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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「事実の認定」を政治的立場で歪める人たちがもたらす「害悪」とは?

最近の原発を巡る論争を眺めてて、非常に気になるのが「自分の主張に不都合な事実は認めない」という態度ですね。
実はこれが、どれだけ深刻な問題を惹起しているのか。

今日は、それを判り易く指摘した山本七平の記述を紹介していきたいと思いますが、ご紹介する部分の記述の前段を、過去記事でご紹介していますので、まずはこちら↓をお読みいただいてからの方が判り易いかも知れません。

◆「神話」が「事実」とされる背景


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(1988/08)
山本 七平

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■横井さんと戦後神話

(~前略)

神話というものは、それくらい強力な浸透力をもつものなのである。
そしてひとたびそれが浸透してしまうと、もう動かせなくなる。

すべての人は、自己のうちなる神話に抵触しまいとして、どうしても触れねばならぬときは、「われらのうちなる横井さん」のように語るか、大体そこは避けてふれない。
そしてその神話が事実でないことを知っている人自身が、率先して、その神話を事実だと証言する

どうしてこうなるのか。
否これは人事ではない。

私自身が、やはり、「戦後神話」に抵触するときは、それをロにするとき何か「決心」のようなものがいるのである――全く戦前と同じように。

「決心」がいるということ自体が、私の中にも「われらのうちなる横井さん」がいて私を制止しており、私がそれを振り切っているはずなのである。

なぜそうなるのか。
いまは軍部が言論統制しているわけではあるまい。
それならなにが私にそういう「自主規制」を強いるのか。

戦争中日本軍が行ったさまざまの残虐行為は、ほぼだれの耳にも入らなかった。
だれもロにしなかった。


それを知っているはずの人が真先に否定して神話を事実だといった
これは言論統制のゆえであろうか。
軍部の横暴のゆえであろうか。

「軍部」とするのはおそらく「戦後神話」であって、事実は、このことを口にさせないために、何らかの「権力」が介入する必要はなく、おそらく介入の余地もなかっただろうと私は思う。

というのは、そんなことはしなくても、その事実を知っている人間が、真先に神話を事実だと言って、逆に事実を否定したに相違ないからである。

というのは、横井さんの発言の背後にだれかがいて、あのように語れと統制しているわけではないからである。

私にそのことを考えさせたのは、『海外評論通信』という定期刊行物のある記述であった。
この社は元来は版権代理店であって、海外の出版社の「新刊情報」を知らせてくれる、いわば私の取引先である。
従って新刊情報以外にあまり興昧はないのだが、何気なく通読しているうちに、思いもよらぬ記事につきあたった。

それは南ヴェトナムのビン・ディン州北部三地区を、北ヴェトナム軍とヴェトコンが占領している間に、どのようなことが行われたかを、アメリカ・南ヴェトナムの合同調査班が、六十七名の男女に長時間面接調査し、うち四十四名の談話をテープに記録したその記録の一部である。

公開処刑・大量虐殺、恐ろしい虐殺死体の下で血のため窒息しそうになりながらかろうじて逃げ出して来たゴンという男の話――私はこの記述が事実かどうか知らない。

いま私か問題にしたいのは、そのことてなく、この記述への私自身の態度である。

このことは日本の新聞には一切出ないであろう

それはそれでよい、戦争中も、日本軍による同じような事件は一切出なかったのだから、今さらそれを異とする必要はあるまい。

また現地の実情を知っている人は、これを「事実」だと判断したらその瞬間に逆にこれを否定し、神話を事実だというであろう。
それもそれでよい、今さら、そうしてほしくないなどとは言わない。

私か問題にしたいのは人事ではない。
私自身のことなのである。

私自身がこのことに触れるのに、一種の「決心」がいるのである。

何かが、いや何かではない、「われらのうちなる横井さん」が私に、「それには触れるな。それは『戦後神話』に抵触する。神話に抵触すると、どんな大変なことになるか、戦前の体験でお前はよく知っているはずではないか」と囁くのである。

