Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

斎藤元知事、再選確実

2024年11月17日 | Monologues

 

 

 

職員の皆さん、権力者の傲慢と不正を内部告発によって正そうとすることは正しいことです。

これにめげず、正しいことを行う勇気を失わないでください。

事なかれ主義に陥って、見て見ぬふりをしないでほしい。

 


「わたしたち、『現実はこうだ』って切り捨てられて諦める苦しさ、
たくさん味わってきたじゃない」
(「虎に翼」第60回より)。
「そうやって戦うことから逃げていたら、罰が当たった」
(同第18回)。

 


そして、権力者の権力の乱用により、職場からの排除の憂き目にあって苦しんでいるとき、

その重荷を一人でしょい込まないでください。

 

あなたは、権力者とその取り巻きに人にとっては邪魔者、無価値な存在でしょうけど、あなたの家族にとってはかけがいのない夫であり、妻であり、またかけがいのない父、また母なのです。

 

あなたに降りかかっている災難について、家族に相談してください。

とくに男性はとかく仕事上の重荷を一人で背負いがちです。

自分は家庭の大黒柱だから、家族に心配をかけてはいけないなどという

昭和な性役割にとらわれて、一人で悩み苦しまないでください。

 


「直明:『僕はもうハタチだよ。大人だよ。僕は猪爪家の男として、この家の大黒柱にならないと!』
 寅子:『そんなものならなくていい! 新しい憲法の話をしたでしょ? 男も女も平等なの。男だからって、あなたが全部背負わなくていい。
そういう時代は終わったの』
 花江:『そうよね。これからは、家族みんなが柱になって支えていけばいいわよね』」
(同第45回)。

 


あなたがしたことは正しいことであるという信念を家族に打ち明け、これからの暮らしは大変になるけれども、
協力してほしい、と頭を下げてお願いしてください。

昭和な性役割の考えを捨てる勇気を持ってください。

 


斎藤元知事を支持する人に中には、「やっつけてやりたい」と言った中年男性がいたそうです。こういう人は、あなたが死ぬことで、してやったりと勝利感を抱いているのです。正しいことをしようとするあなたが死ねば、そういうずるい人や、残酷な人がはびこるだけなのです。

 

死なないでください。
闘い続けられるように、という以前に、
家族のために。

 

死ぬことは敗北なのです。

 

 

 

 

 

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サイクロイド曲線のaθへの疑問をCopilotに訊いてみた

2024年10月26日 | 科学・論理学・数学

 

 

高校生の時に、数学の授業で多くのひとが感じる疑問を、Copilotに訊いてみました。

 

 

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質問:

 

数学は厳密であることを追求すると言われます。実数の連続性を説明する議論で、「限りなく近づく」というような表現は、直感的であって厳密さに欠けるという理由で ε‐δ 論法が編み出されたと言います。では、サイクロイド曲線を媒介変数を用いた式に直すときの議論で、「半径aの円がx軸上を角θだけ転がったときの、原点から円とx軸との接点までの長さは、x軸と円との接点から円上の点pまでの弧の長さaθに等しいはずだ」という説明だけで済ませている現状は、厳密な議論と言えるのでしょうか。わたしには厳密な議論とは言えないと感じています。一方では厳密な理論を立て、他方では「同じ長さであるはずだ」で済まそうとする態度は学問への誠実さを欠くと思います。この点、数学者たちはどう思っているのか、なにかコメントはなされましたか。

 

 

回答


数学の厳密性に関するあなたの考え、非常に興味深いです。実際、数学者の間でも、厳密性と直感的な説明のバランスについては意見が分かれることがあります。厳密な証明と直感的な理解をうまく結びつけることは、非常に難しい課題です。

 

サイクロイド曲線の議論についても、確かに直感的な説明だけでは厳密さが欠けると感じるのも無理はありません。数学者たちも、この点について深く議論しています。特に、厳密な証明を重視する立場の数学者は、直感的な説明を補完するために、より形式的なアプローチを求めることが多いです。

 

実際には、学問の発展において、直感的な説明も重要な役割を果たしています。初めて学ぶ学生や研究者が理解を深めるために、直感的な説明は有効な手段です。しかし、厳密な理論に進むためには、形式的な証明が欠かせません。

 

あなたのように、厳密な議論を求める姿勢は、学問への深い誠実さを示しています。数学者たちも、その重要性を理解しており、常に厳密さと直感のバランスを模索しています。

 

----------------

 

 

…だそうです。

現代高校生の皆さん、納得いきますか?

 

 

 

 

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『虎に翼』 第119回 感想

2024年09月13日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

山本周五郎の傑作のひとつといわれている作品に「虚空遍歴」がある。武家の中藤冲也は浄瑠璃に生きる道を見出し、いちどは世間で喝采を以て受け入れられるが、大衆受けする芸能に満足できない。より深い芸術を探求して、武家の身分を捨て、諸国を遍歴して、求める芸術を創ろうとするが、思うようにいかず、やがて酒におぼれて精神を壊し、病死する。「人間の真価はなにを為したかではなく、何を為そうとしたかだ」という周五郎の思想を物語にした小説。第119回の「虎に翼」を見て、この作品を思い出した。

 


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航一
やっぱり僕には納得できない。ここまできて研究の道を諦めるなんて。優未さんが一番に話してくれたのも本当は悩んでいるからでしょう?

 

優未
お母さんに話そうとしたらおなかが ぎゅるぎゅるしちゃったから。

 

航一
研究者にならなくてもせめて 博士課程をきちんと終えて、そこから考えても遅くないんじゃないですか?

 

優未
本当にごめんなさい。でも 私はそうは思えない。大学 修士課程 博士課程と進んでいく度に周りから遠回しに言われてきた…。この先に お前の椅子はないって。私ね、初めて心から勉強が楽しいと思えたからここまで来ちゃっただけ。博士課程を終えた先の椅子は男女関係なくとても少ないの。

 

航一
厳しい戦いかもしれないけれど男女関係なく機会は訪れるはずです。

 

優未
もう戦う自信がない。この先 私は自分の目がキラキラしてる想像がつかない。寄生虫の研究を嫌いになりたくない。だから すっぱり諦めたいの。

 

航一
やめて どうするんですか?

 

優未
それは まだ分からない。

 

航一
今 弱気になっているだけなんじゃないですか。諦めず、もがいてそれでも進む先には必ず希望が…。

 

 


--------------

 


航一の考えの土台にあるのは、世の中で努力に応じた成果を上げる、それでこそ甲斐があるという、立身出世志向。その成果のためには自分の意に反した決断が必要であり、それが大人という資質である、という考え方。せっかく大学院まで来たのだから、せめて博士号という世間の評価を得る資格だけでも取った方がいい。もっともな論理ではあるが、それは世間の評価を主人とみなす考え方でもある。

 

こんな考え方のさらに土台にあるのは、資本主義社会での社会通念。結果を出さねば利益につながらない。利益を出すためには人間個人の望みなどは棄てなければならない、それが人生の厳しさだという考え。

 

でも寅子はそれとは違い、個人中心の人生観を披露する。

 

 

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寅子(闖入してきて)
航一さん 黙って!

 

航一
寅子さん?

 

寅子
優未の道を閉ざそうとしないで。

 

航一
閉ざす? 僕は彼女に諦めるなと伝えているんですよ?

 

寅子
それが 優未の進む道を妨げているの。どの道を、どの地獄を進むか諦めるかは優未の自由です。

 

航一
あ…?
じゃあ、寅子さんはこの9年近くの時間を無駄にしろというんですか?

 

寅子
はて? 
無駄? 
手にするものがなければこれまで熱中して学んできたことは無駄になるの?

 

航一
なるほど。抽象的で情緒的な方向に議論を持っていこうとしていますね。

 

寅子
私は努力した末に何も手に入らなかったとしても、立派に生きている人たちを知っています。

 

航一
寅子さんは現実を見ていない。甘すぎる! 
この年齢で何者でもない彼女に社会は優しくない!

 


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その通り。この社会で有利に生きてゆくためには、個人中心の人生観では評価されない。それどころかむしろ排除差別の犠牲にすらなりかねない。

 

しかしそれは、会社員人生をのみ個々人に強いるこの社会のエゴなのです。この社会をけん引しているのは多国籍メガ企業のリーダーたち。利益を出すために、働く人たちから人間性をはく奪し、部品扱いする人たち。人間の多様性を認めず、人生尾の多様性も認めない。商品を買わせるために必要な程度にしか給料を出さず、その程度にしか庶民に生存権を認めない人たち。だから公害で庶民が人生を棒に振らされても、利益のためには切り捨てようとする。庶民の人生を保障するためにカネを出すのは無駄な出費なのだ。

 

そんな人間にやさしくない社会に迎合する必要はないし、むしろ迎合してはならない。人間一人一人は弱いものだから、生涯をかけた努力が実らないほうが多い。だからと言ってその人生に意味がないなんてことはない。「人間の価値は何をなしたかではなく、何をなそうとしたか」です。自分がなそうとしたことに誠実に生きることが、それこそが豊かな人生である、と寅子も、航一の娘ののどかも主張します。

 

 

--------------

 


寅子
私は 優未が自分で選んだ道を生きてほしい。
優未。あなたが進む道は 地獄かもしれない。それでも 進む覚悟はあるのね?

 

優未
うん ある。

 

寅子
ふふふ。

 

航一
いや 駄目だ。絶対に駄目だ!僕は かわいい娘が傷つくのは見たくないんだ!

 

のどか(丸メガネにロン毛の冴えない風貌の誠也を連れて闖入)
お父さん!

 

航一
えっ、はあ?
じゃあ あっ つまり…つまり 後ろの あな… あなたが…。

 

のどか
お父さん あのね…。たとえ傷ついたとしても、やっぱり自分の一番で生きた方がいいんだよ。本当は 誠也さんと結婚するつもりだって話そうと思ってた。でも… 私 誠也が好きだけど普通になるならばやっぱり一緒にいられない。私、たとえワガママと言われようと、普通の家庭も子供もいらない。自分の人生を自分のためにだけ使いたい。誠也にも、私と一緒になるために芸術の道を諦めてほしくないの。だから…。

 

誠也
えっ ちょっと待って 待って。それは つまり 俺が普通にならなくてものどかはずっと一緒にいてくれるってこと?

 

のどか
えっ?

 

航一
皆さん! あっ すみません…。
一旦… 一旦 落ち着きましょう。

 

寅子
航一さんがね。

 

航一
あっ… ああ… ん…。

 

誠也
お義父さん…。

 

航一
お義父さん?

 

誠也
お義母さん。

 

寅子
はい。

 

航一
はい?

 

誠也
のどかさんは きっと苦労するし、自分の幸せは自分で見つけてもらうことになるし、人が当たり前に持ってるものはほぼ持っていないような人生になるかと思いますが…。僕たち結婚します。

 

のどか
んっ? えっ? えっ…?

 

誠也
大人の僕らが親の承諾を得るものじゃないかなと。

 

のどか
それもそうね!

