今回が、「聖トマスの不信」シリーズの最終回です。
(前回の続き)
ある異常体験者の偏見 (文春文庫)
(1988/08)
山本 七平
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あらゆる面から研究してイタイイタイ病の原因はカドミウムではないのではないか、と学者がいうと「国をあげて公害と戦っているのに何たることをいう。そんなヤツは資本家の手先ダーッ」ということになる。
あらゆる資料を検討すると「百人斬りは事実でないのではないか」というと「日中友好に邁進しているのに何たることをいう、そんなやつは、右翼と軍国主義者の手先ダーッ」ということになる。
いつもそういうことになる。
そして、たとえ誤った公害判決が出ても、無実の人間が処刑されても、これまた常に責任者という者がいない。
確かにいないであろう。
だれ一人、命令権も指揮権もないから。
そしてこれは常に、大は大なり、小は小なり、社会のあらゆる面で見られることであり、この論法で平和論をやると、まさに「軍隊語で語る平和論」になってくる。
一体なぜそうなるか。
理由はいろいろとあると思う。
しかしその中で最も大きなものの一つは、「トマスの不信」を表明することは、絶対にだれもおかすことのできない人間の基本的権利の一つだ、ということが認められないところにあるのではないだろうか。
そして最も重要なことは、「トマスの不信」を表明することは、絶対にその人の思想・主義・信条と関係ないということである。
たとえ彼が「自分の指をその釘あと(の穴)にさし入れ」ない限り云々……と言ったところで、彼は非難さるべき異端者でなく、聖トマスである。
道三と光秀は徳川時代にない名前だそうだが、同じ例を西欧にとるなら、ユダヤ教徒に絶対ない名前はカイン、キリスト教徒に絶対ない名はユダだといわれる。
トマスはそういう扱いをうけていないだけでなく、むしろ逆によき名とされる。
これはまた聞きの話なので、真偽のほどは知らぬが、エジソンの名のトマスは、その母が「トマスの如く徹底的に実証的な人間であれ」と願ってつけたのだそうである。
これは、エジソンの技師長で「世界で最初に電灯のスイッチをひねった」アプトンの娘さん、宣教師としてほぼ全生涯を日本で送ったアプトン女史が語ったことだそうである。
日本でも、トマスは聖トマスで、尊敬すべき名とされうるだろうが、戦争中、天皇に対して同じようなことをいったら、聖人にしてくれたろうか。
言うだけヤボとは、このことだろう。
もちろん、西欧でもアメリカでも、すべては理屈通りにはいっていまい。
「……は悪魔の手先……」といったポスターを毎晩はりに来る人間もいるのだから。
だが、これは、夜のひそかな行為であろう。
日本ではどうもこれが逆で、このポスターが公然と横行し、「トマスの不信」は、ひそひそと語られているのではないであろうか。
新聞には「”イタイイタイ病はほんとうにカドミウム中毒なのか”去年四月、日本衛生学会総会で提起され、はげしい論議を呼び起した問題が一年後の今月六、七日、札幌市で開かれた同総会で再燃した……そればかりか一時は『ごく一部の少数派』とみられていた懐疑派が次第に数をまして、今では決して少数派とはいえなくなった……」と記されている。
しかし親しい学者の話では、この少数意見と見えるものが、実は、潜在的多数意見であって、それが顕在化しただけだそうである。
もし事実なら、ポスターが横行して「トマスの不信」が秘かに語られたということかもしれない――せめて、この関係を逆転さすことができないのだろうか。
「トマスの不信」を表明する権利は、人間の基本的な権利である。
たとえトマスがその不信を表明したところで、それは異端でも、反逆でもなく、また非難さるべきことでもなく、彼はあくまでも聖トマスである。
国によっては「トマスの不信を表明する権利を守る」ことが、基本的人権を守ることであり、それが新聞の最も重要な任務の一つとされているそうだが、不信を表明するとすぐに新聞記者の名で脅迫状が来る国では、それは望むべくもないことかもしれぬ。
では一体どうすればよいのか、真剣に考うべきことであろう。
と同時に、「トマスの不信」が当然と考えられる国々では、その不信がいかに強烈に表明され、いわば「釘あとに指を入れる」といった徹底さと執拗さでその対象が究明されたからといって、それはその国の政治体制がガタガタになったということではない。
戦前の軍部も今の新聞も、どうもこのことが理解できないらしい。
このことはウォーターゲート事件の報道で強く感じられる。
これは非常に危険なことと思われるので、くどいようだが、最後にもう一度、この点を寓話的にくりかえしておこう。
戦争中、もし「天皇の手にさわって徹底的に調べて、なるほどこれは現人神だと納得しない限り、そんなことは信じない」といえば許すべからざる国賊・非国民であった。
だが、国賊・非国民だという人自身がそれを信じていなかった。
増原式(註)の二重の虚偽である。
(註)…拙記事『聖トマスの不信【その3】「天皇を政治利用してはならない」ということを「利用する」という型の二重の虚偽』参照のこと。
そしてこの状態は対象は変っても、今も同じと思われる。
一方トマスは「釘あとに指を入れ」云々といっても、そう思うならそう表明することは当然のこととされ、だれからも非難さえされず、あくまでも誠実な十二弟子の一人で、今に至るまで聖トマスである。
そしてこの状態もまた対象は変っても、今も同じように思われる。
「トマスの不信」を表明する権利は、絶対にだれもおかすことは出来ない、そして、おかすことが出来ないが故に、一方、プライヴァシーの権利も絶対に保護される。
そしてこの関係もまた日本では逆転していて、プライヴァシーは平然と侵害しておきながら、「トマスの不信」を表明すれば、あらゆる手段でこれを黙らせようとしているように見えるのである。
この関係も、逆転できないのであろうか。
(この章終了)
【引用元:ある異常体験者の偏見/聖トマスの不信/P148~】
なぜ、自らも信じてもいない「虚構」が絶対化され、それに対して「王様は裸なのではないか?」的疑問を呈することが、日本において、公の場ではばかられるのでしょうか?
私なりに、その理由を考えて見ますと、
1.集団主義であること。
2.形や礼を重視する国民性
3.話し合いに基づく「和」絶対という”規範”に縛られていること。
あたりが原因なのかなぁ…。
(う~ん、なかなか上手く表現できません)
ただ、今現在はネットと言うホンネを語れるツールが普及しているから、昔ならヒソヒソ語られるホンネが、広まり易くなっているのは間違いないでしょう。
そういう意味では、「聖トマスの不信」を語りやすい環境が整って来つつあるように思います。
ネットは匿名の世界なので、プライバシーの権利が自動的に保護され、ホンネを語る自由が保証されていますしね。
だから、プライバシーを侵害しながら、相手を黙らせるという従来の手段が通用しにくいのではないでしょうか。
ネットの匿名性を攻撃する人たちというのは、この「聖トマスの不信」を語られるのが嫌なんだろうな…なんてふと思う次第。
ただ、そういう環境が無くても、「聖トマスの不信」を表明する権利はおかすことが出来ないようにはならないものでしょうか?
仮にネットから匿名性が奪われたりしたら、元の木阿弥になるような気がしなくもない…かな?
相変わらずまとまりの無い文章で済みませんが、今日はこの辺で。
ではまた。
【関連記事】
・聖トマスの不信【その1】「事実論」と「議論」の違い
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