はてなキーワード: 新選組とは
先見の明があった。
というより、他党の視野が狭過ぎる。少し先の未来すら読めない。
れいわ新選組は党勢さえしっかりとしていれば今回の選挙で中道改革連合のお株をある程度奪えたような気がしてただけに、非常に勿体ない。
立憲や共産の迷走を尻目に伸びていく新しい左派政党ではなく徹頭徹尾山本太郎と烏合の衆のままで終わってしまった。
あまり好きな政党ではないが、仮にこのまま求心力を失い空中分解するようであれば中々に惜しい話ではある。立憲や共産が顧みなかった弱者の最後の砦が消えるというのは今の日本の議会制民主主義にとって重い。
「みんなで我慢すれば世の中良くなる」と思ってんのかしらないけど、増税指向だったり、
そのくせ、何故か日経平均株価を政治に対する評価の現れと見ていたり
なんていうか
善意のつもりで、結果的にネオリベをアシストするようなリベラル、しか残らなくなるのが
とてもツライ。
れいわ新選組・山本太郎代表が議員辞職を表明 健康上の理由明かす「 血液のがん、その一歩手前にいます」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4b115e2cc611ba705c5e500ed22c6f0f78a532d4
木下 2010年代半ば頃は、BuzzFeed JapanやHuffPostのようなメディアがリベラルな記事を取り上げて、ネットでの影響力も強かった。でも、実はそれが届いたのは、いわゆる中央線沿いの大卒の高等遊民がほとんど。全国各地の働く人に届いたり、地域の人を包み込むような「世論の作り方」ができなかった。そこで裾野が広がらなければ、先細りするのは必然だし、実際に共産党や立民、れいわ新選組が支持を減らしていることにつながるんですよね。また、2015年は、共産党と民主党の野党共闘によって、安倍政権に対抗していくという枠組みができた時期。それぐらい安倍政権は強かった。だから、高市さんや高市さんの周りの右派は、「安倍政権の夢よふたたび」と思ってる。一方でリベラルは野党共闘の夢を見てる。だから、右も左も「2015年をもう一度」という、ある種のノスタルジーの中に生きている。そのモードを切り替えるべき時期にきていると思うんですよね。立民としては、「中道」というだけじゃなくて、ちゃんと理念的にチェンジしないと。もう立憲主義という言葉自体が響かないだろうし。
申し訳ないが、ちがや氏は「メディア」という変数をほぼ無視しているので、かなりピント外れとなっている。SNS言論ばかりを見ている人の(その限りでの解像度は高いが)欠点が集約されている。
左派やリベラルに勢いがあった時代というのは、保守的な価値観の政権与党と、おなじく保守的な価値観の与党の支持基盤である地方・農村や自営に対して、新聞・テレビのメディアが批判していた時代である。テレビにおける、地方の公共事業政治バッシングがその象徴である。
しかし平成中期以降、地方・農村や自営の世界は完全に衰退し、逆にテレビの影響力が絶大なものとなり、自民党もテレビにおける世論を完全に意識するようになった。小泉純一郎は公共事業批判や官僚政治批判というリベラル左派のアジェンダを全面的に取り込んで、テレビで政治を判断および批評する都市の有権者の支持を獲得していった。
1990年代末に登場したインターネットは、長い間政治への影響力は微弱であった。掲示板やブログ、SNSの政治論壇の基調は登場した当初からアンチマスメディアを強いアイデンティティとしており、同時にアンチリベラル左派でもあった。いわゆるネット右翼である。
ネット右翼は00年代初めの2ちゃんねるからおり、「マスコミが伝えない真実」を枕詞にメディア批判を執念深く行なっていた。ネット世論が右傾化したのは、テレビがマスメディアの言論を独占している時代に、右翼の言説の方が明らかに「テレビでは言ってはいけないこと」というカウンターとしての機能を持っていたからである。リベラル左派の言論は、マスメディアをバッシングしたいネット民にとっては、明らかに「穏健」すぎるものだった。
しかし00〜10年代のネット右翼は、政治に対する影響力は微弱であった。彼らの言論にたどり着くには、わざわざ「在日特権」などを検索してクリックする必要があり、政治的無関心層にまでに届かせるのは難しかった。在特会のデモも、政治的無関心層には嫌悪感を抱かせるもので、運動としては完全に失敗だった。
しかし2020年代に入り、YoutubeやTiktokなどの動画SNSの影響力が爆発的に高まって新聞テレビを凌ぐようになり、ネット右翼も主戦場を動画SNSに移すようになってから、風景は一変していく。
「マスコミが伝えない真実」を枕詞にリベラル左派を嘲笑し、在日外国人を敵視・攻撃するというスタイルは、「2ちゃんねる」時代からまったく変わっていない。変わったのは、政治的無関心層にダイレクトに、そして日常的に届くようになったことである。Tiktokで「高市首相」と検索すると、中高年の保守論壇オタクしか読まない「Will」「Hanada」の表紙と一つも変わらないのが象徴的というか皮肉である。
「メディアは都合の悪い真実は隠す」という批判も、かつてそれに共感・同意する人は一部であったが、ジャニー喜多川性加害問題以降は多くの人の基本的認識になっている。かつてはネット右翼のジャーゴンにすぎなかった「マスコミが伝えない真実」が、若い政治的無関心層にまで浸透するようになっている。
