ちょっと前になるが、
産経新聞に載っていた
曽野綾子のコラムが実に秀逸だったので紹介しておきたい。
ある日の夕方、NHKのニュースを見ていて、私はおかしな気分にとらえられた。
そこに出てくる、たくさんの人たち―校長先生、保母さん、母親たち、視力障害者、漁港の人、アナウンサー―などが流行語のように「安心して…したい」と言うのである。
安心して仕事を始めたい。
安心して子供を遊ばせたい。
安心して昔と同じように暮らしたい。
私は私の人生で、かつて一度も、安心して暮らしたことはない。
今一応安全なら、こんな幸運が続いていいのだろうか。
電気も水道も止まらない生活がいつまでできるのだろうか、私の健康はいつまで保つだろうか、と、絶えず現状を信じずに暮らしてきた。
何度も書いているのだが、安心して暮らせる生活などというものを、人生を知っている大の大人が言うものではない。
そんなものは、地震や津波が来なくても、もともとどこにもないのである。
アナウンサーにも、最低限それくらいの人生に対する恐れを持たせないと、お子さま放送局みたいになって、聞くに堪えない軽さで人生を伝えることになる。
安心して暮らせる生活を、約束する人は嘘つきか詐欺師。
求める方は物知らずか幼児性の持ち主である。
前者は選挙中の立候補者にたくさん発生し、後者は女性か老人に多い。
自分で働いてお金を得ている人は、現実を知っているから、なかなかそういう発想にならない。
しかしこれほど多くの人が「安心して暮らせる生活」なるものが現世にあるはずだ、と思い始めているとしたら、それは日本人全体の精神の異常事態だ。
ことに、これだけの天災と事故が起きた後で、まだ「安心して暮らせる状況」があると思うのは、不幸な事態から何も学ばなかったことになる。
政治家が、よく分からない時に限って、「きっちりやる」という癖があることは国民も気付き始めたようで、先日投書にも出ていたが、大きな事故の後は臨機応変の処置をしなければならず、日々刻々変化する状況に対して柔軟に戦略を立てていかなければならないから、決して大口をたたけない。
一方、国民の方は昔から原発を「絶対に安全なのか」という言い方で追いつめてきた。
「いや、物事に絶対安全はありませんから、事故の場合を想定して避難訓練もいたします」と原発側が言ったとすると「事故がおきる想定の下で、原発建設をやるのか!」とやられるから、「原発は絶対に安全です」という子供じみた応答になる。
しかし物事に「絶対安全」ということはないのである。
今後いかなるエネルギー政策をやろうと、絶対の安全はないという認識が国民の側にもないと、物事は動かない。もちろん安全は必要だから、より安全を執拗に目指すことは当然だ。
「安心して暮らせる」とか「絶対安全でなければ」とかは、共に空虚な言葉だ。
それは世の中に、完全な善人も悪人もいないのに、幼稚な人道主義者が、自分は善人でそうでない人は悪人と分けることと似ている。
こんな子供じみたやり方では政治はもちろん、経済も文学も成り立ちえない。
国民全体が知らず知らず感染している「安心病」をまともな感覚にまで引き戻す特効薬はないものか。
【引用元:産経新聞5月27(?)日紙面より】
上記コラムを読んで思ったのは、
曽野綾子が指摘する「日本人が罹患している”安全病”」というのは意外に深刻な問題ではないだろうか、と云う事。
そもそも、昔から日本ほど戦乱など経験した事が少ない国はあまり例を見ない。
無政府である状態に陥った事もあまり無いといえるだろう。
そのような環境に慣れ親しんだ日本人が不安に感じるものといえば、戦乱などの「人災」ではなく、”地震・雷・火事・オヤジ”といわれるように「天災」ばかり思い浮かぶ。
日本人ほどお上(政府)を信頼し、何かあったときにはまず政府に頼りがちなのは、その故だろうか?
