お勧めの海外文学・愚見を少々
●デュマ作「モンテ・クリスト伯」(岩波文庫)
気合いを入れないと読めない巨編であり、内容が荒唐無稽な復讐劇というイメージもあり、なかなか手にとって読む意欲が湧かなかった小説。
たまたま、アレクサンドル・デュマの伝記小説、佐藤 賢一の「褐色の文豪」 (文春文庫)を読んだらこれが実に面白かった。破天荒とでも言うべきデュマの人生は痛快だ。日本の小説家には望めないスケールの大きい一生だ。そんなデュマの本であれば、気合いを入れて読んでみるか、となった。
実に面白く、感動的でした。涙が流れた。貪るように読んだ。壮大なロマンだ。単なる復讐劇では決してない。食わず嫌いはいけないな。歴史背景として、ナポレオンによる「百日天下」の辺りからストーリーが始まるので惹きこまれる。
「モンテ」はイタリア語で「山」の意。「クリスト」は「キリスト」だ。つまり、「モンテ・クリスト伯」は「キリスト山伯爵」だ。デュマはダテにこの名前を付けたのではない。
この小説が単なるエンターテイメントではなく、人間を深く捉えた文学となっている秘密はここにある。そうでなくては現代まで多くの人に愛読されて来なかったであろう。文学や音楽、絵画等におけるキリスト教の影響は深い。
「モンテ・クリスト伯」は同時代のユゴーの巨編「レ・ミゼラブル」と比べても遜色の無い名作と思う。
●ロマン・ロラン作「魅せられたる魂」(岩波文庫)
実は学生時代に読もうとしたが第一巻目の途中でメゲた。「ジャン・クリストフ」と比べ、文章にやたらと比喩や形容句が多く辟易したからだ。
今回は「モンテ・クリスト伯」を読んだ余勢でこちらの巨編に取り組んだ。
文章がやや晦渋なので苦労するが、じっくりと読んだ。これも素晴らしい小説だ。
「ジャン・クリストフ」が主人公クリストフを中心とする「自己形成」の物語であるのに対し、「魅せられたる魂」は女主人公アンネット・リヴィエールを中心とする「自己変革」の物語である。
アンネットはきちんとした教育を受けた中産階級の大人の女性として登場する。多くの人と交渉し、多くの問題に直面する中で、アンネットは次第に主観的自我の迷いや幻想から目覚め、より社会的、普遍的方向へと脱皮して行く。その生き方と成長に私は深く共鳴し、また感銘を受けた。
この小説が着手されたのは1921年、ロマン・ロラン55才の時であり、完成は1933年、ロラン67才の時だ。この小説には第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代という、ヨーロッパの破局が反映されている。
第一次世界大戦後、ドイツに革命が起き、ドイツ帝国は崩壊。ロシアでもロシア革命が起きた。そして、アンネットの生き方にロランの当時の生き方が反映されていると感じる。ある意味、個人主義的な自我の中に閉じこもっていられぬ時代でもあったのだ。
アンネットのような女性が直面する問題の一つが結婚であり、母の役割と社会活動をどのように折り合いをつけて行くかだ。当時のフランスでは(今の日本もそうだが)、結婚は「男性による女性の吸収合併、もしくは併合」なのだ。決して対等ではない。小説中の言葉を引用すると、
…アンネットは夫のロジェの妻に対する意識を読みとってしまった。
「自分の妻…『この犬は自分のものだ』…。
「魅せられたる魂」には、「人間の素晴らしさ」に心が洗われる思いがする箇所がいくつもある。読み通すにはかなりの気合いと労力が必要だが、その分だけ報われるものも多い。
この物語は、荒んだ現代人が失いつつある「心の清さ、気高さ」に満ちている。「魅せられたる魂」を未だ読んでいない人は幸いだ。何故なら、こんな素晴らしい小説を初めて読む喜びが待っているのだから。
●フランソワ・モーリアック作「テレーズ・デスケルウ」・「愛の砂漠」(新潮文庫他)
モーリアックの小説は読み手に再読を強いる。文庫本で150ページ前後の中編だが内容の集約度が非常に高い。少なくとも私のような不注意な人間は、一度読んだだけでは大事な点をいくつも見過ごしてしまう。ストーリー自体はごくシンプルだが、これが曲者なのだ。
実は私が上記の2作を読むのはこれが3回目だ。何回読んでも汲み取れぬ何かがモーリアックにはある。夏目漱石にも同じことを感じる。
女主人公のテレーズも夫も、田舎の地主の出だ。比較的裕福な環境で育った者どうしが結婚した。真面目だが世間への体面を気にする平凡な夫。単調で荒涼とした土地の生活。テレーズはやがて無意識に不安や恐怖を覚える。何故か、テレーズは夫に毒を飲ませる…。
モーリアックはテレーズを決して道徳的に断罪はしない。さりとて夫も擁護しない。殺人未遂の動機の説明も無い。説明が無いことでこの小説は成功している。
テレーズは果たして「特別な人間、女性」なのだろうか?現代の私達の心の中にも「テレーズ」は潜んでいるではあるまいか?私達の意識下にも「荒涼とした土地」があるのではないか?
