はてなキーワード: うんざりとは
私は独身女だ。
近く同い年の同僚が産休(2人目)に入ることになった。
彼女は夫婦揃って実家が遠方らしく事あるごとに大筋「実家が頼れない私に会社が配慮してくれないのマタハラだと思う」といった不満を口にしていた。
彼女は勝ち気で承認欲求が強く、キャリアも家庭も両立するスーパーウーマンに対する憧れが捨てきれない質だった。
「35歳までに2人目産み切りたかったからホントに良かった〜」「お子が保育園入ったら絶対仕事復帰してバリバリ働く」と日々軽いマウント?のようなコメントで私の神経を逆なでする。
彼女の業務は派遣の事務員レベルの作業を正社員の給与水準で通常のスタッフの1.5倍程度の時間をかけて終わらせること。
会社が勤続年数の長い彼女をなぜ甘やかしているのか甚だ不明で、時短勤務の彼女の雇用をささえる為に私は月200時間働いて土日は婚活するでもなくぐったりしている。
平日チームスで「増田さん今日ランチ行きません?」の連絡がある度にお前と違って忙しいから無理!の言葉を飲み込んでやんわり断る。正直東京のランチ高すぎ。旦那が生活費払ってくれてる人には分からないんだろうけど。
インプを稼ぐためにインフルエンサーもどきの青バッジたちがAIで対立煽りの作り話を量産し、何万ものいいねを得ている。
普通に気が滅入る。
なんでこんなに人は分かり合えないんだろう?
罵り合っているんだろう?
という気になってくる。
作られた対立、作られた炎上であることは、頭では理解しているものの、目の当たりにすると本当にうんざりする。
自分は希死念慮など全くなく、むしろいつまでも生きていたいと思ってるタイプの人間だが、
そんな自分であってもXで繰り広げられている惨状を目にすると、ふっと現世から逃避したい気持ちが湧いてくることがある。
これやばいだろ。
嫌なら見なければいい話なんだが、いまやXはに重要なマーケティング・プロモーションツールだ。
ネットで活動してる人間なら避けることができない場となっている。
メンタル弱い系インフルエンサーにとって今のXは自殺促進装置だ。
仕事のつもりで仕方なく見ているのかもしれないが、そこかしこに奈落がある。
というお話について
ケース1ですまんけど自分の場合「将来のために協調性を身につける練習をしよう」等ズバリ意図を言ってくれた方が納得しやすい
それじゃあまあめんどくさいけど一応行ってみますか・・・という気分になれる(スキルアップの類は好き)
もう行きたくない気持ちになってるのにそれを翻意させようとする「楽しいよ、こんなおもしろいものがあるよ」は全然刺さらない
ちなみに連れ出しに難ありの子供がどのように育っているかというと
ツイフェミ、腐女子、何かに真理に目覚めたと勘違いしている女…
ネットを開けば壊れたラジオのように雑音が響き渡っているのは君達もうんざりするほどご存知だろう
彼女らの主張に我慢して耳を傾けると実は全部同じことしか言ってないのである「私が不愉快だからくたばって死ね」だけである
なぜこんな感情至上主義のモンスターに爆誕したのかはそれは幼少期にヒントがあると俺は思う
気持ちが昂れば号泣しだすのは子供共通事項だろう、しかし小学生にあがっていけば男子は泣くような奴は男じゃないという今も根強い呪縛によって
不愉快だったり悲しい気持ちになってもグッと堪えるようにトレーニングを施されているのだが女子はどうだろうか
何かあればもう我泣く、ゆえに我ありというレベルで泣き出すのではないか、そうすると周囲はなんと魔法でもかかったように心配してくれたりチヤホヤしだすのではないか
これは非常に強い「成功体験」かつアヘンのようなものであると思う
見た事ないだろうか、小学校のクラスの席替えでいわゆるチー牛と思われているような男子が隣に移動してきただけで号泣しだした女子を、隣は嫌だとめっちゃ被害者ぶってるけど言ってる事は普通に最低な事である
それなのに雰囲気は泣いている女の子に同情してあげなきゃ!となるもんだから不思議なものである、チー牛男子はただ隣に移動しただけですっかり加害者の悪者扱いされるのであるなんとも末恐ろしいのである
そうして女子はこう学習するのではないか、感情を押し殺さずに開放した方が得ではないか泣きだせばもうperfect!ではないかと
