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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか

の続き。前々回・前回と日本人の責任の処理の仕方について説明がなされました。

ここで、もう一度「私の責任=責任解除」の理解を得るために「狸の論理」について、イザヤ・ベンダサン山本七平)本人の説明を引用しておきましょう。私が説明するよりずっとわかりやすいでしょうから。(註:狸とは小説『坊ちゃん』に出てくる校長のあだ名)

狸校長も赤シャツ教頭も、ともに、私が引用したように「慙愧の念に堪えん」「謝罪しなければならん」と、いわば「明治語」で「ゴメンナサイ、私の責任です」ということによって、当然のこととして、責任が解除されている、という態度を(少しの疑念もさしはさまずに)とっていることです。

(~中略~)

漱石の卓見はこれを「私の責任・イコール・責任解除」と把えたことでした(誤解なきよう「責仕回避」ではありません)。

(~中略~)

天才とは元来、凡俗には全く無関係としか思えない二つの言葉を結びつけて新しい世界を開き、あるいは新しい理解の道を開くものなら、「私の責任」という言葉と「責任解除」という言葉を結びつけ得た漱石は、まさに天才の名に価いしましょう。

紅毛三四郎ことエリセフ教授は「漱石を読み切れば日本人がわかる」と言ったといわれますが、私もそう思います。

(~中略~)

「私の責任=責任解除」は責任回避の意味ではないと書きましたが、この点、ややわき道にそれますが、少し説明を加えるべきかと思います。

日本人の責任回避は、いわば「ほおかぶり」で、徹底的に応答を拒否するという形になりますが、表現の仕方が違っても、責任回避が応答の拒否であるという点では、どの民族もほぼ同じといえましょう。

「ゴメンナサイ=私の責任です=責任解除」はもちろんこれとは別で、私はこれを日本教=人間教における一種の「懺悔→告解」と解しております。

いわば「相互懺悔⇔相互告解」ともいうべきもので、お互いに「私か悪かった」「いや私が悪かった」「ゴメンナサイ」「いや私の方こそゴメンナサイ」という形で、ちょうど「私は罪をおかしました…」に始まるカトリック教徒の懺悔を「人間相互」に行なうという形になり、それにより「和解」が成立する、といえると思います。

それゆえ「私の責任=責任の解除」が成立するわけです。

『諸君!』に一例として記載した「子供がゴメンナサイといわないことを叱る」のも、一種の「相互懺悔の宗教教育」といえましょう。

これは日本教の「罪」もしくは「罪の意識」にも関係する非常に面白い問題です。

【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/本多勝一様への返書/P141~】

これを初めて読んだとき、私はその独特の見方に感心しました。夏目漱石の卓見もさりながら、その卓見を、宗教的観点を以って分かりやすく説明しているところはさすが山本七平といったところでしょうか。

さて、続いて引用を続けますが、いよいよこれから、ベンダサンの鋭い筆の矛先が、本多勝一に向けられていきます。以下、引用の中の「彼」は本多勝一のことを指します。

狸の論理

以上のことを念頭において、もう一度「朝日新聞」にもどりましょう。

これを書いた記者は、これらの事件が起ったときはおそらく幼少で何も知らなかったでしょう。
従って当時は「責任=応答の義務」はなかったはずです。

しかしもし彼に、当時このことを知っていたらどうしたかと問えば、「同じ記事を書いて告発した」と答えるに違いありません。

何十年か後に、なお正しいことと信じてやっているなら、その当時も当然に正しいこととしてやっていたはずです。

そして彼自身はもちろん下手人でも責任者でもないが、この事件を日本人全体の責任として記事を書いているなら、彼がこの責任を全うする唯一の方法は、日本人の義にかなう法に基づいて、その下手人と責任者を告発して法廷に立たせること以外になかったはずで、それによってはじめて彼の責任は果たされ、その責任が果たされることによって日本人の義も法も名誉も守られたのではないかと問えば、おそらく彼は、その通りだというでしょう。

そこでもし、

「それならきこう。
あなたは今それを知った。

確実に知ったはずだ、知ったからこそ書いている。
そしてこれは日本人の責任だと明言している。

日本人の責任とは何なのか。

それは、日本人の義に基づく法を制定させ、これら事件の下手人と責任者を法廷に立たせてのみ、これを書いたあなたの責任が果たせるのではないのか。

知らないのならよい。
しかしあなたは下手人の名も責任者の名も知っているはずだ。
今、知らなくとも、知ろうとすれば知ることは出来るはずだ。

なぜそれをしない。なぜその名を公表しない。

それをしないなら、あなたは犯人隠匿者として、下手人および責任者の共犯といわれ、一味といわれても抗弁の余地はないはずだ。

それだけではない。

前にものべたように、それをしないならば、日本人は今後とも虐殺事件等の下手人および責任者の名は一切公表せず、従ってその責任を、日本人自らが追及することは絶対しないと宣言しているに等しいことではないのか。

ではあなたは一体何をしているのか、もう一度『一億総ざんげ』を、すなわち『対中国一億総ざんげ』をしろと全日本人にいっているのか。

一体『一億総ざんげ』を批判したのはあなた方ではないのか。

それともこれは『狸の論理』なのか

――その事実を記し、それを日本人の責任だと言ったことによって、そういった者の責任およびそれを掲載した者の責任は免除され、またそれを読んでこの事実を知リ、われわれの責任だといった者は、その瞬間に責任が免除される。

だが、われわれの責任だと認めないもの、いわば『ゴメンナサイ』と言わない者は徹底的に追及される、という――。


これは確かに日本教の世界では正しい。しかし日本教の外の世界では通用しない。

この外の世界では、日本人の責任だというなら、責任をもって追及すべき相手は『ゴメンナサイ』といわなかった者でなく、この「行為」の下手人と責任者なのだ。

それをしないで、『ゴメンナサイ』といわない者を追及しても、それで『日本人は責任を果たした』と考えるのは日本だけだということを、あなたは一体知っているのか知らないのか?

第一、不良品を売ったメーカーの名を通産省が発表しないのが悪いと批判しているあなた方でないか、それなら虐殺事件の下手人と責任者の名を発表しないのは、もっと悪いことではないのか」と問えば、彼は何と答えるでしょう。

【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/朝日新聞の「ゴメンナサイ」/P108~】

実に厳しい指摘ですね。
余談ですが、本多勝一はこの指摘に対して、「すべての責任は天皇にある」と述べ、その責任を追及するためには「ドバカな記事を書かない」とか「NHK受信料の不払い」とか例に挙げていました。
これも、ベンダサンに「お茶をにごして」いるだけとあっさり論破されてしまっているのですが…。

さて、このような日本人の行き方は、対中国において失敗を犯す原因だとベンダサンは指摘します。以下、そのことについて引用していきましょう。

話は少し横道に入りますが、私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。

日本には現在「日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ」という強い意見があります。

一見、まことに当然かつ正しい意見に見えますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後には、まさにこの「狸の論理」が見えてくるのです。

すなわち「私の責任です、といって謝罪することによって責任が免除され、中国と『二人称の関係』に入りうる」という考え方が前提に立っているとしか思えないのです。

もちろん日本人が「責任」という場合、これ以外の意味がないから、当然のことですが――。

一方中国人は日本教徒ではありませんから、この「狸の論理」を逆に受けとる可能性は十分にあります。

すなわち「すべては日本の責任であると謝罪したのなら、その責任を果たせ――まず虐殺事件の下手人と責任者を引き渡せ」ともし言ったら、またこれに類する要求をしたら、一体どういうことになるでしょう。

前述の小学校の事件と同じように、こんどは全日本人が激怒して、「こちらが、スミマセンと自分の責任を認めているのに、何ということを言う奴だ」ということになるのは、まず疑いの余地がありません。

しかし「責任」という日本語の「セキ」という文字は、中国と共通ですが、中国では昔には「債務」の意味がある文字ですので、中国側からこれを見れば、「日本人は昔通りの嘘つきだ、自分の責任だと自分の方から言い、かつ謝罪までしておいて、責任を認めているなら当然実行すべきことを要求すれば、とたんにこれを拒否するとんでもない連中だ」ということになります。

これは「債務を認めます」と自分からいうので、それを取り立てに行ったところが、玄関払いをされたと同じような怒りを、中国人に起こさせるわけです。

日本は過去において、おそらく自ら気づかずですが、常にこれを行なってきたようです。

日中国交正常化」は日本のあらゆる言論機関に共通したスローガンですが、私の知る限りでは、明治初年以来、日本と中国の関係が正常であった時期は、皆無といって過言ではありません。

これは何も両国がしばしば戦争をしたという意味でなく、戦時は戦時として正常な戦時でなく異常な戦時であり、平和時は平和時として正常な平和時でなく異常な平和時だった、という意味です。

理由は私の見るところでは非常に簡単で、日本人と中国人とは「お前のお前」という二人称のみの関係に入りうると、日本人が勝手に信じ込んでいるからです。

従って日本人側から見れば、日本は中国と正常な関係に入るために、多くの努力を払ったことになりますし、「日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ」という主張もその努力の一つでしょう。

日本教徒内部の問題の処理には実に有効な「二人称のみの関係」「私の責任だということによって責任が免除され、対話に入りうる」という方式を、そのまま中国にも援用しようとして、絶えず失敗をくりかえしたにもかかわらず、また同じ方式しか取りえないのです。

これは日本人にとって、この行き方がいかに決定的であるかを如実に示しているかというより、それが通用しない世界があるなどということは、夢にも信じられないからです。

【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/朝日新聞の「ゴメンナサイ」/P110~】

中国のみならず、他の外国に対しても全てこのような行き方で対処しているのではないでしょうか。

この指摘がなされたのは、もう30年以上も前のことですけど、今なお古びてはいないと思います。

【追記】
書いた後、思ったのですが、靖国神社のA級戦犯の分祀問題なんか、まさにこれの典型例じゃないでしょうか。これは単に分祀すれば済む問題ではないと思います。分祀問題の背後にも、「狸の論理」が伺えると私は思う。

また、つぎに引用する記事などを読むと、若干構図は違えども、日本人が中国というものを見誤っていることで、相互に不信を募らせていくという一例ですね。

チャイナ・ハンズが見る日本―③―(2008/3/21 )

