気がして嫌な予感。
そして、ますます政治不信が募るような気がしてなりませんねぇ。
そう考えると、政治不信というのは、有権者自らが招いているような気がしなくも無い。
(もちろん、政治家にも責任の一端はあるのでしょうが。)
考えてみれば、政治不信というのは、民主主義体制にとってあまり好ましい状態ではないですよね。
戦前を振り返ってみても、政治腐敗に呆れた国民が、清廉潔白な軍人に世直しを期待し、その結果軍部の台頭を招いた前例もありますし。
しかし、なんでこうも政治に「清廉潔白」を求めるのでしょうかねぇ。
そもそも、国民の側だって、それぞれの立場で利益の誘導を期待して行動しているくせに。
政治家だけに、「清廉潔白であれ、とか、正義や善行を求める」なんてちょいと虫が良すぎませんか。
などと、ぼやくのもこれくらいにして、今日は「
民主主義亡国論」について、
山本七平のコラムを引用しながら考えていきたいと思います。
◆そろそろ民主主義亡国論
(~前略)
というのは過去にもさまざまな「民主主義亡国論」があった。
その意味では「そろそろ」どころか昔からなのだが、この昔からの「民主主義亡国論」の図式が果たして現代に通用するか否かという問題である。
それがもし通用しないとなると、「昔ながらの……」でなく、文字通りの「そろそろ……」になるわけで、では一体この「そろそろ」はどんな形で現われるのであろうか。
(~中略~)
古典的な「民主主義亡国論」はすでにプラトンにある。
詳しくは田中美知太郎先生の膨大な『プラトンⅠ』を読んで下さればよい。
ここではそれを極めて短く要約させていただく。
だが要約すると皮肉なことにプラトンは民主主義否定論者のように見えてしまう。
だがもちろんそんな単純なことはいえない。
まず私が驚いたのは、すでに六十歳を越えていたプラトンが、ディオンの民主主義革命を助けるためにわざわざ騒乱のシュラクサイまで出掛けていったことである。
この情熱は並のものではない。
ではプラトンは何にそれほどの情熱を傾けたのか。
ここで田中先生の『プラトンⅠ』を引用させていただく。
「プラトンが理解し、支援したディオンの政治目標は何だったのか。それは漠然とした理想ではなくて、はっきりした具体性をもつものであった。
それは二つの解放を目ざしていて、『第三書簡』の主要なテーマにもなっている。
一つはカルタゴ人の支配下にあるもとのギリシア人都市を解放して、自由と独立を回復すること、もう一つはディオニュシオスー家の独裁下にあるシュラクサイ市民を解放して、りっぱな法的秩序をもつ市民の自由を回復することである。
そして前者の実現には、まず後者の成就が必要とされる(『第七書簡』三三六A)。
事実かれはディオニュシオス一家の独裁的支配と戦い、これを倒したのである。
しかしそれによって与えられた自由に秩序を加える仕事は、長期の苦しい戦いとならねばならなかった。
ディオンはその戦い半ばにして――あるいは『第七書簡』(三五一C)の言葉を借りれば『敵を圧倒するぎりぎりのところ』まで行っていながら、惜しくも――倒れたのである。
解放後のシュラクサイの人たちは、昔ながらの快楽を求めるだけの自由しか知ろうとしなかった。
それがかれらの民主主義である。しかし……」
「しかし」以下は省略させていただく。
プラトンについては田中美知太郎先生の本を読んでいただくとして、後代がこの事件から、というよりそれを記したプラトンの著作からさまざまな影響を受けたことは否定できない。
というのは、自由と民主主義を獲得した瞬間にあらゆる要求が出てきて収拾がつかなくなり、それが逆に民主主義を崩壊させてしまうという図式は、すでに史上何回か繰り返されているからである。
そして繰り返すたびにプラトンが思い起こされ、「そろそろ民主主義亡国論」となる。
そこでプラトンは、この「民衆の無限の要求」を制御するものは「法」しかないと考える。
だが、「無限の要求」をする民衆が選出した者が、この民衆の無限の要求を制御する「法」を制定できるか、となるとこれはだれが考えてもむずかしい。
現代にたとえれば、「税金は払いたくない、しかし社会保障はあらゆる面で十分に享受したい」という民衆の要求を、民衆が選出した代議士に制定させようとしても、少々無理ということ。
この無理を、かつては植民地を搾取することで何とかやりくりをして来た国もあった。
これがディオンの時代と違うところ。
民主主義の模範のようにいわれたイギリスは一面では大植民地帝国であったのは皮肉である。
もう一昔も二昔も前のことだが、イギリスが植民地を解放し、「ゆりかごから墓場まで」を保障し、民主主義の模範と日本の文化人があがめ奉っていたころ、私はあるイラン人から、アングロ・イラニアン石油会社の月給では、イラン人はイギリス人の十分の一だという話を聞いた。
ま、そんなことだろう、その手品ができなくなればポンドの下落がはじまり、「鉄の女」が出て来て、どうやら縮小均衡でバランスをとる。
これがプラトンのいうどの段階なのか、といったむずかしい問題はしばらく措き、「植民地」という手品が使えなくなったことは否定できない。
では何か他に手品があるのか。
マルクス=レーニン主義を採用すればよいのか。
それが「夢」であることは、『スルタンガリエフの夢』(山内昌之著)の次の言葉に表われている。
「――われわれは、ヨーロッパ社会の一階級(プルジョワジー)による世界に対する独裁をその対立物たる別の階級(プロレタリアート)でおきかえようとする処方が、人類の抑圧された部分(植民地人民)の社会生活に格別大きな変化をもたらさないと考える。
いずれにせよ、かりに何かの変化が生まれたとしても、それはさらに悪くなる方向であって良くなる方向では生まれなかった」。
スルタンガリエフは消える。
おそらくスターリンに消されたのであろうが、この言葉が事実であることは消すことができず、「解放という名の搾取や貧困化」は、現に目の前にある。
