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一知半解なれども一筆言上

山本七平マンセーブログ。不定期更新。

「心から反省する」というが、その反省の中身は一体どのようなものなのか?

今回のエントリーは、個人批判になるのであまりUPするのは気が進まなかったのですが…。
つまらないことなので、興味のない方は読み飛ばしていただいて結構です。


もうだいぶ前になってしまいますが、おさふねさんというブロガーさんから次のような質問をいただいておりました。

「被害者側の立場に立って痛みを思いやり、心から反省する事が何故「偽善」に繋がるのかがよくわからないのだが…」


これは、sirokazeさんのブログ記事のコメント欄やおさふねさんのブログ記事とそのコメント欄を読んでもらえれば大体の経緯はわかっていただけると思いますが、そこでいただいた質問です。

これに対し「近日中に私のブログにて説明する」と回答しながら、今に至るまで回答しないまま放置してしまっておりました。このことについては、質問してくれたおさふねさんに対し、非常に申し訳なく思います。

大変遅くはなりましたが、ここに私なりの考えを述べておきたいと思います(また、参考として山本七平の記述も多々援用しますが、それは私が述べるより、彼の記述のほうが的確かつわかりやすいと考えているため)。

以下、非常に長くなりますがご容赦いただきたいと思います。

最初に、「被害者側の立場に立って痛みをおもいやり」…ということについて。

確かに「思いやる気持ち」というのは、大切だと私も思います。
ただ、「事実の認定」を巡って論争するときに、そうした気持ちを持ち出すのはおかしい。

そもそも人は他人の立場には立てないわけで、立てるとしたらそれは錯覚にすぎません。

ましてや、そうした立場に立つということで、自分の主張を正当化することは、歴史問題の探究においては全く役に立たないどころかむしろ障害ですらあると私は思う。

特に、おさふねさんが主張するような事件(これについては拙ブログ記事「香華の由来から考える「南京大虐殺」」コメント欄参照)については、以前にも指摘したような疑問がある以上、その疑問を決しないまま、「被害者の立場に立ってみろ」と言われても、疑問を抱いた人々は納得できないし、却って反省を要求する人びとの主張を疑いたくなるのは当然の成り行きではないかと…。

おさふねさんご紹介の本「日本軍占領下のシンガポール」は、地元の図書館で探してみたがなかったので未だ読んではいないのですが、彼のブログで紹介された記述を読んで見た限りでは、日本軍の残虐な行為について、どうやら「証言」を基にして糾弾しているようです。

となると、その証言の信憑性というものが問題になると思うのですが、原書を読んでいないのでその証言の裏付けとなるような証拠があるのかどうか全くの不明だし、おさふねさんとのコメントやり取りでも何ら証言以外の証拠を示していただけなかったのでどうにも判断が出来ません。

やっぱりそうなると、とりあえず、証言そのものをどう判断するか――ということになると思う。

証言にもいろいろあって、山本七平は次のように4種類に分類しています。

(1)多少の誤差はあっても確実に事実であるもの

(2)伝聞と体験が混同しているもの

(3)伝聞(戦場の伝聞は非常にあやしい)を事実の如くに記しているもの

(4)政治的意図もしくは売名や自己顕示、また時流に媚びるための完全なデッチあげ

【引用元:ある異常体験者の偏見/アパリの地獄船/P164~】

関連記事:「神話」が「事実」とされる背景
関連記事:山本七平に学ぶ「虚報の見抜き方」


おさふねさんの態度を見ていると、証言を頭から信じていて疑っている様子が全くないようです。少なくとも、証言がどれにあたるのか?という意識を持つべきだと思うのですが…。

そういう意識を持たない人は、戦前の人たちが騙されていたことを批難する資格はないと思います。

次に、おさふねさんが紹介してくれた「日本軍占領下のシンガポール」の著者の言葉についてですが、

被害者側の痛みに思いをいたすことなく、「被害者側が誇張している」とさも得意げに吹聴する、卑しい人間になりたくはないし、なるべきではない。


上記の林博史氏の言葉を見て、つい、私は山本七平の論争相手であった毎日新聞社の新井宝雄氏の次の言葉を思い出しました。

山本氏はまた私が山本氏に反省を強要した、といっておられる。

しかし、私は「山本七平氏の戦争論や軍事論には、かつての日中戦争が日本の軍国主義者たちによって引き起こされた侵略戦争であったのだということに対するきびしい反省が、まず明確な形でどこにも現われてはおらず」といっただけであって、山本氏に反省を強要してはいない。

反省をするかしないかは山本氏自身の問題であるからだ。

ただ外国である中国へ軍隊を勝手にさし向け、その国土と人命を大いに傷つけた行為に対し、すまなかったと考えるのが良心のある人間だろうということだけは、同じ日本人としてはっきり申しあげておきたい。

【引用元:ある異常体験者の偏見/私の反論のあとさき/P305~】


実によく似ていますね。
言っていることは、至極ごもっともなのですが、いづれも、自らの主張に対する都合の悪い反論を防ぐための「口封じ」としての言葉としてしか受け止められません。

これをやられると、必然的に異論のある者は、道徳的に劣位に置かれざるを得ません。

まるで疑問をぶつける方が、野蛮で低劣な軍国主義者であるように追いやる行為は、議論上有効なテクニックかも知れませんが、ある意味、卑怯な手段であるといえるのではないでしょうか。

続いて、「心から反省する」とあるが、これが一体何を指すのかがわかりません。

反省とは、相手の主張をただ受け入れることなのですか?
土下座して懺悔することなのでしょうか?
日本人が残虐民族であることを自認せよということなのですか?

私は、それらは反省とは全く違う行為だと思いますが、仮にそうだったとしても、おさふねさんが主張する事実が本当にあったのか疑う人々にまで強要したり、そうした人々を非難することではないでしょう。

このような同調しない人びとを責める行為を見ていると、以前UPした記事「『私の責任=責任解除』論③どうして日本は中国問題で失敗を繰り返すのか」で紹介した「私の責任=責任解除論」すなわち「狸の論理」が見え隠れしているのではないか…と思わざるを得ません。「狸の論理」を知らない方もいるでしょうから、以下イザヤ・ベンダサンの説明を引用しておきます。

それともこれは『狸の論理』なのか

――その事実を記し、それを日本人の責任だと言ったことによって、そういった者の責任およびそれを掲載した者の責任は免除され、またそれを読んでこの事実を知リ、われわれの責任だといった者は、その瞬間に責任が免除される。だが、われわれの責任だと認めないもの、いわば『ゴメンナサイ』と言わない者は徹底的に追及される、という――。

これは確かに日本教の世界では正しい。しかし日本教の外の世界では通用しない。

この外の世界では、日本人の責任だというなら、責任をもって追及すべき相手は『ゴメンナサイ』といわなかった者でなく、この「行為」の下手人と責任者なのだ。

それをしないで、『ゴメンナサイ』といわない者を追及しても、それで『日本人は責任を果たした』と考えるのは日本だけだということを、あなたは一体知っているのか知らないのか?

【引用元:殺す側の論理/朝日新聞のゴメンナサイ/P109~】


実際のところ、過去に行なわれたマスコミによる追及というのは、まさしく「狸の論理」に沿ったものでした。これが戦後左翼の方々が言うところの「反省」なんですね。こうした行為は、懺悔の強要に過ぎず、反省でも何でもありません。

反省とは、過去の行為を正しく認識し、二度と同じような誤りを犯さないよう行動することだと私は思います。
なぜそのような状態が起きてしまったのか?その原因やプロセスを追究し理解することであるはず。

どうもおさふねさんの主張を見ていると、起きてしまった「結果」ばかり強調し、日本軍が残虐だったと印象付けるだけの行為にしか思えないのです。

そもそも、生まれながらの軍国主義者や悪人などはいません。
当時の日本軍兵士が置かれた状況を考えてみることもせず、残虐行為ばかりを取り上げ、上から目線で、一方的に断罪することはまったくの無意味。

被害者を一種の絶対的権威とし、自らもその立場に立つことで、異論を挟む者を糾弾する。

これは、反省とは程遠い行いだと私は思う。
ちなみに、山本七平にこのような人々を評価させると次のようになります。

いわゆる「残虐人間・日本軍」の記述は、「いまの状態」すなわちこの高度成長の余慶で暖衣飽食の状態にある自分というものを固定化し、その自分がジャングルや戦場でも全く同じ自分であるという虚構の妄想をもち、それが一種の妄想にすぎないと自覚する能力を喪失するほど、どっぷりとそれにつかって、見下すような傲慢な態度で、最も悲惨な状態に陥った人間のことを記しているからである。

それはそういう人間が、自分がその状態に陥ったらどうなるか、そのときの自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていないことを、自ら証明しているにすぎない。これは「反省力なき事」の証拠の一つであり、これがまた日本軍のもっていた致命的な欠陥であった。

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/生物としての人間/P226~】


実に手厳しい評価ですが、私もそのとおりだと思います。

それでは最後に、おさふねさんの質問を受けて、私が思い出した山本七平の記述を幾つか引用しておきましょう。

この偽善は常にある。今もあるが戦争中にもあった。
苦しんでいる人間に「前線の兵隊さんのことを思え」という。また新聞もそう書く。

しかしそういうことを書いたり言ったりするその人自身が、前線で苦しんでいる兵士のため、本当は指一本動かそうとしているわけではない

【引用元:私の中の日本軍(下)/戦場での「貸し」と「借り」/P201~】

関連記事:名文章ご紹介シリーズ【その5】~戦場では偽善が成り立たない~



「飢えの力」はそれほど強い。

しかしこの絶対的ともいえる「飢えの力」も、飽食し満腹した瞬間、いわば「ゲーッ」ということになった瞬間にゼロになり、同時に「飢え」というものが、その人には全然わからなくなるという、実に奇妙な要素がある。

「欲望」いわば性欲も食欲もそういったものかも知れぬが、これが「食」では、決定的と言いたいほど強烈である。

婦人収容所に二、三日通うと、もう同じ収容所の同じ幕舎の人の「飢え」が理解できなくなってしまう。

これは実に奇妙で、一昨日まで私も同じように飢えていたのに、それが、もうどうしても理解できないのである。

「飽食しながら、他人の『飢え』を飢える」ことは人間には出来ない。

もちろん「他人の『痛み』を自らの痛みとする」ことなどは、それ以上に出来ないことである

出来ないことを出来るような顔をし、深刻ぶりを顕示して、何を演じたところで、それは「飢えてない人」「痛んでいない人」をごまかすことができるだけで、本当に飢え、本当に痛めつけられている人をごまかすことは、絶対にできない。

