今日は、そのものズバリ「聖トマスの不信」とは何なのかを説明している箇所を紹介して参ります。
ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
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(前回の続き)
「イエス・キリスト復活伝説」を知らない人はいないであろうし、今でも世界の多くの国で復活祭が祝われている。
ところが、イエスが処刑されて数日たって「イエスは生きかえった」という噂が広まり、それを「事実」とするムードが盛りあがったとき、弟子の一人であるトマスが言った、「私は(イエスの)その手に(十字架に釘づけされた)釘あとを見、自分の指をその釘あと(の穴)にさし入れ、自分の手をそのわきにさし入れて(槍でつかれたあとを調べて)みなければ、決して信じない」と。――非常に面白いことに、聖書は、このトマスの態度を少しも非難していないのである。
彼らにとっては、そう思ったら、そういうのが当然なのである。
まして、「そんなことを言うやつは、イエスの弟子とは認めない」といったり、やれ不敬だの、不信仰だのといった罵詈讒謗を加えた、などという記録は全くなく、淡々と、これまたそう書いてあるだけである。
日本国中が「天皇は現人神だ」と言った。
もちろん新聞もそう書いた。
「お前はヤソだそうだが、どう思うか」
「私は天皇のところへ行って、直接『私は現人神』だという言葉を聞き、『疑うなら、この手にさわってみよ』といわれて、その手にさわり、その感触から、なるほどこれは人間ではない、やはり現人神だなあと感じない限り、そんなことは信じない」といったところで、「トマスの不信」が当然とされる社会なら、たとえ戦争中でも、これは不敬でなく、むしろ尊敬のはずである。
第一、「信じない」ということは、自分の状態を正直に表明しているのであっても、客観的に「天皇は現人神でない」と断言しているわけではない。
従ってそう私に質問した人間が、本当に天皇を現人神だと信じ、そう書いた新聞記者も本当にそう信じているなら、「なるほどね、そういう機会があるといいね」というだけのはずである。
ところが奇妙なことに、この「トマス的返答」が、何にもまして徹底的に彼らを怒らせるのである。
そしてその怒り方は、まことに壮烈なものであった。
だが怒るということ自体が、その人自身が内心では、天皇を現人神だと思っていない証拠である。
『百人斬り競争』でも同じであって、たとえ「出来る限りの資料を集めて、それを『釘あとに指をつっこむ』ぐらい徹底的に調べない限り事実とは信じない」とだれかがいったところで、これを事実だという人が本当に事実だと信じているなら、怒るはずはない。
「どうぞ調べて下さい。何なら資料を集めて、お手伝いしましょうか」というのが当然であって、生体実験をやってみろといったり、「あとは死あるのみ」といったはがきを送ったりすることはありえない。
こういうことは常に、結局は、事実だと強弁する人自身が、内心では事実と思っていない証拠にすぎないのである。
伝説というのは実に便利なものだから、「トマスの不信」の物語では、八日後に、トマスが弟子たちといっしょにいるところに、不意にイエスが出現するのである。
ところが面白いことに、前述のように弟子たちがトマスを非難しないだけでなく、イエスも彼を非難しないのである。
もちろん「お前のような奴は、弟子の資格がない。破門だ」などとはいわないで、いきなり手を差し出す。
「指をここ(の穴)に入れろ、手を見ろ、手をのばしてわきに入れろ……」といい、最後に有名な「見ずして信ずる者は幸いなり」という。
しかしこの言葉は、その証拠を見せて、その上でその本人が言った言葉で、証拠を提示しえない他の弟子たちが、「見ないで『事実』ということにしろ」と強制したことではない。
それは絶対にだれもしていないのであり、それをすることこそ絶対に許されないのである。
この「トマスの不信」という伝説は、宗教・文学・美術・思想史またユダヤ人の民族性といったあらゆる面から、常に論ぜられており、ドストエフスキーもその作品でこの「伝説」を取り上げている。
