なぜ、卑怯だと思うのか?……それは「本音」を隠しているから。
付け加えると、隠すのに必ず錦の御旗的スローガンを利用し、反対論者をさも加害者に加担しているような立場に置くことも非常に不愉快です。
彼らの主張を、私なりに整理すると、だいたい次のとおりになると思う。
1)別に日の丸・君が代を好きでも嫌いでもないが、強制される事を問題視しているから反対。
2)なぜ強制されてまで歌わなければいけないのか?海外の自由民主国家では強制してまでやっている例などないから反対。
3)歌わない自由、起立しない自由だってあるはずだから反対。
4)強制=戦前の軍国主義だから反対。
5)法制化→強制化→戦前回帰となるから反対。
6)日の丸・君が代は、過去の侵略のシンボルであり否定すべきものだから反対。
1)・2)・3)については重複するような気もするが、彼らの主張のほとんどはこのパターン。
4)・5)・6)については、あまり最近ではお目にかからないけど、これが彼らの本音だと私は思う。
それでは、なぜ彼らは4)・5)・6)のような本音を語らないのでしょうか。
それは、その本音に、合理的な理由とか根拠が欠けているからでしょう。
4)については、強制といっても、強制されるのは指導する義務を負うはずの教師だけであるから、戦前回帰になるわけでないことが明白だし、それは5)にもいえることです。
6)については、日の丸・君が代の歴史の一部に過ぎず、そのイメージだけを持っている国民はごく少数にとどまるから、反対論としては非常に脆弱です。
つまり、彼らの本音がベースでは、論拠が非常に乏しいのです。
これでは到底、ウヨどもに勝てん、世間に主張できん、というわけで、本音を隠さざるを得ないのでしょう。
そこで彼らが自らの主張を通すためにとった作戦が、「問題のすり替え」と「”錦の御旗的”スローガンの掲揚」なんですね。
まず、この問題を、「内心や表現の自由の侵害」とか「強制」という問題にすり替える。
そのために”あえて”教育委員会の方針に逆らうような行動をとり、当局の処分を引き出す。
(そういえば、広島県立世羅高等学校で卒業式当日に、君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する公務員である教職員と文部省の通達との板挟みになっていた校長が自殺するという痛ましい事件もありましたね。)
そして、その処分を「強制」だと断じて、自らを「内心や表現の自由を守ったがために処分された被害者」と規定する。つまりは「当たり屋」なんですね。
そうして、この問題を「内心・表現の自由」にすり替え、そうした耳ざわりの良い「スローガン」をぶち上げる。
そうすると、前述の1)・2)・3)のような理由を展開できるようになるわけです。
ここで、一応これらの理由についても、反論しておきましょう。
1)については、単なる強制ではなく、当然の職務を怠ったが故の強制であり、そうした職務を負わない立場においてまで強制されるものではないので問題とはならない事。
これは、その立場に立った者が当然行わなければいけない義務を放棄したに過ぎない問題なのです。バカ教師の行動を支持する人達は、この点を必ずと言っていいほど曖昧にしたがりますが。
2)の理由などは、白々しくてお話になりません。なぜこういう問題が起こったかの経緯を全く無視しているから。原因となった教師らの行動を無視し、「強制」の部分だけを問題にして、諸外国と比較するなんて全くのナンセンスでしかないと私は思う。
3)については、もちろん、そうした自由はあることは認めるが、それは時と場合によっては制限されるケースもありうると考えるのが常識でしょう。彼らの言い分では、こうした常識を無視してまで守られるべきとの主張になってしまっているのではないでしょうか。
まあ、彼らの中では、意識してやっている故意犯もいれば、無意識のうちに自分が被害者の立場に立たされたと思い込んでいる者もいるのでしょうけれど、その行動は結局のところ、「当たり屋」的になっていると判断されても仕方がないのではないでしょうか。
こうして分析してみると、やっぱり彼らは、卑怯であると思わざるを得ません。
話は変りますが、昔読んだ山本七平著「常識」の落とし穴 (文春文庫)には、元号廃止論者について書かれたコラムがあります。
今回の問題と構図が良く似ていると思うので以下紹介しようと思います。
◆「元号廃止論」の虚構
「常識」の落とし穴 (文春文庫)
(1994/07)
山本 七平
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大分前のことだが、「元号問題に関する座談会」なるものに出席したことがある。
私はこういうとき、どのようなメンバーによる座談会か、などということには全く無関心な方なので、何気なく出席して驚いた。