 

航一
ハッ… フフフフフ…。

 

寅子
あらやだ 怖い。

 

航一
あっ いや… いや…。こんなにも感情が高まり揺さぶられることが人生に起きると思っていなかったので。

 

寅子
じゃあ みんな自分の道を選んで進むということで。そろそろ うなぎが届きますから。大丈夫?

 

航一
はい ごめんなさい。

 

寅子
届いたら みんなで食べましょう。

 


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「ふつう」であるということは、会社と会社を中心とした世の中に恭順であることを態度で示すこと。ロン毛を短く刈り込むこと。大企業リーダーたちがそれを望むから。彼らは男が髪を伸ばすことも、「戦場」と名付けられた男の職場に女が進出してくることも、まして同性同士の恋愛結婚の権利も気に入らない。彼らの感覚をベースにして、彼らの気に入るモラルを庶民に強いてくる。給料で生計を立てる庶民は、いわば生殺与奪の権を握られている状態なので、自分には自分の価値観があると胸を張って抵抗できない。卑屈に従わざるを得ず、その屈辱感を、自分と同じように屈しない人に向けていじめや排除の圧力をかけて鬱憤を晴らすことしかしない。これが世の中を閉塞させる。

 

「お父さん あのね…。たとえ傷ついたとしても、やっぱり自分の一番で生きた方がいいんだよ」。
人に言われたとおりにして、それで褒賞を得るうれしさより、自分の思うことを追求して失敗するほうが、人生のコントロール感を持っている分、ずっとましなことです。自分の人生を自分でコントロールしているということも充足感の重要な要素だから。そのうえいくらかの成果を得られればなおのこと満足度は大きい。その満足感、充足感は、サラリーマンの会社への貢献と報酬などとは比較にならないくらい大きいだろう。

 

「人並みに」二人の子どもを持ち、車を買って、家を建て、日曜日に、商業化されたレジャー地で遊んだり、ショッピングモールをぶらつく類の、消費の「幸せ」は、それがなくても限られた人生を終えようとしているときに感じる充足感には無関係。

 

こんな話を読んだことがある。

 


--------------

 

 

「先生は、後悔したことはありますか?」
静かにベッドに横たわったあなたは問う。
「後悔…ですか?」
「ええ」
ともすれば眠ってしまいそうな、そんな強い眠気と闘いながら、あなたは¨もろもろ¨を振り払うかのように大きく頷く。
「後悔…」
「そう、先生にはないでしょうか」
わたしは、首からぶら下げた聴診器の先を左手でやわらかく握りしめた。ひんやりとした感覚が手から入り、脊髄を通って脳に達する。
「もちろん、ありますよ」
「ある?」
「ええ、後悔するのは…しょっちゅうですよ」

 

医者であるということで、後悔がないと思うのなら、それは間違いである。理想主義者は、あるいはロマンチストは、期待や希望に裏切られる現実と、それに従ってもたらされる後悔と常に戦わねばならない。

わたしはそういう意味で、後悔の名人といえた。終末期医療の最前線で、正解がない問の連続の中、日々「こうしておけばよかった」、「ああいえばよかった」、そのような仕事上の後悔とも無縁ではない。

おのずとゆっくり、顔がほころぶのがわかった。自嘲ではなく、自分が凡夫であるという、悩み多きただの人間の一人であるという、すがすがしい諦念だ。

 

「わたしだって、いつも後悔しています」
ダメ押しすると、あなたもつられてやや微笑んだ。
「そうなんですか」
どことなく安心したようだ。声も落ち着きを取り戻している。
「ええ、そうですとも」

 

わたしは緩和ケアという、主に末期がんの患者さんの心身の苦痛を取り除く仕事をしている医者である。今まで数千人の最期を見届けてきた。

 

とりわけがんの末期は様々な苦痛を伴う。ゆえに、私の仕事の大半は、主に薬を用いて、その増大した苦痛を取り除くことに向けられている。終末期の患者さんを苦しめるのは身体的な苦痛である。私はそれを取り除くスペシャリストなのである。しかし一方で、身体的な苦痛は取り除けても、その人の心の苦痛を取り除くことはなかなかに難しい。心の苦痛を訴える患者さんと出会うと、わたしも迷い悩むことがよくある。もはや解決できない、あるいはおそらく解決できないであろう問題を患者さんから示されると、わたしにはどうすることもできないのである。ただただ裸の人間として向き合い、お話を聞かせていただくよりほかはない。そんなとき、表情が曇るのが自分でもわかる。

 

あなたの余命は、おそらく短い週の単位である。すなわち、あなたが生きられるのは、おそらくあと数週間なのである。

 

あなたはもはや体が自由にならない。満足に歩けない。日中も寝ている時間が多くなった。終末期によくみられる、体力の低下を睡眠時間を増やすことで補おうとする現象である。つまり、あなたの思考力も以前のようには働かない。あなたは健康な時にやすやすと解決できた問題が、もう簡単には解決できない。あなたの後悔が、あなたの人生で解決していない問題に由来しているのであれば、それを取り除くのは難しいかもしれず、それを聴いたわたしも、ともにその後悔の痛みを引き受けることしかできないのかもしれないのである。

 

ごくっと唾をのんだ。
しかし、あなたに後悔を持ったまま、亡くなってもらいたくない。
姿勢を正すと、わたしは問うた。
「あなたの、後悔は何ですか?」
あなたはゆっくり口を開いた。
「わたしの後悔は…」

 

 


「死ぬときに後悔すること25」/大津秀一・著

 

--------------

 


この前書きの後、後悔を吐露した患者さんの話が25にまとめられ、「生きること」を考える内容となっている。25の後悔のうち、いくつかを目次から引いてみると、

健康を大切にしなかったこと
煙草をやめなかったこと

そして、

自分のやりたいことをやらなかったこと
悪事に手を染めたこと
他人に優しくしなかったこと
自分がいちばんと信じて疑わなかったこと
仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと
記憶に残る恋愛をしなかったこと
愛する人に「ありがとう」を伝えなかったこと

…とある。

 

このうち、「自分のやりたいことをやらなかったこと」の章では…

 

 

--------------

 


おそらく日本人はまじめすぎる。もう少し肩の力を抜かないと息が詰まる。そしてもう少し自由に生きるとよいと思う。見えない鎖に縛られすぎている。

...

 

自分勝手の自由ではなく、自らによって立ち、何ものにも束縛されない真の自由に生きる人間は本当に強い。心の部屋に清涼な風が吹き込むように、窓をいっぱいに開けて、己がしたいように生きるべきだ。とにかくいまわの際には、自分に嘘をついて生きてきた人間は必ず後悔することになる。

 

転職したいなら、今すべきである
新しい恋に生きるなら、今すべきである
世の中に名を残したいのであれば、今からすべきである。

 

命の時間は決して長くない。毎日無用なストレスにきりきり耐えて、レールに乗るばかりの人生を走っても、最期に感じるのは「おれは忠実なバトンランナーであった」という思いだけであろう。

 

生命の役割は、バトンに載せて、「思い」を次世代につなぐことである。バトンをつなぐことも大事ではあるが、それが目的ではない。バトンをつなぐのにどんな(自分独自の)すごい走りを見せたのか、それが次のランナーを励ましもすれば、TVの前の観衆をも魅了するのである。苦しそうな顔をして、落とさないように落とさないようにとおっかなびっくり走って、素晴らしい走りができるだろうか。胸を張って、自分の思いに忠実に、全力以上の力で走るからこそ、皆が感動するのではないだろうか。

 

もちろん、秩序を壊せとは言わない。そして新しい人生には、それなりの逆風が吹くだろう。それは覚悟しなければならない。地図のない海を初めて航海しうとすれば、そこには多くの未知の障害が待っている。それは人生も同じであろう。しかし、わたしもたくさんの人生の最後を見てきたが、

 

生涯を愛に生きるため、新たな伴侶と生きた女性
都会での暮らしを捨てて、高原で第二の人生を自然とともに生きた男性
最期の瞬間まで、自分の作品に心血を注ぎこんでいた男性(彼の死自体も、彼の作品の新たな1ページとなった)

 

こうした彼らすべてが輝いていた。そこにはほとんど曇りもなく、死に顔は穏やかで、実際、後悔などはほぼなかったのではないかと思えた。

 

社会的な規範からすれば、「自由にいきる、自分に忠実に生きる」人生は必ずしも完全な善ではないかもしれないが、自分の思いに殉じたのであろうその人生は、後ろ指をさされるどころか、不思議と潔いものである。なので自由に生きた人生はみなから尊敬はされないかもしれないが、愛される。

 

一方で、自分の心の声に耳を傾けることなく、社会的に規範のみを重んじ、したいと思った多くのことを心のうちに押し込めたままで、
「先生、ひたすら耐えるだけのわたしの人生は何だったのでしょうか」と後悔を漏らすのは、どうなんだろう。
自分というものを取り戻し、自分らしく生きることができれば、このような後悔もはるかに少なくなるのではないかと思う。

 

予定調和ばかり気にして、あるいは周囲と和することばかり考え、空気を読みすぎるのはあきらかに精神衛生上よくないし、そのような無形の長年のストレスが病気を生む可能性もある。

 

だからやりたいことは普段からどんどんやるようにし、他人に迷惑をなるべくかけないという前提で、もう少し、好きに生きてみてもよいように思われる。自由に生きても、忍耐で生きても、文句を言われる量はそれほど変わらない。だとしたら自由に生きたほうが、自分のためになるのではないか。

 

後悔しない生き方、それは「自分を取り戻す」ことだ。自分を意識せずとも、自分を体いっぱいに表現している子どもと同じようになれば、おのずと人生の楽しみを取り戻すこともできると思う。

 

やりたいことをやらねば最期に後悔する。

 


(同上)

 

--------------

 


そう、だから優未は目標を変えてもいいし、誠也とのどかは共に生きていきたいのであれば結婚すればいい。うまくいかなかったら別れればいい。大の大人が結婚するのに親の許可なんていらない。娘が結婚するのに父親の許可が必要だったのは家制度、家父長制のような封建的価値観の時代の話。

 

ただ、今の日本は、資本主義の制度に異議を唱える人には「優しくない」。忍従の生き方で、世の中に恭順して生きてきた労働者にさえ、老後や負傷や病気で働けなくなれば、ほぼ何の補償もなく死ぬに任される。コロナ禍がそれを実証した。こんな日本の仕組みは変えなければならず、そのためにはわたしたちはそれなりの労力を提供しなければならない。でも、こんな無慈悲な日本を変えることができた日には、それは大きな喜びとなるだろう。

 

あと、航一さんはものわかりがよく、優未とのどかと誠也の望みを受け入れたが、現実のエリートは、逆に激高して少なくとものどかと誠也は勘当扱いにするだろう。寅子やのどかの思想は、権威者から評価してもらうために、多くの犠牲を払って、勉強し、のし上がってきた自分の生き方を真っ向から否定するものだからだ。

 

 

 

 

 

 