「君」という「主」は打倒できるが「民」という「主」は打倒できない。
そしてこの「民という主」の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう。
ではいま一体、何がその過大な要求を支えているのであろうか。
それは「錬金術」である、といえば人は奇妙に思うかも知れぬが、この錬金術から生まれた科学技術であるといえば人は納得するであろう。
その道の人はICのことを「石」という。
石がICになりICが金になる、いや現代では金である必要はなく、「経済的価値」になるといえばよい。
イットリウムとかいうものが土の中にあるという。
これは昔からあった土の成分にすぎない。
それが科学技術とかいう術を駆使する錬金術師の手にかかると、超電導のための不可欠な物質、金以上の金になる。
二十世紀のこのような例をあげていけば際限があるまい。
一体、錬金術とは何であったのか。
簡単にいえばそれは、銅や錫などの安い金属から、何とか金を創り出そうとする術であった。
多くの王侯は、この術さえ完成すれば、無限の富を持ちうると空想した。
そして現代の「民」という「主」は、科学技術が新しい富を創出し、それが自分たちの無限の欲望を次々に充足してくれると信じて疑わない。
だが富むのはあくまでも、石や土を金に変える術を持っている国であっても、石や土を持っている国ではない。
この関係は錬金術をもつ王が、銅と錫を安く買って金に変え、それでまた銅と錫を安く買うのに似ている。
否、それ以上である。
そしてその術をもつ国のところへ世界の富は集中して来て、「民」という「主」のあらゆる欲望を充足してきた。
民主主義とは、「贅沢な体制」だとか「コストのかかる体制」とかいわれる。
確かにこれを成立させかつ維持して来た国は、七つの海を支配した国とか、広大な国土と無限の(と思われる)資源を持つ国とか、に限られていた。
世界史をぱらぱらとめくって見ただけで、厳密な意味の民主主義を維持しえた国、維持しえた時代が、例外的といいたいほど少なくかつ短時間であったことを知る。
さらに、その国その期間の中ですら、全員に及んだわけではない。
少なくとも自らの歴史を顧みるとき、「アパルトヘイトのある民主主義」を批判できる資格のある民主主義国はあまりないはずである。
その点、民主主義という贅沢のできる国はきわめて限定的で、何らかの形で他を搾取する形ではじめて成り立ってきたといえる。
美しいものの裏は必ずしも美しくはない。
ではこの「民主主義」という「贅沢」を、日本はいつまで継続できるか。
ディオンのように、非常に短いと、民衆の過大な要求が民主主義を崩壊させたことは、だれにでも納得できよう。
もちろんそこから先をどう考えるかはプラトンのような哲学者に限られようが――。
だが錬金術が次々に民の要求に応じてくれるようになると、この贅沢が相当に長期間可能であることは否定できまい。
もちろんどこかの国がこの「錬金術国」を奴隷にすれば、という妄想を抱くこともありうるが、それは計算外の突発事故と仮定しよう。
そしていつしか人びとは、この錬金術を日本は永遠に独占し、「石」を「金」に変えて、あらゆる要求がいつしかかなえられる、それは現在の体制を維持していればよいと信じて疑わないようになる。
否、もうそうなっているかもしれない。
だがその「信じて疑わない」は果たして根拠があるのか。
それは非常に危い基盤の上に立っているのではないか。どこが危いのか。
まず、その状態が人をどう変えてしまうかであり、次に、錬金術の独占が果たしてつづくか否かである。
まずあらゆる欲望が充足されるような状態は、人びとの意識を変えて錬金術への情熱を失わせるかもしれぬ。
そしてこの内部的変化が起こったとき、外部に新しい情熱を持った新しい錬金術の競争相手が現われたとき、どうなるか。
一挙に転落して不思議でない。
そのとき「貧しき民主主義」を頑として維持するには宗教的信仰に近い強固な思想が必要なのだが、ではそれがあるのか――。
【引用元:「常識」の落とし穴/Ⅱ民主主義の運命/P84~】
考えてみれば、民主主義とは効率性からかけ離れてますよね。独裁制の方がよっぽど効率的と思われるし…。
山本七平の
「民主主義という贅沢のできる国はきわめて限定的で、何らかの形で他を搾取する形ではじめて成り立ってきた」という指摘は、なるほどと考えされられました。
民主主義が根付く社会と、そうでない社会と言うのがありますが、その原因の一つに「コスト」の影響が大いにあるのではないかと。
日本も、戦後そうとう長い期間にわたって搾取する側でしたので、それが「当然」であると思い込んでいる人が大多数なのではないでしょうかね。
山本七平の今回のコラムは、そんな「前提」が、あたりまえでないと気付かせてくれたような気がします。
要は、民主主義社会とは贅沢な制度なんです。非効率な制度ともいえる。
現在は、それを行なうことができる環境であることに、我々はとりあえず感謝すべきでしょう。
ただ、その環境というのは決して磐石なのではないことを肝に銘ずる必要がありますよね。
以前「
ソマリア海賊問題から「海上秩序の傘」について考える」という記事を書いたように、現在の自由貿易体制という「秩序」が永遠に続くと言う保証は誰にもできないのですから…。
また、「
『民という主』の貧しい要求も、総計すれば一君主の貪婪な要求を上まわるであろう」という指摘にも、我々は留意すべきでしょう。
そうした前提を認識したうえで、民主主義の政治には一時期の停滞や後退はつきものと覚悟して投票に臨むべきでしょうね。
選挙の結果次第では、最悪、民主主義の崩壊の端緒にさえ、なりうる恐れもある。
仮にそういう事態が起こってしまったとき、それでも我々は「民主主義」を選択するだろうか?