今は確かに民主主義の時代なのである。
言論は自由なはずである。
そしてこれは外国の事件にすぎない。

それですら一種の「決心」が必要とあっては、これが日本軍のことで、しかもそれが戦時中であれば、統制などはしなくてもだれも触れまい――触れろと言われても触れまい。

今ですら「神話の軍隊」なら、それが何をしようと絶対にだれも触れないのだから。
否、他人のことはどうでもよい、私白身が触れたくないのだから。

一体なぜか。
何かこわいのか。

これらのことは一体何に起因するのであろうか。
一体なぜ「われらのうちなる横井さん」が絶えず私に囁くのだろう。

いろいろな理由があると思うが、その一つと思われることを記したい。

前に私は、日本が満州事変から太平洋戦争に道んだ道程にも、新井宝雄氏の考え方にも「是・非」と「可能・不可能」の判別がつかない点に問題があるとのべた(註)

(註…過去記事「日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~」参照のこと。)

同じような視点で今の問題を取りあげれば、それは「事実の認定」と「思想・信条」とは関係ないということ。
これが理解されていないということであろう。

ロマン・ロランの『群狼』は、この問題をも取りあげている(と私は思う)が、たとえ自分が断固たる共和党員であり、陥れられたのがにくむべき王党員で、陥れたのが自分の同志の共和党員で、しかもそれが戦闘中で、その共和党員が戦勝のため不可欠な人間であり、さらにもし事実を証言してその共和党員を告発すれば逆に自分が孤立するとわかっていても、「事実は事実だ」と断言できるかどうか、という問題であろう。

こういう戯曲が書かれたということ自作が、この問題はわれわれだけの問題でなく、私などには到底論じ切れない人類永遠の問題なのかも知れない。

だがそういうむずかしいことは一まず措くとして、非常に浅薄な面でこの問題を取りあげるとすれば、過去において日本を誤らした最も大きな問題点は、ある事実を認めるか認めないかということを、その人の思想・信条の表白とみた点であろう。

だがそうすると、事実を歪曲することが、正しい人間の正しい態度だという、実に奇妙なことになってしまい、これを避けることができず、そしてそれを重ねて行くと対象がつかめなくなるという結果に陥ってしまうことである。

ロランの指摘の通り、王制を糾弾することは、ある事実を曲げて故意に誤認を強要し偽証せよということではない。
それをすれば、自らが糾弾さるべき王制以下になってしまう。

そういう倫理的な問題は別としても、ある事実は目前につきつけられてもこれを認めず、それに対立する事実は針小棒大にし、そうすることを、一種の正しい態度乃至はその人間の思想・信条の表白としていくと、最終的には自らの目をつぶし、自ら進んでめくらになるという結果になってしまうのである。

その態度を外部から見れば、ただただ異常というほかはないであろう。

在米の藤島泰輔氏はアメリカにいてある日本の週刊誌を読んだ読後感を『諸君!』に次のように記している。

最近、ある日本の週刊誌が『現代アメリカのすべて』という増刊号を出したが、それを一読したとき、私は腹を立てるよりも先に呆然としてしまった。
その中に銀座三越前で街頭録音をした『アメリカってなんだろう』というページがあった。

答えている通行人はほとんどがアメリカを知らないのだろう。

「生産性のない国、といえるんじゃないの(25歳、会社員)」
「最近は何となくイメージかわりましたねエ。昔は富める国だったのに、今では日本の鼻息うかがってるんてすってねエ(35歳、主婦)」
「破滅寸前の国じゃないか。ヴェトナム戦争の終結ぶりを見たってわかる。なにも日本はノコノコ追随して行くことはないよ(21歳、早大生)」
「めちゃくちゃな国ですね。日本をもっとひどくするとあんな感じになるんじゃないかな(20歳、立大生)」


生産性がなく、日本の鼻息をうかがっている、破滅寸前の、めちゃくちゃな国、と、この四人の日本人のいっていることを要約するとそうなる。
日本は言論自由の国だから、何をいうのも勝手なのだろうが、これは少々行き過ぎではないか。

現在の日本と比べたら落ちるだろうが、アメリカの生産性はなお世界有数である。
日本の鼻息をうかがっているなどといったら、ワシントンの大統領側近は抱腹絶倒するだろう。