こうした恵まれた環境の下で生きてきた日本人が、世界中散らばって生きる華僑の様な逞しさに欠けているのは当然といえば当然なのだが、世界を知る
曽野綾子から見れば歯がゆく見えるのは仕方のないことだと思う。
もちろん、お上に従順な日本人の被統治意識の高さというのは、裏を返せば「被災しても秩序が崩壊しない」という長所にもつながる。
そうはいっても、現代の日本人に「甘え」の傾向があることは否定できない。
今、そんな日本人に足りないのは、恐怖に耐えて生きる覚悟だと思う。
いつの世にも人間が恐れるものが存在した。
飢饉・台風・地震・疫病などの天災。
それらは恐怖すべきものであった。
特に医療技術が未発達な時代におけるペスト・チフス・結核・天然痘などの恐怖は、正体がまったくわからないというだけに、現代人には想像できないほど大きな恐怖だったのではないか。
正体がつかめないという点では放射能もまたしかり。
しかし、放射能の場合は目に見えないというだけで、その被害がどのくらいになるかはっきりしない。
被害がわからない分、非常に恐怖すべき対象だと思うが、過去の先人はその「わからなさ」という恐怖に耐えてきたではないか!
先人に出来たことが、なぜ科学技術という知見・武器があるはずの現代人に出来ないのだろうか。
それは、結局のところ、気持ちの持ちように原因が求められるのだと思う。
「リスクを引き受けずに、絶対安全を求める」という甘くて幼稚な考えに捉われてしまったからだ。
何故そうなってしまったのか?
私が愚考するに、前述したように日本が平和な社会であることも一因だけれども、その他の要因として、様々な社会思想の浸透にあると思う。
社会契約説とか、共産主義思想とか、基本的人権とか、様々な思想は、人間が人間らしく生きる事を求めて産み出されてきた理想である。
それらは世の中の不条理を無くす為に考えられた代物であって、不変の真理でも天与のモノでもない。
そうした人為的に産み出されてきたモノであると云う経緯をいつしか忘れ、不変の真理、天与のものだとの"幻想"を、現代の日本人は抱く様になってしまっているのではないだろうか?
如何なる思想も、それが生まれてきた背景を理解せずに、また、それを維持する為には絶え間ざる努力が必要とされることに思い至らずに、安直に不変の真理だと教えられてきてしまったからこそ、日本人が幼稚化したと言えるのではないだろうか。
その思想に何ら疑問を抱かずに受け入れてしまったから、当たり前に叶うものだとの「甘え」が生ずる。
"安心病"は、その甘え現象の表出と言えるのではないだろうか。
コラムの中で
曽野綾子は「絶対安全」を保証する者は詐欺師だと喝破した。
私もそのとおりだと思う。
「絶対安全はあり得ない」という前提に立てば、このような詐欺師に騙されることもない。
しかしながら、残念なことに今の日本は、不安を煽り、有り得ない筈の「絶対安全」を謳い、金を騙し取るような社会です。
それを阻止していかねばなりません。変えていかねばなりません。
リスクと向き合い、どれだけのリスクを許容できるか。
リスクに向き合う恐怖に耐える者だけが、人間的な生活を営む資格があると思う。
見えない恐怖におびえて、戦前のようなエネルギー不足に苦しむ生活に甘んじるか?
それとも、恐怖に耐えながら同じような失敗を繰り返さないよう努力するか?
日本人にはその能力も実力も技術もあるはず。
足りないとすれば、その「意思」だけなのだ。
今、まさにその意思が試されているのだと思う。
今のような大惨事の混乱期には、原発がなくてもやっていける、とか、自然エネルギーですぐに代替可能だとか、大言壮語や空想の類いを騙る人がたくさん出てくる。
しかしながら、そのような甘い見通しを語る人たちの甘言に誘惑され、騙されてはならない。
その為には、まず第一に「安心病に罹患している事」を自覚する必要があるのだが、詐欺師ばかりが跋扈する今の日本で果たしてそれが出来るか否か…?
