Category: ロコモーション
地元に帰ろう
明け方の三茶からの風景。新宿摩天楼方向。手前の太子堂には高校時代の友人の実家があったので、親御さんが不在の時は、時々集まって騒いだもんです。

こちらは渋谷方向、静止画だとわかりにくいのですが、高速道路の上を一晩中車が行き交っています。

1Q84の最初と最後に出てくる、あの渋滞と、青豆がミニスカートで越えた、フェンスや非常階段はこの先の池尻の手前ですね。
私が高校生の頃、中学の同級生だったTくんが、開通したばかりの高速下の246号線で、500ccのバイクで転倒、命を落としました。中3の時の運動会、徒競走の最速グループ、彼が一位で私が二位だったのです。走るのも死ぬのも速かった奴。
この首都高3号線、用賀から渋谷、六本木の先まで、歩道を歩く人の視界を遮り、排気ガスと騒音の渦。

日本の大都市の最悪の風景の一つです。
1964年にオリンピックが開かれていなかったら、首都高なんてものは出来なかったかもしれないし、今も日本橋からは、日本晴の青空が望めたかもしれません。
東京の住環境が良かったら、ますます人が集まっちゃうかな。
前夜も歩いた呑み屋街。何故か関西風の看板。

ホテルの朝食は予約していなかったので、朝飯処を探します。
朝ラーの店というか、朝までやってるラーメン屋さん多数。
ここなんか朝8時までやってる居酒屋ですよ。

そんな中、朝5時から開いている食堂を発見。と言うか朝5時からは朝食メニューで、実際は24時間営業かも。

東北では見かけないチェーン店のようです、やよい軒。
ピンぼけの目玉焼き定食、420円。

案の定、大声で会話する酔っぱらい集団多し。
ネットで調べたら、あのなでしこリーグのメインスポンサー、プレナスがこの食堂を展開する会社でした。

食呑み生活的には便利そうな街です。

いったんホテルに戻り、出発です。

現在の世田谷線三軒茶屋駅は、こんなビルの下にありました。

ウィキから引用すると、玉川線(たまがわせん)は、東京都渋谷区の渋谷駅と、世田谷区の二子玉川園駅(現二子玉川駅)、および途中の世田谷区の三軒茶屋駅と下高井戸駅を結んでいた、東京急行電鉄(東急)の鉄道路線(軌道線)である。通称「玉電」「玉川電車」。
1907年(明治40年)に道玄坂上を起点に部分開業後、主に玉川通り(国道246号)を中心に砂利輸送、地域輸送を行っていた。路線の延伸、支線の開設、譲渡を経て、1969年(昭和44年)に、一部区間(現在の世田谷線)を除いて廃止された。
新玉川線が開通したのは1977年ですから、渋谷二子玉間は、8年間代行バスだったんですね。
SUICAが使える自動改札まであります、当然か。

レンガ造りの駅とはアンバランスなデザインの車両。

ワンマンバスと同じ、支払機の箱が微妙な角度で設置してあります。

三茶と下高井戸以外は、これで払うようです。もちろんSUICAも使えます。
やはり環七の踏切では一旦停止、赤信号待ちでした。

昔よく行ったボロ市の上町を通過。
降りるときはどこにSUICAをタッチするのか、ドキドキしてましたが、それは不要。
140円の均一料金、乗るときだけのタッチでOKだったのです。
山下で下車、小田急線に乗り換えます。
昔の面影もない豪徳寺駅。すぐ隣にあるのに、全く異なる駅名。

複々線で、まるで新幹線の駅です。
駅だけかと思ったら、その先もずっと複々線、東京はどれだけの労働力を中央に必要としているのか。

祖師ヶ谷大蔵駅で降ります。ここも、新幹線の駅そっくり。
住所は祖師谷ですが、駅は祖師ヶ谷大蔵。

榴岡と榴ヶ岡、一関と一ノ関、原町と原ノ町に似ています。駅名は様々な政治的圧力で決まるので、いったん決めると、なかなか変えられないんですね。

昔、良く会社帰りの父を迎えに来た駅、子供時代の私にとって、駅といえば、この祖師ケ谷大蔵でした。
ここも全く昔の面影はありません。

かつては典型的な私鉄の駅、地上で相対式、改札口は上り側だけで、下りホームからは跨線橋。
確か前から三両目の二つ目のドアから降りると、ちょうど階段の前でした。

そんな故郷の街を散歩するのが、今回の目的でした。

こちらは渋谷方向、静止画だとわかりにくいのですが、高速道路の上を一晩中車が行き交っています。

1Q84の最初と最後に出てくる、あの渋滞と、青豆がミニスカートで越えた、フェンスや非常階段はこの先の池尻の手前ですね。
私が高校生の頃、中学の同級生だったTくんが、開通したばかりの高速下の246号線で、500ccのバイクで転倒、命を落としました。中3の時の運動会、徒競走の最速グループ、彼が一位で私が二位だったのです。走るのも死ぬのも速かった奴。
この首都高3号線、用賀から渋谷、六本木の先まで、歩道を歩く人の視界を遮り、排気ガスと騒音の渦。