あるいは、キリスト教への信仰を失くしたヨーロッパ人の心の虚無のなせるわざか?テレーズは一度だけ「神」の存在について自問している。カトリック信者だったモーリアックの問いでもあるか。
「テレーズ・デスケルウ」も「魅せられたる魂」と同様に、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に書かれた。こうした荒んだ時代背景と無縁ではないであろう。
二つの大戦で、それまでの「ヨーロッパ帝国の栄光」は完膚なきまでに崩れ去った。
戦後に活躍したサルトルのような無神論の実存主義者(カミュもそれに近い面があった)とモーリアックは水と油である。独断ではあるが、私はサルトルの「嘔吐」「壁」やカミュの「異邦人」「ペスト」よりも、モーリアックの「テレーズ・デスケルウ」や「愛の砂漠」の方が人間をより深く捉えていると感じる。
一度は手にしてじっくりと読むべき名作と思う。
●トルストイ作「イワン・イリッチの死」(岩波文庫)
ごく平凡な一人の官吏(裁判官)が不治の病で死に直面する。恐怖、怒り、虚しさ、迷い、孤独、諦念…トルストイはイリッチの心の葛藤を生々しく、そして、実に鮮やかに描いている。
妻は夫の死後の「金勘定」のことだけに心がいっぱいであり、子は父の心の葛藤には無関心であり、友人はイリッチの地位(裁判官)の後釜に座らんと気をもむ。
当時のロシアの中産階級の家庭はこういうものだったのかもしれないが、家族にロクに看病もされず、心の慰めも与えられないイリッチの姿は悲惨である。もちろん、その何割かは己の生き方にも原因があったのだが。。。
こうした中で、懸命に彼の看病をする一人の下僕の温かさにイリッチは心の慰めを得る…。
読んでいて厳粛な気持ちにさせられる。
わずか100ページ程度の小品だが、インパクトは強烈であり読後の印象は極めて鮮明だ。ひょっとすると長編の「復活」よりも、こちらの方が普遍性が高いかもしれない。
人間が誰しも逃れられない「死」について、真正面から真摯に描いた名作。
●「マーク・トウェイン自伝」
私は「自伝」はあまり好まない。何故なら、事実関係に誤りや偏向がどうしてもあるからだ。また、概して内容が嫌味な自慢話や誇張された苦労話になりやすい。
しかし、例外はこれだ。何せ、あのマーク・トウェインであれば彼一流のユーモア冒険小説を読んでいると思えば良いのだから。多少の「ホラ」があったとしても許せる。
とにかく、こんなに面白くて痛快な「自伝」は初めて読んだ!!
マーク・トウェインがアメリカで最も尊敬され愛される小説家の一人と分かるような気がする。
●妹尾韶夫訳編「ザイルの三人・海外山岳小説短編集」(朋文堂)
私は山岳小説にもハマっているのだが、その中から欧州の小説家のものを。
この短編集には「サキ短編集」で知られるスコットランドの小説家サキ作「第三者」や、フランスの大家モーパッサン作「山の宿」も入っている。が、最も優れているのはほとんど無名の小説家、ジェームス・アルマン作「形見のザイル」「二人の若いドイツ人」である。
短編でありながら中味は壮大だ。山にのめり込んだ男たちの人物造型が素晴らしく、深い感銘を受ける。命がけの岩壁登攀や厳しい冬の高山への登頂には、不思議な魔力があるようだ。こうした極限の困難に鬼神のごとく挑戦する男達の、良くも悪くもエゴの発露が文学の題材に成り得るのである。
私はもちろんヨーロッパアルプスを見たことは無いが、映像や画像から辛うじて光景を想像するだけだ。湿気の多い日本の緑の山々と乾燥したヨーロッパの無機質な山々との違いは、八ヶ岳や奥秩父の山を登った程度の私にもそれなりに想像できる。
今の私は海よりも山の方が好きだけど、垂直に切り立った険しい岩壁を登攀するのは例え100万円積まれたってご免だ。しかし、以前の私は、「山登り、それも冬山や岩壁を登るなんて、アホだ」と思っていたけど、今はそう思わない。
2017.06.24 | | コメント(4) | トラックバック(0) | 文学