下記の左翼ブログ↓のように
曽野綾子がそれを指摘するだけで、「人でなし」とか「人間のクズ」とのバッシングが帰ってくるようでは、なかなか前途多難だと思わざるを得ないですなぁ…。
■[あきれた][珍保守]曽野綾子「東電に責任はない」「放射線の強い所は、じいさんばあさんを行かせればいい」(全くの余談ですが、上記記事にコメントを入れたところ、予想どうり抹殺されてしまいました。左翼のブログってほんとコミュニケーションスキルが無いですね。)
【関連記事】
◆反原発・脱原発運動は「集団ヒステリー」化していないだろうか?◆「判断」と「事実」の違いがわからない「昔・自然に還れ(黄害賛美)」論者たち◆今だからこそエネルギー属国である現実を直視せよ!/~原発が果たしてきた歴史的役割とは~◆「原子力の日」に思う。◆資源問題に関する日本人の「現実的」態度は、世界に比べて現実的だろうか?FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:日本人論 - ジャンル:政治・経済
ウィキリークスの内部告発による情報流出が大問題になってますが、ちょっとブログでの主張を見てますと、結構肯定的な意見が多そうですね。
特に反米派なんか、これで日本の属国ぶりが露わになったとか大騒ぎ。
なかでも
天木直人のブログ↓なんか、気負っているというかなんと言うか、見ていてこちらが恥ずかしくなるようなことを書いている。
◆ウィキリークスの判断基準は、「お前は権力側に立つのか、弱者の側に立つのか」、だ。http://www.amakiblog.com/archives/2010/12/05/#001762しかし、天木氏が言うように、「権力vs反権力」という単純な”構図”で割り切れる問題ではないだろ…と思うんですよ。
そもそも、権力側が常に「悪」で、反権力が「正」とは限らないじゃないですか。
権力側の秘密を暴くことが、常に良い結果を生むとは考えられないですし、何でもオープンにすれば良いわけでもない。
外交交渉なんて、そもそもオフレコなのが基本なんだし、交渉している最中の内容を暴露することは、結果としてその交渉をぶち壊すことにしかならない筈。
やはり交渉内容を情報公開するにしても、ある程度の経過期間をおいてからにすべきなのであって、それが賢明なやり方というものでしょう。
もちろん、内部告発の有効性を認めないわけではないが、あくまでも公益性との比較考量で判断する必要があると思いますね。
そんなことを考えていたら、次のようなニュース↓も報道されました。
◆ウィキリークス:米関連の重要施設暴露 日本海底ケーブルもhttp://mainichi.jp/select/world/news/20101207dde007030041000c.htmlこれ↑なんかどうみてもヤバイですよ。
何でも情報公開すればいいってものではない格好の見本でしょ。
これで仮に重要施設がテロに遭ったとしたら、
ウィキリークスは責任取る覚悟があるのか?
取るつもりなぞ彼らにさらさら無いでしょうに。
私が思うに、ウィキリークスの行為は、明らかにやりすぎだしモラルに反している。
権力に立ち向かっているからといって、必ずしもそれが正義だとはいえない。
そもそも、ウィキリークスの代表者の
ジュリアン・アサンジ氏だって、自らのプライバシーはあるだろうし、それを暴かれるのは嫌な筈。
それなのに、そうした人物が、正義の代理人をよそおい「我に正義あり!」と称し、(国家権力とはいえ)他者のプライバシーを一方的に暴く権利があるだろうか?
また、情報提供者が「不正に」入手したにも関わらず、匿名で安全に告発できてしまう事の「是非」を考えることも必要ではないのか?
個人的には、これはもうモラル・ハザードの域に達していると思う。
こうした問題点をないがしろにしたまま、権力と戦うのだから…と内部告発行為を正当化する行為こそ、「(正しい)目的は、(不正な)手段を正当化する」典型でしょう。
しかしながら、それは結局、(情報公開という)目的を貶めるだけに終わってしまうでしょう。
却って、正当な内部告発すら、いかがわしいものに思われてしまうようになるんじゃなかろうか。
だからこそ、不正な行為を(情報公開という)目的を以って、正当化することは厳に慎むべき。
ある意味、今回の件は、権利の濫用に似た感じを受けますね。
もう一つ、ウィキリークスの主張に感じてならないのが、正義の仮面を被った者が放つ「独善性」。
マスゴミの傲慢さに非常に似たものがある。
そもそも、ウィキリークスの行為は、全くの「善意」から出ているのだろうか?