私は自分の飽食を同じ幕舎の人に全然語らなかった。しかしそんなことはすぐわかる。私はつとめて控え目に振舞い、出来る限り目立たないようにし、何か悪事でもしているように息をひそめていた。

日に日に私への一種の敵意とも言うべきものが醸成されて行くことは、よくわかっていたからである。

もちろん私は、飽食しながら「『他人の飢え』を自分の『飢え』にしている」などとはいわなかった。

この言葉は「兵隊さんのことを思え」あるいは「アラブ難民のことを思え」と同質だが、こんな言葉を一言でも口にすれば、すぐさまリンチに会っただけだろう。

もう一度いうが、そういった種類の言葉は「満腹している人間の前で見得を切るための空虚な台詞」以外の何ものでもないのである。

これをわきまえていないと、とんだことになる。岡本公三のような行為は、結局、アラブ人による日本人へのリンチしか生み出さないであろう。

それは当然の帰結であり、われわれが以上のことを理解しない限り、甘受しなければならぬ自業自得である。

だが、「飢え」の体験も「痛み」の体験も知らぬ人はこれがわからない。

そこで、満腹しながら、平然と「お前の『飢え』を『飢え』としている」というようなことを、本当に飢えている人の前でいって、それで「飢えた側に立っている」つもりになっている。見ていてハラハラする。

ある異常体験者の偏見/アバリの地獄船/P159~】



ところが「商業軍国主義者」には、この見境が全くなかった。

この点、共産主義で自らを律する本ものの共産主義者は、主義の違う者たとえば私に対して絶対に反省しろ」とはいわないが、主義を売っても、その主義で自らを律することはしない商業左翼・商業毛沢東主義者は平気で「反省しろ」というのと、よく似た関係にある。

彼らは、日本軍という非常に持異な集団がその秩序維持のため、おそらく自然発生的に生み出されて来たと思う「軍人的断言法」を遠慮会釈なく「商売」に悪用し、全日本人に「反省」を押し売りして、その判断を規制していったのである。

戦場にいって何よりも不愉快な内地での思い出は「戦場の兵隊さんのことを考えろ」「兵隊さんを思え」という言葉であった。

戦場の兵士白身は、絶対にこんな言葉はロにしないし、するわけがない。

そしてこういう言葉は、常に戦場の兵士をダシにして、いわば「戦場の兵士の側に立つ」ということで、他人の苦しみを利用して自己の言葉を絶対化し、あらゆる反論を封じて自己の商業軍国主義を権威づけるための規制の方法として利用されているわけである。

ある異常体験者の偏見/悪魔の論理/P122~】


もちろん、おさふねさんが、こうした商業軍国主義者だというわけではありませんので誤解なきよう。
ただ、山本七平が糾弾したこうした人たちと行動様式が似ているな…ということで引用させてもらいました。

以上、長々と引用してしまいましたが、以上の理由で「偽善」であると私は受け止めざるを得ないのです。

最後に一応、お断りしておきますが、私は、日本軍が残虐な行為を行なったことはあったと考えています。
ただ、それは「日本人だから起こした」のではなく、そのような状況に陥れば誰でも犯す可能性があるというに過ぎません。
それを、ことさら醜悪に描き、同調しない日本人に向かって、反省(といっても、懺悔の強要に過ぎないのだが)を強要する行為について、私は反対しているだけなのです。


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面白画像:サンタ猫

此処のところ、更新が滞りがちになってます。
風邪を引いてしまったからなんですが、それでも今日は軽く更新をば。

一応、クリスマス・イブということで、それにふさわしい写真↓をUPしておきます。

眠そうなサンタ猫
メリー・クリスマス!皆も早く寝ろよデスニャ。


しかし、どうみても、ものぐさそうなサンタですなぁ…。


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マスコミの「予定稿」とは【その2】~田原総一朗の「取材」を例に考える~

前回の記事「マスコミの「予定稿」とは【その1】~田原総一朗の「取材」を例に考える~」の続き。

前回引用の続き)

小松氏は日記を書いた、だがそれは、それをそのまま日本に持って帰れるということではない。

”原則”を口にすれば、その書写材料はすべて「正規に入手」したものでないから、米軍はいつでもこれを没収できる。
だが米軍はソヴェト・中国軍とは違って元来、こういうことに寛容であった。

従って私は、由紀夫人のまえがき「編集にあたって」の冒頭に、

「夫 真一がフィリッピンでの抑留生活から解放されたとき、米軍に没収されないようにと、骨壷に隠して持ち帰った日記がございました。

人生の最も忌まわしい思い出を記したこの大戦の記録は、戦後ずっと銀行の金庫に眠らせたままでおりました……故人は生前、戦争体験をほとんど私共家族に話してくれませんでしたので、初めて知った夫の体験や考えに、胸の詰る思いの連続でございました……」


とあるのを読んだとき、小松氏が内心で恐れ、骨壷にまで隠させた「本書を没収しそうな相手」が、一体米軍なのかそれとも日本人だったのか、私は少し気になった。

もちろん氏の内心は推し量ることができない。

そして氏が「没収されないように」と言えば、米軍以外は念頭に浮かばないのが常識であり、この際、「日本人」が念頭にのぼるのは、私たち体験者だけであろう

常識は、はじめから日本人を除外する

だが私のこの気がかりは、本書四巻の巻末にある次の許可証を見たとき、単なる気がかりとは言えない現実味をおびてきた。

常識で考えれば、米軍将校が持出許可証を発行した以上、堂々と大っぴらに持って帰れるはずである。

だがおそらく小松氏は、この米軍の下で働く日本人、いわば、虎の威を借りて、同胞の日本人を米軍以上に苛酷に扱う本っ端役人的日本人に、戦友の遺品まで強制的に捨てさせられたという話を、耳にしたか、自らそれと似た体験をしたかの、いずれかであったのであろう。

氏を用心深くさせたのは、おそらくそれである。

というのは、このことは、収容所ではだれ一人知らぬ者のない、周知の事実であった。

氏は復員船で名古屋に上陸された。
そしてそこの状態が、私が上陸した佐世保の外港の南風崎と同じであったら、氏の用心は決して無駄ではなかったのである。

終戦時、氏が収容されたのはネグロス島サンカルロスであり、この点、ルソン北端のアパリに収容されて地獄船でマニラに送られ、真夜中に豪雨の中を無蓋貨車とトラックでカランバン第一収容所へ送られた私と同一ではない。

従って収容時の体験が私と同じかどうかわからないが、氏は後にカランバンに移されたから、私たちの体験は耳にされたであろう。

私のそれは昭和二十年九月十六日(?)の深夜であった。元来は砂糖キビを運ぶために作られたという単線の、鉄道の駅舎もない無灯火の駅に、私たちは降ろされた。

駅名も何もわからず、プラットホームらしきところから降りれば、一面の泥濘である。暗闘で泥に足をとられつつ、骨と皮、半裸で裸足という大群が声もなく、ただ前の人間の歩く方へと歩く。

雨は遠慮なく降り、視界はゼロ。
何か悪夢の中を歩いているような状態であった。

遠くから数台の車のライトが見え、やや人心地を取りもどしたと思っているうちに、ライトはみるみるうちに近づき、目の前でぐるりと半転し、私たちに背を向けて並んだ。
いつしか急造の軍用道路のわきまで歩いて来ていたのである。

黒い影のような人びとが、無言で順々に、軍用トラックに満載されていく。
車は泥濘の道を、おそろしく乱暴に走る。

真暗な中に、前方に灯火が二つ見え、近づいてみるとその灯火は、大きな台の上にそそり立つ高い柱の上の、巨大な電灯であった。

何やら絞首台とも鳥居ともつかぬ形態のものが、ぽかっと闇に浮き出ている。車から降ろされ、雨の泥濘の中に四列に並んで座らされた。

何やら声が聞こえるが、意味はわからない。
突然、滝のような音がした。あの鳥居のようなものはシャワーで、二つの柱の間の高い横木は、四か所から、滝のように水を放出していた。

ライトに水がキラキラ光る。不意にそのキラキラが消え、消えたと思ったらまた見える。
四人ずつ順次に裸でシャワーをあび、シャワーを通過した形で向う側の聞へと消えて行く。

