むろん、これはその方に限った話ではなく、私自身にも当てはまるんですけどね…。
ただ、少なくとも私自身は、自分自身に「その恐れ」があることを自覚しているつもりです。
ところが、「その恐れ」を全く自覚していない人がいる。
前述のご婦人などは、まさにその典型に当てはまるのではないかと思います。
このことについて考えていたときに思い出したのが、昔読んだ山本七平の次のコラム。
今日は、そのコラムが載っている『「常識」の研究』より以下引用紹介していきたいと思います。
「常識」の研究 (文春文庫)
(1987/12)
山本 七平
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◆情報の価値
さまざまな場合にその例が見られるが、われわれには違和感を感じる記述・統計・報告などを、なかなか受けつけない体質がある。
主婦などが「肌で感じたことと全く違う」といった表現で、政府が発表した数字などを拒否している記事が新聞に出るが、大変に面白い現象だと思う。
というのは、こういった主婦には、巨視的に把握された数字と自分の直接の感触との間に違和感があって当然、否むしろ違和感があるがゆえにその数字が大切なのであり、違和感を感じないなら、その数字はむしろあやしいものだといった発想が全くないからである。
情報は、自己の感触と違うものほど価値がある。
同じなら、ある意味では無用である。
だがこの自明のことが無視され、前記の傾向が極限まで行けば、その人は自己の感触以外は一切信頼せず、他の情報をすべて拒否するか、自己の感触に適合した情報にしか耳を傾けないという態度になって不思議ではない。
そして、これは実質的には感触のみであるから、このとき人は盲目同然となり、自己の触覚で知りうる範囲内だけで判断を下して行動に移る。
これが集団的に起これば、簡単にパニック状態を現出して当然であろう。
現代は、情報社会だという。
しかし情報は、受けとる側にその意志がなければ伝達は不可能である。
この前提を無視した上で、その社会に情報を氾濫させ、取捨選択を各人の自由にまかせれば、人びとは違和感を感じない情報だけを抜き出してそれに耳を傾け、他は拒否するという結果になる。
それは結局、その人の感触の確かさを一方的に裏づける作用しかしないから、情報が氾濫すればするほど、逆に、人びとは自己の感触を絶対化していく。
これは結局、各自はそれぞれ自分で感触し得る世界にだけ往み、感触し得ない世界とは断絶する結果となり、情報の氾濫が逆に情報の伝達を不可能にしていく。
それでいて本人は、自分は多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚はもっている。
それが感触に基づく判断を社会的に刺激して、それだけで断定的評価を下す結果となり、情報の受容をさらに困難にする。
この悪循環は多くの国で問題とされているが、おそらくこの面での最悪の現象を呈していると思われるのが日本で、不思議に前記のような指摘はなく、これをどう解決すべきかという提案もない。
(後略~)
【引用元:「常識」の研究/Ⅲ 常識の落とし穴/P116~】
ちょっと話がずれてしまうかも知れませんが、これは、いわゆるメディア・リテラシーの問題にも絡んでくるのではないかと。
そもそも、たとえ情報が氾濫しているといっても、全ての人びとが「情報の価値」を精査して正しく取捨選択できるわけではないことは、もともと人間には「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」がある以上、当たり前であって仕方のない事かも知れません。
けれど、仕方がないと諦めるわけにもいかないですよね。
ではどうすればよいのか?
上手くまとまりませんが、自分の考えを述べたいと思います。
たとえば、情報が制限されているような(いわゆる北朝鮮や中国などのような)統制社会であれば、その情報に扇動や誘導という目的が隠されているのではないか…と、人びとも警戒心を持ち得ます。
しかしながら、中国・北朝鮮のように強権を以って情報を制限することができない日本のような社会ではそうした情報制限を行なうことが出来ません。
そうした場合、扇動者はどのように世論を扇動したり、誘導するのでしょうか?
山本七平は「ある異常体験者の偏見」の中で、パウル=ロナイ教授の言葉を引用しながら次のように説明しています。
パウル=ロナイ教授が『バベルへの挑戦』の中で、言葉には「伝達能力」があると同時に、「隠蔽能力」があることを指摘している。あることを知らせないために百万言を語る…(以下略~)
つまり、あることを知らせないために、わざと情報を氾濫させるわけですね。
そして、「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」との相乗効果を期待する。
なにせ一見情報が溢れていますから、情報を受け取る側には「多くの情報に通じ、社会のさまざまなことを知っているという錯覚」があります。
この”錯覚”が、もともとある「違和感のある情報を受け付けようとしない性質」をますます助長するわけです。
そうすると、もはや厳然たる事実を目の前に突きつけられても、何もわからなくなってしまう。
多かれ少なかれ誰にもそうした傾向はあると思うのですが、そんな中でも憲法9条教の人たちは、その傾向がヒドイように見受けられます。
世論を扇動したり、誘導する扇動者の側からみれば、このような言葉のもつ「隠蔽性」や「違和感のある情報を受け付けようとしない体質」を利用しようとするのは当然のことでしょう。
扇動の方法も、情報を統制するという単純な統制方法と違って、扇動されている側が自覚しないという点も洗練されていて、扇動者には好都合ですよね。
その最たる成功例が、占領軍が行なったプレス・コードなのですが、このことについては山本七平が「ある異常体験者の偏見」で詳しく説明していますので、近いうちに紹介記事を書きたいな…と思っています。
さて、それでは、情報を受け取る側は、こうした状況にどのように対処すべきなのでしょう。
私が考えるに、次のことではないでしょうか。
1.人はかたより見るものだという前提で考える。
2.違和感を抱く情報こそ貴重だと受け止める。
3.異見を受け入れる度量を示す。
もちろん、これが出来ていたとしても、正しい情報がまったく流れていない場合は無力だとは思いますが…。
ただ、これらが出来ていない人というのは、いわば「扇動者」の資質を多分に持っていると見てよろしいのではないでしょうか。
(護憲派のブログってほとんどこれが出来ていないんですよね)
ちなみにですが、山本七平はこのコラムの中で、「情報を伝達する側」が取る解決策として、次のように示唆しています。
強い敵意と違和感のため、相手が絶対に受けつけないメッセージを、いかにして相手に伝えるか。
その方法は一つしかない。
これは多神教のローマに進出した初代キリスト教徒が迫害と殉教の中で会得した方法で、その第一歩は「相手が意識していない相手の前提を的確に把握し、まずそれを破壊すること」である。
正直なところ、上記の解説は私にはちょっと抽象的なので、具体的にどうすればよいのか把握できない(まず、私がキリスト教徒が会得した方法を知らないせいもある)のですが、何かこの方法って、どうも「洗脳ではないか」という印象を抱きますね。
そうしないと、相手に「正しく情報を受け入れさすこと」って出来ないのでしょうかねぇ?
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