いわばそれは、「元号廃止論者」の座談会に等しく、それでは座談会にならないので、存続論者の私が「つるし上げられ役」として招かれたということらしい。
座談会が進行して行くうちに、私は少々バカらしくなった。
というのは「元号廃止」に結論を持って行こうと、みなが一心に論じているのだが、なぜ廃止が必要なのかの論拠が皆無なのである。
いわば「元号法制化は戦前の軍国主義につながる」という形で論議を進めていくので、私が思わず、「まさか、元号は軍国主義よりはるか以前からありますよ」といったところが、感情的な総反発をくった。
そのときつくづく感じたことは、まず第一に、この人たちの意図は本音は天皇制廃止であること。
ただそれを言うとあまりに抵抗が強いし、憲法上の問題が出てくる。
この人たちは一面では、「平和憲法絶対護持」を主張しているから、その矛盾を突かれると困る。
そこで戦術的にまず”外濠”を埋めるような形で、「元号廃止」に持って行こうとしているのだと感じた。
第二に、この人たちは元号について何も知らない、ということである。
知らない者が、勝手に熱をあげているというだけの感じである。
私はこのとき、この人たちの行き方を、少々卑怯だと思った。
というのは、自らの主張が「憲法を改正して天皇制を廃止せよ」なら、堂々とそう主張すればよい、と私は思った。
ところが相手は、そういったことはおくびにも出さないから、こちらは何とも言えない。
ただ珍妙な「元号存続=軍国主義復活論」という、騒音に等しい議論の進行を見守っているだけである。
少々耐えられなくなり、ちょっと説明させていただくと言って、定期改元と不定期改元、さらに一世一元制への移行、簡単にいえば、「元号の歴史」の要約を話した。
定期改元は、康保元年(西暦=以下同じ。九六四年)にはじまり、以後、万寿、応徳、天養、元久、文永、正中、元中、文安、永正と六十年ごとにつづき、戦国期のために一五六四年には行なわれず、一回だけが抜けて、ついで寛永、貞享、延享、文化、元治(一八六四年)とつづき、ついで明治の一世一元制になる。
つまりこれは甲子の年、そして原則としてその三年前の辛酉にも行なわれている。
そしてこの間に不定期改元が入る。
これは西暦でいえば九六四年から一貫して継続している日本の伝統であり、なぜこういう伝統が生じたかの説明は一応除くが、一千年以上つづいている伝統を、何でわれわれの時代に廃止する必要があるのか。
本当にその必要があるというなら、納得できる説明をして欲しいと言った。
彼らにはもちろん説明できない。
第一、定期改元、不定期改元という歴史的事実さえ知らない彼らに、合理的な説明ができるわけがない。
返って来たのは結局罵言に等しい大声だけであったが、その中に、宗教学者として、何かあると進歩的新聞にコメントの載る人がいたので少々驚いた。
お粗末すぎて話にならない、という以外に、言うべき言葉がない。
そのときの結論は、「元号を法制化すれば、やがて軍国主義が復活する」ということ。
私はうんざりして、もう何も言う気がなくなった。
何やらそれが本になったらしく、私にも一冊送られてきた。読む気にもならなかったが、一応、目を通して見ると、私の反論」というより「説明」は巧みに処理されており、「元号法制化=存続=軍国主義復活」がその結論となっていた。
この結論が正しいか否か、いずれ時が解答を出してくれるだろうと私は思った。
その本は、進歩的新聞で取り上げられたが、私は、どうでもいいという気分になっていた。
つける薬がないからである。
その新聞が、陛下の御不例とともに、新元号のことを、さも当然のことのように報じている。
時の経過はすでに正解を出していると言ってよいであろう。
戦後の進歩的文化人の凋落は何によって招来されたのか。
私は、すでに過去のことになり、みながもう忘れてしまったあの時の「元号論争」のことを思い出す。
オオカミ少年のような、言い放し、しかも本心は天皇制廃止なのに、それを隠して別の手段をとり、その主張には何の論拠もない、といったことを繰り返していれば、いつしか人びとは、その人の言葉に耳を傾けなくなるであろう。それはそうなって当然だという気がする。
【引用元:「常識」の落とし穴/民主主義の運命/「元号廃止論」の虚構/P126~】
このコラムを読むと、未だ彼らの行動パターンは酷似しているようですねぇ。
山本先生の最後の一文は、私のことを「奴隷根性の持ち主」と評された村野瀬さんに捧げます。
(まあ、彼女が読んでくれたとしても、蛙の面に小便でしょうけど)
蛇足ですが、山本七平って、当時から「つるし上げられ役」だったのですね。左翼の連中から目の敵にされた山本七平らしいエピソードではないでしょうか。
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