これは、衛生と完全武装解除をかねた入所式のようなものだったのであろう。
裸にされては、手榴弾を隠し持っているわけにいかない。

やがて私の番が来た。完全裸体、ただし私は、一枚の軍用毛布ははなさなかった。

多くの部下がこの毛布の上で息を引きとった。
到るところにべっとりと血がこびりついている。

遺品も遺骨も何一つ内地へ持って帰れないので、せめて部下の血のついたこの毛布だけはもって帰ろうと考えていた。

そのとき、米軍のゴムびきレインコートを着た一人の男が私に近づき、その毛布を捨てろといった。
彼は日本人であり、戦争終結前の捕虜であった。

私は頑として拒否した。

押問答がつづき、撲り合いになりそうな険悪な状態になった。
そのため、四列のうち私の列だけ進まない。

不審に思ったらしく米兵が来た。
私は裸のまま、下手な英語で手短に事情を説明した。

彼は簡単に「OK、ゴーヘッド」と顎をしゃくってシャワーを示した。
私は毛布を抱いたままシャワーを通過した。

この毛布は今でもある。
私は幸運だったのだろう。
このときもし米兵が来てくれねば、おそらくこの毛布は闇の中に消えていたと思う。

というのはこのとき私と前後してシャワーの関門を通過したアパリ気象隊のN少尉は、うまくいかなかったからである。

彼の部下のU軍曹は、七月二十日(?)、食料の探索に出かけてゲリラに射殺された。
その直前、ジャングルの出口で私は彼に会った。

急を聞いてN少尉が部下とともに現場に駆けつけたときは、ゲリラはすでに撤退し、U軍曹の死体だけが残っていた。

とはいえ死体収容に来たら、そしてそれが小人数だったら全滅させようと、伏兵がひそんでいる可能性はある。

U軍曹は元来は中小企業の社長で、立派な鰐皮の財布をもっていた。
N少尉は、遺髪を切り取り、それをその財布に入れ、遺体はそのままにしてジャングルにもどった。

当時の情況ではこれが精一杯であり、遺体に気をとられていては、生きている部下を殺してしまう。

彼はこの財布を肌身離さず持っていたのだが、このシャワーの関門で、強制的に捨てさせられた。

内地に帰るとすぐに、彼はありのままを手紙に記して、遺族に送った。

遺族は激怒した――一体それで隊長か、部下への責任を果したといえるか、射殺された、遺体は捨てた、遺髪と遺品はもっていたが捨ててしまったとは。

一体なぜ捨てた、そんな無害なものを捨てさせられるはずはあるまい、言い逃れをするな。手紙ではわからぬ、釈明に来い
――といった返事が来た。

何よりも遺族を怒らしたのは「遺品と遺髪を捨てた」という言葉だったらしい。

彼は結局、遺族のところへ行かなかった。
三十年たっても彼は言う「行けませんよネ、行ったってどうにもならない。あの状態は話したって、わかるはずがありませんよ」。

彼は英語が出来なかった、そして「米兵という助け主」も現われてくれなかったのである。

捨てる必要のないものまで強制的に捨てさせられた、という体験は、収容所内のすべての人がもっていた。

乗船で、あるいは内地上陸で、同じ状態が再現しないという保証はどこにもない。
そして私の場合は、確かに南風崎で再現した。

復員船の中で、旧日本軍の冬服を支給された。
そして、上陸と同時に、米軍に支給されたもの、米軍の資材等を加工したもの等は、すべて捨てるように命令された。

理由は、米軍の品を日本人がもっている場合、それはすべて盗品か横流し品と認定されて軍事裁判にかけられるから、ということであった。

あとでMPの検査があるといわれた。
もちろんこれは「おどし」で何もなかったが、しかし、せっかく内地に帰ってまた米軍の収容所などに入れられてはたまらないという気持になるので、私などは、全部捨てた。

小松氏のノートは厳密にいえば、米軍の資材を加工したものになる。
もちろん米軍はそんな細かいことはいわない。

しかし、その下にいる日本の”お役人”は何を言うかわからない――現地では、米軍の支給品をもつことは当然でしょう。しかし内地では”進駐軍の命により”それは許されません。現地の米軍の特出許可はあくまでも特出許可であり、内地への持込みの許可ではありません。問題が起るとこまりますから、その日記は放棄して下さい――。

お役人の言葉はおそらくこうだが、しかし彼が日本人なら骨壷の中はあけては見ない

小松氏の念頭にあったのは、おそらくこの危惧であったろう。
そして、その危惧は、持つのが当然であり、おそらく、持ってよかったのである。

なぜこの種の人たちは外国の権力を笠に着ると、あれほどまで同胞に横柄かつ冷酷になれるのであろうか

これは外来思想の権威を笠に同胞を見下す”知識人”の小役人的表現なのかも知れない。

従って、もしこの二つが一体化したら、いわば”社会主義的権威”の下、ソヴェト・中国の権力下に政府が出来たら、その末端の小役人がどのように庶民を扱うかを彷彿とさせる光景である。

そしてその原形はすでに、収容所に出現していたわけである。
後述するが、小松氏は、それらについて別のさまざまの例を詳細に記している。だがここではもう一度、「序」と「まえがき」にもどろう。

一体小松氏は、いかなる動機でこの『虜人日記』を書いたのであろう。
人が何かを書く場合、必ず動機があるはずである。

横井・小野田両氏の場合も何らかの動機があったであろう。

だがその動機が何であれ、小松氏のように「経験した敗戦の記憶がぼけないうちに何か書き止めておきたい気持」いわば、時間とともに流れ去り消え去っていくものを文字に固定してつなぎとめておこう、という気持でなかったことだけは確かである。

もしそういう動機が両氏にあれば、小松氏のように、苦心惨憺して書写材料を自ら創作しても、終戦直後のことを書き留めておいたはずである。

二人の動機は小松氏と違い、その動機の中にすでに読者が想定されている
だが小松氏にはそれがない

これが同氏と小松氏の動機の違いであり、その違いは結局、その内容の決定的な違いとなっている

といっても、由紀夫人の「編集にあたって」には「いつか出版したいと思っていたようでございますが、遂にその機会を得ないまま……」とある。

従って小松氏に、出版の意図が全くなかったとはいえない。
だがこのことは、その動機の中に読者を想定することとは別なのである。ではそれは、どのように違うのか。

前に「……その返事は留保せざるを得ない」と書いたのはこのことである。

前述のN少尉は、U軍曹の戦死の情況を遺族に書き送った。
従って、N少尉の念頭に遺族がなかったとはいえない。

しかし手紙を見て遺族が激怒した。
もし彼がその要請に応じて釈明に行ったらどうなるか。

簡単にいえばこのとき彼は遺族を意識し、遺族の取材に応じたわけである。

そしてこのときの意識と、はじめて手紙を送ったときの意識ははっきり別であり、遺族を意識しているから両者は同じだとはいえない。

これが前述の「違い」である。

後者は、遺族の頭の中にある「予定稿」を意識しているのである。
そしてそこへ行けば、たとえN少尉が一言の虚偽も口にしなくとも、相手は、自分の予定稿に適合した部分しか取材せず、自分の予定稿の裏づけの言葉しか聞こうとしない

従ってそこにあるものは、対話の如くに見えながら、実は、遺族の独白にすぎないのである。

人はこの場合どうすべきか。

予定稿に組み込まれ、はみ出した部分は捨てられることを覚悟して、何か言うべきか。
それともN少尉のように沈黙で押し通すか。

私はここで、『月刊エコノミスト』〔一九七四年一二月号〕に載った田原総一朗氏の「わたしのアメリカ」の中の「ベトナム帰還兵」からの取材の状況を思い出さざるを得ない。大分長いが次に引用させていただく。


帰還兵たちは、わたしたちを取り囲むようにカメラの周りに集まって来た。
わたしは、手あたりしだいに彼らの一人一人にマイクを向けて言った。

――あなたはベトナムに行っていましたか?

「行っていた」

海兵隊の帽子をかぶった兵隊だった。

――ベトナムで何をしていましたか?

「ヘリコプターで運ばれて、裏面にまわって敵をやっつけた」

――何人ぐらい殺した?

「よく憶えていないし、言いたくもない。(中略)……」

隣には長髪にひげを生やした男がいた。

――あなたもベトナムに行ってましたか?

「陸軍の作戦に参加した」

――あなたの役割は?

「機関銃を撃っていた。チライというところの戦闘では五十メートルぐらいの距離で敵と撃ち合ったことがあった」

――何人を殺したか?

「よくはわからないが、五、六人には当たったように思う」

――あたかもベトナムに行っていましたか?

「行っていた」(中略)

――直接戦闘は?

「答えたくない。ただ、そのときは何かを感じる余裕もなかった。いまでは、もちろんよくないことだと思っている」(中略)
                                
終わりまで聞かずにわたしはその兵隊の前を離れた。何人かの帰還兵の話を聞きながら、わたしはいらいらしはじめていた。

帰還兵たちはわたしの質問に何の疑問もはさまずに、実に素直に答える。

しかもその答えは、まるで口を合わせたように、直接の殺し合いの話になると、よく憶えていない、話したくない、殺したかも……と言葉をにごし、最後に、そのときは悪いと思っていなかった、判断するゆとりさえもなかったが、いまでは……とくる。

まるでパターンだ。どれもがもっともらしい言い逃れのパターンである。

本当は人間を殺すときに人間は何を思うのか、殺しの手応えとはどういうものなのか

たてまえではない、良心ぶった弁解ではなく、もっと本音が聞きたい、本音が出ないのは、逆にいえば殺人殺戮と向かい合う、自分がかつてやった行為と向かい合うのを避けている、逃げている、ごまかしていることではないのか、と、わたしは、しだいに露骨に挑発的に、まるで喧嘩を売るように帰還兵たちに言葉をぶっつけていった。

「人を殺すのは本当に悪いことなのか」

「ベトコンのほうだって殺人をしているじゃないか」

「なぜ、ベトナムの戦場では殺人が、戦争が悪いとは思わず、さんざん人殺しをした後で、悪かったなどと言ってみせるのか」
「つまりは、あなた方は、自分の行為の免罪符を得ようとしているだけではないのか」

そのときだった。ひとりの男が割り込んで来て、いきなりマイクをひったくろうとした。

録音担当の安田哲男はデンスケを担いだまま路上に転び、カメラマンの宮内一徳はカメラをまわしながら、逆に男に接近した。

「何のためにフィルムを撮るんだ。誰に断ったのか」

男は大声で怒鳴り、腕をふりあげて宮内カメラマンのほうに向かう。
何人かが、男に同調して、「ジャップ、取材をやめろ」と叫ぶ。(中略)

「お前ら日本人には話す必要はない」
 
――なぜだ。わたしたちが東洋人だからって馬鹿にしているのか。

「無責任な野次馬だからだ。日本人はベトナム戦争を高見の見物で、そのくせごっそりと特需でもうけている。
ベトナム戦争をくいものにして、さらにフィルムに撮って商売しようっていう魂胆なのだろう?」



確かにこの記者の言っていることは御立派なのだ。
全くやりきれないほど御立派なのだ

もちろん取材をうけているのは私ではない。
しかしこれを読んでいるうちに、私はいつしか自分が取材をうけているような妙な気持になってきた。

「どれもがもっともらしい言い逃れのパターンである」と記者は断定している。

「言い逃れ」、一体「言い逃れ」とは何を意味しているのだ
これは、U軍曹の遺族がN少尉に言った言葉だ。

だが、これも結局は記者の「予定稿」にはまらないということであって、兵士は、N少尉同様、一言も言い逃れなどはしていない。

この兵士の言い方は、確かにN少尉の言い方である。最も正直な言葉なのだ。
                                、
一体この記者は、兵士が何と言えば、「言い逃れでない」と認めるつもりなのか!

