はてなキーワード: 言語化とは
日本人の倫理観の特殊性を一番表しているのは、線引きの極端さだと思う。
日本人は、ある線の「慎みのなさ」を越えると途端に「死んでも良い命」になるという、極端な生命倫理を持っている。
例えば、親の目を盗んで深夜に外出し、コンビニの前でたむろしてる中学生。
こんな程度のことでも、たとえどのような理不尽な死に巻き込まれても(例えば、たまたま通りかかった薬中に刺されても)「そんなところに近づいたから仕方ないね」と、さらにもっと無惨な殺され方をしてもよかったくらいにはネットで叩かれる。
これ、異常だって気づいてる?
ホラー映画でも見てる感覚だろうか。主人公を作中で軽くけなしてたり(恒常的にいじめているわけでもない)、隠れていちゃついてるカップルくらいの「慎みのなさ」が、死んでもかわいそうに思わなくて良いフラグになり、当たり前のように死をエンターテインメントとして喜ぶノリを、現実でも同じ程度に内面化している。
これは本当に、一瞬たりとも越えたら戻れない線だ。
たとえばホームレスを、とにかくまず家を見つけられるように、仕事を探せるように、監督つきで金を借りやすくするくらいに支援するシステムでも作ったら、日本人の大半は怒るだろう。
一度ホームレスなんかになった、線の向こう側に足を踏み入れた「異物」を、こちら側に戻すことは侮辱だと感じるからだ。
日本人はホームレスを、戻るということを想定しない、戻ってきてはいけない「もう終わった存在」としてしか認識できない価値観を当たり前に日常の言葉遣いとして持っている。
日本人にとって「まともな人間」の線引きは、一度でも越えてはいけない、一度でも越えたら命を平等に扱ってはいけない、いわば宗教的な穢れとして不可侵のものになっている。
これが結局のところ、日本人の「真面目さ」の根源でもあるのだろう。日本人は自分でも明確に意識せず、この線に一瞬でも近づいたら終わりだと恐れている。
だから、ただルールを守るという以上に、線から可能な限り遠ざかるという努力をする。
それをしない、気の緩い人間が憎くて仕方ない。
だから、やはりそんな慎みのない存在は、一瞬でも気を抜いた瞬間に死んでも仕方ない、天罰だ、嬉しい、と心から思う。
本当に、なんでこんな精神病みたいなループに、一億人が捉えられるものかね。
不思議な話だ。
嘘つく側は1秒で適当なこと抜かせるけど、訂正する側は資料集めてソース提示して、誰にでもわかるように言語化して……って、圧倒的にコスパが悪すぎる。
しかも、そこまでしてボコボコに論破しても、相手は1ミリも反省しねーの。
数日後には「あ、こいつ前も同じ嘘ついて叩かれてたな」って奴が、また新しい嘘を平気な顔で垂れ流してる。
で、「ソースは陰謀論youtuber。本編は見てません」とか平気で言ってくる。
正直、一番虚無なのは、その嘘を信じちゃうバカが一定数常に供給され続けること。
訂正作業なんて、穴の空いたバケツに一生懸命水注いでるようなもんだろ。
ネットに限った話でもないけど、世の中には嘘か本当か分からない話が跋扈してるわけだけど。
そういう話に一丁噛みするとき、俺がよく使うフレーズが「もし本当なら~」とか「おかしいと思ってたんだよね~」だった。
なんでかっていうと、これって“半端なリテラシー仕草”なんじゃないかと思ったからだ。
それを言語化できるようになったのは最近で、きっかけは『チャンスの時間』って番組だった。
その番組の企画で、芸人たちがギャンブルで持論を展開していくのをドキュメンタリー風にやるってのがあって。
バッテリィズのエースだっけか、そいつが数回目のレースで消極的な賭けをしたわけ。
で、レースには負けたんだけど、その際に「あんまり賭けなかったから実質的には勝ち」みたいな言い訳してて。
つまり「一応は賭けたけど、“負けそう”という予感が当たっていたという意味では自分は正しかった」という主張なわけ。
番組内でもネタ扱いされていたけど、実際これって大した理屈じゃないよな。
少額とはいえど負けて損はしているわけで。
あの場面でのマストはもちろん“的中させる”ことで、次点で“そもそも賭けない”ことだろう。
