だいぶ更新が滞ってしまいました…orz。
それはさておき先日、職場の先輩から「
山本七平の「空気の研究」持ってる?持ってたら貸して」と言われて、久しぶりに本書を手に取ったのですが、今、読み直して見ると現在の日本の言論空間を支配している「空気」について解説しているのではないか…と錯覚するほど鋭い分析がなされていて、改めて
山本七平の凄さを再認識した次第です。
昔、読んだ時にはいまいちピンと来なかったのですが、科学的知見が素直に受け入れられない今の日本の世論状況を見、なぜそのような状況になってしまっているのかについて、その答えを本書の中に見出すことができると私は思っています。
そこで、今回より何回かに分けて、「空気の研究」の記述をご紹介していこうと思います。
■三
一体「空気」とは何か。
これを調べるための最もよい方法は、単純な「空気発生状態」を調べ、まずその基本的図式を描いてみることであろう。
以下は大変に興味深い一例なので、『比較文化論の試み』でも取り上げたが、もう一度ここで取り上げさせていただく。
大畠清教授が、ある宗教学専門雑誌に、面白い随想を書いておられる。
イスラエルで、ある遺跡を発掘していたとき、古代の墓地が出てきた。人骨・されこうべがざらざらと出てくる。
こういう場合、必要なサンプル以外の人骨は、一応少し離れた場所に投棄して墓の形態その他を調べるわけだが、その投棄が相当の作業量となり、日本人とユダヤ人が共同で、毎日のように人骨を運ぶことになった。
それが約一週間ほどつづくと、ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。
ところが、この人骨投棄が終ると二人ともケロリとなおってしまった。
この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」だったらしい。
実をいうと二人ともクリスチャンであったのだが――またユダヤ人の方は、終始、何の影響も受けたとは見られなかった、という随想である。
骨は元来は物質である。
この物質が放射能のような形で人間に対して何らかの影響を与えるなら、それが日本人にだけ影響を与えるとは考えられない。
従ってこの影響は非物質的なもので、人骨・されこうべという物質が日本人には何らかの心理的影響を与え、その影響は身体的に病状として表われるほど強かったが、一方ユダヤ人には、何らの心理的影響も与えなかった、と見るべきである。
おそらくこれが「空気の基本型」である。
といえば不思議に思われる向きもあるかもしれないが、われわれが俗にいう「空気」とこの「空気の基本型」との差は、後述するように、その醸成の過程の単純さ複雑さの違いにすぎないのである。
従って、この状態をごく普通の形で記すと、「二人は墓地発掘の『現場の空気』に耐えられず、ついに半病人になって、休まざるを得なくなった」という形になっても不思議ではない。
物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態、この状態の指摘とそれへの抵抗は、『福翁自伝』にもでてくる。
しかし彼は、否彼のみならず明治の啓蒙家たちは、
「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」
と考えても、
「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。まずそれを解明すべきだ」
とは考えなかった。
まして、彼の目から見れば、開化もせず科学的でもなかったであろう”野蛮”な民族――たとえばセム族――の中に、臨在感を徹底的に拒否し罪悪視する民族がなぜ存在するのか、といった点は、はじめから見逃していた。
無理もない。
彼にとっては、西欧化的啓蒙がすべてであり、彼のみでなく明治のすべてに、先進国学習はあっても、「探究」の余裕はなかったのである。
従ってこの態度は、啓蒙的といえるが、科学的とは言いがたい。
従ってその後の人びとは、何らかの臨在を感じても、感じたといえば「頭が古い」ことになるから感じても感じていないことにし、感じないふりをすることを科学的と考えて現在に至っている。
このことは超能力ブームのときに、非常に面白い形で出てきた。
私かある雑誌に「いわゆる超能力は存在しない」と記したところ、「お前がそんな科学盲従の男とは思わなかった」といった投書がきた。
超能力なるものをたとえ感じても感じていないことにすること、いわば「福沢的啓蒙主義」をこの人は科学と考え、この啓蒙主義への盲従を科学への盲従と考え、それに反発しているのである。
