前回、「日本軍は言葉を奪う」という特徴があることについて山本七平の記述を紹介しました。
それではなぜ、暴力を以って「言葉」を奪わなければ、軍隊組織として成立・維持できなかったのでしょうか。
そこには我々日本人がみとめたくない、目を逸らしてしまいたい、日本人の”暴力的性向”がありました。
それを理解する上での「格好の材料」として、山本七平は日本軍捕虜が過ごした戦犯容疑者収容所の実態というものを取り上げています。
今回は、その収容所の実態を記した記述を、著書「日本はなぜ敗れるのか」において山本七平が引用した小松真一の「虜人日記」の記述から、引用紹介していきます。
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
(2004/03/10)
山本 七平
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◆暴力政治
PW〔prisoner of war 戦時捕虜の略〕には何んの報酬もないのを只同様に使うのだから皆がそんなに思う様に働く訳がない。
我々正常な社会で月給を出し、生活権を握っていても、人は思うように使えないのが本則なのだから、PWがPWを使うなどそう簡単にできる訳がない。
ところが、このストッケード(註…収容所のこと)の幹部は暴力団的傾向の人が多かったので、まとまりの悪いPWを暴力をもって統御していった。
といっても初めはPW各人も無自覚で、幹部に対し何んの理解もなく、勝手な事を言い勝手な事をしていたのだが、つまり暴力団といっても初めから勢力があったわけでなく、ストッケードで相撲大会をやるとそれに出場する強そうな選手を親分が目を付け、それを炊事係へ入れて一般の連中がひもじい時彼等にうんと食わせ体力を付けさせた。
しかるに炊事係の大部分を親分の御声掛りの相撲の選手が占め炊事を完全に掌握し、次に強そうな連中を毎晩さそって、皆の食料の一部で特別料理を作らせこれを特配した。
そんなわけで身体の良い連中は増々肥り、いやらしい連中はこの親分の所へ自然と集っていった。
為に暴力団(親分)の勢力は日増しに増強され、次いでは演芸部もその勢力下に治めてしまった。
一般PWがこの暴力団の事、炊事、演芸等の事を少しでも悪ロをいうと忽ちリンチされてしまった。
この力は一般作業にも及び作業場でサボッた人、幹部の言う事を聞かなかった者も片端しからリンチされた。
各幕舎には一人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した。
彼等は米人におだてられるままに同胞を酷使して良い顔になっていた。
彼等の行うリンチは一人の男を夜連れ出し、これを十人以上の暴力団員が取り巻きバットでなぐる蹴る、実にむごたらしい事をする、痛さに耐え兼ね悲鳴をあげるのだが毎晩の様にこの悲鳴とも唸りとも分らん声が聞こえて、気を失えば水を頭から浴びせ蘇生させてから又撲る、この為骨折したり喀血したりして入院したり喀血したりして入院する者も出て来た。
彼等に抵抗したり口答えをすればこのリンチは更にむごいものとなった。
或る者はこれが原因で内出血で死んだ。
彼らの行動を止めに入ればその者もやられるので、同じ幕舎の者でもどうする事もできなかった。
暴力団は完全にこのストッケードを支配してしまった。
一般人は皆恐怖にかられ、発狂する者さえでてきた。
◆マニラ組
オードネルの仕事はたくさんあるので、マニラのストッケードから三百人程新たに追加された。
この新来の勢力に対してこの暴力団が働きかけたがマニラの指揮者はインテリでしっかりしていたので彼等の目の上のコブだった。
事々に対立があり、六月十三日大工の作業場の小さなケンカが元で、この夜マニラ組全員と暴力団の間に血の雨が降ろうとしたが、米軍のMPに探知され、ストッケード内に武装したMPが立哨までした。
その内に両者に話がついて事なきを得たが、以後暴力団はこの新来勢力を切り崩す事に専念し、新来者の主だっ
た者に御馳走政策で近付きとなり、マニラ組内の入墨組というか反インテリ組を完全に籠絡して彼等の客分とした。
これでマニラ組の勢力も二分されてしまったのでその後は完全なる暴力政治となった。
親分は子分を治める力も頭もないので子分が勝手な事をやり暴力行為は目に余るものがあった。
◆コレヒドルから新入者
八月六日。コレヒドル島からPWが三百人程新たに入ってきた。
彼等は各地で事故を起したトラブルメーカーばかりで、懲罰の為コレヒドルにやらされたのだから相当な連中だというデマが飛び、今またの暴力団との一戦が予想された。
彼等は短刀その他の武器を作り戦闘準備さえしていた。
我々としては彼等の滅びるのを心侍ちにしていたが流血は恐れていた。
噂とは違ってコレヒドルから来たリーダーは寒川光太郎といって芥川賞を得た文化人で、話を聞けば(この人びとは)別にトラブルメーカーの群でなく安心した。
彼等がここでどうなってゆくかが心配だった。
◆クーテター
コレヒドル組がきてからすぐ八月八日の正午、米軍のMPがたくさん来て名簿を出して「この連中はすぐ装具をまとめて出発」と命ぜられた。
三十名近い人員だ。
今までの暴力団の主だった者全部が網羅されていた。
寸分の余裕も与えず彼等は門外に整列させられた。
彼等は自分の非業を知っているので処分されるものと色を失い醜態だった、彼等には銃を待ったMPが付纏っている。
その内装具検査が行われ、彼等の持物から上等な煙草、当然皆に分けねばならん品物、缶詰、薬等がたくさんでてきた。
缶詰その他、PWに配られた物は全部我々に返された。
常に正義をロにし日本人の面目を言い、男を売り物とする彼等が糧秣不足で悩んでいる我々の頭をはねていかに飽食し悪い事をしていたかが皆の前でさらけ出された。
小気味良いやら気の毒やら。
それでこのストッケードの主な暴力勢力は一掃された。
しかし本部にほとんど人がいなくなったのでPW行政は行き詰まり新たにPWの組閣を行わねばならなくなった。
PWの選挙により幹部が再編成された。
暴力的でない人物が登場し、ここで初めて民主主義のストッケードができた。
皆救われたような気がし一陽来復の感があった。
暴力団がいなくなるとすぐ、安心してか勝手な事を言い正当の指令にも服さん者が出てきた。
何んと日本人とは情けない民族だ。
暴力でなければ御しがたいのか。
【引用元:日本はなぜ敗れるのか/第四章 暴力と秩序/P102~】
山本七平は、自分がいた戦犯収容所でもまったく同じような事件があり、上記の記述をはじめて読んだとき、小松氏は自分と同じ収容所にいたと錯覚したほどだ、と述べています。
そして、ほぼ全収容所において「無秩序状態→暴力団の発生→暴力政治の支配→米軍による暴力団の一掃→無秩序の再現」というプロセスを生じているとも指摘しています。
日本軍で日常的に行なわれた「私的制裁/リンチ」が、戦後の収容所でも再現してしまったわけですね。
では、なぜ「暴力に頼らないと秩序を維持できない状態」というものを、どの収容所でも現出してしまったのか。
これについては、次回以降、山本七平の分析を紹介していきたいと思います。
ではまた。
【関連記事】
◆言葉と秩序と暴力【その1】~アンチ・アントニーの存在を認めない「日本軍」~
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