前回、「天皇とは歴史的に二権分立の片方(祭儀・律令権)の役割を果たしてきた」というイザヤ・ベンダサンの意見を紹介してきました。
そこで今日は、ありえないことですが「もし天皇制が廃止されたらどうなるか」という命題についてちょっと考えてみたいと思います。
天皇制廃止というのは、現在の状況を見て全く考えられませんが、それでもちょっと想像してみてください。
仮に天皇制が廃止されてしまったらどうなるかを。
間違いなく、日本は混乱に陥ります。
権威の「軸」が失われ、無秩序状態になるわけですから。
そして仮にその混乱状態が収まったとしても、その代わりに独裁状態が出現するでしょう。
これは過去の世界の歴史を見ても、十分に想像が出来ます。
一例を挙げれば、フランス革命などはその最たるものでしょう。
フランス革命と言えば「自由・博愛・平等」が声高に叫ばれましたがその実態はどうだったか。
岸田秀がフランス革命について触れた記述が大変参考になりますので以下ご紹介します。
まぁ、日本ではフランス革命のように天皇をギロチンにかけるといった事は起こらないだろうとは思いますが、万一仮にそのような事態が起きたとしたら、間違いなく上記のような混乱状態に陥るでしょう。
二十世紀を精神分析する (文春文庫)
(1999/10)
岸田 秀
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◆十二、近代国家の妄想
近代西欧人が理性と呼んだものは、要するにキリスト教の唯一絶対の神の後釜であった。
このことは神と理性の多くの共通点からも明らかである。
神と理性との唯一の違いは、神は個人の外にあり、理性は個人の内にあるという違いで、それ以外の違いがあるとしても、この唯一の違いから派生した違いに過ぎない。
理性とは、いわば外なる神を殺して内在化したものであって、なぜ西欧人がそのようなことをしたかは、すでに述べた。
神と理性の共通点を挙げれば、まず第一に全知全能性である。
もちろん、個人の内にある理性が全知全能であるということは、あまりにも事実に反しているので、あからさまには主張されないが、この誇大妄想は、あれこれの条件つきであれこれの口実のもとにスキがあれば噴き出してくる。
理性はときには誤るかもしれないが、究極的には無謬であって、いつかは真理に到達できるという信仰もこの誇大妄想の一形態である。
そして、全知全能の神が世界を創造したのだから、全知全能の理性だって同じことができないはずはないと考えられ、この誇大妄想にもとづいて世界の創造が試みられた。
その第一回目の試みがフランス革命である。
フランス革命は『創世記』に記述されている世界創造のやり直しであった。
まず、時間と空間がつくり直される。
一週間が七日という神の秩序が廃止され、一週間は十日となる。
メートル法が採用されて空間が合理的に組織される。
ルイ十六世をはじめとする王侯貴族、そのほかとにかく旧秩序に属すると見なされた人たちが大量にギロチンで処刑されて世界の住人が新しくなり、パリの街路のほとんどは改名されて世界は新しい名で呼ばれる。
神の秩序の代りに法の秩序が制定される。
「全地は同じ発音、同じ言葉であった」(『創世記』第十一章)原初にならい、少なくともフランスの国家権力が及ぶかぎりフランス語で統一しようとして、アルザス語やブルトン語などの方言が弾圧される(成功しなかったが)。
これらのことからもわかるように、フランス革命は抑圧された民衆が腐敗した支配階級を打倒して権力を握ろうとした運動ではなく、必ずしも抑圧された民衆ではないある種の人々が全知全能の理性にもとづいて新しい世界を創造しようとした誇大妄想的企てであった。
ロシア革命はフランス革命のコピーであるが、コピーはオリジナルより過激になるという一般法則の例に漏れず、理性の誇大妄想性をさらに強める。
たとえば、共産主義の計画経済は、国家と人民にとっての最善の需要と供給のあり方を理性によって計算し、実行できるという前提に立っていたが、この前提は誇大妄想の最たるものであろう。
神と理性の第二の共通点は、その普遍性、絶対性である。
このことは必然的に、普遍的、絶対的である神または理性に従わない人々に対する軽蔑、差別、残忍さを招き、かつそれを正当化する根拠となる。
