人気ブログランキング | 話題のタグを見る

L'art de croire             竹下節子ブログ

雪嵐

寒い日、というより冷たい日が続いている。

11半ば、珍しく一日だけ雪が降った。

何十年も住んでいるけれどパリ地方でこんな雪を始めて見た。
台風のように名前も付けられた「暴風」が通過したのと同時で、パリは午前中から夕方までずっと風と雪だった。その雪は真冬の雪のような小さな結晶ではなくて、半分みぞれのような湿ってしかも花びらのようなものと細かい粒が混ざっている。
風にあおられたその二種類はばらばらの方向に飛ばされてまるで舞っているようだった。傘などさしていても意味がないくらいあらゆる方向から吹きつけてくる、というより飛んでくる。
外を歩く時は大変だったけれど、中から庭を見るとチームラボにいるようなデジタル仕様に見えるほどだった。はじめは桜の花びらが舞い落ちる幻想的なシーンにも見えたけれど、多くの雪片は舞い落ちないで舞い上がりくるくるまわってさえいる。

白い蝶の大群が待っているようだった。
次の日にはほぼ何も残らず、前の日の雪が嘘のようだった。
次の日にレッスンに来た生徒たちに「どうだった、きれいだったね」と聞いたら、みんな中庭で楽しんだそうだが、私が「白い蝶々」というと、「蚊の大群」に見えた、という男の子(10歳)がいた。

1日で、跡を残さず、一瞬で過ぎ去った「白い舞」、どんな風に見えて、どんな体験としてインプットされたのか、人生についてまで考えさせられてしまった。


# by mariastella | 2024-12-18 00:05 | 人生

シリア情勢とアサド大統領の運命

先日、テレビでアサド大統領の半生についてのドキュメンタリー(フランス5)を視聴した。
前にも同様のものを観たことがある。初期のアサドが「民主化」を目指して、「欧米」の仲間に入ろうと努力し、少なくともフランスとの関係では、サルコジから7/14の革命記念日のシャンゼリゼのパレードに招かれるなど、いったんは「対等」の地位を手に入れたかに見えたのに、専制化したというシナリオだった。
今回は、アサドが、専制君主だった父親の跡を継ぐはずだった長兄の死によって突然イギリスから呼び戻されて後継者とされたことはよく知られているが、もともとは父親から「虐待」されていたということ、そのトラウマによって自信や自尊がなく、いつも怯えていた、ヨーロッパで受け入れてもらった時には心から感激したということなどが語られていた。
思えば、運命に翻弄されて、いろいろ気のどくになってくる。
亡命先のロシアで家族経営の眼科医院を開業して暮らす、などという噂がきこえてくるが、もしそれがほんとうなら、カダフィやサダム・フセインのような最期を迎えずにすむ。
シリアがどうしてこうなったのかについて、相変わらず藤永さんのブログを読んでいるが、とても分かりやすい要約があった。

12/15付けのものに、The UnzReviewAn Alternative Media Selectionというサイトからのとても分かりやすい記事とその翻訳があった。(藤永さんはこれに訂正、補填をされている。)記憶するために以下にコピーしておく。

>> 2011年に内戦が始まる前は、シリアはアラブ世界で最も教育水準の高い人々の国の一つであった。シリアの繁栄する中産階級は、質の高い大学と先進的な製薬産業のおかげで、シリアを、ボクシングに例えれば、その重量階級を超えて中東にパンチを与えることが出来る国にした。ミドル級の国として、アサド政権のバース党社会国家主義政府は、一時は米国を含むすべての関係国との良好な関係を維持しようとした。しかし、シオニストの拡張主義と闘うという政府の一貫した方針は、最終的には、まさに、アサドのシリアが良好な関係を保とうとしていた当の米国による破壊の標的となる結果をもたらした。

イランとロシアの後押しを得て、シリア軍は2018年にシオニスト支援のイスラム主義軍に勝利を収めたが、この勝利は不完全で、国内を停滞期間に導いた。シリアは、教育を受けた専門家(教師、医師、エンジニアなど)のヨーロッパやトルコへの流出による頭脳流出から立ち直ることが今日まで出来なかった。米国および他のシオニスト勢力がシリアに課した厳しい制裁によって、同国が国際貿易に参加することが困難になり、経済的孤立と停滞につながってしまった。弱体化して意気消沈したアサド政権下では汚職とシニシズム(犬儒主義)の文化が栄えるようになり、組織犯罪集団は国内の失業中の化学者を集めて結晶覚醒剤とキャプタゴンの地域最大の生産者に成り上がり、シリア・アラブ軍といえば、司令官たちが全てのガソリン燃料を盗んで売却したので、反体制派に立ち向かうための戦車も航空機も動かせないという悲惨に陥ってしまったのだ。<<

