全体国家の創出ファシズム体制の擬人化
個人は無、国家がすべてイタリアのファシズムはまず、フランス革命、自由主義、マルクス主義の思想的遺産を受け継ぐ潮流を批判しようとする。楽観主義者ムッソリーニは、大多数のイタリア人が抱く欲求不満と希望に応える術を知っていた。権力の座に着くやいなや、経験に基づいた自説を、著作や演説を通して理路整然と説いた。
ムッソリーニは民主主義に対して、国民の政治的、経済的、法律的そして文化的な活動のすべてを包括する全体主義国家を対置した。唯一の党は次第に国家とひとつになっていく。それまで国民の承認によってのみ選ばれていた候補者は、1928年からファシズム大評議会が指名することになる。1932年からは、公務員になるには [唯一の党に] 入党することが必要条件となった。そしてついにムッソリーニの軍隊組織的な集団は、国防義勇軍となった。
この全体主義的な国家は国家元首、すなわち大衆の意志を体現する、頭領Duceのカリスマ性の上に成り立っている。したがってプロパガンダによれば、「頭領は常に正しい」のである。崇拝がいろいろな形をとってムッソリーニに授けられる。胸像、絵画、文学、あるいはフィルムが次から次と、彼を救世主、使徒、慈善家あるいは教育者として画いていく。
経済のコントロール まず20年代の初めに、それまでの雇用主との自由主義的な協約を破棄し、統制経済を打ち立てたことが挙げられる。輸入額を抑えるために取り組まれた、小麦の収穫とMarais Pontin地方の整備という一連の「戦争」が成功する。大規模な国土整備計画(都市開発、鉄道・高速道路の整備)は、失業に対する闘いであり、ファシスト体制の偉大さを示すために不可欠なものであった。
1929年の世界恐慌のあと、イタリアは自給自足経済体制の政策を取り入れた。1933年に工業再建研究所IRIという公共機関が、鉄鋼業、造船業あるいは化学のような大工業部門を運営するために設立された。1934年からファシスト体制は、外国為替の厳しいコントロールを押し付け、わずかな輸入しか認めなかった。それでも自給自足経済体制は、貿易赤字を減少させることはできなかった。
労働界の締め付けも強まった。協調組合主義は、マルクス主義の影響を受けた組合を排除し、労働者と経営者に同じ規律を押し付けた。1927年の労働憲章はストライキを禁じ、労働争議の調停はすべて国家がおこなった。
国民国家の賛美 ファシズムの第一の目的は、「新しいイタリア」を建設することによって、国民の偉大さを取り戻すことであった。文化的多元性が際立つ国においては、大衆のなかに共通のメンタリティを広げることが重要である。国家は青少年を組織した。教皇ピウス11世がカトリックの青少年が吸収されるのを拒否し、非難したにもかかわらずに。6歳から子どもたちは「狼の子」隊に入り、8歳から12歳まではバリッラ事業団* となり、14歳には「前衛」になり、18歳になると戦闘ファシスト青年団に入る。こうしてファシスト体制は、以前とは異なった新しいエリートを育成しようとした。休暇の組織化は、Dopolavoroという独占企業がおこなった。この企業は、仕事の後スポーツや文化的な催しを組織し、団体旅行を計画した。なぜならば、個人の領域はできる限り縮小しなければならなかったからである。
ファシスト党は、新聞、出版、ラジオなど、自分たちの宣伝に役立つすべての表現手段をもっていた。そして大衆をいかに感動させるかを気にかけ、造形芸術、建築そして映画までも、その取り組みに参加させた。映画に関しては、ローマにCinecittaというスタジオを建設させた。
* 軍事訓練をふくめ少年をファシストに育成する団体。市町村単位に組織された。
バリッラ事業団で軍事訓練中の少年
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疲れと「父子家庭」の家事当番のために、必要な会議をキャンセルして早く帰って来た。
今日は早く寝るつもりがなかなか寝付けない。
そこ...