従って多くの人のいう科学とは、実は、明治的啓蒙主義のことなのである。
しかし啓蒙主義とは、一定の水準に”民度”を高めるという受験勉強型速成教育主義で、「かく考えるべし」の強制であっても、探究解明による超克ではない。
従って、否定されたものは逆に根強く潜在してしまう。
そのため、現在もなお、潜在する無言の臨在感に最終的決定権を奪われながら、どうもできないのである。
ではここで、上記を証明するに足る、まことに現代的な臨在感支配の一例を記そう。
考えてみれば三年前のことである。
何やらややこしい紹介経路を経て、ある人と会うことになった。
用件はよくわからないが、なんでもこの広い日本で、もう私以外に話す相手はなくなったと、その人は思い込んでいるのだそうである。
私に会って話したって、別に、何かが解決することはあり得ないが、面会を拒否する理由は全くないから、会った。
その人は私に一冊の相当に部厚い本を差し出して言った。
「いまの時点で、このことはこのように、はっきりわかっています。そしてわかっていたことを、後日の証拠とするため、これをお預かりいただきたい」と。
開いてみると、イタイイタイ病はカドミウムに関係ないと、克明に証明した専門書である。
だが私は専門家でないから、内容は、批判どころか十分に理解することもできない。
理解すらできないものを私は何とも評価できない。
従って私が預かっても無意昧だし、第一、本を出版せずに預けておくという態度に驚いた。
そこで言った。
「発表すりゃ、いいじゃないですか」
彼は言った。
「到底、到底、いまの空気では、こんなものを発表すればマスコミに叩かれるだけ、もう厚生大臣にも認定されましたし、裁判も負けましたし、この時点でこれを発表すれば、『居直り』などといわれて、会社はますます不利になるだけです。
従って、せっかく出来たのですが、トップの決断で全部廃棄することになりました。
しかしあまりに残念です。
今の時点で、すでに事実はこれだけ明らかなのだということを、後日の証拠に、どなたかに一部だけお預けしたいと、私は個人としてはそう思っていたのですが……『文春』を拝読しまして、これは山本さん以外にはいないと思い……」
「ヘエー、だけどネ、私はおしゃべりだから、見知らぬ人から預かったことも、この内容も、平気で書くかも知れませんよ」
「どうぞ、それは一向にかまいません……」
「では、あなたが発表すればよいでしょう」
「いえ、いえ、到底、到底。いまでは社内の空気も社外の空気も、とても、とても……第一トップが、『いまの空気では破棄せざるを得ない』と申しまして回収するような有様で……(「破棄」を「出撃」と変えれば、戦艦大和出撃時の空気と同じだ)。
無理もありません。
何しろ新聞記者がたくさん参りまして『カドミウムとはどんなものだ』と申しますので、『これだ』といって金属棒を握って差し出しますと、ワッといってのけぞって逃げ出す始末。
カドミウムの金属棒は、握ろうとナメようと、もちろん何でもございませんよ。私はナメて見せましたよ。無知と言いますか、何といいますか……」
「アハハハ……そりゃ面白い、だがそれは無知じゃない。
典型的な臨在感的把握だ、それが空気だな」
「あの、リンザイカンテキ、と申しますと……」
「そりゃちょっと研究中でネ」
といったような妙な問答となった。
記者を無知だといったこの人でも、人骨がざらざら出てくれば、やはり熱を出すであろう。
彼はカドミウム金属棒に、何らかの感情移入を行なっていないから、その背後に何かが臨在するという感じは全く抱かないが、イタイイタイ病を取材してその悲惨な病状を目撃した記者は、その金属棒ヘ一種の感情移入を行ない、それによって、何かが臨在すると感じただけである。
この人は、すべての日本人と同じように、福沢諭吉的伝統の教育を受けたので、諭吉がお札を踏んだように、”無知”な新聞記者を教育しその蒙を啓くため、カドミウム金属棒をナメて見せたわけである。
ナメて見せることは、たしかに啓蒙的ではあって、のけぞって「ムチ打ち症」にならないためには、親切な処置かも知れぬが、この態度は科学的とはいいがたい。
というのは、それをしたところで、次から次へと出てくる何らかの”金属棒的存在”すなわち物質への同様の態度は消失しないからである。
一体なぜわれわれは、人骨、車、金属棒等に、また逆の形で戦艦大和といった物質・物体に、何らかの臨在感を感じ、それに支配されるのであろうか。
それを究明して、「空気の支配」を断ち切ることの方が、むしろ科学的であろう。
(次回へ続く)
【引用元:「空気」の研究/P32~】
なぜ「空気」が生まれ、それに我々がなぜ「拘束されてしまう」のか?
