●篠田節子
この人の小説、面白いわ。ちょっと、想像もしなかったタイプの女性小説家ですね。
「カノン」「弥勒」「女たちのジハード」「純愛小説」「仮想儀礼」と、立て続けに読みました。
①「カノン」 (文春文庫)
弦楽器のチェロ。そのチェリストを目指していた主人公の女性が、大学で出会った男性ふたりに翻弄され、人生が狂う…三角関係の恋愛小説と思いきや、実はホラーものでした(・・;)。
確かに、音楽とホラーは親和性があります。横溝正史の「悪魔が来りて笛を吹く」もそうでした。これはフルートが使われていましたが、「カノン」ではヴァイオリンです。
恩田陸や中山可穂と同様、篠田さんもクラシック音楽が好きなようです。
②「弥勒」(講談社文庫)
ヒマラヤの小国パスキムの仏教美術に魅了させられた新聞社の永岡。日本との国交を断絶したその国に、密かに乗り込むことになる。その直後に彼の運命は大きく狂う。宗教を否定し、完全平等社会を目指すとのイデオロギーを狂信する解放軍に捉えられ、死と隣り合わせの捕虜の毎日。また、愛してもいない女性と強制結婚させられる等。壮絶な生活が。
これは、船戸与一や佐々木譲などの「海外冒険小説」のような内容です。まさか、篠田さんのような女性がこういう壮大で波乱に満ちた海外冒険ものを書くとは、あの「カノン」からは想像も出来ませんでした!
ここには、宗教や思想の裏表、正義と悪、罪と罰を執拗に問う作者の意欲が表れています。
③「純愛小説」(角川文庫)。4つの短編集。
今度は純愛か。純愛、という言葉に引っ掛かったが、これが純愛?熟年の男女のが?。まったく、篠田さんという小説家は一筋縄では行かないのです。「弥勒」とは正反対の狭い世界を精密に描いています。
④「女たちのジハード 」(集英社文庫)
「ジハード」と来たか。しかし、読んでいて一番分かり易かった。5人のOLが、助平親父にセクハラされても、3高エリートにふられても、ヤクザに脅されても、めげずに生き抜いて行く、前向きのお話だ。ちょっと、藤堂志津子の小説を彷彿とさせるものもあります。小説の前半はありきたりの内容に見えますが、後半に行けば行くほど、ストーリーは濃く、熱く、すっかり、篠田さんのペースにハマってしまうのです。
決してヒロイン的ではなく、長所も欠点も普通に持ち合わせた5人の女性。その個性の描き分けの見事さ、平凡にみえて奥深い人生の在り方を考えさせる。これが直木賞を獲得したのもうなずけた。
人生の真実は一つではない。こんな人生にはこんな真実があり、あんな人生にもあんな真実がある。読み手にそう考えさせることも、優れた小説の条件と思います。
⑤「仮想儀礼:上下2巻」(新潮文庫)
これはちょっと私にはイマイチでした。何故か?