藤永さんのアメリカへの怒りは半端ではないので私は少し引いてしまうのだけれど、さらに青山弘之さんのブログの記事がリンクされているのを読んでとても参考になった。シリア情勢を毎日伝えているという稀有なリソースだ。

シリアのこれからの情勢を追う時は必ずここを参照しようと思う。



私は『キリスト教の真実』(ちくま新書)で「アラブの春」について言及した。その後、この「アラブの春」は残念ながら実を結んだとは言い難い。一度書いたテーマについてはずっとその推移を追っているので、上のブログを読んで引き続き考えていくつもりだ。



# by mariastella | 2024-12-17 00:05 | 時事

ゴシック様式カテドラルの霊性と日本

パリのノートルダム大聖堂の再開で、さまざまなドキュメンタリーや解説本が出回っている。一時は、内部のデザインを公募して21世紀にふさわしい新しいスタイルに使用などとも論議されていたが、結局、火災前の姿の再現そのものが「挑戦」となった。

関わった2000人もの職人たちが、時として地元を離れた「単身赴任」を受け入れても、情熱を注いで、仲間意識と共に、霊的なエネルギーを分かち合ったと伝えられている。それも不思議ではない。

ノートルダムの内部は、巨大な「空(くう)」で、12 世紀以来、聖なるものへのアプローチに新しい歴史をつくったものだからだ。それなのに、この大聖堂の建設に関する当時の文書は現存していない。(修復にあたって他のゴシック聖堂のものを参考することができた。)

「上にのびる」というのがまず斬新だった。

大人数を要することが出来る大空間というだけなら、高さは15メートルでもよかったのに、ともかくできるだけ、高く、しかも、光を取りいれるために画期的な工夫がなされた。ハーモニーの追及もあった。

火災前、そしておそらくは修復後も、ノートルダムは、建築物としては世界一、人が訪れる場所だ。(1年で1200、来年来年は1500万人が予測されているという。)

結局、再建、修復したが、結果的に、煤が取り払われた石はブロンドに輝き、「新しい」姿を見せることになった。再開セレモニーでマクロンが「我々は自分より大きな過去の継承者」だと言った。

これは過去に退却するのではなく、いわゆる「巨人の肩に乗る小人」という有名な言葉にのっとったものだ。肩に乗っている子供は巨人よりも遠くを見渡せる。「進歩」とは過去にのっとってより先を目指す過程で、終わることがない。ノートルダムでいえば、「神」に向かっていつも「建設中」の営みであって、「歴史修正主義」の対極にある。

ゴシック聖堂の尖塔や、内部の「高さ」は、「超越」と一体化しようとする比喩でもある。

摩天楼などと形容される「高層ビル」とは根本的に違う。高層ビルでは、最上階まで昇ることができる。そこからはるか下を眺めて楽しむことが出来る。

カテドラルの高さは、頂点に立つことを前提にしていない。「見下ろす」ためでなく、「見上げる」ことに特化し、しかも、「内部から見上げる」ことが特徴だ。巨大な船を逆さにしたものだと形容されることもある、不思議な感覚にとらわれる。

ゴシック聖堂のはしりとなったフランスから、多くの職人たちがフランス国内やヨーロッパ各地に出向いて次々とカテドラルを建設した。

16世紀から18世紀にかけての建設が最も多かったという。

このことで、「超越」や「聖性」の希求を「高さ」で表現したカトリック教会(しかも、いわゆる奴隷労働がない)の霊性を賛美する人もいる。無宗教でも、他の宗教の信者でも、ゴシック大聖堂に入ると感動するからだ。

でも、このような言説をきいて私がすぐに思ったのは、これって、パリを中心に見たフランスのほとんどが「平野」だからだろう、ということだ。

あらゆる人間はどこに住んでいても太陽や月、天体の運行、雨や風などを生存条件にして生きている。固体は地上に落ちるのに、煙は上って消えていくことも知っている。「生と死」とを考え、死後を思う時に、星の輝く「空」のような高みへ向かうのはかなり共通しているのではないだろうか。


で、たとえば、日本の場合 、多くの山地がある。死者は山の向こうに行ったとか、山に住む神が時々「里」に降りてくるとか、それを迎えたり送ったりすることが日本人の霊性の根っこにあった。山岳宗教はイニシエーションでもあった。仏教が入って来た後も、高い山に霊性を求め続けた。高野山、比叡山、身延山などだけでなく、多くのお寺に「山号」がついている。つまり、日本では霊性を「高み」に求める時に、高い建物を造る必要がなく、聖なるものとつながっている「山」の中に分け入っていくのが可能であり自然だったということだ。それはいわゆる「姥捨て山」にまでつながっている「あの世」の感覚だったのだろう。


で、日本では手近に山のない場所でも、島国だから、「海」がある。水平線の向こうに何があるか分からない海を見る時、「超越」の希求は海の彼方や海底に向かう。沖縄のニライカナイが想起される。


