「イル・サンジェルマンの散歩道」のjeanvaljeanさんの、フランスの歴史教科書についての労作記事を勉強のためにお持ち帰りさせていただきます。かつて敵対していた二国間の歴史認識の共有について勉強になります。文章だけを転載しますが、写真などがリンク先にありますので、興味ある人はぜひご参照をお願いします。
今回の分については日本についての記述もあります。フランスの歴史教科書に日本のことがどのように書かれているかを知るよい機会です。
jeanvaljeanさん、労作のまとめをありがとうございます。
●イル・サンジェルマンの散歩道 ■フランスの歴史教科書 No.1 目次http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-192.html フランスのlycee (高校)の歴史教科書について見て行きたいと思います。1学年では先史時代から1850年まで、2学年では第2次大戦まで、3学年では戦後および現代までを学びます。今回は2学年の教科書(BELIN社)を取り上げます。この教科書には、当時の録音が入ったCDも付いています。 第1部 産業の時代および19世紀の中頃から1939年までの文化 第1章 産業の発展(22頁) 第2章 新しい社会関係(20頁) 第3章 産業時代の宗教と文化(24頁) 第4章 ヨーロッパと支配される世界(22頁) 第2部 19世紀の中頃から1914年までのフランス 第5章 第2共和制から1879年まで(20頁) 第6章 新しい政治文化の定着(18頁) 第3部 1814年から1945年までの戦争、民主主義そして全体主義 第7章 第1次世界大戦(28頁) 第8章 二つの世界大戦間のフランス(18頁) 第9章 ファッシズムのイタリア(12頁) 第10章 ナチスドイツ(14頁) 第11章 スターリンのソ連(14頁) 第12章 第2次世界大戦(26頁) 第13章 戦争下のフランス(18頁) ■フランスの歴史教科書 No.2 第二次世界大戦中の日本 その1http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-193.html 今日は第12章(第二次世界大戦)の最後のページ(バカロレアの手引き)で、第二次世界大戦下の日本に関するつぎのドキュメントを取り上げています。 1. 学校や軍隊で歌われた歌詞 2.国威発揚のポスター 3.731部隊 4.原爆投下後の広島の状況を伝える医者の手記を報じる日本の新聞 5.昭和天皇の降伏宣言 まず学校および軍隊で歌われた歌詞(1942年)は、次のような内容です。 地の果て、星が輝き木の下でライオンが吼える、遠い砂漠に、 我々の血で染め上げた日の丸を打ち立てよう。 ヒマラヤの麓に流れるガンジス川のワニをつかみ出そう。 ロンドンの空高く、鯉のぼりをたなびかせよう。 明日モスクワと雪に覆われたシベリヤは、我々のものになるだろう。 孫たちは私たちのために、ギャングたちを追い払ったシカゴに記念碑を建てるだろう。 私たちが死に赴く日が来たとき、死への不安と戦おう。 J. Lequier のLe Japonより引用 戦時歌謡を調べたのですが、このような歌詞は見当たりませんでした。日本紹介の本からの引用ですが、ちょっと首を傾げたくなる内容です。 -------------------------------------------------------------------------------- 次に国威発揚のポスターについては次のような解説がしてあります。(写真参照) 枢軸国との同盟と1941年の真珠湾攻撃を祝して、1943年報道部が作成。このポスターは、1940年9月に結ばれた日独伊同盟の調印を画いている。二本の刀を持つことを許され、信義を掟として命を捧げる侍の伝統的なイメージは、この国が大儀とする思想を表している。 ■フランスの歴史教科書 No.3 第二次世界大戦中の日本 その2http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-194.html 371部隊 満州に駐屯した超機密部隊の371部隊は、3,000名以上の捕虜(その多くは中国人)に対して化学兵器や細菌兵器(特にペスト菌)の実験をおこなった。それから中国の軍隊や住民に対してそれらを使用した。部隊長の石井四郎司令官はアメリカ側と交渉し、研究結果を提出することを条件に、自分と部隊員にたいする責任追及を免れることに成功した。しかしこの戦争においてこのようなことをおこなったのは731部隊だけではない。 中国中部では、1644部隊が同様な暴虐をおこなった。一方南太平洋ではラバウル島において、日本の部隊が現地人やオーストラリア人およびアメリカ人の捕虜に対して、様々の細菌兵器(マラリアの伝染を含む)の実験をおこなった。 2002年12月発行の雑誌L’Histoire271号にFranc Michelinが寄稿した「日本の戦争犯罪に対する訴訟」からの抜粋 原爆投下後の広島の状況を伝える医者の手記を報じる日本の新聞 「私は、私の前を人間の影が行進するのを見た。それは幽霊の列のように見えた。その中の何人かは、言語を絶する苦しみが襲っていうかのように両腕を前に差し出し、震わせながら歩いている。その人影は、それがむごたらしく焼かれた人々で、周りの人に接触することで痛みが増すことを避けようと、むき出しの両脇にくっつけているとわかるまで私は呆然としていた。[・・・] ひとりの老婆が私の方に倒れこんできた。その顔は苦しみによって引きつっていたが、唇はどんな声も発しなかった。私が見た人々は、どれも同じであった。まるで幽霊のようだ。ひとつひとつの動作が、完全な沈黙の中でなされるのだ。」 蜂谷道彦* 広島の新聞新聞 *1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されたとき、蜂谷は広島市の自宅にいて被爆、ガラスなどの破片が刺さるなどの怪我をして30近い傷の縫合を受けた。8月11日、怪我から回復した蜂谷は院内回診を始め、患者の病床録作りを医師に指示した。その結果、患者の白血球が減少していることを突き止め、爆心からの距離、被爆位置と白血球数の関係を地図にして発表した。院長としての原爆投下直後の56日間の記録は『ヒロシマ日記』として世界18カ国で出版された。『ヒロシマ日記』の印税は被爆孤児らに奨学金を贈る広島有隣奨学会の設立に使われた。 ■フランスの歴史教科書 No.4 イタリアのファシズム その1http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-195.html 教科書では、イタリアのファシズムについては12ページを費やしています。また資料については、理解を深めるための設問もあります。ファシズムとはどんなものか、いかに国民が組織されていったかについて体系的に理解できる構成になっています。 第1節 新しい体制の誕生 A.イタリアの民主主義の早すぎた危機 B.ファシストによる権力奪取 C.独裁の定着 (資料)ファシストの二つのプログラム、 ファシストのローマへの行進(写真)、 ムッソリーニとガスパリ枢機卿によるラテラノ協定の調印(写真)、 ムッソリーニ頭領の絶対権力-1925年12月24日の法律 第2節 ファシズムと(他国の)諸ファシズム (資料)ひとりのドイツ人による自由主義の断罪、 労働者の新しいヨーロッパ(ポスター)、 ポルトガルのEstado Novo新国家、 ファシスト・イギリス連合の領袖であるオズワルド・モスレー卿(写真) スペインのフランコ主義、 ひとりのフランス知識人のファシズムへの転向 第3節 全体主義国家の創出 A.個人は無、国家が全て B.経済の統制 C.国民国家の賛美 (資料)ローマで開かれた「自給自足経済体制」博覧会-「ムッソリーニは常に正 しい」1938年11月(ポスター)、 ムッソリーニ、全体国家を定義する、 小麦戦争のためのポスター 1925年、 体制の擬人化モニュメント(写真)、 ムッソリーニ、ファシスト的価値を定義する 第4節 権力の過激化 A.ローマ・ベルリン枢軸の帝国主義的野望 B.抑圧的な国家は、民族排外主義になる C.党と国家の親密な関係 (資料)エチオピアにおける農業殖民のためのポスター 1937年、 民族と国民、 メッツォジョールノ(南イタリアを指す)における大衆のファッショ化の限界、 ローマにおけるムッソリーニとヒットラーによる閲兵式(写真) 戦時経済に向けて 第5節 国民のファシストへの組織化 (資料)青年のファシスト教化、 青年ファシストは「イタリアの希望」である(新聞の付録)、 ドーポラボーロ(全国余暇事業団)のためのプロパガンダ、 フランスとの休戦協定の日に、ローマで演説するムッソリーニ(写真)、 完全に組織された大衆のデモ(記事) 第6節 帝国ローマの復活 (資料)ムッソリーニ、道路建設中の労働者を訪問(絵画) 復習 用語と意味を知ろう 古典的独裁とファシズムとの比較ポイント(個人と公共の自由、文化、経済、国民の掌握、政治体制) 年表 ■フランスの歴史教科書 No.5 イタリアのファシズム その2http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-196.html 今日から設問付きの資料を取り上げます。 ひとりのドイツ人による自由主義の断罪 右翼のナショナリストであるvan den Bruckは、汎ゲルマン主義に惹かれ、自由主義的民主主義を拒否する「保守の革命」の思想家である。 「自由主義は、自らの体制を正当化するために、合理主義を乱用する。自由主義はなによりもまず、世界中で信奉者を獲得するためにイデオロギー的な宣伝をおこなう。自由主義は政治の世界において、自由という決まり文句をもちいて、人民の、同様に人間の心を魅了する。[・・・] 自由主義は文明を蝕む。自由主義は宗教を破壊する。自由主義は祖国を滅ぼす。合理主義は、思慮深い人間を計算高い人間にする。合理主義は、世界を私利私欲に分解する。合理主義は、ヨーロッパを堕落に導いた。しかしながら世界大戦の結果は、合理主義の崩壊であった。[・・・] 世界大戦は、「人の権利」des Droits del’Hommeの大いなる破綻をもたらした。フランス革命は民主主義の名において、労働者の搾取を新たな階級のためにとっておくことで人民を欺いたのだ。啓蒙の世紀に対する闘いは、そのまま自由主義に対する闘いである。[・・・] なぜならば、なにをしようとも孤立した個人が自らの無力さを思い知る時、もし自分の土地で、自分の国で生きたいとおもえば、そこの人々とともに生きなければならないことに気付く時がくるのだから」 Moeller van den Bruck, Le troisi醇Qme Reich; 1922 -------------------------------------------------------------------------------- (問1)著者はどのような遺産を拒否しているか? (問2)著者は自由主義的民主主義の何を批判しているのか? (問3)個人は何をするべきか? ■フランスの歴史教科書 No.6 ファシズムのイタリア その3http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-197.html これから3回にかけて、テクスト部分を紹介します(設問付きドキュメントは中断します)。 新しい体制の誕生 ローマへの行進 早すぎたイタリアの民主主義の危機 第一次大戦の戦勝国であるにもかかわらず、イタリアは領土的野心を満たすことができなかった。60万人以上の戦死者を出す一方で、イタリアにとっての「未回収の土地」を回収させる1915年の密約は、連合国によって遵守されなかった。多くのイタリア人にとって、それは「歪められた勝利」であり、ナショナリストのGabriele d’Annunzioやファシストによって活用されたテーマであった。かれらは傷心の在郷軍人、ファシスト党arditi、希望を絶たれた欲求不満の予備役の将校の中から支持者を募った。 しかし戦争は、経済的不均衡も増大させた。軍事関係の近代産業は、もはや出口を見いだせなかった。転用に失敗し、閉鎖に追い込まれるか人員整理をするかしかなかった。追い込まれた労働者は大規模なストライキを組織し、1920年には工場占拠の運動が広まり頂点に達した。同様に農民も、政府は1917年に農民に農地改革を約束したのであるが、まだ耕されていない土地を占拠した。 ファシストによる権力奪取 ファシストの運動は、イタリアを支配した動揺と混乱にたいするひとつの回答であり、暴力とパワーを賛美する「戦争の文化」を長引かせることである。1919年3月にムッソリーニは、右翼ナショナリスト、左翼アナルコ・サンディカリストそしてとりわけ在郷軍人を寄せ集めるための、最初のイタリア戦闘的Faisceaux 束を創った。ただちに彼は、恐怖を持続させる軍隊組織的な集団を組織した。ファシスト突撃隊squadristi黒シャツ隊とよばれるメンバーは、黒いシャツを着て棍棒を携帯した。 ムッソリーニは、産業家あるいは資本家に取り入るために自らのプログラムを修正し、これまでの革命的デマゴギーを放棄した。そして1921年11月に、国家ファシスト党を創設した。「不満分子のファシズム」に替わって「資産家のファシズム」になったのである。1922年10月28日、解散させられた軍隊と組織化が遅れているファシスト突撃隊squadristiがローマに向けて行進したとき、国王ビクトール・イマニュエル三世は、容易に対面するのを拒否したかった。産業界と軍部、それにムッソリーニをコントロールできると説得したリベラルな数人の助言に従い、国王は10月30日にムッソリーニを首相に任命した。 