Category: 博物芸術
ミロ見ろ モネもね
今日で、このブログを立ちあげてからちょうど3年になりました。疾風の通り径開始からは5年半。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
JR山崎駅。
ちょうど大阪から京都に入る府境の駅ですが、駅前に待庵という可愛らしい建物。
どうもこの奥に、日本に三ヶ所しかない国宝の茶室があるそうなんです。利休作。利久ではありません。
ネットで検索すると、東北にもゴロゴロ有りそうな建物なんですが、秀吉が造らせた数寄屋造りの原型だそうです。そばに寄ることも出来ませんでした。
山崎といえば、本能寺の変のあと、秀吉と光秀が戦った場所。
往復一時間半ほど歩けば、此処を取れば天下をとれると言われた天王山に行けます。
もし此処に天王山がなければ、「天下分け目の天王山」と言う政治やスポーツの世界での常套句は生まれなかったわけです。
これが山本山だったら、「天下分け目の山本山」になってたわけですが。
ならんだろうな。
山崎といえば、サントリーウイスキーの醸造所。
スコットランドでも評価される銘酒の故郷なんですが、目的地は違うんです。
どちらかと言えば、ニッカ系。
アサヒビールが所有する、大山崎山荘美術館。
それはそれは魅力的な山荘なんですね。入口を入ると暖炉があったり、まるでイングランドの田舎にあるパブにそっくり。内部の撮影はできません。
山荘内の居間で上映している、MBS制作のビデオを観るのが一番わかり易いのですが、大正から昭和初期、実業家の加賀正太郎という人が、天王山の中腹を切り開いて建てた英国風の別荘がベースになっています。
二階には、多くのバーナード・リーチや富本憲吉の陶器、ミロの作品も展示されています。
そして、おそらく此処に別荘を建てた理由の一つが二階からの景色です。
ダイニングに面したバルコニーは、大きなパーティーも開ける広さ。
隣のお寺、宝積寺の宝塔が眺められたりもするのですが、
大山崎が見渡せるのです。桂川と、宇治川、木津川の合流点。川下は淀川です。
例によってウィキペディアから。
1888年、大阪船場の株相場師の息子として生まれた加賀正太郎は、現在の一橋大学を卒業するとイギリスを中心に欧州へ遊学し、アルプスの山々に登頂した日本人のさきがけとなった。
日本帰国後は証券会社(加賀証券)を設立したほか、1934年には壽屋で山崎蒸溜所を立ち上げたもののオーナーとの路線対立から独自でウイスキー製造に乗り出した竹鶴政孝を支援して大日本果汁(後のニッカウヰスキー)創立に参加するなど、イギリスから持ち帰ったモダンな生活様式を日本に定着させようとした。
やはりサントリーにも絡んでいるんですね。なんでもスイスアルプスの、ユングフラウに初めて登頂した日本人だそうです。
彼は天王山山麓の淀川の流れを見下ろすこの場所に、テムズ川を見下ろすウィンザー城の風景を重ねあわせ、ここに山荘を作りたいと考えた。1912年に建設に着手、1915年には最初の木造の望楼「白雲楼」が、さらに増築を重ね1932年には現在見る本館である「霽景楼(せいけいろう)」が完成した。
庭園の奥に立つのが、白雲楼、彼は此処で暮らしながら、霽景楼の建築を取り仕切ったそうです。
これは構造は鉄筋コンクリート造であったが、外観は木の柱を露出させその間にレンガ壁を組んだハーフティンバー工法で、淀川を見渡すテラスが備えられていた。内部はがっしりとしたイギリス風の調度がそなえられていた。加賀は併設された温室でイギリス時代以来夢中だった洋蘭の研究や品種改良を進め、『蘭花譜』という図録を出版し、1954年に死去した。
現在は、建物の前後に、安藤忠雄設計の別の建築物が接続しており、複雑な形状になっています。
この地中に、地中の宝石箱という、展示スペースがあり、モネの睡蓮や、ゴッホ、ルノワール、岸田劉生、梅原龍三郎の名画があるのです。
反対側には、夢の箱。こちらも展示スペースです。