山本七平の懸念もあながち杞憂と言えなさそうな気がします。
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今回ご紹介する
山本七平のコラムは、随分前に書かれたもののはずなのに、まさに今現在の状況について述べているような気がします。
◆伝統文化と近代化
日本における世論というより、むしろ論壇・マスコミの”空気”は、非常に奇妙に転換する。
もっともこれは”空気”だからそれが当然でやがて雲散霧消するであろうが、この”空気”は時には一時的にドグマとして人を拘束するから、やはり無視すべきではないであろう。
「日本ダメ論」は長い間、論壇・マスコミの”空気”であり、「日本をダメにした云々」といった本まであった。この伝統は相当に長く、決して戦後はじまったものではない。
私は、少年時代に「これだから日本人はダメなんです」といった種類のお説教を聞かされて、「では一体あなたは『なに人』ですか」と反問したくなった経験がある。
戦後は欧米先進国、また社会主義を「スバラシイ」として、「それにひきかえわが国は……」とする形の「日本ダメ論」が「定式化」していた時代もあった。これも相当期間つづいている。
しかし、この方式は社会が受けつけなくなった。
その反動のように出てきたのが、「日本スバラシイ論」であろう。
これは確かに、長いあいだ続いた無意味な「ダメ論」への解毒剤として価値はあったであろうが、「ダメ論」と同じ問題点を含んでいる。
日本人は何も天性ダメでもなければ、天性スバラシイわけでもない。
現時点で非常にうまくいっているのは、日本の伝統的文化が近代化・工業化社会の形式に適合していることと、戦後政策の成功、および国際環境が日本に有利に展開しているといったさまざまな複合的要因の上に成立しているのであって、その一つが欠けても現状はあり得なかったであろう。
それは、日本が社会主義圈に組み込まれていたらどうなっていたであろうかを想像すれば十分である。
この状態は、「自然に形成された」ものでなく、方向を誤れば逆転もあり得る。
かつてのチェコ・スロバキアは東欧一の工業国で、ある一時期はアメリカより生活水準が高かったなどと言っても、今の人にはもう実感がないであろう。
同様なことが起これば、日本も同様な状態になる。
これは「ダメ論」「スバラシイ論」で解ける問題ではない。
従って、その状態にならないための努力と負担は惜しむべきではあるまい。
さらに同じ自由主義圈に属していても、その中の各国の比重は絶えず変わっている。
勤労を絶対的規範としてきたプロテスタント圏においても、その伝統文化の保持は必ずしも成功しているとはいえない。
これは日本にもいえることであり、あらゆる宗教ないし宗教的思想には徹底した堕落があり得ること、また同時に宗教改革・対抗宗教改革による再生があり得ることも歴史が示している。
現代の状況を見れば、勤労を絶対的規範とする日本の伝統文化が、放置したまま持続しうるという根拠はとこにもない。
この点でも、「ダメ論」も「スバラシイ論」も意味をなさないのである。
さらに社会保障という問題がある。
社会保障を「絶対善」とする”空気”はまだ強く残っており、これに関してさまざまな問題提起をすることは一種のタブーになっているが、社会保障が人間の心理にどういう影響を与え、それが社会心理となった場合、勤労のエトスにどのような影響を与え、それが産業国家をどう変質させるかといった問題は、何一つ論じられていないに等しい。
だがこれは、社会保障を可能にしうる産業的基盤そのものを危うくし、それが社会保障をも不可能にしかねない問題を合んているはずである。
これまた「ダメ論」でも「スバラシイ論」でも解決がつかない問題である。
現代の世界を見ていてつくづく感じることは、最も困難なことは決して新しい技術や組織の輸入ではなくて、自己の伝統的文化をいかに保持するかであり、同時にそれを、近代化・工業化・脱工業化という社会的変化にいかに適応させて機能させていくかという問題である。
伝統文化保持のため近代化を排除すれば、その国は転落せざるを得ない。
しかし近代化のため伝統文化を破壊すれば、混乱を生じて近代化は不可能になり、やはり転落せざるを得ない。
イランも中国も、形は変わってもこの問題に解決の道が見出せずに悩んでいる点は同じであろう。
しかし、さらによく見れば、先進国なるものの抱えている問題も、実は、同じ問題であることに気づく。
そして、この問題を抱えているという点では日本も決して例外ではない。
「ダメ」「スバラシイ」ではなく、日本の伝統を踏まえつつ、この問題にどう対処していくかが、われわれの課題であろう。
【引用元:「常識」の研究/倫理的規範のゆくえ/P188~】
私が最近とみに違和感を感じるのが、この「日本スバラシイ論」の隆盛なんですね。
日本ダメ論の反動もあるのでしょうが、あまりにも露骨な気がする。
それと共に、ちょっと気がかりなのが、嫌韓・嫌中ムードの高まり。
誤解を招きそうなので、あらかじめ断っておきますが、私自身も嫌韓・嫌中であるので非常にこうしたネタには頷くことが多いです。
ただ、なんかこういう傾向に「危うさ」を感じる今日この頃なのです。
「厳選!韓国情報」などの嫌韓サイトを見ていると、特にそう思います。
確かに韓国人とか中国人とかは、日本人から見れば嫌悪感を抱くに十分な素質を持っている。
しかし、それはあくまでも「育った環境のせい」でしょう。つまり後天的なものであるはずです。
それを批判したり馬鹿にしている日本人であっても、仮にそうした環境で育てば、やはり馬鹿にしている”韓国人”が出来るのではないでしょうか。
それを、ただ単に韓国人だから、中国人だからといった「人種」に起因するような批難に結び付けているような気がしてなりません。
それは問題の解決になるばかりか、相手を見誤り、相互誤解の元になるだけではないでしょうか。
勿論、日本がスバラシイ文化を持っていることは私も認めるにやぶさかではありません。
というか、知れば知るほど日本の歴史・文化というものの素晴らしさを改めて思い知ることばかりです。
ただ、そのスバラシイ歴史や文化の蓄積というものは、たまたま日本の置かれた位置や環境によるもので、決して日本人そのものが優れていたわけではないと思います。
例えば、韓国には日本のような古典文学というものがほとんど存在しません。
それは韓国人が劣っていたからではなく、中国という存在に近すぎた故に過ぎないのです。中華文明の同化力が強すぎ、韓国独自の文化が抹殺されてしまったのだけなのですから。
(そういう意味では、可哀想な民族だと言えますね。彼らが、日本の文化の起源を呼称したがるのも、オリジナルな文化蓄積がないが故のコンプレックスに基づいているのでしょう。)
つまり、その当時は、中国が先進的で、その基準でみれば、韓国は優等生的存在で、日本は落第生のようなものでした。
その当時の基準で測れば、韓国は優秀だったし、日本は愚劣だったことでしょう。
たまたま、現在の基準が日本に有利なだけなのです。
嫌韓・嫌中でも構いませんが、そうした「前提」だけは認識しておく必要があるでしょう。
さて、ここでコラムに戻りますが、
山本七平の次の指摘は非常に重要だと思います。
・現代の状況を見れば、勤労を絶対的規範とする日本の伝統文化が、放置したまま持続しうるという根拠はとこにもない。
・社会保障が人間の心理にどういう影響を与え、それが社会心理となった場合、勤労のエトスにどのような影響を与え、それが産業国家をどう変質させるかは、何一つ論じられていないに等しい。
今現在、様々な社会問題が論じられていますが、そこには、上記の視点がすっぽり欠けているように思うのは私だけでしょうか?