篠田さんでもそうなのか。。。
これは…偉そうに言います…女性小説家に共通した欠陥と思うのですが、会話の部分に、「冗漫なおしゃべり」が目立つのです。「お茶の間小説」と揶揄されるように。「ガールズトーク」「女子会」のように。
篠田節子は特定のカテゴリー、ジャンルに偏せず、ミステリー、ホラー、冒険、恋愛、宗教・思想と、守備範囲が広いのも特長のようです。いやあ、わたし、最近までこの女性小説家のこと、知りませんでした。
●辻村深月
実は、女性小説家の辻村さんの小説を(今のところ)私はあまり好きにはなれません。
これといって感銘を受けたことも無い。しかし、どうしても、「おさらば」出来ない何かがある。引っ掛かるものがある。何だろう?と気になることがある。興味があるのかな。
「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」「ツナグ」「盲目的な恋と友情」
原則として、私は2冊(2作品)読んでみて、「自分には合わない。好きになれない。」と思ったら、その小説家とはおさらばすることにしています。
「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」「ツナグ」を読み終わった時点で、辻村さんの小説とはおさらばかな?と思いましたが、何か引っ掛かるものがありました。
また、若手…といっても今は40才か…でバリバリ活躍し、人気も高い辻村さんの小説を楽しめないということは、私が中年になり、感性が衰えているのか?そんなこと無い!という思いもあり、なおのこと、おさらば出来ませんでした。3冊目の「盲目的な恋と友情」を読み、ついに辻村さんの小説を諦めることが出来なくなりました。
誉めてもいて貶してもいる言葉として、辻村さんは 「目端が利く」「芸達者」な小説家と思いました。
SFでさんざん使われた手法、「特殊能力の持ち主」「死者が生き返る」もあれば、ミステリーでさんざん使われた手法、「前半はA、後半はBの視点」「殺人者と、殺人後に手を加えた者が別々」「行方不明者を探す旅」「どんでん返し」等、何でも器用に駆使しています。
上手いと思う。読者が喜ぶ術をよく心得ている。最後まで読まずにはいられなくなる。しかも、登場人物は小学生から高校・大学生が多く、比較的若い読者層にも受けるであろう。
しかも、恋愛では決して綺麗事に終始せず、女のどす黒い感情をむき出しにしてみせたり、露骨なセックスシーンすらも辞さない。これもまた、読者に「女性の心理を描くのが上手い」「内容が濃い」と、ウケそうだ。
最近は、どちらかと言うと、ドロドロとしたものよりも、サラッと何気なく、の小説の方が好まれて来た様子があるので、逆に、女のドロドロとした世界をえぐる辻村さんの小説を新鮮に感じる読者もいるであろう。
特に、「盲目的な恋と友情」には辻村さんの特徴が良く出ていると思います。
私も普通の小説愛好者として、上記のようなものも嫌いではない。
昔も今も、女性小説家といえば、「女の特性を売り物」にして来たのであり、また、読者もそれを期待して読んで来たのです。瀬戸内晴美、円地文子、藤堂志津子、桜木紫乃、村山由佳等。。それぞれ個性もジャンルも異なれど、みな、女性心理を描くのはお手の物だ。
もっとも、「女性を描くのが下手な女性小説家」ではお話にならないでしょう。そうすると、「女性の心理を描くのが上手い」は、辻村さんの特長になり得ない。
では、私はどこが気に入らないのか?
藤堂志津子や桜木紫乃の小説と文章には、ストイックなもの、凛々しさのようなものが漂っているのですが、辻村さんの文章は…甘ったるい安香水的な感触を肌に感じます。
あるいは、いかにも「女の子で~す」的なスイーツ臭が漂う。
例えば、「盲目的な恋と友情」の文章に、
……そうやって、彼と数えきれないほど会い、食事して。キスをして抱き合って…
「~て」「~て」を重ねて行く書き方。品が無く、いやらしい。
さらに、
…私は蘭花に謝っていた。
ごめんね、ごめんね、蘭花ちゃん。
のように、短く行を変え、読点で繋ぎながら、同じ語句を繰り返す書き方。
まさに、安香水的甘ったるさが鼻につく。
卒業も近い大学生が、何が、「蘭花ちゃん」だ。
「ちゃん」じゃねェ~よ!