彼らも人である以上、「偏向」は避けられないはず。
ウィキリークスの意図に沿った告発情報しか開示していない恐れは十二分にありえる。
彼等の正義の代理人ぶりに惑わされず、そうした点にも注意を払う必要があると思います。
そうしないと簡単に扇動されてしまうことになりますからネ。
事実、ウィキリークスの所業に何の疑問も感じずに喝采を送っている人達は、もうすでに扇動されかかっていると思う。
前述の天木氏や、フリージャーナリストの
岩上安身氏なんか、いい例じゃないだろうか。
なにはともあれ、情報公開が絶対善とか、権力に都合の悪い事をすることが絶対善だとかいう「勧善懲悪」の視点から、この問題を捉えるのは間違っていると思う。
むしろ、モラル・ハザードという面から考えて見るべきでしょう。
そこで参考にしたいのが、アメリカの国務長官だった
キッシンジャーの主張。
過去記事『
オフレコ破りという「禁じ手」を使ってまで民主党を応援するマスコミ』でも紹介したことがありますが、この問題を考えるに当たって非常に参考になると思いますので
山本七平著「日本はなぜ敗れるのか」から再掲しておきます。
(~前略)
先日あるアメリカ人の記者と話し合った。
私は、キッシンジャーが、日本の記者はオフレコの約束を破るからと会見を半ば拒否した事件を話し、これは、言論の自由に反することではないか、ときいた。
これに対して彼は次のようなまことに面白い見解をのべた。
人間とは自由自在に考える動物である。
いや際限なく妄想を浮べつづけると言ってもよい。
自分の妻の死を願わなかった男性はいない、などともいわれるし、時には「あの課長プチ殺してやりたい」とか「社長のやつ死んじまえ」とか、考えることもあるであろう。
しかし、絶えずこう考えつづけることは、それ自体に何の社会的責任も生じない。
事実、もし人間が頭の中で勝手に描いているさまざまのことがそのまま活字になって自動的に公表されていったら、社会は崩壊してしまうであろう。
また、ある瞬間の発想、たとえば「あの課長プチ殺してやりたい」という発想を、何かの方法で頭脳の中から写しとられたら、それはその人にとって非常に迷惑なことであろう。
というのはそれは一瞬の妄想であって、次の瞬間、彼自身がそれを否定しているからである。
もしこれをとめたらどうなるか、それはもう人間とはいえない存在になってしまう。
「フリー」という言葉は無償も無責任も意味する。
いわば全くの負い目をおわない「自由」なのだから、以上のような「頭の中の勝手な思考と妄想」は自由思考(フリー・シンキング)と言ってよいかもしれぬ。
いまもし、数人が集まって、自分のこの自由思考(フリー・シンキング)をそれぞれ全く「無責任」に出しあって、それをそのままの状態で会話にしてみようではないか、という場合、簡単にいえば、各自の頭脳を一つにして、そこで総合的自由思考をやってみようとしたらどういう形になるか、言うまでもなくそれが自由な談話(フリー・トーキング)であり、これが、それを行なう際の基本的な考え方なのである。
従って、その過程のある一部、たとえば「課長をプチ殺してやりたい」という言葉が出てきたその瞬間に、それを記録し、それを証拠に、「あの男は課長をプチ殺そうとしている」と公表されたら、自由な談話というもの自体が成り立たなくなってしまう。
とすると、人間の発想は、限られた個人の自由思考(フリー・シンキング)に限定されてしまう。
それでは、どんなに自由に思考を進められる人がいても、その人は思考的に孤立してしまい社会自体に何ら益することがなくなってしまうであろう。
だからフリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず、そういうことをやる人間こそ、思考の自由に基づく言論の自由とは何かを、全く理解できない愚者なのだ、と。
(後略~)
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第十二章「自由とは何を意味するのか」/P309~】
天木直人氏や
岩上安身氏のように”勧善懲悪”の視点に立って、こうした内部告発・情報流出を無条件で礼賛していると、その結果、
キッシンジャーが指摘するように「思考の自由に基づく言論の自由」そのものが失われてしまうんじゃないだろうか。
却って自由にモノを言えない時代が到来するのかもしれない。
従来の権威が崩壊し、国家の統治能力が衰え、混乱の時代が到来するのかもしれない。
モラル・ハザードによって、相互不信の時代が到来するのかもしれない。
兎にも角にも、世界中に一瞬のうちに秘密が暴露されてしまう時代になってしまった。
これも情報化社会がもたらす必然なのかもしれないが、それがもたらす結果というものは必ずしも良い結果をもたらさない…ということを我々は覚悟せねばならないのかもしれない。
一体、こうした時代の潮流に、我々はどう対処していけばいいんでしょうね…。
実に難しい課題であります。
【関連記事】
◆オフレコ破りという「禁じ手」を使ってまで民主党を応援するマスコミ◆アントニーの詐術【その6】~編集の詐術~FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:ウィキリークス - ジャンル:政治・経済
選挙まであと3日と迫ってきたので、
沖縄県知事選挙について再度思うところを書いておこう。
伊波洋一氏が知事になっても、
仲井真弘多氏が知事になっても普天間移設反対で違いがないじゃないかという議論が一部にある。
そして、
沖縄県知事選の主な争点は、基地問題ではなく経済問題であるがごとき議論もあるがこれも間違いであると私は考えている。
今回の選挙の争点は、やっぱり基地問題であり、その処理を任すに足る人物を選ぶ選挙なのだ。
そうであるなら、どちらの候補が沖縄県知事にふさわしいか、「何」を基準にすればよいだろうか?