消極的な選択を“不幸中の幸い”と解釈するならまだしも、それを“勝ったも同然”と主張するのは無理がある。
そして勝ったとしても消極的な選択が功を奏しただけに過ぎず、少額ベットだから儲けも少ないので情けない立ち回りなのは変わらない。
何が言いたいかっていうと、「もし本当なら~」とか、「おかしいと思ってたんだよね~」みたいなのはこれに近いスタンスなんじゃないかな~と。
嘘か本当か分からない話だけど“一応は賭けてみた”という状態。
「半信半疑なんですよ、だから自分にはリテラシーがあるんですよ」っていうアピール。
それで本当だったら「一応は賭けていた自分が正しい」となるし、嘘だったら「鵜呑みにはしていなかった自分が正しい」となる。
特に「おかしいと思ってたんだよね~」的なムーヴが一番ダサいというか、半信半疑の“半疑”の方が当たっただけじゃんっていう。
両方賭けて片方が当たっただけのことを「俺って冴えてる~」みたいにいってることを自覚してしまった。
言語化苦手なのが伝わってくる
私は幼い頃から言語化が苦手だった。親や同級生に「なぜ?」と聞かれる度にモゴモゴして、その反動なのか「自分はわかっている」と思い込む為に大好きな映画、漫画、音楽、ファッションといったカルチャーを吸収した。
大学卒業後入社した会社では広報、クリエイティブ全般を担当することになったが、ほとんどの人が上澄みで物事を判断しており、優秀とされているディレクターや営業の人選やチョイスは明らかにダサかった。
数年前だがローンチしたある物のデザインがクソのまま世に出てしまい、全く注目はされなかったけど「草」というツイートを見かけた時にはとても恥ずかしくなった。
先陣を切って事業を回す人にこそ「センス」を身に着けてほしい。
わかる人にはわかる。
で、自分は一を聞いて十を知ったようになって、合理的な判断ができていると思わないでほしい。
ここで重要なのはセンスがあるから優れているとかダサいから劣っているのではなく、あなたが「センス」を身につければもっとよくなる。うわべだけのかっこよさや、経歴が凄そうだから外部の人間に委託するみたいな誤った判断をする。
と長々と書いたけど全然言語化できなかったから、AIに諸々ぶちこんだらきちんと補足してくれた。
それを利用して営業とディレクターと飲みに行って酒の力を借りて話したら思いのほか好感触で、自分には対話が欠けていたなと反省。
彼らは彼らで常に人とコミュニケーションを取って全体を俯瞰して見ている。
でも決定権を握っているような人にセンスがある人は少ないの事実だし、そのセンスの無さが様々な企業の様々な炎上を生み出しているし、クソみたいなコンサルが信じられない位会社から金をもらっている。
10代がAI彼氏に対して感じる「低リスク」には、身体・事件的な安全性と、対人関係における精神的な安全性の両面で具体的な例が挙げられています。
現実の男性との交際で起こり得る、深刻な実害を避けられる点が強調されています。
人間相手では避けられない「気遣い」や「不快感」から解放される点にメリットを感じています。
このように、10代にとってAI彼氏は、「自分を傷つける要素(物理的・精神的)を徹底的に排除した、安全で制御可能な存在」として捉えられています。
https://anond.hatelabo.jp/20260218182215#
でも相手も声かけなかった。こういうのって他人の空似的なの心配してみんな同じ気持ちになるのか。
思ったのはばったり好きだった人を見かけた場合。
思い入れが無い相手ならちょっとでも違うと言われれば疑問点があってもまあいいかと引き下がれるけど、
好きな人だったらこれを逃したらもう二度と会えないと思って本当に他人か普通よりはしつこく食い下がってしまうかもしれない。
それが事案とみなされ警察沙汰にならないかどうか、不安なものだ。
世の中のストーカー案件にはそういう不憫なのも含まれているのではないか。
dorawiiより
男は放置で女ならあわよくばを狙っても「不憫」とか言ってるのがやばすぎる
https://anond.hatelabo.jp/20260218184016#
きもいのはこういうことを言語化して形にしちゃうことで、普通の人は既にやってるもんちゃう?
