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「謝罪」、責任をきちんと認めるということ -中尾知代『日本人はなぜ謝りつづけるのか』について-
中尾知代『日本人はなぜ謝りつづけるのか』を読む。
以前、日英和解の記事が話題になって、それで本書を再読した(二度目)。
タイトルはアレだが、いたってマトモな本。
こちらの書評が一番丁寧である。
気になったところだけ。
ある捕虜の未亡人について(39頁)。
彼女の夫は、捕虜時代の後遺症で次々に病気を発症した。
そのため、彼女の人生はほとんどが、病院通いと介護で費やされた。
しかし、病院費用の領収書を持って行政の福祉課を訪れても、相手にもされなかった。
こうした死亡者リストに入らずに存命した者でも、多くの者が心身衰弱の後遺症で早世している。
そして著者は思い出す。
母校の高校の恩師でシベリア抑留の経験者が、ふとした風邪で早世してしまったことを。
「一度徹底して痛めつけられた身体は、外見からはわからない後遺症を抱える」。
「捕虜」の問題とは、戦争終結で終わっているのではなく、戦後の後にも続いていたことに、思いを届かせねばならない。
英国捕虜だった人物は、「教えてくれ、どうして、日本人は病人にあんなに冷たいんだい?」と述べる。
戦争が終わり、彼らが目にしたのは、放置されている日本兵だった(41、42頁)。
戦時中に自分たち捕虜に冷たい日本軍は、自分らの兵士にも冷酷だった。
そのことに驚き、日本側の考え方が理解できないまま六〇年も気になっていた、という。
別の元捕虜曰く、「上司がヒラの兵士を殴り、兵士が朝鮮人の軍属を殴り、軍属と兵士が捕虜を殴る、そういう構図でした。ぼくたちは、最底辺にいたわけですよ」。
ではその頂点とは誰だったのか、という『神聖喜劇』の問いを、思い出すべきなのだろう。
基本的なことだが、日本政府が述べてきた用語は「お詫び」、「遺憾」、「反省」ばかりであり、英蘭中米などに戦争に関わる声明を出す際、「謝罪」("apologize"等)のような言葉を使用した例はない(64頁)
「遺憾」とか「悔やむ」といった言葉は、"regret"や"remorse"が訳語とされるが、しかし、こうした語というのは、自分が傷つけた責任ある相手に言う言葉ではない(95頁)。
相手に対して加害行為を行なった主体が被害者へ行なうのは、「謝罪」であって、「遺憾」云々なわけがない。
ここで問われるのは、責任を認める、という行為だろう。
日本の場合、謝罪するとそれが「最終的な敗北」として、例えば店をたたむ、責任者が辞める、あるいは責任を取って自殺、といった事態を伴う(96頁)。
そのように社会的に「要請」され、そうした社会的規範を内面化しているケースが多い。
そうして、責任は結局、うやむやになる。
しかし英米の場合(たいていは)、謝罪はしても、そして責任を認めても、辞職はしない。
ここに認識のズレがある。
「謝罪」というのは、行為主体としての責任を認めることによって、新たな関係を開いていくポジティブな行為である、と一般的にはいえる。
それを、身体を張って「水に流す」必要があるだとか、謝罪をしたら損をする云々だとか、そのようにネガティブに考えてしまうところに、認識のギャップが生まれる。
多くの捕虜にとっての謝罪は、非人間・モノとして扱われた自分が、人間として認証され、対等な存在として証明されることである(97頁)。
そうした尊厳の回復によって、関係を築くことが、和解の意義だろう。
民間人による謝罪の「代行」について(138頁)。
日英間で民間交流の中で、戦時の捕虜への「行為」に対し、謝罪が行なわれることもあるが、そこには死角も存在する。
ここで交わされる「謝罪」は、元捕虜にとってはうれしくないこともないが、本来、責任のない人々が次々に謝るだけなので「大丈夫です。あなたのせいじゃありませんよ」と返す以外にない、困惑する経験でしかない。
責任主体が曖昧なままだ。
そうして、責任主体であったはずの日本政府や日本軍の姿(責任)は、盲点となってしまう。
また、日本側が理解を求めている収容所問題(アーロン、シベリア)などに、元捕虜が想像を及ぼすことも止めてしまう(144頁)。
