そこでまず、彼本人の記述から「史的唯幻論」とは一体どういうものなのかを紹介してみます。
二十世紀を精神分析する (文春文庫)
(1999/10)
岸田 秀
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■一 史的唯幻論
わたしは史的唯幻論という説を唱えている。
ソ連の崩壊などで今や放棄されたかに見える史的唯物論がまだ多くの人たちに普遍的真理であるかのように信じられていた頃、物質的経済的条件で歴史を説明していたこの理論に対抗して、歴史を動かす最大の要因は幻想であるというわたしの考えをいくらかふざけて、そして実は大まじめにそのように命名したのである。
今回の連載では、この史的唯幻論にもとづいて二十世紀のいろいろな事件や現象を考察してみるつもりである。
その前にまずこの説を簡単に説明しておこう。
そもそも歴史をもっているのは人間だけである。
それはなぜかと言うと、人間だけが過去を気にする動物だからである。
なぜ過去を気にするかと言うと、一つには、人間には行動選択の自由があり、あのときああすればよかった、こうすればよかったといろいろ後悔するからである。
なぜ人間に行動選択の自由があるかと言うと、本能にもとづいて自然のなかで調和的に生きている動物と違って、人間は本能が壊れ、その行動が本能によって決定されないからである。
本能とは行動規範であるが、本能が壊れた人間は本能に代る行動規範をもたねばならない。
それが自我であり、人間は自我にもとづいて、たとえば自分は男であるとか、社長であるとか、日本人であるとかの自己規定にもとづいて行動を決定する。
ここに、人間が過去を気にする第二の理由がある。
自我というものを構築した以上、人間は自我の起源を説明し、自我の存在を価値づけ正当化する物語を必要とするが、この物語をつくるためには過去を気にせざるを得ない。
ところで、人間はいろいろ罪深い、不安な、恥ずかしい、あるいは屈辱的な経験をせざるを得ないが、そうした経験は自我の物語にとって好ましくなく、できれば、そのようなことは起こらなかったと思いたい種類のものである。
そこで人間は現実の経験を隠蔽し、偽りの自我の物語をつくることになる。
この偽りの物語でうまくやってゆければ好都合であるが、そうは問屋が卸さない。
偽りの物語にもとづいて行動すれば、それが偽りであることを知っている人たちとの関係、それが偽りであることを知っている自分の別の面との関係、現実との関係が障害され、当人は精神的に病むことになる。
このメカニズムは、個人の場合も、民族や国家などの集団の場合も同じである。
個人も集団も何らかの不都合な経験を隠蔽しているから、多かれ少なかれ病んでいる。
狂い方はそれぞれ異なるが、日本もアメリカもフランスもロシアもみんな狂っている。
要するに、すでにどこかで述べたことがあるが、世界は医者のいない巨大な精神病院であり、歴史とは狂った個人、狂った民族、狂った国家がつくってき、つくりつづけているものである。
したがって、世界の歴史は合理的現象としてでなく、病的現象として理解する必要がある。この観点から現代を解読してみたい。
(後略~)
【引用元:二十世紀を精神分析する/一 史的唯幻論 /P12~】
岸田秀の著作を読んでいると、よく「人間は本能が壊れた生き物」とのフレーズがでてきますが、実にうまく人間の特徴を言い得ているなぁと思います。
そしてまた、「個人も集団も『偽りの自我』を形成し、それと現実とのギャップとの間で精神的に病んでいる病人である」という精神分析的な指摘にも、実に面白い切り口だなぁと感心してしまいました。
確かに、国家も「精神病患者」として捉えてみると、なぜ当時そのような行動を取ったのかうまく説明することが出来るようになると考えられるし、精神分析的に自らを分析できれば、なぜそのように行動してしまうのか把握することが出来、過去の失敗を教訓とすることが出来るようになると思います。
さて、本日はそのような視点から、「なぜ日本人の一部に、やたらと戦前の日本を悪者扱いにし、糾弾する人たちがいるのか」について、精神分析の観点から分析した岸田秀の記述を紹介してみたいと思います。
