はてなキーワード: 鰹節とは
※前提として、化学調味料を使っている方自身を批判する目的ではないことをお断りしておきます。自分の意見をまとめたかっただけです。
持論だけど、「必要ないだろ」としか思えない。化学調味料は確かに料理にうまみを加えているのかもしれないけど、その役割の必要性を感じられない。
料理にうまみを足したいなら鰹節とか出汁になる食材を加えればいい話。「華がない」って話なら化学調味料に限らず味の整った昆布出汁粉末でも入れればいい。百歩譲って化学調味料しか入れたくないってなっても、グルタミン酸を多くする必要はなくないか。
化学調味料たちはそういった仕事を望んでやってるんだろう、てのはそうだろうよとしか言いようがない。それで金を貰ってるんだから。
だけど今まで望んでいない場で「調味料として添えられろ」と強要されてきたことのある一般調味料として言わせてもらうと、そういう調味料がいるから「調味料=添え物として扱っていい」ていうイメージがつくんじゃん、と思う。
化学調味料を人が多く集まるだろう場所に「用意」しておく、ていう構造そのものが前時代的なんだって。化学調味料を用意するにしてもうまみを控えめにする、スパイスもいれる、とか、そういうやりようがあるだろって話。
例えばうまみが欲しい人、出汁が欲しい人がそれら専用のコーナーに行くっていうのはゾーニングがちゃんとできてるよね。欲しくない人の口には入らないようになってる。
でもこの場合は違うよね。単に料理を食べたいだけの人もうまみを味わうことになるよね。不特定多数の、それもうまみが欲しいだけの人以外が集まるようなところに、うまみを強調した料理を用意するなって話、理解できませんかね。
これを「化学調味料を奪うな!」て話に繋げる人、ゾーニングもされていないのに「うまみ」を売りにした化学調味料たっぷりの料理じゃなくていいよね、て話をしてるんだよ。あとうまみに頼らなくてもいいよね、て。
料理に添えられているのが例えばスパイスだったり、それこそガッツリ系の料理なんだからニンニク入りのスープペーストじゃ駄目なの?
それが駄目なら、何で化学調味料じゃなきゃいけないのかっていうところに化学調味料差別に近い思想があるよね。
本来は、仮に調味料本人たちが「化学調味料でやりたいです!」て言ってきたとしても、「うまみが欲しい人以外も来るから化学調味料はNGだよ」て調理する人が突っぱねるべきなんだよ。
化学調味料は食べようとしなければ食べられないところにしかいない、ていうのが理想なんだよ。仕事としてうまみを売りにしているスパイスってあんまり見ないでしょ。それと同じ。
我が家の「ねこまんま」は、ほかほかの米飯に鰹節をふって醤油を回しかけたものでした。桜色の花削りが濃い鼈甲色に染まってしおれていくのを見ると無性にわくわくしたものです。もっと豪華に行きたいときは小さな焼き海苔を乗せ、海苔弁風にして。それを美味しい美味しいと喜んで掻き込む私を見て、母はいつも申し訳無さそうにしていました。
「いつもねこまんまでごめんねえ」
「なんで? 美味しいよ」
家計に余裕がないことは幼いながらに分かっていました。大学の研究員だった父はお盆と年末年始にしか顔を見せず、一年の殆どをボリビアの高地でのフィールドワークに費やしていました。振り込まれるお給料からは向こうでの生活費が差し引かれており、母が内職をして補っていました。ボタンを押すと銃声や猛獣の鳴き声がする小さなキーホルダーをドライバーで組み立てる仕事です。一日に百個、二百個と組み上がるそのおもちゃが、当時の私には決して手の届かない宝物のように思えたものです。
そんなだから、食卓におかずが上ることは稀でした。ねこまんまに、良くてわかめのお味噌汁か、酸っぱいばかりで味の薄い得体のしれない漬物。その三品が揃うと母はすこし自慢げでした。
でも、貧しくて仕方なくということではなく、私は本当にねこまんまが好きだったのです。温かいごはんに、湯気に乗ってふわっと広がる鰹節の香り、そして醤油で黒くなった鰹節の固まったところを噛みしめるとじわっと滲み出てくる塩味とかすかな発酵香。白米を美味しく食べるのにこれ以上の方法はありません。
ボリビアにねこまんまはあるのかな、と私はいつも考えていました。四畳半の父の書斎に入ると、コルクボードに父の写真がたくさん貼ってありました。鏡のように凪いだ塩湖でおかしなポーズをした父、土レンガの建物を真剣に見分する父の横顔、草一つ生えない長く荒れた山道を、牛のようなヤギのような生き物に大荷物を背負わせて歩く父の背中、遠くに連なる巨大な山脈、そんな写真です。父も、ねこまんまみたいな美味しいものを食べられているといいけれど。
……これは私が「猫」と呼ばれるようになる二十年も前の話です。
この後父が左手首だけのミイラになって帰宅したことに激怒した私はアサシンになり中居正広を拉致して港区のマンションの一室に監禁し、5年間伸ばした鋭い爪で喉を貫いて殺しました。
