フランスの歴史教科書の大戦間のフランス第1節「苦い勝利」です。
1926年、凱旋門でおこなわれた傷痍軍人のデモ
1.
苦い勝利A.
血を流し、荒廃したフランス 1918年の勝利にも関わらず、フランス国民は衰弱しきった状態で第一次世界大戦から抜け出した。約900万人の召集兵のうち、130万人が戦死し、110万人が傷痍軍人となった。都市でも村でも、道にはいたるところに傷痍軍人がいて、塹壕での恐怖を思い起こさせた。
しかし戦争の人口統計学的結果は、それをはるかに上回った。1914年から1918年までの間に出生数は激減した。それは男性の死亡率の高さと前線での駐屯が原因である。こうして子どもの数の「落ち込み」は140万人に達した。この落ち込みの年齢層はその後十数年間、フランスの人口に影を落とす。大戦間のフランスは老いた国であった。
こうしてフランスは、疲労困憊した国になった。戦争は、戦闘が繰り広げられた北部と西部の10県に損害を与えただけではなかった。工場は4年間、武器を生産しなければならなかった。多くの工場がこれから転用しなければならず、ときには破産や解雇に追い込まれることもあった。そのうえ戦争による出費で国は負債をかかえた。1914年以前にはフランスは世界の主要な債権国であったが、これからはいくつかの国、とりわけアメリカに対しては債務国となる。
B.
混乱する社会 戦後のフランスの社会は、1914年にくらべ活気を失っていた。農村では戦争の間、多くの農家が機材への投資を見送り、老朽化したまま使用するのが普通であった。農地の多くは荒廃したまま放置された。そして農民の都会へ流入が加速度的に増大した。国債を所有する都会の中間層は、価値の下落によって収入が減少し、切り下げられた生活水準に耐えねばならなかった。そして労働者の購買力も同様に厳しかった。
とりわけインフレーションが心配された。戦争による出費に対処するために、国は紙幣を大量に流通させた。1914年に600万枚流通していた紙幣は、1920年には3,800万枚に達した。19世紀を通して安定していたフランも下落した。レイモン・ポアンカレ首相がどうにか通貨を安定させたのは、1803年の「フラン・ゼルミナル」* から80%も価値を下げた1928年になってからである。
* 1803年に発行されたフラン金貨。フランス革命の革命暦であるゼルミナール(3月下旬から4月中旬)に因んでこう名づけられた。
C.
大戦の政治的後遺症 復興のための資金獲得に、歴代政府はヴェルサイユ条約によって決められた、ドイツが支払う賠償金を当てにした。1923年、支払いの遅れに苛立ったフランスは、軍隊を差し向けルール地方を占領した。右翼、左翼を問わず、代議士の大半は兵士であった。彼らにとっては、4年間に支払った犠牲を償わせるために、「ドイツ野郎は支払うべき」なのである。
ロシア革命も、戦争がもたらした政治的帰結に影響を与えた。1920年ツールで開催されたSFIOの大会では、ボルシェヴィキのイデオロギーと戦略に主導権を与えようとする多数派と、モスクワに従属するのを拒否する少数派とが対立した。大会は、はじめて共産党という呼び名を与えられた国際共産主義のフランス支部の創設とともに、労働運動の分裂という事態に至った。このSFIOの分裂の1週間後に、CGTが分裂した。
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