そこに死角が出来る。
そしてそれだけでなく、西洋の植民地支配の責任も免罪されてしまうか、死角になってしまう。
そういう構図を、これらの謝罪は「企図せずして作り出す」(203頁)。
善意で行なわれるものが、かえって覆い隠してしまうものもある、というわけだ。
英国の戦争責任観について。
例えば英国人兵士の場合、身分の上下差が激しく、植民地出身の兵士に対しても、同士的感情やパトロナイジングな感情を抱いているケースが多く、帝国主義は問題視されない(201頁)。
植民地主義を反省する契機も見当たらない。
彼らの場合、当時既にインドやマレー半島は植民地化されていたため、その出来上がった植民地に職を求めたり赴任したりした人間は、自分たちが植民地支配に加担したという意識が希薄なのである。
日英和解の陰に隠れがちなこういった問題も、著者は取り上げている。
そして、日英和解を、こうした問題にいかに開いていくべきなのか、ということも、論点としてあげている。
「空爆や原爆についても、その下にいた一人一人の「人間」が、どういう気持ちでいたのか、それを細やかに英語にして伝えるべきである。/英国にいると、日本人はやはり個別性のない、集団に見える。だからこそ、人間としての思いがどうだったのかを伝えることは必須になる。」(226頁)。
これに付け加えるべき言葉はない。
・・・本来なら、以上で十分なのだが、少しだけ書いておきたい。
例えば、「英の反日退役軍人が和解式典 - MSN産経ニュース」という産経の記事だが、「反日」という語の使い方に、明らかに不自然さを覚える。
この「反日退役軍人」の団体というのは、本書にも出てくる「ビルマ・スター」という団体だ。
「反日」って言葉じゃ、そもそもなぜ彼らがそうした姿勢を持つに至ったのか、という根本を覆い隠してしまうだろう。
なんでも、「反日」、「反日」、ってこれじゃあ、ジコチューにも程がある。
さらにもう一つ言っておくと、本書のアマゾン評価が酷い。
この本自体は、読む限りいたってマトモだが、誤読しているレビューが多くの支持を集めているらしい。
そりゃ、レビュアーが何と思おうとそりゃ勝手だが、書評だっつってんのに、自分の御意見を開陳して悦に至るのは、流石に止めた方がいい。
誰がそれに該当するのかは、あえて言わないでおこう。
例えば、「著者はドイツと英国の和解をうらやましく思っているようだが、アホちゃうかと思う」だの、「あんなもの「政治ショー」の類いだ」だのと書き記されているが、抜けているのは、このレビュアーの方だろう。
本書の第3章に英独和解に関する記述があるが、正直「この程度もできねえのかよ」って感じの記述でしかないし、理想視もしちゃいない。
この評者は、本書を斜め読み程度しかしていないと思われる。
あと、「和解は極東軍事裁判ですべて終わっている。昔から「罪を憎んで人を憎まず」というだろう」だのと訳知り顔に書いているが、これも恥ずかしいことこの上ない。
本書をマトモに読めていないことが露呈しているからだ。
このレビュアーこそ、日本的「謝罪」観に囚われまくっていると思う。
「著者は「水に流す」のは日本だけのやり方で、他国には通用しないなどと馬鹿なことを言っている」などと書いているのも同様だろう。
そもそも「水に流す」ってのは、実際の所、責任主体がその責任をきちんと認めることなく、その者が辞職したり、自らの命を絶ったりするなどして、責任そのものをウヤムヤにする行為だからだ。
誤読だけでなく、「寛容の原理」ならぬ「"不"寛容の原理」を適応するという、実に最悪なレビューだ(あと、自説がウザかったw)。
「恵子ホームズさんらによる「民間外交」を、あたかも「真の和解」にとっては障害であるかのごとく難癖をつけている」などと書いてあるのもあるが、これもやはり誤読だろう。
正確には、その「民間外交」の善意とその成果を一応は評価はしている。
ただ、その手法からこぼれおちるものについて、指摘をしている。
問題は、「民間の和解」にもたれかかって、日本政府が「お詫び」だけで「謝罪」をしてこなかったことであり、それが有益だったはずの「民間の交流」を大いに害したってことだ。
人間は、ここまで「不寛容の原理」を適用した書評が書けるってのが良く分かったw