破滅寸前、めちゃくちゃな国に至っては、アメリカを知らぬにもほどがあり、こんなことをいう人間が最高学府に籍を置いているとは何としても信じがたい。


「信じがたい」ことが常に起るのである。
私はその昔、この「怒るより呆然」とした顔を何度も見た。

私のいた学校では、多くの教師や講師がアメリカに留学していた。
そして日米関係悪化とともに続々と帰って来たが、故国日本の人びとの対米認識を見て、みなただただ「呆然」としていた

F教授が、勇敢にも全校生徒を集めて、講演をした。
しかし一回でやめた。

私はその理由をきいた。

同教授はさびしそうに「何をいっても『アイツ、カブレて来やがった』でおしまいになるなら話っても無意味だ」と。
そしてそのことは、今では、横暴な軍部の言論統制のゆえだとされている。

では一体全体、今でもどこかに軍部がいて、それが言論統制をしているが故に、藤島氏がかつてのF教授たちのように「怒るより呆然」として「信じがたい」と言っているのであろうか。

昔も今もそうではあるまい

では、新井宝雄氏のいわゆる「一握りの軍国主義者」が昔も今も全日本人をだましているのか。
これもまた、そうではあるまい。

ヴェトナム戦争におけるアメリカを非難するということは「アメリカ弱体グロテスク神話」を事実だとすることではない
戦前の日本人はこれをやった

そして「われらのうちなる横井さん」は、すぐさまその神話を事実にした。

そのためにアメリカという対象は歪曲に歪曲を重ねられ、ついに、正確にこれを把握することがだれにも出来なくなった
おそらく今と同じような状態で、そこで「破滅寸前の国」だから、真珠湾を叩けばつぶれてしまうであろう、というわけだったのだろう。

事実を知っている人はいた。

しかし神話と抵触する事実をロにすれば、それは、「米帝の手先」ということになり「億八分」になるから、「事実」を知っているものの方が、前述の「嫌疑」をうけないため、横井さんのように率先して「アメリカ破滅寸前国神話」を口にしたのである。

アメリカ留学が長く、同地を実によく知っているがゆえに、戦後「教職追放」になったある教授を見ていると、私は「われらのうちなる横井さん」を思い浮べないわけにはいかない。

そして、そうならない人は沈黙していたのである。

「事実の認定」を政治的立場で歪めることをロマン・ロランは最大の不正の一つとした
確かにその通りであろう。

そしてこの不正を重ねていくと、対象をゆがめることによって、前述のようにいつしか逆に自分が盲目になり、破滅へと進んでいく
われわれはまた相当に、その方向へと進んだようである。

一度踏みとどまってみよう、問題はおそらく、簡単なことにあるのだから。

この問題を最も単純な図式にすれば、それは見たことは見たのだ、間いたことは聞いたのだ、白かったら白かったのだ、排尿したら排尿したのだ、――そこにあるのは音と色と形象と生理現象であり、それらはすべて「人間という生物」の営みであり、その人間がどういう思想をもとうと、あったことはあったのであり、それはだれにも消せないという、ただそれだけのことなのである。

われわれはそれを感覚した、感覚し終って過去になってしまったものは、もはやわれわれの力で現実の世界に再構成できるわけはない。
自分の意思通りに世界を再構成できる者がいれば、それは、「神」であって人ではあるまい

そしてこれが出来たと思ったときに、その者は実は自らを盲目にしているのである。
おそらく、基本的には、それだけのことなのである。

(終わり)

【引用元:ある異常体験者の偏見/横井さんと戦後神話/P257~】

上記の記述を読むと、最近の日本の言論空間状況を端的に指摘しているとしか思えませんね。

「事実を事実だ」と述べることに「決心」が必要とされる日本の言論空間。
それはつい最近「100msv以下は健康に問題がない」とアドバイスして叩かれた山下教授の例をみても何ら変わっていないことが明らかです。

なぜ日本には言論の自由がないのか?
なぜ発言に「自主規制が強いられる」のか?

その原因の一つとして、日本人が「事実の認定」を政治的立場で歪め易いからでは…と山本七平は指摘しているのですが、なぜ日本人は歪める傾向が強いと言えるのでしょうか?

