以前の記事「
「法」と「伝統的規範」との乖離」の続き。
今回ご紹介するのは、日本人が刑罰をどのように捉えているのか、わかりやすく説明している箇所です。
(前回の続き)
山本 この前、阿部正路先生と幽霊と悪魔について対話をしたことがあるんですけれども、時代別にみるか、民族別にみるかしていきますとね、人間の空想力の範囲がわかるんですね。
人間は自由に空想できるようでいて、つまるところ決してそうではないんであって、電離層みたいなものが頭の中を囲んでいまして、そこから先へは出られないんです。
空想というのは現実の反射にすぎませんからね。
マルクスのような人間だって、未来を空想するときに、その空想の材料として使うものは、やっぱり十九世紀のヨーロッパだけですからね、そこから出て行くことはできない。
この空想の範囲を比較してみる方法があるとすると、同じような概念、たとえば竜とドラゴンについて、空想の仕方の違いをみるんです。
ヨーロッパ人は誇大妄想狂ですから、「ヨハネ黙示録」みたいに竜がどんどん大きくなっちゃう。宇宙の端から端まであって、しっぽを振ると星が落ちる、とこうなるわけです。
日本人はそういうものすごい空想はできなくて、猿沢の池で水を飲んで雲を呼んで天に昇った、それが限度なんですね。
ともかく、空想の産物には限界があって、キリスト教社会、とくに旧約時代の社会では、日本の幽霊みたいなものは絶対に空想できない。
同時に日本人はどんなに頑張ってもサタンというものは想像できないんですね。
でね、阿部先生によると、幽霊には立派なものが多いというんです。
「四谷怪談」を例にとって説明されるわけですが、お岩さんが伊右衛門に殺され、幽霊になって出てきて報復する。これで平衡関係が確立されるわけですね。
そのときの原則が、絶対に第三者に迷惑をかけないことなんです。
ほかの人間の前には出ず、危害も加えない。
しかも伊右衛門を殺したあと、嫌疑が他人にかからぬよう、血だらけの髪の毛を一本、幽霊がやったという証拠に残して去るんですね。こんな立派なものはないというんですよ。(笑)
さて、ではそういうケースが旧約聖書にあるかとなると、神話・伝説のいちばん古いものではカインとアベルということになる。カインがアベルを殺す、最初の殺人事件です。
で、アベルが幽霊になってカインを追いかけるかというと、そうならないんですね。
アベルの血はあくまでも神を呼ぶんです。絶対的な義に訴える。そして神が罪を定めてカインを追放するわけです。
つまり、日本の幽霊は、話し合いの行動原理と同じで、個人対個人で完結するのに対して、むこうでは神がいて三角関係になる。
岸田 幽霊にまでも人間関係が出てくる。
神と悪魔は一つの原理を表現しているわけですが、幽霊は原理の表現ではなく、個人的な恨みを表現している。幽霊が正義の立場に立っているわけではないですよね。
山本 ない。客観的な「義」ではないですから、事をおえたあとでお岩さんの霊は肩を落として悄然と去っていく。義を確立したという形じゃないんですよ。
岸田 日本人には神の義に訴えて怨念を晴らすというルートがないから、化けて出る以外に方法がない。つまり日本では、被害者に罰する権利があるんだな。
江戸時代でも殺人犯が、被害者の遺族に引き渡されて、役人の立会いのもとに遺族に殺されるか、そこまでいかなくても、処刑された犯人の死体に遺族がせめて短刀で一突きするという例がたくさんある。
法が裁くのではなくて、被害者に本来の権利があって、役人は被害者の代理人にすぎないんですよ。
山本 被害者に犯人を捕える力がないから、役人がなり代って捕えてやって、処罰するのは被害者だ。仇討ちと同じでね、仇討ちは日本の刑罰としてあったわけです。
■平手政秀の諌死
岸田 仇討ちは、親の怨みを子が継承するわけですね。継承する子を持たないときは、お岩みたいに幽霊になる。
日本の仇討ちと幽霊は一体のものですね。
つまり、日本人のけんかというのは、すべからく「怨みを晴らす」という形。だから戦争が長いんです。
山本 長いなあ。
岸田 目的を持った組織的な戦争と違ってね、子が継承すればいいんだから、これは長い。
ぼくがつくづく不思議に思ったのは、戦争中の「敵の心胆を寒からしめた」という表現ね。
得意そうに、戦果のひとつとしてそういうことを言うんですよ。
向こうの考え方からすれば、これがなぜ戦果なのか、わからないでしょう。
しかし、何人倒したとか何を奪ったということのほかに、心胆を寒からしめることが目的なんです。
特攻隊の思想にもこれがあったんだろうと思うんです。
実際の破壊効果よりも、日本人はこれほどまでしておまえたちを恨んでいるということを示すことに意味がある。
これは確かに日本人同士の争いなら、かなりの効果があるんですよ。
相手に効果的な直接攻撃をかけないで不満を表明するために自分を傷つける。すると相手にもその怨みの深さが通じるんです。
たとえば、城を包囲した秀吉軍に対して、城兵が次々と躍り出てきて、立派に切腹して見せたら、秀吉なら「おまえたちはそれほどまでして、このおれに城を渡したくないのか」と言って、軍を引きあげたかもしれませんよ。
特攻隊の生みの親、大西瀧治郎中将は、「それでアメリカに勝てるのか」と聞かれて、「勝てないまでも、ドロン・ゲームにすることはできる」と言っていたそうですが、アメリカがドロン・ゲームですましてくれるという期待があったんでしょうね。
しかし、こういうやり方が、アメリカ軍に通じると思ったのが間違いで、通じるわけがない。
新大陸に入植して以来のアメリカ人の仮借なき徹底した攻撃性を知らなさ過ぎました。
山本 斬り込み隊というのもそれですね。
岸田 昔でいえば切腹。最大の苦痛をともなう死に方をすることによって、誠意なり怨みなりを伝える。諌死ですね。日本文化のなかでは、周囲もこれを評価するわけです。
山本 相手も思いつめられていたことによって、自分の行動を変えていく。信長の御守役たった平手政秀が諫めの遺書を残して切腹すると、信長は人が変ったようになった。
本当がどうか知らないけど、そういう話は日本人にとってまことに納得しやすいんだな。
この、思いつめるという形は、現代でいうと、公害反対運動にも現れていますね。怨念であって、また、被害者が加害者を罰するという形態になる。
岸田 「怨」と書いた旗を立てる。日本の規範は人間関係ですから、他人に軽蔑されるとか恨まれるという以外にブレーキがない。
だから「怨」は相手の行動に対する最大のブレーキなんですね。
山本 公害で亡くなった人間の写真をプラカードに掲げるのも「怨」であって、きわめて効果が大きい。
岸田 だから、日本人同士はよくわかるんです。
しかし、これを外国との戦争に持ち込んでも、まったく意味をなさない。諌死せずに、あくまで生きて争う国ですからね、相手は。
(次回へ続く)
【引用元:日本人と「日本病」について/サタンと幽霊・平手政秀の諫死/P86~】
では私の雑感を少々。
今回引用した箇所は、死刑問題を考える際、非常に参考になると思います。
岸田秀が指摘したように、「日本人は神の義に訴えて怨念を晴らすというルートがない」→「被害者に罰する権利がある」という説明は至極納得できます。
あだ討ちしたいという被害者の怨念は洋の東西を問わないと思いますが、西欧ならそこで神が出てきて被害者になり代わり罰することができる。そして加害者自身も「汝殺す無かれ」という神の戒律に背いたという意識が、意識的であれ無意識的であれ存在し苦悩するかもしれない。
たとえ死刑にしなくても、いずれ神が憎っくき加害者を地獄に落としてくれると信じることも出来るし、死刑にしなければ被害者自らも「汝殺す無かれ」という教えに背くことも無い。
こう考えると、西欧で死刑廃止が受け入れられてきたのも納得できるのですが…。ちがうでしょうか?