落ち着いて欲しい、大半の女がこうだとは流石に言わない男よりも我慢強い女も多く存在するだろう
しかし、その成功体験をずっと引きずっている女はどうなるかというと幼稚のままで精神的に成長が乏しくなるのだ
乏しいとどうなるのか?それは自分を悦ばせてくれるようなコンテンツに飛びつくようになるのだ
推し活、ボーイズラブ、ディズニー、韓国ドラマ、男性アイドルなどなど…
決して自分を否定せずにむしろ悦ばせてくれるというそんな夢のような世界に溺れるようになり
もしそこで不快な事でも起きるとどうなるのか?そうネットで喚き散らしてお気持ち表明マシーンと化すのだ
男は幼少期から泣くな我慢しろというトレーニングを施されているおかげで例えば嫌なものを見てしまっても「あーあ、嫌なもの見ちまったなまあ忘れよう」と自己完結するようになっているのだ
自分の体験も少し語ろう、俺もいわゆるジャンプ系アンソロジーというトラップにかかったことがある、ハンターハンターのあの男キャラと男キャラが猛烈に絡み合っていたのである
当時小学生の俺は大変衝撃で、それからBLに対する苦手意識はあったが事故ったようなものでずっと黙って過去のものにしていた
それからテレビでおっさんずラブとかいうドラマを見てしまい「同性愛をこうしてコンテンツとして消費していいんだろうか?」と疑問持ちつつそれも俺がたまたま見てしまっただけでむしろ自分が事故っただけと
これも誰のせいにする気もなく、あーあー嫌なモノ見ちまったなとなんとか別の事をしたり楽しい事を考えようとするのが一般的じゃないだろうか?
しかし、精神的にお子ちゃまな女はそれができないのである、嫌なものを見てしまったら不快な気持ちになり、それをどうしても外に出さないと自分が耐えられないのである
ツイフェミも根本は幼稚性から来ているのである、だからツイフェミの主張に激しくブレが多いのも自分が不快かそうでないかどうかなので全然論理的じゃないのである
だから「私が不快になった!」という超特大前提があるので常に被害者意識が強いのである、攻撃してもまず不快させた相手が悪いという正義の味方もドン引き理論である
致命的に話がかみ合わないのも当然だろう相手は脳じゃなく本能でしか動いてないからだ、不快だと思ってもそれをいちいち外に出さずに自己完結する手段は沢山あるはずなのに
そういう手段をとらずに真っ先に感情かめはめ波をするのも泣けば周りがかくまってくれるという「成功体験」が忘れられないのだろう
大人になればそんな魔法は存在しないのである、世界を変えたければまず自分を変えるしかないのだ
それすら出来ないから終わっているのは言うまでもないが
読んでないけど、そうなんだ?
ひとりは、もう本当に喋り続ける。
とにかく思ったことをひたすら喋り続ける。
そばにいるのが、自分が話しかけてもいい相手であれば延々と話し続ける。
もう、ひとりは普段は喋らないことが出来るが、
一度喋ってもいい環境になると喋る止むことがない。
そして、もうそろそろ話し終わらないかな?という空気を出しても、
一度喋り始めると止まらなくなる。
とにかく2人ともよくそれだけ話せるなというくらいに喋り続ける。
もちろん当たり前だが普通の人なので、その内容が面白いわけはない。
何度も同じ事を言うし、別のことを話していても同じような論旨になるし、ただうるさいだけ。
二人とも結婚してるんだよな。
うーん、って思っちゃう。
俺だったら、どんだけ相思相愛でも、あれだけ話し続ける配偶者は無理だ。
一緒に暮らそうとは思わない。
疲れ果てると思うから。
かつては、「大きな会社に入り、穏やかに出勤する」ことが多くの人の人生の模範解答だった。しかし今では、会社に頼らず自分で稼ぐことを選ぶ人が増え、フリーランス、副業、個人起業が新たな潮流となっている。このような変化は偶然ではなく、時代、職場と技術が共同で推進した結果である。
1.1終身雇用が徐々に消えていく
安定した仕事はますます少なくなり、リストラ、ラブグッズ、リストラ、業界の変動が頻繁になり、1つの会社で一生働くのはますます難しくなってきた。多くの人が意識している:会社の保障は、実は保険ではありません。