中国製ギョーザ中毒事件に関し何人かの香港人に同じことを聞かれた。「日本は中国製品を執拗に調べては『毒入り』と発表する。中国を貶めるのが狙いか」――。

香港なら直ちに輸入禁止

こう言われた日本人は「とんでもない」と答えたうえ「やはり香港人も中国人。身贔屓だな」と内心思う。

だが、話を進めるうちに身贔屓どころか香港人の中国に対する厳しい見方と処し方、さらには自らの稚拙さに気がついていく。

では、香港で中国製の危ない食品が発見されたら香港人はどう対応するのか。

香港政府は直ちに中国からの輸入を禁止する。中国側が状況を改善したと判断できた後に輸入を再開する。しかし、検査の手は緩めない。ただし、中国現地での原因究明――犯人探し――にはさほどこだわらない。

輸入禁止措置をとらず、まず「中国政府と共同で原因調査に乗り出す」と宣言した日本とは百八十度、対応が異なる。なぜだろう。

香港と日本の対応の差は、中国という国への基本的な認識の違いによる。

香港人は「食品に毒物が混入するのは中国ではよくあること」と考えている。だから、中国側か香港側かどちらに原因があるか調査してから輸入を禁止するなどと悠長な、消費者を危険にさらすことは絶対にしない。

そして「中国では当たり前」だからこそ「現場での原因究明」にも固執しない。

仮に、ある企業で原因が判明して「改善」したとしても、どうせほかの企業がまた似たような危ない食品を送ってくる。そもそも中国政府、ことに企業と癒着した地方政府が本気で原因を調べるかは怪しい。

このため厳しい検査体制を自前で敷く。危ない食品を水際で防ぐとともに「厳しい検査をしているからいい加減な製品を送ってくると損するぞ」と中国企業に対し警告を発するためだ。

香港から見れば、いや、世界の常識から見て日本は変わった国なのだろう。だから、香港人は以下のように考えて、日本の政治的陰謀を疑うのだ。

「中国側に原因があるに決まっているのに、ことさら調べ続けては中国犯人説を何度も唱える日本。中国のイメージを悪化させようという政治的目的からに違いない」――。

「食品のことだから『疑わしきは罰する』のは当然。なのに、輸入を続ける日本。本当は日本側に原因があるのではないか。それで、あえて中国犯人説を大声で唱えるのではないか」――。


「変われない」中国

「家庭で調理する前に、野菜は長時間水に漬け、農薬を抜く」――。

「食堂でも、あまりにきれいに光った野菜は食べない」――。

野菜から卵、肉、調味料と食品のほとんどを中国産に頼る香港に住む人々の自衛策だ。

気をつけていても時々、残留農薬や殺虫剤によると思われる痺れに見舞われ、会社を休む羽目に陥る人が出る。

農薬中毒は“本場”中国ではさらに深刻だ。「午後の操業が再開できないことが時々ある」(広東省の日系企業の工場長)。

昼食に使った野菜に農薬が混入しており、それを食べた作業者が手足の痺れを訴えるからだ。

「班長は直ちにラインを止め、作業者に大量のお茶を飲ませる」といった農薬対策をマニュアル化している工場もある。

細かな手作業を行う組み立て工程では、痺れを放置すると不良品が多発するからだ。

中国人も中国の食品や農産物が危ないことは十分に知っている。

一連の騒ぎの中で、山東省にある日系食品工場が製造した肉まんから殺虫剤が検出された。これに関連し中国の食品検査当局は「野菜を仕入れる過程で日本企業の検査が十分ではなかった」と声明を出し「日本の失策と責任」を強調した。

もっとも、この声明こそは「中国産の野菜は危ない。検査もせず使うのは非常識である」という中国の常識を問わず語りに語っている。

分かっている中国人は分っている。「中国産は危ない」ことだけではなく「この問題は容易に解決しない」ことをだ。

中国農業の専門家は言う。「農薬や殺虫剤の乱用がどんな結果を招くか、農民にはまったく認識されていない」。

「農民を教育すればいい、と簡単に言う日本人が多いが、識字率が低く教育は容易ではない。そもそも自分が置かれた不平等な状況にも目を開かせる『知識』を、農民が学ぶことを政府が望むかは疑問だ」。

工場の中でも同様だ。多くの日系企業では健康管理と品質向上のため、作業者に対し「食事の前後の手洗い励行」を教える。

だが、永年の習慣は変えがたく、品質に影響が出ない限り「手洗い」の定着をあきらめる企業が多い。

「中国の危なさ」が容易に解決できるのなら、中国人は日本政府の発表にこれほどには反発しないだろう。

だが自身の「危なさ」を簡単に解決できないこと知っているからこそ、中国人は「日本がそれを知った上で、中国の弱点をつついて楽しんでいる」と思って憤り、中国政府もことさらに「中国に責任はない」と強調する。


日本の「ほめ殺し」

日本政府にしてみれば「現地調査もせずに、原因は中国にあると決めつけるべきではない」という“日本的正論”を基に対応したつもりだろう。

「危ない食品を売るのは一部の不心得者だけ」という“日本的建前”もあったのだろう。

日本側の調査結果を示せばそれを基に議論を進められる、と中国を常識ある先進国並みに扱ったつもりでもあったのだろう。

中国国内の問題点を発見すれば、それが本当に安全性問題の解決につながる、と思い込んでもいたのだろう。

でも「ほめ殺し」にも似た日本の対応は、思いがけない中国の反撃を引き起こし、日本でもそれに対応して中国に対する侮蔑感が一気に噴出した。

香港のように中国の現実を見据えた対応に終始していれば、こんな混乱は起きなかったに違いない。

自他共に親中派を認める福田政権にしてみれば、中国の不興を買わないために「まずは共同調査」という手順を踏んだのかもしれない。

だが、その発想自体が、親中派が金科玉条のように唱える「日中友好」を大きく損ねた。

一方、反中派。彼らからは「これで日本人もようやく中国の本質に目覚めた」と喜ぶ声が聞こえてくる。この事件を期に、すでに高まっていた日本人の反中感情が定着しそうだからだ。

だが、外から見れば、日本の対応は物笑いの種になっていこう。

限りなく中国がクロに近いのに「共同調査体制」を採ったため、現段階ですでに日本は「引き分け」まで押し返された。日中双方が「相手国に原因がある」と主張し、がぶり四つで組み合ったままになっている。

現在、アジア観察者が交わす議論の定番は「傲慢さを増す中国に対し、どの国がどこまで対抗できるか」だ。

北京の病院で外交官が不自然な死に方をした韓国。疑惑を残しながらも韓国政府は結局、中国の言い分通りに「医療ミスではなかった」と発表した(「韓国の不安」=2007年10月1日参照)。観察者の多くはこの事実をもって「韓国はついに中国の勢力圏入りした」と結論付けた。

最近、中国を専門とする各国外交官の集まりで、韓国の外交官がその弱腰を嘲笑される「事件」も起きた、と関係者は明かす。でも「ギョーザ事件」を見ると日本も他人を笑えない。


香港人になれるか


香港人は皮膚感覚に優れたチャイナ・ハンズだ。
自身が、あるいは両親かその親が大陸出身であり、今も中国と何らかの関係を持つ人がほとんどだ。

だから、日本人に対し「香港人ほどに中国の現実と中国人の生理を知れ」と言っても、それは無理というものだろう。だが、日本で売られる冷凍ギョーザの多くが中国製であることが示したように「中国の影」は日本にどんどんさしかかる。

「せめて、それに見合って『中国』を知らないと、日本はますます国を誤る」。ギョーザ事件を香港から眺める日本人はこう思う。

本当に、この鈴置編集委員の言うとおりだと思います。要は「釈迦に説法」しちゃっているんですね(中国が釈迦というのもしっくりこないが…。ていうか、豚に真珠…、いやいや、つまり、人をみて対応を変えろということですね)。

我々日本人の中国への思い込みが、相手を傷つけ、相互理解を阻み、不信や憎しみを掻き立ててしまう。

相手を責めるのは、一見簡単な解決方法に見えるけれども、まずその前に自分が勝手に思い込んでいるのではないかと自省する必要があるのではないでしょうか。

我々日本人は、政治家から庶民まで余りにも、相手に自分の言動が無条件で相手に通じると思い込んでいる節があるとしか思えません。


【関連記事】
◆「私の責任=責任解除」論①
◆「私の責任=責任解除」論②「ごめんなさい」と言わない奴が叩かれる日本社会


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第281回日本のスイッチ結果発表~!

今週の日本のスイッチ投票結果を公開します。

●実施期間: 4/21(月)~4/23(水)
●参加者: 30460人↓あなたの答えは■で示されています

1.空自イラク活動に「戦闘地域」と高裁が違憲判決
□評価できる…67%(20303人)■違和感ある …33%(9928人)

2.今年のGW連休、平日3日はさんで飛び石なのは
■ちょっと不満…35%(10534人)□これで十分…65%(19823人)

3.入学金未納者に高校の入学式出席させないのって
■ひどい仕打ち…27%(8096人)□当然の措置 …73%(22247人)

4.橋下大阪知事、予算の説明会で反論続出し涙声に 
■熱意感じた…30%(9015人)□情けない話 …70%(21286人)

5.評判悪い奈良のキャラ「せんとくんよく見ると
□結構かわいい…19%(5688人)■やっぱりダメ …80%(24450人)

6.大手コンビニで、お刺し身の販売が始まりました
□それは便利…18%(5607人)■私は遠慮 …81%(24774人)

7.CO2削減のため、白熱電球の生産やめる動きは 
□良いことだ…68%(20617人)■それは困る …32%(9672人)

8.ペットボトルの水やお茶、決まった物を買うこと
■かなり多い…52%(15710人)□こだわりない …48%(14699人)

日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……21人いました。
第281回日本のスイッチ


今回の結果は、意外だったなぁ。

設問3など、当然の措置と考える人がこんなに多いとは!
納めないほうも悪いけど、晴れの入学式に出さないというのはひどい気がするのだが…。でも、その前に納めない人が存在すること自体、私には想定外。

納めない理由が書いてないのでわからないけど、給食費未納問題と同じような構図なのだろうか?それとも、本当に貧困で納められない人が多いのか?

