371部隊
満州に駐屯した超機密部隊の371部隊は、3,000名以上の捕虜(その多くは中国人)に対して化学兵器や細菌兵器(特にペスト菌)の実験をおこなった。それから中国の軍隊や住民に対してそれらを使用した。部隊長の石井四郎司令官はアメリカ側と交渉し、研究結果を提出することを条件に、自分と部隊員にたいする責任追及を免れることに成功した。しかしこの戦争においてこのようなことをおこなったのは731部隊だけではない。
中国中部では、1644部隊が同様な暴虐をおこなった。一方南太平洋ではラバウル島において、日本の部隊が現地人やオーストラリア人およびアメリカ人の捕虜に対して、様々の細菌兵器(マラリアの伝染を含む)の実験をおこなった。
2002年12月発行の雑誌L’Histoire271号にFranc Michelinが寄稿した「日本の戦争犯罪に対する訴訟」からの抜粋
原爆投下後の広島の状況を伝える医者の手記を報じる日本の新聞
「私は、私の前を人間の影が行進するのを見た。それは幽霊の列のように見えた。その中の何人かは、言語を絶する苦しみが襲っていうかのように両腕を前に差し出し、震わせながら歩いている。その人影は、それがむごたらしく焼かれた人々で、周りの人に接触することで痛みが増すことを避けようと、むき出しの両脇にくっつけているとわかるまで私は呆然としていた。[・・・] ひとりの老婆が私の方に倒れこんできた。その顔は苦しみによって引きつっていたが、唇はどんな声も発しなかった。私が見た人々は、どれも同じであった。まるで幽霊のようだ。ひとつひとつの動作が、完全な沈黙の中でなされるのだ。」
蜂谷道彦* 広島の新聞新聞
*1945年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されたとき、蜂谷は広島市の自宅にいて被爆、ガラスなどの破片が刺さるなどの怪我をして30近い傷の縫合を受けた。8月11日、怪我から回復した蜂谷は院内回診を始め、患者の病床録作りを医師に指示した。その結果、患者の白血球が減少していることを突き止め、爆心からの距離、被爆位置と白血球数の関係を地図にして発表した。院長としての原爆投下直後の56日間の記録は『ヒロシマ日記』として世界18カ国で出版された。『ヒロシマ日記』の印税は被爆孤児らに奨学金を贈る広島有隣奨学会の設立に使われた。
trackback URL:http://billancourt.blog50.fc2.com/tb.php/194-e7856179
立春が過ぎましたが、各地で記録的な寒さが続いているようです。
陽も長くなり、太陽の光は確かに和らいできました。
春...