残業文化、昇進困難、人間関係が複雑で、多くの人が体制に縛られるのにうんざりしている。自由を追求し、自分の時間をコントロールすることは、新世代の重要な需要となっている。
二、個人が稼ぐ敷居が大幅に下がる
メディア、デザイン、作文、クリップ、コンサルティング……パソコン、携帯電話1台で、注文を受けてお金を稼ぐことができます。プラットフォームとツールは、一般の人も市場に直接接続でき、会社のチャネルに頼る必要がなくなります。
2.2スキルをより直接的に実現する
特技を持っていれば、ネット上で収入を得ることができます。プライベートブランド、ディルド、副業収入で、会社に頼らなくても生きていけるように夢から現実へ。
三、人々の価値観が変わりつつある
安定よりも、生活の質や時間の自由、好きなことをすることを重視する人が増えています。会社に拉致されなければ、本当に自分のために生きることができない。
自分の能力で稼ぐのは、会社に頼るよりも地道だ。自分こそが最も信頼できる保障であるという考え方が主流になりつつある。
会社に頼らず、仕事を断るのではなく、より自主的な生き方を選ぶ。個人の能力が直接現れることができて、安定が組織からではなく、自分から来て、自分でお金を稼ぐことができて、ますます多くの人の人生の選択になります。
先週夫の手帳からはみ出してる付箋を見つけて、そこには文字じゃなくて絵文字みたいなイラストが描いてあって。
夫はそんなの描くタイプじゃないから誰かから、多分女子から貰ったものだろうとは思ったし、
そんなのを後生大事に手帳に貼ってるくらいだから多分嬉しかったんだろうな、大事なんだろうなって思った。
でもまさか、ハゲててお腹も出てきた夫が仮に職場の女子に恋しても相手してもらえるわけないだろって思ってて。
ただ怪しむ気持ちは止められなくて。
夫のスーツやシャツ、下着に痕跡はないか?とか探してみるけど、見つからない。
そんな中、おととい夫が晩酌後に珍しく潰れていた。熟睡していて起きなさそう。
花を買っていた。でもそれは私宛でないことは確か。
仕事で買った?いやいや、菓子折りならともかく、花なんて買わないでしょう?
接待でカラオケボックスに行くか?カラオケスナックならわかるけど。
そんなの、私とも撮ったことはない。
なんだこれ。
不倫じゃん。
しばらく体が一ミリも動かせなかったわ。
昨日は体調が悪いふりをして、寝室に閉じこもってた。
どうしたらいいんだろ?え、離婚?やだやだ。離婚なんかしたくない。
私のこと裏切ってたの?いつから?わたしのことはもう好きじゃないのか?
2人してさ、私のことなんだと思ってるわけ?
とか考えてたら夫と会話なんかできないから。夫の顔を見れなかった。
ネットで調べた。チャットAIに聞いた。丸一日スマホと睨めっこしてた。
こう言う時はまず、
らしい。
そもそも、夫が本気でわたしに冷めてて、乗り換えたいんだったら、離婚してあげるしかなくない?
いやなんでわたしが引いてやらなきゃいけないの。
夫はどうしたいの?
「ごめん、気の迷いだった!離婚したくない!」って言う?
「ばれたなら仕方ない。君とはもううんざりだから離婚してほしい」って言う?
わたしはなんて言われたいの?なんて言われたら許せるの?
夫が本気でも相手が遊びだったら?そんな女やめてこっちに帰ってきてよ!
って思う?
なんにせよ、どっちのゴールを選んでも腐らない証拠集めをするしかない。
いま問い詰めてもしらばっくれられるかもしれないし。
そのためには私が尻尾を掴んでることを悟られないようにしないといけない。
こっちが勘づいてることがもしバレると、
証拠の集め方は色々みたけど…今はまだなんにもする気になれない。
怖い。
知りたくない。これ以上知りたくない。無かったことにしたい。
なん度もフラッシュバックする、夫と不倫相手の幸せそうなチュープリ。
これ以上何も知りたくない。気持ち悪い。怖い。
でも脳みそが止まってくれない。カラオケ行ってたのいつだった?
その日、私は何をしてたんだろ?いつ会ってたんだろ?わたしにちっとも悟られずに、
いつだったのか知りたい。レシートやプリクラの写真を撮っておけばよかった。
だってあの時はもう怖くて恐ろしくてそのまんまバッグの中に戻してしまった。
次に夫の財布を開けられる時はいつだ?