引用した本はこちら↓
日本がアメリカを赦す日 (2001/02) 岸田 秀 商品詳細を見る |
■第九章 侵略と謝罪
言うまでもないことですが、現実の国家は、現実の人間と同じように、100%善でも100%悪でもあり得ません。
相対的に言えば、他国、他民族を侵略したり、植民地化したりしたことのない、比較的に善良な国と、かつてのモンゴルや、近代のスペイン、イギリス、ポルトガル、フランス、オランダ、ロシア、アメリカなどのように他国、他民族を虐殺し、搾取した悪い国とがありますが、悪い国でも、よい面が全然ないわけではありません。
中国は侵略したり(チベットなどを)侵略されたり(イギリスや日本などに)した歴史をもつ国ですが、日本の近代史も、加害者の面と被害者の面があります。
その両方をバランスよく見るべきです。
日本がアメリカに脅迫されて屈したのも事実ですし、アジアを侵略して多くの人を殺して威張りくさっていたのも事実です。
他方、アジアは欧米にほとんど植民地化されていて、日本が戦争したことが、欧米を撃退する一つのきっかけになったということも事実です。
日本の行動も、当然のことながら、100%悪でも100%善でもありません。
そこをもっと冷静に見たほうがいいのではないかと思います。
■偽りの謝罪論
近代日本は悪いことばかりしていた侵略国家だと、日本をひたすら罪悪視する見方がありますね。
これは、東京裁判でアメリカが取った立場です。
だから、東京裁判史観と呼ばれています。
アメリカが日本をそのように見るのはわからないでもありませんが、日本人の一部にそのような見方をする人がいるのは非常に興味深い現象ですね。
彼らは、近代日本を100%悪みたいなことを言うでしょう。
日本が犯した悪事を反省し、事実を直視しているつもりかもしれないけど、やはり一面的で極端だと思いますよ。
日本人だからといって、日本の悪いところに目をつむって、ありもしない非現実的な立派な日本像をもっていなければならないことはなく、これまた逆の極端な間違いですが、日本の悪いところしか見ないというのも同じく間違いでしょう。
どうして彼らは日本の悪いところしか見ないのでしょうか。
彼らを観察してみると、彼らは、日本人の一人であるにもかかわらず、あたかも自分が日本という国とまったく関係がないかのような視点に立っているように思えます。
そして、第三者の立場から、日本の犯したさまざまな悪事を並べ立て、日本を全面的に悪だと決めつけるのですが、そうすることによって、自分は道徳的に非常に高い視点に立っているかのように錯覚しているんじやないでしょうか。
そうとしか思えないんだけれどね。
日本非難は自分の無罪証明なのです。
罪穢れのない清らかな自分と、罪と悪にまみれた醜い日本とがはっきりしたコントラストを成しています。
彼らは自国である日本の罪悪や欠陥を責め立て悪口を言って喜んでいるのだから、マゾヒストではないかという説があります。
彼らをマゾヒストと見ると、いろいろ思い当たる点がないではありませんが、マゾヒストというより、むしろナルチシストではないかと思いますね。
いちばん大事なのは自分の清らかなイメージで、そういう清らかな自分が罪深く劣等な日本とかかわりがあるとは思いたくなくて、必死に日本を自分から引き離し、遠くへ追いやろうとして、日本を非難攻撃するのだと思います。
日本を非難攻撃しているとき、彼らは、みんなに向かって「俺はこいつとは関係ないんだ」と叫んでいるのです。
たとえば、社会的に成功し、お金持ちになり、白人の妻を娶って白人の社交界に入り、自分は黒人ではないかのごとく、貧しく薄汚い他の黒人たちを軽蔑する黒人がいるとしますね。
彼らはこの種の黒人と同類ではないでしょうか。
あるいは、あるグループが糾弾されたとき、いち早くそこから抜け出して、あたかも自分はそこに属したことはなかったかのように、外部の糾弾者以上に厳しくそのグループを糾弾する人がいますね。
そういう人と似ているように思うんですが、どうでしょうか。
