前回は「感情移入の絶対化」が「対象の物神化」を招き、その結果逆に「対象に支配されてしまう」処まで説明がありました。
今回はなぜ日本人が「対象に支配され易い」のか、その背景について書かれた処をご紹介したいと思います。
「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
(1983/10)
山本 七平
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(前回の続き)
ここに臨在感的把握という伝統を無視した明治以来の誤れる啓蒙主義的行き方の結果があると思うが、以上のような言い方はあまりに抽象的で意をつくさないうえ、私は元来、こういう言い方は奸まないから、重複するが、次に例をあげて説明しよう。
以上の関係が最も明確に出るのは対象が物質の場合だから(いわば、感情移入による臨在感的把握の絶対化が、相互に起らない、すなわちお互いに感情移入をしあわないから)、前述の骨とカドミウム金属棒を例にとろう。
日本人が、人骨に何かが臨在すると感じ、その感じが知らず知らずのうちに絶対化されて、その結果、逆に人骨に心理的に支配されて、病的状態になる。
この原因は、おそらく、村松剛氏が『死の日本文学史』で指摘しているような伝統に基づく、歴史的所産であろう。
すなわち、人の霊はその遺体・遺骨の周辺にとどまり、この霊が人間と交流しうるという記紀万葉以来の伝統的な世界観に基づいている。
こういう伝統は西欧にはない。
ギリシャ人は肉体を牢獄と見、そこに「霊」がとじこめられており、死は、この霊の牢獄からの解放であり、解放された霊は天界の霊界の中にのぼって行ってしまうと考えた。
そして残った「牢獄」は物質にすぎない。
その牢獄のまわりを霊がうろうろしていることはない。
ヘブライ人の見方はこれと違い、こういう見方に非常に懐疑的な一面があったことは、旧約聖書のコーヘレスの書の「人の霊が天に昇るなどというが、そんなことはだれに証明できよう」といった意味の言葉にも表われている。
とはいえ、ヨセフスの『ユダヤ戦記』は、最も伝統的と自己規定したエッセネ派の考え方が、ギリシャ人と極めてよく似た考え方であったことを記している。
従って両者の差は、別の研究課題であるが、しかし、少なくとも両者には共に、人骨に何かが臨在すると見る伝統はない。
ただこういう伝統は、日本であれ西欧であれ地下水の如くに絶えまなく執拗に流れつづけているにしろ、その存在の証明は、村松氏の著作のような膨大な文猷による裏付けを必要とする。
この点、カドミウム金属棒は、それへの臨在感的把握の絶対化、その絶対化に基づく、金属棒による被支配と、それに至る歴史的過程が非常に明確にきわめて短期間に出ているから、長い歴史に基づきかつ表面に表われにくい人骨よりわかりやすい。
もっとも、わかりやすいということは、その醸成の歴史的過程がすぐわかるからだが、しかし反面その「空気」は簡単に雲散霧消してしまうので、別な面で、すぐわからなくなるという欠陥がある。
いずれにせよ、イタイイタイ病発生以前に、カドミウム金属棒を見て記者がのけぞることも、逃げ出すことも、またそれに対して金属棒をナメて見せる必要も、絶対にありえないであろう。
従ってこの歴史は人骨と比べるときわめて新しくかつ短い。
文明開化の明治以降の出来事なのである。
カドミウム鉱山は世界に数多いが、イタイイタイ病が存在するのは神通川流域だけだそうである(もっとも、私自身それを調べたのではないから確認はできないが)。
もちろんカドミウム金属棒は、普通の金属棒であって、それから何かが発散しているわけではない、遺跡の人骨という物質と同じである。
こんなことは、小学生にもわかる科学的常識であろう。
従っていま、イ病について何も知らず「科学的常識」しか持たぬ外国人と、前述の日本人記者とが、同席で「あの本の持参者である某氏」と記者会見したとする。
カドミウム金属棒が出される。
これはだれにとっても同じ物質すなわち「金属棒」にすぎない。
それは人骨が、だれにとっても同じ「物質」にすぎないのと同じである。
ところが日本人記者団はのけぞって逃げ出した。
何でもありませんと言って某氏はペロリと金属棒をナメた。
この状態は、そこに同席した外国人記者団にとって、全く理解できない状態であろう。
そしてもしこの金属棒を、発刑場の人骨のように、毎日毎日運搬させたら、日本人記者団の方はおそらく熱を出し、外国人の方は平然としているであろう。
この状態の差は、言うまでもなくその時点までの「イ病史」という「写真と言葉で記された描写の集積の歴史」の所産である。
もちろんそのことは、その歴史の内容の価値とは関係ない。
記者たちは、イ病の悲惨な状態を臨在感的に捉え、そう捉えることによって、この悲惨をカドミウム金具棒に「乗り移らせ」(すなわち感情移入し)、乗り移らせたことによって、その金属棒という物質の背後に悲惨を臨在させ、その臨在感的把握を絶対化することによって、その金属棒に逆に支配されたわけである。
絶対化されているから、この際、自分と同じ人間がその金属棒を平然と手にしていることは忘れられる。
これは人骨処理でも同じである。
従ってこの図式を悪用すれば、カドミウム金属棒を手にすることによって、一群の人間を支配することが可能になるのである。