独裁の定着 1924年4月、精力的な選挙運動によって、ファシストは議席の4分3を獲得した。公然とファシスト体制を批判した社会主義者のMatteottiが6月に暗殺され、その過激化が明らかになった。1925年12月から、「fascistissimes法」による独裁体制づくりが遂行された。ムッソリーニ頭領は、行政権の全体を掌握したのである。言論・出版取締法が、政権批判の新聞の発行を禁じ、ファシスト以外の政党や労働組合を解散させた。行政機関、軍隊そして教職から、不穏分子が追放された。政治警察OVRAが、すべての反対者、とりわけ共産党員を逮捕するか国外に追放した。 体制の確立は、1929年2月11日に教皇との間に調印されたラテラノ協定とともに完成した。教皇ピウス11世はヴァチカン市の主権を獲得し、カトリックを公式の宗教として認めさせた。そのかわりムッソリーニは、カトリックとの和解を勝ち取った。意見の一致を獲得した。そのうえ1870年以来未解決であった「ローマ問題」* に決着をつけたムッソリーニは、自らの国際的な威信を大きく高めた。 ムッソリーニとガスパリ枢機卿によるラテラノ協定の調印(写真) * 1870年のイタリア王国成立後、政府は時のローマ教皇ピウス9世に対してヴァチカンおよびラテラノ宮殿の占有を認めることと引き換えに政府に年額32万5千リラを支払うことを求めた。教皇庁側はカトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒絶したため、イタリア政府と教皇庁の関係は断絶し、ピウス9世と彼以降の教皇がヴァチカンとローマ市内の限られた区域以外に足を運ぶことはなくなった。 ■フランスの歴史教育 N0.7 イタリアのファシズム その4http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-199.html 全体国家の創出 ファシズム体制の擬人化 個人は無、国家がすべて イタリアのファシズムはまず、フランス革命、自由主義、マルクス主義の思想的遺産を受け継ぐ潮流を批判しようとする。楽観主義者ムッソリーニは、大多数のイタリア人が抱く欲求不満と希望に応える術を知っていた。権力の座に着くやいなや、経験に基づいた自説を、著作や演説を通して理路整然と説いた。 ムッソリーニは民主主義に対して、国民の政治的、経済的、法律的そして文化的な活動のすべてを包括する全体主義国家を対置した。唯一の党は次第に国家とひとつになっていく。それまで国民の承認によってのみ選ばれていた候補者は、1928年からファシズム大評議会が指名することになる。1932年からは、公務員になるには [唯一の党に] 入党することが必要条件となった。そしてついにムッソリーニの軍隊組織的な集団は、国防義勇軍となった。 この全体主義的な国家は国家元首、すなわち大衆の意志を体現する、頭領Duceのカリスマ性の上に成り立っている。したがってプロパガンダによれば、「頭領は常に正しい」のである。崇拝がいろいろな形をとってムッソリーニに授けられる。胸像、絵画、文学、あるいはフィルムが次から次と、彼を救世主、使徒、慈善家あるいは教育者として画いていく。 経済のコントロール まず20年代の初めに、それまでの雇用主との自由主義的な協約を破棄し、統制経済を打ち立てたことが挙げられる。輸入額を抑えるために取り組まれた、小麦の収穫とMarais Pontin地方の整備という一連の「戦争」が成功する。大規模な国土整備計画(都市開発、鉄道・高速道路の整備)は、失業に対する闘いであり、ファシスト体制の偉大さを示すために不可欠なものであった。 1929年の世界恐慌のあと、イタリアは自給自足経済体制の政策を取り入れた。1933年に工業再建研究所IRIという公共機関が、鉄鋼業、造船業あるいは化学のような大工業部門を運営するために設立された。1934年からファシスト体制は、外国為替の厳しいコントロールを押し付け、わずかな輸入しか認めなかった。それでも自給自足経済体制は、貿易赤字を減少させることはできなかった。 労働界の締め付けも強まった。協調組合主義は、マルクス主義の影響を受けた組合を排除し、労働者と経営者に同じ規律を押し付けた。1927年の労働憲章はストライキを禁じ、労働争議の調停はすべて国家がおこなった。 国民国家の賛美 ファシズムの第一の目的は、「新しいイタリア」を建設することによって、国民の偉大さを取り戻すことであった。文化的多元性が際立つ国においては、大衆のなかに共通のメンタリティを広げることが重要である。国家は青少年を組織した。教皇ピウス11世がカトリックの青少年が吸収されるのを拒否し、非難したにもかかわらずに。6歳から子どもたちは「狼の子」隊に入り、8歳から12歳まではバリッラ事業団* となり、14歳には「前衛」になり、18歳になると戦闘ファシスト青年団に入る。こうしてファシスト体制は、以前とは異なった新しいエリートを育成しようとした。休暇の組織化は、Dopolavoroという独占企業がおこなった。この企業は、仕事の後スポーツや文化的な催しを組織し、団体旅行を計画した。なぜならば、個人の領域はできる限り縮小しなければならなかったからである。 ファシスト党は、新聞、出版、ラジオなど、自分たちの宣伝に役立つすべての表現手段をもっていた。そして大衆をいかに感動させるかを気にかけ、造形芸術、建築そして映画までも、その取り組みに参加させた。映画に関しては、ローマにCinecittaというスタジオを建設させた。 * 軍事訓練をふくめ少年をファシストに育成する団体。市町村単位に組織された。 バリッラ事業団で軍事訓練中の少年 ■フランスの歴史教科書 No.8 イタリアのファシズム その5http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-200.html 権力の過激化 1938年5月、ローマでのムッソリーニとヒットラーによる閲兵 ローマ・ベルリン枢軸の帝国主義的野望 1935年のエチオピア戦争は、ムッソリーニにたいする「同調」が頂点に達し、同時にファッショ体制が過激化し始めたことを示している。ムッソリーニは、彼の出産奨励策がもたらす人口増加の圧迫によって、自分の領土拡張の意志を正当化した。すなわちローマ帝国の心臓部である地中海は、イタリアの湖になるべきであるというのである。1935年10月の国際連盟の [イタリアを侵略者とする] 議決に挑戦するように、イタリア軍は宣戦布告もなしにエリトリアとソマリアにある基地を出発し、エチオピアに侵略した。1936年5月5日にはアジス・アベバを占領、皇帝のハイレ・セラシエを国外追放にした。翌日イタリアの国王は、エチオピア皇帝から激しい抗議を受けた。国際連盟は軍事的制裁を決意することができず、部分的な輸出禁止にとどめることを決めた。 ヒットラーにとっては、それは必要なものを提供することでムッソリーニに接近する好機であった。二人は、ナショナリストであるフランコの味方をして、スペイン市民戦争に介入した。1936年10月、彼らはローマ・ベルリン枢軸が確立したことを宣言した。そして1937年9月にムッソリーニがドイツを訪問し、1938年5月にヒットラーがローマを訪問することで、それを確認した。 抑圧的な国家は、民族排外主義になる 秘密刑事警察OVRAは密告者の網を張り巡らし、密告を奨励した。1927年以来、OVRAは通報された人びとを例外的な軍事裁判所である国防特別法廷に提訴した。法廷はこれらの人びとに、居住指定、投獄あるいはリパリ諸島への徒刑を宣告した。こうして1943年までに、5,000人近くが刑を言い渡された。共産党の創始者であるグラムシは懲役20年の刑を言い渡され、1937年に衰弱のため獄死した。 平行してファッショ体制は、それまで無関係であった反ユダヤ政策をとることを決めた。ムッソリーニは、以前は人種を、生物学的意味をもたない国民と同一視していた。ナチズムに同調するなかで、1938年11月17日の法律でユダヤ人の身分規定をし、ファシスト党、公務員、企業や不動産所有などから締め出した。人種に関わる法律の適用には時間がかかった。この法律が伝統的なエリート、教会、そして大部分のイタリア人の反感を駆ったからである。これが1943年7月のムッソリーニの失脚をもたらし、そしてナチスのイタリア占領によって約7,000人のユダヤ人の虐殺を引き起した。 党と国家の親密な関係 唯一の党 [ファシスト党] はファッショ体制の全体主義的な野望を体現するものであり、すべての組織化においてその拡張的な戦略を徹底した。司法官や軍隊をコントロールするために、そこに浸透しようとした。1934年2月5日の法律によって、業種別別各協同組合corporation * の会議の中に3人の代表を参加させることができた。1937年、国民教育省はファシスト党に屈服し、青少年を軍隊式の組織のなかに再編しつつ青少年を育成することに同意した。この組織の合言葉は、ただひとつ「信じること、従うこと、戦うこと」であった。絶頂期は、1938年10月、下院に取って代わった翼賛議会Chambre des fasceauxと協同組合のすべての人事について、ムッソリーニが任命するようになったときである。 ファッショ体制はそれ以後、「新しい人間」の育成に力を入れ、ブルジョアジーおよびその生活様式と価値感を批判するキャンペーンを熱心におこなった。1937年に創立された人民文化省は、芸術作品にたいしこの方向で規範を押し付けた。そして1937年のファシスト学校憲章が、社会的分裂をなくした。しかしイタリア人のファッショ化には、限界があった。全体的には、このファッショ化は、伝統的な家族とカトリックの組織網に充分には及ばなかったからである。 * 国そして同じ業種の労働者および雇用主の三者の代表からなる協同組合 ■フランスの歴史教科書 No.9 ナチスドイツ その1http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-201.html ナチスドイツ 1939年ニュールンベルグのナチス突撃部隊の集会 1.権力の合法的な奪取 A.ワイマール共和政の困難性 B.ナチスの合法的な独裁への道 (ドキュメント) ヴェルサイユ条約に反対する集会のためのナチスのポスター1931年6月27日) 1920年における国家社会主義労働者党NSDAPの計画の抜粋 民主主義を破壊するために、いかに民主主義を使うか?(1928年4月30日) ドイツにおける選挙結果について、1920年と1932年の比較 2.ナチスのイデオロギー A. 総統のカリスマ的力量 B. ナチズムの中心にある人種差別主義 C. 生存圏の獲得 (ドキュメント) 「総統に奉仕する。10歳になった少年は、全てヒットラー・ユーゲントに入ろう」ポスター 1935年) 辞書による総統のカリスマ的力量 ヒットラーによるユダヤ人とアーリア人 ドイツ人よ、自分自身を守れ!ユダヤ人から買うな! (写真 ベルリンのユダヤ人商店の前にある看板 1933年4月) ヒットラーによる生存圏 3.ヒットラーの国家 A. テロと締め付け B. 自給自足経済と再軍備 C. レジスタンス (ドキュメント) ドイツにおける工業生産と失業(1932-1938) ベルリンにおける焚書(1933年5月) 戦争に方向を変える経済 教皇ピウス11世、ナチズムにたいするカトリック教会の態度の変更について説明(1937年) カモフラージュ 種を入れた紙袋に隠された反ナチスの文書(1937年) 4.ドキュメント ナチスのプロパガンダ ラジオの受信機の宣伝「全てのドイツ人は、この大衆的なラジオ受信機で、総統の声を聞く」(ポスター1936年) 1936年ベルリンオリンピックのポスター 「全てのプロパガンダは、大衆的であるべし」(わが闘争より) フランスの極右から見た、ニュールンベルグでのナチス大会(1937年9月10日) 5.「ナチス」芸術と「退廃した」芸術 6.復習 用語とその意味 ワイマール共和政と第三帝国の比較(制度、投票、市民、文化、軍隊、障害) ■フランスの歴史教科書 No.10 ナチスドイツ その2http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-204.html 1.権力の合法的な奪取 ヴェルサイユ条約に反対する集会を知らせるナチスのポスター(1931年6月27日) A. ワイマール共和政の困難性 革命と敗戦の結果成立したワイマール連邦共和政は、その誕生から不利な条件を背負っていた。ギオーム2世が退位すると、ドイツ社会民主党SPDは、1918年11月11日の休戦協定の前日、共和政の制定を宣言した。しかしその時から、ナショナリストの反対派は、「背中に一突き」* という主張を展開し、強制されたヴェルサイユ条約の責任を成立したばかりの共和政に押し付けた。士官および在郷軍人は、国家社会主義ドイツ労働者党NSDAPの突撃隊SAに加入した。そのうえ(社会民主党は)権力と提携し、1919年1月の「血の週」でスパルタクス団KPDを暴圧したことで、労働者の支持を失った。共産主義者は、ワイマール体制を擁護するすべての同盟を拒否し、それ以降最悪の事態のなかで活動することになる。 * 1918年の休戦協定以後、いく人かの軍人やナショナリストが、連合軍に対する降伏を早まり、軍と戦死者を裏切ったとして、民間人(特に社会民主党)を非難する主張。 さらに1923年には、戦費を負債に頼っていたドイツは、激しいインフレに襲われた。支出抑制のために歴代の政府は賠償金の支払いを中止しようと試みたが、フランス軍がこれに反発し1月にルール地方を占領する。賃金労働者の生活水準は急速に下落し、少額の金利および年金生活者の生活を破壊した。体制に反対するものは次第に決起しはじめた。たとえば国家社会主義労働党NSDAPの党首であるアドルフ・ヒットラーは、ミュンヘンでクーデタを試みたが失敗した。