あと、著者自身が、アマゾンレビューを含む書評(難癖?)に、応答している。
ご一読あれ。
(未完)
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以前、日英和解の記事が話題になって、それで本書を再読した(二度目)。
タイトルはアレだが、いたってマトモな本。
こちらの書評が一番丁寧である。
気になったところだけ。
ある捕虜の未亡人について(39頁)。
彼女の夫は、捕虜時代の後遺症で次々に病気を発症した。
そのため、彼女の人生はほとんどが、病院通いと介護で費やされた。
しかし、病院費用の領収書を持って行政の福祉課を訪れても、相手にもされなかった。
こうした死亡者リストに入らずに存命した者でも、多くの者が心身衰弱の後遺症で早世している。
そして著者は思い出す。
母校の高校の恩師でシベリア抑留の経験者が、ふとした風邪で早世してしまったことを。
「一度徹底して痛めつけられた身体は、外見からはわからない後遺症を抱える」。
「捕虜」の問題とは、戦争終結で終わっているのではなく、戦後の後にも続いていたことに、思いを届かせねばならない。
英国捕虜だった人物は、「教えてくれ、どうして、日本人は病人にあんなに冷たいんだい?」と述べる。
戦争が終わり、彼らが目にしたのは、放置されている日本兵だった(41、42頁)。
戦時中に自分たち捕虜に冷たい日本軍は、自分らの兵士にも冷酷だった。
そのことに驚き、日本側の考え方が理解できないまま六〇年も気になっていた、という。
別の元捕虜曰く、「上司がヒラの兵士を殴り、兵士が朝鮮人の軍属を殴り、軍属と兵士が捕虜を殴る、そういう構図でした。ぼくたちは、最底辺にいたわけですよ」。
ではその頂点とは誰だったのか、という『神聖喜劇』の問いを、思い出すべきなのだろう。
基本的なことだが、日本政府が述べてきた用語は「お詫び」、「遺憾」、「反省」ばかりであり、英蘭中米などに戦争に関わる声明を出す際、「謝罪」("apologize"等)のような言葉を使用した例はない(64頁)
「遺憾」とか「悔やむ」といった言葉は、"regret"や"remorse"が訳語とされるが、しかし、こうした語というのは、自分が傷つけた責任ある相手に言う言葉ではない(95頁)。
相手に対して加害行為を行なった主体が被害者へ行なうのは、「謝罪」であって、「遺憾」云々なわけがない。
ここで問われるのは、責任を認める、という行為だろう。
日本の場合、謝罪するとそれが「最終的な敗北」として、例えば店をたたむ、責任者が辞める、あるいは責任を取って自殺、といった事態を伴う(96頁)。
そのように社会的に「要請」され、そうした社会的規範を内面化しているケースが多い。
そうして、責任は結局、うやむやになる。
しかし英米の場合(たいていは)、謝罪はしても、そして責任を認めても、辞職はしない。
ここに認識のズレがある。
「謝罪」というのは、行為主体としての責任を認めることによって、新たな関係を開いていくポジティブな行為である、と一般的にはいえる。
それを、身体を張って「水に流す」必要があるだとか、謝罪をしたら損をする云々だとか、そのようにネガティブに考えてしまうところに、認識のギャップが生まれる。
多くの捕虜にとっての謝罪は、非人間・モノとして扱われた自分が、人間として認証され、対等な存在として証明されることである(97頁)。
そうした尊厳の回復によって、関係を築くことが、和解の意義だろう。
民間人による謝罪の「代行」について(138頁)。
日英間で民間交流の中で、戦時の捕虜への「行為」に対し、謝罪が行なわれることもあるが、そこには死角も存在する。
ここで交わされる「謝罪」は、元捕虜にとってはうれしくないこともないが、本来、責任のない人々が次々に謝るだけなので「大丈夫です。あなたのせいじゃありませんよ」と返す以外にない、困惑する経験でしかない。
責任主体が曖昧なままだ。
そうして、責任主体であったはずの日本政府や日本軍の姿(責任)は、盲点となってしまう。
また、日本側が理解を求めている収容所問題(アーロン、シベリア)などに、元捕虜が想像を及ぼすことも止めてしまう(144頁)。
そこに死角が出来る。
そしてそれだけでなく、西洋の植民地支配の責任も免罪されてしまうか、死角になってしまう。