言うまでもなくこれが物神化であり、それを利用した偶像による支配であるが、明治以来の啓蒙され”科学化”された現代人は、これを「カドミウム金属棒の振りまく」「その場の空気」に支配されて、思わずのけぞったり逃げ出したりした、と表現するわけである。
もちろんカドミウム金属棒はその一例にすぎず、対象は前述した自動車でも、またその他のどんな物質でも可能であり、昔の人の表現を借りれば、「イワシの頭」で十分なのである。
神という概念は、元来は「恐れ」の対象であった。
多くの神社は、悲惨を体現した対象がその悲惨を世にふりまかないように、その象徴的物質を御神体として祭ってなだめている。
従って、カドミウム金属棒を御神体とする「カドミ神社」の存立は可能である、というよりむしろ、ある「場」にはすでに存立したのであり、昭和の福沢諭吉は、それが御神体ではありえないことを証明するため、ナメてみせたわけである。
そして、この物神化と、イタイイタイ病の科学的究明および「究明史」とは全く無関係なのである。
この「無関係」の意味は、たとえ両者が医学的に関係があっても「無関係」の意味である。
そしてこれを無関係と断じ、人類が偶像支配から独立するため、実に長い苦闘の歴史があり、多くの血が流されたわけであった。
それは、臨在感的把握の絶対化によってその対象を物神化し、それによってその対象に支配される者、いわば「カドミウム金属棒の発する空気に支配される者」を異端と宣告し、それは、「カドミウム公害究明史」とその成果に関係なきものとして排除することによって、はじめて成り立つものであった。
そしてそれは、われわれにとって実にわかりにくい、初代キリスト教徒の正統・異端論争の背後にある問題である。
いわば、カドミウム公害と最も熱心に取りくみ、その悲惨を知りつくしている(乃至は知りつくしていると自認している)がゆえに、その金属棒に、その「究明という自己の歴史」の歴史的所産として、対象を、その悲惨の臨在感的把捉でしか捉え得なくなった者、従ってその把握を絶対化せざるを得なくなったもの、いわば「最もまじめで、熱心で、真剣なもの」、当時の状態で表現すれば、その物神への信仰の最も篤きものを、その物神をたとえキリストと呼んでも、逆に、異端として断罪し、排除するという結果になったからである。
だがそれをしなければ、しなかったものは、物神の支配すなわち空気の支配から逃れることは、永久にできない。
だがこの問題は後にゆずるとして、上記のような空気支配が、どのような形をとると完成するかを記すことにしよう。
(次回へ続く)
【引用元:「空気」の研究】
キリスト教などの一神教であれば「ものさし」は一つなので、物神化された存在(新たなものさし)が出現すれば、その真贋を見極めようとする「意識」を否が応でも持つのでしょうが、多神教の世界では、その「意識」そのもの自体を持つのさえ難しいのかもしれません。
八百万の神をいただく我々日本人が、かつてカドミウムを物神化し、今現在は「放射能を物神化」することに何ら抵抗を持たないのは仕方ないのかもしれませんが、容易く物神化してしまうが故に、それが発する「空気」に拘束されてしまうことにもなることは問題とすべきではないでしょうか。
放射能を、3・11以後、急速に勢力を増大した「物神」と考えれば、それに拘束された”放射脳”の言動が理解できます。
彼らにとっては、放射能という荒ぶる”タタリ神”を鎮める為ならば、福島や被災地など切り捨てても仕方がないどころか、当然なのでしょう。
彼らの主張は、一見「科学的」な主張であるように装っていますが、科学的見地から検証すれば”放射脳”の主張はケガレを祓う「お清め」程度の意味しか持っていません。
科学的な装いをまとっているだけであって、科学ではないのです。
こうした「症状」から脱却するためには、やはり「感情移入の絶対化」の弊害に気付く必要があると思う次第。
それに気付くためにも、日本人が常日頃、行動規範として無意識にしたがっている「人間」という尺度を極力排していくべきでしょう。
”放射脳”達は常に「人として許せない」「人でなし」「人間のやることではない」という”価値観”を論争に持ち込みます。
それで相手の口をふさぐ事は出来るかもしれないが、問題が解決するわけではないのに…。
善意であろうが悪意であろうが、根本の「対策」を誤れば人は死ぬのです。
エネルギー問題などはその典型。
一見「人でなし」に見える行為が結果的に人の役に立ったり、「思いやった」行為が逆に仇になったりすることは、身の回りでもザラにあることですが、なぜかエネルギー問題のようなマクロな問題を考える際、そうした”パラドックス”に気付けなくなってしまう。
それはやはり「人として」価値観を無節操に持ち込み、感情移入を絶対化してしまうから…としか思えない。
この弊害に気付かない限り、日本人は太平洋戦争のような愚をまた繰り返してしまうことでしょう。
戦前の轍を踏まないためには、我々は、ある程度「人でなし」になる必要があるのかもしれません。
さて、次回は西南戦争を素材に、空気の支配がどのように醸成されていったのかについて、山本七平の分析をご紹介する予定です。ではまた。
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