私が、高福祉社会を理想とする人たちの主張に危惧を憶えるのも、この点に対する「配慮」がまったく感じられないからに他なりません。
「勤労を絶対的規範とする日本の伝統文化」が、社会保障制度の充実と入れ替わりに失われてしまったとしたら、「角を矯めて牛を殺す」ようなものではないでしょうか。
社会保障の充実は結構ですが、公正かつ補助的であるべきで、勤労精神を損なうものではあってなりません。
生活保護不正受給の問題など放置したまま社会保障制度を拡充すれば、正直者が馬鹿を見る社会になってしまいます。てゆーか、もうなりつつあるような気が…。
そもそも、日本の強みは、「勤労を絶対的規範とする日本の伝統文化」にあります。
それを損なうような政策を取るような恐れが、今の
民主党をはじめとする野党に、濃厚にあるような気がしてなりません。
それに比べ、
自民党は、確かに腐敗しているとは思いますが、日本の伝統的規範を棄損していくような政策は採る意図を持たない(結果は別にして)んじゃないか…という信頼感だけはあります。
保守主義者としては、政権交代後の日本がどうなるか不安を抱かずにはいられませんね。
ついでに言えば、「日本スバラシイ論」がこうした問題を何ら解決できないのは、
山本七平のご指摘どおりだと思うのですが、スバラシイ論であたかも解決できたように錯覚している人たちが多いような気がします。
問題解決には、「スバラシイ日本は、永遠にスバラシイのだ」という「前提」を、疑う必要がまずあるのではないでしょうか?
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「BLOG BLUES」というブログに何度かコメントを入れたところ、「次にコメントしたらソッコーで削除する」と宣言されてしまいました…orz
そこで、削除覚悟でコメント入れてみたら、なんといきなり「スパム扱い」。コメントすら投稿できない。
削除するんじゃなかったのかよ
せっかく書いたコメントが無になるのも癪だと思い、携帯アドレスから入れようとしたが、HNも禁止ワードになっている可能性もある(実際、
村野瀬玲奈の秘書課広報室はそうだった)と思い、HNにスペースを入れ、投稿しようとしたが、携帯は300字という制限がありちょこっとしか書けなかった。
もちろん、これも”ソッコー”で削除されてしまったが…。
そのブログは、共産党の閉鎖性をつねづね批判し、オープンに議論しようと主張していたはずなのだが、所詮どうやら内輪に限った話であるらしく、自説に都合の悪い異論者には適用外らしい。
まぁ、言行不一致は、どのブログでもありがちなのでいまさら驚くことではないのですが…。
しかしながら、
スパム扱いしてコッソリ相手の口を封じておきながら、私のことを卑怯者呼ばわりして、「正々堂々の議論なら、いつでも受けて立つ。」とのたまうのだから恐れ入る。
これで、どんな相手かはよくわかったので、彼のブログに投稿することは二度とないだろうな。
(ただ、一応、礼儀としてこの記事をトラバしておきますがね。以前、トラバはすぐ通ったけど、今回はどうかな…?)
そんな顛末のきっかけの議論は、「教育の無料化」について。
当該記事&私とのやり取りを読んでみればおおよそこのブログ主の言わんとしていることはおわかりいただけると思いますが、要するに「北欧型(フィンランド)の高福祉社会を実現し、教育を無料化し、貧困層にも均等に機会を提供すれば世の中うまくいくはずだ」ということになるかと思います。
まぁ、彼の元記事からは、「無料化すればうまくいく」なんて書いてはいないのですが、私とのコメントのやり取りを見る限り、そうとしか受け取れないんですよね。
そこで、たとえ「教育を無料にしても、質が悪ければどうしようもないのでは?」と当然の疑問を述べてみたわけです。
しかし、どうもこのブログ主さんは、現在の日本の教育が問題ないと思っているのか、それとも、中卒じゃ学歴社会の日本では幸せになれないから可哀想だと思って、ダメ教育でも学位さえ与えてやれと思っているのか、わかりませんが、ともかく「質」に関する懸念を抱いていないようです。
「機会の均等」とか言っているが、その実、共産主義者(?)らしく、「(全員が高学歴であるべきという)結果の平等」を求めているだけのような気もします。だから、質については問題視していないのかな??