もしもある兵士が、もっと巧みな言い逃れ、すなわち相手の予定稿通りのことをいえば、この記者はそれを「言い逃れでない」と認めるであろう

それはU軍曹の遺族が要求したことだ。

常にくりかえされるこの同じこと――N少尉が、遺族を訪れて「最も巧みな言い逃れ」をやれば、相手はそれに満足し、「言い逃れでない」と感ずること。

だが相手がそう感じたということは、対話が成立したことではない

否、逆であって、両者の間が決定的に断絶したということなのである。

常に起るこのやりきれない光景。

だが私は、遺族だけはそれが許されると思っている。

しかし、それ以外の一体だれに、こんなことを断定する権利があるのだ

この取材者は、「戦場におかれた兵士」というものを正確に掴んでいるのか。

掴んでいない

それさえ掴まずに勝手な断定をするとは。

一体なぜ、まず戦場の兵士の実態を謙虚に取材しようとしないのか。

一人の人間が前線に置かれる。
彼の視界は、快晴の日中に平滑地で三百メートル、雨天・曇天・朝夕には、せいぜい百メートルである。

しかもそれが最大限であって、戦闘となり、ピタリと地面にはりつけば視界は前方のみで十メートルもない。

見えないのだ、その見えない人間に、何を聞いても答えられるはずがないではないか

取材者は「何人ぐらい殺した」「何人殺した」と執拗に取材している。

全くばかげた質問だ、戦場の兵士に、そんなことがわかるはずはない。

第一、五メートルも離れていない隣の兵士の戦死の情況だって、正確にはわからない。

わからないことはわからないのだ、それを正直に言うことが、なぜ「言い逃れ」なのか。
一体、どういう嘘をつけば、言い逃れでないと認定してくれるのか。

戦場では殆ど――特に第一線で戦闘状態にあれば――新聞・ラジオ・テレビといった情報源は全くない。

そこにいる兵士は、最大限五百メートルの視界と、戦場をうずまくさまざまなデマ、あらゆる種類の伝聞の中にいる。

一兵士は戦場ではそのように、徹底的に遮断され、何もわからない状態におかれている。

少し冷静に考えれば、この『月刊エコノミスト』の取材者の言葉が、いかにばかげきったものであるか、だれにでもわかるはずである。

U軍曹は私の前方約二百メートルぐらいのところで射殺された。
また親友であったI少尉は私の前方百メートルぐらいのところで射殺された。

しかし私は、二人の「死んだ瞬間」の情況を知らない(聞かないとは言わないが)。

この私が、もし、この二人の前方さらに百メートルか二百メートルのところにいる米比軍を、「何人殺した」とか「何人射殺した」とか言ったら、それは私が嘘をついたにきまっているだろう。

では私のところは後方の安全地帯だったのか。

もちろんそうではない。
現代戦、特にジャングル戦は戦線が犬歯状に入り組むから、敵は、前にいるのか横にいるのかわからない。

もちろん私のところにも弾丸はとんでくる。
だが発射音は一瞬であり、その瞬時の音から、相手の射撃位置を的確につかむことは、簡単ではない。

内地から来たばかりの兵士が逆方向に伏せ、敵に足を向けて銃をかまえるといった珍現象は少しも珍しくない。
そして時にはあわてて反射的に応射する。
またたとえ一瞬目標らしきものが見えたとて、射った兵士には何もわからない。

近代戦では敵影は見えない

そんなわかり切ったことを今でも知らない人がいると会田雄次先生が言われたが、この取材記者もその「わからず屋」の一人なのであろう。

このような状態で兵士にこういった取材をして、一体何を聞き出そうというのだろう、どういう予定稿をうめたいというのだろう。

兵士は正直に答えているではないか。
「よく憶えていない」「よくわからない」そして「言いたくない」と。

私だって、こういう取材には、これ以外に答えようがない。

一体これがなぜ「言い逃れのパターン」なのだ、どこが「もっともらしい」のだ。
一体この記者はなぜそう断定するのだ、理由を聞かしてもらいたい。

もっとも「予定稿」をもっているのはこの記者だけではない

横井さんが出てくればすぐ「戦陣訓」という予定稿が出され、小野田さんの生存が確認されればすぐ「天皇が直接声をかけたら……」という予定稿が出てくる。

では一体この記者が、横井・小野田両氏を取材したらどうなるか、結局二人の言葉はすべて予定稿に組み込まれ、入らない部分は「言い逃れ」の一言で捨てられてしまうであろう

そして二人が、事実を語れば語るほど「言い逃れ」だとか「もっともらしい」という言葉で棄却されるに違いない。

これが私のいう予定稿以外は捨ててしまうという意味である。

戦争には、行動のほかは、「見」と「聞」しかない。
そして個人の「見」の範囲は、前述の通りである。

従ってもし「見」だけを記せば、それは、一兵士という移動する「点」の周囲の三、四メートルに限られる。

それ以外のことは彼は「知らない」し「わからない」。
従ってそう答えるのが正直であり、何度でもいう、これは「言い逃れ」ではない。

N少尉は部下のU軍曹の戦死の情況は「知らない」。
知らないから知らないとしか言えない。

彼は部下から報告をうけその現場へ向っただけである。
従って、そのときの細部は「わからない」。

わからないから、彼はわからないと言っただけである。
だがそういえば、一方的に「言い逃れ」と断定する。

そして戦場の「見」は、比島の如く四十数万が短時間で死体になったとて、大体これが普通である。

一体この取材者は、どういう前提で兵士に質問を発しているのであろう。

「殺しの手応え」などというものが戦場にあるはずはないではないか

ない、ないから戦争が恐しいのだ、なぜ、そんなことがわからないのか。

これはおそらく、戦争中から積み重ねられた虚報の山が、全く実態とは違う「虚構の戦場」を構成し、それが抜き難い先入観となっているからであろう。

戦場の「見」の範囲がどれだけかということ、射った弾丸の正確な行方などは、内地の三百メートル実包射撃でだって、射手には判定がつかないのだということ、まして戦場ではそんなことは皆目わからない。

さらに敵が倒れるなどという光景は、すべての兵土が地面にへばりついている近代戦では、はじめから起りえないぐらいのことは、ちょっと調べれば、だれにでもわかるはずだ、また一見そう見える場合も、耳元を銃弾がかすめたので、あわてて、伏せたにすぎない場合もある。

否、これが殆どだ

――それをしないで、予定稿に適合する言葉を無理矢理”取材”しようとする。

そして『虜人日記』は、こういう状態とは、全く無関係であり、従ってここには、「見」の範囲が明確に出ているのである。

では「聞」はどうか。

N少尉にとってU軍曹の戦死は「聞」であって「見」ではない。

確かに彼はその遺体を確認したから、「遺体」については「見」である。
一方私にとっては両方とも「聞」である。

そして「聞」であるという点では、遺体から二、三百メートルのところにいた私も、遠く内地にいた家族も、実は、同じなのである。
人びとが錯覚を抱くのはこの点である。

とはいえ両者は同じではない。

私にはN少尉の言葉がそのまま理解できるが、遺族にとっては理解しかねる「言い逃れ」だという点である。

「言い逃れ」と言われてどうするか。

N少尉のように沈黙で押し通すか、「ジャップやめろ」と叫んで暴行をするか――多くの人は、否、少なくともわれわれ日本人は、どちらもせず、相手の常識という予定稿と「なれ合う」のである

そしてそれを「対話」と呼ぶ、実は、遮断であるのに

そして『虜人日記』にはそれがない。

「見」にそれがない如く「聞」にもそれがない。
読者もしくは読者を代表する取材者との「なれ合い」は皆無である。

そして「見」と「聞」を、実に正確に書きわけている。

これは同氏が化学者で、その観察が必然的に科学的になったのだとも思えるが、おそらくはそれよりも、うすれ行く記憶を出来うる限り正確に書き留めておこうとする著者の、いわば、邪心なき意図のたまものであろう。

ヒストリアというギリシア語は通常「歴史」と訳されるが「目撃者の記録」という意味もある。

その意味で本書はまぎれもなきヒストリアである。
そして著者はもうこの世にいない。

その意味では本書は、一点一画の改変も許されない「遺書」である。

本当に対話が成立しうるのが、このような「言い逃れ」のない真正のヒストリアであり、私は本書を開けると、やっと一つの真実に会えたように思えて、一種、ほっとしたような安らぎをおぼえるのである。

(~終わり)

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第1章 目撃者の記録/P17~】


読了お疲れ様でした。
見事に田原総一朗の取材が例として使われていますね。しかも、反面教師の極上な”ダシ”として。

山本七平が、ここまで丁寧に、完膚なきまでめった斬りしたのはちょっと珍しいと思います。
普通「…のか」「…のだ」「!」なんてそれほど多用しない人なのですが、余程、田原総一朗の取材(及びマスコミ)に腹が据えかねていたのかも知れません。
(しかし、昔から田原総一朗ってのは、このような”決めつけ”を多用していたんですね。困ったもんです

それはさておき、この「予定稿」というものは、マスコミに限らず誰の頭の中にもあるわけですが、普段、あまりこの存在を意識していないのではないでしょうか。

田原総一朗の取材というのは、それが非常に濃厚に出ている(そして本人は全くそれを意識していない)わけですけど、我々自身も大なり小なり似たようなことを無意識のうちに行っているはずです。

このこと自体は、人である以上避け得ないものだとは思うのですけど、上記の山本七平の説明を読むと、自らの「予定稿」を”意識する”必要があるのではないか…と思うのです。

意識しなければ、平気で「決めつけ」「言い逃れ」と勝手に断定して、自分の「予定稿」に適合する部分のみ受け入れ、それ以外は切り捨ててしまう。

これを防ぐには、やはり異論を頭から拒否するのではなく、(受け入れずとも)受け付ける姿勢を取るしかない、そして、自らの「予定稿」を殊更意識する必要があるでしょうね。

また、我々日本人というのは、どうも仲間内の諍いを避けるため、”「予定稿」となれ合って”しまう傾向が確かにあると思われます。
これも「事実の認定」「真実の追求」を阻み、現実を直視することの妨げになっているのではないでしょうか。

上記の説明を読むと、そうした様々な問題点が明らかになってきます。
そうした問題を認識する上では、まあ、あの田原総一朗も一応役に立った…といえるのではないでしょうか?

