はてなキーワード: 虎の威を借るとは
今過熱している男女差別の言葉で言えば、「ミソジニー」とか「ミサンドリー」とか。
「女性蔑視」「男性蔑視」とか言えばいいのに、欧米(主にアメリカ)で使われている先進的な概念であるという使用者の意図が見え隠れして、いけ好かない。
男女差別を根絶する云々以前に、先進的な外国語を使いこなしている自分がその他の有象無象(異性・同性問わず)よりも「区別」されるべき、優遇されて然るべきという、周囲からしたら差別的な考えから臆面もなく使われている言葉のように見える。
だいたい男女差別のようなどんな人でも関わり合う社会的な問題に対して専門用語を特定の人にしか分からないように使う時点で、専門家以外の問題への理解を拒絶していて、本質的な問題解決そのものを否定している行為だろう。一部の有識者で決めたことに従わせればいい、とでも思っていそうだ。
先進国家からの輸入という考え方そのものが、二流・三流の劣等国根性に由来する「虎の威を借る狐」そのものなのだけれども、当人たちは気付いているのかいないのか。
→あなたは努力しましたか?女性のアドバイスを聞き入れて最低限の清潔感を身につけていますか?失礼な態度を取って女性蔑視をしていませんか?女性の気持ちをちゃんと汲んでいますか?嫌がられてるのにそれに気付かずに執拗に付き纏っていませんか?セックスのことばかり考えて目の前の女性が全く見えてないのではないですか?
→あなたは努力しましたか?勉強が苦手だからとずっと学ぶことから逃げてきた結果ではありませんか?大学で専門性を身につけていれば職にあぶれることなんてありません。転職をするためにスキルを身につけましたか?コミュ障だからって面接の練習をサボっていませんか?現場職は汚れるし疲れるから嫌だと甘えていませんか?
→健康に気を遣った食生活をしていますか?普段からコンビニ弁当や揚げ物、ラーメンばかり食べていませんか?男も家事は余裕でできると述べていたのに、いつまでも食生活は歪んだままで碌に自炊もできない男が大半であることは自覚していますか?自分でセルフネグレクトをしているのに他人に改善してもらおうとするのは男特有の横暴ということは理解できますか?
→あなたは肉体労働していませんよね?あなたがしているのはネットでの女叩きだけですよね?本当に自分の身体で稼いでいる人たちはとても忙しく働かれているので、女叩きする暇などないのですよ。彼らの功績と彼らの苦しみをあなたが代弁するのは傲慢ではありませんか?自分に自問してみてほしいのですが、あなたは虎の威を借る狐どころか、狐と比べることも失礼なゴキブリのような存在ではありませんか?
私はネットで女叩きをしていません。フルリモートで働いているので余裕があります。
→公共の場で子供も目にするような環境で楽しんでいるからではありませんか?世界でも街がここまでポルノに溢れている国は他にありませんよ?女性の性的消費をするなとは言っておらず、ゾーニングをして適切に楽しめとフェミニストの大半はそう言っているだけなのですが、なぜ理解できないのですか?いざ指摘されると、なぜ「これはエロくないから」と無理筋の言い訳をして逃れようとするのですか?
「別に男の稼ぎに頼ってないし?虎の威を借る狐みたいなことしてないし?アップデート済の素晴らしい夫婦だし?」みたいな態度のフェミニストママたちが多いけど実際振り返ると若い頃なんて、行き遅れとか彼氏なしは恥ずかしいとか男にモテてうまく波に乗って結婚して勝ち組になろうと必死こいてて、その過程でその波に乗らない・乗れない女性をバカにしてたのは往々にしてあるはずなのにそれを反省してる人がいないんだよね。
言葉や態度に出してたかは別にしてそういう価値観を内面化してた人は多いはずなのにそれに対する反省なしに、急に手のひら返して連帯だ〜!とか言って寄ってきたらそりゃ気持ち悪いでしょって思う。
股ゆるセックス女がよ、
周りに流されて必死こいて男探して、結婚しない女を見下して結婚して波に乗れた、これで皆と一緒だから差別されない!と安堵しておきながら
男の配偶者や母親という立場になって嫌な思いした途端にフェミニズム!シスターフッド!独身既婚も関係ない!手を取り合いましょう!は草だわ
そういう世の中で人生送らせてやりてえって思って子ども産んだんだろ?子どもにも同じ嫌な思いをさせてやるぞと意気込んでセックスしたんだろ?男とセックスする女になって男の金で右往左往する人生が幸せ!って納得したんだろ?