ま、こんなやり取りをしていて、思い出したのが
山本七平の次のコラム。
今の日本の公教育の「質」の問題の一例がよく出ていると思うのですが…。
以下引用します。
◆教科書批判
『聖書の常識』という本を書いた。
膨大な旧新約聖書を10分の一以下に圧縮し要約し、全体のバランスをとりつつそれを解説するという仕事の困難さには、少々「まいった」という気がした。
やっと本になり、ほっとして何気なくある中学校社会科教科書をぱらぱらとめくっていると、次の言葉が目に入った。
「イエスは、ユダヤ教のせまい考え方を乗りこえ、身分や民族の差別なく、信じる者はだれでも救われるとする教えを説いた。これがキリスト教である」。
私は驚いて跳びあがりそうになった。
というのは、ここにユダヤ教とキリスト教が登場する。
両者の範囲は旧新約聖書よりはるかに広いが、一応これを旧新約聖書に限定しても、あの膨大にしてかつ複雑な書の内容が何と七〇字に要約されているのである。
さらに驚くことは、この文章を読むと何となくキリスト教がわかったような気持になるということである。
だが、その語いを一つ一つ検討し、筆者に「この言葉は具体的に何を意味するのか」と質問していったら、書いた御本人が何一つ答えられないのではないかと思った。
たとえば「ユダヤ教のせまい考え方」というが具体的にはどういう考え方をさしているのか。
それを「乗り越え」と書かれているが、「乗り越える」とは具体的にどういうことなのか。
「身分や民族の差別なく」とあるが、どこにその典拠があるのか、これと明確に矛盾するイエスの言葉をどう説明するのか。
「信じる者」とは何を信じる者なのか、ホトケ様でもよいのか。
「救われる」というが、それは具体的にどのような状態を言っているのかと。
少々気になったので、私は仏教を調べ、明治を調べ、企業を調べ、労働者を調べた。
どれもこれも、以上のキリスト教の説明と同じようなもので、何となくスラスラと読めて、何となくわかったような気持になるが、その語いを以上のように一つ一つ取りあげて検討していくと、結局は何一つその文章から理解も把握もできないことが明らかになっていく。
これはおそらく、だれが何の項目でやっても同じことで、読者のみなさんも、帰宅されたらお子さんの教科書で、自分が現に知っている項目を取り出して、やってごらんになるとよい。
こんなひどいものかと、しばしあきれて口が利けなくなるであろう。
そうなってあたりまえである。
ドイツの子供にわずか七〇字で仏教を理解させようとしても不可能なように、日本の子供に七〇字でキリスト教を理解させることは不可能である。
そして私が不思議に思うのは、なぜその不可能なことを不可能と思わないで行っているのかということである。
人間は全知全能ではない。
知らないことがあって一向にかまわない。
ただそれについて自分が無知であることを知っていればよい。
だが、このような教科書で教育されれば自分の無知を知ることができなくなり、何でも知っているような錯覚をもつオール・ラウンドの「一知半解人」を生み出すであろう。
それは「知らざるに劣る人間」の大量生産にすぎない。
もちろん、キリスト教に対する一知半解は大した問題ではないかもしれない。
だが世界のあらゆる事象に対する一知半解は本人にとっての不幸だけでなく、社会にとっても不幸である。
さらに諸外国や、社会主義、資本主義などの説明も、以上のキリスト教に対する説明程度なら、ない方がましである。
「教育問題」は、さまざまなところで論じられている。
それは多くの人が、学校を出て社会人になった者に、何か欠けている点があると感じているからであろう。
確かにこの社会科教科書を読むと、欠陥人間が生じて当然と思われる。
というのはこの教科書を全部暗記しても、何も知ることができず、それどころか「知らざるに劣る」状態になってしまうからである。
こういうものを頭につめこみながら、正確に日本の文字が書けず、文章が書けず、いや会話さえ十分にできない教育とは、どういう教育なのであろうか。
このような教科書を学ぶくらいなら、その時間をもっと有効に使うべきであろう。
徳川時代には手習いの教本に「貞永式目」を使っている。
文字を覚えつつ同時に法や社会的規範を覚えてしまうことは、実に能率的な立派な教育であろう。
「社会科」というなら、キリスト教への「一知半解」を教えるより、徳川時代のような教育方法をとるべきではないのか。
案外、この時代の方が進んでいたのかも知れない。
【引用元:「常識」の研究/Ⅲ 常識の落とし穴/P144~】
こういう問題は、「無料化」では解決しませんよね。
かくいう私なんか、一知半解教育のおかげか、「知ったか」な知識しか持ち合わせてませんもの。
勿論、教育の質に関する問題は、これだけではないです。
イデオロギーを教育現場に持ち込むバカ教師や、組合活動や政治活動を優先する怠慢教師の問題もある。家庭が果たすべき役割を放棄している現状も問題です。
公教育が、受験戦争(が良いかどうかはさておき)への対応が全くできず、塾にそれを丸投げしている問題もある。
これについては、
山本七平が別のコラムで触れていますので、以下紹介します。
◆制度改廃の理念
制度は固定化しやすいものである。