1925年の大統領選挙において選ばれたのは、王政主義者のヒンデンブルグであった。 しかしながらアメリカ合衆国の助力によって、支払うべき賠償金は減額された。そして外国資本の投資が、1929年までにめざましい復興を実現することを可能にした。ドイツ産業は、IG ファルベン [ 化学部門の独占体 ]のような大規模なトラストを形成し、都市は近代化した。1926年ドイツは国際連盟SDNに加盟し、1928年の総選挙では過激主義の政党の退潮がみられた。この繁栄のムードが、バウハウスに始まり、映画監督のフリッツ・ラングを経て、アインシュタインにいたる文化的および科学的開花を後押しした。 B. ナチスの合法的な独裁への道 この一時的な均衡は、1929年からの世界恐慌によって危うくなった。ドイツは借款と外国資本を失い、もはや工業生産を維持していくことができなくなった。失業者は、1931年には6百万人を超えた。全ての社会階層で国際資本主義にたいする憎悪が蓄積し、それに反ユダヤ主義が混じりあった。ワイマール連立与党への支持が減退するなかで、スパルタクス団KPDと国家社会主義ドイツ労働者党が力を強めた。 1925年、ヒットラーは「わが闘争」のなかで自説を述べた。そして親衛隊SSを創設することによって党を再編した。ナチスは、共産主義者にたいする盾として自らを任じ、街頭で彼らと戦った。1931年からヒットラーは、ナチズムの反資本主義部分を削除することを決意する。それはクルップ、ティッセン [ ともに鉄鋼業 ]、IGファルベンといった実業界の気を惹きつけるためであった。1932年の大統領選挙では、ヒンデンブルグが再選されたが、7月におこなわれた総選挙では、国家社会主義ドイツ労働者党NSDAPが37.3%の得票を得てドイツの第1党になった。一方左翼の方は、まだ分裂状態にあった。共産党の健闘(14.3%)を危惧した産業資本家と金融資本家は1933年1月30日に、ヒンデンブルグにヒットラーを首相に任命することを熱心に勧めた。 1933年2月27日、ヒットラーは国会議事堂を放火させ、スパルタクス団KPDを糾弾し、活動を禁じた。これは、政令によって翌日から個人の全ての自由な活動を禁止する口実であった。5月23日、ヒットラーは代議士に対して全権力を掌握することを求めた。社会党の代議士のみが拒否した。こうして合法的な独裁が誕生した。 ■フランスの歴史教科書 No.11 ナチスドイツ その3http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-206.html 2.ナチスのイデオロギー 「若者は総統に奉仕する。10歳になった少年は、すべてヒットラー・ユルーゲンスに入ろう」 (1935年のポスター) A. 総統のカリスマ的力量 1939年には540万人からなるナチス党は、国家の伝統的機関とならんで、次第に重みを増してきた。そして権力の中枢がいくつもできた。たとえば党の特別法廷は法務省と肩をならべた。そして親衛隊SSは、警察を包囲し、国防軍の軍事的独占に打撃をあたえた。第三帝国はこうして、「独裁的無政府主義」のようなものとしてあらわれた。この多重権力のただ中の敵対関係が、総統(指導者)の調停を不可欠なものにしたからである。 1889年にオーストリアで生まれたアドルフ・ヒットラーは、画家の道を絶たれた独学のひとである。彼が負傷した戦争は、彼をウルトラ・ナショナリストに仕立てた。すなわちドイツの強さを復興し、ドイツ人を生まれ変わらせることを自分の任務とすると確信したのである。大衆はヒットラーを絶好のタイミングであらわれたヒーローとしてとらえた。それは彼のカリスマ性を高めることになる。多くのドイツ人にとって総統Fuhrerは、イデオロギーの正統であると同時に人民の化身である。正当性をもつすべてのものはヒットラーに基づくというのが、「指導者原理」Fuhrerprinzipである。そしてそれは、ヒットラーにたいして忠誠を誓うことを全ての公務員および軍隊に強制する。ヒットラーは、「人民、帝国、元首」のスローガンの中に自分を際立たせた。 B. ナチズムの中心に座る人種差別主義 ナチズムは、その行動と暴力にたいする崇拝、そして人間主義的自由主義とマルクシズムの拒絶をファシズムから借用する。しかしヒットラーは、人種が「歴史」を動かす推進力であると考える。この生物学的な人種差別が、ナチズムの国内政治と対外政治を同時に決定づける。そしてこれがイタリアのファシズムとスターリニズムとの違いである。 ヒットラーによると、ドイツ国民は「血と地の共同体」を形成するアーリア人である。その純潔性を保つために、ナチスは優生学に基づく`政策を打ち出す。精神病患者や身障者に不妊手術をおこない、そして抹殺した。また狂信的なユダヤ人排斥運動を展開した。ユダヤ人は人間以下の存在、有害な寄生虫とみなされた。なぜなら祖国をもたないユダヤ人は、ドイツを破滅に導くであろう退廃の元凶とされたからである。すくなくともユダヤ人の祖父か祖母をもつ者はすべてユダヤ人とされ、顔つき、宗教、「ふるまい」も判定の基準とされた。 最初の時期、ユダヤ人は公共の場、自由業、公務員から締め出されていた。それから1935年のニュールンベルグ法によって、ドイツ市民権を剥奪され、非ユダヤ人との性的な関係も結婚も禁止された。そうした隔離に続いて1938年11月10日には、「水晶の夜」とよばれる暴力的迫害が、シナゴーグへの放火、略奪、殺人を引き起した。 C. 生命圏の獲得 ドイツ人が抱く神聖ローマ帝国の残像は、「千年続くであろう第三帝国」の神話の養分となった。ナチズムは、ヴェルサイユ条約の見直しを望むナショナリストの欲求不満を利用した。そして(ドイツ帝国の)汎ゲルマン主義から、大ドイツの一大計画を借りてきた。ヒットラーによると、人種というものは動物の種と同じで等級があり、自然淘汰によって、優れたアーリア人が劣等の人種、ラテン民族そして特にスラブ民族を支配するように運命づけられているというのである。ヒットラーはこの考え方をさらに推し進めて、生存圏Lebenstraumを説き、中欧および東欧の人民を征服する権利を主張するようになる。そしてナショナリストの政策によって彼自身が奨励するドイツ人の人口増大によって、それを正当化する。そしてドイツは戦争を準備する。 「ドイツ人よ、自分自身を守れ!ユダヤ人から買うな!」(ベルリンのユダヤ人商店の前に架けてある看板 1933年4月) ■フランスの歴史教科書 No.12 ナチスドイツ その4http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-209.html 3. ヒットラーの国家 ベルリンにおける焚書(1933年5月) A. テロと締め付け 1933年3月以来、全体主義の権力は急速に確立された。ナチス体制は、最初の強制収容所をダッハウに開設することによって、ナチス体制は国家テロリズムを実行するだけでなく、国民を徹底的に締め付けた。1933年5月2日、労働組合は労働戦線に取って代わられ、5月10日にはいわゆる「退廃」文書が焚書に処された。7月1日には唯一の政党が創設された。ドイツ第三帝国はもはや連邦制ではなく、中央集権的な統一国家となった。ヒットラーは1934年6月30日の「長いナイフの夜」[ ナチス内部の粛清 ] 事件によって、最後の反対派を粛清した。レームおよび突撃隊SAの首脳、そして反資本主義者たちは、親衛隊SSによって暗殺された。8月2日のヒンデンブルグが亡くなると、ヒットラーは指導者F醇・rerと帝国の首相を兼務した。 唯一の政党であるナチス党とその数多くの組織は、「睡眠のみが個人に残された領域」といえるほど社会をコントロールした。警察国家は1936年以降、約10万人の「ブロック長 (chefs d’ilots)」[ 隣人の監視 ] から33人の地方長 Gauleiterまでに及んだ。1936年親衛隊長ヒムラーは、全国民を網の目のように監視する国家保安本部RSHAをハイドリッヒに任せ、ゲシュタポを含む警察全体を再編した。ヒットラー・ユルゲントは男子を組織し、軍事教練をおこない、女子には母親の役割について教育した。ヒットラー・ユルゲントは、宗派の学校および母親に取って代わった。労働戦線は、再軍備の取り組みに依拠して労働者(国民の50%を占める)の境遇の改善を図り、余暇は「歓喜力行団」が計画した。最後は、ゲッペルスによって組織されたプロパガンダが、大衆を洗脳するのである。 B. 自給自足経済と再軍備 1933年からヒットラーは、経済恐慌にたいする早急な解決を見いださなければならないことを悟った。ゲーリングが指導する4年計画によって、1936年に自給自足経済が始まった。ゲーリングは、第一次原材料の輸入を制限し、それに代わる代替財(Ertsartz)を考案した。バルカン半島やダニューブ川沿岸のヨーロッパ諸国からの輸入品は、為替を経ずにドイツの輸出によって相殺された。関税障壁によって農業を保護した。失業を解消するために、ヒットラーは大規模公共事業の政策をかかげ、女性には家庭にとどまるように呼びかけた。それに1935年には徴兵制が復活し、親衛隊への入隊がそれに加わった。 しかし問題を解決したのは、1936年から始まった膨大な再軍備であった。軍事経済化は生産を活発にした。すなわち戦争へ踏み出すことで、企業は新たな市場の開拓に頭を痛めることはなくなったのである。IGファルベンやクルップのような巨大工業グループは、自分たちを富ませるこの政策に協力する。というのは、もし所得が頭打ちになったり購買力が低水準にとどまるようなことになると、その政策に関する融資が保証されるからである。 C. レジスタンス ナチスにたいする同意の流れは社会の全体に広まり、最初の対外的な成果によって補強された。この背景には、ナチス体制にたいするレジスタンスが極めて難しいということがある。トーマスマンやアイシュタインをはじめとする多くの知識人や学者が、亡命することを望んだ。共産主義者がまず最初に、強制収容所にいれられた。そして社会主義者が、非合法のビラや新聞を配布することを我慢しなければならなかった。カトリックの教会はナチスとの間に正教条約を結んだが、1936年以後これが遵守されなくなったときに不信感を抱いた。カトリックの小教区では、司祭が自ら拒絶を説いた。そしてプロテスタントの教会は、ナチスの側に加わる多数派とそうでない少数派に分かれた。少数派は、カール・バルト Karl Barthやマルチン・ニーメラー Martin Niem醇rler* を支持し、積極的にレジスタンス活動に身を投じ、暴力的に弾圧された。 * ニーメラーのこの詩は有名です。 ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。 ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。 ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。 ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。 – 『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』より 種を入れた紙袋に隠された反ナチスの文書(1937年) ■フランスの歴史教科書 No.13 ナチスドイツ その5http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-211.html ドキュメント 1 ヒットラーを歓呼で迎えるニュルンベルグの群衆 1938年9月11日 1920年につくられた国家社会主義ドイツ労働者党の綱領(25か条綱領) 1.我々は、大ドイツを建設し、民族自決権の基礎の上に全てのドイツ人が結集することを要求する。 2.我々は、他国との関係で自国民の権利が平等であること、ヴェルサイユ条約およびサン・ジェルマン条約を廃棄することを要求する。 3.我々は、自国民を養い、我々の過剰人口を吸収する土地と植民地を要求する。 4.ドイツ市民のみが、市民権を享受できる。ドイツ市民であるためには、ドイツ人の血を持つことが必要である。宗教はどうでもよい。したがってユダヤ人は何人としてドイツ市民ではありえない。[・・・] 11.我々は、不労収入および平易な暮らしの排除と金儲けの奴隷の排除を要求する。[・・・] 13.我々は、今日トラストを形成する全ての企業の国営化を要求する。[・・・] 16.我々は、健康な中産階級の創造と保護、百貨店の自治体公社化、小規模商店のための低家賃を要求する。[・・・] 20.子どもが分別がつく歳になったとき、学校においてドイツ人精神を叩き込むべきである。(市民教育課程)[・・・] 21.国家は母親と子どもを保護し、子どもの労働を禁止することによって、国民の健康に心を配らなければならない。 25.このことを全て成し遂げるために、我々は強力な中央集権を打ち立てることを要求する。 [設問] このテキストの外交に関する要求はどれか? 反資本主義はどの部分に書かれているか? 国家の役割であるべき部分はどこか? 民主主義を破壊するために、いかに民主主義の武器を使うか? ジョセフ・ゲッべルス(1897-1945)は、彼の主宰する新聞「攻撃」Der Angriffにおいて、共和政を破壊するためのナチスの戦術を臆面もなく披露している。 「我々は、民主主義の武器を我々のために利用する目的で国会議事堂に赴く。我々は、ワイマールの精神を麻痺させるために代議士になった。もし我々に交通無料パスと議員歳費をくれるほど間抜けであるとしても、それは彼らの勝手だ・・・もし選挙で、我々の党のアジテーターが国会、連邦議会、市町村議会のすべてに60名から70名の候補者が当選するならば、それは国家みずから、我々に国家とたたかう武器を我々に提供することになるだろう・・・ムッソリーニも、こうして議員に選ばれたのだ。