んでそのうち少数が事件扱いされて大部分が何事もなく終わり2割がなあなあで付き合い始める。
dorawiiより
前作以上に、要素の盛り込み具合がすごいから楽しい映画だと思うし、実際楽しかった。その上で思ったこと
※トゲトゲした感想
※以下ネタバレ含む
効果音やモチーフは嬉しかったけど、己がゲームのスーパーマリオギャラクシーで好きだと思う根幹の要素はほぼ無かった。飾りみたいにアイテムとかモチーフを出されて、「はいスーパーマリオギャラクシーですよ」と言われたような気がして、難しい顔になった。すごかったけど。
沢山の人でこれだけのクオリティのものを作ることは大変なんだと思った。
マリオギャラクシーのゲームのスタート画面で、タイトルの派手なサウンドがなった後、急に静かになって宇宙に投げ出されたような圧倒的な孤独を感じるところ、その合間で星の瞬きみたいな音が鳴っているのを聞くのがものすごく好きだった。その辺りにあのゲームの好きな要素が詰まっているんだけど、映画にはあまりなかったような気がする。この映画の宇宙はマリオギャラクシーの宇宙ではなくて、別作品の宇宙みたいだと思った。
タイトルで、ゲームのスタート画面と同じ音が出た時が感情のピークだったかもしれない。
ストーリーで虚無になりそうになると、ゲームで聞き覚えのある効果音やアイテム、bgmが出てきて引き戻されて、置いてかれて、引き戻されての繰り返しだった。
アイスボルケーノのbgmが飛行中の通過数秒だけ流れてたの笑った。全部そんな感じ。
なんか知らない設定も積まれるし
いや、映像化して一つの物語として組み直す過程で違う設定が付加されること自体はまああるあることなのですが………なんかこう上手く言語化ができない。知らないロゼッタだった。
ロゼッタの旅のエピソードとか、そこから来る彼女のキャラクター性の根幹に関わるものが結構己の中のイメージと違っていた。
母なる偉大さみたいな部分は、まあ同じか。己はマリオギャラクシーの1作目しかやっていないため2作目をちゃんとプレイしたら感想が変わるかもしれない。2をやってきます。
マジで正直最後何が起きたかあまり覚えていない。マリオギャラクシーというタイトルをつけるには別物すぎる。姉妹パワーでどうですか?
マリオ作品はそこまでしっかりとやっている訳ではなく、スーパーマリオギャラクシーが1番よくプレイした作品だったので、かなりトゲトゲした感想になってしまった。個人的には、作品ファンも初見の人もどちらも置いてけぼりの作品になってはいないだろうか?と感じた。まあ任天堂作品を深く知っているファンだったら、もっと気軽に笑って見ることができたのかもしれない。色々な人の感想も聞いてみたいと思う。
ちなみにマリオ作品でプレイしたことあるのは、64とキャッチ!タッチ!ヨッシーNEWスーパーマリオブラザーズとスーパーマリオギャラクシーのみ。映画1作目はそこまでトゲトゲせずに見ている。
最初にも言ったけど、盛り込み方は本当にすごい。それはゲームの作品ファンとして感謝している。映画を作ってくれてありがとう。
前回、九九の一の段が微ストレスって話をしたけど、声を大にしてまで言いたいことではない。
まあチラシの裏ってカテゴリつけて書いたわけだし、“微ストレス”って表現したわけだし。
微ストレス要素って、それをやるときにちょっと引っ掛かりは覚えるんだけど、その“引っ掛かり”を言語化するほどではないんだよな。
もし言語化したとしても声を大にするほどではないから広まらないし、作り手も深刻に考えず放置し続ける。
怒りとか不平不満って、それが言語化されたり周りで見聞きすることで熟成されやすいけど、微ストレス要素ってその域に達しない。
最近ちょっと微ストレスを感じたのが「爽」っていうアイスクリーム。
最近は暖かくなってきたのもあって、ちょっと清涼感のあるアイスに切り替えようと久々に「爽」と向き合ってみた。
で、改めて感じたのは、あいつカップの形状が四角いからちょっと食べにくいんだよな。
丸みのあるスプーンで食うんだから、カップも丸いほうがいいに決まってるのに「爽」は四角い。
じゃあ、なんで四角いのか気になって調べてみたんだけど、そっちのほうが目立つかららしい。