それはさておき、今の日本って、どう見ても昔に比べて常識とか良識とかが通用しない社会になってきているよね。そして今まで常識でカバーしていた部分まで、法律とかで強制しなければならなくなってしまっている。どんどん窮屈で他人を信頼できない社会になってしまっている。

どうしてそうなってしまったのか?いろいろ理由はあるだろうけど、我々自身この問題については、もっと真剣に考えていかなければならない気がします。
(少なくとも、保守派の人たちはこの点について憂慮していると思うが、リベラルな人たちってこの問題についてはあまり触れていませんね。権利を制限する恐れがあると思うのはわかるけれど。果たしてリベラルは人たちはこの点について問題意識を持っているのだろうか?疑問だ。)



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ある意味凄い人物かも…。

何かと忙しくて更新しないつもりだったけど、余りにもひどい記事↓を読んだので取り上げてみた。

【青学准教授】 光市母子殺害事件の「被害者は1.5人」赤子は0.5カウント

こんな人物が、青山学院大学准教授だなんてビックリ。実名でブログも書いているみたいだが、そのまた内容がある意味凄い!こういうのが教鞭を取っているなんて…。青山学院大学大丈夫か…???


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第280回日本のスイッチ結果発表~!

今週の日本のスイッチ投票結果を公開します。

●実施期間: 4/14(月)~4/16(水)
●参加者: 30652人↓あなたの答えは■で示されています

1.3カ月ぶり党首討論、福田首相の逆質問連発は
■苦し紛れの感…67%(20457人)□それも持ち味 …33%(10072人)

2.日本で会見したダライ・ラマが五輪支持発言って
□意外だった…20%(6160人)■さすがと思う …79%(24235人)

3.裁判員制度の時期決定。年内に候補者へ通知です
■少し興味あり…40%(12203人)□かなり不安…60%(18331人)

4.人目を避け、こそこそ走る五輪の聖火リレーって
■走る意味ない…85%(26051人)□仕方ない対応…15%(4549人)

5.大阪くいだおれ人形の、あの店がどんな飲食店か 
□一応知ってた…26%(7984人)■実は知らない …74%(22621人)

6.25周年の東京ディズニーランド、私にとっては
□楽しい場所…55%(16723人)■疲れる場所…44%(13581人)

7.谷亮子選手、最終選考で完敗しても五輪代表って
□実績から当然…38%(11583人)■納得できない…62%(18924人)

8.受話器のコードがくるくる絡まってるのを見ると
■直したくなる…85%(26007人)□気にならない…15%(4607人)

日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……932人いました。
第280回日本のスイッチ


今回は、そんなに選択に悩む設問は少なかったかな。
設問7のヤワラちゃんの五輪代表選出は、選ばれたヤワラちゃんにとっても、そのヤワラちゃんに勝った選手にとってもすっきりしない結果ですね。まあ、一発勝負がいいかと言われるとそれもどうかと思いますが。代表を決めるのも難しいものですね。

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そーゆー展開だったとは…(笑)

よく事実は小説より奇なりとは言うけれど、この展開は読めなかったなぁ~、と思ったのがこのニュース↓以下18禁ですから良い子は見ないでね。


【“そーゆー展開だったとは…(笑)”の続きを読む】

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「私の責任=責任解除」論②「ごめんなさい」と言わない奴が叩かれる日本社会

の続き。
前回、日本人は、個人の責任の追及を避ける傾向があるとのイザヤ・ベンダサン山本七平)の説を紹介しましたが、今回はなぜそうなってしまうのか?
彼は、日本人の教育「私の責任=責任解除」が原因ではないかと説明をしています。それは一体どういうものなのか、長くなりますが彼の記述を引用していきましょう。

従って、子供が物心がつきますとすぐ、「私の責任=責任解除」という教育が、殆ど無意識のうちに徹底的に行なわれます。

日本人のうち、子供のときに「(私の責任です)ゴメンナサイ(またはスミマセン)と言ってあやまりなさい。

そうすれば(そのことの責任は追及せず、無条件で)ユルシテあげます」と言われなかった者は一人もおらず、いわばこの考え方は、「子供のとき尻から叩き込まれている」のです。

もし子供が、その行為に対して、むしろそれに相当する処罰を受けた方が良いと思って「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わなければ、この「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わないことに対して、「強情な奴だ、ゴメンナサイといえ」といって、ゴメンナサイというまで処罰がつづけられることはありますが、この処罰はあくまでも「ゴメンナサイ」と言わないことに対してであって、そのもととなった行為に対して処罰が下されているのではないのです。

従って、欧米の家庭で当然に行なわれている不当な行為に対する「体罰」は日本では皆無に近く、これが子供を甘やかすと誤解されますが、これは誤りで処罰の対象が違うだけです。

小学校でも同様の教育をうけます。
数年前ある事件が新聞に報道されたことがあります。

これはある小学校で小事件があり、教師がそれを追及したところ、「私の責任です」といって一生徒が名乗り出ました。ところが教師がいきなりその生徒を殴打したところ、それが原因でその生徒が死亡した事件です。

教師の行為はもちろん異常であり、あらゆる非難をうけ、法の裁きをうけるのは当然ですが、その時の関係者が揃って口にした非難は「自分の責任だと言った人間を処罰するとは何事だ」ということであっても、「(責任を認めたのだから)処罰は当然だが、そういう処罰をするとは何事だ」ではないのです。

従ってこの処罰が何の事故を起さなくても、この教師は、当然のこととして非難されます。

中学校・高校・大学へと進んでも、また家庭でも一般社会でも、以上の教育は徹底しておりますので、そういう学生が西欧へ留学しますと、時には、驚くべき事件を起すことがあります。

五、六年前ですが、西ドイツの新聞に、ある日本人留学生が大学図書館の本のあるぺージを切ってとったため、窃盗罪で起訴され、懲役刑を課された、という記事が載っていました。

私は、日本の新聞もこの事件を報道し、この事件の背後にある、日本と西欧の根本的な考え方の差を追及してくれたら、むしろこういった小事件の方が大事件の報道よりも日本人に大きな示唆を与えるのではないかと考えましたし、今もそう考えておりますが、私の知る限りでは、ついに、日本の新聞には報道されなかったようです。

窃盗そのものは、もちろんどこの国にもあり、別に珍しくありません。
ただ珍しいことは、日本では、図書館の本を切りとって法廷に立たされた学生は一人もいない、ということなのです。

もちろん西ドイツにもいないと思います。

しかしドイツ人の場合は、一ページを窃取してそのため残る生涯を棒にふるような、常識では考えられない行為をする人間がいないからいないのですが、日本ではそうでなく、こういう行為をした人間を法廷に立たせることが不可能なので、いないのです。

というのは現に日本の図書館には、あるページを切り取られた本が、いくらでもあるからです。

では、もしその窃盗の現場を教授なり司書なりに発見されたらどうなるか。
その場合は、「ゴメンナサイ」「スミマセン」と謝罪すれば、この行為は不問に付されます。

ただもし「ゴメンナサイ」「スミマセン」とあやまらなければ、この「あやまらない」ことに対しては、徹底的な追及がなされます。

しかし、もしこの際、その教授なり司書なりが、謝罪してもしなくても、窃盗は窃盗だから、その行為は当然法にふれると考えて、謝罪させた上でその生徒を警察に引き渡したなら、今度は逆にその教授もしくは司書が非難され、おそらく「教育者の資格なし」と断定され、免職になるかも知れません。

日本教の世界では、これが当然とされることは、今までのところを読み返して下されば、ほぼ理解していただけると思います。

そしてこの留学生の「不幸」は、彼が、ドイツ人も日本教徒だと思い込んでいたことが原因でした。

しかしドイツならずとも、日本教以外の世界では、この論理が通用しないことは説明の必要はないと思います。

第一、図書館の本は教授や司書の私有物でありませんから、窃盗を不問に付する権限は彼らにないはずで、もしそんなことをすれば、公有財産の盗奪に加担し、犯行を隠蔽したことになり、管理者としての責任を全うしなかった者として、それこそ「責任」を追及され、非難されることは明らかです。

この留学生はそれを知らなかった――ということは、教授・司書も自分をも律する第三者としての「法」があって、その法が自分たちを共に律しているとは夢にも思わずに、物心ついたとき以来「尻から叩き込まれた」教義に従って「スミマセン」と言ったのでしょう。

日本教の世界なら、これで「行為」は不問に付されます。

しかしドイツでは、これで、「罪状認否」において、本人が自ら罪状を承認したことになりますから、当然のこととして法に基づく所定の手続きがとられ、後はすべてが「法」によって自動的に進行しただけのことでしょう。

ただ以上のことで誤解してはならない点があるとすれば、これは多くの人が誤っているように、日本人の倫理的水準が西欧より低いということではない、ということです。

そうでなく、倫理の「基準」が違うのです。

西欧にはもちろん、西欧の倫理的基準に基づいて水準の高い人もいれば低い人もいます。
それと回じで、日本には、日本教の倫理的基準に基づいて水準の高い人も低い人もいるわけです。

これは当然のことなのですが、日本が西欧に接触して以来、相互にこの「基準」の差を「水準」の差と混同し、誤解し、それによって生じた混乱のため、現在では、論議不能なまでになっています。

従って前述のような例をとりあげればすぐに一方では、「日本人はドイツ人より倫理的水準が低い」と考え、他方はこれに反撥して「ドイツにだって、もっと倫理的水準の低い奴がいる」といった実例をあげての反論となって、常に何も明らかにならず、何の結論も出ないのです。

従ってここで、もう一度、これは「基準」の問題であって「水準」の問題でないことを申し上げておきます。

この点で私が常に問題を感じているのが、日本教徒キリスト派です。

前述の下獄した日本人留学生の場合を例にとりますと、彼を法廷に立たしたドイツ人の行き方を、彼らは「ユダヤ教的律法主義」と考え、「ゴメンナサイ」といえば、行為は不問に付するが、「ゴメンナサイ」といわなければ、そのいわないことを追及する日本人の行き方をキリスト教と考えることです。

すなわちこの場合、日本の教授や司書の役割をキリストが行なっている――ということは、キリストに、「ゴメンナサイ、私の責任です」といえば、一切の行為は不問に付される、と考えていることです。

