3.全
体主義体制スターリンと集産体制の栄光を称えるポスター1932年
A.
スターリンと国家政党 スターリンは「上からの革命」を理論化し、「国家権力を最大限に強化する」ことを奨励した。彼は30年後、自分の党派の独断に従わせる、中央集権的な権力を少しずつ形成していく。党は、社会を統制する国家機構のひとつとなった。中央委員会で決定された「総路線」は、下部組織によって実行される。
1926年に3万人いた、党の活動的メンバーである apparatchik は、1939年には10万人になった。彼らはすべての階層、そしてたとえば青少年が加盟するKomsomolにいたるすべての組織に、スターリンの指令を伝達した。1936年に制定された新しい憲法は、党の役割を公然と認め、「国家の死滅」が革命の最終目的であるというマルクス主義のテーゼを放棄した。すなわち、これからは逆に国家が断固として社会をコントロールするということである。
B.
大粛清および大衆にむけられた弾圧 第一次5カ年計画以来の停滞の原因は、スケープゴートに押し付けられた。「サボタージュ」をおこなう者あるいは「外国の代理人」に対する密告が組織化され、粛清によって「偽善者」や「出世主義者」が、党から追放された。1934年におこった、レニングラードの党書記であったキーロフの暗殺が契機となり、「大粛清」が始まった。ゲーペーウーは、より暴力的で効率的な内務人民委員部NKVDに取って代わられた。1936年からモスクワで始まった裁判によって、レーニンと活動を共にした古参党員や赤軍高官が処罰される。被告たちは公衆の面前で自白を強要された。
戦争前日NKVDの刑務所制度は、刑務所、中央アジアおよびシベリアにある強制労働収容所、それに約50ヶ所の労働キャンプからなっていた。刑務所の機関であるGoulagは、「政治犯」と普通犯を極限の生存条件のなかにおいた。収容者は森で労働し、鉱石を採掘し、線路、ダム、町などを建設した。
スターリンの恐怖政治による犠牲者の数は、歴史家の間で論争になった。今日では、1941年以前に労働キャンプでの生活を経験した人の数は380万人、そして1953年までに死亡した人の数は250万人と見積もられている。
C.
新しい人間と個人崇拝 スターリンはマルクス主義とレーニン主義を、いくつかの文書で結論づけている。とくに自然、社会、個人は変革することができるとする信念からくる、自らの思想を打ち建てた。政治的意思は、手段を楽もうとすればできないものはない。こうしてスターリンは、「新しい人間」をつくりあげることを望んだ。たとえば生物学者のルイセンコは、環境因子が形質の変化を引き起こし、その獲得形質が遺伝するという説を主張し、自然を社会主義に従属させようとした。歴史については、ボルシェビキ革命の公式の改訂版をつくるという名目で書き換えられ、トロツキーについての記述が削られた。1934年には、文学・芸術政策の責任者であるジダーノフが「社会主義リアリズム」を定義し、すべての作家、芸術家はそれに従わなければならなかった。
1929年、スターリンはまだ知られていなかったが、10年の間におびただしい数の肖像によって、カリスマ的な指導者像をつくりあげた。すなわちレーニンの精神的な息子であり、その正統性の守り手として。そしてまた無謬の導き手であり、「人民の息子」として称えられた。ムッソリーニやヒットラー同様、個人崇拝とプロパガンダが社会的な精神作用をつくりあげたのである。
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<NHKスペシャル>「権力の懐に飛び込んだ男 100日の記録」
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100228.html