特に官僚機構が整備されてそれぞれが権限をもつと、これを手放したがらないのは人情の常、さらに大きな権限をもちたがるのも人情の常だから、それはますます肥大化する。
では肥大化すれば効率的であるかといえば、到底そうはいえない場合がある。
新しい法が制定され、新しい制度が出来ると社会が一変する場合も決して少なくない。
明治にもそれがあり、戦後にもそれがあった。
いわば新しい法と制度が新しい社会を生み出すことは否定できないが、その生み出された社会がある成熱度に達すると、それを成熟させた制度が逆に桎梏になり重荷になってくる場合が決して少なくない。
いな、むしろそれが常態だといえる。
こういう場合、その生み出されかつ成熟した社会に対する新しい法と制度が当然に要請されるわけだが、固定化した制度は改革に抵抗するからなかなかこの要請に応じないわけである。
だがそれでは社会はこまるから、制度(インスティテューション)の下に下位制度(サブ・インスティテューション)を勝手につくってしまう。
それは、「つくった」というより「自然発生的に生まれた」という形で出現してくる。
するとしばしば、徐々にそれが制度のように機能して、本物の制度の方を形骸化させていく。
日本人は元来、保守的であり革新の方が保守より保守的だという面白い現象を呈する国だが、この保守的傾向は何も今に始まったことではない。
古くは律令制である。
これを頑として変えないでいると、下位制度の「幕府」なるものが出現してくる。
これは制度的に見ればきわめて奇妙な存在で、律令には「幕府制」などという制度は存在しないのである。
だが当時の公家政権は、法と制度を変えて、このようなものが出現しうる新しい社会情勢に対応しようとしなかった。
そのうちに、下位制度はどんどん実力をたくわえ、律令制そのものを完全に形骸化してしまった。
われわれはこの歴史から学ばねばならないであろう。
たとえば現在の教育制度は六・三・三・四だが、すでに早くから予備校という、制度にはないものが出現して、現実は六・三・三・予備校・四となり、さらに「塾」というものが出来、六塾・三塾・三塾・予備校・四という形になり、そのうえ、膨大な売り上げと高収益を誇る「教育産業」なるものが成立している。
さらに「企業は教育機関だ」などという言葉まで出現し、「企業内大学院」ができている。
これらは、六・三・三制という制度ができた時点ではおそらくだれも予測しなかった状態なのである。
いわば予備校・塾というものは、六・三・三制の下位制度として、自然発生的に出現したわけである。
そしてこれがすでに制度の一部を形骸化させている。
すなわち、「無月謝・教科書の無償配布」で義務教育は無料のはずだが、家庭はこの下位制度には莫大な月謝を払い、テキストを買い、教育産業に膨大な売り上げと高収益を可能にする支出をしているのである。
これを見ながら、この形骸化を問題にせず、徒に、制度そのものを保持して行こうとする意見も強い。
一種の公家政権的意識かも知れぬが、これだけでなく、さまざまな面での教育制度の形骸化はすでに数多く報じられている。
と同時に、「塾」だなどというより、この方がまさに学校ではないかと思われるような立派な塾の記録もある。
いわば、新しい状態への対応を怠って、徒に法と制度と権限の保持に汲々としていると、下位制度はぐんぐんと実力をたくわえ、それに応じて本物の制度の形骸化が進んでいくという状態が、すでに現われているように思われる。
そうなっても、法と制度の改廃は行わないと言うのは、ある意味でまことに日本の伝統にふさわしいことかも知れぬが、伝統の中には保持すべき伝統もあれば、打破すべき伝統もあることを忘れてはなるまい。
といっても、この問題は民間では如何ともしがたいのである。「法と制度の改廃」は立法府と行政府のみが、関与・決定できる権限であって、民間にはこの問題を処理する権限はない。
ということは、少なくとも議院内閣制のもとでは、国会で多数を保持する内閣にのみ行いうるということであり、同時に内閣は国民に対してそれを行う義務をもつということである。
人類は長い間、法とか制度とかは変えられないものだと信じる社会に生きて来た。
これは日本だけでなく殆どの民族では、「定められた伝統的制度」は宿命のようなものであった。
停滞的伝統社会ではそれは必ずしも悪いことではなかったのかも知れぬ。
従って日本にもその伝統があることは少しも不思議ではない。
だが民主主義とは、国会の議決によって法と制度を変え得るという体制なのである。これは進歩がはやく変化の激しい現代の社会には当然に要請される制度であり、日本のように特にその速度がはやい国には最適の制度のはずである。
この民主制という制度は、最大限に活用されるべきであろう。
【引用元:「常識」の非常識/未来への構図/P250~】
この組織の形骸化という観点から、教育制度を見ていくと、やはり「教育無料化」という「解」は、全然役に立たないでしょうね。
少なくとも、塾に頼らずとも済むように「公教育」の充実を図ることの方が、先決であるような気がします。
そのほうが、「教育の機会均等」という面から見ても、理に適っているはず。
となれば、如何に質を上げるか?