空気に支配され易いからかもしれない。
それではなぜ空気が支配してしまうのか?

愚考するに、これは日本人の欠点である「情緒過多」が一因ではないでしょうか。
幾ら冷厳な事実であってもそれが「正視に堪えない」ものであるのなら、それを突きつけるものが「人でなし」とされがちな社会ですからね。
日本社会は「感情優先」で物事が判断される社会であることが作用していることは間違いないでしょう。

このように「情緒過多」になってしまうのも、とにかく純粋であることを良し!とする日本人の「純粋信仰」が大きく影響しているような気がします。
動機さえ純粋であれば過程や結果は問わない傾向が、事実を歪め、白を黒と言わない者を排除する日本社会につながっているのではないかと。

3.11以降、東電や政府の隠ぺい体質が非難され、その原因として原子力ムラとか記者クラブとかが「諸悪の根源」のように槍玉に挙げられていますが、それはおそらく本質を外れた的外れな非難だと思います。

本当の原因はおそらく「ある事実を認めるか認めないかということを、その人の思想・信条の表白とする」日本人の傾向そのものにある。
それが時には排除を生み、言論の自由を制し、そのためには隠蔽だろうが口封じだろうが許されてしまう。

それを打破するにはどうしたらいいか?
それはやっぱり、皆が「自分の主張に不利な事実でも、事実として認める」姿勢を取る以外にはないのだろうと思います。

それが出来ずこのまま情緒優先で流されていくのであれば、いずれ第二の敗戦は必至でしょう。
間違いなく、今の日本はその方向に一歩近づいています。

それを止めるには、ホンネが許されるネットがキーになるんじゃないでしょうか。
そういう意味では、私は密かにネットに期待するところ大なのであります。

相変わらずまとまりませんが、この辺で。
ではまた。

【関連記事】
◆感情国家・日本【その4】~「市民感情」がすべてに優先する日本~
◆「神話」が「事実」とされる背景
◆日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~」


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貴方は政治家に何を期待するのか?/~政治家に要求される4つの「期待の倫理」とは~

だいぶ更新が滞ってしまいました…orz。

その間に、菅首相から野田首相へと内閣が替わったかと思えば、もう大臣が一人辞任するとは、相変わらずグダグダな展開を維持してますね。困ったもんだ。

今日はそういった政局から離れて、政治家がどのような役割を期待され、国民がどのような期待をしているのか、そしてそれがどういう結果をもたらしているのか。

山本七平のコラムを引用しながら考えていきたいと思います。

まず、日本では、政治家はどうあるべき、と思われているのか。
山本七平の分類を見ていきましょう。


「常識」の研究 (文春文庫)「常識」の研究 (文春文庫)
(1987/12)
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■期待の倫理

「期待の倫理」という言葉をいまさら説明する必要はないと思うが――ある社会的地位に、ある種の特別な倫理が期待されるのは当然のことであり、この原則はいずれの国、いずれの時代であれ変わらない。

簡単にいえば一般市民には当然とされても神父には絶対に許されない行為があり、また戦場では、一般市民なら当然だが、軍人がそれを行えば軍法会議で死刑の判決を受けねばならないという行為もある。

いわば、ある社会的地位にある者に当然に期待される倫理であり、その際「だれでもやっている行為ではないか」という抗弁は当然に許されない。

これは当然であろう。

だが、この倫理のもつ問題点は、その倫理的規範の基準が明確でないときに現われる

特に最近のように政治倫理が問題とされるとき、日本の政治家にとっての「期待の倫理」の基準がどこに置かれているのか、少々、考えざるを得なくなる。

そこで以下、簡単に問題点を要約してみよう。

原則的にいえば民主主義社会における政治家への期待の倫理は、一般市民倫理と変わりはない

しかし権力は魔物であり、一般市民が聖人でない以上、長くこれを掌握すれば必ず腐敗するがゆえに、一定期間で合法的に権力を交替させる装置が必要である。
これが前五世紀のアテネのソロンの国制以来の民主主義の考え方であろう。