その負の影響を従軍体験を通じてイヤと言うほど味わった
山本七平だからこそ、本書「『空気』の研究」を世に出すことができたのではないでしょうか。
現実には「物質から何らかの心理的・宗教的影響をうけて」いるにも関わらず、それを「迷信」として頭ごなしに否定してしまった事が、逆に、この「空気の支配」から逃れられにくいものにしてしまった、という彼の指摘は実に鋭いと思わざるを得ません。
”明治的啓蒙”は、日本が先進国に追いつく為には役立ったのでしょうが、それで決して「空気の支配」から逃れた訳ではない。
それが「潜行」してしまったツケが昭和以降、敗戦となって表れた訳ですね。
そして、その症状は敗戦後にもう一度”アメリカ的啓蒙”を受けて更に酷くなってしまっている。
また、「かくあるべし」というだけの受験戦争型教育もそれに拍車を掛けている様に思います。
まずその「啓蒙」という弊害を意識することから始めなければ、到底「空気の支配」から脱却することは無理でしょう。
さて、次回は「日本人の親切」とは一体どんなものかについて書かれた記述部分を紹介していきたいと思います。
ではまた。
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もう何日か前の話になりますが、このニュース↓を見て、気分が悪くなってしまいました。
■フリーの記者から要望、処理した汚染水ゴクリまさか「ある異常体験者の偏見」の中で
山本七平が指摘した「悪魔の論理」そのままの行為が記者会見上で繰り広げられることになるとは…!
「低濃度処理水を飲め!」と強要した記者本人は、単に「安全だと言うなら飲んでみろ!」という軽い気持ちだったのかも知れない。
ただ、「安全」と「飲食可」はまったくの別物だし、「飲め!」と強要している記者は、
たとえ科学的に安全であろうが、生体実験が済んでいようが、自分では決して飲もうとはしないだろう。
つまり、飲まなければ「安全だとは言えない」という印象を与える事が出来るし、たとえ飲んだとしても単なるパフォーマンスだと非難の矛先を変えることもできるし、それで安全が証明できた訳でもないと開き直る事が出来る。
いずれに転んでも、相手を責めることが出来る訳だ。
結局のところ、この記者は「本当に心の底から安全を気にしている」訳ではなく、単に相手を非難する為の方便として使っているに過ぎないのだ。
真実を追求する為の行為ではなく、相手を追い詰める為の「虚偽」の行為。
なぜ虚偽であるのか。
それは(ここでは「安全=飲食する」という)基準を相手に強要しながら、自らはその基準に従うつもりが全くないから。
要はダブスタなんですよね。
それでありながら相手に反省を強要する。
そしてこの手法は、戦前より現在に至るまで相手に反省を強要する為の「手段」として愛用されてきました。
今日はその手段である「悪魔の論理」について、書かれた
山本七平の記述を紹介していきたいと思います。
■悪魔の論理
(~前略)
日本軍は去った。
しかし商業軍国主義者は残った。
そして彼らは、その時その時に「時の勝者」を追い、自らを律する思想は常に皆無で、ただただ「時の勝者」を絶対化し、それによって自らをも絶対化し、その言葉の絶対視を強要することによって自らの言葉を絶対化し、それで他を規制し、規制に応じない者には反省を強要しつづけてきた。
そして、この「時の勝者」を絶対視し、勝者を善、敗者を悪、と規定しつづけた「商業軍国主義」、そして虚報とアントニーの詐術の編集の詐術(註)で、常に勝者を正義化し美化し美談で飾り立て、それを基に常に「時の敗者」を糾弾しつづけてきたという図式は、自分の体験で判断する限り、この三十数年間、全く変化がないように思う。
(註)…拙記事「アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~」を参照のこと。
自己絶対化とそれに基づく反省の強要は、前述のように、相手を、自らのうちに自らの尺度をもつ独立した人間、すなわち対等の人間と認めないことだから、一種の実験動物視となり、従って精神への「生体実験」をしているに等しくなる。
従ってこれがすぐに、肉体への生体実験へと転化しても不思議でない。
生体実験とか、生体実験の強制といえば人は驚くであろうが、この「時の勝者の絶対化」に依拠する自己絶対化がつづく限り、そしてその媒体である商業軍国主義が存在する限り、過去に行われたごとく今後も起るであろうと私は思う。
軍隊の私的制裁に次のようなものがあった。
「キサマ、これをきれいと思うか」
「ハイ」
「本当にそう思うんだな」
「ハイ」
「間違いないな」