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「崩れる全国紙~毎日新聞社の富山撤退」幸田泉 『地平』10月号より

2024年09月07日 | 一般

 

毎日新聞が全国紙でなくなる。

「富山県での新聞配送を今年9月末で休止する」と7月に発表したのだという。富山県全体でわずか840部だという。

「人口100万人の県でのこの部数はマスメディアと呼べるものではない」。

原因は輸送費、印刷費の高騰のほかに、専売店の減少。高齢化によって、後継者を見つけられないまま、店主が引退することだという。

 

 

「富山から毎日新聞がなくなることに、地元放送局の北日本放送の元幹部や、何人かから、『寂しくなる』、『とても残念』とのメッセージをもらった。温かい言葉はうれしかったが、それならどうして100万の富山県民は、毎日新聞をもっと購買してくれなかったのか」と話すのは、元毎日新聞記者で現在大阪大学の特任教授である嶋谷泰典さん。

 

県民に責任を問うのかと訝しい。伝統的な全国紙の傲慢さ、庶民へ寄り添わない取材姿勢等、大手メディアには、心ある人々はみんな不満や怒りを持っています。でもそんな大手メディアの権威主義的な姿勢にも原因と思われる現象が、毎日新聞富山支局にはあったようです。

 

「バブル景気の頃に大量採用して以来、新聞記者の採用は減少の一途。その結果、年齢構成がピラミッド型の逆で、まるでベーゴマ型。若手記者の離職率が高い。東京、大阪など本社はまだ若手記者が配置されるが、地方の支局は高齢化が深刻。全員50代という支局もある」。

 

バブル時代の新自由主義的な傾向が強いのではないかと疑われる記者たちばかりで構成されているということを聞かされると、メディアの権威主義的な変節にも合点がいく。女性記者も少ないのではないでしょうか。実は大手メディアの女性差別は惨く、現役女性記者の幾人かは暴露本も出している。そんな政権よりの、女性差別的な記者たちの提供する新聞だからこそ、魅力がなく、購買する人が減るのではないでしょうか。

 

「新聞紙面をめぐっては、今定年退職した元記者たちが、『どうしてこんな大事なニュースがこの程度の内容しか載っていないのか』とSNSで怒りを発信しているのをよく見かける」。

 

わたしたち庶民も、同じような怒りをずっと大手メディアに向けて発信してきましたけどね。木で鼻をくくったような態度でしたよね。

 

「新聞が、『国民の知る権利に奉仕する』、『権力を監視する』という使命を果たすのが、どんどん難しくなっている」。

 

国民の知る権利に奉仕したり、県曲を監視することに徹していれば、購買層が減少することがなかったのではないでしょうか。

 

日本新聞労働組合連合書記次長、伊藤弘明氏の談話:「わたしはリベラルな論陣を張れる全国紙記者なのが誇りだったし、そういう新聞が必要だという思いは今も変わらない」。

 

そういう「リベラルな論陣を張る」仕事がきちんと行われていれば、事業縮小というような憂き目にあうことはなかったのではありませんか。

 

 

 

 

 

 

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宇宙の運命を握る「ナゾの物質」ダークマター…最新研究から浮かび上がった「意外な正体」

2024年06月02日 | 科学・論理学・数学

 

 

 

138億年前、点にも満たない極小のエネルギーの塊からこの宇宙は誕生した。そこから物質、地球、生命が生まれ、私たちの存在に至る。しかし、ふと冷静になって考えると、誰も見たことがない「宇宙の起源」をどのように解明するというのか、という疑問がわかないだろうか?

 

本連載では、第一線の研究者たちが基礎から最先端までを徹底的に解説した『宇宙と物質の起源』より、宇宙の大いなる謎解きにご案内しよう。

 

 


■宇宙の運命を握るもの

 


本記事では、宇宙には見える物質のエネルギーより、ダークマター(暗黒物質)がその5倍近く多く存在し、その強力な重力により物質を引き寄せて、これまで多くの銀河がつくられてきたことを解説します。ダークマターが、銀河同士すらも引き寄せて、より大きな天体である銀河団や超銀河団をつくるなど、これまでに観測されている宇宙の大規模構造をつくってきたのです。

 

その一方、引力ではなく斥力をもつダークエネルギー(暗黒エネルギー)の量が徐々に増えてきて、ダークマターの3倍近くほどのエネルギーをもつに至り、現在の宇宙を加速膨張させ続けていることを紹介します。つまり、ダークエネルギーこそが、将来の宇宙の運命を握る、極めて重要な役割を担っているのです。

 

物質という言葉が意味するものは、さまざまな背景により、その定義が異なってきます。しかし、これまでの章で述べられてきたように、素粒子物理学では物質とは、主にクォークでつくられた陽子や中性子のような核子を指します。もしくは、その材料であるクォークやレプトンなどの素粒子を指す場合が多いようです。

 

核子は3個のクォークでつくられています。陽子はアップクォーク2個と、ダウンクォーク1個です。核子が集まって原子核をつくり、原子核に電子が捕られて原子がつくられます。原子が組み合わさったものが分子ですね。私たちの体は原子・分子からできていますが、最小の単位という意味で、クォークからできていると言っても過言ではないでしょう。この、クォークつまり核子からつくられた物質は、「バリオン物質」と呼ばれます。バリオン物質は光を散乱するので、目に見える物質です。これまで述べてきた反物質も、「反」と付いていますが、核子からつくられているのでバリオン物質であり、目に見える物質です。

 

実は、宇宙全体の進化を研究する学問である宇宙論では、宇宙の膨張に与える影響の性質から、物質を定義します。それは、宇宙の体積が2倍になればその密度は半分になる、そのようなエネルギー状態をすべて物質と呼ぶことにする、という定義です。ここでいう密度とは、数の密度でもよいですし、質量、もしくはエネルギー密度でも同じ意味となります。質量密度とは、アインシュタインの相対性理論ではエネルギー密度と同じ意味なのです。

 

見える物質であるバリオン物質は、当然、宇宙論の定義でも物質です。そしてこの宇宙論の定義に従うと、物質とは、バリオン物質である必要すらないのです。

 

 

 

■ダークマターは存在する

 

次に、見えない物質、ダークマターが存在するという話をします。ダークマターが物質と呼ばれるためには、光のように速いスピードで飛び回ってもいけません。速度が遅い(エネルギーが低い)という意味で、冷たい(コールド)ダークマターと呼ばれることもあります。見えない物質、ダークマターが存在すると信じるに足る、科学的な宇宙観測について3点紹介します。1. 銀河の回転曲線、2. 衝突する銀河団の重力レンズ効果、3. 宇宙の大規模構造の種です。

 

1つ目は、他の銀河内の天体の運動に関する観測によるものです。ここで天体の運動とは、恒星やガスの塊の領域が、銀河の中心を円盤状に回っている回転運動のことを指します。

 

ここで先に、われわれの太陽系内の惑星の運動を復習しておきましょう。太陽系の形成の起源を考えれば明らかなように、太陽系内の惑星の運動は太陽という恒星の重力のみが主に支配していて、太陽の周りを惑星がそれぞれの公転周期で回っています。例えば、地球が1年で回るのに対し、最も太陽に近い水星は約90日、最も太陽から遠い海王星は約160年など、その周期はさまざまです。

 

公転軌道の円周の長さも違うのですが、その回転の速度もそれぞれ異なっています。観測により、地球が秒速約30キロメートルで公転しているのに比べ、水星は地球よりも速くて秒速約47キロメートル、海王星は地球よりずっと遅くて秒速約5.4キロメートルです。ニュートンの法則から導出された運動方程式によると、速度は太陽の質量の平方根に比例し、それぞれの惑星の質量に無関係で、太陽からの距離の平方根に反比例するという関係にぴったり合っています。

 

ところが驚くことに、他の銀河の円盤全体の回転の速さを測定したところ、中心からの距離に関係なく、ほぼ一定だったのです。この半径ごとの速度は「回転曲線」と呼ばれます。これは、太陽系のような惑星の重力が支配的な小さな領域と、銀河全体の大きな領域とではまったく状況が異なることを示しています。


この、銀河の回転曲線(半径ごとの回転の速度)が半径を変えても一定という不思議な現象は、実はダークマターを導入すると解決されるのです。これまでは、銀河の光っている円盤部分のみに着目して、太陽系の惑星の運動のような計算をしていたため、誤っていたのです。光っている円盤部分すら十分に覆い隠すほどのダークマターがつくる球対称の分布を仮定するのです。

 

その場合、そのハローとも呼ばれる球対称のダークマター分布が、円盤部分の物質の重力源を上回り、むしろ支配的な重力源になります。そして、ニュートンの運動方程式により計算すると、この回転曲線がちょうど一定になるという、一見、非自明な性質が導かれます。1980年にアメリカのヴェラ・ルービン博士らが、銀河中を回転する水素ガスが放出する21センチメートル線(波長が21センチメートルの特殊な電波)の観測から、この回転曲線がダークマターの存在により説明できることを論文として発表しました。銀河の回転曲線は、非常に決定的なダークマターの証拠となっています。

 

 


■「弾丸銀河団」に残された証拠

 

2つ目は、弾丸銀河団と名付けられた、衝突する2つの銀河団の観測によるものです。2つの銀河団には、バリオン物質が含まれているので、それらが衝突してX線を出して光ります。その画像から銀河団の位置がわかります。

 

ところが、重力レンズ効果という別の方法で2つの銀河団の位置を測定したところ、衝突せずにすり抜けている成分がとても多いという結果となりました。重力レンズとは、重い天体の周りでは、一般相対性理論の効果により空間が曲げられ、光が直進できずにレンズとなる天体を中心に集光される現象です。弾丸銀河団の背後にある天体から出た光は、弾丸銀河団の重力レンズ効果によって曲げられます。そこで、背後の天体から出た光を逆算して、弾丸銀河団の質量成分の空間的な分布の画像をつくったのです。その結果、バリオン物質とは異なり、お互いに衝突せずにすり抜けている物質の存在が描き出されました。これは、ダークマターが存在する証拠です。

 

3つ目は、本章のテーマでもある、宇宙の大規模構造の種としての役割です。宇宙の始まりにおいて、銀河がなかった状態から、太陽質量の約1兆倍もの重さの銀河がつくられるためには、その種となる、密度が濃い(高い)領域が必要です。そうした空間的な密度の濃い薄いは、「密度ゆらぎ」と呼ばれます。元はインフラトン場の量子ゆらぎだったものが、インフレーションを経て、密度ゆらぎとなりました。最初に密度が高いところには、重力により、どんどん物質が集まってきて、どんどん密度が高くなっていきます。逆に、最初に密度が薄い(低い)ところは、どんどん密度が低くなっていきます。このように一方向にどんどん進んでしまうことは、不安定性と呼ばれます。重力の不安定性により、宇宙年齢をかけて、大きく重い銀河がつくられるのです。先に紹介した銀河団は、その銀河が重力で集まった天体、銀河団が重力で集まった天体が超銀河団です。

 

ところが、宇宙の進化において、質量を担う物質が、見える物質、つまりバリオン物質だけしか存在しなかった場合、大変な問題を引き起こします。見えるということは、光を出したり、光と散乱したりするという意味です。宇宙の火の玉の中で、光とバリオン物質だけがゆらぎをもっていたのであれば、それらは激しく散乱して、それぞれがもっている密度ゆらぎをならして平均化してしまいます。その結果、密度ゆらぎがなくなってしまい、大きく重い銀河がつくられないという問題を引き起こします。これを防ぐためにも、光と散乱しない、つまり見えない物質であるダークマターが必要不可欠なのです。ダークマターの密度ゆらぎの大きいところに、見える物質がどんどん落ち込んでいって、銀河をつくります。最近の理論と観測との進展から、ダークマターは見える物質の約5倍の量で存在しないと観測と合わないことがわかってきました。

 

 

 

■未知の素粒子か、原始ブラックホールか?

