人間らしく生きる権利に対して、いかなる義務を要求するというのか
大阪長居公園でのホームレス排除の件。
権利を主張する前に、義務をはたせ!!
人権団体が権利、権利と叫ぶが、義務を果たしてこその権利である。
基本的に権利を主張する前にまず義務を果たせと言いたい。
権利とは義務の遂行の結果に与えられる物でしょ?
ホームレスと言うものは、一切の義務と責任、権利と自由を放棄しているのだから、公園に勝手に住む権利はない。
権利は、義務を満たしてこその権利であって、義務を果たさないものに権利は与えられない、表裏一体のものと考えられる。
権利と義務は反対語であるように、権利を主張するのであれば、義務は果たさないと駄目よ。
…類似の記述は他にいくらでも見つかります。どうも僕は、この種の言い回しが権力の行使を正当化する文脈で使われるのを見るたびにハラワタが煮えくりかえるようです。ホント頭きたので、権利と義務の構成についてはこれからちょっと勉強することにしようと思います。が、今とりあえず不勉強なまま思うことを。上のような物言いをする人は自分の周辺にもいそうなので、そういう人達にどう話すか、というつもりで。
どんな義務?
ホームレスと支援者が主張するのは、居住権のような人間らしく生きるための基本的な権利です。その権利のためにどんな義務を果たせというのでしょうか。
納税の義務?では、税金を納めることができなければ、生活保護を受ける権利はないのでしょうか?生活保護が必要な人に税金の支払いを要求するつもりなのでしょうか。
労働の義務?では、働くことが出来ない人は住まいを追われ、行く先もなく、路上で死んでもやむなし、と考えているのでしょうか。
それとももっと他の義務?みすぼらしい姿を付近の善良な皆様の前にさらして不快な気分にさせない義務、とか?誰かを不快にさせる人は、人間的な生活を求める権利がないと言うのでしょうか。
これらの要求がホームレス以外の人々に向けられたら、と少し想像すればその異様さに即座に気づくはずです。犯罪に対する処罰としてなら権利が制限されることもあるでしょう。しかし彼らは犯罪者ではない。
しかも、こういう言い方をする人々は、権力の行使に対して「行政は義務を果たしたか」とは決して問わない。一方的に行政の行為を正当化するのみです。
また、条例や法律を持ちだして「ルールに従え」という信条とも、これは共通するように思えます。このとき、憲法や国際条約のような、より大きなルールのことは無視する傾向があるのも特徴的でしょう。
無知
こうした要求が恥ずかしげもなく主張される背景は、僕は無知によるところがかなり大きいのではないかと思います。僕自身も、あまりに知らなさすぎた。少し古いですが、例えば平成14年の厚生労働省の調査を見れば、彼らの多くが「失業・倒産」や「病気・けが」などで職を失なってホームレスとなったことがわかります。働くのが嫌でホームレスになったわけではありません。また、彼らは「働こうとしない」のではありません。事実、収入は極端に低いものの、何らかの仕事をしている人は 64.7% もいます。さらに、過半数が将来仕事をしたいと考えており、今のホームレスのままでいいという人は 13.1% にとどまります(この中には単に諦めを表明しているだけという人もいるでしょう)。その他は施設に入ることや入院などを希望しています。
ホームレスの人々が「働くのが嫌で、自発的に公園暮しをしている」というイメージは、ほとんど虚偽だとわかります。
一昔前の安物のドラマには、時々「自由な生を謳歌する高貴なホームレス」が現われてきたように思います。そういったディオゲネス的なホームレスのイメージが、こうした無知を支えているように思えてなりません。この「高貴なホームレス」像は、確かに彼らにも尊重すべき人間性のあることを示す役にも立ったかもしれませんが、一方で「彼らは好き好んでそうしている」というイメージ(実際にそのような人が全くいないわけではないでしょうが)を植えつける効果もあり、危険なものだと感じます。
永続的緊急自体
# usi4444 『>しかし公園は家ではありませんよね?
阪神大震災の時、公園に仮設住宅が沢山並んでいましたことを思い出しました。』 (2007/02/07 00:22)
# mojimoji 『まったくそれと同じなんです。そして、被災者に対してさえも相当エゲツナイ事が行われたという意味でも、まったく同じことが繰り返されています。』 (2007/02/07 00:27)
というやりとりが、自分には大変わかりやすいと思いました。被災して職も住処も失なって公園に住んでいる人々が、何の保証もなく追い出されたら、それを「義務を果していないから当然」と思う人があるでしょうか?
事情が違う、と言う人もいるでしょう。被災者は緊急事態なのだから、と。しかしホームレスの人々の多くがそのような生活を「強いられて」いる以上、事情は変わりません。彼らの置かれている状況は、いわば永続的な緊急事態であって、そこから抜けだせない状況が続いていると考えるべきではないでしょうか。
「我侭」
「シェルター」などの施設への入居を拒否する人を「我侭」という人も多い。ではなぜ拒否するのか。端的に言って、総合的に見てその施設での生活は公園以下だと判断されているからでしょう。ちょっと考えればわかることです。人間が生きるには、雨風がしのげれば良いというわけではない。将来への期待も必要だし、仲間もプライバシーも必要です。犯罪者を刑務所に入れるのとは違うのです。公園でテント生活を送っている人に対して、さらにそれ以下の生活をせよと言い、従わなければ我侭だと言っていることになるのです。
また、シェルターに入るにはテントや荷物を放棄することが義務づけられ、数ヶ月後には出ていくことが要求されるそうです。これはどういうことか。要するにこれら施設の目的は、公園から彼らを排除することであって、自立を支援することではない。公園からいなくなってくれさえすればよい、という考えで施策がされる限り、自立などできようはずもありません。
「権利には義務が…」
この言い方については、これからおいおい勉強することにします。以前からずっと違和感を抱いていました。それは、中学生のときになぜ丸坊主にしなければならないか先生が誰も答えてくれず、「権利には義務が…」などという抽象的な言い回しでごまかしていたことに腹を立ててから、今にいたるまで続いているように思います。