理性信仰は絶対神信仰に優るとも劣らぬ大量殺人をもたらした。
この殺人の恐ろしいところは、単に大量に行われるだけでなく、正義の名のもとに平然と行われることである。
◆十四、フランスの狂気
すでに述べたように、個人の場合も集団の場合も、そのようなことは起こらなかったと思いたい苦痛な、不安なあるいは屈辱的な事件が避けがたくときには起こる。
そのとき、誰しもそのような事件の経験を否認し、その記憶を抑圧し、その意味を歪曲しがちである。
そうすれば、一時の気休めにはなるが、その結果必然的に狂気に陥る。
狂気とは現実からの離脱であり、個人も民族も国家も都合の悪い現実から眼を起らせば、眼を逸らした程度に正確に比例して狂うことになる。
どのような個人も集団も都合の悪い現実から多かれ少なかれ眼を逸らしており、したがって多かれ少なかれ狂っているが、フランスという国家に関して言えば、近代においてこの国が狂いはじめ、いまだに狂いつづけている端緒となった事件はフランス革命である。
大革命は誇大妄想に駆られたあげくの一大愚行であった。
一七八九年のバスティーユ襲撃から一八一四年の王政復古までの二十五年間に、外国人の被害は別としてフランス人だけで二百万人が死んで(殺されて)おり、経済的、社会的、文化的損害は測り知れない。
それだけ大きな犠牲を払って実質的に得たものはほとんど何もない。
得たのは「自由、平等、兄弟愛」というむなしいスローガンだけであった。
(後略~)
【引用元:二十世紀を精神分析する/P39~】
山本七平も著書「一つの教訓・ユダヤの興亡」の中で、第一次ユダヤ戦争(註1)時における似たような事例を挙げています。
(註1)…帝政ローマ期の66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争(wiki参照)
この第一次ユダヤ戦争は、ローマの支配下において、親ローマ派の上層階級と、国粋・排外主義的な下層階級との内乱がキッカケとなって拡大した戦争ですが、下記引用は、上層階級のトップである大祭司が殺害された箇所からご紹介していきます。
一つの教訓・ユダヤの興亡
(1987/11)
山本 七平
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◆伝統的秩序を破壊すれば自己の安全も失う
(~前略)
大祭司(註2)を殺したことは、一種の”歯止め”がはずされたことを意味する。
(註2)…ユダヤ教の最高位の祭司。第1次ユダヤ戦争当時の大祭司は、アナニアス。
メナヘム(註3)が暴君になれば、大祭司を殺した者は彼を殺すぐらい何とも思わなくなる。
(註3)…大祭司アナニアスを殺害した過激派の指導者
これは多くの革命的集団が、大はボルシェヴイキより小は新左翼まで、必ず内ゲバヘと進んでいく道である。
いわば伝統的文化的秩序を破壊してしまえば、それによって保護されていた自己の安全をも失う結果になる。
(~中略~)
◆始末が悪い己が心情の絶対化
叛徒側が誓約したので、ローマ兵は塔を出、全員が何の疑念もなく剣と盾を置き、立ち去ろうとした。
そのときエレアザロス(註4)とその部下は彼らに襲いかかり全員を殺してしまった。
(註4)…メナヘムを内ゲバで殺害した過激派のリーダー。後にマサダ要塞で自決する。
ただ1人助かったのは隊長のメテリオスで、彼は命乞いをし、割礼をうけてユダヤ教徒になると誓約してやっと命が助けられた。
全エルサレムはこれを聞いて悲嘆にくれた。
ローマの復讐はもう避けられない。
そしてそれだけでなく、これで一切の秩序が失われたことを感じた。
というのはその日は安息日であり、たとえ誓約があろうとなかろうと、そのような行為は絶対に許されなかったからである。
いわば殺されても戦わなかったポンペイオスのエルサレム攻略のときのユダヤ人から見れば、彼らの行為は、ローマの怒りだけでなく神の怒りをも招く行為だったからである。
ローマの支配から独立して神政制(テオクラティア)を目指すはずの者が、大祭司を殺し、律法に違犯する。
それでいながら、彼らは自分たちが最も神に忠実な神政制の信奉者だと信じて疑わない。
奇妙なようだが、これは歴史においてしばしば起った現象である。