だが中国にはこのような考え方はなかった

ただこの国には「聖人君子」という明確な理念型があり、皇帝がもし聖人で士(官僚)が君子であれば、理想的であった。
そのため聖人の定めた「聖人君子の規範」を体得している者だけが政治に参与すべきで、それを選抜するため科挙という試験があった。

従って、この試験に合格しなかった者、またはじめからこの方面に関心がない庶民は、政治にタッチすることは一切許されなくて当然であった。

過去の中国では政治家とはつまり官僚であり、それ以外に政治家という概念は原則として存在しなかった。
従って政治家への「期待の倫理」は当然に「聖人君子」であり、その規範に違反すれば糾弾されて当然であった。

この考え方は、民主主義とは関係がない

しかし日本は中国の影響を強く受けているから、政治家へのこの種の「期待の倫理」が常に潜在していることもまた否定できない。

しかし日本では、その考え方を基とする制度を確立したことは、一度もないと言ってよい。
現実に政権を担当してきたのは武士であっても、士大夫ではなかった。

このことは政治家に武士的特に下級武士的規範を要請し、さらに維新の志士的要素もこれに加味されることになった。

特に戦前の地方政治の担い手は地主階級を基とする地方名望家であり、その人びとがいわゆる「井戸塀」となって政治に奔走したことを、今もなお一つの理想型のように言う人もいる。

いわば「妻は病床に伏し、子は餓えに泣く」であっても国事に奔走した維新の志士と名望家とのダブル・イメージであろう。

だが、この期待の倫理も民主主義とは関係ない

さらに日本には、京極純一教授の指摘される「カタギ」「ノン・カタギ」という職業分類があり、それぞれへの「期待の倫理」の規範が違っていることも事実である。

そして「ノン・カタギ」なら当然とされても「カタギ」には絶対に許されない行為が日本にあることもまた否定できない。

そして、政治家を「ノン・カタギ」に入れていることは、同教授の指摘される通りであり、ここで要請されるのは「ノン・カタギ」への期待の倫理となる。

以上のように見ていくと、「市民」「聖人君子」「志士・名望家」「ノン・カタギ」という相異なった四つの規範が、政治家の期待の倫理の中に混在していることがわかる。

期待の倫理は、それを期待される側には当然に自制の倫理となる。

だが、この倫理の規範は以上四つの混在だから、どの規範に従えば、それが期待に正しく対応しているのかどうか、判然としない

たとえば選挙民が代議士に裏口入学や裏口就職の斡旋を依頼するとすれば、その人が期待するのは相手の「ノン・カタギ」としての行動であっても、「聖人君子」のそれではあるまい

従って、その期待に反すれば当選できまい。

一方、政治的識見や能力はゼロでも、絶対的清純というイメージを新聞などで定着させて当選する者はこの逆で、それは科挙抜きの政治能カゼロの「聖人君子」であっても「ノン・カタギ」ではあるまい

また何かへの反対運動その他で、一切を無視してひたすらそれに専念することが評価されるならそれは「志士・名望家」型であろう。

だが以上はいずれも、民主主義下における政治家への「期待の倫理」であってはなるまい

それは、普通の市民倫理と政治的識見と能力だけでよいはずである。

【引用元:「常識」の研究/島国の政治文化/期待の倫理/P231~】
政治家の倫理の規範は上記のように四つに分けられる、という分析はなるほどと納得されられるものがありますね。
そこで、妥当かどうかかなり怪しいですが、ちょっと自分なりにパッと思いつく人物を分類してみますと、

「ノン・カタギ」の代表格:(利権配分の才能を持つという点で)小沢一郎
「聖人君子」型:(無能かつ疑いなき善意の持ち主という点で)鳩山由紀夫
「志士・名望家」型:(市民運動家であり、名声を欲するという点で)菅直人
「市民」型:(そこら辺に居そうなオジサンということで)野田佳彦

といった感じになりました。
こうやって見ると民主党も多士済々(?)ですなぁ(笑)。

しかし、こうした幾つかの異なる倫理規範が混在している事というのは、あまり宜しくないですね。
これらの異なる倫理基準を、場面場面に応じて使い分ければ、幾らでも気に入らない政治家を失脚させることが出来てしまいますから。