だがそういう議論は私には高級すぎるので、ここでは省くが、いずれにしても、「トマスの不信は当然であって、そう思ったらそう言って少しもかまわないだけでなく、そう思ったらそう言わねばならない。
そうでなければ嘘になる。
また彼がそう思ったということを非難する権利はだれにもない。
このことは『事実があったかなかったか』という事実論は、その人の思想・信条に関係はない」ということが当然の前提とされない限り、この伝説が生れてこないという事実も示している。
北ヴェトナム軍がユエで市民を生埋めにして虐殺した、と『サンデー毎日』編集次長の徳岡氏が書いておられる。
これが事実なら、それは徳岡氏の思想・信条とは関係なく事実だから、もし何らかの名目で氏を非難する者がいたら、その者の頭がおかしいといわねばなるまい。
これは『百人斬り競争』でも同じだし、「増原長官」の辞任問題(註)の一面も同じであろう。
(註)…防衛庁長官であった増原惠吉が昭和天皇への内奏において、昭和天皇から戴いたお言葉を新聞記者に漏らしたことがキッカケで天皇の政治利用と批判を浴びて辞任する羽目になった。その辞任の際、増原長官は「天皇陛下から国政に関する御発言があったという事実は一切ございません」と以前本人が新聞記者に話した内容を否定したことを指す。拙記事「聖トマスの不信【その1】「事実論」と「議論」の違い」参照
「あったこと」を「なかったこと」にすると、正直に「あった」といった人間を「嘘つき」にしなければならない。
そこである記者の話によれば彼を「捏造大臣ということにして」「記者団に虚偽の発表をした」ということにして、辞職させたそうだが、これが事実なら、実に「二重の虚偽」である。
そして「トマスの不信」を認めないと、人は必ずこの「二重の虚偽」に落ちていく。
(次回へ続く)
【引用元:ある異常体験者の偏見/聖トマスの不信/P137~】
なぜ、日本では「聖トマス」のような人間が、存在することを許されないのでしょうか。
私なりに、その原因と思われるものを幾つか愚考してみますと、
1.集団主義であること。
2.個人個人を律する明確な規範がないこと。
3.話し合いが全てに優先する社会であること。
あたりが原因じゃないだろうかと思います。
何しろ日本社会では、和が尊ばれますから、和を乱すような人間は嫌われます。
「空気読め(KY)」という言葉に代表されるように、同調圧力がよその社会に比べて強い。
そして、外国人のように、神との契約に基づく明確な規範を持っているわけではなく、自分を律する規範をはっきりと意識していないのも関係しているような気がします。
また、話し合いが絶対で、何でも話し合いで解決に持っていこうとするから、必然的に異論に対して許容度が低くなる。
内心で疑問に思っても、協調することが優先されてしまう。
そんなことが要因となって、日本においては「聖トマス」の存在が許されなくなってしまうのではないでしょうか。
これは集団主義の日本社会において、スムーズに物事が運ぶ要素となっているので、メリットもあります。
しかし、盾にも両面あるように、マイナス面もあるわけで。
「聖トマス」がいないが故に、戦前の日本は道を誤ったわけです。
異論を封じ、神がかり的になって破滅したのです。
この傾向は、戦前戦後通じて変わっていません。
それは、山本七平が指摘するように戦後の「百人斬り競争」を巡る報道からも明らかです。
ただ戦後は、戦前のように完全に口を封じられない分、マシになっているだけでしょう。
従って、本当に戦前の過ちを反省するとしたら、如何に「聖トマス」の存在を許容していくかという課題を認識し、そして取り組んでいく必要があるのではないでしょうか。
それこそが本当の反省だと思うのですが…。
さて、次回は、いよいよ天皇の政治利用について書かれた部分を紹介していくことになります。
ではまた。
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・「聖トマスの不信【その1】「事実論」と「議論」の違い
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