彼らがそう考えるのは彼らの勝手で、別に異議を申立てようとは思いませんが、こまることは、それをキリスト教と考えて、勝手に、西欧でも、それが「基準」だと思い込んでしまうことです。

前述の大学生などは、あるいはそういう思い込みの犠牲者かも知れません。

そしてさらに恐ろしいことは、日本人は本心では「西欧」を世界と考えているので、これが世界に共通する普遍的な「基準」すなわち異論の許されない真理と信じ込んでしまっていることです。

この奇妙な関係は日本教徒死刑廃止論にも表われています。

一言にしていえば、「私の責任です、といって罪を認めた者を処刑することは正しくない」というのが、日本教・死刑廃止論の論理です。

言うまでもなく、これは西欧の死刑廃止論とは全く別のものですが、この場合もその基本的な点を無視して同一視されてしまうのです。

殺す側の論理朝日新聞のゴメンナサイの章より引用】


相手を判断するときの判断基準の一つに、「相手の態度」というのがあると思いますが、日本人ってのは、外国人よりどうもその基準を重要視している気がします。

どんなに理屈が正しくても「態度」が伴わないと見向きもされませんし。ベンダサンもそのことを、上記の記述の中で言いたかったのかな…と私は考えています。でも、謝りさえすれば許されるというのは彼なりの極論だと思いますけどね。

こまることは、それをキリスト教と考えて、勝手に、西欧でも、それが「基準」だと思い込んでしまうこと
そしてさらに恐ろしいことは、日本人は本心では「西欧」を世界と考えているので、これが世界に共通する普遍的な「基準」すなわち異論の許されない真理と信じ込んでしまっていること



改めて再度引用しましたが、ここのところは、今回最もベンダサンが言いたかったことじゃないでしょうか?この思い込みが、誤解を招く元凶だと彼は指摘したかったのではないかな…。

また、死刑廃止の話も最後に出ていましたが、その理由は果たしてそれだけなのか?書いた当時はそうだったのか?それについては、ちょっと疑問ではありますね。

なにはともあれ、次回③では、いよいよベンダサンの鋭い筆の矛先が、本多勝一に向けられていきます。ではまた。


【関連記事】
◆「私の責任=責任解除」論①
◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか


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面白動物紹介:レター・オープナーラビット

突然ですが、レター・オープナーって家にあります?
うちなんか、手紙なんて請求書か広告物しかこないから、必要ないんですけど。

でも、こんなオープナーがあったら一度くらい使ってみたいな~。


実に器用に空けとりますな。ヤギと違って食べないのも実用性十分デス。


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第279回日本のスイッチ結果発表~!&映画「靖国」騒ぎについて

今週の日本のスイッチ投票結果を公開します。

●実施期間: 4/7(月)~4/9(水)
●参加者: 30730人↓あなたの答えは■で示されています

1.新医療制度、後期高齢者を長寿に言い換えは
□少しはまし…23%(7156人)■まやかしだ…76%(23452人)

2.聖火リレーチベット問題抗議する場になるのは
■当然のこと…54%(16450人)□筋違いの妨害…46%(14099人)

3.大地震が起きて、自宅まで歩いて帰るとなったら
□自信あります…46%(14145人)■かなり不安 …54%(16509人)

4.映画靖国の上映中止問題、より責任大きいのは
■上映側の自粛…23%(6957人)□抗議側の圧力…76%(23477人)

5.最近、浴室での「洗剤ガス自殺」が増加中ですが
□気になってた…39%(12093人)■知らなかった …60%(18531人)

6.マンガの「課長島耕作」、ついに社長に昇進って
□なると思った…29%(8824人)■いつの間に……70%(21651人)

7.プロ野球の楽天、球団記録の7連勝を達成です
■今後に期待…72%(22074人)□今後が心配…27%(8441人)

8.子供のころ好きだった絵本、たまに読み直すこと
□あります…31%(9607人)■ないです…69%(21082人)

日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……319人いました。

設問2が意外に拮抗しているような気がしますね。確かにパリやロンドンでは過激でしたから、眉をひそめる人が多かったのだろうとは思いますけど…。ただ、そもそも中国でやること自体が、間違っていたのは、もう誰の目にも明らかになりましたね。本番はどうなることやら…。

設問4はある程度予想していましたけど、曖昧な質問ですからあまり参考になりませんね。二択だしイエスノーでもないから仕方ないですけど。

まぁ、この問題については、国会で取り上げた有村治子議員の発言を見ればおよそどんな映画か推測できますね。とりあえず、産経の阿比留記者のブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」から一部引用しておきましょう。

○この映画に出てくる中心人物のうち、3人のうちの2人であるこの菅原龍憲さん、高金素梅さん両氏は、小泉前首相の靖国神社参拝についてこの映画の申請がだされた当時も現在も靖国神社を相手取って訴訟を起こしており、当該映画のテーマである靖国神社とは係争関係にあります。しかも、この映画の中で両氏は、彼らが現実の社会の中で提起している訴訟と同じ趣旨の主張をそのまま展開をされており、一連の靖国関係訴訟を代弁する政治的宣伝がそのままキャスティングにそのまま反映されています。

○キャストとして上がっている名前は3人しかないんです。そのうちの2人は靖国訴訟の原告なんです。

○この映画を製作した李纓監督は、「北京週報」の日本語版でこのようなことをおしゃっています。「私の映画が具体的に示しているのは、『菊と刀』でその二者の間の関係だ。最後に問いただす最も鍵となるのはやはり天皇の問題だ。天皇の問題が解決されず、永遠に曖昧のままに過ぎ去られれば、靖国神社の問題を解決することはできない」と北京週報に答えられているんですね、公言されているんですね。ここでもこの映画の特定の政治的喧伝意図があることが明白になっているんです。

○この中で8人のプロデューサーの名前が出ていますが、8人のうち7人は中国の方でございます。日本人としてただ一人、協力プロデューサーとして、名前が挙がっている山上徹二郎氏は、「この映画の影響はアジアを飛び越し、世界的に注目を集めることになる。『靖国』が日中韓と欧米で公開されれば、日本は戦争責任問題を本当に反省せざるを得なくなる」と人民日報の国際版サイトで語っておられます。

○そもそも李纓監督は、もともとは「南京」に関する、「南京事件」に関する映画をつくりたいと思っていたと北京週報で答えていらっしゃいます。この映画のクライマックスでは南京事件に関して、中国側から証拠写真として出されている写真の中でも、ねつ造と断定されたり、現在の学術界からその信憑性が著しく問われているような写真が、あれよこれよとコラージュのように出てきます。


以上、全部有村議員の発言なんですが、これを見て私は本当に呆れました。
これら指摘が全て本当だとしたら、どう考えても「反日映画」ですよ。それに国民の税金である助成金を与えて、日本政府がお墨付きを与えるなんて、文化庁の役人は何を考えているのか

反日映画を作りながら助成金をもらう方も厚かましいと思うが、そもそも文化庁の役人どもが、しっかり内容を精査して助成金の対象としては不適格であるとしていれば、有村議員らが問題視することもなく、左翼の連中に「表現の自由」の侵害だ!と騒がれることもなかったのだ。

狡猾な左翼の連中に、この問題を見事なまでに利用され、宣伝の具にされてしまったね。そういう意味では、文化庁の役人どもの罪は重い。

何が重大かって、左翼の連中が反日活動に励むのと、日本政府自らがそうした活動を幇助するのは意味合いが全く違う。今回はそうした行為について、問題視してくれた議員がいたから、まだ救われたけれども。

しかし、こういう現状を見るにつけ、日本社会のあちこちに、反日勢力がはびこっているなと感じざるを得ませんね。しかも、こうした連中は一見正義づらをしながら、日本を貶めることに長けているので非常に気持ち悪い。ネットウヨなどの粗暴な主張も嫌いだが、左翼と比べると陰険でない点がまだましではないかと正直思ってしまう。

何はともあれ、今後も有村議員には、左翼のお門違いな批判に屈せず頑張ってもらいたいですね。

【追記】
宮崎正弘氏のメルマガ見ていたら、氏の左翼評が出ていたのでご紹介。辛辣な評価ですが、的を得ていると思います。

(宮崎正弘のコメント)左翼の戦術は執拗且つ卑怯が常道。ひょっと油断したときに、隙を狙うゲリラ戦です。善意の人々が安心して、ひとやすみしている時間が一番危ないのですね。
 大内蔵之助風に言うと「おのおのがた、一時の油断も禁物ですぞ」。




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「私の責任=責任解除」論①

本多勝一といえば、かつての朝日新聞の花形記者だったそうですが、今はどうしていることやら。

その本多勝一とも、イザヤ・ベンダサン(山本七平)は論争を繰り広げていたのですが、今回はその論争の中から日本人の考える「責任の処し方」について、ベンダサンの主張を紹介していこうと思います。

左翼の方々が、なぜ「日本の悪行を取り上げること=戦争責任を果たすこと」と考え込んでしまっているのか?それが日中関係にどのような影響を与えているのか?そのヒントがこの中にあると思いますので。

今回、引用するのは、次の本です。
殺す側の論理 (1972年)殺す側の論理 (1972年)
(1972)
本多 勝一

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この「殺す側の論理」という本は、1972年に初版が出ているのですが、その大半が、1972年1月から4月にわたって「諸君!」誌上で行われたベンダサンとの論争をまとめたものです。

本多勝一はどうやら、この論争に勝ったとでも認識しているのか、このように単行本にしているわけですが、どう読んでも負けてるとしか思えないのですが…。
でも、彼が単行本にしてくれたおかげで、私も読むことができたのには感謝してます。

それでは、まず論争の元となったイザヤ・ベンダサンの記述から引用して行きましょう。

(~前略)

私はそのポスターに異常な衝撃をうけ、結局われわれは永久に日本人を理解できないのではないかと考え、しばらくそのポスターの前に茫然と立ちすくんでおりました。

ポスターには、刑務所の面会室らしい場所があり、面会人と拘置人をへだてる金網が大きく写され、その金網に一人の男が駆けのぼるような姿勢でしがみついています。

映画の題名は「真昼の暗黒」、余白におそらく後から筆書きで「八海事件(*ウィキペディア参照の真相」と書かれ、その下に大きく「司法殺人は許されるか!」と書かれておりました。