食う側の体験を多少損ねても、商業上そもそも手に取ってもらわなきゃ話にならんのだから、それをくだらん理由とはいわないけども。
ブランドとして認知されてる今の現状ならさすがに変えても良くないか、とも思ってしまう。
更に言うと、あれ手前の縁あたりに僅かな返しができてて、そこで引っ掛かるんだよ。
ユーザビリティの観点でみれば、「爽」のカップは明らかに課題が残ったまま放置されてると思う。
でも、そういうものも所詮は微ストレス要素でしかないから言語化すらされず、されても声が大きくないから見過ごされるんだよな。
どこらへんが縮小してるのだろうか
言語化するとすれば、BeReal世代(笑)とかいう分かりやすいネタに根拠の見えない曖昧な所感…のくせにマジレスをしてる、という流れよな
これが同格だと思ってるのは頭いかれてるって思われるよ
知っていること。
言語化できること。
抽象化できること。
それっぽく批評できること。
構造を整理できること。
かつては、それだけで飯が食えた。
だが今は違う。
しかも、そこそこの精度で。
「何を知っているか」ではない。
何を背負っているのか。
何に身体を張っているのか。
何を本当に変えようとしているのか。
何を残そうとしているのか。
そこに尽きる。
知識人が本物か偽物かなど、もはやどうでもいい。
本物の知識人であっても、ただ言葉を並べ、時代を論じ、既存の概念をこねくり回し、SNSで拍手を集めているだけなら、AI時代にはほとんど価値がない。
それはただの言語芸人であり、情報商材屋であり、時代のノイズでしかない。
彼らがやっていることは、
社会を前に進めているように見えて、
実際には社会の表面を撫でているだけだ。
画面の中で騒ぎ、
言葉の中で勝ち、
数年後には誰も覚えていない。
歴史でもない。
思想でもない。
ただの消費物だ。
彼らは土地を耕す。
水を読む。
季節を見る。
土を守る。
種をつなぐ。
食を支える。
これはAIにはできない。
だが、それでも最後に残るのは、土地に対する責任であり、身体性であり、継承であり、生活そのものだ。
そこには歴史がある。
蓄積がある。
失敗がある。
覚悟がある。
それに比べて、Claude Codeの使い方をnoteで売り、AI活用セミナーで小銭を稼ぎ、SNSで「これからは一人で会社が作れる」などと叫んでいる人間たちは何を残すのか。
何も残さない。
残るのは、AnthropicやOpenAIやGoogleの売上。
それだけだ。
AIを使っているつもりで、
自由になったつもりで、
未来を語っているつもりで、
ただ流行語を転がしているだけだ。
何に向き合うのか。
AIによって増幅された力を、
どこに投じるのか。
人間は何を守り、何を作り、何を受け継ぐのか。
そこを問わないAI論は、すべて浅い。
一人ユニコーン。
聞こえはいい。
だが、それが結局、
広告を増やし、
どうでもいいSaaSを増やし、
どうでもいい資料を増やし、
どうでもいい会議を減らすためのどうでもいいツールを増やすだけなら、
水道がある。
電気がある。
食料がある。
住居がある。
山がある。
川がある。
森がある。
物流がある。
介護がある。
教育がある。
治安がある。
災害がある。
共同体がある。
そこが決定的に間違っている。
世界は身体であり、土地であり、時間であり、関係であり、責任だ。
土を扱う人間。
食を作る人間。
家を建てる人間。
人を育てる人間。
場を作る人間。
他人の作ったプラットフォームの上で賢そうに振る舞ってきた人間は、
AIによってどんどん薄くなる。
なぜなら、彼らのやってきたことの大半は、
知識人は本物だろうが偽物だろうが、
その多くはすでに価値を失い始めている。
社会の深部に触れず、
どれだけ賢そうに見えても、
どれだけフォロワーがいても、
どれだけ金を稼いでいても、
3年後には忘れられる。
派手ではない。
バズらない。
高単価noteも売らない。
だが彼らは、確実に世界を支えている。
どれだけ早くコードを書けるかでも、
どれだけAIを使いこなせるかでも、
どれだけ賢そうな言葉を並べられるかでもない。
この世界のどの根に触れているのか。
その一点だ。
根に触れていない仕事は、軽い。
魅力的に見えるのは、
根を張る人間だ。