みたくない、しりたくない、でも知りたい、知ってしまったら傷つくのわかってるのに、
知りたい…。知るべきだ。
いつあってるのか行動パターンをある程度把握しないと、
探偵を雇えないし。
ああでも今は何もしたくない。
チュープリでこんだけダメージ負ってて、これ以上の…
うわ書いててショックえぐい…
今日も欠勤して同じことしてる。
無かったことにしようかな。
そもそも夫婦関係を再構築ってなんだよ。こっちは構築を壊されたつもりはないんだよ。
客観的にみたらもう壊れてんのか。他の女とチュープリ撮るような男が夫の夫婦はもう要再構築もしくは要離婚か。
なにか経験談とかくれませんか。
いまのとこ私の方針は
・とれた証拠の内容によっていずれ離婚 OR 再構築 OR みなかったことにして放置 のどれかを選択
しようと思う。
また、知恵遅れの日本人がイスラムフォビアを発揮してるわ。右翼は自分の巣に帰れよ、はてなじゃなくて。
「信仰の継承」を「カルトの被害」とすり替えていることすら理解していないのだろうな。
18億人以上の信徒を抱え、長い歴史と豊かな文化を紡いできた世界宗教「イスラム教」に対する、あまりに短絡的で暴力的なレッテル貼りがコメント欄でされていてうんざりした。お前たちの薄い宗教観と一緒にするなよ。
神社も寺もキリスト教も全部ごっちゃ混ぜで、しかも全部に対して理解がなくて。あげく国中に新興宗教が溢れていて、信仰をしている人の人口が人口の2倍いるってお前らの国の方が狂ってるだろ。
お前たちの国の与党を支配している統一教会、それと一緒にするんじゃねえよ。
反社会的な活動や金銭的搾取、家族破壊が社会問題となった特定の団体(統一教会等)と、数千年の歴史を持ち、人々の倫理や生活の規範となっているイスラム教を同列に語ることは、論理的にも歴史的にも破綻している。この比較自体が、イスラム教を「特殊で危険なもの」としてマジョリティの側から排斥しようとする、典型的なイスラムフォビアの構図だよ。
第二に、イスラム教徒2世を「被害者」と決めつけることは、彼らのルーツとアイデンティティに対する冒涜。
コメント欄に見られる「救済」を装った排外主義的な視線は、2世が自らの文化や信仰の中に、どれほど豊かな精神的支えやコミュニティの絆を見出しているかを完全に無視している。外部の人間が、自身の価値観こそが唯一の「正解」であると過信し、異なる背景を持つ若者を「洗脳された犠牲者」と定義することこそが、多様性を否定する真の「抑圧」だよ。
第三に、このような言説が現実の差別に直結することを認識すべきよ。
「カルトと同様に危険だ」という言説を広めることは、日本で暮らすイスラム教徒の子供たちが、就職、結婚、日常のあらゆる場面で不当な偏見に晒されるリスクを増大させる。匿名掲示板での無責任な「感想」は、実社会におけるヘイトスピーチの土壌となり、共生社会を根底から破壊する刃となる。同和差別の悲劇から何も学んでないな。韓国人、中国人に対しての差別と全く同じだな。お前たち頭空っぽなのか?どれだけ差別の歴史繰り返せば学習するんだよ。救いようがないな。
宗教的な教育や習慣を「被害」と呼び変え、他者の生き方を一方的に憐れむその傲慢な態度こそが、今の日本社会が向き合うべき「闇」だよ。日本人に必要なのは、無知に基づく断罪ではなく、異なる背景を持つ隣人への真摯な理解と敬意だよ。頭が空っぽみたいだから難しいだろうけどな。なんせ、自民党を戦後80年間ほぼ一貫して支持しているようなアホな国民性だから。
いじめを受けてそれがトラウマで人間不信になって、今もずっと続いている
人が信じられない。誰一人として
いじめをしてきた連中はもちろん、周囲の人間も親身になるふりをして実際には関わりたくないのを態度で示してきた
私を心配してくれる人はいままでの人生でずっと誰もいなかった。家族でさえ味方ではない
いじめを受けていたトラウマが今の歳になってもずっとずっと尾を引いているのだ
よく「いじめられる側にも原因があるからいじめられるのだ」とか言われているけどあれは嘘だ
いじめられてトラウマを抱えた人間が真っ当に生活できることはない
だから「いじめられていた過去があるから原因とおぼしきものが生まれる」のだ
「あ、鳴つた。」
と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。
「近いやうだね。」
「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」
「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」
「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」
「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐるから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます。
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである。
[#改頁]
瘤取り
ムカシ ムカシノオ話ヨ
ミギノ ホホニ ジヤマツケナ
このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近に於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語を舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽、歌舞伎、芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、
ムカシ ムカシノオ話ヨ
と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)
このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。孤独だから酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然に孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである。若い時から無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。
「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、
「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから。」と言ふ。
お爺さんは浮かぬ顔になる。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。
けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのである。しかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。
「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」
言はなくたつていい事である。
お婆さんも息子も、黙つてゐる。
「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。
「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。
「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。
アルヒ アサカラ ヨイテンキ
このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、
「よい眺めぢやなう。」
と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、
「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、
「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、
「いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分の可愛い孫のやうに思ひ、自分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのである。けふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、
「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである。
カゼガ ゴウゴウ フイテキテ
春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、
「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」
と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、
「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である。
「はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」
とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜の大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、
