おめでたい日本人
現実の国際社会が憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義」で成り立ってないことを認識しているにもかかわらず、9条で日本の平和が保たれていると信じているおめでたい日本人がいる。
ある日本人哲学者の次の言葉が9条の本質を比喩している。
「もし憲法9条で日本の平和が保たれているならば、憲法に台風が来るなと書いておけ、さすれば台風が来ないであろう」
理想主義は、現実を無視すれば弊害になる。
理想を志向する現実主義でありたいと思う。
ミーさん、遅くなりましたが、コメントありがとうございます。
私はこのコメントを読んだ時、井沢元彦の「日本人=言霊(コトダマ)教徒」説を瞬間的に連想しました。今日はそのことについて紹介していきたいと思います。
そもそも言霊(コトダマ)とは何ぞや?と思われる方もいらっしゃると思いますので、辞書で調べますと次のとおりです。
ことだま【言霊】…言葉にあると信じられた呪力。【大辞林 第二版】
ことだま【言霊】…古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた。【大辞泉】
wikipediaや次のサイトにも概要が書いてありますので参考にしてください。
言霊 概要
声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発するとよいことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事がおこるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。(以下略)【wikipediaより】
井沢元彦ファンサイト「言霊の国」
言霊についてもっと詳しく知りたい方は、井沢元彦の書いた言霊―なぜ日本に、本当の自由がないのか (ノン・ポシェット)をお読み頂きたいと思います。
言霊が日本人の行動様式にどのような影響を及ぼしているのか、これから紹介していくわけですが、今回引用するのは次の本↓からです。
逆説の日本史〈3 古代言霊編〉平安建都と万葉集の謎 (1995/05) 井沢 元彦 商品詳細を見る |
これを選んだのは、もちろん「日本人=言霊(コトダマ)教徒」説を唱えているご本人の著書であるからですが、言霊信仰にどれだけ日本人が振り回されているのか、その結果、どのような影響が生じているのかを実にわかりやすく解説しているからなのです。
そして、護憲派のような非現実的なことを主張する人たちが、なぜ日本である程度勢力を保っていられるのか?という疑問について、ある程度答えていると思うからでもあります。
それでは、言霊と平和憲法について書かれている部分を引用してまいりましょう。
■戦後平和は「平和憲法」によって守られたのか
「物言えば唇寒し秋の風」という芭蕉の句がある。
俳句というより諺となっていると言った方がいいだろう。現に、辞典にも載っている。
(芭蕉の句)
人の短所を言ったあとには、淋しい気持がする。なまじ物を言えば損を招くという意に転用する。
(『広辞苑』岩波書店刊 傍線引用者)
なぜ「物を言えば禍いを招く」のか?
この「逆説」シリーズの読者はすぐにわかるはずだ。
言うまでもなく言霊のせいである。
正確に言えば「不吉な事を言えば禍いを招く」のである。
だから、今でも受験生のいる家庭では「すべる」とか「落ちる」といった言葉を口にしない。
これは「すべる」という言葉を口にする(コトアゲする)と、「受験にすべる」という「現実」が起こる、と心の底で信じているからだ。言葉の発声(コトアゲ)と「現実」の間に因果関係を認めているから、「縁起でもないこと言わないで!」ということになる。
もしコトダマなどまったく信じていないのなら、何を言われても平気なはずだ。ちなみに「縁起」はもともと仏教語で「因果関係」の意味がある。つまり「縁起でもない」と言うこと自体、「コトアゲによってコトダマを発動させて(原因)現実に影響(結果)を与えるな」と、無意識に言っているわけで、これこそまさにコトダマヘの「信仰告白」なのである。
コトダマが生きている世界、つまり現代の日本では、前節でも指摘した通り「真の言論の自由」はない。なぜならコトダマの世界では、「縁起の悪い意見」は事実上言うことができなくなるからだ。
もちろんいくら「言えば実現する」がコトダマの基本原則だといっても、日本人はそれを百パーセント信じているわけではない。弘法大師空海ならともかく、普通の人間がコトアゲしたところで、それが百パーセント実現するわけではない。それは、わかっている。