山荘は後に加賀家の手を離れ、様々な所有者の手に移り一時は会員制レストランなどに再利用されるが年々老朽化が進み、バブル経済末期には建設業者が買収し、一帯を更地としマンションを建てる開発計画を立てた。天王山の横腹に大きなマンション群が林立し景観が一変することに反対する地元住民は山荘の価値を見直し、山荘と周囲の森林の保全を訴えた。これが大山崎町や京都府を動かし、さらに当時の知事荒巻禎一の友人だったアサヒビールの社長樋口廣太郎が知事の申し出に応じて企業メセナ活動として保存に協力することになった。アサヒビールは加賀の作ったニッカウヰスキーを子会社にしており、さらにアサヒビール初代社長の山本為三郎と加賀正太郎は交友があり、両者の縁が深かったことが幸いした。
こうして土地は京都府や大山崎町などが業者から買い取り、山荘はアサヒビール運営の山本コレクションの美術館となることが決まり、後には安藤忠雄が建築設計・監修に選ばれた。山荘の建物や内装は建設当時のクラシックな姿に修復される一方、山荘に付属する形で廊下で結ばれたシリンダー状の新展示室は、周囲の自然環境や山荘の落ち着いた調和を乱さぬよう、地下に計画された。階段状の廊下はガラス張りで光があふれ、階段を下りた薄暗い地下にある展示室は光量を落とされ静謐な空間となっている。円形シリンダーの中央には四角い部屋が設けられ、天窓から自然光が降り注ぐ。
保存・修復された山荘は、1996年に美術館として開館した。以来多くの観光客を受け入れている。
実業家の山本為三郎は1893年に大阪で生まれ、後にホテル経営(後のリーガロイヤルホテル)をまとめる一方、芸術家の支援も行った。特に日本民芸運動とは関係が深く、それにまつわる作家の美術作品や、彼らが手本とした古い生活雑器、古美術品の収集も行い、大阪の北の三国にはこれらの作品を収めた邸宅・三国荘があった。また近現代の西洋美術なども収集しており、これが美術館のもう一つのコレクションの柱となっている。
ほかにも幾つか建物がありました。
出入口はちょっと鎌倉の隧道を思い出しました。
山崎駅から無料の送迎バスが出ていますが、歩いても10分弱です。詳しくはこちら。
今日のおまけ。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
JR山崎駅。
ちょうど大阪から京都に入る府境の駅ですが、駅前に待庵という可愛らしい建物。
どうもこの奥に、日本に三ヶ所しかない国宝の茶室があるそうなんです。利休作。利久ではありません。
ネットで検索すると、東北にもゴロゴロ有りそうな建物なんですが、秀吉が造らせた数寄屋造りの原型だそうです。そばに寄ることも出来ませんでした。
山崎といえば、本能寺の変のあと、秀吉と光秀が戦った場所。
往復一時間半ほど歩けば、此処を取れば天下をとれると言われた天王山に行けます。
もし此処に天王山がなければ、「天下分け目の天王山」と言う政治やスポーツの世界での常套句は生まれなかったわけです。
これが山本山だったら、「天下分け目の山本山」になってたわけですが。
ならんだろうな。
山崎といえば、サントリーウイスキーの醸造所。
スコットランドでも評価される銘酒の故郷なんですが、目的地は違うんです。
どちらかと言えば、ニッカ系。
アサヒビールが所有する、大山崎山荘美術館。
それはそれは魅力的な山荘なんですね。入口を入ると暖炉があったり、まるでイングランドの田舎にあるパブにそっくり。内部の撮影はできません。
山荘内の居間で上映している、MBS制作のビデオを観るのが一番わかり易いのですが、大正から昭和初期、実業家の加賀正太郎という人が、天王山の中腹を切り開いて建てた英国風の別荘がベースになっています。
二階には、多くのバーナード・リーチや富本憲吉の陶器、ミロの作品も展示されています。
そして、おそらく此処に別荘を建てた理由の一つが二階からの景色です。
ダイニングに面したバルコニーは、大きなパーティーも開ける広さ。
隣のお寺、宝積寺の宝塔が眺められたりもするのですが、
大山崎が見渡せるのです。桂川と、宇治川、木津川の合流点。川下は淀川です。
例によってウィキペディアから。