それに対し、日本には被害者に代われるものが存在しない。
あるのは具体的な法律(刑法など)だけですが、この法律自体が(被害者に加害者を罰する権利があるという)伝統的な考え方と乖離しており、必ずしも被害者の思うとおりに事が運ぶとは限らない。
この点も、法というものに対して、いかがわしさを感じさせるゆえんかも知れません。
そして、「相手が嫌がるから殺さない」というだけの”歯止めの世界”では、加害者が地獄に落ちると確信できない。だから、相手が嫌がる応報刑としての「死刑」を日本人の多くは望むのではないでしょうか。
日本で
死刑存置派がマジョリティであるのは、日本の社会が「神が介在しない人間関係」であるからなのでしょう。
死刑廃止派は、こうした事情を全く無視し、「国家による殺人はいけない」とか「世界の趨勢だから」とか「日本は人権後進国」だとか取ってつけたような理由で批難しています。
そもそも、人権思想というのは、西欧のキリスト教に基づいているはずです。
寄って立つ基盤が違う日本に、それをそのまま当てはめようとする試みが成功するはずがありません。
死刑廃止派のこうした指摘は、理解はされこそすれ、普通の日本人には心情的に、まったく受け入れられないでしょう。
西欧と日本ではこのように基盤が全く違うのに、そうした理由で受け入れを迫る”進歩的な”人たち。
これも、一種の「出羽の神」的行動ではないか…と思わざるを得ません。
それともう一つ、「心胆を寒からしめる」ということについて。
特攻隊の思想の背景にこれがあったというのは、非常に鋭い指摘だと思いました。
上記の引用の中で、
岸田秀が「アメリカ人の仮借なき徹底した攻撃性」を指摘していますが、
山本七平も「アメリカ人は手加減を知らない。中途半端に応対するとやられてしまう」とどこかの本で述べていたような気がします。
このような日本と外国との違いを理解せず、「話し合い」で解決しようなどと考える人が如何に多いことか…!第二次世界大戦であれだけやられたのに未だそのことが解らないのでしょうか?
こういうところも、反省力なきことの一例では?
今現在も、日本人同士なら通用することを、我々は外国人に対して行なっていないでしょうか?
それが「通用しない」ということを、考えもしないで。
そして「通用しない」とさとった段階で、一方的に「裏切られた」と受け止め、逆上する。
このパターンは、戦前戦後通じて変わっておらず、色んな形で繰り返され、摩擦や誤解を生む原因になり続けているとしか思えません。
我々が真に反省するとしたら、この点ではないか…とつくづく思います。
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久しぶりに赤旗ネタでも。
1月24日(土)付の赤旗のコラム↓を読んでいて、余りに違和感を覚えたので取り上げてみる。
■潮流
太平洋戦争で激戦の地となった硫黄島。
国土地理院が、呼び名を「いおうじま」から「いおうとう」に変えると発表したのは、二年前の六月でした
▼戦中まで住んでいた島民は、「いおうとう」といっていました。戦後、アメリカ軍は「いおうじま」とよび、東京都や地理院も、米軍にならいます。しかし旧島民は、戦争で奪われた故郷の名前を取り返したいと願っていました
▼地理院の発表から二十日余り。北九州で、いまも人々の記憶に鮮やかな事件が発覚します。生活保護を打ち切られた男性が、「おにぎり食べたい」と書き残し孤独死していました。市民たちは、「硫黄島作戦」による死、といいます
▼硫黄島の戦で日本軍は、米軍を水際で退けようとせず、上陸を許したうえで一人ひとり撃ち殺す作戦をとりました。同様に、いったん保護を認めておいて打ち切るやり方を「硫黄島作戦」とよんだのです
▼保護の申請に来た人を追い返す「水際作戦」も後を絶ちません。先日、大阪で、元派遣労働者が申請できないまま餓死したとみられる事件があったばかりです。
では、解雇されたり「硫黄島作戦」「水際作戦」にあったりしたらどうするか。自由法曹団の『なくそう!ワーキングプア 労働・生活相談マニュアル』(学習の友社)などが役に立ちます
▼才バマ米大統領映就任式で独立宣言の「幸福を追求する権利」をひきました。日本国憲法もうたう幸福追求の権利。その行使は、人権と人権保障のしくみを知ることから始まります。
【引用元:平成21年1月24日付赤旗一面より】
何か支離滅裂な感じのするコラムですね。
そもそも、生活保護の打ち切りのことを「硫黄島作戦」って言われているの?と疑問に思い、検索キーワード「硫黄島作戦 生活保護」でググッてみたところ、13,000件ほどヒットしました。
一応wikiにも載ってましたけど、なんだかなぁ…。
共産党関係者や一部の左翼だけの用語っぽい気がして仕方が無い。
グーグルの先頭ページに表示されているのも、共産党関係者っぽいものばかりだし…。
そもそも、硫黄島作戦というのは、水際で米軍を防げないから地下壕掘って抵抗したわけで、これじゃまるで米軍が被害者のような扱いに見えて仕方がない。実際には、日本軍の兵士の方がしんどかったと思うのだが…。
うがった見方をすれば、ここにも「日本軍=残虐」というイメージを見ることが出来る(書いている本人は否定するだろうけどね)。
普段は、米帝とか批難するくせに、太平洋戦争時の米軍をまるで正義の味方みたいに扱いがちだよね、左翼の連中は。
それはさておき、確かに、こうした水際作戦や硫黄島作戦なるものによって、本来保護を受けるべき人まではじいているとしたら問題はあると思うけど…。
ただ、実際に不正受給などの問題もあるわけだし、実務に携わる人間サイドから見たら、全て申請を受け付けて精査するというのは現実的に厳しいんじゃないだろうか?