 

ダークマターとは、いったい何なのでしょうか。実は宇宙と素粒子の研究の業界では、ものすごくホットなトピックとして、数十年もの歳月を要して活発な議論が行われてきています。

 

先の議論のように、すでに見える物質は除外されています。赤色矮星や褐色矮星のような発見されていない小さな恒星が大量にあるという可能性はどうでしょうか。それらは見える物質(バリオン物質)なので、上記の構造形成における、ゆらぎをならしてしまうというネガティブな効果によって候補となりません。同じ理由により、恒星が最期を迎えたときに形成される天体、例えば、中性子星や白色矮星なども、元はバリオン物質でしたから、ダークマターとはなり得ません。重い恒星がつぶれてつくられる天体起源のブラックホールも、同じ理由で駄目なのです。銀河・クェーサー・活動銀河核などの中心に鎮座する約数十億太陽質量にも上る超巨大ブラックホールの質量を足し挙げても、ダークマターの0.1%程度にしかならないことも、観測から明らかになってきました。

 

長年、候補かもしれないと考えられてきたニュートリノも、条件を満たしません。宇宙に満ち満ちている火の玉のなごりである3世代(電子、ミュー、タウ)存在する宇宙背景ニュートリノは、数はとても多いのですが、個々の質量が小さいために、ダークマターとはならないことが判明してきました。

 

スーパーカミオカンデでニュートリノの質量の存在自体が発見され、梶田隆章博士がノーベル物理学賞を受賞しましたが、皮肉にもダークマターとなるには量が足りなかったのです。ニュートリノの質量は、最新の宇宙マイクロ波背景放射などの観測から多めに見積もっても約0.1eVです。1eVは1gの約1033分の1、つまり1兆分の1の1兆分の1の10億分の1です。

 

その軽いニュートリノは、スピンと呼ばれる自転に相当する性質が、左巻きであることがわかっています。左巻きという性質は、左回転という意味なのですが、地球の自転のように下から見たら逆回転に見えるような本当の回転とは異なり、概念的に名付けられただけのものです。

 

理論的に予言される筆者お薦めのダークマター候補は、次の4つです。
1. WIMP、
2. アクシオン、
3. 原始ブラックホール、
4. 右巻きニュートリノ。
他にも、それこそ山のように候補はあるのですが、近い将来に決着がつきそうな候補という観点から、筆者の独断で4つ選びました。

 

 

 

高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所
2024.06.02

 

 

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森文相の教育政策

2024年01月04日 | 歴史

 

 

 

 森文相の教育に関する考え方は、教育は結局国家の繁栄のためになすものであるとするものであった。井上毅は、森の死後まもなく明治二十二年三月九日皇典講究所で行なった講演の中で、森文相の教育の主義は「国体教育主義」であったと述べている。この基本方針のもとに彼の教育政策が実施されたのであった。二十二年一月二十八日に森文相が直轄学校長に説示した要領の一節に、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」とか、「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」などと述べていることからも彼の教育政策の基本をうかがうことができる。

 

 森文相が閣議に図った教育主義の根本に関する意見書があり、その一部を先に引用したが、この閣議案には国家教育の目標が何であるかを詳述し、学校制度全般の整備はこの点から出発しなければならないことが示されている。その中には、次のように国体主義の教育観が述べられている。

 

 「今は文明の風駸々として行はれ、日用百般の事物漸く変遷し進む。然るに我が国民の志気果して能く錬養陶成する所ありて、難きに堪へ苦を忍び、前途永遠の重任を負担するに足る歟。二十年の進歩は果して真確精醇深く人心に涵漸し、以て立国の本を鞏固ならしむるに足る歟。加ふるに我国中古以来文武の業に従い躬国事に任ずるは偏に士族の専有する所たり。而して今に至り開進の運動を主持する者僅かに国民の一部分に止まり、其他多数の人民は或は茫然として立国の何たるを解せざる者多し。

…蓋教育の規則粗ほ備はるも、教育の準的は果して何等の方法を以て之を成遂することを得べき乎。顧みるに我国万世一王天地と與に極限なく、上古以来威武の耀く所未だ曾て一たびも外国の屈辱を受けたることあらず。而して人民護国の精神忠武恭順の風は亦祖宗以来の漸磨陶養する所、未だ地に墜るに至らず。此れ乃ち一国富強の基を成す為に無二の資本至大の宝源にして、以て人民の品性を進め教育の準的を達するに於て他に求むることを假らざるべき者なり。

 

蓋国民をして忠君愛国の気に篤く、品性堅定志操純一にして、人々怯弱を恥ぢ屈辱を悪むことを知り、深く骨髄に入らしめば、精神の嚮ふ所万派一注以て久しきに耐ゆべく、以て難きを忍ぶべく、以て協力同心して事業を興すべし。督責を待たずして学を力め智を研き、一国の文明を進むる者此気力なり。生産に労働して富源を開発する者此気力なり。凡そ万般の障碍を芟除して国運の進歩を迅速ならしむる者総て此気力に倚らざるはなし。長者は此気力を以て之を幼者に授け、父祖は此気力を以て之を子孫に伝へ、人々相承け家々相化し、一国の気風一定して永久動かすべからざるに至らば国本強固ならざるを欲すとも得べからざるべし」

 

 

 このような国家至上主義の教育観が、森文相の国体主義の教育の内容であり、この教育方針は二十年前後に明確にされて、その後に引き継がれているのである。

 

 学校教育に関する森文相の方策は、すべて右に述べた国体主義の教育観によって貫かれていた。そしてこの主義による教育方策がしだいに実現されていった。たとえば、はじめて大学令の規程をつくった際にもこれを帝国大学と命名し、国家の須(す)要に応ずる学術技芸を教授攻究することを、大学教育の目標として規定したのである。また全国の男子十七歳から二十七歳に至るまでのすべての者に操練を課して、護国の精神を養うべきであると右の閣議案の中で述ベている。これは忠国愛国の気が、一国文明の進歩、生産富源の開発、国運進歩の根源であるとする森文相の考えによるものであった。

 

そしてこれを実現するためには、
1)文部省は簡単平易な教課書をつくり、人々の諷誦(ふうしょう)、又は講義に便ならしめる。
2)陸軍省は体操練兵の初歩を教える。
3)これを戸長または毎郡の所掌とし、区域内の人民を一月に一度或(あるい)は二度時間を限って学校に集め、聴講または運動に従事させるべきであるとしている。

 

 森文相がこの軍隊式教育を師範学校において試みたことはよく知られている。このような軍隊式体育を実施しようとした精神は、次の「兵式体操に関する上奏文案」の中によく示されている。

 

 「抑国家富強ハ忠君愛国ノ精神旺実スルヨリ来ル、故ニ文部ノ職ハ主トシテ此精神ヲ養成渙発スルノ責ニ当ラサルヘカラス、是ヲ以テ体育ノ切要ヲ認メ既ニ学科ニ加へサルナシト雖モ、其実効ノ見ルニ足ルヘキナキハ蓋シ身軍籍ニ在ル者ヲ聘シテ教師ニ充ツルコト稀ニシテ、其大数ニ至テハ一タヒ之ヲ軍人ニ習ヒ伝ヘテ其技ヲ演スル者ヲ以テ之ニ任ス、故ニ其志気ニ至テハ素ヨリ厳粛ナル規律ヲ躬行シテ武毅順良ノ風教中ニ感化成長セル軍人ト日ヲ同フシテ語ルヘカラサルナリ、宜ナル哉現時諸学校ニ休操ノ科目アルモ智育ト並馳スルコト能ハス、僅ニ其形ヲ存スルノミニシテ他ハ前進シテ止ル所ヲ知ラスト雖モ独リ体育ニ至テハ幾ント大効ヲ実験スルニ至ラス、若シ斯ノ如クニシテ幾月ヲ経ハ庶民愈々オウ弱ニ陥り大ハ以テ一国ノ勇気ヲ殺テ護国ノ任ニ当ラス、小ハ以テ辛苦経営事ヲ成スノ力ヲ減シ遂ニ救拯スヘカラサルニ至ルヤ必セリ、而シテ富強ノ実果シテ何クニ挙ランヤ、臣叨リニ国家ノ重職ヲ辱フス、徒ニ垂洪黙止スル能ハサル所以ナリ、臣潜ニ之ヲ考フルニ今其弊ヲ剔キ其利ヲ興シ以テ国家富強ノ長計ヲ固フセント欲セハ、第一中学校以上諸学校ノ教科時間ヲ割キ、乃チ休操ノ一科ハ文部ノ管理ヲ離レテ之ヲ陸軍省ノ施措ニ移シ、武官ヲ簡撰シ純然タル兵式体操ノ練習ヲ以テ之二任スルニ在リ、而シテ文部省ハ自ラ其事二染手スルコトナク単二陸軍ト妥議商籌スルニ止ムルトキハ、厳粛ナル規律ヲ励行シテ体育ノ発達ヲ致シ学生ヲシテ武毅順良ノ中二感化成長セシメ、以テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ嘗艱忍難ノ気力ヲ換発セシメ、他日人ト成リ徴サレテ兵トナルニ於テハ其効果ノ著シキモノアラン」

 

 森文相のこの考え方に基づき、師範学校の教育には全面的に軍隊式教育が取り入れられたが、また小学校、中学校にも「兵式体操」が採用されている。

 

 森文相は女子教育についても強い関心をもち、その重要性を強調しているが、その思想は右に述べた国体主義の教育観と軌を一にするものであった。彼の女子教育観は東京高等女学校卒業証書授与式における演説(二十一年七月)などによって示されている。それによれば、人の性質の賢愚は慈母の養育のいかんに帰するものとし、「賢良なる慈母」となるための女子教育の必要を説き、また女子教育が国家社会の進歩にとって重大な意義をもつものであると述べている。明治二十年秋第三地方部学事巡視中の演説には彼の思想がいっそう明確に示されており、その中で「国家富強ノ根本ハ教育二在リ、教育ノ根本ハ女子教育二在リ、女子教育ノ挙否ハ国家ノ安危二関係ス、忘ル可ラス、又女子ヲ教育スルニハ国家ヲ思フノ精神ヲモ養成スルコト極テ緊要ナリトス」と述べている。

 

 森文相の教育政策として注目すべきものに教育の経済主義、あるいは学校経済主義がある。これは単に財政上のことのみでなく、教育についやした力に対してじゅうぶんな効果を期待するものであり、当時の国家財政・地方財政の困窮に由来するところが大きかったと思われるが、彼の合理主義思想によるものであったと考えられる。この主義による政策は義務教育である公立小学校についても授業料の徴収を原則としたことなどに示されており、また直轄学校の統合などにも現われている。

 

 右のほか、森文相が特に重視したものに地方視学政策がある。森文相は地方の教育を自ら視察して、しばしば講演や訓示を行ない、地方の教育を激励するとともにその指導監督に努めた。森文相の時代から教育の国家管理が強化されたが、政府が単に法令を定めてこれを実施するにとどまらず、地方の教育を直接に視察監督することの必要を認めていたためである。この観点から、文部省に視学部を設けて視学官を置き、視学制度の強化拡充を図った。このことも森文相の教育政策として注目すべきことであろう。

 

 

こちらより転載。

 

 

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「いないことにされる私たち」の目立った点(1)

2021年04月14日 | 歴史

 

 

 

--- なぜヨーロッパのように大学無償化ができないのですか?

