新選 リーダーの条件 (PHP文庫)
(1995/06)
会田 雄次
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■”集団ヒステリー”の日本
精神病の世界的権威である斎藤茂太博士と対談したときである。
現在の日本にはヒステリーが多い。
社会的にも集団ヒステリー的症状を示す騒ぎがよく起こる。
欧米では今日は鬱病、もしくは鬱病的現象が多く、ヒステリー的現象が目立ったのはせいぜい第一次大戦まで、つまり三十年以上の前までのことだった。
これはどういうことを意味するのだろう。
そういうお話をうかがった。
私などには到底そういう現象を解明する能力はない。
ただもう少し大ざっぱに歴史を比較してみると、欧米の社会騒動や革命騒ぎなどには躁鬱病・鬱病的性格が見られ、日本のそれは昔からどうも集団ヒステリー的性格を持つように思われる。
ちょっとここで説明するとヒステリーは女性に多く見られるものだから女性的性格のものと考えられるが、むしろ幼児的な精神症状だといった方が正確なのである。
その第一の特徴は周辺の状況や自分の立場、能力など、いわば客観的条件を無視する、というよりそれと全くかかわり合いのない欲求をするということだ。
「名月を取ってくれろと泣く子かな」式の要求だ。
それは高望みというのとは異質の欲求である。
現実から遊難しすぎ矛盾が多くて男とか大人を呆然とさせるような要求を持ち出したり妄想をたくましくする。
第二にはその要求が即座瞬間的に満たされないと荒れ狂う。
鬱病者のように待てないのである。
第三には要求達成の準備や努力というものを一切しないということだ。
名月をとるため高い木に登るというような症状は起こさない。
じだんだ踏んで泣くだけというように。
もっともヒステリー集団は逆上して人を殺すことはあっても、冷静に、常人が聞いたら胆を潰すような大量殺人行為はやらないという「救い」もある。
その点は伝えられる旧日本軍の残虐行為とナチスの数百万といわれるユダヤ人のガス室殺害とを比較してみればわかろう――日本軍の殺害事件の被害者数はほとんどが数十倍、数百倍に誇張されて宣伝されている――。
どうして日本人はこのような性格を帯びるに至ったのか。
いろいろ原因はあろうが、私は米作をやってきた、それも南方の原産地諸国よりはるかに高能率な米作りをやってきたことにあると思う。
といって米作り農業が直ちにヒステリー的人間をつくるなどと主張するのではない。
米作は麦作と比べ同一面積では十数倍のカロリーを創り出す。
当然その地は高密度人口地帯になる。
日本ではとくにそうなる。
フランスは日本の一倍半の広さを持つ。
可耕可往地は七十五パーセント。
日本は二十五パーセント。
住み得る平地、丘陵地で比較すると今のフランスに四億五千万人が住んだら現在の日本的状況を呈することになる。
戦国時代から私たちは今日のヨーロッパ諸国の数倍の人口密度の社会に住んできた。
3DKに大家族が住むのと同じ影響を受けてきたといってよい。
ヒステリックにならざるを得ず、今日でもその条件から抜け出していないわけである。
ヒステリーはその人の身を滅ぼす。
集団ヒステリーはその集団を破滅の淵に追いこむ。
今の日本には、この種の社会現象が至るところに、ひきも切らず起こるようになった。
まだみんな小火災程度だと油断はできない。
それが一つにつらなって日本全体を焼きつくす業火になる恐れは決して小さくはないのである。
私は、そのような日本の狂奔のブレーキ役、バランス失墜を防ぐ錘(おもり)の役割を果たすのはいわゆる「地方」しかないと思う。
集団ヒステリーの発生地は東京、京阪神、名古屋、北九州の超大都市地帯である。
世界でも未曾有の巨大な人口の超密度はんらん源となったこういう土地はもう集団ヒステリーの暴走を自己制御する機能を失っている。
それどころか逆に、火をつけたり油をそそぐ人間や装置が集まり、増える一方である。
今日の日本のマスコミ情報はニュースといわず、PRといわず、すべてそこに煽動性を内含させている。
東京を主とする情報の大集散センターの社会の強度のヒステリー体質がそうさせているせいだ。