幸せな結婚!男が良かったんじゃない!この人が良かったの!パートナー!人生の仲間!とかふわふわしたこと語ってうちら夫婦はアップデート済!みたいな空気出してんのもきっっもちわるい
自分が都合の良い時だけ男のかさきて虎の威を借る狐みたいことしてるなクソ女で都合悪いと悲劇のヒロインぶってるバカ女でしたと懺悔してからフェミニズムを語れ
子持ち既婚者の言うシスターフッドや手を取り合い助け合おうは助け合う気なんかねえんだよ
男に嫌気が差してきたから独身女を都合よく利用したいだけなの見え見えなんだよ気持ち悪い
更生した非行少年よりも非行に走らなかった人間のがまともだろうが
まともだと思われてえなら懺悔と禊してこい
X(旧Twitter)ではバカにされる存在と化した任天堂法務部連呼がはてブに蔓延っているのは何故か。
わからない。
任天堂法務部、もはやネットミームの枠を越えて「痛いイキリオタクが都合良く虎の威を借る存在」になっている気が。地元の怖いとされる先輩の名前を出して威嚇するヤンキーみたいになってる。
任天堂法務部、もはやネットミームの枠を越えて「痛いイキリオタクが都合良く虎の威を借る存在」になっている気が。地元の怖いとされる先輩の名前を出して威嚇するヤンキーみたいになってる。
https://x.com/_cannedbread/status/1749248805319664013?s=46&t=fb_3mpuAdWDzNqcOelQK4w
非常に長文なので誰も読まないかもしれないが、読んでいただければ幸い。
日本人の宗教批判は主にオウム神理教や創価学会あたりから根深くなったと自分は思っている。とにもかくにも「宗教はやばい」となり、それが「宗教的なものはやばい」となっているのではないか。たしかに新興宗教団体はやばかった。最近でも、自民党から膿となって出てきた旧統一教会の問題がある。
日本人全体で、なんとなく「宗教はやばい」というゆるやかな共通認識があると思う。
そこから「宗教について熱心に語る者は、なんとなく、やばい」とされていると思う。ごく少数の人間だけが宗教について深く調べる。多くは、ミイラ取りがミイラになることを恐れているとか、宗教的な人間とみなされることを怖がっていたり、単に無関心な可能性もある。
ほとんどの人は、まずその「ヤバい」「うさんくさい」「拝金主義」という外から見える性質に嫌悪感を感じているはずだ。実際に、古来から権力・権威・金銭などと結びつきが強いように思う。多くの人々に害を為すものは、それが宗教だろうがなんであろうが、どういう形をとっていようと敵対される。宗教に対するネガティブな意見は、おおよそこの表面に出てきた宗教のネガティブな部分についてのものが多いと思われる。
また「人型の何か偉そうにした超常の力を持ったジジイ」を幻視して「そんなやつがこの世界作ったわけないだろ」と直感的に思うのではないか。
宗教的なものがやばいの1つの例でいえば、ガチのドルオタはキモいというものがある。キモいというのは比喩的表現で、ドルオタクラスタの方には申し訳ない表現だが、周りからは理解不能なのである。アイドルという神を信仰することで「生きがい」となして自分の人生を全うしていく。しかしひとたびその信仰の前提が破壊されれば、一瞬にして生きがいを喪失する。
アイドルの推し活は「きわめて宗教的だ」と半ば冗談めいて表現されることが多いが、比喩でなくそのまま宗教といっても過言ではない。仮に江戸時代に今のアイドルの状態を維持可能な状態で放り込めることができるとすれば、瞬く間に江戸幕府を牛耳ることができるだろう。実際BTS外交などと言われるほどアイドルは脅威的な潜在能力を持っている。一向宗など目ではない。江戸の民たちはアイドルの存在を知覚することで、それに畏怖し、夢を見ることができ、人生に生きる意味を見出しやすくなることだろう。本居宣長も、古事記伝にて「それはさておいても◯◯ちゃんのかわゆしこと尊し」などと書くかもしれない。知らんけど。
宗教のはじまりはアニミズムだという。何か神聖視せざるを得ないものを発見しそれに畏怖し感動することで、その圧倒的な偉大さを見て、人はそれを「神」と名付けたようだ。
日本では現状「科学信仰」と「常識信仰」が主流であると思う(これは自分の主観による)。「科学的な権威がありさえすれば信用する」だとか「よく知れ渡っているから信用する」といったものだ。「長いものには巻かれろ」という日和見主義的な発想がそこにあるように見える。
そもそも「信じる」とは「実際に本当にあるかどうかわからないが『ある』と信じる」ことにある。
自分には本当にあるかどうかよくわからないものを『本当にある』と思い込むことを信じるという。そういう行為には、根拠など無いのではないか。少し古いが「アイドルはうんちしない」などがそうだ。