我々のダマスカスの道* を議会主義の中に見いだしたと思ってはならない。我々は羊の群れに突入する狼のように、敵として議会に登場するのだ」。 Joseph Goebbels, Der Angriff, 1928.04.30 * エルサレムでキリスト教を迫害していたパウロが、ダマスカスで落雷に遭い失明。天からの「まっすぐの道へ行け」というお告げに従うと目が見えるようになり、キリスト教に改宗したと新約聖書にかかれてある。 ヒットラーの生存圏 「人種差別の国家の対外政策は、国家のもとに結集した人種が地球上に存在する手段を保証しなければならない。それには、一方では人口とその増加との自然法則に合致する、持続性をもった神聖同盟を打ち立て、他方では広大で肥沃な土地を獲得することが必要なのである。 そして神聖同盟は、国民の食料が自らの土地の資源によって保証される条件だけを考えなければならない。 [・・・] ただ、この土地に充分な空間があることが、国民に存在する自由を保証する。 [・・・] こうして我々国家社会主義者は、戦前の対外政策の方向づけを断固拒否する。 我々は、6年前に終止した地点から出発する。我々は、ヨーロッパの南そして西の方角へむけて果てしない行進を続ける。そして東に目を向ける。我々は戦前の植民地政策および通商政策に終止符を打ち、将来に向けての領土政策を開始する。しかしもし我々がヨーロッパにおける新たな領土について語るとすれば、まずはロシアと従属する国境の国々について考えるしかない」 「わが闘争」1925年 [ 設問] ヒットラーによれば、生存圏の獲得は何によって正当化されるのか? ■フランスの歴史教科書 No.14 ナチスドイツ その6http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-212.html ドキュメント その2 「ユダヤ人が出て行って、学校はすべてうまくいく」 1936年のリトグラフ。 ここではユダヤ人が黒髪、アーリア人が金髪に画かれている。 ヒットラーにとってのアーリア人とユダヤ人 人間の文明、芸術作品、化学、技術について我々がもっている全てのものは、ほとんど例外なくアーリア人の創作活動の賜物である。それはアーリア人のみが優れた人間性の創造主であること自明のごとく示している。したがってアーリア人は、我々が理解する人間としての原始的な類型を代表している。[・・・] 人類のある限られた部分が、寄生することを選択した。同化することに長けた怠け者は、定住する民族のなかに住み着き、金儲けの策略を弄し彼らの労働の成果を奪おうとする。そして不誠実な態度で彼らの精神を蝕み、権力を我が物にしょうとする。この民族の、もっとも知られた、もっとも危険な種は、ユダヤ人である・・・ [・・・] ユダヤ人は寄生タイプであり、またあり続ける。そして自分たちを受け入れる豊かな土地が見つかれば直ちに、病原菌のように常に拡散する。ユダヤ人の存在がもたらす影響は、`寄生植物のそれと同じである。そこにユダヤ人は定住し、ユダヤ人を受け入れた民族は、だいたい長い年月の末に消滅するのである。 * アーリア人は、生物学上では存在しないというのが通説。 ヒットラーによるユダヤ人の陰謀 [ユダヤ人は] 一貫して二つの革命、つまり経済的および政治的な革命を引き起そうと画策する。ユダヤ人は彼らの投資により得られた国際的な影響力を駆使し、相手のネットワークを使って、この内部からの攻撃に対してエネルギッシュな抵抗を試みる人たちを包囲する。ユダヤ人はこの人たちを戦争に駆り立て、必要だと思ったときに戦場に革命の旗を掲げる。ユダヤ人は経済的に国家を揺さぶり、生産しなくなった社会的企業は国家に吸収され、彼らの資本的コントロールの下におかれる。政治的観点からみるならば、ユダヤ人は国家に対し存続する手段を拒否し、全ての抵抗と国防のの基礎を破壊し、人民が政府に抱く信頼を壊す。[・・・] いま大規模な最後の革命が始まっている。ユダヤ人が政治力を獲得した瞬間に、それまで彼らを覆い隠していたベールを脱ぎ去る。民主主義的なユダヤ人および人民の友は、人民にとって残虐な圧制者としてのユダヤ人に変身する。ユダヤ人は1年もしないうちに知性の代表を皆殺しにし、人民から本来精神的な道標であったものを奪い、いつまでも支配の下に置くための奴隷的役割を与える準備を整えている。 「わが闘争」1925年 1935年9月15日のニュールンベルグ法 ドイツ人の血の純潔性が、ドイツ国民の永続性の前提となることが確信され、ドイツ国の将来を保証する不屈の意志が示されたので、帝国は次の法律を全会一致で採択した。 1.ユダヤ人とドイツ人の血を引く者あるいはそれに相当する者との婚姻を禁ずる。 2.ユダヤ人とドイツ人の血を引く者あるいはそれに相当する者との婚外交渉を禁ずる。 3.ユダヤ人は、45歳未満の、ドイツ人の血を引く者あるいはそれに相当する女性に家事手伝いをさせてはならない。 4.ユダヤ人に、ドイツの国旗の色で家を飾ることを禁ずる。反対にユダヤの色で飾ることができる。この権利の行使は、国家によって保護される。 5.1条に違反した者は、禁固重労働に処せられる。2条に違反した者は、禁固刑もしくは禁固重労働に処せられる。 ナチズム政権下でのユダヤ人の日常生活(1942年6月2日にかかれた文) ユダヤ人への新しい行政命令 締め付けはだんだん厳しくなり、彼らは我々をじっくりと参らすための新たな方策を考えてきました。この数年大人も子どもも、どんなにひどい目に合わされてきたことか!ピンで刺した痛みも、時としては棍棒で殴られたよりも強い痛みを与えます。ここに行政命令を列挙します。 1.夜の8時あるいは9時以降は自宅に留まること。監視あり! 2.私たちの所有する家からの追い出し。 3.ラジオを聴くことを禁止。電話を使うことを禁止。 4.劇場、映画館、コンサート、美術館に行くことを禁止。 5.新聞を購読もしくは購入することを禁止。 6.全ての交通機関の利用を禁止。 7.希少価値のあるものを購入することを禁止。 8.煙草あるいは喫煙のための、一切の商品を購入することを禁止。 9.花を買うことを禁止。 10.牛乳配給通帳の交付を取り消し。 11.理髪店に行くことを禁止。 12.共同体に書面で申請があった場合を除いて、職業を問わず職人に頼むことを禁止。 13.次のものを使用するとき、当局に届け出。タイプライター、 14.毛皮と羊毛の毛布、 15.自転車-ただし仕事に行くための場合は利用可(日曜の遠乗り、自転車での訪問は禁止) 16.長椅子 17.犬、猫、鳥、 18.次のことを禁止。ドレスデン郊外を離れること、 19.駅構内に立ち入ること。 20.庁舎の周囲と公園のなかを通ることを禁止。 21.市の管理の芝生、Grosser Gartenに隣接した道を通ることを禁止。おとといからホールに入ることも禁止。 22.9月19日よりユダヤの星を身につけること。 23.食料品の貯蔵の禁止。(ゲシュタポは配給通帳で買ったものまで没収した) 24.貸し出し可の図書館へ通うことを禁止。 25.ユダヤの星をつけていることで、全てのレストランは我々を拒否した。 26.衣服配給通帳の交付を取り消し。 27.魚の配給通帳の交付を取り消し。 28.コーヒー、チョコレート、果物、コンデンス・ミルクのような特別な配給を取り消し。 29.特別税の徴収。 30.ドレスデン大学の退職教授の年金を継続的に削減。私の場合まず600マルク、ついで 320マルク、現在185マルク。 31.1時間の買い物の制限。(15時から16時まで、土曜は12時から13時まで) 以上がすべてだと思います。しかしこの31項目は、つねに家宅捜査、暴力、監獄、強制収容所、虐待死の危険に向き合うことに比べたらなんでもありません。 Victor Klemperer, journal 1942-1945, Tome 2, Je vuex temoigner jusqu'au bout. 「ユダヤ人問題の最終的解決」(ユダヤ人の根絶)各国におけるユダヤ人犠牲者の数 ■フランスの歴史教科書 No.15 スターリンのソビエト連邦http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-214.html 1.スターリンのソビエト連邦 NEPは映画を農村に運んでくる。(ポスター 1923年) 1.スターリンの権力掌握 A. 新経済計画の「戦略的後退」 1921年、戦争の7年間の総括は壊滅的で、ウクライナの飢饉によってさらに悪化した。1914年以来、ロシアは約1,800万人の国民を失った。レーニンは次のように考えた。社会主義に到達するには、国は経済の遅れを取り戻さなければならない。農業を復活させるためには、農民の体制への信頼を取り戻さなければならない。このためにレーニンは、「新経済政策NEP」を決定した。それは共産党主導による農民と労働者の同盟に基礎を置いた、資本主義と社会主義の過渡的妥協であり、そこでは私企業と国営部門が並存する。 戦時共産主義* は終止し、農村では徴用は物納による徴税に変わった。小規模の私企業は許可され、外国の技術と資本の導入も可能となった。しかし農業と牧畜は生産を拡大したとしても、物々交換と闇市はまだ広くおこなわれていた。そのうえNEPは新たな企業家階層を産み出さなかったが、「nepmen」と呼ばれる投機家を豊かにした。その反面文化面においては、政府は前衛芸術家を従わせ、抽象芸術には反対の立場をとった。そして民衆の立場で撮った映画を奨励した。 * 外国の支援をうけて、白軍 [反革命] が起こした内戦、すなわち「危機にたつ革命」に直面し、トロツキーによる赤軍の組織、大型生産手段の国有化、独裁の確立など例外的な措置がとられた。 B. ソビエト共和国からソビエト社会主義共和国連邦USSRへ ボリシェビキにとっては、インターナショナルはそれぞれの国の切望に優先する。1922年12月30日、四つのソビエト共和国、ロシア、白ロシア、ウクライナ、トランスコーカシア [ グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン ] が、ソビエト社会主義共和国連邦を樹立した。1924年1月31日憲法は、権利において平等で、離脱可能な国家連邦を制定した。そのとき新たな共和国がUSSRに加わった。トルクメン、ウズベキスタン、タジキスタンである。 しかし1922年にURSSの共産党書記長の座に就いたヨセフ・スターリンは、この後者を集権化の手段とした。党は地方の共産主義者たち対する全体権力を自由に行使し、また各階層の行政を二重化することによって、連邦組織の対抗軸となった。 C. ライバルの排除 レーニンは、1924年1月21日に死亡した。そのとき党は、赤軍のトップという威光を利用するトロツキーと、真の後継者であることを示すためにレーニンに対する崇拝を組織するスターリンとに分裂していた。トロツキーは、NEPの継続、党の官僚主義、世界革命の放棄を告発する左派の反対派を集めた。しかしスターリンは、党内の分派を禁ずる、1921年の第10回党大会の決定をよりどころにして、ライバルをすべて排除した。1925年の第15回大会は、「一国社会主義」に方針を固めた。そして1927年スターリンは、約100名の反対派を除名した。そのなかには、国外追放を受けたトロツキーも含まれている。レーニンの仲間であったジノヴィエフ、カメーノフは、自己批判を受け入れ復党した。 ブハーリンは、NEPの継続および市場の段階的な社会主義への移行に賛成であった。一方スターリンは、国家が重工業の発展に必要な資金を農民に拠出させるべきであると考えていた。1927年、スターリンは強制的な徴用をおこなうために、労働者の一団を富農koulaksの家にさしむけた。ブハーリンはこのやり方を激しく告発し、1928年に排除された。スターリンは以後、権力を独占する。 ■フランスの歴史教科書 No.16 スターリンのソ連 その2http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-216.html 2.「大転換」Le grand tournant 強制収容所における強制労働。白海とバルチック海とを結ぶ運河の建設 1933年 A. 「階級の敵」の排除 1929年、最初の計画は、徹底した農業の集産化と工業化、スターリンが「大転換」と名づけた方針を押しつけるものであった。これから「プロレタリア独裁」によって、階級なき社会を打ち立てることが主題である。当時国内の労働者は、3百万人に満たなかった。そして農村はまだ、さまざまな階層をかかえていた。投機家nepmen、それに「有閑階級」あるいは「プチ・ブルジョア」と非難された人たちが市民的かつ社会的権利を奪われた。商人たちは、国営の協同組合に締め出された。 1930年1月党中央委員会は、裕福とみなされ、ブルジョア的精神に惹かれている農民という大まかな定義によって、富農koukaks という階級を解消した。したがって農村に住むほぼ550万人は、労働者の一団および政治警察であるゲーペーウー(チェ-カ-の後継組織)によって追放された。そして彼らの多くは、処刑されるか、労働キャンプに入れられるか、あるいはウラルやシベリアの強制収容所に送られた。1930年スターリンは、トラウマの予想を超えた広がりを前にして、このテロリズム的企てにブレーキをかけた。そしてその責任を、下部の活動家、彼が「功をあせった者」と呼んだ犠牲者に押し付けた。 B. 運動の強制的な集団化 「富農を告発するデモ d醇Pkoulakisation 」は、もっとも農民を活動的にさせる農村共同体を壊し、他の全ての者を麻痺状態にさせた。このデモが自発的な抵抗をつぶせば、農民のあいだに無気力を産み出す。すなわち収穫高が落ちこみ、家畜の大半は、1933年を待たずに衰弱することになる。