もともと社会に対して強い不遇感や疎外感を抱えるネット右翼は、情報発信の熱量についてはリベラル派に比べて圧倒的に強かった。毎日膨大な数のショート動画を投稿するネット右翼に対して、リベラル派は太刀打ちできなくなっている。Youtube上にはリベラル派のチャンネルもあるが、小難しい話を1時間かけて行なっているものが多く、再生回数も登録者数も10分の1程度である。ショート動画については、全くと言って良いほど対応できていない。
以上のように、リベラルな政治勢力の退潮はメディア環境の激変という要因が大きく、実際これは日本だけではなく世界的な趨勢である。もし立憲民主党が完璧にちがや氏の言う通りに頑張ったとしても、せいぜい焼石に水に過ぎない。
『ペリリュー-楽園のゲルニカ-』や『この世界の片隅に』といった、戦争を描いた近年のヒット作に関して「反戦を主張しないのがいい」という評価を頻繁に見掛けて、実に複雑な気持ちになる。
メッセージ性がないと駄目どころか、メッセージ性がないのがいいという評価。世間にはこの手の評価が広く受け入れられているため、それよりもずっと少ない、作品にメッセージ性を求める意見が許せない人達は随分と身勝手だなと思う。
もっとも『この世界の片隅に』については、原作者はともかく映画の監督の方は意外としっかり考えている人なのを後日知って印象が変わったが。『ペリリュー』の映画の方は予告編を見る限り、友情を前面に押し出した美談にするように見えるんだよな…。
日本で戦争を描いた作品は反戦を謳いつつも日本側の被害ばかり描いていて加害を描かないという批判はよく見掛けるけれど、
個人的には被害ばかり描いても別にいいと思うんだよね。こんな悲惨な目に遭いたくないから戦争は絶対にしてはならない、でも別にいいと思う。ただ、その被害をもたらしたのは誰なのか、どうしてそのような被害に遭ったのか、については描くべきだと思う。
それに加害を描いたところで、その加害を単に末端の兵士による暴走として処理してしまったのでは、興味本位の露悪趣味になり下がる危険性もあると思うし。
どうも日本には戦争をまるで天災かのように捉えて、戦争犯罪についても震災下での犯罪等と同様、極限状況に追い詰められた結果と一般化してしまう人が多いように見受けられる。
『この世界の片隅に』の呉にしろ、『ペリリュー』のペリリュー島にしろ、何故その場所で被害が、加害が行われたのかというそもそもの理由が描かれていないように思う。
問題は加害を描かない事じゃない。責任の所在を追求しない、構造に目を向けない事ではないだろうか。
被害にしろ加害にしろ、日本側として一纏めに括った描き方には賛同できない。
先日徳川慶喜の子孫を名乗る人が新選組を無法者の集団と評して話題になったけれど。権力の頂点にいた者の責任について自覚が薄いと思った。そりゃ安全な場所にいて衣食住も保証されていたらお行儀良くいられるでしょうよ。そんな立場から配下の素行不良を責める事が如何に無神経で横暴である事か。
『ペリリュー』の「どうして」という回で、敗戦の知らせの後も徹底抗戦を呼び掛けて多くの部下を死なせた後に生き残り、島民に保護された島田少尉の、自分はどこから間違っていたのかという問い掛けがあったけれど。間違っていたのはこの人物個人ではなく、それに至る以前の日本政府の判断に拠るものでしょう。庶民が自己の責任を問う事は美談にも見えるけれど、権力者を免責する事にも繋がる。
戦後の話では何度か天皇にも言及されるけれど、単なるニュースの域を出ない。主人公達末端の兵士が飢餓や病気に苦しんだのも、人を殺す羽目になったのも、そもそもは天皇を中心とした軍国主義体制のせいなのにそこを突き詰めて問う様子はない。
その点『はだしのゲン』だと、天皇が悪い、戦争を翼賛した日本の庶民も悪い、原爆を落としたアメリカも悪い、末端の米兵は日本国民に対する加害者でもあるが彼等もまた被害者でもある……といった構造の問題に触れている。
ただ、『ペリリュー』にしろ『この世界の片隅に』にしろ、全体を見渡す目がないというのは当時の一般人の感覚としてはリアルなのかもしれない。2025年の現在ですら台湾有事を想定して短絡的な交戦論を唱える人がいるくらいであるし。まして当時は庶民の高等教育進学率も低く、情報を得る手段も限られていただろうから。
特に『ペリリュー』の主要人物である当時二十代の若者達にとっては、物心ついた頃から社会はそんなものであって疑念を差し挟むのは難しかったのかもしれない。主人公は名称変更後も「看護師」ではなく「看護婦」と呼んでいるような、アップデートの遅れた人物として描かれているし。
『はだしのゲン』は作者の分身である主人公は父親が反戦主義者家庭で、意識の高い家庭に生まれ育ったようだからな。
漫画はあくまでエンタメではあるし、一つの作品で全てを描き切る必要もないのだし。
本当の問題は作品それ自体というよりも、そこから読者が何を読み取るか、あるいは読み取らないか、だろうか。
はっきりとした反戦のメッセージを押し出していない作品ではあっても、戦争は怖い、戦争はするべきではない、くらいのシンプルなイメージは読み取れるのではないだろうか。それを読み取らないどころか正当化したり、他国攻撃の材料にする人間の多さが問題なんだよな。
「浪人の寄せ集めで粗暴だった」から「内規で厳しく取り締まっていた」のだが。
その粗暴な隊士の代表格で会津藩からも「なんとかしろ」と言われていた芹沢鴨が「大した理由もなく理不尽に殺された」と言うなら、新選組の「ゴロツキ行状」は大目に見ろって言ってるのか?