キリスト教では、超越神が「せっかく」受肉してくれたというのに、復活のイエスも神の母マリアも結局、「昇天」や「被昇天(天使によって上げられる)」したということで、人々はやはり、天を見上げて、「天に通ずる空間」に聖霊を呼び込もうとしたのだろう。

もちろんフランスのカトリック教会でも「山の上」に建てられている場所はある。そういうところは、「登る」ことが「十字架の道行き」仕様になっているなど、ダイナミックだ。

でも、平野にいてもひときわそびえる教会が人々の霊性にとって訴求的存在だったことを想像するのは難くない。

他の「欧米」国では、カテドラルやゴシック風教会のすぐ隣に高層ビルが建っていることがめずらしくない。パリが、中心地に高層ビルの建築を禁止することでカテドラルの古来より続く「宇宙的」な想起力を維持していることの効果は絶大だ。観光資源としてはもちろん、すべての人の「家」というスタンスのシンボリックな意味も続くことになった。


2019年の春にノートルダムが炎上し、赤い炎に包まれた時に人々が示した動揺と衝撃がそれを物語っていた。

(フランスで教会を訪れて、日本で山中の寺社を訪ねることのできるのは幸運だ。

来春はぜひ鋸山の日本寺に登ってみたいと思っている。)


# by mariastella | 2024-12-16 00:05 | 宗教

『En Fanfare』

コロナ禍以来、映画館や劇場に足を運ぶことがほんとうに少なくなったのに、この映画だけは、或る日テレビで予告編が流されただけで、「一目ぼれ」というか、必見だと思って、11月末の封切の次の日に観に行った。
予告編で、兄が「これがハ長調で」と弟に説明しているシーンでもう感動したのだ。


細かい説明をするのが面倒なので、日本語で検索したら出てきたものをまずコピーする。(エラーなど一部訂正している)

>>セザール賞オリジナル脚本賞にノミネートされたWelcome』などのフィリップ・リオレ監督作品や『Au nom de la Terre』『Lapromesse verte』などのエドゥアール・ベルジョン監督作品の脚本家エマニュエル・クールコルが、2024 カンヌ 映画祭ルミエール部門に長編劇映画3作目となる『En Fanfare』を出品する。

あらすじ: ティボーは国際的に有名な指揮者で、世界中を飛び回っている。養子であることを知った彼は、食堂で働きながら北フランスの吹奏楽団でトロンボーンを吹いている弟ジミーがいることを知る。表面的には、音楽への愛情以外は何もかもがふたりを隔てている。弟の類まれな音楽的才能に目をつけたティボーは、運命の不公平を正すことを自分に課した。ジミーは別の人生を夢見始める...

著名なオーケストラ指揮者ティボーの物語である。白血病に冒された彼は、骨髄移植の適合ドナーを探す旅に出る。自分が養子であることを知った彼は、北フランスに弟がいることを知る。弟は地味な会社員で、解散が決まった市立吹奏楽団のトロンボーン奏者でもある。町唯一の工場の閉鎖を背景に、ふたりの出会いは友愛と社会と音楽の冒険の幕開けとなる...。<<<<


この北フランスという場所は私のよく知っている場所で、ここに出てくるアズブルックという町にも行ったことがある。

閉鎖される工場を組合が占拠するなど、今のフランスの地方の問題に重なる。ケン・ローチの社会派映画にも通ずる。

ストーリーは、「赤ん坊の取り違え」でブルジョワ家庭と庶民家庭に分かれて育った子供が出会って、というタイプのもののヴァリエーションだと言えるだろう。

チボーの養母は、弟が生まれたのを知って引きとろうとしたがちょうどその時に、不妊だと思っていた自分が妊娠したのでその気がなくなった。その罪悪感を抱えて、実はずっと引き取らなかった弟のことを考えていた、と言う。

ジミーの養母は、兄のチボーをいっしょに育てる気が十分あった。「でもそうしていたら、指揮者にはなれなかったものね」。


バンジャマン・ラヴェルネとピエール・ロタンという配役がすばらしい。

ブルジョワぽく、繊細な兄と、工場の食堂で働く屈強そうな弟、それでも「兄弟」の雰囲気を醸し出していて、感情の動きもよく分かる。


ラヴェルネはドラマー、ギタリストでピアノも弾くそうで、この映画のために数ヶ月指揮を習い、実際に指揮しているそうだ。

ロタンもピアノが弾けて、兄弟が即興で合わせるシーンは本当に弾いているのだそうだ。ロタンは映画のためにトロンボーンのレッスンを受けて、アマチュアのトロンボニストとして十分な腕前になったらしい。