これは一筋縄でいくような問題ではありません。
教師の問題、家庭の問題、地域の問題、受験制度の問題、いろいろな問題が絡み合っている。
それについては、おいおい考えていこうと考えていますが、こうした問題を考えずに「無料化」を叫ばれてもなぁ…。
そういや、
民主党のマニフェストに、「高校教育無償化」が掲げられていたけど、中身の変革は考えてなさそうだから、失敗に終わりそうな予感。
日教組と緊密な
民主党に変革が出来るか?と言えば、疑問ですね。てゆーか、無理でしょう。
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前回の記事『
社会保障が完備された社会があったとしたら、それは果たして「理想郷」たりえるだろうか?』とも併せて考えたい
山本七平のコラムを紹介します。
◆アメリカの不思議
ニューヨークヘ行ったところ、偶然の機会から、「戦後三〇年のアメリカ」というビデオを、ある宗教団体で見せてもらった。
トルーマンからアイク、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと移り行くうちに、社会がどのように変化し、悪化し、崩壊して行ったかを克明にたどっているビデオである。
少年ギャング、麻薬患者、児童虐待、街頭での殺人、少女売春等々が、これでもか、これでもかといった調子で登場し、同時にベトナム反戦運動、公民権運動、徴兵令状焼却、「人殺し」とホワイトハウスに向かって叫ぶデモ隊、警官隊の弾圧、ケネディの暗殺、キング牧師の暗殺、ニクソンの辞任等々の場面が入ってくる。
そしてそれを見ていると、少々不思議な気持になる。
というのはだれ一人、社会を悪くしようと努力しているわけでなく、人びとの叫ぶスローガンはすべて立派であり、平和、人道、博愛、反戦、人間の権利、差別撤廃、最低賃金制の確立、社会保証の充実が常に口にされ、しかもある意味では確かにその一つ一つが達成されながら、一方ではぐんぐんと社会は悪化していくのである。
なぜであろうか。
ビデオはそれを問いかけながら、何一つ解答は提示されていない。
一五年ほど前、全米を自転車旅行をした人の話を間いた。
当時はすべての人が親切で、こんな良い国はないと思い、さらに叫ばれるスローガンの内容から、もっともっと立派になると思ったそうである。
そこでもう一度自転車旅行をやろうとしたのだが、今ではそんなことは到底不可能だと思い知らされたという。
そしてその人は、一国がかくも短期間に、このような悪しき変化を遂げたことの理由を何とか探りたいと思ったが、だれに聞いてもそれはわからなかったという。
そして、以上のようなことから得た私の大変に乱暴な結論は、社会を良くしよう良くしようという努カがすべて裏目に出て、そのたびに社会が崩壊していったということであった。
というのは、どこをどう探しても、それ以外に理由らしい理由は見当たらず、個々の問題で人びとが口にする言葉は結局、要約すれば以上のようになってしまうからである。
たとえば最低賃金制が確立する。
すると使用者側は当然、生産性が高い者を雇用しようとする。
その際、それならば自分はもっと安い賃金でよいから雇って欲しいと思っても、それは許されない。
ただし、生活保護は受けられ、フード・クーポンが簡単にもらえるから、日々の生活には不安はない。
だが、政府というものはそれ以上のことはしないし、現実にできない。
では人は、その状態で精神的満足が得られるかとなると、そうはいかない。
人間はこの地上に出現して以来、何らかの労働によって食を得て来た。
と同時に、その社会の何らかの集団の中で一定の役割を演ずることによって精神的充足を得てきた。
その両方を失えば、精神的におかしくなるであろう。
しかし結婚をすれば、子供も生まれる。
そのためか、児童の虐待は少々異常である。
子供をオーブンで焼き殺したなどという例もあり、現にビデオには背中に大きく格子縞のような火傷のある子供が映されていた。
これは特異な例としても、宗教団体のカウンセラーが家庭訪問をすると、母親は大声でわめき散らし、手当たり次第に子供を殴打している例などは少しも珍しくないという。
そこには、もはや「崇高な母親像」など全く見られない。
育児を喜びとし誇りとすることで保たれて来た「母」という位置は、その責任がどこにあるのかあいまいになることによって消えてしまった。
確かに託児所も養護施設も完備しているし、この面でボランティアとして熱心に働いている人もいる。
しかしそれらが完備すればするほど、また従事する人たちが熱心になればなるほど、育児の責任はだれにあるのかわからなくなっていく。
以上は、ビデオで見せられたことと、それと関連なく聞いた話との二つから得た印象である。
印象はもちろん印象に過ぎず、アメリカは多様な国だから、それらとは別に、普通の生活をしている人も多いのであろう。
現に私の友人はすべてノーマルである。
しかしそこには、ある種の問題が提起されているように思う。
多くの人は、自然の破壊とか巨大産業とか機械文明とかに危惧をもっており、自然を尊重し、自然に順応すべきだと説く人は決して少なくない。
しかし不思議なことにその人たちは、人間もまた自然界の一員であり、おそらく何十万年か何百万年かをそれで過してきた「自然な生き方」というものがあり、自然を尊重せよというなら、まず最初に尊重すべきことはそれだということを忘れているように思われる。
アメリカ人が、社会を良くしよう良くしようと努力してきたことは、ことによったら「人間の内なる自然」の破壊だったのではないか、それは、ひたすら富める社会を造ってすべてを充足しようとしたことが、外なる自然を破壊して行ったのと同じことではなかったかと、ふとそんな気もしたのである。
【引用元:「常識」の研究/Ⅰ 国際社会への眼/P44~】
このコラムを読むと、社会保障のあり方ってどうあるべきなのか?と思いますね。
確かに、社会保障を整備することで救われる人たちがいることは否定できない。
しかしながら、必要以上に、それに頼ったりたかったりする人たちも出てくる。
確かに頼ることで、彼らは救われている一面はあるものの、その反面、彼らが「労働」と「その社会における自身の存在意義」を失いがちになることは避けられない。
その二つを失えば精神的におかしくなる、と
山本七平はアメリカの例を挙げて指摘していますが、これは日本でも同様じゃないでしょうか。
こんなことを言うと、働く女性から怒られてしまうと思いますが、子育てを他人に委ねてまで働く社会というのは果たして正常な社会なのか?
人間の本来の営みをおろそかにしてまで効率性を追い求め、富める社会を追い求める社会というのは、健全な社会なのか?
少なくとも、社会保障を「絶対善」と見なし、そればかりを追い求める社会が、果たして人間らしい社会と言い切れるか?暮らしやすい社会になるか?
