トーキング・マイノリティ

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評論家という名の似非文化人 その①

2010-02-27 20:50:43 | èª­æ›¸/ノンフィクション
 日本のマスコミで頻繁に登場し、最も見入りのよい職業は評論家ではないだろうか?特に新聞雑誌、ワイドショーなどで名を売れば、知識人として扱われ、一躍時の人となる。自身評論家だった山本七平は、イザヤ・ベンダサン名義で書いたベストセラー『日本人とユダヤ人』での章「プールサイダー」で、次のように述べている。

-わが敬愛する山本書店主の唯一の道楽は水泳である。春夏秋冬を問わず、仕事に疲れるとザンブとプールに飛び込む。彼によると、何処のプールにも必ずプールサイダーがいるそうである。もちろんプールサイダーというのは氏の造語であって、オックスフォードの大辞典には載っていまい。これはプールサイドにいて、人の泳ぎ方を実に巧みに批評する人々のことで、その批評が余りにも巧みかつ的確なので、誰でもその人のことを水泳の達人と思わざるを得なくなってくるような人物のことである。

 ところがこういう人物に限って、プールに突き落としてみると大抵カナヅチであるという。だから、プールサイトにいても、絶対に自分からプールに入ることはない。氏に言わせると昨今の大学問題などは、まさにここに問題があるという。いわば宇宙の真理、人類の平和から人間のあり方まで、また国際問題から横丁のドブ板の形態まで、森羅万象のごとく的確に批判し、常に正しいことをのみ主張して来て、まことに真理の体現者のごとく振舞ってきた人々が、ひとたびゲバ棒でプールに突き落とされると、アップアップして「溺れるよう、助けてくれえー、機動隊さーん」と悲鳴を上げるのが、その姿であるという。
 と言っても、氏は絶対にこういった人々を軽蔑はしていないのである。「たとえその人がカナヅチでも、やはり聞くべきは聞くべきである」と氏は言う。ここがユダヤ人と違う…


 さる高名なファッション・モデル嬢は、ハイヒールをはいて生まれてきたように見えたと言う。これはこの人々の特技で、全ての衣装を、まるで自分が生まれながら身に付けていたかのように優美に着こなす。だがしかし、率直に言えば、彼女らは着せられているのであって、その衣装を考案し作成したのは別人であり、彼女らにそれを生み出す力はない。日本における知識人とか文化人とか言われる人々も、多くはまさにそれで、主として西欧で流行している思想を、実にたくみに自分の脳細胞にまとうから、それがまるで、生まれる時からそういう思想を持っていたかのように見えるのである。あたかもその人が、その思想を生み、育て、かつ発展しているような錯覚を人々に抱かすのである…

『日本人とユダヤ人』の中で私が白眉と思うのは「プールサイダー」の章であり、専門家ではなく評論家の蔓延る日本社会を実に巧みに描いていると感じさせられる。人は己と類似した者を書くと特に筆がさえるが、まさに山本自身こそ“プールサイダー”の典型で、優れた社会学者であり聖書学の権威と熱心な読者は妄信している。だが、見るほどに論評の怪しさ、粗雑さが浮かび上がってくる。一般に日本人は聖書や中東情勢には疎いため、ユダヤ人を騙っても充分に通るし、戦争を知らぬ世代が読む山本の戦争体験は、それが即ち日本軍との印象を植えつけるのに最適だ。

 私が山本の本を読んだきっかけは、拙ブログに山本心酔者の「一知半解男」氏からの熱心な紹介コメントがあったため。初コメントで「一知半解男」氏は山本の著書『ある異常体験者の偏見』からの言葉を引用していた。この本で山本は「聖トマスの不信」なる言葉を使い、日本人がいかに、「事実を究明するということはその人の思想・信条・宗教的信仰等に一切関係がない」という原則が判っていないか、そしてそれがもたらす言論への悪影響を述べていたという。
 愛読者ということもあり「一知半解男」氏は、山本を「聖書学にも詳しく、「宗教」と「事実」を峻厳して扱う公正な姿勢を持ち、言論に宗教観を絡ませるようなことは無かったと思います」と讃える。

 私は「事実を究明するということはその人の思想・信条・宗教的信仰等に一切関係がない」との原則を疑問に感じる。人が事実を究明する動機や背景は様々だが、どうしてもその者の思想・信条・宗教的信仰の他に時代のバイアスが入るはずだ。それらが一切入らぬ人もいるにせよ、極めて稀だろう。日本人には所詮日本人の見方しか出来ないし、欧米、中国人も同じ。日本人の目で物事を見れる外国人がないものでもないが、滅多にいないはずだ。ならば、山本はその原則に従っていたのだろうか。
その②に続く

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