1888年、大阪船場の株相場師の息子として生まれた加賀正太郎は、現在の一橋大学を卒業するとイギリスを中心に欧州へ遊学し、アルプスの山々に登頂した日本人のさきがけとなった。
日本帰国後は証券会社(加賀証券)を設立したほか、1934年には壽屋で山崎蒸溜所を立ち上げたもののオーナーとの路線対立から独自でウイスキー製造に乗り出した竹鶴政孝を支援して大日本果汁(後のニッカウヰスキー)創立に参加するなど、イギリスから持ち帰ったモダンな生活様式を日本に定着させようとした。
やはりサントリーにも絡んでいるんですね。なんでもスイスアルプスの、ユングフラウに初めて登頂した日本人だそうです。
彼は天王山山麓の淀川の流れを見下ろすこの場所に、テムズ川を見下ろすウィンザー城の風景を重ねあわせ、ここに山荘を作りたいと考えた。1912年に建設に着手、1915年には最初の木造の望楼「白雲楼」が、さらに増築を重ね1932年には現在見る本館である「霽景楼(せいけいろう)」が完成した。
庭園の奥に立つのが、白雲楼、彼は此処で暮らしながら、霽景楼の建築を取り仕切ったそうです。
これは構造は鉄筋コンクリート造であったが、外観は木の柱を露出させその間にレンガ壁を組んだハーフティンバー工法で、淀川を見渡すテラスが備えられていた。内部はがっしりとしたイギリス風の調度がそなえられていた。加賀は併設された温室でイギリス時代以来夢中だった洋蘭の研究や品種改良を進め、『蘭花譜』という図録を出版し、1954年に死去した。
現在は、建物の前後に、安藤忠雄設計の別の建築物が接続しており、複雑な形状になっています。
この地中に、地中の宝石箱という、展示スペースがあり、モネの睡蓮や、ゴッホ、ルノワール、岸田劉生、梅原龍三郎の名画があるのです。
反対側には、夢の箱。こちらも展示スペースです。
山荘は後に加賀家の手を離れ、様々な所有者の手に移り一時は会員制レストランなどに再利用されるが年々老朽化が進み、バブル経済末期には建設業者が買収し、一帯を更地としマンションを建てる開発計画を立てた。天王山の横腹に大きなマンション群が林立し景観が一変することに反対する地元住民は山荘の価値を見直し、山荘と周囲の森林の保全を訴えた。これが大山崎町や京都府を動かし、さらに当時の知事荒巻禎一の友人だったアサヒビールの社長樋口廣太郎が知事の申し出に応じて企業メセナ活動として保存に協力することになった。アサヒビールは加賀の作ったニッカウヰスキーを子会社にしており、さらにアサヒビール初代社長の山本為三郎と加賀正太郎は交友があり、両者の縁が深かったことが幸いした。
こうして土地は京都府や大山崎町などが業者から買い取り、山荘はアサヒビール運営の山本コレクションの美術館となることが決まり、後には安藤忠雄が建築設計・監修に選ばれた。山荘の建物や内装は建設当時のクラシックな姿に修復される一方、山荘に付属する形で廊下で結ばれたシリンダー状の新展示室は、周囲の自然環境や山荘の落ち着いた調和を乱さぬよう、地下に計画された。階段状の廊下はガラス張りで光があふれ、階段を下りた薄暗い地下にある展示室は光量を落とされ静謐な空間となっている。円形シリンダーの中央には四角い部屋が設けられ、天窓から自然光が降り注ぐ。
保存・修復された山荘は、1996年に美術館として開館した。以来多くの観光客を受け入れている。
実業家の山本為三郎は1893年に大阪で生まれ、後にホテル経営(後のリーガロイヤルホテル)をまとめる一方、芸術家の支援も行った。特に日本民芸運動とは関係が深く、それにまつわる作家の美術作品や、彼らが手本とした古い生活雑器、古美術品の収集も行い、大阪の北の三国にはこれらの作品を収めた邸宅・三国荘があった。また近現代の西洋美術なども収集しており、これが美術館のもう一つのコレクションの柱となっている。
ほかにも幾つか建物がありました。
出入口はちょっと鎌倉の隧道を思い出しました。
山崎駅から無料の送迎バスが出ていますが、歩いても10分弱です。詳しくはこちら。
今日のおまけ。
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