問題は、辻村さんはこうした書き方を「意図的に、あえて」しているのだろうか?それとも、彼女の個性から自然に湧いて来たものなのだろうか?です。
私は前者のように思える。あえて、そうやってみせた、との遊戯的な発想。これもまた、「芸達者」の一つなのだ。こうしたタッチの文章に快感を覚える読者がいることも事実なのだ。
しかし、私はこうした、あざとい手法には抵抗を覚えます。
それなら、読まなければいいじゃないか、と言われるかもしれない。
「盲目的な恋と友情」の後半では、傘沼留利絵(ネーミングもマンガチック)が主人公になるのですが、この女性の描き方がちょっと純文学的なのだ。
女性特有の、「妄執のうめき」をこれでもかこれでもか、と執拗にえぐり出す。留利絵はほとんど神経不安症に近い。現実と意識がズレまくり、しかも、そのズレが本人の問題とは絶対に気がつかない。
この辺りの内容には単なる娯楽小説の世界を超えて、文学に最も接近した瞬間がある。
読み手はまったく救われず、ゲンナリさせられるであろう。
内容に建設的な姿勢が無く、読者に不毛の疲労感を与えるだけなのに、辻村さんは娯楽小説であることを忘れたかのように、女性の黒い心理をひたすらえぐるのだ。
留利絵のような女性を21世紀型の新しいタイプとして描き切ったら文学だ。
もしかすると、辻村さんは娯楽小説を書きつつも、どこかで純文学を書きたいとの欲求が抑えられなくなっているのかもしれない。二つの世界の間で揺れ動いているのかもしれない。
この「盲目的な恋と友情」にはそう思わせる内容がある。
辻村さんには潜在能力の高さに加え、将来性がありそうです。
最近、私が読んだ小説家の中では彼女が一番年齢が若い。
それだけ期待もあります。
最初に言いましたように、私は辻村深月の小説が好きにはなれません。
しかし、私が彼女の世界から離れられない理由はこれまで書いた通りです。
※
辻村さんの新しい作品、「かがみの孤城」と、ジェイン・オースチンの「高慢と偏見」を意識したらしい、「傲慢と善良」の評判が高いようです。
読みたいのは山々なのですが、他に読みたい本が目白押しです。また、私は図書館で借りるのは苦手なので、上の両作品の単行本が中古本店で安く売られるか、文庫本になるまで待つつもりです。
2020.06.29 |
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●天童荒太「悼む人・上下2巻」(文春文庫)
恥ずかしいお話ですが、小説の題名、「悼む人」を、私は「たたずむひと」と読んだ。「悼」という漢字を私は正しく読めなかったんです。しかし、「哀悼」の「悼」で、「あ、なーんだ。そうか。」となりました。
これは私の深層心理に関わるのですが、以前、筒井康隆の短編で、「佇む人」という不思議な小説を読んだことがあります。どうやらこれが頭のどこかにあり、「悼む人」を「たたずむひと」と思いこんだのでしょう。一見すると、「佇む」も「悼む」もどこか似た絵柄に見えませんか?「オムツ」と「オツム」がそうであるように。あ、そう思うのは私だけ(^_^;)
天童荒太の小説では、「永遠の仔」や「家族狩り」の方が評価が高いようですね。この二つも良いのですが、私は、「悼む人」の方に強い感銘を受けました。こちらの方が小説としての出来、完成度が上だと思うけどな。
前者の2作品はいずれも「家庭内暴力・虐待」等の重いテーマを扱ってはいますが、一応、ミステリー仕立てになっていて、エンタメ的要素がかなりあります。
「悼む人」はエンタメ性はほとんどありません。
ここで扱われているテーマは、人間の「生」と「死」。「死者といかに向き合うか」等で、ある意味非常に明快です。これをひたすら追求した小説です。
気楽にサラサラと読むような小説ではありません。
一人の青年がいて、アカの他人の死亡記事や情報を得ては、亡くなった場所を訪れ、死を悼む、という巡礼のような旅を続けるのです。このような不思議な青年の生き方が、他の登場人物の視線で様々な角度から描かれています。
純文学的な小説です。大事なのは、どんな内容であれ、どんな書き方であれ、そこに文学的な感銘があるかどうかでしょう。「悼む人」にはそれがあると思います。