それは、「
住民のために”本当に”働く首長であるか否か」という点だと思う。
そこで参考になるのが、
伊波洋一氏の過去の言動である。
まず、
伊波洋一氏の宜野湾市長時代の米海軍病院への
給水拒否について取り上げたい。
これについて、詳しくは次のブログ記事↓を参考にして欲しい。
ブログ「
狼魔人日記」より
◆沖縄県知事選、再説・海軍病院問題http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/ca2627491e61acb914cccab3552cf33cブログ「
凪論」より
◆伊波洋一元宜野湾市長の海軍病院に対する給水停止をめぐる市議会質問と答弁http://blog.livedoor.jp/patriotism_japan/archives/51709503.htmlブログ「
しょほしょぼ」より
◆宜野湾市の水道供給拒否 行政法の観点からhttp://blog.livedoor.jp/sumiin/archives/1498576.html上記ブログ記事をみてもわかるように、
伊波洋一氏は、宜野湾市長時代に米海軍病院への
給水拒否という処分を行っているが、たとえこの給水を拒否したとしても、それで米海軍病院の建設を止めることができるわけでもなく、単なる嫌がらせ以外の何物でもない。
本来宜野湾市が得られるべき利益を棒に振ってでも、米海軍病院への行政サービスは許さないというイデオロギー優先の行動を取る首長だ、ということがこの事実からも明らかである。
こうした人間が、住民のために働く首長だといえるであろうか?
もちろん「否」である。
また、前にも紹介したと思うが、伊波洋一氏が主張している米
海兵隊についての主張↓は、デマとも呼べるほど悪質極まりないものなので再度紹介したい。
ブログ「
週刊オブイェクト」より
◆宜野湾市・伊波洋一市長の「沖縄の海兵隊は全てグアムに移転する」という妄想プレゼンテーションhttp://obiekt.seesaa.net/article/146978904.html上記ブログ記事をみてもわかるように、伊波洋一氏は、
米軍基地を撤去するためなら、自らの主張に都合が良いように事実を改変し、プロパガンダを行うことも辞さない人物である。
典型的な「目的の為なら手段を選ばない」人間である。
このような人物が、本当に沖縄県民の利益を守る人物だろうか?
もちろん「否」である。本来ならば、このようなトンデモ候補は箸にも棒にもかからない扱いをされた筈である。
しかしながら、
ルーピー鳩山民主党政権の愚かな失政により、当選有力候補になってしまった。
物事はイデオロギストでは解決しない。
イデオロギストは破壊するだけ。
伊波洋一候補を選べば、米軍基地を撤去できるというのは幻想に過ぎない。
普天間基地の継続使用が固定化するだけ。
しかも、一旦、墜落事故でも起きれば、
日米同盟が瓦解する恐れすらある。
そうしたリスクを避け、
普天間基地周辺の住民の安全のためにも(沖縄県にとってはベストな解決策ではないが)
辺野古移設が必要なのだ。
確かに
仲井真弘多氏も、伊波洋一氏同様、県外移設を訴えている。
しかしながら、過去の彼の言動を見る限り、イデオロギストの伊波洋一氏と異なり
日米同盟の大切さを理解しており、日本政府が今までの非礼を改め、真摯な対応を尽くせば交渉自体には応じる度量の広さをもった現実主義者である。
どちらが知事にふさわしいか明らかだと思うのだが、沖縄県民の選択や如何に。
民主党政権への抗議を示すのは、
仲井真弘多候補で十分である筈。
伊波洋一候補に投票することは、自ら沖縄の安全を危うくする行為でしかないことを指摘しておきたい。
願わくば、沖縄県民の皆さんが反基地感情・反本土感情に捉われて、一時の快をむさぼるような愚かな選択をしないでほしいと願う次第である。
【関連記事】
◆国防の一端を担う知事としての資質を決定的に欠く沖縄県知事選候補/伊波洋一氏FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:沖縄米軍基地問題 - ジャンル:政治・経済
だいぶ時間が経ってしまいましたが、以前の記事『
日の丸君が代問題を「思想信条の自由」と勘違いしている教師とその賛同者をプロファイリング【その1】~子供の成長の機会を奪う馬鹿教師達~』の続き。