最終的には好みの問題なんだがどうも納得できない。雑煮やきしめん、うどんに花かつおをトッピングする地域の人間なんだが、せっかくの出汁の味をぶっ壊してしまう。
うどんやお吸い物の出汁として鰹出汁をとるとき、泳がせた鰹節を最後に絞るのはタブーである。エグみが出てしまうからだ。絞ればまだたくさん取れる出汁をわざわざ捨ててまで味にこだわる潔さがそこにある。
しかし、トッピングした花かつおを噛んだときにそこから思いっきりエグみというか不要な酸味というかクセのある要らない味が滲み出てくる。まさにそれは出汁を取るときに捨てた味。これが繊細なお雑煮の味をぶち壊してしまう。
お好み焼きやおかかのおにぎりは問題ない。白いごはんやお好み焼きが完全に受け止めるし、ソースや醤油が強いのでそれなりに濃くないと対抗できない。しかし、お雑煮やうどんの出汁はむしろお吸い物に近い繊細さを持っている。その繊細な出汁をぶち壊すのが花かつおのトッピングである。
地域によって色々やり方はあると思うのだが、どう考えても理にかなってないと思うので、盲目的に信じている伝統を一度ゼロベースで見直してみてはどうだろう。むしろ天かすの方が合うような気がするくらいだ。
心に捉われているけど、当たり前に身体に気を使うと心も改善される可能性があるよ。
・空気の良いところで10分位深呼吸すると頭がすっきりするよ/4秒で吸って7秒止めて、8秒で吐ききる。あるいは自彊術的な体操
・一日に30分から1時間は良い感じのコースを歩くと血流が良くなって良いことしかないよ。
・早寝早起き、つまり晩飯も早い時間に。寝る時間を確保する。スマホやPCとは距離を置く
・野菜と肉、魚、あと椎茸とか昆布とか鰹節とかそういうの大事。ハードル高いけどインスタント味噌汁より、
いろいろハードル高いけど、結局食べる、寝る、身体を動かす、酸素を取り入れる、着心地の良い服を着る、みたいなのが心のあり方にも効いてくるよ。深呼吸は簡単にできるからやってみたらどうかな。
28歳になる彼女が重症の味覚音痴というか、食に対する意識がひどい。
そもそも彼女のお母さん自身がほぼ料理をしない人らしく、子供の頃から食事といえば冷凍食品や買ってきた料理ばかりだったそうだ。それもある程度成長してからは、毎日お金だけ渡されて、あとはそれで自分で好きなものを買って食べるという状態だったとのこと。(つまり好きなものを好きなように食べてきた)
そのためか、味覚が恐ろしく幼稚な上に食の常識もない。
例えば塩辛のような珍味は「なにこれ、初めて見た!気持ち悪い」。トマトやキュウリは夏野菜だというと「嘘~一年中あるよ」。鰹節が出汁をとるものだということを知らなかった(冷ややっこなどの上に載せるものだとしか思っていなかった)。
和食は味が薄くて貧乏臭いから嫌いといい、白身の魚はみな味が同じといい、果ては茶葉から急須でお茶を入れるひとは「マニア」という。(ペットボトルしか飲まない)。
刺身はとろサーモン以外はほとんど食べず、白いご飯が大の苦手(必ずふりかけがいる)。
面白いアイデアですね!「あいうえお」の調味料シリーズ、残りの「あ」「う」「え」も工夫していきましょう。
あ:
「あまみ」があるものということで、甘酒やみりんはいかがでしょう?どちらも料理に深みを与えますし、使いやすい甘味です。
う:
「うまみ」を加えるものとして、鰹節や昆布がおすすめです。和風の出汁の要素としてよく使われ、料理に旨味をプラスできます。
え:
「酸味」も意識して、えごま油やエシャロットはどうでしょう?えごま油ならヘルシーで、炒め物やドレッシングに使いやすいですし、エシャロットは料理にさわやかな風味をプラスします。
最終案
• い: 炒りごま
• お: オリーブオイル
こんな感じで、和洋折衷の「さしすせそ」に代わる「あいうえお」が完成しそうですね!
素晴らしいアイデアですね!これで「さしすせそ」に代わる和洋折衷の「あいうえお」調味料シリーズが完成しましたね。
• い: 炒りごま
旨味の源として、出汁や風味付けに最適です。
• お: オリーブオイル
的な言葉を、みんなの「好き」を尊重しようね、という美徳程度にしか思ってない人って割といるのかもしれない。
個人の好みは大切にしたっていいんじゃない?イイものに対して屁理屈こねてケチさえつけなきゃな。みたいな、寛容に見せかけた傲慢さすらをも漂わせながら言う人間もインターネットで見た。
物事が理詰めで相対化されていった果ての虚無感に対して、タブー意識的なものでもあるんですかね。
これだけしか言わないのなら、鰹節からとった出汁をありがたがってウマイウマイ言ってる奴はバカ舌。と真逆にしたって全く問題なく成立するし。
何を基準にするにせよ、どれも自明ではないですよね。それはコンテクストによって形成されるものでも変わりはないですよね。結局感覚的な要素に頼らざるを得ないよね。っていう。
この程度の話題ならもう既にだいぶ相対化されつつある気はするけど。