ここで、もう一度「私の責任=責任解除」の理解を得るために「狸の論理」について、イザヤ・ベンダサン(山本七平)本人の説明を引用しておきましょう。私が説明するよりずっとわかりやすいでしょうから。(註:狸とは小説『坊ちゃん』に出てくる校長のあだ名)
これを初めて読んだとき、私はその独特の見方に感心しました。夏目漱石の卓見もさりながら、その卓見を、宗教的観点を以って分かりやすく説明しているところはさすが山本七平といったところでしょうか。狸校長も赤シャツ教頭も、ともに、私が引用したように「慙愧の念に堪えん」「謝罪しなければならん」と、いわば「明治語」で「ゴメンナサイ、私の責任です」ということによって、当然のこととして、責任が解除されている、という態度を(少しの疑念もさしはさまずに)とっていることです。
(~中略~)
漱石の卓見はこれを「私の責任・イコール・責任解除」と把えたことでした(誤解なきよう「責仕回避」ではありません)。
(~中略~)
天才とは元来、凡俗には全く無関係としか思えない二つの言葉を結びつけて新しい世界を開き、あるいは新しい理解の道を開くものなら、「私の責任」という言葉と「責任解除」という言葉を結びつけ得た漱石は、まさに天才の名に価いしましょう。
紅毛三四郎ことエリセフ教授は「漱石を読み切れば日本人がわかる」と言ったといわれますが、私もそう思います。
(~中略~)
「私の責任=責任解除」は責任回避の意味ではないと書きましたが、この点、ややわき道にそれますが、少し説明を加えるべきかと思います。
日本人の責任回避は、いわば「ほおかぶり」で、徹底的に応答を拒否するという形になりますが、表現の仕方が違っても、責任回避が応答の拒否であるという点では、どの民族もほぼ同じといえましょう。
「ゴメンナサイ=私の責任です=責任解除」はもちろんこれとは別で、私はこれを日本教=人間教における一種の「懺悔→告解」と解しております。
いわば「相互懺悔⇔相互告解」ともいうべきもので、お互いに「私か悪かった」「いや私が悪かった」「ゴメンナサイ」「いや私の方こそゴメンナサイ」という形で、ちょうど「私は罪をおかしました…」に始まるカトリック教徒の懺悔を「人間相互」に行なうという形になり、それにより「和解」が成立する、といえると思います。
それゆえ「私の責任=責任の解除」が成立するわけです。
『諸君!』に一例として記載した「子供がゴメンナサイといわないことを叱る」のも、一種の「相互懺悔の宗教教育」といえましょう。
これは日本教の「罪」もしくは「罪の意識」にも関係する非常に面白い問題です。
【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/本多勝一様への返書/P141~】
さて、続いて引用を続けますが、いよいよこれから、ベンダサンの鋭い筆の矛先が、本多勝一に向けられていきます。以下、引用の中の「彼」は本多勝一のことを指します。
実に厳しい指摘ですね。■狸の論理
以上のことを念頭において、もう一度「朝日新聞」にもどりましょう。
これを書いた記者は、これらの事件が起ったときはおそらく幼少で何も知らなかったでしょう。
従って当時は「責任=応答の義務」はなかったはずです。
しかしもし彼に、当時このことを知っていたらどうしたかと問えば、「同じ記事を書いて告発した」と答えるに違いありません。
何十年か後に、なお正しいことと信じてやっているなら、その当時も当然に正しいこととしてやっていたはずです。
そして彼自身はもちろん下手人でも責任者でもないが、この事件を日本人全体の責任として記事を書いているなら、彼がこの責任を全うする唯一の方法は、日本人の義にかなう法に基づいて、その下手人と責任者を告発して法廷に立たせること以外になかったはずで、それによってはじめて彼の責任は果たされ、その責任が果たされることによって日本人の義も法も名誉も守られたのではないかと問えば、おそらく彼は、その通りだというでしょう。
そこでもし、
「それならきこう。
あなたは今それを知った。
確実に知ったはずだ、知ったからこそ書いている。
そしてこれは日本人の責任だと明言している。
日本人の責任とは何なのか。
それは、日本人の義に基づく法を制定させ、これら事件の下手人と責任者を法廷に立たせてのみ、これを書いたあなたの責任が果たせるのではないのか。
知らないのならよい。
しかしあなたは下手人の名も責任者の名も知っているはずだ。
今、知らなくとも、知ろうとすれば知ることは出来るはずだ。
なぜそれをしない。なぜその名を公表しない。
それをしないなら、あなたは犯人隠匿者として、下手人および責任者の共犯といわれ、一味といわれても抗弁の余地はないはずだ。
それだけではない。
前にものべたように、それをしないならば、日本人は今後とも虐殺事件等の下手人および責任者の名は一切公表せず、従ってその責任を、日本人自らが追及することは絶対しないと宣言しているに等しいことではないのか。
ではあなたは一体何をしているのか、もう一度『一億総ざんげ』を、すなわち『対中国一億総ざんげ』をしろと全日本人にいっているのか。
一体『一億総ざんげ』を批判したのはあなた方ではないのか。
それともこれは『狸の論理』なのか
――その事実を記し、それを日本人の責任だと言ったことによって、そういった者の責任およびそれを掲載した者の責任は免除され、またそれを読んでこの事実を知リ、われわれの責任だといった者は、その瞬間に責任が免除される。
だが、われわれの責任だと認めないもの、いわば『ゴメンナサイ』と言わない者は徹底的に追及される、という――。
これは確かに日本教の世界では正しい。しかし日本教の外の世界では通用しない。
この外の世界では、日本人の責任だというなら、責任をもって追及すべき相手は『ゴメンナサイ』といわなかった者でなく、この「行為」の下手人と責任者なのだ。
それをしないで、『ゴメンナサイ』といわない者を追及しても、それで『日本人は責任を果たした』と考えるのは日本だけだということを、あなたは一体知っているのか知らないのか?
