実はこれが、どれだけ深刻な問題を惹起しているのか。
今日は、それを判り易く指摘した山本七平の記述を紹介していきたいと思いますが、ご紹介する部分の記述の前段を、過去記事でご紹介していますので、まずはこちら↓をお読みいただいてからの方が判り易いかも知れません。
◆「神話」が「事実」とされる背景
ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
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■横井さんと戦後神話
(~前略)
神話というものは、それくらい強力な浸透力をもつものなのである。
そしてひとたびそれが浸透してしまうと、もう動かせなくなる。
すべての人は、自己のうちなる神話に抵触しまいとして、どうしても触れねばならぬときは、「われらのうちなる横井さん」のように語るか、大体そこは避けてふれない。
そしてその神話が事実でないことを知っている人自身が、率先して、その神話を事実だと証言する。
どうしてこうなるのか。
否これは人事ではない。
私自身が、やはり、「戦後神話」に抵触するときは、それをロにするとき何か「決心」のようなものがいるのである――全く戦前と同じように。
「決心」がいるということ自体が、私の中にも「われらのうちなる横井さん」がいて私を制止しており、私がそれを振り切っているはずなのである。
なぜそうなるのか。
いまは軍部が言論統制しているわけではあるまい。
それならなにが私にそういう「自主規制」を強いるのか。
戦争中日本軍が行ったさまざまの残虐行為は、ほぼだれの耳にも入らなかった。
だれもロにしなかった。
それを知っているはずの人が真先に否定して神話を事実だといった。
これは言論統制のゆえであろうか。
軍部の横暴のゆえであろうか。
「軍部」とするのはおそらく「戦後神話」であって、事実は、このことを口にさせないために、何らかの「権力」が介入する必要はなく、おそらく介入の余地もなかっただろうと私は思う。
というのは、そんなことはしなくても、その事実を知っている人間が、真先に神話を事実だと言って、逆に事実を否定したに相違ないからである。
というのは、横井さんの発言の背後にだれかがいて、あのように語れと統制しているわけではないからである。
私にそのことを考えさせたのは、『海外評論通信』という定期刊行物のある記述であった。
この社は元来は版権代理店であって、海外の出版社の「新刊情報」を知らせてくれる、いわば私の取引先である。
従って新刊情報以外にあまり興昧はないのだが、何気なく通読しているうちに、思いもよらぬ記事につきあたった。
それは南ヴェトナムのビン・ディン州北部三地区を、北ヴェトナム軍とヴェトコンが占領している間に、どのようなことが行われたかを、アメリカ・南ヴェトナムの合同調査班が、六十七名の男女に長時間面接調査し、うち四十四名の談話をテープに記録したその記録の一部である。
公開処刑・大量虐殺、恐ろしい虐殺死体の下で血のため窒息しそうになりながらかろうじて逃げ出して来たゴンという男の話――私はこの記述が事実かどうか知らない。
いま私か問題にしたいのは、そのことてなく、この記述への私自身の態度である。
このことは日本の新聞には一切出ないであろう。
それはそれでよい、戦争中も、日本軍による同じような事件は一切出なかったのだから、今さらそれを異とする必要はあるまい。
また現地の実情を知っている人は、これを「事実」だと判断したらその瞬間に逆にこれを否定し、神話を事実だというであろう。
それもそれでよい、今さら、そうしてほしくないなどとは言わない。
私か問題にしたいのは人事ではない。
私自身のことなのである。
私自身がこのことに触れるのに、一種の「決心」がいるのである。
何かが、いや何かではない、「われらのうちなる横井さん」が私に、「それには触れるな。それは『戦後神話』に抵触する。神話に抵触すると、どんな大変なことになるか、戦前の体験でお前はよく知っているはずではないか」と囁くのである。
今は確かに民主主義の時代なのである。
言論は自由なはずである。
そしてこれは外国の事件にすぎない。
それですら一種の「決心」が必要とあっては、これが日本軍のことで、しかもそれが戦時中であれば、統制などはしなくてもだれも触れまい――触れろと言われても触れまい。
今ですら「神話の軍隊」なら、それが何をしようと絶対にだれも触れないのだから。
否、他人のことはどうでもよい、私白身が触れたくないのだから。
一体なぜか。
何かこわいのか。
これらのことは一体何に起因するのであろうか。
一体なぜ「われらのうちなる横井さん」が絶えず私に囁くのだろう。
いろいろな理由があると思うが、その一つと思われることを記したい。
前に私は、日本が満州事変から太平洋戦争に道んだ道程にも、新井宝雄氏の考え方にも「是・非」と「可能・不可能」の判別がつかない点に問題があるとのべた(註)。