 

「財政的に大学の学費を出すまでのお金はないよね」

 

 教育に対する公的支出は日本はOECD(経済協力開発機構)の加盟国中最低で、高等教育の家計負担の割合が大きい。お金がないのではなく、政府が税金を教育に使っていない。
--- 諸外国に比べて、教育にかけるお金が少なすぎます。

 

「だってみんな大学に行ったら、ブルーカラーの人がいなくなっちゃうでしょう」

 

--- ブルーカラーの給料や待遇を上げて、ブルーカラーに就きたい人が選ぶようにすればいいのではないでしょうか。介護職の人の低待遇が問題になっています。さらに国は、国の介護費用や医療費を減らそうとしています。

 

「もう国は面倒見きれないよ。家で見てもらうしかない。昔の日本はそうしていたんだ」

 

--- いま女性は外で働いています。介護で辞めざるを得ない人たちがいます。政府の女性活躍推進政策と逆行するのでは。

 

返事はなかった。

 

 

既得権益が守られ、経済的に恵まれていない人たちが這い上がることができない。格差を再生産する強固な仕組みはあまりに不公平だ。

 

 

(「いないことにされる私たち」/ 青木美希・著/ 「おわりに」より)

 


-----------

 

 

こんな人間が、有識者として教育再生実行会議委員を務めている。こんな人たちを政治の場所から追放すれば、こんな政策は実行されなくなります。選挙なのです。自分の暮らしを向上させるのは選挙なのです。

 

 

 

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夫婦別姓こそ日本古来の伝統でした

2021年03月07日 | 文学・芸術・雑学・健康

 

 

 

「選択制」だと言っているのに、家族が壊れるだの意味不明なことを言って夫婦別姓制度に反対している日本会議系議員たち。しかし歴史を調べると、夫婦同姓は日本の伝統どころか、古来の日本の伝統を打ち破って、明治時代に無理くり導入されたものであることがわかります。今日日本会議系が日本の伝統だと言っていることの大半は同様に、明治時代につくり出されたものです。

 

 

-------------------

 

 

 旧(民法)法典において初めて一夫一婦と夫婦同姓の原理が明確に打ち立てられた。古来わが国では婦女は終生、生家の姓を名乗り、婚姻において特に姓を改めなかった。すなわち、夫婦は家籍を同じくしながら、その姓を異にするのが明治初中期までの日本一般の習わしであった。

 

 しかるに、重婚の排除、婚姻当事者の自由意志・自由承諾の理を法的に明確化(旧民法・人事編56条)して、法律上完全な一夫一婦制を確立した旧民法法典は、夫婦の姓の点においても伝統を破って、妻は夫の姓を名乗るべきものとした(同・人事編243条)。

 

 夫婦一体的キリスト教法理の影響を受けた新立法で、身分法上の一つの革命であったが、民法典論争(※)の当時の延期派が「耶蘇教以後の婚姻中心のヨーロッパ法制を導入したものとして、その旧法典を激しく攻撃した理由は、かかる一夫一婦制法制化・夫婦同姓原理確率の点にあったと思われる。

 

 

 

(「民法典論争資料集」/ 星野通・編著/ 松山大学法学部・松大GP推進委員会・増補より)

 

 

 

 

※民法典論争

 

法典論争の一つとして、民法相続編、親族編における「家」制度と近代法の関係をめぐって行われた論争。1891年法学者、穂積八束(ほづみやつか)が、論説「民法出でて忠孝亡ぶ」を発表。

 

わが国は祖先教=家制が国家の基礎であるという理由をもって家族関係を法律で律するということを排撃した。
これを契機に、家制度の重視、淳風美俗(じゅんぷうびぞく)維持の声が高まり、帝国議会において、家督相続や血統重視を唱える民法実施延期派と、妻や子にも一定の権利を認めることを主張する実施派・梅謙次郎らとの激しい論争となった。

 

論争は1892年11月、延期の決定により終結したが、家制度重視は明治民法のなかに色濃く盛り込まれた。

 

 

(「岩波・日本史辞典」より)

 

 

 

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空へ

2021年03月07日 | Monologues

 

 

このブログを開設してからもう15年。

 

今日、還暦になりました。還暦になって思うこと。

 

「死」を現実的に感じるようになりました。

死は怖ろしい。食べたり、読んだり、知ったりすることから永遠に断たれる。

わたしの周りの人たちは、わたしの死を見とどけた後も、それぞれの楽しみのために、自分の場所へ帰ってゆくでしょう。

しかし、死んだ者はもう何にも与ることができなくなるのです。

そう、眠るときのように、目を閉じたあと、しかし再び朝の光を見ることはない。

わたしも去ってゆく。

 

時間が惜しい。読みたかった本を、生きているうちに読んでしまいたい。

長年勤めた会社を、明日辞することになります。

 

しばらく専業主婦やってから、ふたたびアルバイトをしようと思います。

長くエホバの証人の開拓奉仕をしていたので、年金などまともにありません。

夫に申しわけないので、健康ある限り、働き続けたいと思います。

 

 

去年だったかな、エホバの証人を脱会された方が、漫画の単行本を出されていました。

立ち読みしていたんですが、印象的だったのは、辞める決意をして集会へ行くと、

みんなの表情がつくられたものに見えて怖かったというシーン。

 

あの世界では、本音を言うと、霊的に弱って危険な人物の烙印が押される。

だから集会や信仰の同士に対しては、喜ぶ表情と温和な表情をつくっていなければならない。

長老やお局姉妹になればある程度そこが自由にはなりますが。

 

人間同士の親しさというのは、ほんとうの気持ちを分かち合うこと。

気持ちに共感しあうことが「親しい」ということなのです。

本音を隠して作られた表情で交流しても、そこに友情を感じることはないのです。

集会から帰ってきて、ふと独りになると、そこはかとなく疲労と孤独感を覚えるのです。

 

 

そういえば、コロナ禍の今、彼らはどうしているんだろう。

インターネットで集会しているんだろうか。

たまに王国会館、日曜日に見ることがあるけど、車は駐車していない。

韓国で、キリスト教の集会が大クラスターになったので、集会も伝道も控えているのだろうと思う。

 

 

ま、もう関心はないけどね。

季節は春。

静かな春を、いまは満喫しよう。

 

 

かつて脱エホバの証人の掲示板にいた方々も、無理に幸福になろうとしなくていい、

ネトウヨなんかにならないで、エホバの証人の経験から、寛容な人間になっていってほしい。

今の世の中で幸福になんかなれないから。

新自由主義というのは、

労働者の人権や暮らしを守るために設けられたさまざまな規制から

企業を自由にしようというもの。

企業が自由になればなるほど、わたしたちの自由と生存権は奪われてゆくからです。

 

 

もう一つ。

日本国憲法の13条で、すべての人は個人として尊重される、と規定されているのは、

人はそれぞれ違うのだから、違いを差別や攻撃の理由にするんじゃなく、

違いを受容して、違うからこそ、協議して違ったまま共同してゆくことをめざそうということなのです。

エホバの証人みたいな宗教にハマろうとするのは、

敵を共有することでつながろうとすること。

そんなつながりのなかでは、いじめや反目、みなとちがうことに恐怖する孤独は絶えることはない。

愛はたんなる「執着する力」。

一方に執着すれば他方を排除することになる。

愛だけではしあわせになれない。

人と人との平和は、違いを受容する寛容にこそかかっている。

 

 

 

 

 

 

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学校生活と子どもの人権に関する宣言

2020年09月30日 | 思想・哲学・倫理

 

 

 

学校生活と子どもの人権に関する宣言

 

 

 

本文

 

いま、子どもが人間として生きる基盤を培う学校は、放置できない現状にある。教育条件の整備がなおざりにされ、教育内容への統制の強化が問題とされるなかで、子どもは、学歴偏重の風潮を背景にした受験競争にさらされ、詳細極まる校則、体罰、内申書などによって管理され、「おちこぼれ」、「いじめ」、登校拒否、非行など深刻な事態に追い込まれている。さらに、子どもの非行を警察依存で処理し、教育的対応を放棄しようとする社会的傾向も強まっており、未来を開く子どもの人権侵害は深刻な事態にある。


子どもも、憲法で保障される自由や人格権の主体であり、教育を受け、よりよき環境を享受し、人間としての成長発達を全うする権利を有する存在である。何人といえども子どもの人権を侵害することは許されない。


われわれは、国及び自治体に対し、憲法及び児童憲章に定める子どもの権利保障を徹底させ、教育基本法、学校教育法などに規定する教育目的を達成するため、教育条件を整備する具体的措置の速やかな実施を求める。同時に、父母、教師及びすべての人々に対しても、子どもの人権を保障する責務があることの自覚を求め、共に、体罰や「いじめ」の一掃、「おちこぼれ」の解消を図り、子どもや父母の校則制定・改定への参加の機会の保障、子どもに対する処分に際しての適正手続の保障、内申書などの自己情報を知り・質す機会の保障など、子どもの人権の確立を期する。


さらに、われわれは、子どもの権利の救済窓口を設置するなど、具体的な子どもの人権擁護のため全力を尽す決意である。

 


右宣言する。

昭和60年10月19日
日本弁護士連合会

 

 

------------------------

 


理由

 

1.

 日本国憲法11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」と規定し、同法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と規定している。さらに、同法18条は、奴隷的校則及び苦役からの自由を、同法19条は、思想及び良心の自由を、同法20条は、信教の自由を、同法21条は、集会・結社・表現の自由を、同法31条は、適正手続の保障を、それぞれ定めている。


これら憲法で保障された基本的人権は、すべての人々に対して保障されているのであり、もとより子どもも例外ではない。


右の権利・自由の保障に加えて、子どもは成長発達過程にある存在であり、人類の未来を開く存在として、その可能性を全面的に開花させるため、おとなに保障される以上に人権が保障されなければならない。その中心となる権利が、同法26条の教育を受ける権利であり、よりよき環境を享受する権利である。学校教育の過程にあるということは、子どもに対して、より十分な人権保障を要求する根拠にこそなれ、子どもの人権を制限する根拠にはなり得ないものである。

 


2.