第一、不良品を売ったメーカーの名を通産省が発表しないのが悪いと批判しているあなた方でないか、それなら虐殺事件の下手人と責任者の名を発表しないのは、もっと悪いことではないのか」と問えば、彼は何と答えるでしょう。
【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/朝日新聞の「ゴメンナサイ」/P108~】
余談ですが、本多勝一はこの指摘に対して、「すべての責任は天皇にある」と述べ、その責任を追及するためには「ドバカな記事を書かない」とか「NHK受信料の不払い」とか例に挙げていました。
これも、ベンダサンに「お茶をにごして」いるだけとあっさり論破されてしまっているのですが…。
さて、このような日本人の行き方は、対中国において失敗を犯す原因だとベンダサンは指摘します。以下、そのことについて引用していきましょう。
中国のみならず、他の外国に対しても全てこのような行き方で対処しているのではないでしょうか。話は少し横道に入りますが、私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。
日本には現在「日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ」という強い意見があります。
一見、まことに当然かつ正しい意見に見えますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後には、まさにこの「狸の論理」が見えてくるのです。
すなわち「私の責任です、といって謝罪することによって責任が免除され、中国と『二人称の関係』に入りうる」という考え方が前提に立っているとしか思えないのです。
もちろん日本人が「責任」という場合、これ以外の意味がないから、当然のことですが――。
一方中国人は日本教徒ではありませんから、この「狸の論理」を逆に受けとる可能性は十分にあります。
すなわち「すべては日本の責任であると謝罪したのなら、その責任を果たせ――まず虐殺事件の下手人と責任者を引き渡せ」ともし言ったら、またこれに類する要求をしたら、一体どういうことになるでしょう。
前述の小学校の事件と同じように、こんどは全日本人が激怒して、「こちらが、スミマセンと自分の責任を認めているのに、何ということを言う奴だ」ということになるのは、まず疑いの余地がありません。
しかし「責任」という日本語の「セキ」という文字は、中国と共通ですが、中国では昔には「債務」の意味がある文字ですので、中国側からこれを見れば、「日本人は昔通りの嘘つきだ、自分の責任だと自分の方から言い、かつ謝罪までしておいて、責任を認めているなら当然実行すべきことを要求すれば、とたんにこれを拒否するとんでもない連中だ」ということになります。
これは「債務を認めます」と自分からいうので、それを取り立てに行ったところが、玄関払いをされたと同じような怒りを、中国人に起こさせるわけです。
日本は過去において、おそらく自ら気づかずですが、常にこれを行なってきたようです。
「日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関に共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は、皆無といって過言ではありません。
これは何も両国がしばしば戦争をしたという意味でなく、戦時は戦時として正常な戦時でなく異常な戦時であり、平和時は平和時として正常な平和時でなく異常な平和時だった、という意味です。
理由は私の見るところでは非常に簡単で、日本人と中国人とは「お前のお前」という二人称のみの関係に入りうると、日本人が勝手に信じ込んでいるからです。
従って日本人側から見れば、日本は中国と正常な関係に入るために、多くの努力を払ったことになりますし、「日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ」という主張もその努力の一つでしょう。
日本教徒内部の問題の処理には実に有効な「二人称のみの関係」「私の責任だということによって責任が免除され、対話に入りうる」という方式を、そのまま中国にも援用しようとして、絶えず失敗をくりかえしたにもかかわらず、また同じ方式しか取りえないのです。
これは日本人にとって、この行き方がいかに決定的であるかを如実に示しているかというより、それが通用しない世界があるなどということは、夢にも信じられないからです。