批判するのも結構だが、その際、「硫黄島作戦」とか名付けるそのセンスがいただけない。
硫黄島で散っていった英霊に失礼ではなかろうか(…なんて思いもよらないのだろうけど)。
共産党の連中には、そんな名称つけて批難するよりもっと中身で勝負してもらいたいものです。
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前回の記事「
日本人の組織とは?」の続き。
以前書いた「
神、主人、奴隷の三角形とは~西欧の「契約」の背景にある神~」の中で、西欧の人々が法律の背後に「神意識」を持っていることを紹介しましたが、それでは、日本人はどうなのか?
それについて
山本七平と
岸田秀が対談している処を紹介していきたいと思います。
■伝統的規範と法
岸田 彼らの場合、なぜそうなったんですかね。それだけブレーキが必要だったのか。禁止を一つ一つ細かくつけないと行動の規範がつかない、ということなんでしょうね。
日本の場合は人間関係です。
自分の自我が相手によって支えられているから、相手からブレーキがかかるわけだ。相手のいやがることをしない。何かいやがることかは決めてなくて、対応において決まるわけだけど、その一線が歯止めになっているんですね。
彼らは「汝、殺すなかれ」という戒律があるから殺さないんだけれども、われわれは相手を殺せば相手がいやがるから殺さない。
だから、原則的にいえば、日本の道徳では自殺幇助罪などは罪じゃないでしょうね。
法律には触れるにしても、その人に罪悪感はないんだろうと思います。
自殺に罪悪感を持たないというのもそれですね。自殺であって、人を殺すわけではないから、人に迷惑はかけていない。
誰にも迷惑をかけないというのが、日本人のジャスティフィケーションですからね。
ヨーロッパでは、人に迷惑をかけないからいいじゃないか、という理屈は通らないでしょう。
山本 通らない。これはもう絶対に通りません。
岸田 神との契約に違反すれば、他人の迷惑いかんにかかわらず、通らない。だから向こうの法律で同性愛が禁止されているのもその一例ですね。
これも二人で楽しむだけで、他人に迷惑をかけるわけではないんだけど。
つまり、法律というものは、なんらかの形でその国の人々の共同幻想を反映するものなんです。日本人には、なぜ同性愛が犯罪なのか、どうしても理解できませんね。
山本 その意味で明治の日本における一番の問題点は、例の民法典論争ですね。近代的な法がないと条約改正ができないというわけで、民法をあわててつくるわけです。
ボアソナード(一八二五~一九一〇、フランスの法学者)などが顧問としてやって来まして、ドイツとフランスの民法をまぜこぜに翻訳して、急いで施行しようとする。
外国の民法を翻訳して強制施行する、そんな馬鹿なことをやった国はないというので、この時は民間からも強烈な反対が出る。
法学士会や穂積八束(一八六〇~一九一ニ、法学者)が大反対するわけですね。
それに対する政府の答弁はというと、ちゃんとヨーロッパ式の民法がないと、条約改正してくれないというんですな。
民法というのは、どこの国でも、その国の伝統的な慣習法を合理的に体系化したものであって、イスラム法を訳して日本に施行したら大変なことになるわけでね。
これと基本的には同じ事をやった。
日本における法律と、伝統的文化的規範とは、どこかズレているんです。だから、日本人はなんとなく法律を信用してないでしょう。
岸田 日本人はなかなか告訴しないですね。
最近はそういう習慣も多少できてきたけれども、元来、あまりしない。告訴しても裁判所からまず和解を提案してきますよ。
山本 中国の「律」は元来刑法のことで民法ではないので、この影響で裁判への一種の偏見があるだけでなく、まず”話し合い”の民族ですからね。
明治時代に「三百代言」という言葉があったでしょう。一種の軽蔑の言葉です。
伝統的規範に従ってやって、ちっとも悪くないつもりが、法律的には悪いというケースはいくらでもあるわけですね。
それを巧みにひっかけたり、ごまかしたりしたのが当時の代言人、すなわち弁護土なんです。
これが、ずるいことをやる人間だという意識から軽蔑の対象になる。
要するに伝統的規範と法とが、乖離しているからです。
岸田 だから、この間隙をつかれると、かんたんに詐欺にひっかかる。
相手は伝統的規範で押してくるし、あんまり何度も頼まれたからという、相手に対応する倫理でハンを押してしまう。その挙句、法律に裏切られるわけです。
だから日本人にとって法律はつねにうさん臭い。
山本 そのかわり犯罪の件数はというと、日本はきわめて少ないんです。
これは日本の社会が共同体だからなんですね。共同体の崩壊は必ず犯罪につながるわけで、いわゆる機能集団だけで、共同体がなくなっている社会では、犯罪がいくらあっても不思議じゃない。
日本では機能集団ができると共同体になってしまうし、家族が一家心中するぐらい一人格化しているから、共同体の名誉と家族という歯止めが効いて犯罪が起きないんですよ。会社のことと女房子供とが頭に浮かんで犯罪を思いとどまったなんてね。
たしかに日本では凶悪犯罪は減っていて、とくに強姦罪は徹底的に滅っている。
減っているのは日本だけでね、日本人は少しおかしいんじゃないか、と外国の犯罪学者がいってます。犯罪が一定比率あるのが、社会としては健全なんだ、と。
岸田 そうですね。日本では共同体がまだ健在で、共同体の道徳が生きているからですね。
どのような社会体制でも、そこに住んでいるすべての人が完全に満ち足りているというわけにはいかないんで、どうしてもいくらかは社会体制を乱す奴が出てくる。
だから、どのような社会体制でも、何らかの規範と、その規範を破った奴に対する何らかの罰は必要なわけです。
この規範は、当然、文化によって違っているし、罰だって文化によって違っています。
罰が文化によって違っているというのは、ある文化のなかに住む個人と別の文化のなかに住む個人とで、何か恐ろしいかが違っているからです。
もちろん、死や肉体的苦痛が恐ろしいという点では、どの文化に住む個人でも大体同じでしょうが、人間には、死や肉体的苦痛より恐ろしいことがあります。
自我の崩壊がそれです。
それは、自我や、自我を支えている信仰、理想、名誉などを守るために、死や肉体的苦痛を辞さなかった人が無数にいることからも明らかだと思います。
死や肉体的苦痛も、罰の手段としてある程度は有効ですが、どれほど強大な権力でも、すべての人の日常生活のすみずみまで監視の眼を光らせ、すべての違反を摘発し、罰することはできないわけですから、その有効性には限界があります。
どのような圧制的権力も、人びとが多かれ少なかれ自発的に規範を守るから維持されているわけです。
人びとが自発的に規範を守るのは、規範への違反が自我の崩壊の不安を呼び起こすからです。
文化によって、どういうことがこの不安を呼び起こすかが違っているわけですが、それは、文化によって自我の構造が違っているからです。
さっき言ったように、ヨーロッパ人の自我は神に支えられ、日本人の自我は人間関係に支えられているという違いがあるわけですが、ここが違っているのですから、当然、何か自我の崩壊の不安を呼び起こし、何か恐ろしいかということが、ヨーロッパ人と日本人とでは違っているわけです。