疑問を感ぜずにいられません。
社会保障の一面に、人間性を破壊する副作用が潜んでいるのではないか?との恐れを抱く必要があるのではないでしょうか。
少なくとも、社会保障が無条件に良いというのは単純な思い込みであるように思います。
理想的な社会保障制度とは、人間本来が持つ「生活力」を損なわない程度に、抑制したものであるべきかもしれません。
とは言っても、現実の社会を見れば、昔社会保障の代わりを担っていた家庭や地域のコミュニティが崩壊している現状があることも事実。
難しいかと思いますが、社会保障一本やりではなく、家庭や地域の再生を計るべく対策を考える必要があるのでしょう。
そして、大切なことは、日本人の美徳である「勤労精神」を損なわないような、社会保障制度を構築していくことなのではないかと思います。
社会保障制度も、その勤労精神を基にした社会によってはじめて維持できるのですから。
母体を損ねない制度づくりが大切ですよね。
余談になりますが、そういうことを考えると、
生活保護不正受給の問題などは、厳しく追及していく必要があるのではないでしょうか。
そんな時、弱者救済を声高に叫ぶ共産党などが、不正受給に無関心であるのを見ると、本当に弱者のことを考えているのか非常に疑問に思えてなりませんね。
【関連記事】
・深谷市の生活保護不正受給について報道しない赤旗新聞FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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今回ご紹介する
山本七平のコラムには、
キブツが取り上げられています。
キブツって、
コルホーズや
人民公社のイスラエル版?という程度のイメージしかなく、このコラムを読んで
キブツの一面を初めて知ったわけですが、今回この記事をUPするにあたって一応wikiに当たってみました。
・キブツ(wiki)↑これを見ると、
キブツ人口は、イスラエルのたった7%に過ぎないようですね。この数字も、紹介するコラムを読むと「さもありなん」と言う気がしてきます。では引用開始。
◆「理想郷」からの逃避
(~前略)
キブツ・ノフ・ギネソールを見学する。
何回か来たキブツで、このホテル同様のゲスト・ハウスに滞在したこともあった。
いつ見てもその面影は変わらないように見えるが、年々施設は立派になっていく。
キブツは言うまでもなく私有財産のない共同体だが、キブツ自体の共有財産は蓄積されていくので、それが立派な施設になっていく。
歴史の古い大キブツはみな同じ傾向にあり、それは建設の意気にもえるというより、一応の目的を達してあとは徐々なる充実へと向かっている段階のように見える。
その昔、これらのキブツを訪れた進歩的な日本人はみなこれを絶賛したものであり、森恭三氏なども感動に満ちたベタボメの一文を発表している。
「人間の顔をした社会主義」などという言葉があるが、キブツはすでにその状態を通り越して「能力に応じて働き必要に応じて支給される社会」、すなわち共産主義者が遠い目標として掲げている社会を実現している。
キブツ・ノフ・ギネソールも、すでにその段階である。
そしてここは、社会主義国のように何も隠しておらず、ありのままを見せているから、人がその実情を知らずに「労働者の天国」と誤認することもない。
またここで数年働いた後にヘブル大学へ行った日本人学生もいるから、一切の実情は明らかである。
その学生の案内でキブツをまわり、その人の説明をきく。
日本語で自由に質問し、相手も自己の体験を交えて自由に語る。
それは共産主義社会がそのタテマエ通りに運営されればどういう状態になるかを、そのまま物語っているといえよう。
病院、産室、幼児室、小学校から高校、図書館、映画館、娯楽室、老人ホーム等々、文字通り「ゆりかごから墓場」までのすべてが保証されている。
また労働はすべて「能力」に応じ、老人になれば希望する者だけが一日二、三時間の軽労働という形で軽減され、虚弱者などもすべて労働が軽減されているが、支給は平等、能力に応じて働き、必要に応じて支給されている。
さらに、各種委員会は全部任期一年で、全員の直接投票で選出される直接民生制である。
また本部や共同食堂などの管理は、各作業グルーブによって輪番制で行われている。
食事は三食ともセルフ・サービスで同じものを食べるわけだが、品数が多いので選択の余地はある。
同時に病人食、老人食も用意されている。
それは、まるで絵に描いたような共産主義共同体である。
昔の進歩的日本人はアラブヘの配慮はなく、社会主義は手放しの礼讃の対象であったから、こういう状態に異常な感動を示し、これを人類の到達する理想の状態と見て不思議ではなかった。
しかし、今日このキブツを紹介された人びとの反応は達っていた。
多くの人がまず感じたことが、「この先に何かあるのだろう」ということである。
そのためか期せずして質問はここで生れ育った人はどうなるのか、自動的にこのキブツの中で一生を送るのか、ということであった。
確かにすべては保証され、失業も生活不安も老後の心配もないのだが、自分の一生がすべて見えてしまう状態に若い人が耐えられるのであろうか。
これがその質問の底にあった疑問である。
案内の留学生氏は次のように答えた。
「十八歳まではキブツで育てられます。そこで兵役があり、これが終わると一年間の休暇があります。この休暇の間は広く一般社会を旅行し、見学し、また働くなり遊ぶなりしてさまざまなことを体験し、その上でキブツに残るか、一般社会に出ていくか、自分で決断することになっています」と。
その決断は各人各様だが、総体的に言えばキブツの人口は増加しておらず、むしろ減少の傾向にある。
みな、何となくそうだろうなあという顔でうなずきあっていた。
「これで完成した」というその先のない社会は、どのように保証され、どのように快適であっても、人々の精神を充足しきれない何かがあるのであろう。
これも一種の閉塞社会かも知れない。
社会主義-共産主義体制は、理想的に運営されてもこういった状態であろう。
これがもし各人の意志でなく上からの強権で強制的に施行され、しかも秘密警察的監視があり、能力以上に働かされて物資が矢乏しているとなると、そういう社会から逃げ出せるなら逃げ出したいと思う人びとが多くても不思議ではあるまい。
経済的には何一つ不自由ないキブツで生れ育ちながら、資本主義社会の荒波の中へと去って行く若者も多いのだから――。
社会主義が魅力を失って当然であろう。
【引用元:「常識」の研究/Ⅰ 国際社会の眼/P38~】
このコラムに取り上げられている「
キブツ・ノフ・ギネソール」というのは、ググッて見てもヒットしませんでしたので、ソースがこのコラムだけというたよりない前提で、以下短い感想を。
これを読むとやっぱり「人はパンのみで生きるにあらず」と思えてしまいますね。
社会保障の完備した社会とは、未来の無い閉塞社会なのかもしれない。または、進歩の無い停滞社会なのかも…。
我々の頭の中には「社会保障は絶対的に善」という固定観念がありますが、少しは疑ってみる必要があるのではないかと最近よく思います。
次回も、これに関連すると思う
山本七平のコラムを紹介する予定です。ではまた。
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