マスコミの報道姿勢などを見ていると、その使い分けが良く判ります。
例えば麻生首相の漢字読み間違い報道は、「無能」のレッテル貼りに役立ったし、バー通いは「清純」から程遠いイメージを植えつけることに成功しました。

ところが、民主党政権になった途端、そのような報道はパッタリと息を潜めました。
マスコミはこうした倫理規範の恣意的な適用を平然とやらかすので、注意しなければなりません。

こうしたマスコミに振り回されない為にも、やはり山本七平が指摘するように、政治家には「普通の」市民倫理・政治的識見・能力を具えていれば良し!とすべきなのでしょう。
政治家に過度の清純を求めたりするのも、(福島みずほみたいな)反対することしか知らない純粋馬鹿の市民運動家を選ぶのも間違いです。

特に英雄を必要としない守成の時代ほど、そうあるべきです。
英雄が求められるのは、乱世だけでいいのです。

しかし、国民は、一方で「ノン・カタギ」的役割を政治家に要求しつつ、他方では「聖人君子」であれ!と要求する。
これでは、偽善的な政治家ばかりになってしまうでしょう。

国民も自らが従っている「普通の」倫理規範程度で我慢すべきなのです。
刑法に触れない程度のモラル・マナー違反には寛容であるべきでしょう。

この「期待の倫理」について触れている別のコラムも以下紹介します。

■政策論争抜きの報道

(~前略)

混迷の時代には、人びとの意識は保守化する。
これは何も政治だけの問題でなく、たとえば私自身の出版業にしても、先行きがわからないときに、社の性格を根本から変える大転換をやろうなどとは思わない。

何か新しい試みをやろうとするときは、先行きが安泰ですべてが予想できると思われる場合に限られる。

人間にとって、政治意識だけが、他の意識とは無関係に独立しているわけではない。
そして政治が身近に感じられれば感じられるほど、それは全般的な生活意識の中に組み込まれるはずである。

こういう状態における「政策論争抜きの選挙」は、人を現状固定へと向かわせて当然であろう。

もちろん人間は倫理問題に敏感である。

しかし、社会的体験のある人間の倫理感が、いずれの時代、いずれの国であれ、一種の「期待の倫理」であることは否定できない。

たとえば俗にいう「飲む・打つ・買う」でその点では倫理的にゼロだが、仕事の腕はよく、また絶対に手抜きをしない職人と、ちょうどそれと逆の職人とがいたら、人はどちらに発注するであろうか

この場合、人は前者に発注しても後者に発注しないのが普通だが、これは前者の一般倫理には期待しないが職業倫理には期待しているということである。

この場合、この人間の存在が否定されるのはその職業倫理にさえ期待できなくなった場合である。

そしてそれ以上のことは周知のことだから、いくらそれを批判しても人は別に驚かず、そのために発注をやめることはしないのが普通である。

と同時に、もし後者が、一般倫理の点で批判されれば、その人間の存在理由はそれだけで喪失してしまう。
一部の政党の凋落にはこの面が表れていると思われる。

結局、選挙運動中日本におらず、投票直前に帰国した者の印象は、政策論争抜きの倫理的誘導方式は、その意図する者の逆効果しか生じなかったということである。

自らこの方式をとりながら、社会に向かって嘆息するのは偽善であろう。

【引用元:「常識」の研究/世論と新聞/政策論争抜きの報道/P96~】

「一部の政党の凋落にはこの面が表れている」との指摘は非常に面白い。

共産党などは、まさにこの典型例でしょう。
政党交付金も貰わずに清貧を貫くことで、一定の支持を得ている。

「能力」ではなく「姿勢」で信頼されている支持層に支えられている訳です。

このように、いわゆる「能力」ではなく「姿勢」で支持されている政党が、そのイメージを否定するような不祥事を起こせば、ただでさえ数少ない支持がますます減ってしまうのは自明の理でしょうね。

そう考えると、民主党なんて元々労組・日教組等を母体とする旧社会党と自民党から離脱した金権田中派の野合でしかなかったのに、看板の掛け替えで、自民党に代わり得る国民政党に脱皮したかの如く装い、清新なイメージを国民に植え付ける事に成功した訳です。