ヨーロッパ人にとって恐ろしいことは、神との契約、神の戒律に背いて神の怒りを買うことですが、日本人にとって恐ろしいことは、人びとに迷惑をかけ、人びとから非難され、見捨てられることです。
だから、日本人に対していちばん効果のある罰は、村八分や、罪九族に及ぶ連座制ですね。
野球部員の一人が非行をしたら、罪は野球部全体に及んで出場辞退に追い込まれるというのもそれですね。非行をしたその部員にとっては、それは自分一人がどんな罰を受けるよりもつらい。
個人主義の確立がどれほどやかましく言われたって、日本人は、実際には、個人主義の道徳では動いていないんです。
日本人が犯罪を犯さない最大のブレーキは、家族が世間で後ろ指をさされないかということですよ。
■サタンと幽霊
岸田 近代ヨーロッパの法体系は、神を国家に置き換えただけで、実質的には神の戒律です。
ヨーロッパ人は、法による処罰の背後に神の怒りを見るからこそ、罰を恐れ、法を守るわけです。
自我の構造が違う日本に、このような法体系が輸入されたことが、近代日本の混乱のはじまりですね。
日本人は、観念的には正しいとされているけど、心からは納得していない法体系と、「封建的」とか「古い」とかで否定すべきものとされているけど、実際には従っている道徳とのあいだに引き裂かれているわけです。
だけど、今、山本さんがおっしゃったように、日本人はなんとなく法律というものを信用しておらず、依然、実際には伝統的規範に従って行動しているから、犯罪が少ないんじゃないかと思うんですがね。
ヨーロッパやアメリカに犯罪が多いというのは、ニーチェは神は死んだと言ったけど、死にかかってはいてもまだ死んでいなかった神が本当に死んでしまったからではないでしょうかね。
彼らは神が歯止めですから、神がいなくなると、残るのは、法的な処罰の恐れだけでしょう。
それだけでは、犯罪は防げません。
ドストエフスキーじゃないけど、彼らにすれば、神がいなければすべてが許されるわけですね。
彼らは、神がいない日本人がなぜ道徳を守るのか、到底理解できないでしょうね。
ぼくは、「進歩的」とか「合理的」とかの理由で、個人主義の道徳を日本人に押しつけるのは、大いに問題があると思っているんですよ。
下手をすると、ヨーロッパ的な歯止めはついに効果を発揮せず、日本的な歯止めは効果を失うということになりかねない。
ま、そのような押しつけが成功するはずはないんで、安心しているんですが。
それから、いまお話しの、日本に強姦が少ないというのは、日本では共同体の道徳が生きているということのほかに、もう一つ理由があると思うんです。
そもそも強姦というのは性欲の問題ではなくて――つまり、たまりにたまった性欲が暴発するという単純なことではなしに――男らしさを証明する手段として存在するんですね。
アメリカでは確かに強姦が非常に多くて、日本の何十倍という数になるんですが、これはアメリカの男性が、より男らしさを証明する方向に駆りたてられているということです。
つまり、開拓時代に過大に要求された「男らしさ」という行動規範が、現在はさして必要でもなく発揮する場もないまま残されていて、その規範に自分をあてはめるために非常に苦しんでいるわけですよ。
日本の男には、母親に対する甘えがあるし、結婚してからも結構、女房に甘えるんですね。
日本の奥さんはよく亭主のことを「大きな赤ん坊を抱えているようなものよ」と言うでしょう。
ああいうことは、アメリカではあり得ない。
男らしさの規範に満たない男を激しく軽蔑するわけです。
その結果、アメリカの男はレディーファーストなどといいながら、無意識に女を深く憎んでいる。
つまり、アメリカでは男が女に甘えることによって、男と女の関係の対立を緩和するという条件が欠けているんですよ。
山本 犯罪の型は確かに文化の型をそのまま現していますね。
日本の場合、強姦は少ないけれど、男性の行う結婚サギは実に多いらしいですね。
届け出が少なくて実数はつかめないようですが、一人がとどけるとイモヅル式に被害者が出てくる。それがたいてい、女性が甘えられて、かねも体も喜んで差し出すという形でしょう。
(~次回に続く)
【引用元:日本人と「日本病」について/伝統的規範と法/P78~】
幾つか雑感を述べていきます。
まず、二人の主張である日本人の行動の規範における歯止めというのが、「人間関係」というのは妥当な指摘でしょう。
西欧やイスラムでは、禁止事項を事細かにあらかじめ決めてあるのに対し、日本は決まっていない。
その時の「対応」によって決まってくる、ということは、その時々の人びとの意識によっても左右される可能性があるということになります。昔だったら問題視されなかった事が、今なら問題とされ、それが行動の「歯止め」になるという風に。
基準が「人間関係」に依存するが故に、どうしてもその運用について「曖昧さ」というのが出てきてしまうような気がします(逆に言えば、柔軟な対応が出来るともいえますが)。
そして、一番の問題点は、おそらく日本の法律が、「伝統的規範」に必ずしも則っていないという点だと思います。
うまい具体例がちょっと思いつかないし、今思いついた例も、果たして適切な例かどうかも非常に怪しいのですが……。
例えば、談合問題などは、日本的価値観から言えば必ずしも間違っていると言えないのにも関わらず、違法であることとか…。多分、昔に遡るほど違法という意識を持っていた人は少ないのでは。
政経分離を巡る問題もその一つかも知れません。伝統的価値観から言えば、参拝活動など問題ではないのにもかかわらず、違法とされ、法に抵触しないようびくびくしながら参拝しなくてはならないこととか…。
ちょっと話がずれるかも知れませんが、いわゆる
日の丸・君が代問題も、その変種かもしれませんね。
違法だの愛国心が危険だの主張されても、普通の人々は日の丸・君が代に伝統的価値観を見出していますから、それを否定されても受け付けない。
それどころか、そう主張する連中を、逆に伝統的価値観を損なうものと見なし、反発する。
これは左翼が主張するような「右傾化」というよりも、むしろ伝統的価値観を守ろうとする「保守化」と言ったほうが正しいと思います。
この問題を二人の視点から考えてみれば、一部の人びとを除いて、彼らの運動が共感を得られないのも、あたりまえといってよいでしょう。
今まで挙げた例は、ひょっとすると適切な例じゃないかもしれません(どなたかもっと適切な例を思いついた方がいましたら教えてください)。
ただ、西欧の法律が神(という彼らの伝統的規範)をベースにしている事と比べると、日本の法律は成立の過程から見て不自然なのは否めない気がします。
そういう意味ではやっぱり、日本人にとって「法律」とはちょっと信用ならないのかも。
それと、日本人の場合、「人びとに迷惑をかけ、人びとから非難され、見捨てられること」が歯止めになっているのは確かですが、こうも核家族化が進み、人間関係が希薄になってくると、その「歯止め」が働かない人が増え、犯罪が多発してくるのも仕方のない事かもしれません。
これへの対処は、やはりコミュニティの再生しかないような気がしますが…。
他になんかあるでしょうか?今は他に思いつきません…orz
最後になりますが、
岸田秀が、日本人に個人主義の道徳を押し付けても成功するはずは無いと断言していますけど、これは果たして当たっているのか……?