「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである。
ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ
この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、
「これは、いけない。」
と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。
「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、
ミレバ フシギダ ユメデシヨカ
といふ事になるのである。
見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議の光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いからである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪の性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇の鬼才何某先生の傑作、などといふ文句が新聞の新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実を暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉を使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万の醜悪な綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供の絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである。
見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである。
お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、
「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物ともつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐる種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山の隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである。地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林の賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山の隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐるから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山の隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人と呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかいふ言葉は、まるで無意味なものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、
「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく。
スグニ トビダシ ヲドツタラ
コブガ フラフラ ユレルノデ
お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、
赤い襷に迷ふも無理やない
嫁も笠きて行かぬか来い来い
とかいふ阿波の俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、
大谷通れば石ばかり
笹山通れば笹ばかり
とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。
ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ
ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ
ソノ ヤクソクノ オシルシニ
と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。
お爺さんは驚き、
「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。
コブヲ トラレタ オヂイサン
ツマラナサウニ ホホヲ ナデ
オヤマヲ オリテ ユキマシタ
瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。
「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。
「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失してゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである。
家に帰るとお婆さんは、
「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。
「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議な出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。
「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。
「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。
「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。
「うむ。」
「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」
「さうだらう。」
結局、このお爺さんの一家に於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるとかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24
鬼滅の最終回にウゲッとなる声が未だにあんまり聞こえてこないのが本当不思議
「子へ孫へ受け継がれる命!」みたいなやつ
最終回から何年も経ってるのにさ、未だに映画入ればそれなりに人入るんでしょ?
まじうげーーーー
っていまどき流行らないでしょ
というかハッキリ言って女性差別
さんざん我々を苦しめてきた保守的な価値観と家族観を真っ向から打ち出した鬼滅が
令和の時代に子供から大人まで熱狂的に支持されていたのは恐怖だった
最終巻で「子供が5人いる」とわざわざ加筆してあった
「多産」で愛情と幸福度を表現する価値観が古臭いというか昭和の亡霊そのもの
これを小学生がキャッキャ言って読んでるのが…ね…
「長男だから我慢できたけど」と言って小さな家父長してた主人公まで人気キャラだったし
こういう刷り込みが将来どう影響してくるのか不安でしょうがない
新しいディスプレイを買う。箱を開ける。
まず最初にすることは何か?
そう、付属のモニタースタンドを袋から取り出し、一度も組み立てることなく、箱の奥底かクローゼットの闇へ葬り去ることだ。
俺の部屋には、これまでに買ったディスプレイの「未使用のスタンド」が山のように積み上げられている。
特にゲーミングディスプレイとかいう奴らに多いんだけど、足が三又になっていたり、やたら奥行きが長かったりする。
あのスタンドを設置した時点で、俺の大切なデスクスペースの20%が死ぬ。
ノートPCを置く場所も、キーボードを置く位置も、すべてその「ゴミみたいなプラスチック」のせいで制限される。
結局、我々はみんなモニターアームを使う。
あのスタンドは、最初から「モニターアームまでの繋ぎ」でしかない。
「調整できない」という罪
さらにたちが悪いのは、そのスタンドが「調整機能」をほとんど持っていないことだ。
上下の高さ調整? なし。
チルト(角度)調整? 申し訳程度。
結局、モニターアームを買うハメになる。
最初からアームを使うことが前提のユーザーにとって、あの付属スタンドは「最初からゴミとして梱包されている重量物」でしかない。
全世界で、どれだけのモニタースタンドが「未使用のままゴミとして廃棄」されていると思っているんだ?
すべてが環境負荷だ。
もし本当に環境のことを考えるなら、SKU(在庫管理単位)を分けてほしい。
通常版(スタンドあり)
この選択肢を作ればいいだけだろう。
ディスプレイの本体価格が1,000円や2,000円安くなるなら、全員が「スタンドレス版」を選ぶはずだ。
メーカーとしてもコストダウンになるし、ユーザーも邪魔なゴミが減るし、環境にも優しい。Win-Winじゃないか。
そろそろ、この「当然のごとくスタンドがついてくる」という古い常識を壊してほしい。