しかしながら、政権に就くと、もともと疑われていた「能力」が無いことがハッキリと露呈し、なおかつ清新な「姿勢」すら虚像であったという事が明らかになってしまった。

こうなると近いうちに存在理由すら否定されてしまうでしょう。

おそらく、民主党は、次回の衆院選で崩壊してしまうのではないでしょうか。
ま、民主党は消えてもらった方が日本の為ですから、それはそれで慶賀すべきことですが(笑)。

ちょっと考えてみれば、あれだけ失言し放題の石原慎太郎都知事が失脚しないのは、彼が期待されている「職業倫理」に忠実であるからとしか思えません。

何はともあれ、誰しも政治を語る時は、まず自らの批判が「職業倫理」に基づいているのか?それとも「一般倫理」に基づいているのか?

まず、そこを整理しましょう。

そして、その二つを都合よく使い分け、政治家を批判する事は慎むこと。
そうしないといつまでたってもマスコミの扇動に振り回されるだけだと私は思うのですがねぇ…。

なんかまとまらないですが、本日はこの辺で終わりにいたします。ではまた。

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名曲紹介:ブラームス交響曲第2番第4楽章で逝っちゃったでござる。の巻

最近、すっかり更新が滞ってしまいました。
今の民主党政権のていたらくを見ていると、どうも書く気が起きないんですよ。

それはさておき、今日は久しぶりにクラッシック音楽を堪能してまいりましたのでチョロッと感想でも。

たまたま先日、地元川越で武蔵野音楽大学の管弦楽団がコンサートをやるとのチラシを見かけまして、それが僕の大好きなブラームスの交響曲第2番ではないですか!!

これは行くっきゃない!と思いまして、本日川越市民会館へ行ってきました。

演目は次のとおりでした。


グリンカルスランとリュドミラ序曲
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調Op.16
ヴェルディ椿姫より「ああ、そはかの人か~花から花へ」
ブラームス:交響曲第2番ニ長調Op.73

指揮:カールマン・ベルケシュ
ピアノ独奏:岩永 圭司
ソプラノ独唱:佐藤 美枝子
管弦楽:武蔵野音楽大学管弦楽団


まぁ、メジャーな曲ばかりだったので、退屈せずに楽しめました。
しかし、メインにブラームスの第2番を持ってくるとは、憎い選曲だ。

ブラームスの交響曲といえば、ハズレなしの逸品ぞろいだが、やはり一番ポピュラーなのは、第1番。

この曲は、ベートーベンの第十交響曲とも言われてる程の名曲でブラームスの代表曲。約20年ほど掛けて作られたといわれているだけあって中身がハンパなく濃ゆい。
第4楽章など鳥肌ものだ。

もちろん、僕も大好きなのだが、ちょっとブラームス通になると、あまりにメジャー過ぎる処が鼻に付くというかなんというか…。

という訳で、そんな自分が一番お気に入りなのが、今回聴いた第2番なのです。
全楽章素晴らしいのだが、中でも第4楽章はたまらん。

下世話な表現で申し訳ないが、何度も寸止めでじらされながら、クライマックスに上り詰めていくような感じ。
とにかくブラームスならではの、官能的に刻んでいくリズム感がハンパない。
メロディというより、リズム感でイカセるって感じ(笑)でしょうか。

学生オケなのであまり期待してなかったのだけど、今回の演奏でもちょこっと身体に電流が走る感覚を味わうことができました。
これがあるから生演奏は止められないですわな。

ついつい、家に帰ってから、いいビデオクリップがないかな、とyoutubeとかニコ動を探してみると、バーンスタインの指揮したやつがあった~!!

ということで、ニコニコ動画の第4楽章の演奏リンク↓貼っときます。
バーンスタインの棒振りはホント見ていてカッコいい!の一言。

是非、彼の指揮で逝っちゃってください(笑)。


ニコニコ動画が見れない人はヤンソンス指揮↓のを見てね。
■Brahms: Symphony No.2 (BRSO / M.Jansons) 5/5



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一知半解

Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
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