共産圈にもこの例があるが、もちろん日本にもあり、典型的なのが.ニ・ニ六事件の将校である。
外国人がしばしば不思議がり、また『天皇陛下の経済学』の著書ベン=アミ・シロニー教授が『日本の叛乱』を記す動機の1つとなったのが、彼らが主観的には最も天皇に忠誠であったという事実である。
ちょうど過激派(ゼロータイ)が自らが神の意志を体していると信じたように、彼らも「大御心」すなわち天皇の意志を体していると信じきっていたことであった。
そして、過激派が大祭司を殺し神の律法を平然と蹂躙したように、彼らも天皇が任命した総理大臣以下を殺しまた殺そうとし、さらに、天皇が定めた欽定憲法も「御名御璽」が記されている『作戦要務令』も『陸軍刑法』も平然と無視し蹂躙した。
そして、そうしながら最後の最後まで自分たちこそ天皇に忠誠なのだと信じて疑わなかった。
結局、これは「天皇絶対」という自己の心情の絶対化である。
(後略~)
【引用元:一つの教訓・ユダヤの興亡/ユダヤを破滅させた”ひとりよがり”の教訓/P245~】
伝統的文化的秩序を破壊することが、どれほど国民に被害を及ぼすか。
上記の第一次ユダヤ戦争の歴史でも語られているように「自らの安全も失ってしまう」のです。
まぁ、このような事は決して起こりえないと思いますので、この点については全く安心しているのですが、皇室を廃止しようと考えている人達には、皇室を廃止した場合に起こりうるこうした「リスク」について一度考慮に入れて欲しいと思います。
国民主権の世の中だから…とか、平等な世の中だから…とか、時代遅れの制度だから…とか、一千年の歴史からみれば”流行り”程度に過ぎない近代の「西欧的価値観」で、有史以来連綿と続いてきた皇室を否定するのは、余りに浅慮であると言って差し支えないのではないでしょうか。
私は前に、皇室という存在は、権威の「軸」だと言いましたが、日本の伝統的文化的秩序を背景にしているが故に、「軸」でいられるのであって、皇室のあり方を変容させてしまえば、権威の「軸」たり得なくなる可能性もあるわけです。
そこで、私が心配している日本の皇室の危機は、上記のような暴力的革命ではなく、お世継ぎ問題にあります。
現在の皇室典範のままであれば、間違いなく血統が途絶えてしまうでしょう。
これこそが日本の危機です。
今のところ、悠仁親王殿下がいらっしゃるので、この問題は沈静化していますが、いずれまた解決しなければならない問題として浮上してくるのは間違いありません。
そのときには、皇室を維持するために女系天皇を容認すべきだという意見が再び必ず出てくるはずです。
しかしながら、私は女系天皇は絶対容認できません。
なぜ男系維持に拘るのかといえば、やはり皇室の持つ正統性や権威というものを重視しているからです。
日本が建国されて以来、天皇家は常に歴史の中心に在って、少なくとも権威(祭儀権)はズーッと保持されてきました。
そして、過去女性天皇がいたとしても、女系天皇であったことはないとされています。
そうした歴史が積み重なって、万世一系という世界でも稀な”幻想”が信じられてきました。
そうした歴史的重みを鑑みれば、女系天皇というのは、万世一系という”幻想”を突き崩し、皇室の存在の正統性を脅かしかねない恐れがあると思います。
すなわち、女系天皇容認論とは、皇室のあり方を一変させ、一千年以上にわたる伝統を断絶させることになり、ひいては天皇のレーゾンデートル(存在理由)を貶めようとするものに他ならないと私は考えます。
女系天皇容認論は、ホンネでは皇室を無くしたい者の策動であるとさえ思います。
それはさておき、かといって、現状の男系のみでは将来的に継承が上手くいかないという非常に大きな問題がありますね。
個人的にはやはり、旧宮家の復活と、宮家の男子を養子にとることができるようにするのが一番望ましいとおもうのですけれど。
いまどき、旧宮家の復活など時代錯誤であると、世論から相手にされていませんが、これは日本にとって皇室が如何なる存在であるか、そして皇室の伝統を維持することが如何に大切かを、今後、粘り強く訴えて変えていくしかないでしょう。
次回は、天皇の政治利用に関して、山本七平の記述を紹介していく予定です。
ではまた。
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