つなげ“希”動力-伊東勉のストラグル日記。

17年9月移籍、社会活動中心の記事を記していきます。

2024年12月15日、49歳を迎えました。

 手を伸ばし

 つま先立てて

 背伸びして

 歩み続けし

 我が人生

 あまり定形でつくる文章は…文章もうまくはありませんが、感じさせられたことを率直に記せば上記の言葉につきます。

1️⃣ 今年はいくつか、この5年の間に持ってしまった「負の感情」を越えて、これまで回避してきた物事に挑戦。この年になってまだ新たな挑戦をすることができるんだ、という意味では手応えを感じた場面もありました。

 一方で、新たな挑戦をして「より高い位置からの目線」で物事を見た場合、自分の実力が劣っていることも吹き付けられる場面も。なんとか行動を起こしたいという熱意をもっても、その任に耐えられるのはということで回避した物事もあります。

2️⃣ 社会人野球も、社会活動も…その戦列に加わってから30年になります。やっている途中は必死に行動し続けてきたからですが、後から考えてみると「身の程知らずにも高いレベルの舞台に挑み続けてきたものだな」と思わされています。

 先に触れた5年間の負の感情で受けたダメージがあっても、諦めきれない何かがあったんでしょうね。だからある意味では絶望的な結果なり状況を突きつけられても、それぞれの活動を止めようとは考えなかった。自分が存在するための最低線という部分もありますが、それでも歩み続けてきたことを生き様も含めて、「力の無さにため息をつく」ことはありますが、歩んできた道を後悔することはありません。

3️⃣ 48歳という年齢時、意識していた人がいます。

 全国屈指の強豪クラブチームで私と似たような立ち位置でチームスタッフをしていた方がおられましたが、その方は50歳を前に不慮の事故で亡くなられました。自分自身の体調もそうですが、他者に力を貸せる能力を維持し続けられるか…という意味でも1年1年自分に問い続けてきた1年でした。

 昨日の夜、野球仲間の寄り合いがありました。かつてのような厚い後援者が支えるというスタイルではなく、部員の自治で運営する形となっているチームですが、それでも去年は東北の舞台にたどり着いたし、いるメンバーで何とかしようという意欲は残って存在している。

 故郷大船渡の硬式野球チームを応援する=大船渡を応援する、そして社会の中に生きる人を応援する。という歩みをこれからも続けます。

4️⃣ 不慮の事故で多くの知己が無念にも旅立って行きました。

 自分はまだこの世で歩くことができている。一所/一生懸命生き抜くことがその人たちの生き様に応えることだと思い直し、人生50周目の決意表明とします。おつきあいいただきありがとうございました。

石礫食らっても耐えなきゃならない局面はあります。

 仲間でいる内は様々欠点があっても補って共に頑張ろうと思えますが、そこから外れたらオセロのごとくパタパタと姿勢が変わってしまうことはありえることです。

 最近「離れた」方が理由をずらずらと並べ立てていますが、素直にのみ込めない自分がいます。新しい人権の概念があるのは承知ですが、「敵対者の行為はすべて悪く見える」的感覚の「誤認」はおろか「濫用」もあるのではと思ったり。私の体育会系かつジェネレーションギャップ的な資質でそーいう目線を持ってしまっている部分は否定しません。「古い」言われてもそれが実行し社会を形成してきた経験もあるから。

 社会活動30年ですか。30年でも大分変わりましたよ。俺が20歳時の30年前って1965年か。当時の俺の目線が、いまの20歳の目線なのかな、と。当時は通用できたことが今はNGよ、と。わかりますが飲み込めない状態のときはそれなりの感情を持ちます。

 そうでなくともこれだけ負の感情だけ叩きつけられれば意思を保てなくなることはあります。言って難ですが「世の中が簡単に変われない(故に熟議が必要になる)」ことと「団体で行動する流儀」は再認識した方がいいがな、と考えるものです。

【緊急】石破首相の「(要旨)共産党・赤旗は情報元を差し出せ」答弁。重大事態として警戒を呼びかけます。

 山添さんの質疑の中身もさることながら、ビリッと気になったのは「(要旨)内部告発者を差し出せ」と迫る人間が増えてきたこと。兵庫の知事もそんな行為していましたね。

 闘争の局面では「そうする」ことはあり得て、それが故に告発を受けた側は告発者を守らなければならないし、告発された側があからさまに告発者を差し出せと迫る行為は「それ自体が」と思わせるものがあるからそんなことはしない…というのは昔話ですか。
 最近のスパイト思考に基づく「人権で守られる人への怨嗟」は、こういう愚行を許してしまう。気をつけて歩みます。