私が、日本人は永久に理解できないのではないかと考えましたのは、この「司法(による)殺人は許されるか!」という言葉だったのです。

(~中略~)

私もこの事件については、少しく知識をもっておりましたが、私は全く何の疑いもなく、これは「偽証事件」と考えておりました(もし判決が正しいなら、ですが)。

ある無実の人間が、別の人間の偽証によって死刑の判決をうけたのなら、これは何の疑いもなく「偽証(による)殺人」と考えるのが常識です。

私は何度も、読み違いではないかと、ポスターを眺めました。

しかし何度見なおしても、書かれているのは「司法殺人は許されるか!」であって「偽証殺人は許されるか!」ではないのです。

(~中略~)

日本人には偽証という考え方が全くないのです。
お驚きになるかもしれません。

しかし、ないものはないと申上げる以外にありません。

では日本では偽証をしてもかまわないのか、と問われれば、私が言うのはそういう意味でなく「証言」のない世界に「偽証」はありえないからだ、とでも申上げる以外に言葉はありません。

(~中略~)

真相は別として、映画はあくまでも、Y以外は無実という立場で作られているようです。
それなら、どう考えても、だれが考えても「偽証(による)殺人」のはずです。

だが謳い文句は「司法殺人は許されるか!」なのです。
一体これをどうお考えになりますか。

(~中略~)

この場合、まず最初に問題にされるのが偽証の責任であることは異論の余地がないと思います。

しかし日本では、この偽証の責任を追及せず、無意識のうちに全日本人が、まるで本能的とでもいいたいような態度で、徹底的にこの問題から目をつぶり、避けてしまうのです。

ということは「個人(偽証をした者)の責任は追及してはならない」という確固たる法律があるとしか考えられません。

【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/朝日新聞の「ゴメンナサイ」/P95~】

上記の記述は、導入部であって本論ではないのですが、ベンダサンの指摘とちょっと関連しますが、日本人は、偽証というものに対し、警戒がなさ過ぎるような気がしますね。だって、慰安婦の証言一つにコロリと騙される人が未だ多いのですから。

それはさておき、続いてが本題です。ここでベンダサンは、本多勝一記者が朝日新聞紙上で報じた「中国の旅」というルポについて取り上げていきます。ちょっと長くなりますがご容赦ください。

■二 私の責任=責任解除

今日本で広く話題を呼んでいる新聞記事にも「司法殺人」と全く同じ考え方があります。

これは「朝日新聞」が、中国で日本人が行なった虐殺事件の数々を克明に連載した記事で、大きな反響を呼んでおります。

ただ不思議なことは、この記事も、この記事への反響にも、責任(個人の)の追及が全くないことです。

ソンミ事件(*ウィキペディア参照」の報道がカリー裁判となったように、この報道が、中国における虐殺事件の責任者を日本の法廷に立たせることが起りうるか、と問われれば、この連載はまだ終ってはいないが、終った時点においても、日本ではそういうことはもちろんのこと、個人の責任の追及も、絶対に起らないと断言できます

では何を目的としての報道でしょうか。

この事実を示すことによって、ちょうど西ドイツの「非ナチ化法」のような「非軍国主義化法」を制定させ、その法に基づいて、この虐殺事件の下手人、責任者を法廷に立たせ、すべての証人(必要とあれば天皇まで)を喚問し、たとえ「証拠不十分」ですべての被告は無罪になるとしても、この法と法に基づく告発によって日本人の「義」を守るためなのか、といえば、これもまた「そういうこととは思えない」と断言してよいと思います。

従ってこの「朝日新聞」のキャンペーンは、見方によっては、「日本人は、過去はもちろんのこと将来も、たとえいかなる恐るべき虐殺事件を起しても、その責任者を追及し告発し、法のもとで裁くことは一切しない」という非常に恐ろしい宣言をしているともいえます。

これが事実です。

しかし私がこういえば、すべての日本人から「それは見当違いの見方だ」という徹底した反論というより抗議と非難に会うことと思います。

もちろん日本人は一部で誤解されているような「フェアでない民族」ではありませんから、以上の考え方を自己弁護のため自らにだけ適用しているのではなく、自らが被害者になった場合にも等しく適用しているのです(これは見落されがちですが)。

たとえば「原爆反対」の運動はあっても「ヒロシマに原爆投下を命じたトルーマン元大統領(個人)の責任を追及する」ということは起らないのです。

では一体「朝日新聞」は何のためにこの虐殺事件を克明に報道しているのでしょうか。
これによって「だれ」を告発しているのでしょうか。

「だれ」でもないのです。

ちょうど「偽証(による)殺人」を「司法殺人」というように「戦争殺人」「侵略殺人」「軍国主義殺人」を告発しているのであって、直接手を下した下手人個人および手を下させた責任者個人を告発しているのではないのです。

そしてこの虐殺事件を起したのは「われわれ日本人」の責任だといっているのです。

しかし、そう言ったからといって、この言葉を、「われわれ日本人の責任だから、われわれの手で、われわれの法と義に基づいて、その下手人と責任者を告発し、裁判に付することによって、われわれ日本人の責任を果たす」という意味にとってはならないのです。

では一体この「われわれ日本人の責任」とは、どういう意味なのでしょうか?

ここで前便でのべました「坊ちゃん(註…夏目漱石の小説の主人公のこと)」の「狸」氏を思い起こして下さい。

「狸」氏への「坊っちゃん」の批判をそのままここへ適用しますと、

「われわれ日本人の責任だというなら、そう言っている御本人も日本人なのだろうから、そう言う本人がまずその責任をとって、記事など書くのはやめて、自分がまっ先に絞首台にぶら下がってしまったら、よさそうなもんだ」

と言うことになります。

しかしもしそう言えば、この記者はもちろんのこと、「朝日新聞」も識者も読者も非常に怒り、前便にのべましたと同じ論理で、「そういうことを言う奴がいるから、こういう事件が起るのだ」と言われて、この言葉を口にした人間が「責任」を追及されますから、これはあくまでも「ひとりごと」に止めねば、大変なことになります。

これも前便で申上げましたように日本教=二人称の世界では、「それは私の責任」だということによって「責任=応答の義務」はなくなるのに、この論理は逆に「責任だと自供したのなら、自供した本人がその責任を追及されるのは当然だ」としているからです。

もう一度申上げますが、これは日本教では絶対に許されません。
もしこれを許したら、日本教も天皇制も崩壊してしまうからです。

【引用元:本多勝一著/殺す側の論理/朝日新聞の「ゴメンナサイ」/P1401~】

これを読むと、1972年の段階から、日本の戦争責任を巡る態度というものは変っていないような気がします。

常に日本軍の悪行が取り上げられ、それに対し反省の態度を示すことが求められる。
そして、一億総懺悔をすることで、まるで責任を果たしたかの如く思い込んでしまう…。

未だに左翼の方々は、このことを求め続けているようですねぇ。

既に長文となっているので、今日はここまで。
次回②は、日本人の考える責任の取り方とは一体どのような考えに基づいているかを、夏目漱石が唱えた「私の責任=責任解除」論を通して分析することになります。
ではまた。


【関連記事】
◆「私の責任=責任解除」論②「ごめんなさい」と言わない奴が叩かれる日本社会
◆「私の責任=責任解除」論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか


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子猫動画紹介:布団に入ったけど…まだ遊びたいニャ編

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プロコフィエフ&ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲

政治系ネタを離れ、たまには格好つけてクラッシックの曲について、語っちゃおうかな…。

私は、よくクラッシックを聞いておるんですが、やっぱり好みがありまして。
一概にクラッシックといっても、バロックなどの古典的なものは名曲を除いて興味がないし、かといって難しい現代音楽なども理解不能でダメ。その中間あたりが好きなんですね。

一応、クラッシックの名曲と言われる物は、耳にしてきたのですが、そういう曲って大概メロディが親しみやすく憶えやすいような気がします。ただ、私は聴きこむタイプなのか、こういう名曲を何度も聴いてしまうと流石に飽きてしまうんです。(妄想ですが、過去に聴いた音楽の記憶を消す薬とかできないかな?そうすりゃ、何度でも感激に浸れるのだけど…)

そんな私でも、幾つかは何度聴いても飽きない曲のレパートリーがあります。
まず、真っ先に挙げられるのが、ストラヴィンスキー作曲「春の祭典」
これは流石に20世紀で一番のクラッシック曲だと言われるだけあって、凄い!!
知らない方もいらっしゃるでしょうから、一応ウィキペディアを引用します。

春の祭典(はるのさいてん、原題フランス語:Le Sacre du Printemps、英語: The rite of spring)はロシアの作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲したバレエ音楽であり1913年に完成し同年5月29日に初演された。 20世紀の近代音楽の傑作に挙げられる作品であり、複雑なリズム・ポリフォニー・不協和音に満ちていて、それまでの音楽とはまったく異なり初演当時けが人も出る大騒動となったことで知られる。
 (中略)
初演にはサン=サーンス、ドビュッシー、ラヴェルなどの錚々たる顔ぶれが揃っていた。曲が始まると、嘲笑の声が上がり始めた。そして始まったダンサーたちの踊りは、腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛びあげるという、従来のバレエにはない振付であった。野次がひどくなるにつれ、賛成派と反対派の観客達がお互いを罵り合い、殴り合りあい野次や足踏みなどで音楽がほとんど聞こえなくなり、ついには、ニジンスキー自らが舞台袖から拍子を数えてダンサーたちに合図しなければならないほどであった。
 (中略)
当時の新聞には「春の虐殺」(Le "massacre" du Printemps)という見出しまでが躍った。サン=サーンスは冒頭を聞いた段階で「楽器の使い方を知らない者の曲は聞きたくない」といって席を立ったと伝えられる。しかし翌年の演奏会形式での再演では大成功を収め評価を確立し、ロンドンやニューヨークでも高い評価を得ることとなった。
 (中略)
エピソード
ウォルト・ディズニー制作のアニメ映画『ファンタジア』にも使われ、地球の誕生から生命の発生、恐竜とその絶滅までのドラマがこの曲に合わせて繰り広げられる。

また演奏困難な曲に数えられ、数々の逸話が残っている。日本初演の際にも指揮者が曲の進行を見失い、もう少しで終わらなくなりそうだったと言う。また、岩城宏之もこの曲の演奏を失敗して中断した事があり、その顚末について著書『楽譜の風景』に記述している。


私は、よくドライブ中に流します。大音量でね。強烈なリズム感に酔いしれるにはもってこいなんですよ(危ねぇ~)。車の中で指揮する振りしたり、体を動かしている人を見かけたら、私かも知れません…(汗)。決して近寄らないように!