しかし、凡人ならば単なる田原総一朗批判に終わってしまうところを、それを素材に、真の問題点に切り込み誰にもわかりやすく解説してみせる山本七平の筆力には、改めて感心してしまいます。


【関連記事】
・マスコミの「予定稿」とは【その1】~田原総一朗の「取材」を例に考える~


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マスコミの「予定稿」とは【その1】~田原総一朗の「取材」を例に考える~

今回から、何回かに分けて山本七平著「日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条」の第1章「目撃者の記録」を紹介していこうと思います。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03)
山本 七平

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なぜ紹介しようと思ったかというと、日頃読んでいる産経新聞の阿比留記者のブログ「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」の記事に、たまたま田原総一朗氏のことが取り上げられていたのがきっかけなんですが。

阿比留記者はこの記事の中で、田原総一朗のことをはっきりと嫌いだ…と記していますが、実は私も同様に大嫌いなんですよ。

今回紹介する「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)」というのは、小松真一氏が書いた日記「虜人日記 (ちくま学芸文庫)↓」をテキストに、日本の敗因を解き明かすといった形で書かれているのですが、その「虜人日記」を紹介する際、引き合いに出されているのが、若き日の田原総一朗氏です。

虜人日記 (ちくま学芸文庫)虜人日記 (ちくま学芸文庫)
(2004/11/11)
小松 真一

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山本七平は、田原総一朗小松真一を対比させ、なぜ小松真一の「虜人日記」が戦中の史料として価値があるのか…と言うことを見事に解説してくれます。
そして、そこで田原総一朗は、ある意味見事なまでに、いわば完膚なきまで批判され、さらし者とされています。
悪しきマスコミの代表として。

それを皆さんに紹介しつつ、信頼できる史料とは一体どういうものなのか。そして、マスコミの取材の問題点は何なのか。ということを山本七平の記述をヒントに考えていければ…と考えています。

それでは、最初から引用を始めましょう。

■第1章 目撃者の記録

「横井さんや、小野田さんの手記、どうお考えですか」

「……」

ちょっと返事ができない。返事ができないということは、二人の手記が虚妄だという意味ではない。

だがかりに今、押入れを整理していたら、三十年も前の日記が出て来たとする。何気なく読む。

そのとき人は感ずるであろう、いま自分の内にある三十年前の「思い出」と、日記に書かれている当時の「自分の現実」との間の大きな差を――そしてこの差は、二十年前、否、十年前の日記にも感ずるはずである。

ではその人のその「思い出」は虚妄であろうか。

そうはいえまい。
その人がいま、ある種の「思い出」をもっているということは、あくまでも事実なのだから、その「思い出」を、何の対社会的配慮もなく、思い出ずるままに記したなら、そういう「思い出」を抱いているという事実は、あくまでも事実であろう。

だが「思い出」は「思い出」であって、だれにとってもそれはそのまま、三十年前の「自分の現実」ではない。

返事に窮するのは、まずこの点であって、相手の質問が、両氏の記録を「三十年間の正確な記録と思うか」の意味ならば、私の返事は「思わない」となる。

しかし、それは両氏が虚妄を語っているという意味ではない。両氏のような立場におかれれば、両氏のように語る以外に方法はあるまい。

「では両氏はその思い出を『思い出』ずるままに語っていると思うか」と問われれば、その返事は留保せざるを得ない。だがしかしここに取材に関連する問題も介在する。だがこれは後述しよう。


では、どのような形になれば、正確な記録になりうるであろうか。

もしかりに、横井・小野田両氏が、昭和二十年前後に相当詳細な日記をつけ、それをどこかに埋めて忘れてしまったと仮定しよう。

内地に帰ってしばらくたってからそれを思い出し、何らかの方法で再び手に入れ、それを一言一句訂正せずに公表し、その内容のうち現代人に理解できない部分や情況は、註や解説の形で読者が納得するまで説明する、いわば当時の自分の状態と現在の自分の状態の間に立って自ら通訳するという形をとったと仮定しよう。

もしそれができたら、おそらくそれが、現在われわれが読みうる最も正確な記録であろう。

では、そういう記録があるであろうか。

ある。私は、小松真一氏の『虜人日記』に、それを見出したのである。

前々号の本誌〔角川書店刊『野性時代』一九七五年二月号〕で林屋辰三郎氏が

「私は、常に、歴史資料は、『現地性』と『同時性』という二つの基準に照らされなければならないと考えます。文献ならば、それが、その場所で書かれたものかどうかということ、これが『現地性』です。

そして、その時に書かれたものかどうかということ、これが『同時性』です。このX軸とY軸の二つの軸で判定して、その基準に近づけば近づくほど、史料として価値が高いということです」


と記されている。

この基準は、現代史にもそのまま適用できるであろう。

従って横井・小野田両氏の記述は「現地性」はあるが、現代史の基準としては、戦争中と戦争直後の部分に関しては、「同時性」がうすいと言いえよう。

だが問題はそれだけではない。

現代史ではこのほかに、生存する関係者への配慮や、政治・経済・外交上の要請から、資料に意識的な改変は加えられていない、という保証も必要である。

政変のたびに改変される”党史”は、現地性と同時性はもっていても、否、もっていればいるほど、その信憑性には疑問をもたざるを得なくなる。

またたとえそれほどでなくとも、その現代史の中の一員としてその社会に生きている限り、人は、対人関係・対社会関係の完全な無視はむずかしい。

従って、時勢への配慮とそのための意識的無意識的迎合があっても不思議ではないわけだが、この点において、それが皆無なのがまたこの『虜人日記』なのである。

――なぜそう断言できるか。著者の成り立ちがそれを示しているからである。

著者の小松真一氏は軍人ではない。

氏は、陸軍専任嘱託として徴用され、ガソリンの代用となるブタノールを粗糖から製造する技術者として、敗色が濃くなった昭和十九年一月比島〔フィリピン〕に派遣を命ぜられ、結局、われわれと同様の辛酸を舐めて、終戦を迎えたのであった。本書の「序」には、次のように記されている。

■序

昭和二十年九月一日、ネグロス島サンカルロスに投降してPW(捕虜)の生活を始めて以来、経験した敗戦の記憶がぼけないうちに何か書き止めておきたい気持を持っていたが、サンカルロス時代は心の落ちつきもなく、給与も殺人的であったので、物を書いたりする元気はなかった。

レイテの収容所に移されてからは、将校キャンプで話相手があまりに沢山あり過ぎて落ちついた日がなく、書こう書こうと思いながらついに果さなかった。

幸か不幸かレイテの仲間から唯一人引き抜かれて、ルソン島に連れて来られ、誰一人知った人のいないオードネルの労働キャンプに投げ込まれた。

話相手がないので、毎日の仕事から帰って日が暮れるまでの短い時間を利用して、記憶を呼び起こして書き連ねたものである。


この序文に、人は何の感動もおぼえないであろう。

だが、当時、「書く」ということは、大変なことであった

第一、紙もなければ筆記具もない。どこを探しても、一冊のノートも一瓶のインクもない世界である。

氏は、その書写材料をどうやって人手したか記していないが、手製の八冊のノートを手にしただけで、私には、労働キャンプでこれだけのものを作ること自体が、どれほど大変な作業であったかを、思わざるを得なかった。

表紙は、米軍の部厚いクラフト紙、中はタイプ用紙である。この紙がよく入手できたと思う。

カランバン第四収容所で私の隣りにいたKさんは、トイレットペーパーを四枚かさねて、その上に、エンピツでソーッと書いて、戦犯裁判に備えるメモを作っていたのだから。

八冊とも、きれいな和綴である。
だがこのとじ糸は、元来「糸」ではない。カンバスベッドのカンパスをほぐして作った糸である。

日常生活で、紐や糸がどれほど決定的な必需品かわれわれは意識していない。従ってそれがなくなってしまった生活は想像できないであろう。

カンパスベッドは、そういう情況下では、大変に有難い糸と紐との”原料”であった。いくつかのベッドが秘かに処分されてそのために消え、同時にその脚は、後に、マージャンパイの材料やパイプになった。

小松氏は鉛筆は持っておられたらしい。だがこの日記に豊富に出てくる巧みなスケッチの色彩は、絵具ではない。

殆どが、収容所の医務室から手に入れた薬品である。
マラリヤの薬のアデブリン錠を水で溶いた「黄」、マーキロが「赤」、また皮膚病の化膿に使われた色素剤が濃紫色、さらにこれらの”原色”を混ぜて、さまざまの色がつくられた。

当時、これらの”絵具”は大いに活用され染料にもなった。

(~中略~)

本書は、まずその材料が、その内容の「同時性」と「現地性」を余すところなく証明している。

この点、昭和三十年に東京で印刷された記録とは、その価値が違う。

従って比較すること自体が、はじめから無意味かも知れない。だが現代史資料は、前述のように、それだけでは必ずしも正確ではない。

”終戦”は単に日本が戦争に敗れたというだけでなく、一つの革命だった

昨日までの英雄は一転して民族の敵となった。

同時にすぐさま新しい独裁者が、軍事占領に基づく絶対の権威をもって戦後”民主主義”を推しすすめていた。

従って当時の多くの人の記述に見られるのが、新しい時代に順応するための自己正当化の手段としての、過去の再構成である。

それは時には自己の責任を回避するため、一切を軍部に転嫁し、これを徹底的に罵倒するという形になったり、自分や自分の所属する機関を被害者に仕立てるという形になっている。

ある大学は軍部に追われた教授を総長に迎えた。
軍部に追われたというが、実際は、彼を追い出したのは大学である。

しかし、その大学がその教授を総長に迎え、大学自体をその総長と固定することによって、自分の過去を再構成し、あたかも大学自体がその総長同様に被害者であったかの如き態度をとって、そのまま存続した。

同じことをした言論機関もあるが、もちろんこの傾向は、あらゆる機関から家族・個人にまで及んでいる。

こういう場合、その大学や機関等の記す「戦中史」や「回想記」は、たとえ、「直後にその場」という「現地性」と「同時性」を備えていても、信頼できる歴史でも記録でもない

否、むしろ、最も信頼に値しないものの一つであろう

この点『虜人日記』は、まさに稀有な状態にあるといえる。

氏は軍に所属し、従ってその内部でつぶさにその実状に接していながら、軍隊という組織に組み込まれていない特異な地位にある技術者であった。

従って組織への配慮、責任の回避、旧上官・旧部下・同期生・軍関係学校たとえば中野学校の先輩後輩といった関係等への思惑、部下の戦死に対する釈明的虚偽や遺族のための”壮烈な戦死”という名の創作等々からすべて解放されている

同時に氏は、内地の情況を全く知らなかった。

中心的なカランバン収容所でさえ、内地のことは殆どわからない。まして地方のオードネル労働キャンプでは、内地情報は一切不明と言ってよい――この点は後述するが。

従って、内地の変化を先どりして、それをもとにして過去を記すといったことは、氏の場合は起りえない

またアメリカの労働キャンプには、ソヴェト式の思想教育は皆無であったから、”民主的観点”から事を曲げて書く、ということも起りえない

この状態は私の『ある異常体験者の偏見』でも触れたが、一種の短い空白期間ともいうべき、非常に面白い時間――そして、比島の収容所の人間だけが味わったと思われる時間であった。