「ハイ」
「じゃ、ナメてみろ」。
編上靴ナメ、タンツボナメ、便器ナメといわれた私的制裁だが、一種の生体実験である。
もし「いやだ」といえば、きれいでないものをきれいだと嘘をついたことを自認したことになる。
従って制裁をうけるのが当然ということになり「キサマア、ペロリしやがったな」となる。
その後は説明の必要があるまい。
そして制裁をうけるのは、受ける方が悪いのだから、制裁をうけた後なお「反省」しなければならない。
それがいやならナメなければならない。
最近ある人から、これに非常によく似た例を聞いた。
ある人たちが、ある会社の従業員に、カドミウム入りと称する水をコップに入れてつきつけ「飲メ」と迫ったという。
事実かどうか知らぬが、これも便器ナメと非常によく似た発想の生体実験の強要である。
言うまでもないことだが、その便器がきれいかきたないか、あるいはその水が有毒か無毒かということ自体には、生体実験の必要ははじめから存在しないのである。
従って生体実験へと進む考え方の基本は、実験の試料――すなわち便器や水そのものとは別のところにあるはずである。
それはどこにあるのか。
それはある対象を絶対化し、それによって自己を絶対化し、従って自己の言葉を他を律する絶対の権威とする者が、その絶対性が、またそれに基づく反省の強要が、人命にも人体にも優先する絶対的なものであること、および、自分の言葉が前述の二重の裏切りとも言うべき虚構であることを隠して、これを誤りなき絶対の真実であると立証しようとする場合に用いられるのである。
従って、生体実験を強要する側には、必ず虚偽がひそんでいるといってよい。
これが非常に明確に出ているのが、本多勝一氏の『雑音でいじめられる側の眼』(イザヤ・ベンダサン著『日本教について』所収)であって、これは聖書に出てくる有名な『荒野のこころみ』といわれる寓話の中の、俗に、「悪魔の論理」といわれるものと全く同じ構造になっているから、両者を並べて少し検討してみたいと思う。
これは創作記事『殺人ゲーム=百人斬り競争』が、物理的にはじめから不可能なことではないかというベンダサン氏の問いに対して、本多勝一氏が非常に用心した言い方ではあるが、生体実験という発想で次のように応酬しているところである。
「……このように当人たち(向井・野田両少尉)が死刑になったあとでは、なんとでも憶測や詭弁をろうすることもできますよ、いくら名刀でも、いくら剣道の大達人でも、百人もの人間が切れるかどうか。実験してみますか、ナチスや日本軍のように人間をつかって?」
これは実に不思議な発想である。
便器がきれいかきたないかを調べてみるのに、生体実験という発想は全く不要であると同様に『百人斬り競争』が事実か虚報かを調べるにあたって、生体実験などという発想は、はじめから出てくる必要も必然性もないのである。
事実、この疑問を提示したベンダサン氏であれ、この虚報を徹底的に調査した鈴木明氏であれ、二人を弁護した中国人弁護人隆文元氏であれ、生体実験などという発想ははじめから全く皆無であリ無縁であり、そんな発想がありうるということ自体が、想像に絶する実に奇怪なことなのである。
生体実験という発想があり、これをやれと強要しているのは、はじめから終りまで、実に、本多勝一氏だけなのである。
これは言うまでもなく「私の言うことを嘘だ、そんなことは出来るはずがない、と言うならブッタ斬ってごらんなさい――『ナチスや日本軍のように人間をつかって』できないでしょう。できないのは、あなたは自分か嘘をついていると自ら認めたことなのですよ。そうでないというならやってごらんなさい」という論理であり、前述の便器ナメとほぼ同じ論法である。
「できない」といえば「それ見ろ、お前は嘘をついた、おれの言うことは絶対正しい、反省しろ」ということになる。
こうなれば自らは虚偽者として断罪されるだけでなく、虚報を事実と認め、従って二少尉の処刑を正当と認めることになる。
これは虚偽を事実と認証し、殺人に加担するに等しくなる。
では「できる」「じゃやってみろ」となったらどうなるか、言われた者は生体実験という恐るべき罪をおかす――すなわち、どちらにころんでもその人間がおそるべき罪に陥らざるを得ないように追い込んでいく論法なので、古くから「悪魔の論理」といわれる有名な論理そのままである。
聖書において、この論理を解明した「寓話」を現代的に翻案すれば次のようになるであろう。
「荒野のイエスに悪魔が言った。お前は神の救いを信ずるというがそれは嘘だろう。本当はオレの言うことが正しいと思っているんだろう。そうでないと言うなら、神殿の屋根からとび下りてみよ。神の救いがお前を支えてくれて、絶対に墜死もせず足も折れないはずだから。なぜしない、しないのは内心ではオレの言葉を絶対に正しいとし、それに従っている証拠だ」