ちなみに、引用したウィキペディアにも書いてあるけど、ディズニーのアニメ映画「ファンタジア」でも使われてる。確か「恐竜時代に隕石が落ちてきて…」という場面に使われていて、凄くアニメとマッチしているのに感心した記憶があります。

【追記】
youtubeに一部演奏があったので貼っておきます。
第1部 長老の大地への口づけ
指揮 : Philip Mackenzie)
オーケストラ : アマデウス・オーケストラ (Amadeus Orchestra)の演奏だそうです。



そして、最近はまり続けているのが、プロコフィエフショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲。
これについて今日は曲評でも書いてみましょ。

私が愛聴しているのは次のアルバム↓。
プロコフィエフ&ショスタコーヴィチ : ヴァイオリン協奏曲プロコフィエフ&ショスタコーヴィチ : ヴァイオリン協奏曲
(1998/03/25)
ヴェンゲーロフ

商品詳細を見る

収納されている曲は、
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番
の2曲。

ウィキペディアでこの曲を調べてみた。

セルゲイ・プロコフィエフの《ヴァイオリン協奏曲 第1番 ニ長調》作品19は、1916年から1917年にかけて作曲されたプロコフィエフ最初のヴァイオリン協奏曲。初演は1923年10月18日にパリのオペラ座にてマルセル・ダリウーのヴァイオリン独奏とセルゲイ・クーセヴィツキー指揮パリ・オペラ座管弦楽団による。初演時にこそ成功しなかったものの、今日ではプロコフィエフの協奏的作品の中で最も愛好される作品の一つになっている。イーゴリ・ストラヴィンスキーは概してプロコフィエフの作品に好意的でなかったものの、この作品については褒めた。カロル・シマノフスキとアルトゥール・ルービンシュタインはこの作品の上演に接した後、感極まって楽屋に作曲者を訪ねたという。

うんうん、わかる、わかるよ。その気持ち。痛いほど…。私もこの曲を聴く度に、その素晴らしいヴァイオリンの調べとテクニックに酔いしれてしまうから。

楽曲構成
以下の3楽章からなる。
1.アンダンティーノ(ニ短調)
2.スケルツォ、ヴィヴァーチッシモ(ホ短調)
3.モデラート - アンダンテ(ト短調~ニ短調)

第1楽章は霊妙な響きに始まり、躍動感と静止状態の間を行きつ戻りつし、終結部においても、開始のときと同じく平和裏に、楽章を畳んでいく。この特徴は第1楽章に限らず、どの楽章にも当てはまるので、性格的に作品全体が一つに統一されているといえる。独立後のプロコフィエフの作品としては、全般的に瞑想的で白昼夢のような不思議な抒情性に溢れている。


このプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲の中で一番好きな楽章が、第3楽章。

なんともいえないような憂いを帯びたヴァイオリンの調べに始まり、オーケストラと絡み合っていく。3分過ぎには、切な過ぎるヴァイオリンの音色が響き始める。その後しばらく落ち着いた調べを奏でているのだが、5分過ぎ、ヴァイオリンが軋み始め、極限といってもいいほどのヴァイオリンのテクニックが爆発するのだ。そしてその1分後には、弦を軋ませながら頂上に登りつめていく…。その後は混乱をきたしながら、緩やかに収斂し、炎が消え去るように静かに終息していく…。最高です。何度聴いても飽きない。

このアルバムのヴァイオリニスト、ヴェンゲーロフのヴァイオリンテクニックは本当に凄い!テクニシャンにありがちな嫌味のある演奏ではないのが非常に気に入ってます。

続いて、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲もウィキペディアから一部引用しましょう。

ドミートリイ・ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77は、1947年から1948年にかけて作曲されたヴァイオリン協奏曲である。曲の長さ・内容・オーケストレーションとも大規模であり、交響曲に匹敵すると言える。ショスタコーヴィチの傑作の1つである。
 (中略)
作品の内容
クラシック協奏曲の一般的なスタイルとは異なった4楽章形式でありながら、アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲などの近代協奏曲のように一貫した構成を持っておらず、4つの楽章はそれぞれ独立した曲をなしている。また、古典的な音楽形式であるパッサカリアを第3楽章に配置したこと、「夜想曲」や「ブルレスケ」など、各楽章に標題をもっていることも特徴的。
また、交響曲的ともいえる深い内容にもかかわらず、拡大された2管編成という楽器構成、管弦楽法の筆致はシンプルで、室内楽的でもある。 演奏時間約35分。


この曲も、凄く好きなんですよ。曲調は全体的に暗めだけど…。一人暗い部屋で、聴くのがマッチするような曲だね。これもそれぞれ好きな部分について感想を述べますね。

第一楽章なんてすごーく暗い出だしなんだけど、でも格好いいのが8分20秒過ぎぐらいから。オケのバックの音楽と、ヴァイオリンが絡み合いぶつかり合って盛り上がっていく…。鳥肌が立ちそうな調べが堪りません。
第三楽章も、暗い。2分頃から始まるヴァイオリンの切々として叙情的かつ朗々とした調べが最高に美しい。ヴァイオリンの音色を堪能するのはまさにこの部分だ。4分20秒ごろなんて、登りつめて弦が切れんばかりの切ない音が響き渡る。その後だんだんと落ち着いていき、ヴァイオリンのカデンツァとなる。このカデンツァ部分は、ipodで聴いているとイマイチなのだが、生コンサートで聴いてみるとしんみりとしてこれまたいいんですね。そしてだんだんとヴァイオリンが激しさを増していき、第四楽章へとなだれ込んでいく。
第四楽章は、最初からオケとヴァイオリンが激しくせめぎあう。カオスのイメージがする音楽だ。ヴァイオリンの超絶テクニックが堪能できる。そして一気にクライマックスへ。あぁ、一体どうしたらこのような音楽を作ることができるのか!まさに天才の所業だと思わざるを得ない。

以上、素人なりの感想でした。ではまた。
(散々、褒めまくってますが、クラッシックに縁のない人には、この曲のどこがいいのかさっぱりわからないと思いますので私の評価を鵜呑みにしないでくださいね。私だって最初は、何じゃこの音楽は!と思ってたくらいですから。常々思うんですが、クラッシック音楽って、噛めば噛むほど味がでるようなスルメみたいなもんじゃなかろうか!って)


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誰がそのルールを「合理的でない」と決めるのか?

FC2ブログユーザー同士だと、トラックバックURLが表示されている下に、「この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)」という項目があるのだが、それを利用して、今回の記事を書いて見ます。

学校の式典での国旗国歌「強制」問題に限らず、「ルール」を守れという声は常にあります。そういう「一般論」は「一般論にとどまる限り」、「一般的には」たしかに間違っていません。しかし、たとえば、こんなふうに考えてはどうでしょうか。古代ローマ帝国にあった奴隷制。当時の「ルール」では奴隷は支配階級には絶対服従という「ルール」がありました。反逆した奴隷は死罪、という「ルール」もあったでしょうね。当時の奴隷たち...
「ルール」が破られるときに社会の発展がある。


まぁ、いわんとする事は何となくわからないでもないが…。しかし、一見、まともなことを言っているようで、何だか胡散臭いんだよな。

という感想はさておき、これを読んで素朴な疑問。

誰が「合理的」でない「ルール」を決めるのか?ということ。

自分の考えでは、やはりその社会の「多数派」が「決めること」なのではないかと思う。その判断が正しいか誤っているかは、ここでは脇に置いておく。

もし、村野瀬さんが「合法的でない」と判断した「ルール」があったとしよう。しかしながら、その「ルール」を世間が「合理的」だと判断した場合、彼女は従う気はあるのだろうか?

それとも、自分が合理的でないと判断したら、世間が反対の判断を下そうとも、その「ルール」に従わないのだろうか?

そういう時は多分、「多数派の横暴」とか「少数意見の尊重」とかそのときに都合のいい意見を述べて従わないのではないだろうか、という気がしてならない。

まぁ、そうだとしたら、これは何も彼女らに限らず、左右問わずよく見受けられることだけれども…。(書いている自分だってそうかもしれない。)

もちろん、そういうマイノリティである彼らの判断自体はできれば尊重したい。

ただ、その「ルール」が合理的だと判断した世間に対し、曲がりなりにも敬意を払うとか、邪魔をしないという態度を示してくれたなら…、という条件付ではあるが。

そうした態度を示しつつ、自らの主張を展開するならば、彼らの主張に重みを持たせることができ、多数派の判断を変えていくことができるかもしれないと思うのだけどねぇ。

ところが、実際の彼らはというと、そういう世間に属しながら、その世間に対して敬意を払わず攻撃する。しかも、弱者の立場に立った振りをして。

いくら正義の仮面をかぶっていようと、そうした態度をしていれば、いずれ世間は気付くものです。彼らの主張が偽善に満ちていることにね。


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言霊(コトダマ)②「なぜ日本人は契約下手なのか」

前回①の続き。
前回、護憲派の人たちが平和憲法を信じている理由に、言霊(コトダマ)の影響もあることを紹介しましたが、今回はその続きです。

よく日本人が契約下手だと言われていますが、なぜそうなのかを解説してくれています。以下、井沢元彦逆説の日本史〈3 古代言霊編〉平安建都と万葉集の謎より引用していきましょう。

日本人は「契約」というものが下手だという世界的な定評がある。
これは西洋や中近東の人々と比べてだけではなく、同じアジアの中で中国人や韓国人に比べても下手である。 なぜ、そうなのか。
 それは、日本人の性質の中に、その原因があると考えるのが自然である。もし中国、韓国、日本の三国の人々すべてが契約下手なら「儒教」のせいということも考えられるが、東アジアの中でも日本だけが下手なのだから、やはりそれは日本人固有の特質に基づく理由があると考えた方がいいだろう。こう言えば、もうおわかりと思うが、つまり、これもコトダマが原因なのである。