思考への圧迫は一切皆無、軍事的圧迫はもちろん、アメリカ民主主義的圧迫もない。

そこには、「お前はかく考えねばならぬ」という思想的権威が皆無の世界であった。

軍国主義は消えた、しかし「民主主義者になれ」と強制されたわけではない。
従って、そういう擬態も必要でない。

軍国主義の絶対化が消えたという以外では、過去はそのまま存続しており、人びとはごく普通に、軍国主義なき時代の普通の日本人がもつ伝統的常識でごく自然に対象を見た一時期である。

新しい「タテマエ」も、その「タテマエ」を表象する「民生日本」とか「文化国家」とかいったスローガンも、そのスローガンを戦争中同様に騒々しく”奉唱”し強制する言論機関も、何もなかった。

第一、新聞もテレビもラジオもなかった。

そして小松氏は、この位置で、まだ過去とは言えないほど身近な過去とそれにつづく現在を、そのままに見、そのままに記しているのである。

先日、小松真一氏の御子息にお目にかかったとき、氏は次のような意味のことを言われた。

――自分は戦争を知らない。そしていま、ちょうど父がこれを書いたとほぼ同じ年齢になった。そしてこれを読んで、少しも違和感がない。あの情況で、あのような状態を見たら、こういう見方をし、こういう感じ方をするであろうと思われる通りのことが書かれている、と。

本書を読めば、おそらくすべての人が、同じようなことを感ずるであろう。

一体これは何を意味しているのであろう。

厳密にいえばこれは、「戦前」(終戦前)とはいえないが、「戦後以前」に、戦争について書かれた本であり、「戦後」の影響が皆無の記録なのである。

これは、われわれの常識とそれを基礎づける基本的価値判断の基準が、戦前も戦後も変わっていないことを示しているであろう。

そして本書が提起している一つの問題は、なぜその常識を基準として国も社会も動かず、常に、”世論”という名の一つの大きな虚構に動かされるのかという問題である。

これは戦前だけのことではない

日中復交前に本多勝一記者の『中国の旅』がまき起した集団ヒステリー状態は、満州事変直前の『中村震太郎事件』や日華事変直前の『通州事件』の報道がまき起した状態と非常によく似ているのである。

こういう場合、「常識」は発言できない
それでいて常識はつねに変らず厳然と生きている。

横井・小野田両氏がすぐに現在の社会に適合できたとて、このことを考えれば、少しも不思議ではない。

ではそれでいてなぜ二人は、虚構の”非常識”の世界に生きつづけていたのか。
だがそういう生き方は、戦後の日本の内地にも、形を変えて生きつづけているであろう。

本書は、これを解く一つの鍵と思うが、しかし話が先にすすみ過ぎたようである。
この問題の探究は一先ず措き、ここでまた『虜人日記』出現の経過に戻ろう。

(~次回へ続く~)

【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第1章 目撃者の記録/P1~】


長くなったので、今回はここまで。

上記の記述を読むと、史料というのは「現地性」と「同時性」を備えているからといって、信頼できるとは限らない…ということがよくわかるのではないでしょうか。

また、「新しい時代に順応するための自己正当化の手段としての、過去の再構成」…という指摘もよく考える必要があると思います。

戦前の出来事について論争される際、この点は非常に問題となっているのではないでしょうか。
史料の真贋を見抜くためには、この点への意識が欠かせないと思うのですが、現状を見るに非常に危ういものを感じてしまいます。
(第一、本人の証言だけで、コロッと信じている人が多いことだけみても危ういと思う)

まあ、今日はこの辺にしておきましょう。

それはさておき、まだ、田原総一朗が出てきませんが、我慢してくださいネ。
きちんと前振りに目を通しておかないと、理解できない処もでてきますので。
宜しくお願いいたします。


【関連記事】
・マスコミの「予定稿」とは【その2】~田原総一朗の「取材」を例に考える~


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私の携帯遍歴

先日、久々に携帯の機種変更をした。

私の携帯歴ももう14年以上になるけど、最初はASTELのPHSでデビューしたころと比べると技術の進歩を改めて感じる。

なにしろ、ASTELのピッチは、カナ表記しかなかったし…(型番すら憶えていない)。

ピッチを水没させてオシャカにしたあとは、東京デジタルホンへ。
買ったのは、DP-114↓
DP-114
これも、カナ入力しかできなくて、メールもなく話すの専用でしたね。可も不可もなしと言った感じでした。

次に機種変更したときには、社名がJ-PHONEに変っていた。
考えてみれば、東京デジタルホン→J-PHONE→Vodafone→ソフトバンクという風に4回も変っているんだよね(つか、変りすぎだろ…。それに考えてみれば、vodafone時代の携帯を持つ間もなくソフトバンクに変ってしまったし…)。

DP-114の後釜に選んだ携帯は、シャープのJ-SH03でした。
これ↓は、液晶画面がカラーなのが売りだった気がする。256色だったから、見てのとおり色あせてますね
J-SH03

次に買い換えた機種が、5年以上使い込んだ愛機、J-N51でした。
これ↓は、名機でしたね。
Jフォン J-N51
当時としては、珍しかったバーコード・リーダー(外付けレンズを付けなければ認識できない欠点はあったが)を備え、赤外線ポートでテレビやビデオも操作できたし、強力なLEDライトでちょっとした懐中電灯代わりにもなったし、ブログをネットで読むことも出来た。

そして何より文字入力が最高だった。以前の記事「ようやく出たか!ソフトバンクに新しいT9入力端末が…」でも紹介したが、T9入力というのは、携帯での入力としては最も優秀な気がする(どうしてNEC以外の機種に搭載されていないのか不思議です)。

これは、5年以上使っただけあって、充電池も2回交換したし、壊れて一回修理にも出したんだけど、それでも使い込んだのは、T9入力に尽きる。

そんな私が、今回選んだのは、同じくT9入力を備えたNECの821N GLA
選んだ色はホワイト↓
821N GLA
女性雑誌「GLAMOROUS」とのコラボレーションケータイということで、本来は女性用らしいが、この色なら男でも何とかなるだろってことで選びました。
何しろ、同じ携帯の821Nより安価だったし…(821N GLAは実質0円)。

今回の携帯選びでは、i-phoneOMNIAも検討したが、そもそもメールと通話、そしてブログが見られればいいので必要ないだろうということと、やはり821Nに比べ高値だったことでやめにした。
それに、店頭でこれらのタッチパネルをいじってみたけど、やはり入力の手ごたえがないのは不安だったこともあったしね(OMNIAは入力の度ブルッと震えてくれるけど)。

5年ぶりの携帯ということもあって、さすがにT9入力も進化していたのには非常に満足。
ただちょっと不満な点は、J-N51にあったLEDライトが無いのとテレビリモコン機能がないことぐらいかな。

まあ、つまらない私の携帯遍歴でしたが、まだ5機目なんですよね。金が無いと言うのもありますが、自分って結構物持ちいいなぁ…と思った次第です。


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グルメネタ「あんこが美味い」

たまには、息抜いて軽い話題を。

うちの子供は、あんこが入ったお菓子が好きで、ショートケーキよりそちらを選ぶくらいなのですが。

おかげで、私もそういう餡ものを食べる機会が増えているのですが、昔はそんなに好きではなかったのに、いざ食べてみると結構美味しくてよく買い食いするようになりました

最近はまっているのがこれ↓

薄皮たい焼き「たい夢」

たい焼き画像

・薄皮たい焼き「たい夢」(参考HP)

1個120円~と高いのですが、皮がパリっとしていて、中につぶあんがぎっしりつまっていて、それでいて甘過ぎない。とても美味しいです。

続いて紹介するのは、たい焼きではないですが、先週、都内(拝島)に出張したら駅中で美味しそうな塩大福を見つけましてさっそく購入。

京都大原豊寿庵↓の塩大福でした。
ぜんぜん知らなかったのですが、ネットで調べるととても有名なお店らしい…。

・京都大原豊寿庵HP←ちょうど(12/7)現在買った場所(拝島駅)の売り場が紹介されてました。

ちなみに食べたのはこちら↓
塩豆大福

とっても美味しかったのですが、1個160円もしました。京都ブランドは高いですね。

それでも、子供が喜ぶと思うと、つい買ってしまうんですよ。
(おかげで、メタボ街道まっしぐらですが…orz)


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「ニセ物に固執する精神」~憲法改正がタブー視される理由とは~

前回の記事「平和運動に欠けている視点」で、1読者さんからコメントを頂きましたが、その内容が私には非常に興味深かったので取り上げさせていただきたいと思います。(1読者さん、実に面白い本を教えていただきありがとうございます是非読んでみたいと思います。)

まずは、1読者さんが紹介してくれた、岸田秀山本七平との対話をそのまま引用します(コメント欄においておくのはもったいないので)。

■日本国憲法はニセ物

(~前略)

山本 …憲法というのは、主権である国民と政府との間の一種の授権契約ですよね。…そういう発想が、憲法ということばを口にするとき、みんなにあるかどうかということになると......。

岸田 それが、ないんだな。

山本 ないでしょうね。

岸田 これも精神分析の例に引きつけていいますと、本当に本人の行動を決定している動機を本人が知らない場合があるでしょう。そういう場合、意識的には別の理由を持っているもんです。人間というのは、自分の行動を説明しないといけないから、いわばニセの説明を持ってくる。

日本の場合の法律とか、憲法とかを考えるとき、ぼくはいつもそういう神経症患者のニセの説明を思い出すんですがね。法律の条文で行動してないんだけれども、説明を求められるとそれをやるわけです。

山本 同時に、憲法改正絶対反対なんていう場合、その反対の理由がどこにあるかという説明は、だいぶニセの説明ですね。精神分析からいったら、その反対の理由というのはおもしろいんじゃないですか。契約を変えちゃいけない、しかし、実際に履行しなくてもよろしい

岸田 日本人にとって、なぜ憲法改正はタブーなんでしょうかね。

山本 これはもう精神分析の問題ですな。

岸田 精神分析から言えば、それを変えることがタブーであるという、そのことが、ニセ物である証拠なんですよ。神経症の患者の場合、意識的には偽りの理由を持っているので、その理由に断固として固執するんですね。

つまり、ニセ物であるがゆえに、変えられないんです。また、現実にそれを守り、それにもとづいて行動しなくてもいいんですから、変える必要もないわけです。

山本 なるほど、なるほど。そうすると、日本国憲法はニセ物。

岸田 ニセ物という意味は、憲法が理念や原理として間違っているとかいないとかいうことではなくて、日本人の行動を決定している本当の法じゃないということです。

山本 その意味じゃ確かにそうだ。…

岸田 そうです。固執するのは、いわば強迫観念と同じで、ニセ物でなければ固執する必要はないんですから。

山本 現実として、日本国憲法が機能していないがゆえに、逆に固執するということですね。

岸田 そういうことは、神経症とか精神病のような極端な例を持ってこなくても、日常の普通の人間の行動を見ればわかることで、たとえば、恋愛関係においても、どれほど好きな女でも、いやなところがあるし、つねに一緒にいたいわけじゃなく、あっちへ行ってほしいと思うときがある。