いうまでもなくこれは、それが正しいというなら自らの体で生体実験をしてみろ、しないならば、おれの言葉を正しいとした証拠だという論法である。
二千年の昔から、この言葉は、さまざまに外形を変えながら、自己を絶対化して、自己の基準で他を律し、それに基づいて反省を強要する者が、絶えず口にして来た言葉である。
便器ナメから汚水ノマシから、本多勝一氏の「実験してみますか……人間をつかって」まで。
それは民族により、宗教により、文化様式により、絶えず外形を変えながらも、言われつづけてきた言葉であった。
もちろんこれを口にしたという点では、キリスト教徒も例外ではない。
ただ彼らの言い方が、外形的には日本人とは違うことは事実である。
そして日本の場合は、これがほぼ常に、その時々の「時の勝者」を絶対化し、これを無条件で神格化し、その神格化によって自らを絶対化して反省を売る「商業軍国主義者」によって言われつづけて来たことに特徴があるであろう。
そして彼らの背後にあるのが、判断を規制して命令同様の力をもつ「軍人的断言法の直接話法」の「沈黙の話法」であった。
すなわち、自らを本当に律している基準は絶対に口にせず、完全な一方的沈黙の中にあって、相手を、規定しようとする基準に合致するまで「反省しろ」「反省しろ」「反省しろ」……とせめたてていき、その精神の生体実験から肉体の生体実験へと進み、最終的には悪魔の論理で、人を否応なしにある状態――結局これは命令されたに等しい状態――に追いこんでいく方法であった。
そしてそれは昔も今も、新井宝雄氏の「反省が見られない」にはじまり、本多勝一氏の「実験してみますか……人間を使って」へと進んで行ったのである。
戦争中の生体実験の話を聞いたとて、それが特別に異状なことであったと考えてはならない。
またNHKのように「侵略戦争が人間を荒廃させたのデス」などといって、あれは、今の自分とは関係がない別の人間がやったことだという顔をしてはならない。
現にそれは堂々と口にされ、平然と活字になっているではないか――そして別にだれも、それを不思議としていないではないか。
否それどころか、それに、喝采を送っている人すらいるではないか。
それに喝采を送っていてどうして戦場の兵士を「獣兵」などといえるのか。
彼らは立派なデスクを前にした快適な落着いた雰囲気にいたのではない。
こういう恵まれた環境にいて平気で生体実験がロにできる者に、またそれに喝采を送るものに、彼らを批判する資格があるであろうか。
【引用元:ある異常体験者の偏見/悪魔の論理/P126~】
先日、大学の友人と飲んで原発論議をした際に、「お前は福島に住んでみろ!」というセリフを散々言われましたが、こうした発想というのは、単に相手を倫理的に難詰したいが為の論法なんですよね。
そういえば、ちょっと前にも、プルトニウムの危険性は塩とさほど変わらないと主張した北海道大学の
奈良林直教授がネットで散々叩かれていましたよね。
■【動画】坂本龍一氏「プルトニウム食べても大丈夫とか塩みたいなもんだとか言ってるけど、自分でまず食えよ!自分の子どもに食べさせてみろ!」これ↑なんかも典型的な「生体実験の強要」ですよね。
確かに誰でもこのような反論が反射的に頭に思い浮かぶのはある意味仕方が無いのかもしれない。
ただ、
山本七平も指摘しているように、科学的に安全か安全でないか調べるのに、人の生体実験は必要でない筈。過去のデータや動物実験等を通じて十分知見を得られる筈なのです。
したがって、そういった知見を全て無視して
奈良林直教授を「御用学者」呼ばわりし、「プルトニウムを飲め!」と強要することには、「相手を倫理的に難詰する」以外に何の意味もありません。
こうやって専門家の意見を感情的に潰してきた結果が、第二次世界大戦のみじめな敗北につながった訳です。
少しでも戦前の愚行から教訓を得ようと思うならば「生体実験を強要する」思考様式が如何に危険であるかを認識し、そうした思考様式に陥らないよう努めるべきでしょう。
しかしながら、気安く「生体実験」を口にする者に、そうした過去の事実認識は全くありません。
そうした者達が口にする「反省」。
原発事故を契機として、頻出する「生体実験の強要」を見るにつけ、
山本七平の「
反省と言う語はあっても反省力なきこと」という指摘を改めて思い浮かべざるを得ないのです。
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