産経の「クルド人」「共産党」記事は滅殺が目的。警戒を。

 産経新聞が、日本共産党の持つ資産を売却した行為をネガティブに描いています。残念ながら保有することが重荷になるのなら保有できる能力のある人に譲渡する、この事すら批判されなければなりませんか。

 産経新聞はかねてより敵対者については些事を大きくしたり、一部は事実であっても錯覚や誤認を混ぜて嫌悪感を書き立てる記事を書いています。「在る事実があるから対象者を批判する」ではなく「対象者を潰すために“在る事実”を作り出す」やり方をしに来ますか。なるほど、昔は個々の党員が起こした軽犯罪を重大犯罪のように扱った「“不祥事”キャンペーン」やった媒体だけあります。

 クルド人に対する記事でもそうですが、最近はとにかくぶっ叩く記事を乱発しその単語が出ただけで嫌悪感を生じさせる空気を作ろうとする。何とか機敏な体制をつくって跳ね返すようにしないと…と思っています。

 文頭の記事に関して言えば、最近は党費や赤旗紙代など基本的な財政活動にまで否定的な言説が並びます。今の権力党とは別の回路でできた政党は「現在の多数派が持つ利潤」に頼れないがゆえに苦労がつきまとう面があります。トーンポリシングを誘う言説には屈せずに歩きましょ。

立花孝志の愚行とそれを支持する愚考を糾す。

 土曜、日曜とN党勢力の立花孝志が、「斎藤元彦告発者」の個人的な情報を撒き散らし、月曜日はさらに“えぐい中身の情報”を公開しました。タイトルには愚行と書きましたが、その言葉すら生ぬるい下衆な行動には怒りを覚えるものです。

 立花の破壊・破戒行為は必要以上のダメージを与える。立花支持者にとっては痛快か知りませんが、そうでない人にはただ抉られる状態に陥ります。この行動を“破戒”と称したのは、敵対者ならどんなことをえぐっても構わない「破戒=何でもあり」の環境を作り出すから。

 先の兵庫県知事選挙では政敵に対する脅迫も起きています。立花は“ギリギリ”攻めているつもりでしょうが、“ギリギリ”を超えて構わない姿勢をも見せていることを考えると、いつその刃が突き刺さるか。破戒衝動にとらわれて生存権をうち壊すような真似をさせてわんない。厳重に警戒しておくことにします。

「お悔やみ欄」すら攻撃のネタに使う“B級グルメ大好き”(@udn1957tako)という者がいることを頭に刻んで歩きます。

 連投の記事です。

 先ほどは赤旗配達者の事故・逝去に関する記事を書いてきましたが、その過程でさらなる性質の悪さを見かけたので糾弾する記述をしていきます。

 しんぶん赤旗は言わずと知れた日本共産党の機関紙で、12面には党員のお悔やみ欄が記載されています。まもなく私もそこに載るでしょう。党活動中/赤旗配達中の逝去は特記でその中身が書かれます。昔はさらに個人情報的な記述もされていましたが大幅に削られ、「~日逝去→お悔やみの日程→主だった役職」が紹介。この記述は交流ある人の人事を知るための一環ですが、これも悪意に使おうと思えば何ぼでも使えるんですね。

 先の案件でX・Twitterの記事を見ている中で下記のようなツイートをする者がいました。

 毎日毎日お悔やみ欄の記事を見て、年齢・党歴を書き、その後に共産党批判ですらない呪詛を連ねる記事を書く、と。

 これ、組み合わせて書くのは何なんでしょう。

 「人生歩ききった」人を貶めるためでしかないただの共産党憎悪・侮蔑。よくそこまで他者を蹴れるな、と思うわけです。

 堪え切れない重い気持ち感じましたよ。記述者にとっては敵対している組織かもしれないけど、そこにいる人間だからオートマチックに憎めるのか、と。

 考えるとピリッとくるものはありますね。

 共産主義者以前の一個人としての人づきあいとして、折り合いの悪い組織にいる人とのそれも多い。なんでも折り合えるものではありませんが、それでも「社会はそういうもんだ」と思って、組織としてはぶつかり合いもするけども、個人的部分では付き合いも持てる、というふうに一応49年生きてきたつもりです。それを考えれば対立者だからといって、お悔やみに泥を投げつける行為はできません。