これだけエゴイズムがはびこっている現状をみても、私はちょっと不安ですね。
今日はここまで。
次回は引き続き「サタンと幽霊」を紹介していくつもりです。
ではまた。
【関連記事】
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前回の記事
「日本で個人主義が嫌われる理由とは?~神の歯止めを持たない日本人~」の続き。
今回は、なぜ日本人は礼儀を重視するのか?とか、日本人の組織とは何か?ということについて、
山本七平と
岸田秀が対論している箇所を以下引用して行きます。
■「なる」と「する」
山本 結局、神を持ったヨーロッパ人と持たなかった日本人の違いなんです。
旧約史というのは思想闘争史の面と、契約更改史の面とがあるんですよ。神との契約というのはいわば憲法ですが、これの改正みたいなもので、何回も更改するんです。
そう言うと「へえーッ」という人が多いけど、アブラハム契約とかシナイ契約とかシケム契約とかナタン契約とかに学者は分けますが、社会の変化に応じて神との契約を改訂するわけです。
だから旧約・新約という言葉が出てくるんですね。
キリスト教とは、そこまでは更改されてきた古い契約で、ここからが新しい契約だという意味で「新約(ニュー・テスタメント)」となるわけです。
日本の神話は自然生成説なので、自然に生まれたんだから、契約の相手はいない。
天然自然の秩序というものが、おのずからあるわけです。
さっき話の出た、自然の秩序と社会の秩序と内心の秩序の合致という発想ですね。
こういう発想をすると、困ったことに原則は自然であるということになっちゃう。
岸田 ええ。
山本 この自然とは何かというと、自然科学ではないんで、おのずからしかるべき状態になればいいんです。
だから必ず出てくる言葉が「花は紅、柳は緑」と。
おのずと「なる」のであって「する」のではない。
いまもって日本人の行動基準はそうでしょう、「こうします」とは言わない。「こうなりました」とか「それだとこうなります」と言う。
岸田 会議の結果、こうなりました、という。誰がしたのかはわからないわけですね。
山本 そうです。日本の会議はまさにそのために、誰がしたかわからない形にして、「こうなる」ためにあるわけでしょ。
「する」は作為であって、あいつは作為があって嫌な奴だということになる。
周囲との対応に応じてある結果になるという状態がもっともいいんです。
それがさらに具体論になってくると、「形」の重視ということになる。
石田梅巌が「形ハ直二心ナリト知ルベシ」と言い出すんですね。
虎が虎の如く行動するのは虎の形を持っているからだ、人間にとっても形は心なのであって、形を重んじよ、と。
これはまず、馬が草を食うごとく、ノミが血を吸うごとく、この形にきめられた行動原理では人は労働によって食を得るのが行動原理だということになり、最終的には社会秩序はすべてちゃんと型にはまっていなければいけない。
つまり礼儀の秩序ですね。組織じゃないんです。ですから挨拶から服装までうるさいんです。日本というのはそういう社会なんです。
岸田 なるほど。
山本 たとえばスプルーアンス海軍提督を下士官が平気でファーストネームで呼んだというわけですよね。
イスラエルの軍隊もそうなんですが、組織という意識がはっきりしているから、上官をたとえば「ヘイ・ジョー」と呼んでも、上官の訓示を寝っころがって聞いていてもなんでもない。
日本では「形は心」だから、形を崩した瞬間に心の秩序も崩壊してしまう。
教授に対して「てめェ」と言えば、それで大学はもうなくなってしまうわけです。
この、「形は心」みたいな行動原理が日本人にはあるんじゃないでしょうかね。
組織原理でないという意味では、軍人勅諭もそうです。
あれはまず忠節、次が礼儀でしてね。作戦要務令を読んでも、組織原理ははっきりしない。
「戦闘序列ハ戦時又ハ事変ニ際シ天皇ノ令スル作戦軍ノ編組ニシテ之二依り統率ノ関係ヲ律スルモノトス」に始まって、戦闘序列を組まなければならないわけですが、つまり方面軍の編成も師団の編成もぜんぶ勅令なんですよ。
こうなると前線の変化しつつある状況の中ではどうにも方法がなくなっちゃうわけです。
もちろん軍隊区分という便宜的方法はあるんですが、たとえば、半減した部隊を二つあわせてすぐ一個師団として機能さすようなことはできない。
ドイツ軍は、モスクワの前面からベルリンまで撤退してきても、再編成しながらなお戦闘を続け、ベルリン攻囲戦でソビエト軍に十万の損害を与えている。
日本ではそんなことできなくて、徹底的に頑張るけれども、極限にきてパッと崩壊したらそれでおわり。
共同体が解体するようなものですから、それを集めたって組織にならない。
軍人勅諭にも組織という言葉が出てこないし、日本軍には組織がどういうものかということが、本当はわかっていなかったと思うんですよ。
岸田 人の和、人間関係で集団がまとまっているから、生き残りの兵士を集めて員数を揃えても、組織として戦力にならんのですね。
親身になって部下の面倒をよく見る中隊長と、この中隊長のためなら命を捨てる部下という、長いあいだかけてできあがった人間関係に支えられているわけだから、その支えがなくなると、どうしようもないんですね。
秩序は礼によって保たれているわけですね。
山本 礼であり、形ですね。日本人は子供をあんなに甘やかしてどうなるんだろうと外国人はいうけれど、大体十八歳くらいになると、みんな同じになっちゃうでしょう。
岸田 ちゃんと秩序に入ってしまう。
山本 やっぱり新井白石のいう「教えて治に至る」ですよ。基本的には日本の幼児教育というのは「あれしなさい」「これしなさい」でしょう。
岸田 ええ、ベクトルが「しなさい」という方向に向いている。
山本 ユダヤ人は絶対そうは言わないんです。こうしては「いけない」と言う。
旧約聖書のモーゼの十戒などをもとにして、六百十三ヵ条の法規(ハラハー)をつくり、十六世紀ごろに法律みたいに箇条書きにしてさらに細かく注解したものがあるんですよ。「シュルハン・アルフ」というんです。彼らの宗教法のもとになるものですが、これもほとんどが禁止規定ばっかりです。
ところが、日本は「しなさい」型たというと、むこうの教育学関係の先生が、それは大変新しい教育法だというんですね。
どうも「するな」ばかりの教育に対する反省が出てきているらしいんですね。そこで日本がとても立派に見えるらしい。(笑)
これは原則が違うにすぎないんだけど。
彼らの場合、これはいけない、と規定してゆくと、それ以外はなにをしてもいいということになりますね。だからどうしても論争が必要になっちゃう。
(~次回へ続く)
以下簡単に、雑感を述べておきます。
日本人の「組織」は、「礼儀の秩序」と「人の和」を以って成り立っている、という二人の指摘にはちょっと考えさせられました。
山本七平は、別著「
日本人と組織 (角川oneテーマ21)」の中においても、「日本人の組織はマニュアル(例…定款・社規・社則等)を必要としない