【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/朝日新聞の「ゴメンナサイ」/P110~】
この指摘がなされたのは、もう30年以上も前のことですけど、今なお古びてはいないと思います。
【追記】
書いた後、思ったのですが、靖国神社のA級戦犯の分祀問題なんか、まさにこれの典型例じゃないでしょうか。これは単に分祀すれば済む問題ではないと思います。分祀問題の背後にも、「狸の論理」が伺えると私は思う。
また、つぎに引用する記事などを読むと、若干構図は違えども、日本人が中国というものを見誤っていることで、相互に不信を募らせていくという一例ですね。
本当に、この鈴置編集委員の言うとおりだと思います。要は「釈迦に説法」しちゃっているんですね(中国が釈迦というのもしっくりこないが…。ていうか、豚に真珠…、いやいや、つまり、人をみて対応を変えろということですね)。チャイナ・ハンズが見る日本―③―(2008/3/21 )
中国製ギョーザ中毒事件に関し何人かの香港人に同じことを聞かれた。「日本は中国製品を執拗に調べては『毒入り』と発表する。中国を貶めるのが狙いか」――。
香港なら直ちに輸入禁止
こう言われた日本人は「とんでもない」と答えたうえ「やはり香港人も中国人。身贔屓だな」と内心思う。
だが、話を進めるうちに身贔屓どころか香港人の中国に対する厳しい見方と処し方、さらには自らの稚拙さに気がついていく。
では、香港で中国製の危ない食品が発見されたら香港人はどう対応するのか。
香港政府は直ちに中国からの輸入を禁止する。中国側が状況を改善したと判断できた後に輸入を再開する。しかし、検査の手は緩めない。ただし、中国現地での原因究明――犯人探し――にはさほどこだわらない。
輸入禁止措置をとらず、まず「中国政府と共同で原因調査に乗り出す」と宣言した日本とは百八十度、対応が異なる。なぜだろう。
香港と日本の対応の差は、中国という国への基本的な認識の違いによる。
香港人は「食品に毒物が混入するのは中国ではよくあること」と考えている。だから、中国側か香港側かどちらに原因があるか調査してから輸入を禁止するなどと悠長な、消費者を危険にさらすことは絶対にしない。
そして「中国では当たり前」だからこそ「現場での原因究明」にも固執しない。
仮に、ある企業で原因が判明して「改善」したとしても、どうせほかの企業がまた似たような危ない食品を送ってくる。そもそも中国政府、ことに企業と癒着した地方政府が本気で原因を調べるかは怪しい。
このため厳しい検査体制を自前で敷く。危ない食品を水際で防ぐとともに「厳しい検査をしているからいい加減な製品を送ってくると損するぞ」と中国企業に対し警告を発するためだ。
香港から見れば、いや、世界の常識から見て日本は変わった国なのだろう。だから、香港人は以下のように考えて、日本の政治的陰謀を疑うのだ。
「中国側に原因があるに決まっているのに、ことさら調べ続けては中国犯人説を何度も唱える日本。中国のイメージを悪化させようという政治的目的からに違いない」――。
「食品のことだから『疑わしきは罰する』のは当然。なのに、輸入を続ける日本。本当は日本側に原因があるのではないか。それで、あえて中国犯人説を大声で唱えるのではないか」――。
「変われない」中国
「家庭で調理する前に、野菜は長時間水に漬け、農薬を抜く」――。
「食堂でも、あまりにきれいに光った野菜は食べない」――。
野菜から卵、肉、調味料と食品のほとんどを中国産に頼る香港に住む人々の自衛策だ。
気をつけていても時々、残留農薬や殺虫剤によると思われる痺れに見舞われ、会社を休む羽目に陥る人が出る。
農薬中毒は“本場”中国ではさらに深刻だ。「午後の操業が再開できないことが時々ある」(広東省の日系企業の工場長)。
昼食に使った野菜に農薬が混入しており、それを食べた作業者が手足の痺れを訴えるからだ。
「班長は直ちにラインを止め、作業者に大量のお茶を飲ませる」といった農薬対策をマニュアル化している工場もある。
細かな手作業を行う組み立て工程では、痺れを放置すると不良品が多発するからだ。
中国人も中国の食品や農産物が危ないことは十分に知っている。
一連の騒ぎの中で、山東省にある日系食品工場が製造した肉まんから殺虫剤が検出された。これに関連し中国の食品検査当局は「野菜を仕入れる過程で日本企業の検査が十分ではなかった」と声明を出し「日本の失策と責任」を強調した。