 「何言ってんだ貴様 政敵に対してなくなった時に批判してただろう」

 …そうですか。私が批判しているのはその性的と言われる方々の政治・政策的なこと、あるいは弔意の強要やトーンポリシングであって、対象個人が生きてきたことそのものを批判した覚えはありません。そこのところごっちゃにしないでもらえますか。

 そのことを考えると、このB級グルメ大好き(@udn1957tako)のやった行為を許しません。共産党員であった人の存在そのものを誹謗する行為に、私は敵意という言葉を超えた怒りを持つものです。

配達者の事故・逝去に託つけて赤旗日刊紙の放棄を迫る行為に。

1️⃣ 過日、赤旗日刊紙を配達していた方が交通事故でなくなられました。残念でなりません。お悔やみを申し上げます。

 私の身近でも約20年前に事故・逝去の案件を経験しました。見通し悪い坂道頂部分でスピードを出していた車にぶつけられての、ということで。お目にもかかっていた方でしたから残念な思いをしたのを覚えています。

2️⃣ が。

 この一件すらも共産党攻撃に使えれば結構、と口さがない言葉を叩きつける人がいる。更には「これを期に紙媒体をやめろ」「配達を必要とする日刊紙を廃止しろ」と。ネチャネチャと「これが共産党/党員のためですよお」と騙りますが、これも所詮は足を止めさせるための1手。

 「日々移り変わる状況をとらえる毎日の情報源」と「日刊紙を有しているからできている宣伝手段の確保(選挙実施中の号外発行)」を失わせてならないから日刊紙の継続に力入っていますが、敵対者は壊してしまいたいのでしょうね。だから思ってもいない「~~のためなんですよお」言いながら首を絞めにかかる。笑わせるな■■が、としか思いません。

3️⃣ 木下ちがやはX・Twitterアカウントで当該者の訃報記事をちらつかせながら共産党/赤旗/党員をまんべんなく叩き、木下ちがやおよび同調者によるおためごかしがこれでもか、と並べられていますが、目的は「共産党の“武器”を奪う/存在を壊す」以外ありません。

 今現在起きている問題の解決に向けて対応はすべきでしょうが、上記面々のやり方でそれを為してはならない。彼らの意見は「惨めに消滅しろ」だから。教育勅語に“良いこと”書いてあっても、その根本目的が「個を棄て権力者に命を委ねろ」である以上それには乗るな、てのと一緒です。

4️⃣ 議論が加熱すると「下には下」を生じさせるものも出てきて、その中で「一線超えた」思わせるものが現れてしまいました。それについてはすぐ後の記事で糾弾します。おつきあいありがとうございます。

「殺害」に対するハードルが低くなっていることに注意!

 日曜日の日本保守党によるクルド人ヘイト拡散及び立ち寄る店への襲撃。カウンターと「まだそーいうやつらには味方しない程度の理性を保っている」警察の対応で実際の襲撃は止めましたが、その後のSNS…殊にX・Twitterでの記述に寒気を覚えました。

 ええ、簡単に出てくる「殺せ」「虐殺」「狩り」という言葉。どんな不満持ってるか知らんが、簡単に口に出していいものか。言葉に出した時点でそれはその言葉を意識することになるのですよ。

 あとな、その意思に自分自身が耐えられるのか。

 私は“限度を超えた敵意”を発症し、かつそれを実行する胆力を持てずすべての敵意を自分に向けた結果、取り返しつかない病気を背負い、一般的な人生を諦めざるを得なくなりました。

 俺はまだ自分だけで済んだからいいけど、実際に“完遂”したら?十数年、人生棄てることになる。それだけでもバカくせえと思わないか?

 最悪なんは、自身は手を汚さず、空気だけ醸成させるクズ。そーいう輩に限って人間性がクズ・外道なのは何なのでしょうね。

 自信が持つ信頼する心持ちを失くさなくてもいいですが、タガが外れた輩も出ていることは認識した方がいいと考えるものです。

川口・蕨「クルド人を標的にしたヘイト行為」に抗う。

 先々週の兵庫県知事選挙で斎藤元彦陣営のしたことについて色々言われていますが、拙稿では扱いません。「約100万票の民意をドブに棄てんのか」なる擁護意見に対しては「ゴミに棄てさせるような行為をした側が責任とりな」と申し上げておきます。