 (中略)

 前節で、日本人は「なぜ契約が下手なのか」という問題提起をした。答えは実はこの辺にある。
 日本人が日本人同士と契約する場合と外国人(アジア人も含む)と契約する場合、一番違うのはどこか。 それは契約書の分厚さである。

 (中略)

 なぜ、そうなるのか。あるいは、外国の契約書はなぜそうならないのか?
 日本の契約書には、外国の契約書には無い「誠意条項」というものがある。
 何も難しい条項ではない。簡単に言えば「契約に関して何かトラブルが起きた際は、双方誠意をもって処理する」という条項のことだ。しかし、これを見ると外国人は笑うか不思議がる。トラブルが起きた際に、「双方が誠意をもって処理する」保証がどこにあるのか? トラブルというのは、双方が対立した時に起こるものである。敵意や憎悪の中で「誠意」が保たれるはずはない--外国人はこのように考える。
 理屈で考えれば、その通りである。
 日本人の考えは、前述した「頭取」の考え方のように、非論理的で具体性がない。

 (中略) 

 外国の契約書はなぜ分厚いのか、ということを考える有力なヒントかおる。
 それは、日本のビジネスマンや企業が、海外で契約を交わす際に起こす、典型的なミスでもある。
 それは実は「ペナルティ(罰則)」の付け忘れなのだ。
 たとえば日本人企業家が外国人を現地で雇う際に、その従業員が仕事をサボったり会社に損害を与えたりする可能性もあるということを、まず考えない。だから「不良社員」にいいようにやられた挙句、罰則規定がなくて外国人弁護士に笑われるということにもなる。
 外国の契約書が分厚いのは、日本人のように「誠意条項」に頼らずに、あらゆるトラブルの可能性を指摘し、その場合の対策まで書き出してあるからなのである。

 (中略)

と、ここまで書けば、なぜ日本の契約書は薄っぺらになってしまうのか、あるいは、やり手のビジネスマンがペナルティの付け忘れなどという、契約社今では初歩的なミスを犯すのか--この謎も賢明なる読者には、理解できるはずである。
 これもコトダマなのだ。
 つまりコトダマの世界では、縁起の悪いこと、不吉なこと、起こって欲しくないことは、できるだけ言及しないで済まそうという意識が働く。
 「パイプラインが爆発した場合は--」などと書くと、そう書くことによって(つまりこれもコトアゲの一種)本当にそんな事態が起こりそうな気がしてしまう。
 だから無意識のうちに、そういう「想定」を排除してしまう。問題はそれがコトダマ信仰の影響であることを、自覚している人がほとんどいないことだ。

 もちろん少数の例外者はいる。
 「桓武天皇と平安京編」で、私は作家小松左京氏の次のような発言を紹介した。
 「弥生時代ぐらいからの判断の形式や心情というのが、つぶされずにいままで残っていて、今の社会的選択に影響を与えている」
 失礼な言い方かもしれないが、おそらく大多数の読者はこの言葉の本当の意味が、理解できなかったのではないだろうか。
 実は、こういうことだったのである。


コトダマの影響が、契約下手という形で現れていると分析しているのはなかなか面白い意見だと思いませんか。私は、こういう変った切り口の意見の見るとつい感心してしまいます。

井沢元彦の主張するようにコトダマの影響もあるかと思いますが、私は、日本人が契約下手なのは、日本の社会が、お互いを信用できる「高信頼社会」であることの裏返しなのではないかと思っています。それを外国に行っても、同じ日本人に対するように契約を結ぼうとするから失敗するのではないでしょうかねぇ。

契約下手から話がずれますが、日本人が高信頼な「世の中」を築き上げてきた背景には、「人は話し合えばわかる」「所詮同じ人間じゃねえか」という根強い固定観念があるような気がします。

日本人とユダヤ人」では、そういうものを「日本教」と呼びあらわしていると私は勝手ながら解釈している(違ってたらゴメンナサイ)のですが、それを示唆しているのではないかと思われる記述を二つ引用してみます。

日本教の中心にあるのは、前章でものべたように神概念ではなく、「人間」という概念なのだ。従って日本教の『創世記』の現代的表白に次のように書かれていても不思議ではない。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。

草枕』を読まずに日本を語ってはならぬ。新聞記者などで、日本に二、三年いて、いっぱし日本通のような顔をした人間には、私はいつもそう言うことにしている。(以下略)



漱石、この西欧の古典、日本の古典、中国の古典、仏典までを自由自在に読みこなし、自分の作品の中に縦横に駆使しえた同時代の世界最高の知識人が到達したのは、「人の世を作ったのは人だ」という、日本教の古来から一貫した根元的な考え方である。この世界には猫は住めても神は住めない。皮肉なようだが、旧約聖書には猫という言葉が全く出てこないのと対蹠的である。
猫は主人公だけれど神のいない世界、神が主人公だが猫はいない世界、この二つの世界に同時に住めると思う人がいたら狂人であろう。
【上記二つとも日本人とユダヤ人日本教徒・ユダヤ教徒の章より引用】

最後の猫と神の対比は、何か日本の社会と西欧の社会との対比をうまく比喩しているんじゃないでしょうか。
そして、この二つの世界に同時に住めると信じ込んでいる人たちが、トラブルを起こしたり相互誤解の種になっているような気がしてなりません。
そういう人たちの一例を挙げると、護憲派や左翼の人たちでしょうね。やっぱり。

次回③では、日本の憲法は「祝詞」であることを紹介する予定です。では。


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第278回日本のスイッチ結果発表~!

今週の日本のスイッチ投票結果を公開します。

●実施期間: 3/31(月)~4/2(水)
●参加者: 30713人↓あなたの答えは■で示されています

1.4月のガソリン価格めぐって起きたこの混乱は
□安いならOK…36%(11122人)■今後が心配…64%(19525人)

2.凶悪犯罪の時、ゲームやマンガの影響を疑うのは
■自然な考え…39%(12050人)□安易すぎる…61%(18617人)

3.松井ゴジラ電撃婚。独身貫くと実は思ってました
■はい…12%(3821人)□いいえ…87%(26816人)

4.新年度に義務化の健保メタボ健診、私の場合は
■かなりやばい…45%(13741人)□問題なさそう…55%(16896人)

5.教科書の引用元に、ウィキペディア使う動きって
■違和感ある…68%(20910人)□別に構わない…31%(9492人)

6.インドの新興メーカーが英高級車ジャガー買収へ
□寂しさ感じる…39%(11985人)■時代の流れ…61%(18621人)

7.ネズミも訓練次第で道具使えるようになったって
■それはすごい…46%(14006人)□なんかこわい…54%(16622人)

8.「モッフル」って食べ物、どんなものか 
□知っている…20%(6274人)■想像つかない…79%(24385人)

日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……38人いました。
第278回日本のスイッチ


今回は、思いっきりマイノリティになってしまった(苦笑)。
設問3.の松井電撃結婚は意外だった。AV好きと聞いていたので、右手(彼の場合は左か)が恋人とばかり思ってました…というのは冗談です(爆)。

設問8.の「モッフル」って知らなかったので調べて見ました。以下ご紹介です。

モッフルはニッポンのワッフル

周囲はさっくり、中はふんわりして、少しもちっとした感触。普通のおのようにビヨーンと延びたりはしないけれど、その分、喉に詰まるような感じはなく、スナックのようで、とても食べやすい。それがモッフルをはじめて食べたときの私の感想です。

 名前ですでに想像がつく方も多いと思いますが、「+ワッフル」でモッフル。作り方は、その名のとおり、おワッフルメーカーで焼くだけなのですが、これが実に意外なおいしさで、テレビや雑誌等でも取り上げられ、認知度はどんどん高まっています。

モッフル画像

その作り方ですが、ワッフルメーカーにおを載せて、フタを閉じます。最初はが固くて閉じられず、隙間が開いてしまいますが、がだんだんやわらかくなってきますので、そうしたらフタがロックされるまで閉めます。

あとは数分焼くだけ、不思議な食感のお餅ができあがります。
【以下略】


へぇ~。全然知らなかったヨ。単なる餅なのにワッフルメーカーで作るだけで、食感が違ってくるなんてちょっと信じられないですね。ちなみに専用メーカーも既にあるそうな…。
興味のある方は、アマゾン↓でも売ってるのでど~ですか?
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不明

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やべっ!アマゾン見てたら、自分が欲しくなってきた。餅+チーズとかハムとかうまそ~


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”内心の自由”を「手段」として利用する人たち

以前の記事「”当たり屋”してまで表現の自由を守る教師の皆さんへ」で、私の偏見を述べさせてもらったが、再び彼ら問題教師やそれを支持する人びとについて再考してみたい。

左翼を代表するブログといっても良いと思う二つのブログ「お玉おばさんでもわかる政治の話」「村野瀬玲奈の秘書課広報室」で、この問題が取り上げられブログ主の主張やコメント欄のやり取りを今まで黙って眺めてきたが、やはりどうしてもこうした人びとに「ある感じ」を抱かざるを得ない。

彼らがどう理屈をつけようと、どうしても感じてしまうのが、彼らの主張の奥にある「日の丸・君が代への嫌悪感」である。もちろん、嫌っているから反対するのだろうし、私もそういう人びとにいまさら「好きになれ」と強制するつもりなどさらさらない。

日の丸・君が代へ嫌悪感を抱くのは当人の勝手で構わないのだが、それを声高に主張し始めるところに、私はどうしようもない嫌悪感を抱いてしまう。

それは、どんなに美辞麗句を連ねようが、”当たり屋”のように被害者面をしようが、彼らの狙いが、実のところ「内心の自由」を守ることではなく、「反日の丸・君が代を叫ぶ事自体」にあるとしか受け止められないからだ。とどのつまり彼らにとって、「内心の自由」は守るべき『目的』ではなく反「日の丸・君が代」の為の有効な『手段』でしかない。

彼らはそのためだったら、平然と軽々しく「内心の自由」を行使することを厭わないし、その結果としてたとえ「内心の自由」が損なわれようが気にしないのではないかと私は思っている。

もちろん、彼らはそんなつもりは毛頭ないのだろう。自分では、「内心の自由」を守るために闘っていると信じ込んでいるのだから。(けれど、行動は単なる「反日の丸・君が代」に過ぎない)

しかし、こうした彼らの主張は、決して世間に受け入れられることはないだろうと私は考えている。

その理由は、世間は決して「”内心の自由”を守ること」と「反日の丸・君が代を唱えること」が同一であると見なさないからだ。
彼ら自身の中ではこの二つはすっかり重なり合って同じものとなっているかもしれないが、偏った思想に染まっていない外部の人間にとっては、この二つは全くの別物である。
言い換えれば、世間は決して彼らの闘いを、「”内心の自由”を守る闘い」とは見なさないであろうということである。

また、世間から受け入れられないというか、醒めた目で眺められてしまう一因に、彼らが公務員であることもあるだろう。民間だったら、会社の方針に従わないものは即クビとなってもおかしくない世界である。当然の主張が通らない理不尽なことだって民間ではよくあることだ。

しかし、公務員は手厚い身分保障制度に守られ、本来の職務をなおざりにして政治活動にいそしんだとしてもそのことでクビを切られることはまずない。今回のキチガイ教師根津公子への処分を見てもわかるだろう。
親方日の丸にドップリと依存しながら、”内心の自由”を振りかざし反日の丸・君が代活動を行う人間の主張が、是非はともかく”心情的に”世間一般に受け入れられるだろうか?