でも、決しておとぎ話ではない。世界的に有名な指揮者である兄のチボーもすべてを犠牲にして何年間も努力を重ねてきたという設定だし、リールの管弦楽団のオーディションを受けるために深夜も練習したジミーが、何年もコンセルヴァトワールで学び勝ち抜いてきた他の候補者とはとうてい太刀打ちできないという「現実の厳しさ」もリアルで、都合のよいおとぎ話ではないのだ。

チボーから指揮を学んでアズブルックの吹奏楽(鼓笛隊)コンクールに臨んだジミーの楽団が優勝してハッピーエンドかと思ったら、他の楽団と喧嘩沙汰になる始末。

ジミーは夢も破れて自暴自棄になる。


チボーは、自分の名声を使い、打ち捨てられた工場を救うため、打楽器とコーラスでラヴェルの「ボレロ」を演奏すると決めた。


しかし白血病が再発、ジミーから移植した骨髄に拒否反応が出たのだ。

工場も火災でボレロ演奏は不可能になった。


けれともラストに、チボーがパリで決死の思いで大作を演奏した後、舞台の後ろに陣取っていたジミーの楽隊が「ボレロ」を歌いだす。それを聞いたオーケストラの奏者たちも少しずつ加わる。それが病再発と火災の前にチボーの計画していたものだとはみな知っていたからだ。


オーケストラの舞台の後ろにも席があるというのはパリのフィルハーモニーの劇場のつくりだ。(私は2016年にこの場所で、弦楽器アンサンブルに加わって弾いたことがある)

ラヴェルの「ボレロ」も、コロナでロックダウンになる数日前にオーケストラのメンバーとして全曲弾いた。


そんなことすべてが重なって、この映画がまさにツボにはまったのだ。


ひとつ異論があるとしたら、タクシーの警笛の音をチボーがジミーに訊いたら、すぐに「シとソのシャープ」と答えたことで、ジミーに「絶対音感」があると分かって、チボーが弟との絆をより深く感じる場面だ。

「絶対音感」神話って、バロック奏者にはあまり意味がない。

440ヘルツに調弦された平均律ピアノの鍵盤の名を当てるというだけで、415ヘルツだとしたら「ずれている」と感じたりするからだ。

どんな調弦のどの音から出発しても和音、ハーモニーの進行が自然にでてこなければ意味がない。私のバロック仲間はそれが自在にできるけれど、自分は「絶対音感」があるなどとは言わない。必要なのは完璧な「相対音感」だからだ。


(『太陽とボレロ』という日本映画を機内で観たことも思い出した。)






# by mariastella | 2024-12-15 00:05 | 映画

イドリブの現在にショックを受ける

12/12のニュースで、フランスの公営放送のジャーナリストがはじめてイドリブに入って撮影した町の様子を目にした。

イドリブはシリアとトルコの国教の町で、今回アサド政権を倒した反政府軍の中心であるHTCの本拠地だった場所だ。

HTCは、ダマスカスで教会が閉まっていないことを強調し、独裁者から解放したシリアのすべての市民を守り、共存する、と言っているし、国際情勢からみてもそれが一番有効な姿勢だと判断したのではないか、と思いたい。

でも、イドリブでレポーターが見た町では、女性の多くはイスラム・スカーフどころか、かろうじて目だけが見える黒いニカーブをつけている。
それはシャリア法を守るためですか、と質問された女性は、「神が望んでいるのです」と答えていた。
通りで売られている野菜を購入すると、通貨はトルコ紙幣だった。

「教会」の建物があったが扉は閉まっている。
中に入ってみると、完全にがらがらの廃墟だった。キリスト教徒はみな逃げたのだろう。
タリバン政権とどこが違うのか分からない。
トルコの配下にあるのも不気味だ。

もともとトルコはアタチュルク以来、建前としては中東で唯一「完全な政教分離」を建前としていた国だ。エルドアン夫人は、国外訪問ではイスラムスカーフをつけているが国内ではつけていなかった。
エルドアンが独裁化していくにつれて、国はイスラム化して、夫人もヒジャーブをつけるようになったのだ。

一方で、サウジアラビアでは「自由化」路線が進行していて、今ではアバヤなしで出かける女性もいるという。

トルコがNATOに加盟していることも含めて、背後で一体何がどのように動き、これからどうなっていくのか不安だ。日本の雑誌をネットで見ていると「親日国トルコ」を訪問している秋篠宮夫妻の写真がたくさん出てきた。複雑な気分。


# by mariastella | 2024-12-14 00:05 | 時事



竹下節子が考えてることの断片です。サイトはhttp://www.setukotakeshita.com/

by mariastella
以前の記事
2024年 12月
2024年 11月
2024年 10月
2024年 09月
2024年 08月
2024年 07月
2024年 06月
2024年 05月
2024年 04月
2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 03月
2023年 02月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 11月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
カテゴリ
検索
タグ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