1928年の生産水準を取り戻すには、1958年までかかるのである。その結果はすぐに、1932年と1933年の過酷な飢饉となってあらわれた。 集産化は、賃金労働者がはたらく国営農場であるソホーズsovkoze 、特に生産者組合であるコルホーズ kolkhoze をつくる計画によって進められた。体制は、1932年からいくつかの譲歩をする。コルホーズは余剰部分を市場へ売り出すことが可能となり、各農家は「わずかな」耕地を所有した。しかしコルホーズは実体性の薄い生産者組合のままであり、国家機関である機械トラックターセンターMTSが耕作と収穫を計画し、利用費を天引きした。農民も自分たちの耕地を優先させ集団的労働をおろそかにし、あるいは集団で都市へ逃れ、企業に安い労働力を提供した。 C. 計画経済と「全速力で工業化」 5ヵ年計画を推進する組織である国家計画委員会Gosplanは、達成すべき目標を決めた。第一次5ヵ年計画(1938年~1932年)は、重工業と公共設備の建設のために消費財を犠牲にした。第二次計画(1932年~1937年)は、UKK(ウラルの鉄鉱床およびクズバスの石炭鉱床)のような巨大コンビナートを建設し、化学工業(第二バクー油田)を開発した。この計画の推進は、生産のテンポを速めるスタハノフ運動 stahanovisme* そして戦闘的な労働者をモデルに仕立てた労働突撃隊 oudarniks に依拠した。1941年、軍備を中心に展開された第三次計画は、戦争のために中断した。 * 労働者の鑑とされたStahanovの名前に由来する言葉で、労働者に生産量の記録を競わせる運動。 当時都市の住民は、国内人口の33%を超えていた。ソビエト共和国連邦は、アメリカ合衆国、ドイツに次いで第3位の経済大国に登りつめた。しかし体制は質を犠牲にして量を優先させ、国民にたいするオルグと強制労働の上に、生産性本位の独裁を打ち立てた。 ■フランスの歴史教科書 No.17 スターリンのソビエト連邦 その3http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-218.html 3.全体主義体制 スターリンと集産体制の栄光を称えるポスター1932年 A. スターリンと国家政党 スターリンは「上からの革命」を理論化し、「国家権力を最大限に強化する」ことを奨励した。彼は30年後、自分の党派の独断に従わせる、中央集権的な権力を少しずつ形成していく。党は、社会を統制する国家機構のひとつとなった。中央委員会で決定された「総路線」は、下部組織によって実行される。 1926年に3万人いた、党の活動的メンバーである apparatchik は、1939年には10万人になった。彼らはすべての階層、そしてたとえば青少年が加盟するKomsomolにいたるすべての組織に、スターリンの指令を伝達した。1936年に制定された新しい憲法は、党の役割を公然と認め、「国家の死滅」が革命の最終目的であるというマルクス主義のテーゼを放棄した。すなわち、これからは逆に国家が断固として社会をコントロールするということである。 B. 大粛清および大衆にむけられた弾圧 第一次5カ年計画以来の停滞の原因は、スケープゴートに押し付けられた。「サボタージュ」をおこなう者あるいは「外国の代理人」に対する密告が組織化され、粛清によって「偽善者」や「出世主義者」が、党から追放された。1934年におこった、レニングラードの党書記であったキーロフの暗殺が契機となり、「大粛清」が始まった。ゲーペーウーは、より暴力的で効率的な内務人民委員部NKVDに取って代わられた。1936年からモスクワで始まった裁判によって、レーニンと活動を共にした古参党員や赤軍高官が処罰される。被告たちは公衆の面前で自白を強要された。 戦争前日NKVDの刑務所制度は、刑務所、中央アジアおよびシベリアにある強制労働収容所、それに約50ヶ所の労働キャンプからなっていた。刑務所の機関であるGoulagは、「政治犯」と普通犯を極限の生存条件のなかにおいた。収容者は森で労働し、鉱石を採掘し、線路、ダム、町などを建設した。 スターリンの恐怖政治による犠牲者の数は、歴史家の間で論争になった。今日では、1941年以前に労働キャンプでの生活を経験した人の数は380万人、そして1953年までに死亡した人の数は250万人と見積もられている。 C. 新しい人間と個人崇拝 スターリンはマルクス主義とレーニン主義を、いくつかの文書で結論づけている。とくに自然、社会、個人は変革することができるとする信念からくる、自らの思想を打ち建てた。政治的意思は、手段を楽もうとすればできないものはない。こうしてスターリンは、「新しい人間」をつくりあげることを望んだ。たとえば生物学者のルイセンコは、環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝するという説を主張し、自然を社会主義に従属させようとした。歴史については、ボルシェビキ革命の公式の改訂版をつくるという名目で書き換えられ、トロツキーについての記述が削られた。1934年には、文学・芸術政策の責任者であるジダーノフが「社会主義リアリズム」を定義し、すべての作家、芸術家はそれに従わなければならなかった。 1929年、スターリンはまだ知られていなかったが、10年の間におびただしい数の肖像によって、カリスマ的な指導者像をつくりあげた。すなわちレーニンの精神的な息子であり、その正統性の守り手として。そしてまた無謬の導き手であり、「人民の息子」として称えられた。ムッソリーニやヒットラー同様、個人崇拝とプロパガンダが社会的な精神作用をつくりあげたのである。 ■フランスの歴史教科書 No.18 スターリンのソビエト連邦 その4http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-220.html ドキュメントおよび設問 レーニン、二人の指導者について語る 遺言として有名なこのメモは、1922年12月から1923年1月のあいだ、つまり死の直前に書かれたものである。「書記長になった同志スターリンは、無限の権力を自分の手中に握った。彼がそれを常に充分な慎重さをもって行使することができるかについては、私は確信をもてない。一方同志トロツキーは、[・・・] その卓越した資質によって群を抜いているだけではない。彼は、もしかしたら現在の中央委員会の中で最も有能かもしれない。しかし彼は、過剰な自信と、ものごとをもっぱら行政面からみることに囚われるという二つの欠点をもっている。現在の中央委員会における、この二人の指導者の資質は、偶然に対立を招く可能性もある。もし我々の党がそれを防ぐ必要な手段を講じないならば、我々が予想しない分裂が生じることもありうる。」 レーニン全集より [ 設問 ] あなたは、このメモはどのくらい言い当てていたかと思うか? ブハーリン、社会主義の段階的推移を擁護する 1888年生まれのブハーリンは、その当時党の理論家の一人であった。1928年に権力から排除された彼は、裏切りの罪で有罪となり、処刑された。 「私的な資本と闘わなければならない。それは商店を閉めることによってではなく、良質でより安価な商品を生産することによってである。ところで農村には、戦時コミュニズムの下でつくられた諸関係が、いまだ変わらずに残っている。自分の住居を金属の屋根で覆いたいと願っている農民は、明日には富農とされる。機械を購入する農民は、コミュニストに知られないようにする。食料の改善は、陰謀の雰囲気の中で成し遂げられる。富農は行政による圧力の的になる。中農は開拓地の改良のことを心配する。なぜならば富農にランク付けされる恐れがあるからである。我々は職人に対しても、同じ政策を適用する。彼らが作り出すものの半分を、税金によって彼らから取り上げる。彼らは働けなくなるのである。ところで我々の政策は、企業の発展にブレーキをかける障害を取り除く方向に向うべきである。農民、職人に対しては、次のように言うべきである。『生活を豊かにしましょう。あなたたちの開拓を発展させましょう。そしてだれかがあなたたちの喉もとをつかまえ、従わせるというような心配はしないようにしましょう!』」 ブハーリン「NEPと我々の任務」1925年 [ 設問 ] なぜ小規模農民と職人は、収穫高あるいは生産高を上げることを恐れていたのか?国民経済にとって、その影響はどのようなものであったか? 自白のメカニズム 1938年におこなわれた第3回モスクワ裁判は、古参のボルシェヴィキで、内乱の間中央委員会の書記を務めたクレチンスキーは、3月2日に告発内容を否定したが、翌日に自白する。そして処刑された。 「(裁判長)被告クレチンスキー、あなたは批判されているあなたの行為について、有罪であると認めるか? (クレチンスキー)私は有罪であるとは認めない。私はトロツキストではない。[・・・] 私は、私にかぶせられた罪のひとつも犯していない。とくに私は、ドイツのスパイ機関と関係をもっていたという罪を認めない・・・」 翌日 「(クレチンスキー)昨日は、私が被告席で感じた雰囲気のせいもあり、また私の病状が重いために、起訴状の朗読によって私が辛い思いのなかに落ち込んだことによって、私は一時的に恥ずべき感情に強く囚われて、真実を、私が有罪であるということを言うことができなかった。[・・・] 私は国際世論にむかって真実、すなわち私がトロツキーの闘いを常に指導していたと言うことができなかった。私に向けられた告発が全ての点において、まったく無条件に私が有罪であるということ、そして私の背信と裏切りの責任がすべて私にあるということを宣言した私の言葉が記録されることを法廷にお願いしたい。」 P. Brou醇P「モスクワ裁判」1964年 ■フランスの歴史教科書 No.19 ファシズムとナチズムの共通点http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-221.html 私がイタリア・ファシズム、ドイツ・ナチズムそしてスターリニズムを最初に取り上げたのは、フランスの教科書がどのように扱っているかでした。それは思った以上に詳細であり、資料も豊富であることに驚きました。(もっともこの教科書は、文系と社会経済系(週4時間の授業)の高校の教科書です)私自身、この教科書で多くのことを学びました。 イタリア・ファシズムの結論のところでは、次のように書かれています。 「イタリア・ファシズムは、全体主義体制を規定する特徴を持っている。 ①人権と個人の自由を軽視する。 ②国家は個人と精神をコントロールしようとする至上の価値として現れる。 ③戦争を賛美する。 ④領土拡張主義と攻撃的な政策 ファシズムは、ドイツと日本に貢献し、第二次世界大戦を引き起すのに一役買った。」 ヒトラーは、ファシズムを徹底的に研究しました。そこでイタリア・ファシズムとドイツ・ナチズムに共通した特徴を挙げてみましょう。 -------------------------------------------------------------------------------- 1.結党の社会的背景 ドイツもイタリアも、第一次世界大戦の戦後処理を決めたヴェルサイユ条約に不満であった。そうした雰囲気を利用して、ファシスト党と国家社会主義ドイツ労働党は、ヴェルサイユ条約に不満をもつ、在郷軍人などを吸収して結党した。 2.暴力の組織化 ムッソリーニはファシスト突撃隊を組織した。黒いシャツを着て棍棒を携帯した彼らは、暴力的に共産主義者を襲った。 ヒトラーも、親衛隊SSを創設し、共産主義者にたいする盾として自らを任じ、街頭で彼らと戦った。 3.合法的な権力奪取 ファシスト党は精力的な選挙運動で4分の3の議席を獲得し、独裁体制を確立した。ナチス党は第1党になり、全権力の掌握を議会に承認させた。 ファシスト党もナチス党も、失業者対策を重視し支持を集めた。 4.資本家の役割 イタリア・ファシズムは、産業家あるいは資本家に取り入るために、これまでの革命的主張を放棄した。ナチス・ドイツも、資本家の気を惹きつけるため、反資本主義部分を削除した。 その結果、イタリアでは産業界がムッソリーニの首相任命を国王に進言し、ドイツでも資本家がヒトラーの首相任命をヒンデンブルグに熱心に勧めた。 5.カリスマ性 ファシズムもナチズムも、二人の指導者のカリスマ性の上に成り立つ。ムッソリーニは大多数のイタリア人が抱く欲求不満と希望に応える術を知っており、経験に基づいた自説を、著作や演説を通して理路整然と説いた。そして「頭領は常に正しい」と宣伝し、個人崇拝を徹底した。 ヒトラーの弁舌は、人民の化身であるとまで国民に思わせた。そして「正当性はすべてヒトラーにもとづく」として、忠誠を誓わせた。 6.翼賛体制 イタリアでは、ファシスト党以外の政党や労働者を解散させられ、翼賛体制が完成した。 ドイツでは労働組合は労働戦線に取って代わられ、ナチ党以外の政党は活動を禁じられた。 * 日本の翼賛体制もこれにならったのではなかろうか? 7.新しいイタリアと第三帝国 イタリア・ファシズムが、「新しいイタリア」を建設することによって、国民の偉大さを取り戻そうとしたように、ナチス・ドイツも第三帝国の神話をつくりあげ、ひとつの国家メンタリティで国民を統率しようとした。 * この点日本の場合は、天皇制絶対主義としてすでに存在していた。 8.人口増加による領土拡張の正当化 ムッソリーニは、自分の出産奨励策がもたらす人口増加の圧迫を領土拡張によって解決しようとし、「ローマ帝国の心臓部である地中海は、イタリアの湖になるべきである」といってそれを正当化した。 ヒトラーも、自国の人口増加を支える資源は必要に応じて拡大するとする生存圏をもちだし、領土拡張を正当化した。優れたドイツ国民は他民族を支配するように運命づけられているとした。 * イタリアの地中海圏、ドイツの生存圏は、やがて天皇制ファシズムの「日本の生命線」に影響を与えたのではないだろうか? 