その愛情が本物だと、いやなときはいやだとはっきり言えるわけです。おまえのここがきらいだとはっきり言えるわけです。

ところが、本当は愛していないにもかかわらず、愛を偽った場合には、いやなときもいやと言えなくなります。愛情表現にフレクシビリティがなくなるわけです。

愛しているということに非常に固執し、つねに愛情を証明しようとする。誰かに「彼女のこれこれの欠点が気に入らないんじゃないか」とでも言われようものなら、ヒステリックに否定し、彼女の絶対性を強調する。
日本の憲法を絶対化しているのも、まったく同じことで、本当は尊重していないからですよ。


(~後略)

【引用元↓】

日本人と「日本病」について (文春文庫)日本人と「日本病」について (文春文庫)
(1996/05)
岸田 秀山本 七平

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つねづね護憲派の論調には、納得できないものを感じていましたし、それ以上にどうしてあんな憲法に固執するのか疑問でしたが、上記の説明を読んでその理由が掴めたような気がします。

この問題を、この二人が、「もはや精神分析の対象なのだ」と喝破しているのは見事だと思います。

そういえば、山本七平は「一下級将校の見た帝国陸軍」の中でも次のようにも述べていました。
以下の引用文を、護憲派の方々はよく考えてみたほうがいいと思う。

■死の行進について

(~前略)

なぜ思考を停止せざるを得なくなるのか。

「戦争とは結局そんなもんだ」ではない。

今の今まで「絶対にやってはならない」と教えかつ命じていたそのことを、最後には「やれ」と命ずるから思考停止になる

否、そうせざるを得ない、大は大なり、小は小なりに、すべてはそうでなかったか。

これは「判断を誤った」ことと同一ではない

人は全知全能ではないから、判断の誤りはありうる。指揮官とて例外ではない。従って、それを非難しようと私は思わない。

だが今の今まで「絶対にやってはいけない」と判断を下していたそのことを、なぜ、急に一転して「やれ」と命ずるのか――「戦闘機の援護なく戦艦を出撃させてはならない」と言いつつ、なぜ戦艦大和を出撃させたのか。

「相手の重砲群の壊滅しない限り突撃をさせてはならない、それでは墓穴にとびこむだけだ」と言いながら、なぜ突撃を命じたのか。

「裸戦車(空軍の援護なき戦車)は無意味」と言いつつ、なぜ裸戦車を突入させたのか。

「砲兵は測地に基づく統一使用で集中的に活用しなければ無力である」と口がすっぱくなるほど言っておいて、なぜ、観測機材を失い、砲弾をろくに持てぬ砲兵に、人力曳行で三百キロの転進を命じたのか。

地獄の行進に耐え抜いて現地に到進したとて「無力」ではないか。

無力と自ら断言した、無力にきまっているそのことを、なぜ、やらせた。――戦艦大和の最後は、日本軍の最後を、実に象徴的に示している。

出撃のとき、連合艦隊参謀の説明に答えた伊藤長官の「それならば何をかいわんや。よく了解した」という言葉。

結局これが、その言葉を口にしようとしまいと、上級・下級を問わず、すべての指揮され、命令され、あるいは説明をうけた者の最後の言葉ではなかったか。

(~中略~)

「戦後三十年たったこの民主主義社会で、全く事情の違う戦争中のことをとやかく批判しても無意味だ。はじめから次元が違う」という意味の言葉を口にする当時の責任者もいる。

確かに事情は違う。

(~中略~)

しかし、いまのべたことを私か、否私だけでなく多くの人がロにしたのは、戦争中と戦争直後であり、「三十年目」のことではない。

戦艦大和と同行した巡洋艦矢矧の艦長は生還され、連合艦隊参謀を面罵・難詰されたそうだが、同様の事件は、収容所でも頻発した

今の今まで「絶対やってはならん」と言いつづけ教えつづけ主張しつづけたことを、なぜ、不意に一変して「やれ」と言えるのか。

よく言われる「客観情勢の変化」は実は遁辞にすぎない。
情勢はある一点で急に転回してはいない。

それはむしろ発令者の心理的転回のはずであり、ある瞬間に急に、別の基準が出てくるにすぎない

それはむしろその人の内部の「二重基準」の問題であろう。

(~中略~)

大分前、大学を出たての二青年に、このことをもっと抽象的に話したことがある。

二人は事もなげに言った。

「大学だってそうですよ、教授も学生も。あれこれ言っても、いざ就職試験間近となれば、クルッと一転して、今まで否定していたことを、平気で主張しますよ」

「そうですよ。学問の自由・大学の自治。絶対機動隊はいれてはならんと言いつづけた本人が、いざとなれば平気で機動隊を入れますよ。別にどーってことないでしょ」


確かに、それまで言いつづけたことが虚構で、それを主張した本人が自分でそれを信じていないなら、そしてそれで支障ないなら「どーってことない」であろうが、戦争は虚構ではない。

だが、戦争以外の世界も、最終的に虚構ではない。
その証拠に、もし次のようなことが起こったらどうするつもりか。

いま多くの団体も政党もマスコミも、平和憲法は絶対守れと教えかつ言いつづけている。

だが、私は過去の経験から、また「精神カヘの遠慮」に等しきある対象への遠慮からみて、その言葉を、それが声高であればあるほど信用しない

一番声高に叫んでいたものが、何やら”客観情勢の変化”とかで、突然クルッと変わって、自分の主張を平然と自分で否定する

それが起こらない保証はとこにもない

それでよいのか

そのとき「それならば何をかいわんや。よく了解した」と言って、かつてのわれわれのように黙って「地獄の行進」をはじめるつもりか――方向が右であれ左であれ。

その覚悟ができているなら、この問題はそのまま放置しておいてよい

憲法だけは例外だなどということは、ありえないから

【引用元:一下級将校の見た帝国陸軍/死の行進について/P111~】


以上、二つの記述から、拙いながら要点を私なりにまとめますと次のようになるかと。

1.憲法は、「日本人の行動を決定している本当の法じゃない」ということ。つまりは虚構の存在。

2.虚構の存在であるから、その憲法はその”条文どおり”守られなくて構わない。

3.実際は守っていないのだから、憲法改正する必要がない。

4.護憲派は、憲法を「虚構の存在」だと肌では感じながらも、その虚構を強める方向に行動する。

5.強迫観念に基づく護憲論は、いつ転向するかわからない危うさを秘めている。

6.こんな状況について何も考えずほっといていいのか。”客観状況の変化”を名目にガラッと転向するかもしれないことを覚悟しとけよ。


とまあ、こんなところでしょうか。

ちなみに、5については、村山社会党が政権をとった途端、自衛隊は合憲であると言い、そして野党にもどった途端、それを引っ込めた行動に、はっきりと露呈しましたね。

まぁ、護憲派が、精神的に強迫観念を抱くのもある意味、無理もないと思う。

どんなに「平和憲法のおかげで戦後60年間平和だった」と唱えようと、自らの心の底では、信じきることが出来ない。一抹の不安を抱えたまま…。

山本七平は、「この不安は常に、虚構を崩さないで、逆に、虚構を事実と信じて安心しようという方向に動くのである」と指摘していましたが、まさに護憲派の行動はそのとおりじゃないでしょうか。

これも、情緒に流され、徹底したリアリストになりきれない日本人ならではの特徴なのかもしれません。

最後に護憲派の方々に、言っておきたい。

あなた方が、「平和の源」だと信じ込んでいる9条は、虚構に過ぎない。
あなた方の行為は、虚構の世界を作りあげ、人びとをだまそうとするものでしかない。そしてそれは平和を維持するのに有害なのだ…ということを。


【追記】

余談ですが、私は岸田秀という人の名前だけは知っていました。というのも、知人に山本七平の本を薦めて読んでもらったところ、「山本七平を読んでいると岸田秀と連想する」と感想を述べていたものですから。
これを機に、岸田秀の本を読んでみようと思います。1読者さん、ご紹介ありがとうございました。


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平和運動に欠けている視点

最近、松竹信幸さんの「超左翼おじさんの挑戦」というブログに何度か投稿させていただいている。
というのも、ここは左翼のブログでは珍しくコメント投稿を自由に受け付けているからなんですが。

さて、その松竹さんが、「戦争責任の考え方」というテーマで連載を始めた。
私も既に何度か投稿したが、この問題に対する私の基本的なスタンスは、「議論するだけムダ」ということになるでしょうか。

そもそも、「戦争責任」を幾ら論じたとしても、実際のところ、「誰にどう、具体的な責任を負わせるか」、国民の間で今からコンセンサスをまとめることが不可能だと思うから。

まあ、そうは言っても論議しはじめた以上、私から見て、彼ら左翼の主張がおかしいと思う点についてはその都度指摘して行きたいと思っているんですけどネ。

そんなこんなで、「戦争責任の考え方」シリーズを読んでいたら、戦争と賠償金の関係について次↓のように松竹さんが書かれていた。

◆戦争責任の考え方・14

上記の記事を読んでいて、議論のベクトルは全く違いますが、「賠償」という言葉をきっかけに、山本七平の次のコラムをふと思い出したので、今日はそれを紹介したいと思います。

このコラムが書かれたのは、フォークランド紛争以降、ソビエト崩壊以前だと思いますが、「戦争の形態」がどのように変っていったのかを、素人でも掴めるように書かれていてお勧めです。

■人類の愚行と知恵

昔の戦争は、「勝者に利、敗者に損」が当然であった。

負けた方は領土を割譲し、賠償金を払い、さまざまな権益を失った。一方勝者は領土を得、賠償金で戦費はゼロか逆にプラスに転じた。

これは人類というものが大がかりな戦争をはじめて以来の「前提」であった。

この「前提」は日清戦争ではその通りに通用し、日露戦争、第一次大戦では部分的に通用した。
しかも戦争よる直接的被害は、「双方が戦線を構成している地域」以外には及ばなかった。