もっとも、この声明こそは「中国産の野菜は危ない。検査もせず使うのは非常識である」という中国の常識を問わず語りに語っている。
分かっている中国人は分っている。「中国産は危ない」ことだけではなく「この問題は容易に解決しない」ことをだ。
中国農業の専門家は言う。「農薬や殺虫剤の乱用がどんな結果を招くか、農民にはまったく認識されていない」。
「農民を教育すればいい、と簡単に言う日本人が多いが、識字率が低く教育は容易ではない。そもそも自分が置かれた不平等な状況にも目を開かせる『知識』を、農民が学ぶことを政府が望むかは疑問だ」。
工場の中でも同様だ。多くの日系企業では健康管理と品質向上のため、作業者に対し「食事の前後の手洗い励行」を教える。
だが、永年の習慣は変えがたく、品質に影響が出ない限り「手洗い」の定着をあきらめる企業が多い。
「中国の危なさ」が容易に解決できるのなら、中国人は日本政府の発表にこれほどには反発しないだろう。
だが自身の「危なさ」を簡単に解決できないこと知っているからこそ、中国人は「日本がそれを知った上で、中国の弱点をつついて楽しんでいる」と思って憤り、中国政府もことさらに「中国に責任はない」と強調する。
日本の「ほめ殺し」
日本政府にしてみれば「現地調査もせずに、原因は中国にあると決めつけるべきではない」という“日本的正論”を基に対応したつもりだろう。
「危ない食品を売るのは一部の不心得者だけ」という“日本的建前”もあったのだろう。
日本側の調査結果を示せばそれを基に議論を進められる、と中国を常識ある先進国並みに扱ったつもりでもあったのだろう。
中国国内の問題点を発見すれば、それが本当に安全性問題の解決につながる、と思い込んでもいたのだろう。
でも「ほめ殺し」にも似た日本の対応は、思いがけない中国の反撃を引き起こし、日本でもそれに対応して中国に対する侮蔑感が一気に噴出した。
香港のように中国の現実を見据えた対応に終始していれば、こんな混乱は起きなかったに違いない。
自他共に親中派を認める福田政権にしてみれば、中国の不興を買わないために「まずは共同調査」という手順を踏んだのかもしれない。
だが、その発想自体が、親中派が金科玉条のように唱える「日中友好」を大きく損ねた。
一方、反中派。彼らからは「これで日本人もようやく中国の本質に目覚めた」と喜ぶ声が聞こえてくる。この事件を期に、すでに高まっていた日本人の反中感情が定着しそうだからだ。
だが、外から見れば、日本の対応は物笑いの種になっていこう。
限りなく中国がクロに近いのに「共同調査体制」を採ったため、現段階ですでに日本は「引き分け」まで押し返された。日中双方が「相手国に原因がある」と主張し、がぶり四つで組み合ったままになっている。
現在、アジア観察者が交わす議論の定番は「傲慢さを増す中国に対し、どの国がどこまで対抗できるか」だ。
北京の病院で外交官が不自然な死に方をした韓国。疑惑を残しながらも韓国政府は結局、中国の言い分通りに「医療ミスではなかった」と発表した(「韓国の不安」=2007年10月1日参照)。観察者の多くはこの事実をもって「韓国はついに中国の勢力圏入りした」と結論付けた。
最近、中国を専門とする各国外交官の集まりで、韓国の外交官がその弱腰を嘲笑される「事件」も起きた、と関係者は明かす。でも「ギョーザ事件」を見ると日本も他人を笑えない。
香港人になれるか
香港人は皮膚感覚に優れたチャイナ・ハンズだ。
自身が、あるいは両親かその親が大陸出身であり、今も中国と何らかの関係を持つ人がほとんどだ。
だから、日本人に対し「香港人ほどに中国の現実と中国人の生理を知れ」と言っても、それは無理というものだろう。だが、日本で売られる冷凍ギョーザの多くが中国製であることが示したように「中国の影」は日本にどんどんさしかかる。
「せめて、それに見合って『中国』を知らないと、日本はますます国を誤る」。ギョーザ事件を香港から眺める日本人はこう思う。
我々日本人の中国への思い込みが、相手を傷つけ、相互理解を阻み、不信や憎しみを掻き立ててしまう。
相手を責めるのは、一見簡単な解決方法に見えるけれども、まずその前に自分が勝手に思い込んでいるのではないかと自省する必要があるのではないでしょうか。
我々日本人は、政治家から庶民まで余りにも、相手に自分の言動が無条件で相手に通じると思い込んでいる節があるとしか思えません。
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