ちょっと長めですが、是非目を通していただきたい。
■「カハン報告」に生きるユダヤの歴史
「カハン調査委員会報告」と言っても、その名を知る人は殆ど皆無であり、また、この「報告」が日本のマスコミに取り上げられることもないであろう。
だがこの報告の英語版が出来るやいなや、世界のマスコミ関係者はもちろん、各国政府はじめ諸機関の強い関心を呼び、ちょっとしたベストセラーになっているという。
では、「カハン調査委員会報告」とは何か。
一九八三年九月中旬ベイルートで起こった虐殺事件の調査委員会の報告である。
委員はイツハク・カハン最高裁長官、アハロン・バラク最高裁判事、ヨナ・エフラット予備役少将の三人である。
そしてこの調査が、世界中から強い関心をもたれていることは、多くの問題について、さまざまな示唆をわれわれに与える。
まず第一に、この調査への世界の信頼性がきわめて高いという点である。
いわば調べているのがユダヤ人、調べられているのもユダヤ人だが、彼らがこれをきわめて公正に行い、ユダヤ人に不利なこと、また反ユダヤ的宣伝に利用されそうなことは故意に隠蔽しているであろうとは、少なくともユダヤ人との接触が長かった世界では、考えられないということである。
なぜであろうか。
報告書には次の言葉がある。
「選択的良心の持主のために、この調査は意図されたのでなく……事実に到達するため」行われた、と。
一体ここで言われている「選択的良心の持主」とは、どのような人を指しているのであろうか。
簡単な例をあげれば、例えばベトナム戦争のとき、米軍のソンミの虐殺は猛然と糾弾してまことに良心的だが、北のユエの虐殺には一言も発せず、その事実さえ、報道しないという形で隠蔽してしまうような人たちのこと、簡単にいえば、良心発動の対象に選択がある人のことである。
もちろんこの世界に、選択的良心の持主が多々いることを彼らは知っている。
いな、知っているどころか、「ディアスポラ」(離散)二千年の彼らの歴史は、良心的な、まことに良心的な、しかし選択的良心の持主に苦しめられつづけ、迫害されつづけて来た歴史であった。
例はいくらでもあるが、たとえば子供が行方不明になる。それを必死で探す人びとはまことに良心的な人びとである。
ところが、ユダヤ人が誘拐して幼児犠牲の祭儀を行ったのだというデマがとぶ。このとき最も良心的な人が、ユダヤ人を捕え、拷問し、あらゆる残虐の限りをつくして虚偽の自白をさせ、処刑する。
これで彼らの良心は満足する。
いわば彼らの良心は選択された対象にのみ発動されても、その選択外には発動されないのである。これが典型的な「選択的良心の持主」である。
では、これに対してどう対抗すべきなのか。
それはあくまでも事実を究明し、それを記録に残し、「時間という名の法廷」に提訴する以外にない。
これが彼らが、その長い苦難の歴史から学んだことであった。そして、カハン調査委員会の行き方は、まさにその伝統を継承しており、欧米はその伝統を知るがゆえに、この調査委員会の報告は最も信用されるのである。
われわれには、こういう歴史的体験はない。
そのためか、マスコミの「偏向」が問題とされることはあっても、「選択的良心」とは何か、何故そのようになるか、といった探究は無いと言ってよい。
従ってマスコミは、「良心的」ということ、「選択的良心的」ということを、自らの中で厳然と峻別し、後者が実は最も非良心的な行き方だなどと考える余地は全くないように見える。
われわれが極東の小さな島国であった時代は、それでもよかったのかも知れぬ。
そのため、マスコミの選択的良心が外国の選択的良心と呼応して日本政府を攻撃するといったことを、われわれは不思議と感じないほど、この問題に不感症になっているのかも知れない。
しかし、国際社会におけるわれわれの位置は昔通りではなく、われわれ自身が、何かの場合に選択的良心の攻撃の対象にならないという保証はないのである。
そうなった場合、「選択的良心の持主のために、この調査は意図されたのでなく、事実に到達するために行われた」のだと、堂々と国の内外に言い、かつそれが国際的にも広く信頼されうるような機関をわれわれはもっているであろうか。
残念ながら、現在のところは、「ない」と言わねばならないであろう。
いな、昔からこのような調査委員会を設けて、あらゆる方法でただ「事実に到達する」ことのみを目的とするといったようなことは、日本では起こらなかった。
そのような事実を公にすれば国の恥になるといった感覚から、いまわしい事件の多くは隠蔽され、そして消されて来たわけである。
だが、情勢が変化すると、消したことが逆に、選択的良心の持主のために、無限の膨張を招来することもあるのである。
その際に「カハン調査委員会報告」に等しいものが無いという状態は、民族の将来を思うとき、打ち切るべき状態であると思う。
【引用元:「常識」の非常識/P154~】
選択的良心の持ち主……それは、私自身も含め大多数の人が該当するのではないでしょうか?