昔の記事『
日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。』において、日の丸・君が代の強制というのは、子供の教育上の”しつけ”であって、大人の思想信条を侵すものではないと主張してまいりましたが、今回のエントリーでは、彼らがどのような連中であるか、思いつくまま整理もせず、箇条書きで挙げていくことにします。
●単なる嫌悪感の表明に過ぎないないのに、「思想信条の自由」という”偽看板”を掲げている。
●子供の教育よりも、己の主張を優先する聖職者にあるまじき連中である。
●「思想信条の自由」とか巧妙な宣伝文句をたくみに操り、公に反することを工夫し続ける連中である。
●都合のよい法解釈ばかり強調し、都合の悪い指摘にはシラを切るという二重基準を平気で使う連中である。
●綺麗事を唱えつつ、己の欲求を満足させようとする連中である。
●親方日の丸に寄生しながら、その日の丸を貶して恥じない自立心皆無な連中である。
●体制に反抗するポーズを取ることで、ナルチズムに酔う幼稚でわがままな連中である。
●基本を教えることの大切さもわからないで、いきなり「個性・多様性」の大切さを謳う連中である。とまぁ、こんなところでしょうか。
しかし、親方日の丸に守られながら、権力に抵抗するポーズを取るなんて本当に甘ったれた連中ですねぇ。
このような先生方のもとで、ロクな子供が育つわけがありません。
綺麗事を唱え、他人にタカるだけの人間ばかり、量産するようなものです。
そんな人間ばかり量産したら、社会が崩壊してしまうことでしょう。
そもそも、共同体に対する敬意の無い人間によって、良い社会を築けるわけが無いんです。
どんな共同体にも、聖なるシンボルが存在し、それがあるゆえに、より良い共同体にしていこうという気持ちが生まれてくる。
シンボルが誰からも敬われなくなれば、その共同体は崩壊していく。
当たり前のことですね。
しかし、彼らは平気でシンボルを否定しておきながら、一方で共同体の恩恵だけはしっかり要求する。
本当に手前勝手な連中です。
結局のところ、社会をよくするには、本当の被害者と「エセ被害者」とをしっかり見分ける必要がありますね。
もちろん、日の丸君が代に反対している教師たちというのは、明らかに後者に属するわけですが。
しかし、つねづね思うことですが、左翼というのは、権利ばかり主張して義務に対してはまったく無関心という傾向が非常に強いですね。
やっはり、左翼の論理というのは、怠け者にとっては実に都合がよい論理なのだなぁ…と痛感する次第。
余談になりますが、
民主党本部には、日の丸が飾られてないと聞きます。
新しい首相の
菅直人は君が代を歌わないと聞きます。
こうした共同体のシンボルを蔑ろにする政党が、この国を動かしている事実には、ある意味、ゾッとせずにはいられません。
【関連記事】
・日の丸君が代問題を「思想信条の自由」と勘違いしている教師とその賛同者をプロファイリング【その1】~子供の成長の機会を奪う馬鹿教師達~・日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。・日本人に足りないのは、「公の心」と「判断力」FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:日の丸・君が代問題 - ジャンル:政治・経済
卒業式・入学式シーズンを終えると、決まって次のような記事↓が出てきますね。
◆日の丸君が代「7年目の風景」なぜ「4人」は立たなかったか
上記画像↑をクリックすると大きくなります。
(画像引用元:レイバーネット)
◆君が代不起立、処分激減 東京の教職員 今春の卒業式は4人とりあえず、これらの記事を読んで、こうした勘違い教師が少なくなったことにちょっと安堵を覚えた次第。
しかし、減ったとはいえ、朝日の記事にあるように、式典をサボタージュまでして職務命令に従おうとしない馬鹿教師がいるとは、呆れてモノが言えません…。
今回は、こうした教師並びにその賛同者の思想的背景について私なりに分析していきましょう。
まず、彼らは、この問題を「思想信条の自由」に対する侵害と考えているのですが、これは以前の拙記事『
日の丸・君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。』でも指摘しているように、教育問題に過ぎません。