宗教が必要かどうかは置いておいて、その発生過程や宗教が果たしてきた役割は、歴史を学習すれば誰でもその関連性には嫌でも気付くだろう(重要性は別かもしれないが)。人は「たかが宗教ごとき」で人を殺し合い、憎み恨み、人生を捧げたり、幸せになったり、正しく生きようと努力したり、救われてきた。さまざまな血を流してきたのであった。これは事実である。現在の今の自分にとって宗教は全然必要でないと感じていたとしても、その自分が存在する羽目になった基盤に宗教がある。一体全体どうしてこんなものが人類の中で大きな役目を持つようになったのか。
真に必要でないのであれば、なぜこの世から抹消できないのか。たとえばガラケーは抹消されつつある。必要でなくなったからだ。しかし宗教はどうか。消せども消せども名を変えて復活しているように思う。
科学的であると自負する人であっても、古来から続く伝統的な宗教っぽいものをなんとなく忌避していて、その拝金主義的傾向や宗教の政治的利用による人間支配を見て、なんとなく嫌悪しているのではないか。
また「宗教が必要かどうか」を論じるとき、「実際になくせるかどうか」のその現実性について論じられることは少ない。宗教がなくなれば代わりのものが出てくるのみである。名を変えたそれが絶対視される。
実際にとりあえず「宗教は必要ないもの」と考えて、この世から排除することにしてみよう。つまりそれは逆に言えば「信教の自由」の剥奪である。仏教を信じてはならない、キリスト教を信じてはならないとされる。
ありとあらゆる宗教的なものは不要なので排除されなければならないとする。しかし、必要か、不要か。それは誰にとって必要なのか、誰にとって不要なのか。
宗教と宗教でないものについて、どこで、誰が、どのように、なんの権限で線を引くのか。これはもしかすると権力闘争の始まりかもしれない。受容するか・弾圧するかのどちらかを、ある人間の主観で決めることができるということほど恐ろしいものはない。異端審問のラベリング(【十分科学的でない】というラベル)を受けて生きなければいけない世の中は厳しいものになるだろう。反ワクチン派・反知性主義者が実際にそうした世の中を生きている。われわれから見れば彼らは狂っているが、彼らから見ればわれわれが狂っているのである。
宗教と科学はなんの根拠もなく二項対立されがちだが、これは一神教的な態度ではないだろうか。
つまり科学的であればあるほど宗教的でなくなるはずだという根拠のない「思い込み」があるのかもしれない。
いったいなぜ、科学的であることが正しいのだろうか。いったいなぜ、論理的であることが正しいのだろうか。これは唯物論的な立場である。いったんそういうことにしているという、あくまで仮説である。そのように考えるとうまくいっているだけなのではないか。
そして、自分にとって宗教が必要ないからといって、他人にとっても同様に必要ないとは限らない。つまり全体としては「まだ必要」というのが答えになると思う。
それから自分は、ロジカルシンキングや科学最強説を強硬に主張してその他の考え方を排除しがちな陰キャはあまり好きではない(自分はロジカルシンキングそのものや科学的思考は好きだが、論理的であることが正しいことを信じることは論理的ではない、という前提があると思うからだ)。
彼らは科学や論理というアカデミックな権威のおこぼれを欲しており、いわば虎の威を借る狐のように見える。そうした人間は、自分よりも科学的で自分よりも論理的な人間が宗教的なものを崇拝しているのを目の当たりにしたとき、考え方を転向するかもしれない。これを改宗(conversion)というのだろう。
Visual Studio Code等さまざまなIDEに組み込んでコマンド操作できるテキストエディタがある。これはVimと呼ばれ、世の中で広く親しまれている。入門はやや難しいが、Must-Haveでおすすめである。これは宗教以上に必要である。
もちろんあなたはVimを導入しないという選択をとることもできる。
こう言うと自分は旧来の宗教観を引きずっているように思われるかもしれないが、一方で自分は古来から続いておりただの慣習となっていて合理的ではない規則を、ただ自分の強権を保とうとせんがために信じている老害もまた好きではない。彼らは自分の保身を考え、自らの世界観の安定させ、外に目を向けない人間である。生臭坊主と言われる。
自分は、そうした既製品の宗教や、新興宗教の教祖というただの詐欺師をそのまま信じてしまう人は愚かだと思うが、そういうことも含めて現実でありなぜそういった事象がでてきてしまうのか、なぜ彼らはそれに縋りつくはめになったのかを単に否定することは科学的ではないと思う。それは現実を観察できていない。少なくとも彼らにとって、彼らを救ってくれるのは科学ではなかったということなのだろう。
宗教はおもしろい。とりわけ理系で哲学や文学や詩や宗教やヒトや精神や心というものから縁遠かった者ほど、大人になってから初めて知ることで、そのおもしろさに気付きやすいかもしれない。