これを地図で、国土全体の面積を比較すると驚くほど狭小である。と同時に、戦費のその時代のGNPに対する比率も驚くほど少ないのである。

いささか語弊があるが、これは「気軽に戦争ができる」前提であり、従って戦争は頻発し得たし、また頻発した。

そしてこの様相が一変したのが第二次世界大戦であった

航空機の発達とそれによる空襲は、前線・銃後という区別も、戦闘員・非戦闘員という区別もなくし、戦線を線から面に変えてしまった

さらに武器の発達と高性能化はいや応なく「戦費」すなわち戦争のコストを上昇させた

そのうえ、勝者も敗者も何も得るところがなかった
イギリスが戦後自らを「惨勝国」と呼んだのも無理はない。

ドイツは完全に崩壊した。ソビエトは二〇〇〇万人の損害を受けた。そして勝者アメリカは昔とは逆に、マーシャル・プランのような「敗者への援助」を行わざるを得なくなった。

昔の逆である。

一方、ソビエトは膨大な衛星国を獲得し、一部から領土を割譲させ、賠償金も取り立てた。また日本人捕虜に無賃金強制労働を強いることもできた。

だが、この膨大な衛星国の獲得は今では重荷に転じている。

今にしてみれば、第二次大戦で「得」をした国はないと言ってよい。これは、最初に記した戦争の前提がすでに崩れたということである。

そして、これは第二次大戦後の朝鮮戦争にもベトナム戦争にも言える。

だがこの両戦争は兵器をますます高性能化させ、戦争のコストをいやが上にも高めた。原水爆のコストは一応別としても、通常兵器のコスト、特に航空機のコストや小ミサイルのコストには少々驚かされる。

それはまるで電子技術のバケモノのようになって来たが、それを装着せぬ兵器は使用前にすでにスクラップなのである

このことは、通常の在来型中小火器についても言える。

私のいた帝国陸軍の歩兵の主要火器は三八式歩兵銃であり、一人あたりの携行弾薬教は一八○発であった。これを一発ずつ射っていたのだが、今の高性能の機関銃なら三分発射しつづければおしまいである。

野砲の携行弾薬は一門一四四発で、戦闘の基準である「一基発」は七〇発であった。
マレーからシンガポールヘと進撃した日本軍は一門一〇〇〇発を準備し、これが日本軍の「最高記録」らしいが、今ならこれが普通の状態であろう。

その輸送が大変なら、「歩く」という意味での「歩兵」という概念もなくなってしまった。

みな軍用車両で運ばれる。その車両もそれに要する燃料も、過去には考えられない膨大なコストを要請する。

「戦争とはひきあわないものである。やれば双方に痛ましい犠牲者が出、恐るべき戦費を浪費し、しかも双方とも何も得るところはない」。

こういった認識は、徐々にであるとはいえ、人類全体に浸透しはじめたように見える。

もっともその浸透度に差はあり、中東やソビエトの指導者がこのことをどの程度まで身にしみて感じているかはわからないが、たとえばエジプトなどは一般民衆でもこのことは強く感じている。

人間に最も強く教えるものは、やはり「経験」であろう。

フォークランド戦争から、イギリスもアルゼンチンもやはり学ぶであろう。
またアラブ諸国がPLOを見捨て、シリアが戦わずして撤退した背後にもそれがあるであろうし、イラン・イラク戦争では、これが終わって”熱気”がさめた時には、両者ともに学ぶところがあるであろう。

またイスラエルも、レバノン戦争が終わってキリアット・シェモーナの人びとが防空壕で生活せねばならぬような状態を脱した現在では、やはり学ぶところがあった。

惨勝国イスラエルの最大課題はインフレ撲滅で、それがやっと成功しだしたのが昨今である。
彼らがインフレ再燃を望むことはあリ得まい。

人間というものは、そう愚かな者でもなければ、一切を予知できるほどの知者でもないと私は信じている。

従ってそれが個人であれ、国家であれ、人類全体であれ、誤りをおかしつつそれによって「知恵」を獲得していく。

そしてそれは、その個人が、国家が、それぞれの体験からどれだけ学びうるかにかかっている

「一度の愚行は許されるが二度の愚行は許されない」。「知恵(ホクマー)」を一種「絶対的」なものとしたのは旧約聖書の「箴言(メシャリーム)」だが、これを学者は古代オリエントの「知恵」の集成であると見ている。

この古い伝統はやがて、中東におけるイデオロギーの夢を追い払うであろうと私は思っている。

【引用元:「常識」の非常識/Ⅱ時代を読む/P101~】


これを読んで思うのは、戦争は割に合わない行為だと考えている内は、第二次大戦のような全面戦争は起こりにくいだろうナ…ということ。

それと、最近の紛争を見ていると、「国vs国」という構図の戦争が少なくなり、「国vs非政府組織」という形態の戦争に移行していると思います。

そこで疑問なのが、果たしてこうした「戦争の形態の変遷」というものを想定して、平和を維持する方策を我々は真剣に考えているのだろうか?ということです。

平和を追求するなら、まず今後起こりうると思われる戦争の形態を調べ、それにどのように対応するのか対策を練らないといけないはずですが…。

その点、どうも左翼の方々の平和運動とか平和維持の主張には、そうした視点が欠落しているように思えてなりません。

これは、きっと軍事オンチということも影響しているのでしょう。
こうした平和ボケを治す意味でも、例えば大学との一般教養課程に、軍事学を教える教科を加える必要があるのではないでしょうか。

孫子の兵法に、「敵を知り己れを知らば、百戦して危うからず 」と言うじゃないですか。
もっと「敵(戦争)」のことを真剣に考える必要が、平和運動に必要じゃないかな~と思うのですがね。


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コメント欄の続きが気になる…。

我ながら、下らんと思いつつもちょっと気になっていることを今日は書きます。
(なぜ自分のブログに書くかというと、私がこのブログ主からコメント禁止措置を食らっているから。他ブログを批判するつまらない記事ですので、興味のない方は読み飛ばしちゃってくださいね。)

左翼のブログをオチするのが日課となっている私ですが、前にも何度か取り上げた「村野瀬玲奈の秘書課広報室」について。
このブログ主はここしばらく、ネトウヨを挑発する記事を連発していますね。そんな記事の中で私が密かに注目しているのがこれ↓

・カール・セーガンの「トンデモ話検出キット」 (碧猫さんの紹介)

この記事のコメント欄に投稿したシロップさんという方とブログ主とのやり取りに注目しているのだが、途中でぱったり途絶えたまま…なんですよ(一応、シロップさんの最後のコメントを読む限り、投稿を続ける意思あり)。

シロップさんがコメントしていないのか、それとも、コメントしても消されてしまっているのか、全くわからないのがちょっと歯がゆいですね。
(シロップさんの書き込みを見る限り、過去に投稿したコメントが何度か表に出されず消されたことがあるらしいのですが…)

コメントが来ないのか?それとも、コメントを削除しているのか?せめて、ブログ主にはそれくらい公表してもらいたいなぁ。
人知れず(笑)、こうして気にしている人もいるんだから。

それとも、ひょっとして、投稿者が忘れた頃に消したコメントの一部を都合よく抜き出して記事にし、批判して終わりにするつもりなのかな?
下記の記事↓のように。

慰安婦問題を薄めたい人へのお返事

しかし、これもなんだか姑息な方法ですね。

ま、護憲を唱える方の「やり口」というのが、どういうものか指摘してみたくなったもので取り上げてみました。

何しろ、このブログ主は「ネトウヨコメント分類学」なる記事をUPしているような方ですから、私がこの程度のことを指摘したってバチはあたらないでしょう(笑)

つまらない記事で申し訳ない


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観劇日記「茶柱婦人/夢知無恥ぷれぜんつ」

観劇などには全く縁のない私ですが、知人から観に行けないのでチケット代は持つから観に行ってくれないかという申し出がありまして、日曜日に久しぶりに芝居を観に行ってきました。

(こうした小劇場の芝居を見るのは、実に10数年ぶり。確かミュージカル「ゴッドスペル」だった。ちなみにこのゴッドスペルは、イエス・キリストの生涯を描いたミュージカルなんだけど、全曲がゴスペル調で非常にノリのいい名曲ぞろいである。ただ、どうしたわけか余りメジャーな作品にならなかった。同時期に「ジーザス・クライスト・スーパースター」という名作があったためかも知れない。)

それでは、以下、観劇の感想をつらつらと。

行った劇場は、恵比寿のテアトルエコー劇場。見たところ客席はおよそ百数十席といったところか。とにかく小劇場らしく舞台と客席の距離が近い。B列だったので、ちょっと見上げるような形になるが、役者と数メートルしか離れていないので臨場感は抜群だった。

題目は、「茶柱婦人」↓というコメディでした。
茶柱婦人役の春馬ゆかりさんとポスター
上の写真は、茶柱婦人役を務めた春馬ゆかりさん(宣伝ポスターと違って、えらく美人さんでした。彼女のブログを見たら、秘湯ロマンというDVDにも出ているみたいです。)

【公式HP】↓
夢知無恥ぷれぜんつウェブサイト

出演者の中で知っているのは、かろうじてB21スペシャルのミスターちんぐらい。
後は全然知らなかった。どうやら役者やお笑い芸人の寄せ集めみたいだ。

あらすじは、とある茶畑農園が舞台。その茶畑農園の経営者というのが、大学受験12回連続失敗という何をやってもついていない若社長。
当然のことながら、経営も破たん寸前。そんな農園をライバルのどくだみ本舗が乗っ取ろうと、いざこざが起こる。そこへ茶柱立てて幸運をもたらすという茶柱婦人一行が加わり(~以下略)…といった感じ。

一応ストーリーはしっかりしており、そこにコントあり、チャンバラあり、と笑える間を織り込んでいて飽きさせない。
約1時間50分の幕間なしの劇だったが、退屈することなく楽しめた。

映画もいいが、劇というのは役者の息遣いを感じることができる点が映画と違って素晴らしいと改めて思わされた。こういう劇なら、また観に行ってもいいなぁ。

夢知無恥ぷれぜんつ。今後、要チェックである。


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一知半解

Author:一知半解
「一知半解知らずに劣れり」な自分ではありますが、「物言わぬは腹ふくるるわざなり」…と、かの兼好法師も仰っておりますので、ワタクシもブログでコソーリとモノ申します。
一知半解なるがゆえに、自らの言葉で恥を晒すのを控え、主に山本七平の言葉を借用しつつ書き綴ってゆきたいと思ふのでアリマス。宜しくメカドック!!
日々のツイートを集めた別館「一知半解なれども一筆言上」~半可通のひとり言~↓もよろしゅう。

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