(註…存在はするけれども実質的にはそれが空文であり組織内の人間も熟知していないという意味)」と述べた上で、日本のマニュアルというものは、マニュアルではなく、実質「心がまえ集」に過ぎないと指摘しているわけですが、このことも関連がありそうに思えます。
単なる「心がまえ集」で組織が運営できてしまう背景には、「礼儀の秩序」や「人の和」があるからかも知れません。それで上手くいくときは問題はないのですしょうけど。
ただ、その「礼儀の秩序」「人の和」が崩壊した途端、「心がまえ集」しかもたない日本人には、どのように組織を立て直せば良いのかという具体的方法論を持っていないのかも。
持っているのは、自然生成的な「おのずとなる」という方法論だけなのかも知れないな。
だから、とにかく現状を壊せばよい…ということになってしまう。
妥当な例と言えるか疑問ですが…、
例えば最近の政治を巡る世論とかを見ていても、民主党に政権を任せたほうがいいと考える人が多いそうですが、とにかく現状を打破したほうがよい、そうすれば自然とよくなるだろう…的な考え方のような気がしてなりません。
「おのずとなる」で全てが上手くいくのなら、それはそれで結構なんですけどね。
まとまりがありませんが、今日はこの辺で。
次回またこの続きをやります。ではまた。
【関連記事】
・日本で個人主義が嫌われる理由とは?~神の歯止めを持たない日本人~FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
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以前、1読者さんから教えていただいたことがきっかけで「日本人と『日本病』について」↓を読んでいる最中なのですが、
山本七平と
岸田秀による対談形式なので比較的平易に説明されていて、これがなかなか面白いのです。
今回から、その中でも興味深く思った処を感想等まじえつつ紹介していこうと思いますが、まず最初に
岸田秀が「人間とは本能が壊れた動物」と説明している箇所を引用して行きます。これがわからないとその先に進めないと思いますので。
(~前略)
岸田 結局、それではなぜ日本人はこうなったのかという問題ですね。
山本 そうなんです。どうしてそうなっちゃうのか。これは岸田さんのおっしゃる本能の壊れた人間、その壊れ方の問題ですか。
岸田 いえ、それぞれの民族の文化の違いは、本能の壊れ方の違いなのではなくて、壊れたあとの対処の仕方だと思うんです。
人間は本能が壊れた動物だとぼくは言ってるわけなんですけれども、本能とは何かというと、行動形式を指図するものですよね。
本能が壊れていなければ、本能に指図された行動形式によって、この自然の中で生きていけるわけです。
その本能が壊れてしまったとなると、それに代る人工的な行動指針を人間は不可欠に必要とする。
ところが、行動基準の根拠はどこに置くかとなると、根拠は実際どこにもない。
そこでヨーロッパと日本を考えますとね、きわめて単純化して言えば、ヨーロッパでは絶対的な唯一の神というものを創り上げて、そこから壊れた本能の代用品としての行動指針をぜんぶ引き出してきた。
一方、日本は、人の和というか、自分が属している集団、自分の接している人々の間で、みんなの意見が一致すればそれに従うという行動指針ですね。
これも一つのすごい指針だと思うんですが、日本文化というのはこういう形なんじゃないか。
だから彼らのように、一つの絶対的な原理に立った行動指針をもつ人々から見れば、日本人はまったく節操がなくて、その場に流され、あっちで言ってることとこっちで言ってることが違う、ということになるんですが、日本人からすれば、そうした「和」こそが原理である。
山本 ユスフザイという人が、イスラム教徒には元来、人と人との間に契約がないということを紹介していますが(『文藝春秋』昭和五十四年五月号)、まったくその通りなんですね。
なぜそんなことになるかというと、アラーがいるわけです。
個人個人がアラーと対峙して、アラーとの間に契約を結んでいる。
これが学者のいう上下契約で、その契約内容が同じならば、結果において個人と個人との間に同じ関係が生ずる。これはユダヤ教徒も同じ形ですし、ヨーロッパも根本に戻るとこの形なんです。
宗教法というのが、神と個人との契約内容となっているわけです。
彼はこれをおかねの貸し借りにたとえて説明していますが、つまり貸借をどうすべきかは、各人の神との契約できまっている。
この契約の内容がつまり宗教法ですから、改めて個人と個人が話し合って契約をする必要がない。
彼らの社会では、この神との契約に基づく自己規定のない人間というのは信用されないんです。神との契約がないんじゃ、何をするかわからない、これが彼らの精神構造の基本でしょう。
岸田 なるほど。
山本 日本人の社会には神がいないんですね。人間と人間とがいて、お互いの間で相手の立場に立って話し合うわけです。
ただ、おもしろいことに、この話し合いの結果を認証するというときに、「天地神明」という証人を引っぱり出すことがある。だがこの際も、天地神明と人間の間に契約があるわけではない。
(後略~)
【引用元:日本人と「日本病」について/P27~】
【関連記事:神、主人、奴隷の三角形とは~西欧の「契約」の背景にある神~】
本能が壊れた人間というのは、動物なら本能で持っている(つまり自然に働くはずの)ブレーキが利かないことを意味しているわけですが、上記の説明だけではちょっと抽象的で難しいかもしれません。このあと紹介する箇所で具体的に説明されているので、わかりにくければそちらを参照してください。
日本は「和」の国だとか、話し合い絶対主義だとか言われますが、私自身、今までおぼろげに感じてはいたものの、その意味をはっきりと把握していなかったような気がします。
しかし、上記のように日本以外のヨーロッパやイスラムの例と対比してみると、日本の特異性というものを嫌でも認識せざるを得なくなりました。
神がいない世界に住む我らと、神を戴く彼らとが理解しあうのは非常に難しい……そう考えざるを得なくなります。
日本人が対外的に摩擦を起こす根本には、このことに対する意識が決定的に欠落しているのが原因ではないでしょうか?
そもそも、お互いを理解する為には、自分と相手がどこが自分と異なっているのか認識する必要があるはずです。
そうした違いを認識できなければ、相手も自分と同じ人間であるということになり、思考様式・行動様式も同じであるはずという「幻想」を抱いてしまうのではないでしょうか。
まず、神を戴く彼らとの違いというものを認識することが、”相互誤解”を解く鍵になると思うのですが。
しかしながら、そういう認識を持っている日本人は一体どれほどいるのですかねぇ。
話はちょっと逸れましたが、今日の本題に入りましょう。
なぜ日本人は個人主義を嫌うのか?