もちろん、心から日本の犯した罪を悔い、被害を受けた人々にすまないと思っている人、真に悔悟していて、謝罪すべきだと思っている人もいます。
そういう人は、自分が直接、手を下したことはなかったとしても、日本が犯した罪を、赤の他人ではなく、あたかも自分の分身が犯したかのように感じて心を痛めています。
真に悔悟している人と、清らかな自分のイメージが大事な彼らとはとこが違うのでしょうか。
どこで区別できるでしょうか。
人間は自己欺瞞が巧みな動物なので、本人の主観は当てになりません。
彼らだって、自分では心から日本の犯した罪を悔いていると思っているでしょう。
要するに、ことは簡単であって、ある人の意見が本物かどうかの基準となるのは行動だけです。
その人の現実の行動がその意見を裏付けているかどうかを見ればいいのです。
たとえば、日本から被害を受けた国の人たちのために、私財を擲っているとか、多大の時間とエネルギーを捧げているとかのことがあれば、その人の謝罪論は本物でしょう。
要するに、被害を受けた人々のために現実に役立つことをどれほどしているか、そのために自分が現実にどれほどのマイナスを引き受けているかということです。
有名な文学者とか評論家としてどれほど聞こえのいい立派な謝罪論をよっていようが(それで原稿料が稼げるし、良心的な人として有名になることもできます)、被害を受けた人々への日本国家の補償をどれほど強く主張していようが(自分の懐は痛みませんから)、そういう裏づけのない人たちの謝罪論は偽りではないかと疑っていいでしょう。
敗戦後の日本にこういう偽りの謝罪論が出てきたのには、それだけの理由があると思います。
偽りの謝罪論を唱える人たちは確かに偽善者ですが、彼らが個人として偽善者であるということだけでは説明がつきません。
それは、敗戦後の日本が、軍国主義時代の日本を、傲慢かつ愚劣な軍部に脅され強制されたとか、一時の熱に浮かされて狂っていたとかの、説明にもならぬ説明でかたづけて、あたかも現在の日本には責任がなく、現在の日本とは無関係であるかのように遠くへ押しやり、それなりの歴史的背景から生じてきた日本という国の、無視することは許されない不可欠の一部として真剣に検討することなく、敗戦前の日本と敗戦後の日本とのつながりを否定し、戦争に負けたことによって間違った過去との縁が切れ、清く正しい日本として新しく出発したなどという大いなる自己欺瞞に走ったことと関係があります。
偽りの謝罪論を唱える人たちの個人的偽善、自己欺瞞は、敗戦後の日本の大掛かりな集団的自己欺瞞の一環なのです。
だからこそ、彼らの自己欺瞞は自己欺瞞と気づかれにくいし、彼らが人気のある有名な文学者や評論家だったりし得るのです。
(次回につづく)
【引用元:日本がアメリカを赦す日/第九章 侵略と謝罪/P178~】
私は昔から、「なぜ日本ばかり糾弾している日本人がいる」のか不思議に思っていました。
そしてまた、そうした連中にいかがわしさや嫌悪感を感じざるを得なかったのですが、上記の岸田秀の分析に出会って、なるほどと得心が行きました。
つまり、そういう連中というのは一種のナルシストであり、彼らの行動パターンというのは、自己欺瞞的行き方の結果現われた現象だったのであって、そのほとんどが偽物に過ぎないということです。
そうした連中の自己欺瞞や偽りの謝罪を指摘し続けた山本七平が、彼らから執拗かつヒステリックに中傷攻撃を受けたのも、こう考えてみると当然の成り行きでしたね。
とにかく山本七平のことを完全否定したがるのも、彼ら自身の(自己欺瞞に基づく)自我の崩壊を恐れる「心的防衛」に他ならないからだ…としか思えません。だから理屈が通用しないわけですが。
(そう考えるキッカケを与えてくれたのは、もちろんApeman先生なのですが…。)
そういう人間の行動を見ると、あれは在日だとか、日本人じゃないとかよく言われますが、それは短絡的な決め付けに過ぎないのではないかと。
今日はこの辺でオシマイ。次回もこの続きを紹介して行きます。
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