9.自給自足経済 イタリアは1929年の世界恐慌のあとに、ドイツは1936年から自給自足経済をとりいれた。 10.伝統的な組織との関係 唯一の党であるファシスト党 は、司法官や軍隊あるいは協同組合といった機関や組織に浸透し、それらをコントロールした。 一党独裁のナチス党は、国家の伝統的機関と並列する組織になり、権力の中枢が複数できた。それをヒトラーが調整した。 11.国民の監視 イタリアでは秘密刑事警察OVRAが密告者の網を張り巡らし、すべての反対者、とりわけ共産党員を逮捕するか国外に追放した。 ドイツでは国家保安本部RSHAが全国民を網の目のように監視した。 12.青少年の組織化 ファシスト党は6歳から18歳まで、青少年を組織し、新しいエリートを形成しようとした。 ドイツでは、ヒトラー・ユルゲントが男子を組織し軍事教練をおこない、女子には母親の役割について教育した。 13.余暇の組織化 イタリアでは独占企業が、仕事の後スポーツや文化的な催しを組織し、団体旅行を計画した。 ドイツでは、余暇は「歓喜力行団」が計画した。 14.宣伝 ファシスト党は、新聞、出版、ラジオなど、自分たちの宣伝に役立つすべての表現手段をもっており、大衆をいかに感動させるかを気にかけた。 ドイツではゲッペルスが、ラジオ、新聞、映画などを使ってプロパガンダを組織し、大衆を洗脳した。 15.ユダヤ人問題 ムッソリーニは、人種を生物学的意味をもたない国民と同一視していたが、ナチズムに同調してユダヤ人の身分規定をし、ファシスト党、公務員、企業や不動産所有などからユダヤ人を締め出した。これは教会、そして大部分のイタリア人の反感を買い、自らの失脚に結びついた。 ヒトラーは、アーリア人の純潔性を保つために、狂信的なユダヤ人排斥運動を展開した。ユダヤ人を公共の場、自由業、公務員から締め出し、ニュールンベルグ法によって、ドイツ市民権を剥奪し、非ユダヤ人との性的な関係も結婚も禁止した。そして「ユダヤ人問題の最終的解決」として、強制収容所で大量虐殺をおこなった。 ■フランスの歴史教科書 No.20 大戦間のフランス その1http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-223.html 2010. 03. 05 07:47:40 昨日、フランス・ドイツ共同教科書を手に入れました。 これからフランスの歴史教科書と仏独共同歴史教科書と比較しながら、両者を紹介していこうと思います。そしてナチス・ドイツについては、あらためて仏独共同教科書での記述を見てみたいと思います。ナチスのドイツ(18ページ)、ドイツ支配下のヨーロッパ(18ページ)と、二つの章で取り上げています。 それでは大戦間のフランスについて、両教科書の目次を比較します。 目 次 <フランスの教科書> 1.苦い勝利 A. 血を流し、荒廃したフランス B. 混乱する社会 C. 大戦の政治的後遺症 2.危機にたつフランス A. 遅めの、しかし深刻な不況 B. 「30年代のエスプリ」 C. 1934年2月6日 3.人民戦線 A. 人民連合の力強さ B. 人民の異議申し立てと社会変革 C. 政府が抱える困難 4.守勢にまわるフランス A. 人民戦線の終結 B. ミュンヘンの幻影 C. 自ら撤退したフランス <仏独共同教科書> 自由主義的民主主義の危機(1918年-1939年) 1.大戦間の自由主義的民主主義 ・第一次世界大戦後の自由主義的民主主義の勝利 ・第一次大戦の経済的影響 ・ナショナリズムと独裁的体制の台頭 2.フランスにおける共和制の危機 ・フランス、世界的経済恐慌のなかの例外 ・経済的危機から政治的危機 ・反議会主義の台頭 3.人民戦線下のフランス ・人民戦線の形成 ・ストライキと社会改革:1936年の「つかの間の晴天」 ・人民戦線の挫折 4.ワイマール共和政 ・戦後の危機 ・「ストレッセマン時代」:強化の数年間? 5.ドイツにおける民主主義の危機(1929年-1933年) ワイマール共和政の崩壊をもたらしたのは何か? ・世界経済恐慌の影響 ・憲法の軌道修正 ・憲法の急進化 6.イタリアにおけるファシズム ・新しい党の力の潜在的な台頭 ・独裁の強化 ・帝国主義的な対外政策 資 料 <フランスの教科書> ・凱旋門での傷痍軍人のデモ 1926年(写真) ・フランスにおける出生数と死亡数 1910年-1939年 ・1901年と1931年の年齢グラフ ・戦後のドイツに向き合った旧兵士 1922年(文) ・ツール大会の論争(M.CachinとLeon Blum) 1920年 (演説文抜粋) ・モンマルトルのダンス 1922年(絵画) ・人生を楽しもう:「勝利とフラストレーション」1914年-1929年からの引用 ・女性の新しいモード 1939年(文) ・ある高校生の思い出 1941年(文) ・1934年2月6日のデモ コンコルド広場(写真) ・1922年のガルソンヌ(ボーイッシュな格好の娘)のスキャンダル (本の表紙) ・精神の顕示のビラ 1933年 ・フランスの工業生産高1929年と1938年の比較 (グラフ) ・1934年2月6日のコンコルド広場での暴動 (写真) ・凱旋門を行進するクロア・ドゥ・フの隊列 1933年7月14日(写真) ・フランソワ・デゥ・ロックの反議会主義 (文) ・1936年の国会議席数(表) ・反ファシズムの歌 1934年(歌詞) ・人民戦線の勝利のためのストライキの波 1936年4月(写真) ・1936年のストライキ(文) ・ブルムとトレーズ 1936年7月16日(写真) ・サン・ラザール駅での有給休暇の出発 1936年(写真) ・投票権獲得のためのフェミニスト行動同盟 1925年(写真) ・キリスト教民主主義についての議論 1931年(文) ・女性の投票権獲得を訴えるポスター 1925年 ・ただちに女性の投票権を獲得するための女性行動同盟のポスター 1926年 ・若いブルジョア娘の敬意:ボーボワールの「まじめな娘の記憶」より引用 ・1933年から1039年までの国家予算の増大 ・フランスの労働への復帰 1938年(文) ・ミュンヘンから帰国したダラリエとボネ外相 1938年(写真) ・フランス人は少数民族になる 1939年(文) ・マジノ戦線の地下壕(写真) ・極右のインテリの皮肉 1938年(文) ・右翼の平和主義者 1938年(文) ・心から平和にこだわる社会主義者:Paul FaureがPopulaire紙へ投稿 1938年 ・疑念をいだく社会主義者:Leon BlumがPopulaire紙へ投稿 1938年 ・毅然さを訴える右翼の国家主義者の代議士 1938年(文) ・「第三共和制の勝利」ポスター 1910年 ・Adrien Barrere のポスター「なぜボルシェビキに反対票を投じるの?」1919年 ・「ああ!君の刃がわれわれを解き放つのだ!」共産党のポスター1928年 ・「軍備縮小」ポスター 1932年 <仏独共同教科書> ・民主主義の一環としての政治的動員:1919年1月総選挙期間中におけるドイツ社会民主党の活動家(写真) ・独裁体制による大衆操作:ムーソリーのミラノでの演説 1936年(写真) ・ユゼフ・ピウスツキ(第二ポーランド共和国建国の父 写真) ・民主主義と独裁に分かれたヨーロッパ 1938年(分布図) ・1926年のイギリス炭鉱におけるゼネスト 1926年(文) ・ポーランドにおけるクーデタ 1926年(写真) ・危機にたつ議会主義 1934年(ポスター) ・1934年2月6日の暴動:危機に瀕する民主主義(写真) ・フランスは独裁を望むのか? 1933年(文) ・1932年2月6日:クーデタか暴動か?1934年(文) ・レオン・ブルム(写真) ・人民戦線の誓い 1935年7月14日(ポスター) ・週40時間制の放棄 1928年(文) ・1936年と1939年の議会の多数派(図) ・マチニョン協定(協定書) ・人民戦線:我々の生活を変えた100日間(Le nouvel Obserbateur紙 2006年) ・1936年6月11日、ロレーヌの自動車工場でのストライキ(写真) ・有給休暇 1936年(文) ・改革のひと休み 1937年(文) ・人民戦線のバランス・シート 1937年(右翼のポスター) ・財政のバランス・シート(グラフ) ・グスタフ・シュトレーゼマン:ワイマール共和政の首相・外相(写真) ・ワイマール共和政の憲法(相関図) ・国内の自由は国外の自由を必要とする 1919年(文) ・ドイツ国大統領にヒンデンブルグが選出:共和国のための闘いは敗北したのか?1925年(文) ・1933年までの国会の議席数(表) ・ヤング案に反対する国民投票を呼びかけたポスター 1929年12月22日 ・ブリューニング政権の緊急財政政策 1930年(文) ・あまり好かれてない共和政? 1927年のポスター ・Hagen Sculze:人間の過ちに起因する失敗 1982年(文) ・リチャード・ベッセル:不都合な要因の組み合わせ 1990年(文) ・旧エリートの責任1988年(文) ・ベニト・ムッソリーニ(写真) ・ムッソリーニによるファシズムの基本原理1943年ミュンヘンで発見(文) ・アジス・アベバ征服の際のムッソリーニの演説1936年(文) ・マテオッチ事件(風刺画)1924年 ・ローマの新しい帝国主義(写真)1935年 ・フランコ総統(カウディーリョ)が望む秩序への復帰1938年(演説文) ・共和主義者によるフランコ大元帥の解釈(風刺画)1936年 ・共和主義者のための国際動員を呼びかけるミロのポスター 1937年 ・民主主義の(スペイン内戦への)不介入(レオン・ブルムの演説文1936年) ・国際旅団の形成 1936年(文) ・反ファシズム知識人の(国際旅団への)参加 1936年(文) ・外見は同じ、現象も同じ?(イタリア・ファシズムとナチス・ドイツ 写真) ・(アメリカの歴史学者による)「典型的な」ファシズム、定義の試み 2001年(文) ・「ファシズム、それは戦争」雑誌「リストワール-歴史」1999年(文) ・国家社会主義をファシズムと規定できるか?(ドイツ歴史学者の異議) 1991年(文) ・フランスにおける共産主義のイメージ(1919年-1936年) ■フランスの歴史教科書 No.21 大戦間のフランス その2http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-224.html フランスの歴史教科書の大戦間のフランス第1節「苦い勝利」です。 1926年、凱旋門でおこなわれた傷痍軍人のデモ 1.苦い勝利 A. 血を流し、荒廃したフランス 1918年の勝利にも関わらず、フランス国民は衰弱しきった状態で第一次世界大戦から抜け出した。約900万人の召集兵のうち、130万人が戦死し、110万人が傷痍軍人となった。都市でも村でも、道にはいたるところに傷痍軍人がいて、塹壕での恐怖を思い起こさせた。 しかし戦争の人口統計学的結果は、それをはるかに上回った。1914年から1918年までの間に出生数は激減した。それは男性の死亡率の高さと前線での駐屯が原因である。こうして子どもの数の「落ち込み」は140万人に達した。この落ち込みの年齢層はその後十数年間、フランスの人口に影を落とす。大戦間のフランスは老いた国であった。 こうしてフランスは、疲労困憊した国になった。戦争は、戦闘が繰り広げられた北部と西部の10県に損害を与えただけではなかった。工場は4年間、武器を生産しなければならなかった。多くの工場がこれから転用しなければならず、ときには破産や解雇に追い込まれることもあった。そのうえ戦争による出費で国は負債をかかえた。1914年以前にはフランスは世界の主要な債権国であったが、これからはいくつかの国、とりわけアメリカに対しては債務国となる。 B. 混乱する社会 戦後のフランスの社会は、1914年にくらべ活気を失っていた。農村では戦争の間、多くの農家が機材への投資を見送り、老朽化したまま使用するのが普通であった。農地の多くは荒廃したまま放置された。そして農民の都会へ流入が加速度的に増大した。国債を所有する都会の中間層は、価値の下落によって収入が減少し、切り下げられた生活水準に耐えねばならなかった。そして労働者の購買力も同様に厳しかった。 とりわけインフレーションが心配された。戦争による出費に対処するために、国は紙幣を大量に流通させた。1914年に600万枚流通していた紙幣は、1920年には3,800万枚に達した。19世紀を通して安定していたフランも下落した。レイモン・ポアンカレ首相がどうにか通貨を安定させたのは、1803年の「フラン・ゼルミナル」* から80%も価値を下げた1928年になってからである。 * 1803年に発行されたフラン金貨。フランス革命の革命暦であるゼルミナール(3月下旬から4月中旬)に因んでこう名づけられた。 C. 大戦の政治的後遺症 復興のための資金獲得に、歴代政府はヴェルサイユ条約によって決められた、ドイツが支払う賠償金を当てにした。1923年、支払いの遅れに苛立ったフランスは、軍隊を差し向けルール地方を占領した。右翼、左翼を問わず、代議士の大半は兵士であった。彼らにとっては、4年間に支払った犠牲を償わせるために、「ドイツ野郎は支払うべき」なのである。 ロシア革命も、戦争がもたらした政治的帰結に影響を与えた。1920年ツールで開催されたSFIOの大会では、ボルシェヴィキのイデオロギーと戦略に主導権を与えようとする多数派と、モスクワに従属するのを拒否する少数派とが対立した。大会は、はじめて共産党という呼び名を与えられた国際共産主義のフランス支部の創設とともに、労働運動の分裂という事態に至った。このSFIOの分裂の1週間後に、CGTが分裂した。 ■フランスの歴史教科書 No.22 大戦間のフランス その2http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-226.html 2.