そのことをわかりやすく説明した箇所を以下引用していきます。
■個人主義的な自我
岸田 ここでもう少し、日本的自我について考えてみたいんですが、いわゆる行動形式の「歯止め」の問題ですね。
元来、動物には本能の歯止めがあるわけです。K・ローレンツの有名な話でいえば、狼の例がある。
狼は二頭が闘って、一方が負けたと思えばひっくり返ってのど元をさらすわけですね。すると勝ったほうはそれ以上噛みつかない。闘いは終わりです。
以後、負けた方はエサでも何でも譲って、そこに序列が成立するんですね。つまり、のど元をさらしたときにブレーキがかかるわけで、ブレーキも本能なんですね。人間の本能が壊れているということは、ブレーキも壊れているということになる。
山本 ああ、なるほど。
岸田 人間だけが無用の人殺しをする。
狼と追って、降伏してきた敵を殺す。自分の生存のために必要でなくても、単なる恨みから殺したりするわけです。
人間が壊れた本能のかわりに行動規範をつくり出したのならば、ここにも「歯止め」が必要ですよね。
そして、いわゆる近代的自我には、神という歯止めがあるわけです。
ところが、神のいないところで近代的自我をつくろうとしますとね、神という歯止めがないものだから、いわゆる近代的・個人主義的な自我と、単なる利己主義との区別がつかないんですよ。
山本 うん、区別がありませんね。
岸田 戦争中、「個人主義はいけない」としきりに言いましたが、神を持たない日本人に個人主義がどう映るかというと、利己主義に映る。
実際、神という歯止めがないんだから、近代的自我はそのままエゴイズムになってしまうんですね。
とにかく自分ひとりのため、ほかの人がどんなに傷つこうが損しようが、自分の快楽や利益さえ確保できればいいという主義になってしまう。
個人主義を日本人が嫌うというのは、そこです。
必然的にエゴイズムに移行する個人主義を無制限に認めていたら、秩序が成り立たない。集団にとって危険なんですね。
山本 個人主義は、ある意味でヨーロッパの理想型みたいなんだけれども、これは「何々をしない」ということが一つの誇りになっているんです。
団体規約でもなんでもなくて、自分対神の約束で、これはしない、あれはしないという原則がはっきりしている。そして、これがはっきりしていればいるほど、社会が尊敬し、信用してくれるわけです。
前にアメリカ国務省日本課長のシェアマンと話したとき、アメリカ人の理想型とはこの意味の個人主義だと言ってましたな。
だいたい、人間の信頼関係というのは、マイナス的なものでして、「彼はこれだけは絶対しない」というところから始まるわけです。
汝、殺すなかれ、盗むなかれと同じで、あの人はここへ来ても私を殺さない、私から物を盗まない、私に対して偽証しない、というそこから始まるわけでしょう。
だから個人が神との契約の形でそういう規範をきちんと持っていることによって、信頼関係が成り立つわけで、これが彼らがいう個人主義の理想型なんですね。
岸田 そして日本人にはその形がない。
山本 でね、私は人々がなぜ自民党を支持するのだろうかと考えたんです。
すると、やっぱり信頼関係というのは、日本人の場合も、最終的に何かをしないということなんですね。
あいつは飲む・打つ・買うのとんでもない奴だけど、こういうことはしないという信頼の仕方がありますね。(笑)
自民党への支持というのはこれなんだな。
とんでもない奴だけど何かをしないと信じてる。
つまり、自分たちが自覚していない伝統的な文化的規範に触れるようなことはしない、という信頼があるんですよ。
自民党は伝統的な政治文化の上に乗っかってるだけでしょう。ところが野党はそうじゃないですね。
前に話に出た栃木県の市会議員の一家心中の場合の新聞記事みたいな日本の伝統的行動規範に根ざさない論理ばかり言ってるから、最終的に何かを托するかとなると、そういう気にならないということでしょう。
岸田 日本共産党が私有財産を認める用意があると言ってみたり、公明党が日米安保の意味を見直すと言ったりするのも、「何かをしない」という信頼性をかもし出したいわけですね。
(~次回に続く)
【引用元:日本人と「日本病」について/個人的な自我/P70~】
以下、私の雑感を述べていきます。
二人による上記の指摘は、非常に的を突いていると思います。
実際、日本において個人主義が嫌われているのも、利己主義との違いがわからないということでしょう。
日本人は、欧米の神の存在のような、個人主義を規制する共通の行動規範をもっていない。
あるとすれば、話し合いの「和」という原理だけ。
この原理は「和」であるから成り立つのに、個人主義はその「和」を平気で乱してしまうから歯止めが利かない。
多くの日本人は、はっきりそのことを認識していなくても、肌では感じているのではないでしょうか。
そしてこのことは実際の政治においても、大きなウエイトを占めているのではないかと。
自民党があれだけだらしなくても、政権政党でいられるのは、そうした面における信頼感が大きいのでしょうね。
そこら辺は野党もなんとなくわかっていて、民主党のように看板を架け替えて政権をとろうとしているのではないでしょうか。
ただ、民主党の政策の中身とか見てみると、日本の伝統的規範に触れる政策が多いような気がしてしようがないんですよね(旧社会党の人たちも大勢混じっているようですし)。
自分が未だに民主党のことを信頼できないのは、このせいだと改めて自覚した次第です(浅はかな解釈かもしれませんが)。
今日はこの辺でやめておきます。続きはまた
次回紹介して行く予定。ではまた。
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最近、読んでいる
山本七平の本の中で「なるほど」と思った処を今日は紹介して行きます。
読んでいる本というのは、こちら↓
この本は、題名どおり日本人の組織論なわけですが、結構抽象的なところも多く、すぐには理解できないところも多々あるので読みこなすのに苦戦しているのですが……。
ただ、この中で非常に面白いと思ったのが、「契約」について説明している箇所でした。
そこのところをご紹介していきたいと思います。
引用前にちょこっと解説しておきますが、彼の説明によると、契約とはそもそも対等な「相互関係」であって、組織の「上下関係」を縛るものではなかったそうです。
それがなぜ変化していったのか?