 かつて、子どもは、親や国家の保障の客体とみられてきた。


しかし、現代の人権思想は、子どもが固有の権利及び自由の主体であることを承認している。日本国憲法の精神に従って、1951年(昭和26年)5月5日に制定された児童憲章は「児童は、人として尊ばれる。児童は、社会の一員として重んぜられる。児童は、よき環境のなかで育てられる。」と三大原則を宣言した。


国際連合総会は、1959年(昭和34年)11月20日「児童の権利宣言」を採択し、子どもを次の世代を担う主体として、その心身の健全な発達を図ることが社会全体の責任であることを宣言した。


さらに、わが国においても1979年(昭和54年)9月21日に発効した国際人権規約は、右「児童の権利宣言」と1948年(昭和23年)12月10日国際連合総会で採択された「世界人権宣言」とを人権の通則と認め、A規約及びB規約に、子どもの権利をより具体的に規定している。子どもが権利の主体であることは、明確な法的根拠を与えられているのである。

 


3.

 子どもの個性が豊かに開花されることは、他の市民的、政治的、文化的、経済的人権を有効に働かせる前提となるものであるから、人間的に成長発達し、平和的な国家及び社会の形成者として、個人の価値を尊び、自主的精神に充ちた国民となるための教育を要求する権利は、子どもの人権中の人権とさえよぶことができるものである。


最高裁判所も、昭和51年5月21日の学力テスト事件判決において、子どもが学習権の主体であると判示し、このことを承認しているのである。


子どもの教育を受ける権利の内容は、憲法、教育基本法によって根拠づけられ、国際人権規約A規約13条においても、教育の目的は「人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきこと」と規定されている。

 


4.

 ところが、わが国の現実は、果たして子どもが人権の主体として位置づけられているのかと問わざるを得ないほど子どもの権利は危機的状況にある。なかでも、人間として生きる基礎を培う重要な場である学校での人権侵害は深刻である。


学歴偏重の社会風潮を背景とする能力主義の名の下に、偏差値にかたよった受験競争が展開され、教師は、知識偏重の学習指導要領を消化することに追われ、授業についていくことのできない多くの子どもをおちこぼし、子どもの教育を受ける権利が侵害されている。


久しく要求されてきた大規模校の解消や少人数学級が実現されず、他方、教師に対する管理は強化され、教師が一人一人の子どもを人間として大切にし自信とゆとりをもって教育に打ち込むことを困難にする教育行政の現実を背景にして、多くの学校は、子どもの自主性を無視し、問題を起こさせないことにのみ目を奪われ、子どもや父母の意見を聴くことなく「生徒心得」などを制定して、子どもの学校内外における画一的な生活管理を強化している。「生徒心得」などの多くは、校内生活の心得、所持品規制、服装や髪型の規制、校内掲示や集会規制のみならず、通学路の規制から本来自由であるべき校外生活のあり方に至るまでこと細かく規定しており、子どもの精神的自由(憲法21条)、憲法13条から導かれるプライバシーの権利、いかに生きるかを自ら決定する権利、あるいは国際人権規約A規約13条に定められた「親権者などが、自己の信念にしたがって児童の宗教的および道徳的教育を確保する自由」を侵害する危険性が極めて高いものである。


そして、このような微細な「きまり」を押しつける手段としても、学校教育法11条で禁止されている体罰が違法に行われており、本年5月には、高校教師の体罰による子どもの死亡事件まで発生している。教師に認められる指導懲戒権の行使に際しても、子どもの名誉権、人格権(憲法13条)を無視するような言動が日常的に頻発している。また、出席停止処分のごとき子どもの教育を受ける権利を剥奪するに等しい措置を行う場合でさえ、子どもや父母の弁明の機会は、権利として保障されていないのである。これらの実態は、国際人権規約B規約7条に定める「非人道的な若しくは品位を傷つける取扱いの禁止」に違反するものである。


また、学校の内申書は、内容が教師によって一方的に作成され、当該子どもや父母が知ることができないという現実と、その内容が進学の合否に影響をあたえるということから、子どもの心理を抑圧し、微細すぎる「きまり」にも従順な子どもをつくり出す機能を果たしている。


非行を行った子どもに関して、ときとして学校から警察あるいは家庭裁判所に対し、報告書が提出されているが、その報告書も、学校が一方的に作成するものであり、伝聞証拠に基づく事実も記載されているが、子どもや父母は内容を知ることができず、この点で内申書と同様の知る権利の侵害が行われているといわなければならない。また、報告書の内容には「学校教育の限界を超えた」という文言が多用され、学校は、教育機関としての役割を安易に放棄しているのではないかとの危惧を禁じ得ない。


さらに重視すべきことは、警察に対する学校の依存関係が、今日一層深まりつつあるということである。警察庁は、少年警察体制の一層の整備を図ると共に、警察の総合力の発揮と民間の力の積極的な活用による総合的な少年非行対策を推進する必要があるとの観点から、昭和57年5月27日「少年非行総合対策要綱」を発表し、少年を非行から守るパイロット地区活動等の地域活動の強化や、本年2月13日に施行された風俗営業取締法「改正」法にみられるような有害環境等の浄化の促進などと並んで、学校への働き掛けを強化するとの方針を打出し、さらに進んで、警察自ら、非行に全く関係のない子どもに対しても規範意識を持たせるための指導が必要として「人づくり活動」に乗り出している。昭和38年に成立し、昭和45年には全国の90パーセントを超える学校で組織されている「学校警察連絡会」は、右「少年非行総合対策要綱」が発表されて以降、一層活発化し、今日、全国各地で学校から警察に対し、生徒の名簿が提出されているという事実などをみるとき、学校や教師が、子どもの人権について、どれほどの理解と認識を有して教育に携わっているか疑問をもたざるを得ない。

 


5.

 このような、子どもの人権が存在しないかのごとき学校、教師の管理は、子どもの成長発達にいかなる影響をもたらしているであろうか。


心理学者の分析によれば、管理された状況におかれた子どもは、自らの判断を必要としない状態にならされる結果、創造性や活力を奪われ、主体性を失い、自信を喪失し、多数派に同調し、同質化をもとめるようになると発表されており、さらに、人間は、権威に弱く、強い強制の下では、自主性を失うばかりか、むしろ不道徳、無責任を学習するとの実験結果の報告もある。


近時、「他から指示されなければ、主体的に何もできない自立性のない子どもが増えた」とか、「無関心・無責任・無感動」のいわゆる三無主義の子どもや、自分中心で他人の痛みを知ろうとしない子どもが多くなったとの指摘がなされている。そもそも民主主義社会は、自主的な個人の独立した理性を前提としてのみ存立できるものである。その視点から今日の子どもの現状をみるならば、わが国の明日の民主社会を担うべき主体が育成されていないとさえいえるのであって、その意味では、管理に反発して一過性の非行に走ることなどとは較べものにならないほど深刻な子どもの病理現象が進行しているのである。


今日の重大な社会問題となっている、「いじめ」、登校拒否、中途退学、非行などの増加は、社会・文化的背景、社会の価値観や社会構造に深く根ざしているものではあるが、学校における管理の状況と無関係ではあり得ない。これらの子ども達の現象の中に、せめて学校だけは、個人の価値を尊び、心身共に健康な国民を育成するにふさわしい教育の場として早急に復活して欲しいと願う切実なさけびをみることができる。

 


6.

 子どもは、社会的に弱い存在であるが故に、自らその権利を主張し得ないところに特殊性をもつものであって、まず、第一に父母が、そして保護者が、地域住民が、学校の教師が、さらには社会全体がその権利の実現を保障する責務を負うものとして尽力しなければならない。


 事態は深刻であり、1日も放置することは許されない。国も自治体も、父母も、教師も、全国民がいますぐ子どもの人権の確立に立ち上がらなければならない。われわれは、まず、国及び自治体に対し、憲法、児童憲章、国際人権規約を遵守し、教育基本法、学校教育法に規定する教育目的を達成するため、大規模校の解消、少人数学級の実現、教師の教育の自由の保障、学習指導要領の見直しなど教育条件を整備するための具体的な措置を速やかに実施することを求める。


 同時に、子どもの人権侵害が、一部の教師、父母の人権感覚の欠如により助長されていることに留意し、子どもの人権を保障する責務の自覚を求め、地域社会の人びとと手をつないで、基本的人権尊重の理念を徹底させ、体罰や「いじめ」を一掃し、「おちこぼれ」の解消を期する。さらに、子どもに対する処分に際しての告知・聴問、不服申立手続の保障、非行を行ったとされる子どもについて教師が作成する家庭裁判所や警察に対する報告書、内申書などの自己情報を知り・質す機会の保障、校則を制定・改定する場合に子どもや親が参加する機会を保障し、今ある校則を見直すなど、子どもの人権の確立を期する。


 子どもの権利は、子どもとしての権利であると同時に、自らがおとなへと成長する権利でもある。子どもの権利は、歴史的には、おとなの人権思想から派生したが、現代では、子どもの人権を保障することが、人権一般を豊かに発展させることにつながるのである。

 


7.