日本の大都市の最悪の風景の一つです。
1964年にオリンピックが開かれていなかったら、首都高なんてものは出来なかったかもしれないし、今も日本橋からは、日本晴の青空が望めたかもしれません。
東京の住環境が良かったら、ますます人が集まっちゃうかな。
前夜も歩いた呑み屋街。何故か関西風の看板。

ホテルの朝食は予約していなかったので、朝飯処を探します。
朝ラーの店というか、朝までやってるラーメン屋さん多数。
ここなんか朝8時までやってる居酒屋ですよ。

そんな中、朝5時から開いている食堂を発見。と言うか朝5時からは朝食メニューで、実際は24時間営業かも。

東北では見かけないチェーン店のようです、やよい軒。
ピンぼけの目玉焼き定食、420円。

案の定、大声で会話する酔っぱらい集団多し。
ネットで調べたら、あのなでしこリーグのメインスポンサー、プレナスがこの食堂を展開する会社でした。

食呑み生活的には便利そうな街です。

いったんホテルに戻り、出発です。

現在の世田谷線三軒茶屋駅は、こんなビルの下にありました。

ウィキから引用すると、玉川線(たまがわせん)は、東京都渋谷区の渋谷駅と、世田谷区の二子玉川園駅(現二子玉川駅)、および途中の世田谷区の三軒茶屋駅と下高井戸駅を結んでいた、東京急行電鉄(東急)の鉄道路線(軌道線)である。通称「玉電」「玉川電車」。
1907年(明治40年)に道玄坂上を起点に部分開業後、主に玉川通り(国道246号)を中心に砂利輸送、地域輸送を行っていた。路線の延伸、支線の開設、譲渡を経て、1969年(昭和44年)に、一部区間(現在の世田谷線)を除いて廃止された。
新玉川線が開通したのは1977年ですから、渋谷二子玉間は、8年間代行バスだったんですね。
SUICAが使える自動改札まであります、当然か。

レンガ造りの駅とはアンバランスなデザインの車両。

ワンマンバスと同じ、支払機の箱が微妙な角度で設置してあります。

三茶と下高井戸以外は、これで払うようです。もちろんSUICAも使えます。
やはり環七の踏切では一旦停止、赤信号待ちでした。

昔よく行ったボロ市の上町を通過。
降りるときはどこにSUICAをタッチするのか、ドキドキしてましたが、それは不要。
140円の均一料金、乗るときだけのタッチでOKだったのです。
山下で下車、小田急線に乗り換えます。
昔の面影もない豪徳寺駅。すぐ隣にあるのに、全く異なる駅名。

複々線で、まるで新幹線の駅です。
駅だけかと思ったら、その先もずっと複々線、東京はどれだけの労働力を中央に必要としているのか。

祖師ヶ谷大蔵駅で降ります。ここも、新幹線の駅そっくり。
住所は祖師谷ですが、駅は祖師ヶ谷大蔵。

榴岡と榴ヶ岡、一関と一ノ関、原町と原ノ町に似ています。駅名は様々な政治的圧力で決まるので、いったん決めると、なかなか変えられないんですね。

昔、良く会社帰りの父を迎えに来た駅、子供時代の私にとって、駅といえば、この祖師ケ谷大蔵でした。
ここも全く昔の面影はありません。

かつては典型的な私鉄の駅、地上で相対式、改札口は上り側だけで、下りホームからは跨線橋。
確か前から三両目の二つ目のドアから降りると、ちょうど階段の前でした。

そんな故郷の街を散歩するのが、今回の目的でした。
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Comments
東京が故郷でしたね
風写さんへ
地元に帰ろう、が東京というのは、地方出身者として、なんか不思議な感じ。
串揚げといえば、新宿小田急ハルク地下?にあった五味八珍を思い出します。
ん十年前の話です。
世田谷線の車両、フランスの路面電車を持ってきた、と力説するテニスの先輩がいます。
低ステップと3人座れない微妙な広さの席が、その証拠だというのですが…
地元に帰ろう、が東京というのは、地方出身者として、なんか不思議な感じ。
串揚げといえば、新宿小田急ハルク地下?にあった五味八珍を思い出します。
ん十年前の話です。
世田谷線の車両、フランスの路面電車を持ってきた、と力説するテニスの先輩がいます。
低ステップと3人座れない微妙な広さの席が、その証拠だというのですが…
kazuさんへ
はい、そうなんです。ちょっといやらしい書き方になっちゃいますね。
高校に入るまでが祖師谷、社会人3年目に独立するまでが北烏山です。
高校は新宿、大学は調布だったので、ずっと自宅通学です。
当時の祖師谷では、ザリガニ、ガマガエルのオタマジャクシ、クワガタ、なんでも取れましたし、団地以外は下水もありませんでしたので、通学路の田畑の脇には肥溜めがありました。
今回気づいたのですが、世田谷線の軌間、京王線と同じで広いですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8C%E9%96%93
高校に入るまでが祖師谷、社会人3年目に独立するまでが北烏山です。
高校は新宿、大学は調布だったので、ずっと自宅通学です。
当時の祖師谷では、ザリガニ、ガマガエルのオタマジャクシ、クワガタ、なんでも取れましたし、団地以外は下水もありませんでしたので、通学路の田畑の脇には肥溜めがありました。
今回気づいたのですが、世田谷線の軌間、京王線と同じで広いですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8C%E9%96%93