要は、この情報の巨大集散センター以外の人々が、そこから流されるヒステリックな情報に鈍感になることである。
冷静、いや冷酷に対応し、情緒的に同感同質化したりはしていただかないようにお願いしたいのだ。
「公害をなくするにはどうしたらよいか」
「日本人がみんな新聞を読まなくなったらなくなるよ」。
これは暴言でしかないが、公害の被害者と公害ヒステリー病者との区別をいいえて妙だと評価できないことはない。
公害ヒステリーは公害をなくするためになんの役に立たないばかりか恐怖すべき毒をまき散らすだけだといえよう。
■心情主義の危険性
このヒステリー社会を鎮静させるにはまずその症状を正しく見極め、それに対処するにある。
社会が悪いなどといって改革を叫ぶことはヒステリーの原因作りになるだけのことだ。
もっとひどい社会でもヒステリーとは関係のないところも多いのだから。
新幹線の名古屋駅から長髪の派手な服装をした若者が数人ドヤドヤと乗りこんだ。
人気者の芸能人なのだろう。
プラットホームにはセーラー服の中学生らしいのを中心に、数百人のローティーンの女の子がどよめいている。
警官が五、六人ロープを張り、声をからし、必死になって制止しているが、それをかいくぐった連中は窓にしがみつき、気が狂ったように窓をうちたたく。
若者たちは「うるせえな」とつぶやきながら傲慢にうなずいて見せる。
ともかく無事列車は出た。
こんな光景は現在の日本では至るところに見られるのだが、実はこれ、世界でも珍無類な特殊現象であろう。
というと人気者や珍物や崇拝者に群衆が殺到するのはごく当たり前の現象だ。
それを日本だけのことにして、また若者の悪口をいおうとするのだろうと考えられるかも知れない。
そういう反対論は、しかし、実は物の表面しか見ない「浅薄な意見」である。
たしかに「物珍しい」感情は別に日本人だけのことではない。
好奇心が強いのを日本人の特殊な性格のようにもいわれているが、日本のような荒海上の孤島とか、山国など、閉鎖社会の人間は大体、外界の存在に対し異常な好奇心を爆発させるものなのだ。
私の指摘したかったのは、この少女らの熱狂する態度なのである。
欧米人でも、インド人でも、アフリカの人々でも、そのようにして集まった群衆の顔は、多くは笑顔をたたえ、親愛の情を示している。
大騒ぎしてもそこには「遊び」という自覚とゆとりがある。
その表情には満足感とゆとりがある。
しかし、この少女たちの顔はことごとく醜くひきつれ、口を曲げ、多くは涙をボロボロ出している。
そして人とも動物ともつかぬあのキィーッといった絶叫をあげている。
別にこの芸人が死んだりしているわけでもないのにである。
だれが見てもわかる通り、それはヒステリーの発作に襲われたときの表情なのである。
日本人はヒステリー体質の民族だということは、このごろ宮城音弥氏をはじめ、方々で指摘されているが、この少女たちはそういう説を証明する一つの典型となろう。
ヒステリー体質の人間は勝気人間である。
勝気人間はよく強気人間と間違えられるが、両者は根本的にちがう。
強気人間とは本当の自信を持つから、個性的で孤立をおそれず、したがって他人に対し寛容である。
勝気人間の本体は劣等意識である。
その不安から、たえず他人に負けまい、人におくれをとるまい、損をしまいとあせっている。
そのための虚勢と、もがきが勝気となって現われるのである。
勝気人間は流行に弱く、権威権力に弱く、お世辞に弱い。
煽動にのりやすい。
一人のときは弱いが群衆となり、責任の所在が不明確になったとたんに気が強くなる。
こういう人を操縦するのは簡単だ。
貴方は正義人だ、真面目だとおだてるとすぐ調子にのるからである。
しかし勝気人の何よりの弱点は、論理で考え意志的に行動しないで、もっぱら情緒や感傷にふりまわされるということにある。
しかも、強気人間とは正反対に、自分は全く論理的だと信じこんで、絶対にその非を認めないという致命的ともいうべき欠点がある。
情緒や感傷は、人間のセックスや食欲などの動物的本能的要求や、きわめて物質的で利己的な欲望と密接して発動するものである。