 先週末にかけて、川口・蕨の「クルド人へのヘイト」問題に関して動きがあり、渡辺賢一が主催している団体こそ仮処分で行動を止めましたが、その他の団体-日本保守党の河合ようすけなどがクルド人協会やハッピーケバブ店舗を標的にしてヘイト攻撃を仕掛けてきました。

 このクルド人に関わる問題は「何かを貶める対象を探していた“いじめっこ”勢力」の標的となり、行動を拡大解釈して「これは悪いこと」とみなして叩きに走る…言ってしまえば「いじめ行為」でしかないもので、都合のいい勝手な定義をつけて憎悪を撒き散らす行動に出るやり口に軽蔑の視線を送らざるを得ないものがあります。

 そういういじめ行為に対してカウンター行動でダメ出ししていますが、SNSではいじめ行為をかき立てる勢力に喝采を送り、それに反撃する勢力を惨めなやつとかき立てて「好き勝手に殴れる権利を拡大する」姿を見せ“空気”を作ろうとしている。

 “空気”というのは本当に甘く見てわんないですね。そういう空気を充満させた結果何が起きたか…100年前に起きた関東大震災における朝鮮人虐殺示すだけでいいでしょ。

 今では日本人の加害行為そのものをなかったことのようにしたい動きが続いています。「日本人はすごいんだ」と示すのはそうい

った愚行を反省し、そういう行為は二度としないという行動で示されるべきものであって、愚行をなかったことにするというのは卑怯者の行為と違いますか。

 私がそういうカウンターの現場にいるのは不慮の事故を起こす危険性もあるので避けている部分はありますが、それでも現場に立って行動されている…クソみたいな言葉投げつけられながらも最前線で奮闘される皆様には本当頭の下がる思いでいます。

 活動している様子の報告で「自分たちカウンター以外が反撃しなく/できなくなっている」という気がかりな記述もあります。いじめをしている連中の方がいい気になっていて“空気”を支配しているというのもありましょうが…なんとかカウンターがこらえている間に二の矢、三の矢が注げる状況になればと願っているものです。

 おつきあいいただきありがとうございました。

社会活動に必要なこと-陣地獲得戦で「量」と「質」の求め方。

 週末に参加したはたらく女性中央集会。Facebookでは何回か記事を書いています。表題こそ「女性」と銘打っていますが、社会活動全体に関わる勉強をしたく、今回は岩手開催ということも手伝い参加しています。

 タイトルに書いた「量と質」という部分に関して、それぞれ考えさせられる問題提起があったんですね。まず「量」という部分では土曜日に基調講演をした和田静香さんの話。和田さんはもともとスポーツや身近な出来事を取り扱うライターさんでしたが、男性・女性の比率がほぼ五分五分に近い神奈川県大磯町議会の存在とその様子を知ってから政治・社会問題に目を向けるようになった、とのこと。権力強者の側でなく市井の市民が政治に参画するために何が必要かという部分で問題提起をなされていましたが、特に「(要旨)既存の政治勢力の人たちがもう少し『ハードルを下げるような工夫』をしてほしい』」旨を語られていました。

 続いて「質」の部分。日曜日に行われた分科会、私は「ジェンダー視点から防

災を考える」イコールネット仙台乗務理事の宗片恵美子さんの報告を聞いてきました。約20年前から女性の防災リーダー育成に取り組んできた経験を紹介。「基本的な講座を5回に分けて行った後でそれぞれの地域で実践すること」で育成を図ってきましたが、その行程には「全部出席」してもらういうことを約束した、との話。つまり、必要なことは万難を廃して覚えてもらい、「質」を確保するために必要な厳しさも必要だ、という一面も見ました。

 多くの人には参加していただきたい。

 だけども実際社会活動の現場で戦うとなると、どうしても「戦うのに必要な武器=知識は身につけておく必要もある」、と。

 一見矛盾した要素を持ちますが、それを同時に成していくことが必要、と。直接それを学んだわけでありませんが、それぞれの事象において考えさせられるお話でした。


 私は4媒体で記事を書いていますが、ブログ・FacebookとInstagram・Threadsで別れる形で記事を書いています。同じテーマを扱っていてもブログでは濃く、Facebook・Instagramでは多少マイルド&ビジュアル的に、Threadsは文字数制限があるのでそこを考慮しての記述になります。Facebookは閲覧者を制限していますが後者2つは「benitoh96」で見ることができるのでよかったら見てやってください。おつきあいいただきありがとうございました。