少々、スピリチュアルな内容でもあるので、読者によっては敬遠したくなるかもしれませんね。
●それにしても…ドストエフスキーの影響力は日本でも強大です。
ドストエフスキーに大きく影響を受けた小説家は、三島由紀夫をはじめ、村上春樹も天童荒太等、数多い。次はフランスの恋愛小説の系統でしょうか。大岡昇平のように。
天童荒太の扱う「家庭崩壊」「家族問題」は、古典的名作、「カラマゾフの兄弟」のテーマでもありました。ドストエフスキーは「作家の日記」の中で、「偶然の家族」と題してロシアの家庭崩壊を問題にしています。
ロシアの良き家庭は、ロシア正教会を信仰し、父親の権威がしっかりしていたので幸せな家庭が成立していた。しかるに、西欧から科学的合理主義なるものがロシアにも蔓延し、合理主義で人間が分かったような顔をした連中が増えた。それによりロシア正教会の信仰が薄くなり、父親の権威も失われてしまった…というような内容だったと思います。何やら、エライ保守的な内容ですが、現代の家庭問題を考えた時、ドストエフスキーの問題意識には普遍的なものがありました。それゆえ、今でも彼の小説は読まれているのだと思います。
ただし、日本と、欧米・ロシアとの…どうにもならない大きな違いは…信仰という問題の有る無しです。ドストエフスキーの影響を受けた日本の小説には、「心棒」が欠けていると思います。「心棒」とは、一神教であるキリスト教がバックボーンにあること。日本のように、多神教や神道や仏教等が混然としている社会では、どのような文学にも「心棒」が欠けています。
日本の小説家がいかに深刻な問題意識を持っていても、彼等の小説が世界的な普遍性を勝ち得ないのはその辺にも理由がありそうです。「言葉の壁」だけではありますまい。
川端康成や三島由紀夫が欧米で人気なのは、たぶんに「物珍しさ」が影響していると思います。欧米人は、「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリのジパング」の秘密がここに潜んでいると期待するのでしょう。
●マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ・全5巻」(岩波文庫)
名作です。
トルストイの「戦争と平和」に比べると、「深みや重厚さに欠ける」と言う人もいます。そうかもしれない。が、深みや重厚さばかりが小説の醍醐味ではありません。
スカーレットという強い女性の生き方、という点で、「ジェーン・エア」に勝るとも劣らぬ魅力があります。
両方読み比べたわけではありませんが、新潮文庫版よりも岩波文庫版の方が良いと思います。何故かと言いますと、各巻末に詳しい解説があり、「注」も多いからです。
小説を読む楽しみには、単にストーリーやドラマを味わうでけはなく、そこに描かれている人間と社会の歴史的背景や社会システム、そして文化を知ることにもあります。
トルストイの「戦争と平和」を読めば、ロシア史を知りたくなります。ゾラの「ナナ」を読めば、フランス近代史を知りたくなります。「風と共に去りぬ」も同様です。
南北戦争の時代、ジョージア州アトランタはどんな社会だったのか?、何故、スカーレットと父があれほどタラの土地に執着するのか?当時のアメリカにおいて、アイルランド移民とはどんな存在だったのか?大地主と黒人奴隷の具体的な姿は?…これらが分かると、「風と共に去りぬ」を読むのがより楽しくなります。
その点、岩波文庫版は私にはとてもありがたかったです。
小説を読んで驚嘆したのは、あの映画版が原作をかなり忠実に生かしていたということ。大長編の小説をよくぞ上手く230分の映画の中に組み入れたと、脚本家にも拍手を送りたくなります。
もちろん、違いもある。映画ではスカーレットの子供は娘一人だけでしたが、原作では3人だか4人も子供がいたことになっています。しかし、これは映画・小説のテーマから見れば、大した問題にはなりません。
同じ黒人奴隷といっても、畑仕事をする黒人よりも、家の中で仕事をする黒人の方が「格上」なんですね。映画でも印象的に描かれたいましたように、オハラ家に仕えている黒人女性マミーが、わりと威張っていたのは、単なる演出ではなく、マミーの個性だけにあるのではなく、彼女の地位がそうさせているのだと分かります。