(註…過去記事「日本的思考の欠点【その4】~「可能・不可能」の探究と「是・非」の議論とが区別できない日本人~」参照のこと。)
同じような視点で今の問題を取りあげれば、それは「事実の認定」と「思想・信条」とは関係ないということ。
これが理解されていないということであろう。
ロマン・ロランの『群狼』は、この問題をも取りあげている(と私は思う)が、たとえ自分が断固たる共和党員であり、陥れられたのがにくむべき王党員で、陥れたのが自分の同志の共和党員で、しかもそれが戦闘中で、その共和党員が戦勝のため不可欠な人間であり、さらにもし事実を証言してその共和党員を告発すれば逆に自分が孤立するとわかっていても、「事実は事実だ」と断言できるかどうか、という問題であろう。
こういう戯曲が書かれたということ自作が、この問題はわれわれだけの問題でなく、私などには到底論じ切れない人類永遠の問題なのかも知れない。
だがそういうむずかしいことは一まず措くとして、非常に浅薄な面でこの問題を取りあげるとすれば、過去において日本を誤らした最も大きな問題点は、ある事実を認めるか認めないかということを、その人の思想・信条の表白とみた点であろう。
だがそうすると、事実を歪曲することが、正しい人間の正しい態度だという、実に奇妙なことになってしまい、これを避けることができず、そしてそれを重ねて行くと対象がつかめなくなるという結果に陥ってしまうことである。
ロランの指摘の通り、王制を糾弾することは、ある事実を曲げて故意に誤認を強要し偽証せよということではない。
それをすれば、自らが糾弾さるべき王制以下になってしまう。
そういう倫理的な問題は別としても、ある事実は目前につきつけられてもこれを認めず、それに対立する事実は針小棒大にし、そうすることを、一種の正しい態度乃至はその人間の思想・信条の表白としていくと、最終的には自らの目をつぶし、自ら進んでめくらになるという結果になってしまうのである。
その態度を外部から見れば、ただただ異常というほかはないであろう。
在米の藤島泰輔氏はアメリカにいてある日本の週刊誌を読んだ読後感を『諸君!』に次のように記している。
最近、ある日本の週刊誌が『現代アメリカのすべて』という増刊号を出したが、それを一読したとき、私は腹を立てるよりも先に呆然としてしまった。
その中に銀座三越前で街頭録音をした『アメリカってなんだろう』というページがあった。
答えている通行人はほとんどがアメリカを知らないのだろう。
「生産性のない国、といえるんじゃないの(25歳、会社員)」
「最近は何となくイメージかわりましたねエ。昔は富める国だったのに、今では日本の鼻息うかがってるんてすってねエ(35歳、主婦)」
「破滅寸前の国じゃないか。ヴェトナム戦争の終結ぶりを見たってわかる。なにも日本はノコノコ追随して行くことはないよ(21歳、早大生)」
「めちゃくちゃな国ですね。日本をもっとひどくするとあんな感じになるんじゃないかな(20歳、立大生)」
生産性がなく、日本の鼻息をうかがっている、破滅寸前の、めちゃくちゃな国、と、この四人の日本人のいっていることを要約するとそうなる。
日本は言論自由の国だから、何をいうのも勝手なのだろうが、これは少々行き過ぎではないか。
現在の日本と比べたら落ちるだろうが、アメリカの生産性はなお世界有数である。
日本の鼻息をうかがっているなどといったら、ワシントンの大統領側近は抱腹絶倒するだろう。
破滅寸前、めちゃくちゃな国に至っては、アメリカを知らぬにもほどがあり、こんなことをいう人間が最高学府に籍を置いているとは何としても信じがたい。
「信じがたい」ことが常に起るのである。
私はその昔、この「怒るより呆然」とした顔を何度も見た。
私のいた学校では、多くの教師や講師がアメリカに留学していた。
そして日米関係悪化とともに続々と帰って来たが、故国日本の人びとの対米認識を見て、みなただただ「呆然」としていた。
F教授が、勇敢にも全校生徒を集めて、講演をした。
しかし一回でやめた。
私はその理由をきいた。
同教授はさびしそうに「何をいっても『アイツ、カブレて来やがった』でおしまいになるなら話っても無意味だ」と。
そしてそのことは、今では、横暴な軍部の言論統制のゆえだとされている。
では一体全体、今でもどこかに軍部がいて、それが言論統制をしているが故に、藤島氏がかつてのF教授たちのように「怒るより呆然」として「信じがたい」と言っているのであろうか。
昔も今もそうではあるまい。
では、新井宝雄氏のいわゆる「一握りの軍国主義者」が昔も今も全日本人をだましているのか。
これもまた、そうではあるまい。
ヴェトナム戦争におけるアメリカを非難するということは「アメリカ弱体グロテスク神話」を事実だとすることではない。
戦前の日本人はこれをやった。