 子どもをとりまく環境の悪化に伴い、非行件数が増加していくなかで、警察による犯罪捜査規範や少年警察活動要綱すら無視した少年補導の濫用、暴力を伴う違法な取調べ、強制された虚偽の自白による寃罪事件などがしばしば発生している。それにもかかわらず、少年保護事件については、再審制度すら確立していないのである。


 また、「個別性、社会性、科学性、教育性」を尊重し、ケースワーク機能を生命として発足した家庭裁判所の少年事件の取扱いは、近時、形式的画一的な処理に傾き、最近では、最高裁判所から「少年事件処理要領モデル試案」が出されるなど、家庭裁判所に期待されている子どもの成長発達権保障機能は、ますます減退しつつあり、さらに法務省は、少年法を福祉と教育の法から処罰と取締まりの法へと変質させる動きを進めている。


 われわれは、これらの事態を座視することなく、これまで、少年事件の附添人活動や少年問題法律相談活動、さらには民事事件訴訟、行政事件訴訟あるいは少年法「改正」反対の活動を通じて、子どもの人権保障の重要性を訴えてきたが、今後とも、これらの諸活動を拡充すると共に、学校をめぐる今日の深刻な状況にかんがみ、会内に子どもの権利の救済窓口を設置することを含め具体的な人権保障のために全力を尽くす決意をこめて、ここに本宣言を提案するものである。

 

 

こちらより転載

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千葉 野田 小4女児虐待死 対応記録した資料開示 経緯明らかに

2020年01月27日 | 歴史

 

 

 

千葉県野田市で小学4年生の女の子が虐待を受けた末に死亡した事件から24日で1年です。NHKの情報公開請求で児童相談所の対応を記録した資料の一部が新たに開示され、誤った状況判断のもとで不適切な対応がとられた経緯が明らかになりました。

 

 

 

去年の1月24日、千葉県野田市の小学4年生栗原心愛さん(10)が浴室で死亡しているのが見つかった事件では父親の勇一郎被告(42)が傷害致死などの罪で起訴され、来月21日に初公判が開かれるほか、32歳の母親が虐待を止めなかったとして執行猶予の付いた有罪判決が確定しています。

 

この事件では心愛さんが被害を訴えたアンケートのコピーを教育委員会が親に渡すなど、不適切な行政の対応も明らかになりました。 このうち児童相談所の対応についてNHKが県に情報公開請求したところ、対応をまとめた「児童記録」の一部が新たに開示されました。 資料には事件の1年余り前に児童相談所が一時保護したものの、1か月半で解除した理由について「安全に生活できる環境が整えられた」などと記されています。

 

しかしそのわずか2か月後には、勇一郎被告が担当者に対し 「これ以上、家庭をひっかきまわさないでほしい」 とか 「訴えることも検討している」 などと敵対的な発言を繰り返していたことが記録されているほか、「一時保護解除時の約束が守られていない」 という記述も確認できます。 こうした記録からは児童相談所が誤った判断のもとで不適切な対応をとり、心愛さんを取り巻く状況が悪化していったことがうかがえます。

 

県の検証委員会は一連の関係機関の対応について「不十分、不適切だった」と指摘していて、今後、再発防止に向けた実効性のある取り組みをどう進めていくかが問われています。

 

 

 

■検証の専門家「父親の言いなりになってしまった」

 

今回の事件で行政の対応を検証した千葉県の第三者委員会の副委員長を務めた東京経営短期大学の小木曽宏教授がNHKの取材に応じました。 このなかで小木曽教授は敵対的な姿勢を取る父親を前に、関係機関が不適切な対応を繰り返したことについて 「教育委員会によるアンケートの開示など、子どもの権利を守る側が決して、してはならないことが行われた。こうした対応を疑問に思わなかったことを含め、父親のペースに完全に巻き込まれ、要求に従ってしまったと感じる。また父親から組織ではなく職員個人の責任を追及することを示唆され、言いなりになってしまった。そうした中で、女の子が発したSOSは見逃されてしまった」 と指摘しました。

 

また 「現場職員の専門性の確保や養成が十分ではなく、事案の重大性の見立てやリスクアセスメントが正しくできていないことは根本的な問題だ」 と述べ、現場で対応にあたる職員の知識や対応能力が十分なレベルに達していないことが不適切な対応の背景にあると指摘しました。  そのうえで今後取るべき対策について 「児童相談所などの人員を増やすだけではなく、職員の専門性を高めるための研修が必要だ。単に研修を受ければいいということではなく、効果を検証し、その結果を次の研修に生かしていくことが重要だ」 と述べました。

 

 


■有識者委「頼れる大人が1人でもいたら救える命だった」

 

千葉県とは別に、教育委員会などの対応を検証してきた野田市の有識者委員会は23日、報告書を公表し 「頼れる大人が1人でもいたら救える命だった」 と当時の対応を批判しました。 報告書の中では、心愛さんが被害を訴えたアンケートのコピーを父親に渡した教育委員会の対応について「子どもへの裏切り」で、「子どもの権利に対する意識の低さは非常に大きな問題だ」 と指摘しました。

 

また父親に迎合した教育委員会や学校の関係者がいたとして 「子どもより自分や組織を優先させていると言われても仕方がない」 と厳しく批判しています。 さらに市については関係機関の要として積極的に動くべきだったのに協議の場を設けないなど、対応に問題があったとしています。 そのうえで 「女の子は公的機関の大人を信頼することができなかった。頼れる大人が1人でもいたら救える命だった」 と指摘しています。

 

 

■事件の経緯

 

小学4年生だった栗原心愛さん(10)が自宅で亡くなったのは去年1月24日の夜でした。 父親から 「浴室でもみ合いになった娘が呼吸をしていない」 と110番通報があり、警察と消防が駆けつけたところ自宅の浴室で倒れて死亡していました。 警察は冷水のシャワーをかけるなどの暴行を加えたとして父親の勇一郎被告(42)を傷害の疑いで逮捕しました。10日後には暴行を止めなかったとして母親も逮捕し、心愛さんが日常的に虐待を受けていた疑いがあるとみて捜査を進めました。 その結果、勇一郎被告が心愛さんに胸の骨を折るなどの大けがをさせるなど、たびたび虐待を加えていた疑いがあることがわかりました。

 

さらに虐待と心愛さんの死因との関連について捜査が進められ、検察は食事や十分な睡眠を取らせず、シャワーを浴びせ続けるなどの暴行を加えたことによって死亡したとして、去年3月、勇一郎被告を傷害致死などの罪で起訴しました。 一方、母親は夫の暴行を止めなかったなどとして傷害ほう助の罪で起訴され、すでに執行猶予の付いた有罪判決が確定しています。 父親の勇一郎被告については来月21日に初公判が行われる予定です。

 

 

 

NHK NEWS WEB 2020年1月24日 5時31分

 

 

 

 

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日米の貿易交渉を検証する~日米貿易協定の実態・日米FTA交渉の行方(2)

2019年12月12日 | 時事評論

 

 

 

■「体制とりつくろい」のウソの数々

 

「切れ者」と称される茂木敏充前経済再生相(現外相)のもとで、「アメリカの言い分は全部飲みます。ただ、体制だけは繕ってください」(ネットへの揶揄を込めた投稿記事)と言われるほど、体制とりつくろいの悪知恵もしくは猿知恵がふんだんに盛り込まれたのが、今回の合意の特徴であった。ここでは、国会論戦の争点にもなった諸点について、ウソと猿知恵を暴くことを通じて、日米貿易協定の正体を浮き彫りにしたい。


□「自動車関税撤廃」のゴマカシ

 

アメリカはTPPで、自動車関税(2.5%)を25年、トラック関税(25%)を30年かけて撤廃し、自動車部品の8割を即時撤廃することを約束していた。しかし、日米貿易協定では、これは反故にされた。

 

政府は合意直後の説明文書では、自動車・同部品については「米国附属書に『さらなる交渉による関税撤廃』と明記」としたが、協定署名直後の10月18日の説明文書では「米国附属書に『関税の撤廃に関して更に交渉』と明記」とひそかに書き換えていた。

 

実際、公表された協定文に書いてあるのは「自動車・同部品の関税の撤廃については、今後のさらなる交渉次第である」ということだけである。しかも、この部分はいまだに翻訳は公表されていない。

 

「TAG」で使われた翻訳偽装の手口は使えないので、今度は合意直後には唯一の情報発信元だった政府説明文書を偽装したのである。

 

しかも政府は、自動車・同部品の関税が撤廃されたことにして「GDPが0.8%押し上げられる」という試算を発表しているが、鈴木宜弘教授の試算によれば、GDPは0.09%~ -0.07%と、ほぼゼロかマイナスになる(「農業協同組合新聞」2019年11月14日付け)。

 

また、自動車・部品関税を撤廃しなければ、アメリカは50%台の自由化率にとどまり、日米貿易協定はWTO(世界貿易機関)違反になって、無効な協定になるが、それを避けるために「さらなる交渉による撤廃」という空手形を織り込んでアメリカの自由化率92%をデッチあげた。

 

偽造・捏造はこの政権の常とう手段であるが、ひどすぎる。

 

□「追加関税なし」のゴマカシ

 

安倍政権を日米貿易交渉に引きずり込んだのは「自動車追加関税25%」の脅しだった。首相は、トランプ大統領の口約束をあてにして「追加関税なし」を勝ち取ったと言いわけしている。野党が「それなら首脳会談の議事録を公開しろ」と要求したが、政府与党はこれを拒絶したまま採決を強行した。

 

「追加関税なし」の根拠になっているのは、「協定が誠実に履行されている間、協定及び共同声明の精神に反する行動を取らない」という共同声明の文言である。これは2018年の共同声明と瓜二つだ。しかしトランプ大統領は、共同声明後も「追加関税は最高だ!」と言い、日米が大筋合意した直後にも「私が追加関税をやりたいと思えば、後になってやるかもしれない」「究極の交渉カードは自動車だ」と言い放っている(「朝日」「読売」2019年8月27日付け)。

 

しかも、協定本文には「協定のいかなる規定も安全保障上の措置をとることを妨げない」と明記されている。「安全保障」はトランプ追加関税の最大の口実であり、トランプ大統領が、自動車への追加関税という強力な武器を振りかざしながら、「第2ラウンド」で「アメリカ第一主義」むき出しの日米FTAをゴリ押しすることは必至である。

 

 


「日米の貿易交渉を検証する」/ 真嶋良孝・農民運動全国連合会副会長
 / 「経済」2020年1月号より

 

 

 

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日米の貿易交渉を検証する~日米貿易協定の実態・日米FTA交渉の行方(1)

2019年12月12日 | 時事評論

 

 

 

ウソを平気で重ねるのが「二枚舌」だが、この政権はいったい「何枚舌」なのか? 2012年の安倍政権成立時から簡単に振り返ってみよう。

 

ウソの始まりは、自民党が政権復帰することになった2012年12月の総選挙。「TPP断固反対!ウソつかない、ブレない自民党」のポスターが全国に張り巡らされ、江藤拓・現農水大臣も選挙広報に「TPP交渉参加には断固反対いたします!」と公約していた。

 

しかし、安倍首相が政権に復帰して真っ先にやったことは「TPP参加」だった。当時、「日本農業新聞」は、「国益に反する『壊国』協定参加に一片の大義なし。重大な公約違反であり、不信任に値する」と断じた。

 

第二のウソは、トランプ大統領が2017年1月にTPP離脱を表明した後、安倍首相は「アメリカにTPP復帰を促す。日米FTAは断固やらない」と強がってみせた。しかも安倍政権は「アメリカ抜きのTPPは無意味」「米国をTPPに呼び戻すメッセージ」と称してTPP11(11か国による協定)を主導した。

 

第三は、日米FTAそのものである日米貿易交渉開始を宣言した2018年9月の日米共同声明。政府は「TAG」(物品貿易協定)という新語まででっち上げ、安倍首相は「これは包括的なFTAとはまったく異なる」と強弁した。

 

そして今回。トランプ大統領は2019年9月26日の日米首脳会談で「かなり近い将来、日本との包括的な協定をまとめる」と強調し、ライトハイザー通商代表は2020年春以降に「第2ラウンド」に入ると述べて、本格的な日米FTA開始を宣言した。しかし、安倍首相はこれに一言も反論しなかった。その一方、国内向けには「新たな協定を結ぶか否かも含め予断をもって言うのは差し控えたい」(衆院本会議10月24日)と白々しい答弁を繰り返している。相手が「予断」を持ち、やる気満々なのが明白なのに、である。