危機にたつフランス フランスの歴史教科書 1934年2月2日、コンコルド広場でのデモ A. 遅めの、しかし深刻な不況 1929年から経済不況がアメリカ合衆国を襲ったが、それにもかかわらずフランスは長いあいだ経済危機を免れたと思っていた。いくつかの大型工事(とりわけマジノ戦線*1 )に対する資金調達が順調におこなわれ、国は活力を維持した、自動車、航空、あるいは機械といった近代工業は、発展の最中にあった。植民地支配は、恵まれた市場であり、同時に限りない富の宝庫のように思われた。すなわち1931年にパリで開催された植民地博覧会は、全ての大陸に対するフランスの影響力を称賛したのである。 にもかかわらずこの年から、今度はフランスが経済危機に突入するだろうという兆候が少なからず現れていた。倒産が増えた。例えばシトロエンが倒産し、ミシュランに吸収された。解雇が増加し、1935年には届出のあった失業者だけでも50万人を数えた。これに当時広く見られた不完全雇用が加わる。こうした経済状況の悪化にたいして、ピエール・ラヴァル内閣は公共支出、とくに公務員の給与を抑え、エネルギー価格を下げた。しかしこのデフレーション政策は効果を発揮することなく、国民の不満を大きくしただけであった。 * ドイツ軍の新たな侵略からフランス東部を防御するためにつくられた要塞。陸軍大臣アンドレ・マジノに因んでこの名がつけられた。 B. 「30年代のエスプリ」 この経済の不振は、30年代初頭の政治的雰囲気に重くのしかかった。それはジュネーヴ軍縮会議(1932年)の失敗とドイツにおけるナチス政権の誕生(1933年)が重なっただけにいっそう深刻であった。ある人びとにとっては、資本主義は構造的な危機に陥ったように見え、共産主義がファシズムに対する闘いと経済の停滞に信頼できる解決策をもたらすことを同時に可能とする唯一の道であるかのように見えた。 別の人びと、たとえば右翼のジャン・タルデュー、あるいはレオン・ブルムのような人びとにとっては、行政に今以上の権力を与え、社会経済の領域にまで権限を広げることによって、国を改革することが必要なのである。いく人かは、ベルギーのアンリ・ドゥ・マンに倣って、本物の計画経済を称賛するまでになる。別の知識人は、1932年に雑誌「エスプリEsprit」を創刊した、左派のキリスト者であるエマニュエル・ムーニエのように、共産主義と資本主義との間の、第三の道を探す。 C. 1934年2月6日:脅かされる共和国 この政治不安は、また極右に有利に作用する。30年代の初頭、反共和主義の反対派は、さまざまな「連盟 Ligue」* を結成した。これらは基本的には在郷軍人を集め、軍隊パレードや儀式などファシストの組織を模倣した、統制のとれた組織である。しかしそこにはファシズムとの共通点は見られない。たとえばラ・ロック大佐の「火の十字団Croix de feu」は、「国の秩序に従う」ことを殊更に求めた。 1934年の初め、何人かの政治家と共謀して富を手にしたと嫌疑がかかっている、詐欺師のアレクサンドル・スタヴィスキーの死体がホテルの一室で発見されたとき、連盟Ligueの体制に対する批判はいっそう激しくなった。彼はあまりにも知りすぎたので、警察によって自殺させられたのか?連盟にとって、疑惑のままに放っておくことは許されない。こうして連盟は、1934年の2月6日にコンコルド広場でデモをおこない、「泥棒を倒せ!」と叫んで下院へと向った。警官が襲いかかり、15名の死者を出した。共和主義者の秩序は守ることができたが、共和主義者にとっては、それはほとんどクーデタに近いものであった。 * 共和制に反対する準軍隊式の極右団体 1935年7月14日、シャンゼリゼ大通を行進する「火の十字団 Croix de Feu」 ■フランスの歴史教科書 No.23 大戦間のフランス その3http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-227.html 3.人民戦線 1936年7月16日のブルムとトレーズ A. 人民連合の力強さ 左翼は1934年2月6日のデモを、共和制体制の転覆ととらえた。社会党員、共産党員そして急進社会党員は、イタリアやドイツのように、フランスにおいても独裁体制が誕生するのではないかと危惧した。2月12日には大規模なデモが組織され、三つの党の党員が互いの共感を確認しながら隊列を組んだ。 この共和制を守ろうとする意識は次第に強力なうねりとなり、選挙協定にまで行きつく。 共産党、社会党SFIOそして急進社会党は自由擁護と社会変革の共同綱領をつくることで一致した。そして1936年の4月から5月にかけておこなわれる総選挙にむけて、第2回投票では最も得票した候補者を支持することを約束した。この規律によって「人民戦線」は、下院における絶対多数を勝ち取った。 B. 人民の異議申し立てと社会変革 社会党の党首であるレオン・ブルムは、社会党と社会急進党からなる新政府を組織した。共産党書記長のモーリス・トレーズは、支持者に約束しつつも、共産党の政権参加を促すスターリンの指示を拒否した。人民戦線の勝利は、5年間失業や賃金の引き下げに苦しんできた労働者、サービス部門の従業員たちから大きな期待をもって迎えられた。1936年5月の末以来のこの熱狂は、「現場ストライキ」の大きなうねりに変化した。ストライキは工場、銀行、大型百貨店にも波及し、参加者はやがて200万人を超える。 この紛争を解決するために政府は、経営者と労働組合との交渉の場を設定した。1936年こうして6月7日、各企業において、職場の代表者による組合活動および選挙の自由を認めた「マチニョン協定」が締結された。この協定は、7%から15%までの賃金引上げによって補完される。次に政府は、週あたりの労働時間を40時間に制限し、以後すべての労働者は年15日の有給休暇を取得するとする政令を出した。このすぐれて人民的な改革は、さまざまな要求運動を鎮め、1936年の夏は数百万人のフランス人が、生まれてはじめてバカンスに出かけたのである。 C. 政府が抱える困難 しかしながら政府は、多くの反対に立ち向かわなければならなかった。「アクション・フランセーズAction fran醇Maise」あるいは「グランゴワールGringoire」といった極右の新聞は、「ユダヤ人ブルム」と彼の政策を非難した。極右の諸連盟は解散させられたが、新たな政党の形をとって復活し、大きな成功を収める。火の十字団はフランス社会党として生まれ変わり、約1万名の党員を率いた。 左翼に目を移すと、まず30万名の党員を擁する共産党が、大きな政治勢力として存在する。そのうえに当時500万名の組合員を組織するCGTとともに、労働組合に影響力を行使する。共産党はレオン・ブルムを支えながら、スペイン内戦に介入しようとしない彼を、共和主義者とともに批判した。さらにパートナーが嫌がる根本的な経済改革を要求した。 にもかかわらず、政府はいくつかの措置をとった。すなわちフランス銀行を掌握し、軍事工場を国有化し、さらに全国の鉄道網とひとつに集中させるフランス国有鉄道SNCFを創設した。しかし失業と購買力の低下が長引き、1936年の秋からストライキが再び始まる。 1936年4月、人民戦線の勝利を願うストライキ バカンスへ出発 1936年サン・ラザール駅 ■フランスの歴史教科書 N0.24 大戦間のフランス その4http://billancourt.blog50.fc2.com/blog-entry-229.html 4.守勢にまわるフランス ミュンヘン会議から帰国したダラディエとボネ外相 A. 人民戦線の終結 マチニョン協定を敗北と考える経営者は、生産を増進させるための新たな投資を拒否した。実業界のこの敵意に直面して、レオン・ブルムは1937年3月に社会改革の中休みを発表した。しかしこの妥協は共産党に不満を抱かせたが、だからといって右派の支持を得たわけでもなかった。すなわち6月に上院は、財政についての全権を彼に与えることを拒否し、レオン・ブルムは辞任した。政権への短い復帰があったが、人民戦線の力強さを呼び戻すことはできなかった。 1938年から、「フランスの労働への復帰」を望む急進社会党のエドゥアール・ダラディエが政府を率いた。彼は、賃金の引き上げによって家庭の購買力を高めようとしたこれまでの政治が、結局失敗に終わったと考えた。ダラディエは産業の保護を狙った一連の政令を発した。すなわち予算の縮小、週40時間制についての法律の見直し、スト中の公務員の挑発に関する政令である。企業では何千人もの組合代表が解雇された。そしてこうした措置に反対して1938年11月30日におこなわれたストライキは、不成功に終わった。 B. ミュンヘンの幻想 それ以降人びとの頭を支配したのは、国際情勢の悪化であった。アドルフ・ヒトラーは、西洋の民主主義の消極性を利用した。1938年3月12日、彼はドイツとオーストリアの統一の可否を問う国民投票を実施した。4月には、チェコスロバキア内のドイツ語圏であるズデーデン地方の割譲を要求した。ナチズム帝国主義に対して、議論は難航した。第一次世界大戦の恐怖の思い出が抜けきらないなかで、何百万の国民そして政治家は、右翼左翼を問わず平和主義に傾いた。しかしながらヒトラーが平和を威嚇することを非難する意見も出始めた。 戦争を避けることに腐心するダラディエと、イギリスの首相チェンバレンは、1938年9月29日から30日にかけてミュンヘンでヒトラーとムッソリーニと会談した。二人はドイツの要求とチェコスロバキアの分割を受け入れた。帰国したダラディエは、戦争が回避されたと確信する国民から英雄扱いを受けた。しかしこの平和は幻影であった。なぜならヒトラーは、ハンガリーとポーランドにおいて、別の野心を抱いていたからである。 C. 自ら撤退したフランス ところでフランスは、戦争の準備ができていなかった。30年代の初頭から、フランスは窮乏の中にあった。工業生産は長期間沈滞し、国の通商は優先的に植民地にむかった。さらにフランス軍の装備は、ドイツ軍を比較して格段に劣っていた。参謀本部はこの20年間考えを変えず、北東部の国境線に沿って築かれたマジノ線の強固さに国の運命を託していた。 ダラディエは再軍備の政策をとり、軍事費により多くの予算を割いた。彼はまた、ドイツによって脅かされている国々に支援を約束した。しかしこれらの国は、ミュンヘン会議でヒトラーに与えた譲歩によってひどい目にあったのであり、ダラディエをあまり信用していなかった。 1939年8月23日にドイツとソ連が結んだ不可侵条約は政治的衝撃を引き起した。ヒトラーはソ連の中立を模索しながら、戦争の準備をしていることを明らかにした。フランスは不利な条件を背負いつつも、それに応じなければならなかった。 マジノ線の回廊 1929年から1934年にかけて建設。重装備の兵器を備え弾薬を保管するトーチカを地下回廊で結ぶ。ドイツの侵略に備えたもので、軍事予算の大部分をつぎ込んだ。
(転載ここまで)
築地市場の豊洲移転に反対 して食の安全を守りたい。●Like a rolling bean (new) 出来事録 ■2010-05-15 イシハラ都政の傲慢さを訴える、豊洲汚染土壌廃棄差し止め訴訟第4回公判(短いけれど重要な段階へ)http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10534216514.html ■2010-05-20 イシハラ都政による「土壌汚染除去実験」の目茶苦茶さ<6>(6種の実験はすべて未検証)http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10539551712.html ■2010-05-24 本日提訴とプレス発表です:イシハラ都知事らへの住民訴訟(築地移転に関する160億円分の支出)http://ameblo.jp/garbanzo04/entry-10543224202.html
そこに存在する 美しい人生と生命と生活 を守る切実な要望を
民主党 に聞かせるために、
アブナイ日本 が
壊れる前に とりあえず 生まれてきて良かったと感じられる社会に したいけどどうしたらいいか
kimera れない人の役にたちたくて、
イル・サンジェルマンの散歩道 の
午後のカフェ の
窓辺でお茶 しながら
虹の日記 や
フランス語の練習帳 や
「ユニオン」と「労働ニュース」のアーカイブ や
世界の片隅で税制についてのニュースを読んで 、
消費税と社会保障と国家予算についての 『
知られざる真実 』を
大脇道場 と
言ノ葉工房 と
スーパー小論文ハイスクール と
アジア連帯講座 で
1947年教育基本法の理念に賛同して 超左翼おじさん や
カナダの日本語の先生 から学んだ後で、
労働組合ってなにするところ だろうとか、どうしたら
戸倉多香子 さんや
保坂展人 さんのために
みんななかよく スクラム 組んで
多文化・多民族・多国籍社会で「人として」 情報流通を促進 できるかとか、
雪裏の梅花 や
古い寺を多く見て 日常で思った事、感じた事をつらつら好き勝手に書く 、
国会議員定数削減・比例削減に反対して きまぐれな日々 を
転がるひよこ豆のように 過ごすサイバー政治団体秘書のおしごと日誌。
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それに「インフルエンザ」と「マイコプラズマ肺炎」が終息するどころか「これからじゃないか」と間違いアンドリュー・バルトフェルド大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)「アメリカの軛」から脱するためにも必要なのは過去の清算トランプ云々(でんでん)こそ
日本がアメリカの軛から抜け出すいい機会だと思います(が、いかがですか?)