そして「われらのうちなる横井さん」は、すぐさまその神話を事実にした。
そのためにアメリカという対象は歪曲に歪曲を重ねられ、ついに、正確にこれを把握することがだれにも出来なくなった。
おそらく今と同じような状態で、そこで「破滅寸前の国」だから、真珠湾を叩けばつぶれてしまうであろう、というわけだったのだろう。
事実を知っている人はいた。
しかし神話と抵触する事実をロにすれば、それは、「米帝の手先」ということになり「億八分」になるから、「事実」を知っているものの方が、前述の「嫌疑」をうけないため、横井さんのように率先して「アメリカ破滅寸前国神話」を口にしたのである。
アメリカ留学が長く、同地を実によく知っているがゆえに、戦後「教職追放」になったある教授を見ていると、私は「われらのうちなる横井さん」を思い浮べないわけにはいかない。
そして、そうならない人は沈黙していたのである。
「事実の認定」を政治的立場で歪めることをロマン・ロランは最大の不正の一つとした。
確かにその通りであろう。
そしてこの不正を重ねていくと、対象をゆがめることによって、前述のようにいつしか逆に自分が盲目になり、破滅へと進んでいく。
われわれはまた相当に、その方向へと進んだようである。
一度踏みとどまってみよう、問題はおそらく、簡単なことにあるのだから。
この問題を最も単純な図式にすれば、それは見たことは見たのだ、間いたことは聞いたのだ、白かったら白かったのだ、排尿したら排尿したのだ、――そこにあるのは音と色と形象と生理現象であり、それらはすべて「人間という生物」の営みであり、その人間がどういう思想をもとうと、あったことはあったのであり、それはだれにも消せないという、ただそれだけのことなのである。
われわれはそれを感覚した、感覚し終って過去になってしまったものは、もはやわれわれの力で現実の世界に再構成できるわけはない。
自分の意思通りに世界を再構成できる者がいれば、それは、「神」であって人ではあるまい。
そしてこれが出来たと思ったときに、その者は実は自らを盲目にしているのである。
おそらく、基本的には、それだけのことなのである。
(終わり)
【引用元:ある異常体験者の偏見/横井さんと戦後神話/P257~】
上記の記述を読むと、最近の日本の言論空間状況を端的に指摘しているとしか思えませんね。
「事実を事実だ」と述べることに「決心」が必要とされる日本の言論空間。
それはつい最近「100msv以下は健康に問題がない」とアドバイスして叩かれた山下教授の例をみても何ら変わっていないことが明らかです。
なぜ日本には言論の自由がないのか?
なぜ発言に「自主規制が強いられる」のか?
その原因の一つとして、日本人が「事実の認定」を政治的立場で歪め易いからでは…と山本七平は指摘しているのですが、なぜ日本人は歪める傾向が強いと言えるのでしょうか?
空気に支配され易いからかもしれない。
それではなぜ空気が支配してしまうのか?
愚考するに、これは日本人の欠点である「情緒過多」が一因ではないでしょうか。
幾ら冷厳な事実であってもそれが「正視に堪えない」ものであるのなら、それを突きつけるものが「人でなし」とされがちな社会ですからね。
日本社会は「感情優先」で物事が判断される社会であることが作用していることは間違いないでしょう。
このように「情緒過多」になってしまうのも、とにかく純粋であることを良し!とする日本人の「純粋信仰」が大きく影響しているような気がします。
動機さえ純粋であれば過程や結果は問わない傾向が、事実を歪め、白を黒と言わない者を排除する日本社会につながっているのではないかと。
3.11以降、東電や政府の隠ぺい体質が非難され、その原因として原子力ムラとか記者クラブとかが「諸悪の根源」のように槍玉に挙げられていますが、それはおそらく本質を外れた的外れな非難だと思います。
本当の原因はおそらく「ある事実を認めるか認めないかということを、その人の思想・信条の表白とする」日本人の傾向そのものにある。
それが時には排除を生み、言論の自由を制し、そのためには隠蔽だろうが口封じだろうが許されてしまう。
それを打破するにはどうしたらいいか?
それはやっぱり、皆が「自分の主張に不利な事実でも、事実として認める」姿勢を取る以外にはないのだろうと思います。
それが出来ずこのまま情緒優先で流されていくのであれば、いずれ第二の敗戦は必至でしょう。
間違いなく、今の日本はその方向に一歩近づいています。
それを止めるには、ホンネが許されるネットがキーになるんじゃないでしょうか。
そういう意味では、私は密かにネットに期待するところ大なのであります。
相変わらずまとまりませんが、この辺で。
ではまた。
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テーマ:核・原子力問題(利用と安全性) - ジャンル:政治・経済