そのコメントを読んでいると、結構共産党指導部に対する党員の不平不満が表れていて興味深いですねぇ。
そんな不平不満の一つに「なぜ共産党は自らの間違いを認められないのか!!」というのがあるわけですが…。
そういう書き込みを眼にする度に、私は思うんです。
「それを共産党に求めるのは酷ですし、無駄でしょう」…と。
そもそも、なぜ、共産党は自らの間違いを認められないのか?
私が思うに、やはり自ら標榜している共産主義というシロモノを、心の底では信じていないからなのではないでしょうか?
要するにこれも岸田秀が散々指摘する「自己欺瞞」の一種ですよね。
間違いを認めたら、自己欺瞞が明らかになってしまう。
それ故に、自らの正当性にこだわって、明らかな間違いですら認められない精神状態に陥っていく…。
共産党が、党名変更を頑として拒否するのもその症状の一環ではないでしょうかね。
(私だったら、結果平等党とか弱者救済党とかの党名を推薦しますが…)
そんなことを考えるきっかけとなった山本七平のコラムを、今日は紹介したいと思います。
「常識」の研究 (文春文庫)
(1987/12)
山本 七平
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◆「変節」とは何か
ある雑誌で、「変節」が問題になったことがあるが、多くの場合、「変節」という言葉で表現されている内容は甚だ曖昧だと思われる。
そこで、その言葉の使い方から、一応これを①対内的変節と②対外的変節に分けて考えてみたいと思う。
①たとえばここに、一人の共産党幹部がいると仮定しよう。
彼はもはや、内心ではマルクス=レーニン主義を信じておらず、共産主義革命が起こるとも起こそうとも思っていない。
しかし彼自身は党の幹部として高給をもらい、住宅も保養施設も保証され、車も秘書もお手伝いも党から派遣され、さらにマスコミには評論家としての活躍の場をもっている。
もし彼が、自己の内心の信に節を立て、もはや共産主義を信じず革命の必然も必要もないと宣言したら、彼はこのすべてを失わねばならぬ。
それは大変に苦痛であるだけでなく、自己の生涯と血の出るような苦難を無にすることになるから、彼にはそれができず、依然として共産主義者として振舞っている。
簡単にいえば、こういった状態が「対内的変節」である。
この状態は対外的には変節ではない。
彼がそのまま生涯を終えれば、一生、節を曲げなかった人ということになる。
こういう実例がカトリックにある。
その司祭は、もはや神など信じていないのに、「職業としての司祭」の役目をまことにソツなくこなしている自分を、克明に日記に告発していた。
それが死後に発見されたが、これはおそらく西欧の伝統である「強迫観念としての懺悔」の結果であり、いつかはそれを人びとに知らせないと安心できないという内的欲求があって、そこでこの対内的変節が明らかになったわけだが、そういう伝統のない国で、無言のまま息を引き取れば、その人は生涯「節」を曲げなかったということになるであろう。
では、これは「変節」ではないのであろうか。
私はそうは思わない。
②の対外的変節は、これと逆の生き方である。
彼は、マルクス=レーニン主義も革命も信じられなくなった。
信じられなくなったがゆえに、そう言明して党を追われ、それまで享受していた一切を失った。
その彼のところに、多くの人が共産党の内情について聞きにきた。
そこで彼は、ありのまま正直に語った。
ところが彼は、変節漢・裏切者として党およびそれに同調する者からあらゆる罵詈讒謗をあびせられ、一般社会も彼を「変節漢」と見なすようになり、社会的に葬られた。
では、彼は果たして「変節」したのであろうか。
少なくとも彼は、己れ自らをも他をも欺いておらず、自らにも他にも誠実だったという意味では、変節したとはいえないであろう。
私は、変節とはむしろ①の「対内的変節」を示す言葉だと思い、私自身が使う場合はこの意味だが、この変節はいわば「神のみぞ知り給う」ですぐには外部に表われないから、実際にはその言葉を使う機会がない。
もっとも、社会一般には変節とされている②の対外的変節も、その人の内心の本当の動機はわからないから、この場合もまた何とも言えない。
というのは、それが真の思想的転向いわば一種の回心への自らの誠実が理由なら、これをとやかく言う権利はだれにもないからである。
ある人が共産主義者になることも、またその人が共産主義者であるのをやめることも、本人の思想信条の自由であって、第三者が容喙すべきことではない。
だが、対外的変節がすべてこのケースかと問われれば、それもその人の内心の問題だから、これもまた「神のみぞ知る」であろう。
以上のことを簡単に要約すれば、変節とはその人の外面的な生き方からは判断できない問題だと一応は言える。
だがそれが対外的であれ対内的であれ、結局はわかる。
というのは変節の目的は常に保身もしくは組織保持であり、その人や組織が口にする思想信条はすでに目的でなく、保身もしくは組織保持の手段になっているからである。
そうでない場合――たとえば「この邪教キリスト教を一日も早く神州より一掃したまえ」と札幌神社に跪いて祈った内村鑑三がキリスト教徒になったような場合――これは保身の逆だから、人はこれを本当の回心と見ても変節とは見ず、少なくとも普通の人はこれを見誤ることはないと言ってよい。
一方この逆、たとえば共産主義者や社会主義者がもはやその主義を信じていないのに、その主義を名乗る組織を給与団体化して自己の生活や収入を維持するため、またその組織の既得権や議席などの社会的地位を保持するため等の手段としてこれらの主義を声高に主張しているなら、人はいつかはそれに気づき黙ってそれに背を向けてしまうのである。
変節とは結局、だれもそれを口にしなくとも時が明らかにしていく問題であろう。
【引用元:「常識」の研究/Ⅲ常識の落とし穴/P110~】
現在、蟹工船ブームとかで、共産党に注目が集まっているようですが、「自己欺瞞」や「対内的変節」という根本的問題を抱えている以上、残念ながら一過性のブームに終わってしまうのは間違いないと思いますね。
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