こうしたことを、ダブルスタンダードと言って批難しているのを、ネットでもよく見かけますね。
でも、そうした批難を浴びせる方だって、選択的良心の持ち主が殆どです。
というか、全てにわたって良心を発動できる人なんていないと思う。
なぜなのか。
それはやっぱり、人には「偏見」がつきものであるからでしょう。
山本七平は、「ある異常体験者の偏見」の中で、次のように指摘しています。
聖書には「ヤハウェ(神)は、かたより見ないもの」という面白い言葉がある。これを逆に読めば、「人は、かたより見るもの」なのである。
つまり、人間は偏見から逃れ得ないということなんですが、どうもこのことを自覚しないでいる人が多いような気がします。
というのも、「偏見を持ってはならない」という主張をする人が余りにも多いと感じるから。
例えば、NHKは偏向しているとよく言われます。
勿論、国民の税金で運営されているNHKですから、かたよりがあってはならないとは思いますが、かといって神の立場には立ち得ないのですから、所詮NHKといえども偏向はまぬかれ得ません。
(私個人の意見としては、NHKには日本国の国益を守るとか日本の主張を内外に宣伝するといった「かたより」を持つべきだと思いますけど。)
その批判の根底には、「不偏不党でなければいけない」とか「偏見はいけない」とかあるわけですけど、これって「人は、かたよりみるもの」という現実を理解していないとしか思えないのです。
逆説的ではありますが、下記引用のとおり山本七平は「『偏見をもっていない』と主張する人こそ、最大の偏見をもっている」と述べています。
(~前略~)
ただ違う点があるとすれば、ヘブライ人やギリシャ人は、人間とは元来そういうものであるという前提に立って、何とかこれを克服する方法を発見しようとした、という点にあるであろう。
彼らは「偏見をもってはいけません」と「公正中立純客観的立場」の人がいい、「ハイ、わかりました。以後もちません」と人びとがいえばすべてがすむといったような「論説委員」的偏見はもっていなかった。
これこそ、人間なるものへの最大の偏見であろう。
従って「偏見をもっていない」と主張する人こそ、最大の偏見をもっているはずである。すべての人には偏見があり、すべての人には先入観があり、すべての人には誤認がある。
(~後略~)
【引用元:ある異常体験者の偏見/一億人の偏見/P272~】
余談ですが、ここでちょっと思い出すのが、朝日新聞の綱領です。
一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
【参照先URL】朝日新聞綱領
朝日新聞は、自らが神の立場に立ったつもりでいるのでしょう。マスコミの傲慢さが良く現れているような気がします。
それはさておき、偏見から逃れられない以上、「選択的良心の発動」ということからも逃れ得ない、と思うのです。
そうだとしたら、どのように対処すればいいのか。
まず、第一に山本七平のいうとおり、「事実を究明し、それを記録に残し、『時間という名の法廷』に提訴する」というやり方を採る必要があるでしょう。
ただ、「事実を究明する」という一点においても、人にはかたよりがありますから、「事実の認定」ひとつをとっても難しいのが現状です。
そこで問題になるのが、「選択的良心」の傾向が強い人ほど、平気で「事実の認定」を歪める傾向が強いということです。
政治的立場で「事実の認定」を歪めることを、ロマン・ロランは”最大の不正”としましたが、このことを大したことではないと思っている人が実に多いのです。
「事実の認定」を政治的立場で歪めれば、歪めない人びとを「嘘つき」にしなければなりません。
私の偏見で一例を挙げれば、反歴史修正主義者の方たちなどは、そうした状況に陥っているとしか思えないのですが…。
ただ、いわゆるネットウヨクによく見られる「日本はまったく悪くなかった」という実に一面的な歴史観も、日本が起こした「いまわしい事件」を隠蔽するものと捉えられ、そのことが反歴史修正主義者の反発を招いていることも否めません。
こうした状況を打開するには、やはり、思想信条に関わらず「事実は事実だ」と言えるかどうか…に掛かっていると思います。
自分が選択的良心の持ち主であることを自覚し、目を背けたくなる事実であっても事実だと認める姿勢を持ち続けること。
そして、自分の見解に対立する者の口を封じたり、無視しないこと。
このことも実に重要な点でしょう。
以上のことから、気をつけねばならないポイントを簡単にまとめますと、次のことになるかと。
・「事実の認定」を政治的立場で歪めない。
・人は偏見から逃れられないこと、また、選択的良心の持ち主であることを自覚する。
・都合の悪い事実を隠蔽しない。
・対立する意見を封じたり無視しない。
これらが出来ないと、いつまでたっても日本版「カハン報告」というものは出来ないのかも…。
最後になりますが、今後、我々の日本が、選択的良心の発動の対象になりかねない…そうした懸念をもっと抱く必要があるような気がしてなりません。
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