夜霧にむせび泣いたり、去って行った男の残した吸殻に愛着を覚えたりするのは、たしかに詩的情緒があるかも知れないが、そのような感情の表出は、交尾期の猫や大にもはっきり見られるものだ。
だから駄目というのではないが、それを高い価値を持つものとか絶対的なものとして主張するのはひどい利己主義になることが多い。
女子中学生の芸人見送りの騒ぎなど、一般旅客の迷惑など頭から考慮の中に入っていない。
ヒステリー体質の人は、大人でも絶対にそれを正義の主張としか思わないのである。
公害反対も、くたばれGNPも、列島改造反対もよい。
しかし、それが情緒、つまり単なる心情的主張につきるなら、百害あって一利なしだ。
歴史を探るのはよいが、今のところそれは、NHK大河ドラマブームに乗って村里を荒らし、ごみで埋め、奇怪な便乗みやげ物屋を生み、村民を欲ぼけにしただけにとどまっている。
歴史的思考とは何の関係もない。
茶器ブームもよろしいが、茶器に喜ばれる例の破綻の美だ。
そのヒステリー的流行である。
たしかにそれは、自然のたわむれが生み出した美だが、その破綻は明らかに生産設備の不充分さと、生産過程の非合理性が生み出したものである。
陶器や日用道具ならよろしいが、飛行機の破綻となれば致命的である。
それは極端な例だというなかれ。
日本人の自然復帰論などは、そのような危険と結合しているのである。
もう一つの不安は、何もかもが政治化されている今日、何とか反対そのものも、歴史や日本人の心の問題も、奇怪な政治問題に帰着する可能性を持つということである。
煽動者は情緒や感傷をたくみに利用し、そのことで自分の野心を達成しようとする。
情緒主義の国民は、それに応じ、なだれをうって極端から極端へと走る。
マスコミがそれに迎合し、動揺の振幅はどうにも平衡回復できないところまで行ってしまう。
そのことは、戦前の苦い経験であったはずだ。
日本回帰も、歴史ブームも、自然回復も、そこに論理を入れないかぎり、ヒステリー症状が暴走し、日本を破局へと導く危険なしとはしないのである。
【引用元:新選 リーダーの条件/甘えと集団ヒステリーの社会/P201~】
今一番議論の的となっている問題に、福島県内の幼稚園や学校などでの屋外活動を制限する放射線量が年間20ミリシーベルト以上とされた事が挙げられると思いますが、この決定について、判断に至った基準やプロセスの不透明さについては確かに問題点はあるでしょう。
しかしながら、この問題への反応を見ていると、「子供」というファクターが働くことで、より情緒的な反応が働いていて、その主張が単なる心情的主張に偏っているように思えてなりません。
確かに、「原発に従事する作業員が被爆するレベルだ」と言われてしまえば、余りにも危険であるような気がするのももっともな話です。
しかしながら、この問題は、基準をより厳しくした場合に生じる別の悪影響や過去の人体影響調査データ等、様々な要素を冷静に比較考量して考えるべきだと思うのです。
子供を屋外で遊ばせない場合に生じるリスクと被爆するリスクを比べてどちらかを選ばざるを得ない有事の状況にあることを忘れ、無いものねだりの「名月を取ってくれろ」式の要求を反原発派の人々が行なうのならば、それは会田雄次が云うように「百害あって一利なし」の行為。
ましてや反論しようものなら、「人でなし」とか「自分の子供をまず試してから言え」とか感情的な反論が返ってくるようであれば、まさにヒステリー患者の言動そのものです。
こういう反応を見てしまうと、「トマスの不信(註)」を表明することが日本では許されない…との山本七平の指摘は的を得ていると思わざるを得ません。
(註)…過去記事↓参照のこと。
◆聖トマスの不信【その2】なぜ日本では、聖トマスが存在しないのか?
脱原発も結構ですが、そこに「論理を入れないかぎり」ヒステリー症状によって、日本を戦前のような危機に陥れる恐れが大きい。
まさに今の日本はそうした状況にあるのではないでしょうか。
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テーマ:ほっとけない原発震災 - ジャンル:政治・経済