 

要するに、「TPP断固反対」から「TPP参加」に転じ、トランプ大統領のTPP離脱表明後は❝留守番役❞としてTPPの延命を主導し、さらに「日米FTAは断固やらない」から、「TAG」なる翻訳捏造でごまかし、最後は「包括的な日米FTA」を受け入れようとしているのである。

 

このことは2019年9月26日の日米共同声明第3項から明白である。

 

「①こうした早期の成果が達成されたことから、日米両国は、②日米貿易協定の発効後、4か月以内に協議を終える意図であり、また、③その後、互恵的で公正かつ相互的な貿易を促進するため、関税や他の貿易上の制約、サービス貿易や投資に係わる障壁、その他の課題についての交渉を開始する意図である」(①②③は引用者・真嶋による)。
①安倍政権は農産物をめぐる日米貿易協定を「最終合意」と言い、これ以上の交渉はないかのように装っているが、共同声明では「早期の成果」にすぎないとされている。
②何の協議を「4か月以内に」終えるのか、文言は不明瞭だが、政府の説明によると③の交渉で取り扱う課題を協議するという。1月1日発効とすれば、4月までは協議を終え、ライトハイザー通商代表の言う「第2ラウンド」に突入する。この交渉では、「関税」や「他の貿易上の制約」、サービス・投資など、ありとあらゆる課題を取り上げることが共同声明で合意されているのである。これはコメを含む農産物の関税削減・撤廃や、医薬品・医療保険制度、食の安全基準などを含む本格的・包括的な日米FTAそのものである。
もっとも、茂木外相は「これは『意図』の表明にすぎず、今後の交渉次第」と弁明しているが、❝負け犬❞の遠吠えか、国民を欺く隠ぺいにすぎない。

 

 


■「交渉」とは名ばかりの「大統領向けセレモニー」

2018年9月の日米共同声明から1年、2019年4月の閣僚協議開始からわずか半年、異例の超短期で決着した日米貿易交渉における安倍政権の意図は、日本の農産物を差し出して、対米自動車輸出権益を守るというもののはずだった。しかし、「牛を取られて車は取れず」---日本は牛肉、豚肉などの関税を大幅に引き下げるTPP合意のほぼ完全実施の一方で、アメリカは自動車でTPP合意の完全拒否という一方的譲歩となった。

安倍首相は「日米ウィンウィン(双方の利益)の結果になった」「一方的譲歩という批判は当たらない」「日本の農業者にとって利益となる協定」と強弁を続けているが、その空々しさ、破廉恥さは「桜を見る会」「森友・加計問題」での弁明と同列である。

鈴木宜弘東大教授は「トランプ大統領の選挙対策のためだけの『選挙対策協定』だ」と喝破しているが、実際、カウボーイハットをかぶったアメリカの農業団体代表を首脳会談と署名式に同席させ、トランプ大統領が「米国の農業にとって巨大な勝利」と勝ち誇ったことに象徴されているように、「交渉」とは名ばかりの「大統領選向けセレモニー」(北海道新聞)だった。

 

 

 

 

 

 

「日米の貿易交渉を検証する~日米貿易協定の実態・日米FTA交渉の行方」/ 真嶋良孝・農民運動全国連合副会長/ 「経済」2020年1月号より

 

 

 

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「青空の翳り」

2019年03月27日 | 心理・精神病理

 

 

 

 

うらうらに 照れる春日に 雲雀(ひばり)あがり 情(こころ)悲しくも 独りおもえば

                                            大伴家持・作 万葉集

 

 

--------------------

 

 

 

作者はなにを思い悩んで悲しんでいたのかは知らないですが、

2019年3月27日の春の陽気と柔らかな色の青空をみていると、

わたしはふと寂しくなりました。

 

気持ちはいまでも若いつもりですが、

年齢を重ねて、今は、やがて自分も死んでゆくんだということに気づくからです。

太田裕美が「青空の翳り」という歌で歌ったとおり、

春の空は、ひとに寂しい気持ちを起こさせる。

 

ちょっとした病床に就くと、生計を立てるためだけに生きていることが

どうにも耐えられなくなる。

悔いのない人生をおくるためには、

わたしはもっともっと余暇が欲しい。

生きている間に読んでおきたい本が山ほどある。

そんな暮らしができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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日本を荒廃させたカルロス・ゴーンのたそがれ

2019年02月13日 | 時事評論

 

 

 

 

 

「私は日産のために全力を尽くした」
「私は人生の二十年間を、日産の復活に捧げてきた」
2019年1月8日、金融商品取引法違反で逮捕拘留されていたカルロス・ゴーン元会長は公に顔を見せたときこう豪語しました。

 

前世紀末に日産の危機を救うべくルノーから派遣された「コストカッター」に異名をとるカルロス・ゴーンが打ち出した「日産リバイバルプラン」は生産を増やすことによって「リバイバル」を図るものではなく購買コストと人件費の大胆な削減によって利益を出そうとするものでした。2001年度末に過去最高の営業利益を上げることに成功したとき、ゴーン元会長自身がこう述べたのです。
「私のリバイバル・プランは成長による業績への貢献はいっさい前提にしていません(2001年10月18日、ゴーン社長スピーチより/ 「前衛」2019年3月号、「カルロス・ゴーンはなにを壊したのか」・湯浅和己・著より)

 

上記記事によれば、リバイバル・プラン一年目には、協力企業と呼ばれる下請けの部品供給企業を30%に及ぶ335社を取引停止として切り捨て、サービス・サプライヤーと言われる関連企業は40%削減、従業員も1万4200人を純減させました。2000年度営業利益2903億円のうち2870億円が購買コスト削減によるものでした。

 

2001年度も同様。この年度の営業利器増加のほとんどは下請け企業と労働者を犠牲にしたものでした。
「2001年度も購買コスト削減は収益改善に最も重要な役割を果たしました。…(中略)… 2001年度の購買コスト削減9%は2450億円の増益要因となりました」(ゴーン元会長、2001年度決算発表にて)。

 

2002年度には、予定より一年早く「日産リバイバル・プラン」の目標達成したゴーン元会長は新しい事業計画「日産180」を打ち出し、今後三年間で購買コストをさらに15%削減すると公表。その結果としてゴーン元会長は、「営業利益に最も寄与したのは、引き続き購買コストの改善だった。2001年度との比較で営業利益は約2500億円の増加だったが、そのうち購買コストの削減は2270億円の増益をもたらした」と話しました。日産の再建とは要するに人件費・購買コスト削減という社会を荒廃させるものでしかなかったのです。

 

2003年3月の参議院予算委員会で、日本共産党の池田幹幸参議院議員(当時)が日産の大リストラ問題を質問しています。その中で、25億円の負債を抱えて倒産した日産の二次下請け企業を以下のように取り上げました。

 

 

 

(以下、引用)----------------------------

 

 

リヴァイバル・ウラン発表から約一か月後、日産の一次下請けの愛知機械が二次下請け三十社を集め、向こう三年間で25%の購買コスト低減にご協力をお願いしたいと言った。結局、売り上げの四分の三を日産グループに依存しておるこの二次下請け企業は、もうまさに、(コストカット要請を)受けるも地獄、受けないも地獄という状況だったというふうに言っております。この会社は一年後に倒産したわけです。

 

結局日産はこういった状況に下請け企業を追い込んでいる。日産のこの『下請け企業を潰していく』というやり方を、政治は是正してゆく責任がある。

 

一将功なりて万骨枯れる、と言いますけれども、企業は助かったけれども、日本、国民経済的にはマイナスになったという状況があるのだということを私は強調したい。やはりV字回復が国民経済の回復には役立っていません。結局、大企業に身勝手なリストラに対しては規制してゆくべきだと思います。

 

リストラ、人減らしを推進する『効率の良い』一部企業が日本経済を舵取るのがいいのか、それとも、既存の企業、下請けも含めて支援をし、失業者を増やさない形で日本経済を支えてゆくのがいいのか、その答えは明らかだと思います。そういう点では政府の責任というのは非常に大事だ、少なくともリストラ支援政策というようなものはやめるべきだということを申し上げて、質問を終わります。

 

 

(池田幹幸参議院議員・日本共産党による2003年参議院予算委員会における質問/ 「前衛」2019年3月号・「カルロス・ゴーンはなにを壊したのか」. 湯浅和己・著より)

 


----------------------------(引用終わり)

 

 

 

2017年、日産は偽装を発覚させました。完成車両の検査を無資格者が行って資格を持っている人の名をかたって合格印を押印したのです。翌年夏には排ガス・燃費測定での不正検査が露見しました。さらに同年秋に、日産は200億円の申告漏れを国税庁から摘発されます。それは、長年にわたる人間犠牲の結末でした。同記事はこう続けています。

 

 

 

(以下、引用)----------------------------

 

 

日産が2018年9月に公表した不正検査についての報告には、
「日産では1990年代後半ごろから、日産リバイバル・プランが始動するなど、各車両製造工場におけるコスト削減が重要視されるようになったこととも重なり、技術員の異動はコスト削減策の一環としても位置付けられるようになった。現在の日産車両製造工場においては、完成検査を軽視する風潮が蔓延していることがうかがわれた。コスト削減の結果、車両製造工場がその生産性を健全に維持するために不可欠な要素が削減されることになるのは本末転倒である」と記載されています。

 

「ゴーンの経営が長く続く中で『ファンド体質』『投資体質』に変化してきたことが、根本の原因と考えるべきである」との指摘もあります。

 

 

(同上)

 

 

----------------------------(引用終わり)

 

 

 

まさに、コストカット、人件費カットとは安全より利益という考え方につながるのです。こんなやり方で会社の「再建」を急ぐのは、株主への配慮も大きいでしょう。会社は株主のものではない、かつては勢力を持っていたこの考え方をもういちどコモンセンスにしなければならないのではないかと思います。この記事は最後にこう締めくくっています。

 

 

 

(以下、引用)----------------------------

 

 

安倍首相は内閣官房長官時代の2006年、「ゴーンさんが果たした役割は大きい。ゴーンさんの出現により我々の認識は変わったように感じます」と評価しましたが、今やその評価が過ちであったことは明白です。

 

ゴーン容疑者のもとで、日産は国内生産台数を1998年度の1,528,000台から、2017年度の986,000台へと、19年間で35%も減少させています。同じ時期に国内の関連会社も514社(連結子会社と持分法適用会社)から103社へ、実に8割も削減しています。

 

「ゴーン氏は日本を強欲な株主資本主義モデルに作り替える尖兵になった。株主資本主義モデルは日本経済を慢性デフレに陥れた(産経新聞特別記者・田中秀男氏)」の指摘のように、ゴーン容疑者は、下請け切り、労働者・派遣切りを広げ、日本を長期不況の泥沼に突き落とし、日本経済を破壊しました。ゴーン容疑者を持てはやし、ゴーン流のリストラ・下請けカットを推進している自民党の責任も問われなければなりません。

 

 

(同上)

 

 

 

 

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