こういうことも、岩波文庫版で分かったことです。
これでまた映画版を見ると、より楽しく観賞することが出来ますね。
こちらは…とても観賞に堪えません。画像、お借りしましたm(__)m
2020.06.01 |
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私は活字中毒な本好きですが、現代ものを書く女性小説家で私の好みに合うのは少ないです。
つまり、時代ものでもなく、ミステリーでもなく、SFでもなく、いわゆる、現代ものです。
山田詠美、藤堂志津子、江國香織くらいか。桜木紫乃はミステリー系もあるけど挙げておきます。
最近、ブログ友のはぴらき様から、村山由佳と宮下奈都を紹介され、村山由佳の「ダブルファンタジー」や宮下奈都の「羊と鋼の森」が面白かった。
●女性小説家の描く「現代もの」の小説と言えば、
①人妻の不倫の恋
…なんたって、「よろめきドラマ」の中心ですから。昔も今も女性は「よろめきもの」が好物。
大岡昇平の「武蔵野夫人」や三島由紀夫の「美徳のよろめき」はまさしく「よろめきドラマ」の名作。が、男性小説家ゆえ、女性の描き方があまり上手くない。これはもう、女性小説家の得意とする所ではないでしょうか。ラファイエット夫人の「クレーヴの奥方」は女性小説家による古典ですね。
女性の「離婚願望」と「不倫願望」は現実はともかく、深層心理的には間違っていないと思います。
②家庭内の問題を扱うもの
…幸せそうに見える家族にも、一つや二つ、他人には決して言えない「傷」や「恥」や「苦悩」というものがあります。結婚問題もその一つ。中流~上流階級の家庭では、「苦労」は無くとも「苦悩」はあります。例えば、オースティンの「自負と偏見」「エマ」等は古典の名作ですね。
③女性の成長を描く。ビルディングスロマン。
…ロマン・ロランの名作「魅せられたる魂」はその典型。ロランは当時の男性小説家としては女性を上手く描いている方だと思います。女性の成長物語はNHKの朝の連続テレビ小説の定番になっていますね。シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」は名作。最近では、上で挙げた宮下奈都の「羊と鋼の森」が良かった。
それと、私は藤堂志津子の小説が好きなのですが、最近も「プライド」「ひとりぐらし」を読み、一人、たくましく成長して行く女性の姿に感銘を受けました。
④純愛もの
…どこか少女漫画の延長線上にある感じもありますが、やはり、「純愛」という言葉の響きに女性は弱い。女性は何歳になっても、ピュアなものに惹かれます。江國香織の「きらきら光る」とか山田詠美の「放課後の音符」とか。
⑤官能系
…ポルノ小説ではありません。「愛」と「セックス」の問題は立派に今も文学的テーマです。
村山由佳の「ダブルファンタジー」は、いわゆる「ニンフォマニア」のヒロインが登場するのですが、内容的には真摯でして、女性の自立の在り方を必死に問う物語です。
⑥ホモセクシャルやバイセクシャルもの
…同性愛や両刀使い・二刀流の女性や男性を描く。これはもう、中山可穂(中山美穂と間違えやすいの注意)にとどめを刺す。他に松浦理英子も個性豊かな小説家。長編の「親指Pの修業時代」(河出文庫)は、⑥と③の複合した内容。突然ペニスと化してしまった足の親指を持つ一人の不器用な女性が主人公。一見、SFのぶっ飛び物語に思えますが、中味はひたすら真剣も真剣。「性愛」「同性愛」について、ここまで突き詰めて書かれた小説が過去にあっただろうか。
三島由紀夫の「仮面の告白」もこの類に入るかもしれません。
中山可穂さんは自ら同性愛者と公に明かしています。
そもそも自らLGBTと世間に明かすこと自体が大変なことでしょう。同性愛だからこそ、純愛も生まれれば、深刻な三角関係も生まれますし、子供をどうするか?という問題も生じます。
これらは立派に文学的テーマとなり得ますね。
ちなみに、中山可穂の「サグラダ・ファミリア」はこのテーマを真剣に追求した傑作と思います。読者の劣情を満たすようなキワモノ本とは全く違います。
①~⑥に無理矢理分類しましたが、実際は、これら複数の要素が重なっているのが普通ですね。