彼は次のように「神」と「奴隷」をキーワードにして説明しています。では引用を開始します。
■第二章 契約の「上下関係」
(~前略)
契約とは元来は、対等の二者の間で結ばれるもので、組織の上下関係を律する概念ではなかった。
ここまでは、世界どこの国も同じであり、日本も例外ではない。
したがって、西欧キリスト教社会だけを契約社会と呼ぶのはおかしい。
(~中略~)
日本においても、対等の相互契約という概念は、大体、室町時代にすでに定着しており、契約という概念が日本にないなどとはいえない。
だが、組織という点において問題となるのは、この対等の相互契約でなく、組織を構成する基となっている上下契約である。
この上下契約という、われわれにとっては実際には少々奇妙な考え方は、原理的にいえば「神との契約」という考え方の中にすでにあるわけだが、これが本当に定着して民衆の生活をも律するようになったのが、いつごろからかはよくわからないが、史料に残っているという点では、はるか後代の、大体ローマ時代であろう。
次にその中の顕著な二例をあげる。
一つは奴隷解放契約であり、もう一つはキリスト教式の宣誓と殉教の問題である。
■神、主人、奴隷の三角形
当時の社会の史上的かつ一般的なタテの従属関係は主人と奴隷である。
奴隷というのは鞭で追い立てれば働くものか、といえば、いずれの時代であれ、そうはいかない。
奴隷の生産性は実に低く、ローマの外征が行きづまって奴隷〔購入価格〕が高騰するとともにローマ経済はインフレから破綻に向かうわけだが、この時代になると、奴隷への「経済的刺激」による生産性の向上という考え方がローマ人にも出てくる。当然であろう。
そして、比較的早くから経済的刺激体制に入っていたのが、学問奴隷と技能奴隷であった。
この両者は確かに、鞭で能率を向上さすわけにはいかない。
そして当時のローマでは、こういう”高級”奴隷は、いわば”派出婦会主人”のような所有主が所有して、それぞれ必要な場所に、要求に応じて派遣し、その賃金がそっくり所有主のふところに入っているわけである。
単純肉体労働ならいざしらず、高度の知識や技能・技術をもつこういう奴隷は、どうしても経済的刺激を与えざるを得なくなる。
そして生低水準の向上とともにローマ経済は、こういう奴隷が能率をあげてくれないと成り立たなくなる。
しかし、生産性をあげさすため、衣食住を保証した上で経済的刺激を与えるぐらいなら、まず、奴隷購入資金を回収した上で本人を解放し、解放奴隷たる自由人と一種の雇用契約を結んで稼がせた方が楽であるし、雇用主の収入もよい、同時に、当時は奴隷への警察的取締りは所有主の義務であるから、この義務を免ぜられるのも楽である。
そのため、最初の皇帝アウグストゥスのときには奴隷の解放が一種の流行になり、これが治安上の問題になるため、彼は数回、奴隷解放禁止令を出している。
けれど奴隷の側から見れば、ここに一つの問題が生ずる。
奴隷は”人間ではなく家畜である”から、人間たる所有主と奴隷の間で契約を結ぶことは不可能なわけである。
たとえば主人が、「お前の得てきた賃金の半分を、お前のためにつみたててやる。そして、それがお前を購入した金額に等しくなったら解放してやる」と奴隷と契約しても、この契約には効力はない。
奴隷がそのつもりで一心不乱に働き、主人が「購入した金額に等しい」金額をすでにつみたてたころ、「こりゃいい奴隷ですぜ」といって彼を最高値で他人に売りとばし、積立金を自分のふところに入れてしまっても、奴隷は一言の文句もいえない――彼は家畜なのだから――。
だが、こう危惧されて常に疑心暗鬼であっては、生産性はあがらない。
それでは主人がこまる。
この少々面倒な問題の解決に乗り出して来たのが、実は神様なのである。
そして西欧社会の非常に面白い特徴は、この「神」という概念が実は「法」「契約」という概念の極限として、人間社会の実務と深くかかわりあっており、単なる、宗教学の対象にはおさまり切らない点にあると言ってよい。
この方法は、奴隷による収入の一定部分を神殿に寄託してつみたてるのである。
今残っているのは火神アポロンの場合とユダヤ教徒の場合だが、まず前者を見るとこの寄附金が一定に達すると、アポロンがその奴隷を主人から買いとり、その買取り代金として積立金を旧主人にわたすわけで、ここでその奴隷は、「アポロン神の奴隷」となるわけである。
だがアポロンが彼を使役するわけにはいかないので、実際には解放されるわけであって、これがりベルテ(解放奴隷)、この言葉からリバティー(自由・解放)が生まれたわけである。
これが、元来は契約の対象にならない奴隷と契約を結ぶ方法で、上下契約の最も古いものの一つであろうと思われる。
そしてこの図式は、実際には主人・奴隷の上下相互契約でありながら、形では、主人と神との契約で、奴隷は主人から神に売られたという形式をとっているわけである。
この関係を図示するとA図のようになる。
面白いことに、こういった契約形式は今でも残っており、それは西欧の結婚式に表われている。
これについては前に記したことかあるが、結婚は実質には男女の対等の相互契約――いわば相互に誓い合う――形のはずであり、図示すればB図のような形になるはずである。
だが西欧の結婚式の宣誓文をよく読んでごらんになるとわかるが、夫婦は相互に契約はせず、神に向かって、定型化された文言を、各々、別々に断言するだけなのである。
その関係はC図のようになるであろう。
いわば一種のA型関係だが、両者が平等なのは、定型化された文言が平等だからであって、両者が平等な立場で契約を結んだからではない。
この関係を極端にまで推し進めると、確かに離婚ということはありえなくなる。というのは両者の相互契約ではないから、たとえ夫が失踪宣告をうけても、妻と神との関係は、それによって変化を生じないからである。
したがってこういう上下契約を神官立ち合いのもとに、奴隷所有主と神とが結んでくれれば、奴隷はその契約の履行を信ずることがでぎ、それが結婚の場合と同じように、結果においては、一種の相互契約となりうるからである。
したがって両者とも、ともに上下契約であるといいうる。
なお奴隷解放契約には、解放された以後の賃労働契約がふくまれている場合もあったらしい。
そして多くのそれは、旧主人の存命中に限られていた。
この契約はユダヤ教徒の中に見られるが、前と重複する部分が多いから省略しよう。
だが社会というものは、その底辺で以上のような変化を生じた場合、在来の上部構造がそのままでいることはできなくなる。したがってこの徐々なる変化は、ローマ最大の組織の軍隊にも及んで行く。
(以下略)
【引用元:日本人と組織/契約の「上下関係」と「相互関係」/P25~】
ちょっと難しい処があったかもしれませんが、いかがでしたか?
以下、私の雑感ですが…。
奴隷というものが、どのように解放されていったのかを全く知らなかったので、そこに「神」が介在していたのだという指摘は私にとって非常に刺激的でした。
また、西欧社会の「神」というのは、日本の「神」と違って「契約」という概念が付随しており、同じ「神」でありながら全くの別物だということを、改めて感じました。
考えてみれば、モーゼの十戒なんて「神」との契約ですもんね。
日本人が八百万の神様と契約を結ぶなんてことは思いもしなかったのとは、実に対照的です。
そして、
この「神」という概念が実は「法」「契約」という概念の極限として、人間社会の実務と深くかかわりあっており…という箇所は、実に重要な指摘だと思いました。
日本人が法というものに対して「神」概念を感じることは余り無いのではないでしょうか?
この点は、西洋と日本の「法を捉える意識が全く異なっていること」を示唆していると思うのですが。
また、いままで何気なく身近で聞いていた結婚の誓いの形にも、「上下関係→相互関係」という形がはっきり現れているとは……。そんなこと全然考えもしませんでした。
日本の結婚の誓いというのは、相互に誓うというB図ですよね。誓い自体には日本の「神様」は関わらず、証人として立ち会うだけの存在といったところでしょうか。
こうした違いを認識することが出来て、非常に刺激的でした。
やっぱり
山本七平って凄いですね。
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