それでは、この問題を教育という観点から考えてみましょう。
例えば上記記事にて、
堀和世とか言う記者が「個々の”違い”を認め合うことが教育の要である」と述べてます。
それなのに、なぜ国旗国歌という画一的な価値観を一方的に子供に押し付けるのか!とこの記者は考えているのでしょう。
もちろん、そうした教育も必要ですが、それはあくまでも応用段階での話でしょ、と私は言いたい。
まだ、社会に出たこともない中学生や高校生に、いきなり応用問題を解かせるようなものです。
ここで、「教育とは何か」と言うことについて書かれた(
カムイロケット開発に取り組んでおられる)北大の永田教授の主張を引用させていただきましょう。
その永田教授の文章はブログ移転に伴って消えてしまいましたので引用元は存在しません。サルベージの意味も含めて紹介したいと思います。
◆子供と人権/価値観の押付けと訓練の強制
(~前略)
教育とは、人間形成です。
それは、守破離の段階を追って行われます。
「守」は学びの段階、「破」は洗練と創造の段階、「離」は独自の境地を構築する段階です。
「守」をおろそかにしては、その後の「破」も「離」も達成不可能です。
「守」の段階で行われる教育は、基本的には、価値観の押付けと訓練の強制です。
子供に対してこれをしっかりと提供してあげないということは、彼らが人生において「破」、「離」と成長していく権利を奪うことを意味します。
考える力というのは、最初から考える練習をしても身に付きません。
まずは、考える道筋をなぞる訓練を積むことが必要です。
正しい論理展開を何度も辿るのです。
これは反復練習であり、知的訓練です。
詰め込み教育や反復練習は創造力の発達を阻害するというのは嘘です。
子供の頃に禄に知的訓練を積まなかった人に限って、そういう主張をします。
基本的な技を身に着けずに、独自の技を生み出した剣豪は存在しません。
それと同じことです。
何事にも近道なんかありません。
訓練を楽しいと思えるように好きになること。
僕たちが子供に教えてあげられる最上の道はこれです。
(後略~/引用終了)
こうした観点からみると、日の丸君が代に反対する教師達というのは、いきなり考える練習をさせるような教育を施そうとしているようにしか思えない。
基本を教えることの大切さもわからないで、「個々の違い」とか「多様性」なんていってる場合じゃないと思うのですが。
そもそも「強制される」という体験をしなければ、子供たちもなぜ国旗国歌に対する礼儀を強制されなければならないのか、その意味すら考えたりしないだろうに。
子供たちに、自らが属する共同体について認識させ、日本人としてのアイデンティティを自覚させ、身に付けさせる。
そのためにも、公立学校の式典において、国旗国歌に対する礼儀を教え込むことは当然といってよいでしょう。
(日頃、外国との接触が希薄な日本において、そのような機会は希少なのですから尚更です。)
日本人としての自我を育てて初めて、世界と渡り合うことができる国際人になりうるのであって、そうした基礎を教えなければ、単なる”根無し草”で中身の無い人間が出来るだけです。
そうした基礎がまだ形作られていない段階の半人前の子供を、なぜ一人前の大人同様、尊重してあげなければいけないのか?
それは、尊重などではなく、単なる「甘やかし」でしょう。
甘やかして子供が成長しますか?
するわけがない。
まさに、永田教授が指摘する『
「破」、「離」と成長していく権利を奪うこと』に他なりません。
こうしたことに思いを至らせることが出来ない教師達に、子供を教える資格があるでしょうか?
ましてや、子供をダシにして、自らの政治的主張を通そうとする連中に、教育を任せられるでしょうか?
到底まかせることは出来ないですね。私には。
一人の親として、こうした教師は教壇からさっさと消えて欲しい。
本当にそう思います。
さて、次回は、こうした勘違い教師について、私なりの分析を披露していきます。
ではまた。
【関連記事】
・日の丸君が代強制問題は、決して「思想・信条の自由」の問題ではない。・日本人に足りないのは、「公の心」と「判断力」FC2ブログランキングにコソーリと参加中!
「ポチっとな」プリーズ!
テーマ:日の丸・君が代問題 - ジャンル:政治・経済