そういう構図を、これらの謝罪は「企図せずして作り出す」(203頁)。
善意で行なわれるものが、かえって覆い隠してしまうものもある、というわけだ。
英国の戦争責任観について。
例えば英国人兵士の場合、身分の上下差が激しく、植民地出身の兵士に対しても、同士的感情やパトロナイジングな感情を抱いているケースが多く、帝国主義は問題視されない(201頁)。
植民地主義を反省する契機も見当たらない。
彼らの場合、当時既にインドやマレー半島は植民地化されていたため、その出来上がった植民地に職を求めたり赴任したりした人間は、自分たちが植民地支配に加担したという意識が希薄なのである。
日英和解の陰に隠れがちなこういった問題も、著者は取り上げている。
そして、日英和解を、こうした問題にいかに開いていくべきなのか、ということも、論点としてあげている。
「空爆や原爆についても、その下にいた一人一人の「人間」が、どういう気持ちでいたのか、それを細やかに英語にして伝えるべきである。/英国にいると、日本人はやはり個別性のない、集団に見える。だからこそ、人間としての思いがどうだったのかを伝えることは必須になる。」(226頁)。
これに付け加えるべき言葉はない。
・・・本来なら、以上で十分なのだが、少しだけ書いておきたい。
例えば、「英の反日退役軍人が和解式典 - MSN産経ニュース」という産経の記事だが、「反日」という語の使い方に、明らかに不自然さを覚える。
この「反日退役軍人」の団体というのは、本書にも出てくる「ビルマ・スター」という団体だ。
「反日」って言葉じゃ、そもそもなぜ彼らがそうした姿勢を持つに至ったのか、という根本を覆い隠してしまうだろう。
なんでも、「反日」、「反日」、ってこれじゃあ、ジコチューにも程がある。
さらにもう一つ言っておくと、本書のアマゾン評価が酷い。
この本自体は、読む限りいたってマトモだが、誤読しているレビューが多くの支持を集めているらしい。
そりゃ、レビュアーが何と思おうとそりゃ勝手だが、書評だっつってんのに、自分の御意見を開陳して悦に至るのは、流石に止めた方がいい。
誰がそれに該当するのかは、あえて言わないでおこう。
例えば、「著者はドイツと英国の和解をうらやましく思っているようだが、アホちゃうかと思う」だの、「あんなもの「政治ショー」の類いだ」だのと書き記されているが、抜けているのは、このレビュアーの方だろう。
本書の第3章に英独和解に関する記述があるが、正直「この程度もできねえのかよ」って感じの記述でしかないし、理想視もしちゃいない。
この評者は、本書を斜め読み程度しかしていないと思われる。
あと、「和解は極東軍事裁判ですべて終わっている。昔から「罪を憎んで人を憎まず」というだろう」だのと訳知り顔に書いているが、これも恥ずかしいことこの上ない。
本書をマトモに読めていないことが露呈しているからだ。
このレビュアーこそ、日本的「謝罪」観に囚われまくっていると思う。
「著者は「水に流す」のは日本だけのやり方で、他国には通用しないなどと馬鹿なことを言っている」などと書いているのも同様だろう。
そもそも「水に流す」ってのは、実際の所、責任主体がその責任をきちんと認めることなく、その者が辞職したり、自らの命を絶ったりするなどして、責任そのものをウヤムヤにする行為だからだ。
誤読だけでなく、「寛容の原理」ならぬ「"不"寛容の原理」を適応するという、実に最悪なレビューだ(あと、自説がウザかったw)。
「恵子ホームズさんらによる「民間外交」を、あたかも「真の和解」にとっては障害であるかのごとく難癖をつけている」などと書いてあるのもあるが、これもやはり誤読だろう。
正確には、その「民間外交」の善意とその成果を一応は評価はしている。
ただ、その手法からこぼれおちるものについて、指摘をしている。
問題は、「民間の和解」にもたれかかって、日本政府が「お詫び」だけで「謝罪」をしてこなかったことであり、それが有益だったはずの「民間の交流」を大いに害したってことだ。
人間は、ここまで「不寛容の原理」を適用した書評が書けるってのが良く分かったw
あと、著者自身が、アマゾンレビューを含む書評(難癖?)に、応答している。
ご一読あれ。
(未完)