しかし、人によって「霊力」の差はあるとしても、コトダマの世界ではとにかくコトアゲすること自体、現実がその方向へ動くことを念じている(望んでいる)、と受け取られてしまうのだ。
具体的に言えば、昭和十五、六年頃、「このまま戦争をすればアメリカに負ける」という発言にしても、極端なことを言えばそれが「アメリカと戦いたいのだが今は実力不足で時期尚早である」という観点から為された軍国主義者の発言であっても、「アイツはアメリカに負けることを望んでいる非国民」だ、ということになってしまう。
動機が何であれ、「アメリカに負ける」と発言(コトアゲ)すれば、その内容(つまり「敗北」)が実現するように「ゴトダマを発動させた」ということになってしまうからだ。
だから「軍国主義者」ですら、慎重な発言をする人々はすべて排除されてしまう。そして「威勢のいい」軍国主義者の天下となり、そういう連中が「言論統制」を始める。
彼等の言論統制とは何か、といえば結局「アメリカに負ける」という意見を言わせない、ということだ。「一億が火の玉」となって「勝つ、勝つ」と言えば、「勝つ」のである。
それゆえに彼等は「敵性語禁止」という愚挙も本気でやった。
これは今ではほとんど忘れられているが、陸軍が中心となってやった「英語狩り」である。
「ストライク、ワン」と言うな「よし、一本」と言え、という。こんなバカなことを軍部は本当にやらせたのだ。
では、これは昔のバカな人開かやったバカなことかというと、とんでもない。今でもやっている。
たとえば「言葉狩り」である。コトダマの世界では、「言葉」と「実体(現実)」は双子のようなものだから、「差別語」という言葉さえ使わせないようにすれば「差別」という実体は消えてなくなる、ということになる。
だから、今でも、ちょうど昔の陸軍が「英語狩り」をやったように「差別語狩り」に血道をあげている人聞かいる。
この問題はいずれまた取り上げたいと思うが、戦前との比較で言えば、「一億火の玉」になって「勝つ」「勝つ」と言えば「戦争に勝つ」という考え方と、「平和」「平和」と叫んでいれば何もしなくても「世界平和が実現する」と思い込むことは、実は「コトダマ信仰」という点で同じなのである。
だから戦前「アメリカと戦争しても勝てませんよ」という正論を述べた人々が「非国民」扱いにされたように、今日「日本国憲法を守って平和、平和と叫んでいるだけでは、世界平和は達成されませんよ」と正論を述べると「平和の敵」(つまり「非国民」の戦後的表現)と呼ばれるわけだ。
こういうことを言うと、すぐに熱烈な「九条ファン」から罵声を浴びせられそうだが、ここは一つ冷静に考えて頂きたい。
日本国憲法は、国運憲章とは違ってあくまで日本人だけを拘束するルールである。外国人はそんなルールを守る義務も責任もない。
つまり、日本の近くに、「日本を侵略してやろう」という人間(国家)がいたとしても、それに対する歯止めには成り得ないのである。
こんなことは中学生でもわかる理屈だ。
それなのに日本人は「戦後の平和は日本国憲法によって守られた」と言いたがる。こんなおかしなことはない。
たとえば、これを銀行にたとえてみよう。
戦後半世紀にわたって一度も強盗に襲われたことがない銀行があったとしよう。
「なぜ一度も襲われなかったのか?」、こんな問いに対して、頭取が「ウチの銀行には、絶対に武力では物事を解決しないという社則があり、みんながそれを守っているからです」と答えたら、どうか?
誰もが、この人は頭が少しおかしいと思うだろう。銀行が襲われなかったとしたら、それはたまたま運がよかったか、それとも警備システムが優れていたか、のどちらかで、「平和主義の社則を守ったから」ということは有り得ない。
「日本国憲法によって戦後の平和は保たれた」というのも、結局これと同じ主張なのである。
私は日本の戦後平和は、安保(日米安全保障条約)と自衛隊という「優れた警備システム」があっだからこそ保たれたのだと思う。しかし、「進歩的文化人」をはじめとして日本には「戦後平和は憲法のおかげ」という理屈に合わないことを主張する人々が、まだまだたくさんいる。
どうして、そうなのか。
もう、おわかりだろう。コトダマである。
コトダマの世界では、「平和、平和」と「一億が火の玉」になって念じていれば「平和」になるのである。つまり「平和憲法」というものがコトダマ信仰の対象になってしまっているからである。
以上読んでみて思うのが、戦後の左翼と戦前の軍国主義者は表現が「裏返し」なだけで、行動様式はそっくりだということ。彼らは戦前に生まれていたら、立派な軍国主義者だったのではないでしょうか?
次回は、この続き「日本人が契約下手なわけ」について紹介していく予定です。ではまた。
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