そのためにも過去の加害の清算は必須です
そしてバラマキではない津木野宇佐儀修学支援新制度において、成績要件によって機械的に支援を打ち切ることは低所得家庭の学生の学びと人生を危機にさらす「「奨学金」ローン」に対する徳政令+αを!長年保留され続けてきた国際人権規約「教育無償化」は、2012年に旧民主党政権が保留を撤回しました。
憲法98条2項には「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は津木野宇佐儀#維新・君たちはどうイキるか 大阪万博編Takeshi万博開催費用が当初の見積りから1.9倍に膨らみ、70年万博の収益金95億円を取り崩すことを府は管理団体に要求することを決めたそうです。経済界の負担分を補填するためだそ(無記名コメント)大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)早朝のラジオ放送で始まった太平洋戦争も、聯合艦隊司令長官山本五十六の遭難後、敗色濃厚となった大日本帝国は、産めよ増やせよ
やら、贅沢は敵だといいながら、国内では柿ノ木扇蔵ジャニー喜多川の長年の多数の常習的性加害をめぐっての山下達郎の発言があまりにも残念。北川健太郎が無罪を主張部下の女性検事を準強姦した当時大阪地検の検事正だった北川健太郎。罪を認めると言っていたのに、主任弁護人を通じてコメントを発表。「抗拒不能だったという認識はなく、Takeshi新型コロナウィルス感染症は終わっていません。不織布マスク着用による最大限の予防を。 #感染症から子どもを守れ #学校園は流行期の対策を今年の8月にコロナは再流行し、病院でのマスク着用や入院患者への面会謝絶などあったのですが、これはいまはどうなっているのでしょう?工作員z大阪府泉大津市長選での立花孝志「候補」について全国の報道業者は批判しなさい。 #立花孝志に騙されるな #立花孝志包囲運動 #立花孝志から社会を守ろう #立花孝志の逮捕まだですか #報道業者への不満No title 宮武弁護士のブログで見ましたが、日本保守党の百田尚樹代表が立花孝志NHK党首に接近しているようです。悪党同士の連合、ヤバイ匂いしかしません。
目下のところこのクテシフォン論外取締役デマ工作についての最初のぬるい謝罪を批判されてやっと「沖縄の方々」に謝罪した弘兼憲史と講談社。しかし、まだ問題は残っています。 @morningmanga @KODANSHA_JPNo title<首相動静:11月08日>
同57分、東京・日本橋室町のホテル「マンダリンオリエンタル東京」着。同ホテル内の宴会場「グランドボールルーム」で漫画家弘兼憲史さんの(無記名コメント)大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)No title『大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)』に対する意見
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-10454.htewkefc韓国ユン・ソンニョル・クーデター事件。負けたのは政党「国民の力」。勝ったのは韓国の国民の力。もし日本で緊急事態条項が創設されれば就任以来数々の保守反動政策、不祥事を連発し国民の支持を失い死に体になっていた尹錫悦大統領。
巻き返しを狙ってクーデター(非常戒厳宣布)を決行。
しかし韓国民衆の迅閉口韓国ユン・ソンニョル・クーデター事件。負けたのは政党「国民の力」。勝ったのは韓国の国民の力。負けたのは「国民の力」尹錫悦大統領の弾劾決議案は不成立となりました。
多くの国民は弾劾を支持しています。
尹錫悦大統領のクーデターは弾劾に値します。
即刻大統領辞職のケースです。
今回の閉口韓国ユン・ソンニョル・クーデター事件。負けたのは政党「国民の力」。勝ったのは韓国の国民の力。No titleスミマセン。
先ほどの
>韓国の「斉藤」でニッポソの呆導893がバカ騒ぎ、の裏で兵庫の「ユン」が報じれれなくなったようですね。
を「身内」が言ったのではなく、
韓国の津木野宇佐儀論外取締役デマ工作についての最初のぬるい謝罪を批判されてやっと「沖縄の方々」に謝罪した弘兼憲史と講談社。しかし、まだ問題は残っています。 @morningmanga @KODANSHA_JP真に反省する気があるなら講談社出版の弘兼憲史が作者の「社外取締役 島耕作」に辺野古新基地建設反対の市民に日当が出ているというデマがまことしやかに載せられる。
デマであることがわかり最初閉口大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)「山本五十六」というアイコン>クテシフォンさん
山本五十六を担ぎ上げる言説こそ「ねじ曲がった意見」の典型ではないでしょうか。
確か、山本は中国に対して、東アジアで初の都市空爆を行った責任者で津木野宇佐儀韓国のユン・ソンニョル大統領によるクーデターとも言える非常戒厳宣布をとん挫させたのは、韓国国会議員たちの迅速な解除要求決議、与党議員の造反、軍自身の不服従、そして韓国民衆の迅速な自発的行動だった。済州島四・三事件の後始末韓国の民主化運動と言えば、光州事件やパク・クネの大統領弾劾を求める国民の大規模なデモなどが頭に浮かびます。
1948年には済州島四・三事件が起きました。韓国の独立Takeshi玉木の杯、底なきが如し #玉木雄一郎に騙されるな #玉木代表の議員辞職を要求する #国民民主党に騙されるなNo titleこれからは…
#玉木下に褌を正さず
#イシンに口を入れず
あと、獅子身中のフィラリア・立花の特効薬開発が急務かと津木野宇佐儀韓国ユン・ソンニョル・クーデター事件。負けたのは政党「国民の力」。勝ったのは韓国の国民の力。「真相報道バンキシャ!」ならぬ「プラウダ・イズベスチヤ!」>アンドリュー・バルトフェルドさん
ありがとうございます。
ニッポソジンキシャならさもありなん、と、あてずっぽうで書き込みましたが…
事実なら「記者」でなく、もは津木野宇佐儀論外取締役デマ工作についての最初のぬるい謝罪を批判されてやっと「沖縄の方々」に謝罪した弘兼憲史と講談社。しかし、まだ問題は残っています。 @morningmanga @KODANSHA_JP2周回遅れのニッポソいまだに続く、アイヌや琉球、そして東・東南アジアの人々への差別
ニッポソはアジアではまだまだ19世紀から脱していないかと津木野宇佐儀韓国ユン・ソンニョル・クーデター事件。負けたのは政党「国民の力」。勝ったのは韓国の国民の力。No title>津木野宇佐儀さん
多分、讀賣の記者っぽい気がします。スマホでニュースを見ているのですが、見出しの書き方から判断しました。
敗者を野党議員にしたければ、与党がアンドリュー・バルトフェルド韓国ユン・ソンニョル・クーデター事件。負けたのは政党「国民の力」。勝ったのは韓国の国民の力。No title 韓国の与党である国民の力が弾劾に踏み切れない最大の理由は、弾劾決議が行われると今回は確実に憲法裁で認められるためです。そうなると大統領選挙が行われてほぼ間違いクテシフォン大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)No title 最近は「アメリカと戦争としたことだけが間違いだった。」というねじ曲がった意見も強まっているようです。つまり、「日本が負けたのは技術力や物量で勝るアメリカと戦争クテシフォン「民主主義のコストがなぜ自民党への献金でなければならないんでしょうか?」 (山添拓・日本共産党参議院議員) #自民党は利権と汚職と税金泥棒No title共産党に党名変更を強制してくるバカって何なの?ですわ。
最近だと週刊新潮(デイリー新潮が正確ですが、一緒くたにします)。
変えたら変えたでXとかと同じように言うのアンドリュー・バルトフェルド大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)No title立憲も散々バカにされているのに、維新と選挙協力という愚行をやろうとするわけで(呆)。アンドリュー・バルトフェルド大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)日本人が覚えるべき数字>関東大震災の時の朝鮮人虐殺
ももちろん
5/4, 3/1, 9/18, 7/7 等も
12/8へ至るまでの道のりも忘れてはいけないことですよね。
「この道はいつか来た道」にしないために津木野宇佐儀韓国ユン・ソンニョル・クーデター事件。負けたのは政党「国民の力」。勝ったのは韓国の国民の力。No title「X」の「記者らしき人」って
もしかして日本の報道業者?津木野宇佐儀大日本帝国のおかしたたくさんの過ちの一つ、太平洋戦争の開戦。(1941年12月8日、真珠湾爆撃)マレー方面侵攻を忘れてはならない。 1945年12月8日のマレー方面への日本陸軍の電撃的侵攻は、海軍の真珠湾攻撃より早く実施されていました。このことを忘れてはいけないと思います。●Takeshi韓国のユン・ソンニョル大統領によるクーデターとも言える非常戒厳宣布をとん挫させたのは、韓国国会議員たちの迅速な解除要求決議、与党議員の造反、軍自身の不服従、そして韓国民衆の迅速な自発的行動だった。韓国はアジア諸国の中で民主主義のフロントランナーである。戒厳令を発動するなど、なんと民主主義にほど遠い野蛮な国だと思っている識者やマスコミがいるのに驚きます。NPBのソフトバンクホークスに韓国のプロ野球のコーチが3ケ月ほTakeshi関東大震災における朝鮮人虐殺事件。過去の教訓的史実を消す権力者や国家は、現在の現実について嘘をつき、偽り、自ら誤り、自ら失敗し、いずれ自らを滅ぼす。日本語試験に合格した者だけが虐殺を免れた。作家の姜信子さんは、「暴力の予感」(冨山一郎/岩波書店)の中で沖縄の小学校教師が語った言葉に出会って震撼したそうです。「大震災の時、標準語がしゃべれなかったばかTakeshi民主主義弾圧側に立つ維新と国民民主党と、民主主義守護側に立つ日本共産党No title弾劾訴追は難しい感がありますが、野党は引き続き求めるし、「またやりかねない」という警戒感を抱いているということです。
与党も「もう辞めろ」と言い続け、検察も「ちアンドリュー・バルトフェルド