日本の文壇?ではこの世界の文学に対する評価が低いのではないでしょうか。偏見もあるのでしょうか。松浦理英子も中山可穂も「芥川賞」にも「直木賞」にも選ばれないというのは疑問です。私から見て、彼女達よりもずっと平凡で退屈な小説を書いている人が何人も受賞しているというのに。
☆
いわゆるLGBT…正直に言いますと、私も偏見が全く無いとは言えないと思います。頭では理解したつもりも現実にビアンの人と自然にお付き合い出来るのか。
☆
日本ではLGBTの割合は7.6%とのデータがあるそうです。明かせない人もいるでしょうから実際はそれ以上かもしれません。従業員100人の企業であれば7~8人となります。もしかしたら、あの女子社員はビアンか…と思った人はいましたが、分かりません。相手も私を、もしかしたら…と思っていたかもしれないからです。
●中山可穂の世界
私がこれまで読んだのは、主人公、王寺ミチルの三部作、「猫背の王子」「天使の骨」「愛の国」。長編の「感情教育」、中編の「サグラダ・ファミリア」。宝塚三部作の中の「娘役」。短編集の「弱法師」「悲歌」「花伽藍」です。次に読む予定にしているのが、中山可穂の最長の小説、「ケッヘル」(講談社文庫・上下2巻)です。
王寺ミチルがその典型なのですが、少年的・中性的な風貌でありながら麗しき女性であり、ビアンであり、女たらしであり、演劇オタクであり、少し触れただけで血が吹き出そうな破滅志向人間…ともなれば、それだけで美しい世界。私なんかは読んで身体がカッカと熱くなります。
上の「猫背の王子」の表紙の絵ですが、知る人ぞ知る有名な絵とか。
中山可穂は女性小説家にしては硬質な文体※で、内容は激しくとも語り口は冷静と思います。むしろ、それだからこそ彼女のストーリーがリアリティを持ち、グワーッと噴き上がる情念の熱さを生むのでしょう。どこからか狂気の風が吹き込んで来るような趣きすらあります。
文章と内容のアンバランス…これがたまらない!
で、私、アッと思ったのは、私が語った彼女の小説の特長はノワール小説・ハードボイルド小説にも繋がるものなのだと。不条理な暗黒と絶望から崩壊へと突き進む情念。血の熱さ。それをどうすることも出来ない人間の姿です。大藪春彦、北方謙三、志水辰夫、大沢有昌、花村萬月の系列です。
最近、中山可穂がハードボイルドを書くようになったのも分かるような気がします。
「感情教育」から、印象的な言葉を一つ。中山可穂の信条でしょう。
「愛とはお互いの血を吸って生きることだ。魂は肉体の中にあるのだ」
※
中山可穂は寡作ですね。硬質な文体との関連がありそうです。
※
最近では、「レズ」とは言わず、「ビアン」と言う。
「レズ」という言葉は余りに手垢にまみれたので、同性愛者の間では厭われているとか。
☆
松浦理英子も中山可穂も決して、メジャーな女性小説家ではないでしょう。その代り、熱烈なファンもいるらしい。よく探せば素晴らしい小説を書いている例は他にもいくらでもあるのでしょう。
例えば、村田喜代子も気になります。
私の世代ではあまり聞かない名前だし、書店でも目にとまったことがないのです。
しかし、芥川賞を受賞しているのです。どうなんでしょうね。
2019.04.19 |
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…城山三郎『旗』より…
旗振るな 旗振らすな
旗伏せよ 旗たため
社旗も 校旗も
国々の旗も 国策なる旗も
運動という名の旗も
ひとみなひとり
ひとりには ひとつの命
…………………
城山三郎の実直な人柄、権力への断固たる反抗が伝わって来る詩と思います。
私は城山三郎の小説が好きだが、この詩も好きだ。
私は思う。
旗振る人の元に集まっても、群れても、
結局、そこで得をするのは誰か。
それは、旗を振っている人だけなのだ。
旗を振る者、権力者、リーダーに唯々諾々と従うような人間に私はなりたくない。
国の為に、会社の為に、母校の為に、組織の為に、リーダーの為に、
自分を犠牲にするなどまっぴら。
国や会社と心中するなど、これほどバカげたことがあるだろうか。
自分が犠牲になって喜ぶのは誰か?
それは歴史を見ればわかる。
2018.09.09 |
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