ここで話をちょっと変えるが、仮に彼ら教師が、民間人だったとして、会社の方針に逆らいえるか?
これは私にとって非常に興味深い仮定である。

私の偏見に基づく予想だが、昨日まで全共闘活動にいそしんでいた過激派学生が、卒業するやいなやスーツ姿の一社会人へと豹変したように、結構変わり身が早いのではないだろうか?そんな気がしてならない。
まぁ、それ以前に民間だったらこうした人間はまず採用されていないと思われるのであくまで仮定にすぎないが(爆)

私には、彼らはそういった機会もなく、親方日の丸で甘やかされっぱなしの、一社会人になり損ねた「全共闘の学生」のように思えてならない。


とまあ、思いつくままだらだら書いてしまったが、結局のところ、私の言いたいことは次の二つ。

・嫌いなら好きなだけ場所を選んで叫べばよい。ただ、「内心の自由」を持ち出したり、それを利用したりするな!ましてや子どもの前でやるな!!

・いくら被害者面しようが、正論を吐こうが、世間は決してそういった主張を受け入れることはない。


だから、この問題について私は全く心配していない。ただ、彼らのような教師に対する嫌悪感で書いてみたに過ぎない。

こうした状況を見て、思い出すのがイザヤ・ベンダサン(山本七平)の次の一節。引用して終わりにします。

そのほかの議論も、だれも正面切って反対せずに常に黙殺されていく。黙殺された方はますます大声を出す。しかし声が大きくなればなるほど、一方はさらに徹底してこれを黙殺していく。まさに「犬は吠える、されどキャラバンは行く」の姿。全く知らんぷりで、進んでいってしまう。
この沈黙のうちに進んで行く実体が、日本人本来の一面で、自らはっきり意識せず方向と速度を定めているのが、その隠れた「政治的才能」なのであろうと私は思う。
【日本人とユダヤ人/「別荘の民・ハイウェイの民」の章より引用】


この問題も、きっとこのように進んでいくんじゃないかな。そうならなかったら日本もお終いかもね。


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あんな謝罪で感動するなんて・・・

愛読していた村野瀬さんのブログが、閉鎖されるという記事を読んで一瞬目を疑ってしまった一知半解男です。
惜しいことをした…。あんな面白い(左翼オチにとっては)記事を読む愉しみがなくなってしまった…。などと考えていたら、何のことはない、エイプリルフールネタだったようで。。。

そして、その次の記事「オーストラリア、ラッド首相の対アボリジニ謝罪演説を日本にあてはめてみます」を読んである意味安心しました。これぞ彼女らしさ全開の記事だと私は思います。(しかし、こういう妄想記事を書くことが元気が出る記事だとは…orz。)

そんな私も、彼女の記事を見ると、つい記事を書く意欲が湧いてしまいます。そういう意味ではありがたい存在かも知れません(笑)。
といっても、彼女の今回のノー天気な主張を見て、思い起こした以下のイザヤ・ベンダサン(山本七平)の「日本人とユダヤ人」の一節を紹介するだけなのですが…。それでは、引用開始と行きましょう。

「朝鮮戦争は、日米の資本家が(もうけるため)たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊っちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュヴィッツに送らないとだれが保証してくれよう。これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。この言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。

もちろん私は、必ずしもそれだけが原因とは思わないが、朝鮮人にはそう見えるのである。「われわれが三十八度線で死闘して、日本をも守ってやったのに、日本人はそのわれわれの犠牲の上で、自分だけがぬくぬくともうけやがった」という考え方である。

たとえこれが事実であっても、これは日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない。だが全く同じことを、第一次世界大戦の後に、ドイツのユダヤ人もいわれたのだ。「われわれが西部戦線で死闘していた間、あいつらは銃後にあって、われわれに守られてぬくぬくともうけやがった」。ユダヤ人は確かにそういう位置にいた。そしてその多くは商人であって戦後のインフレにも強かった。しかし戦争を起したのはカイゼルとドイツの首脳であってユダヤ人はこれには責任はない。

しかし、戦争に際して、ユダヤ人だけが何か不当なことをしたように言われ、それが次第に拡大され、ついには、もうけるためユダヤ人が戦争を起したように非難され、それがアウシュヴィッツにつづくのである--。前述の文化人さんよ。自分の子のためにも、このことを忘れないでほしい。

ユダヤ人にはないが、もう一つの特異な面を日本はもっている。かつての日本人は、全有色人種のプロテクターをもって自他ともに任じていた。全有色人種を労組にたとえ、白人を経営者にたとえるなら、日本は実に輝かしい闘争委員長であった。私の知っているあるパキスタン人は、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが日本海軍航空隊に撃沈されたと聞き、喜びの余り、徹夜で踊り狂ったという。この感情はあらゆる有色人種にあった。

だが、あの大闘争に敗れてから二十五年、日本はいつのまにか、白人カルテルの重役になり、OECDに列し、南阿では公然と「名誉白人」になっている。ああ「名誉白人」。かつての労組長の彼にそそぐ目は複雑だ。一方、キリスト教徒・共産主義者白人カルテルも彼に気をゆるしているわけではない(その「におい」のゆえに)。

 もちろん政治天才の日本人が政治低能のユダヤ人のようなへまはやるまい。またユダヤ人のもっていなかったもの、すなわち自らの政府と強大な武力をもっている。しかし一方、かつては民衆の暴動であったものが、今や、一国の政府の行動として起される時代にもなっている。すなわち政府が先頭に立って、ある人種の全財産を没収し、その人種の全員を国外に放逐しても、たいしてニュースにもならない時代にもなってきた。

従って、全地球的な規模において、日本人が、今、どういう位置にあるのか、いろいろと考えさせられるのは、私だけではあるまい。こういった点でも、ユダヤ人の歴史が何らかの参考になれば幸いと思う。

日本人とユダヤ人/しのびよる日本人への迫害の章より引用】


そういえば、これを村野瀬さんのコメント欄で引用したら、必死に噛み付いてきた人もいたなぁ。。。よっぽどこの山本七平の指摘が図星で嫌だったのだろう。

オーストラリアの今回の謝罪に関して言えば、絶滅寸前に追い込んだアボリジニの反撃などありえないから安心してできたのかも…。それにたいした補償もしないようだし。補償のない謝罪なんか単なるポーズだってーの。そんな謝罪の真似事して、中韓の連中が納得するわけなかろーが。
(下種の勘繰りになりますが、オーストラリア捕鯨を槍玉に挙げた時期とこの謝罪の時期が一致しているのは決して偶然ではないと私は思ってマス。)

それに比べて、我が日本の立場はどうでしょう?日本をそねみ憎悪する人間が十何億人と隣近所にピンピンしておりますが…。核ミサイルを向けながらネ。

何はともあれ、世間知らずでノー天気なお坊ちゃん(お嬢ちゃん)の妄想には、正直あきれ返ってしまう…。なまじっか正義感だけは強いから、たちが悪いねー、と思うこの頃でした。


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第277回日本のスイッチ投票結果発表ー!

今週の日本のスイッチ投票結果を公開します。

●実施期間: 3/24(月)~3/26(水)
●参加者: 30875人↓あなたの答えは■で示されています

1.チベット暴動、現地の状況を心配しています
■はい…74%(22709人)□いいえ…26%(8103人)

2.中国への抗議で五輪開会式ボイコットが起きたら
□がっかりだ…21%(6416人)■許容できる…79%(24380人)

3.松坂投手のレッドソックス、日本で開幕戦って
□粋なはからい…19%(5882人)■おいしい商売…80%(24836人)

4.福田政権が抱える「DNA3点セット」って何か
□知ってます…13%(4035人)■わからない…87%(26793人)

5.横須賀のタクシー殺人、米軍が脱走兵を確保です
■ひとまず安心…18%(5514人)□犯人特定急げ…82%(25284人)

6.新東京タワーの名称候補、「ゆめみやぐら」も案に
■面白い案…18%(5405人)□それはない…82%(25330人)

7.吉野家の牛丼、4年ぶり24時間販売が復活ですが
□それは朗報…27%(8227人)■興味ないです…73%(22585人)

8.あなたにとって、お酒のない花見は
■構わない…74%(22703人)□許せない…26%(8120人)

日本全国にあなたと全問同じ回答の方が……193人いました。
第277回日本のスイッチ


う~ん、チベット暴動を心配していない人が26%もいるとは…。もっと少ないと予想していたのだけれど…。
中国の宣伝を鵜呑みにする人がそれだけいるのか?それとも、全くの無関心なのか?どうなんでしょうか。
私は、開会式ボイコットじゃなく、五輪そのものをボイコットしてもらいたいくらいですが…。

それと、6.の「ゆめみやぐら」は面白いと選んだときは思ったが、やっぱり人気がないようですね。だ第一「やぐら」じゃ、やっぱり、語感からいって「ぐらぐら」しそうだしね


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プロフィール

一知半解

Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

http://yamamoto7hei.blog.fc2.com/

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