小早川秋聲が小秋聲、徳田秋聲が大秋聲、というあまりにも馬鹿々々しい思い付きも、Twitterが不調の今なら呟けます。
07-15 23:14
「大」まで付けるのはちょっと大袈裟ですが、調べて見ると「大秋聲」という表現は『挿話』(昭和17年2月)の広告文でも使われていますね。どちらも桜井均の桜井書店刊です。
07-15 18:09
【大秋聲】
「変転極りなき都会生活は扨て彼女に何を残したか。大秋聲一流の名描写。果して社会は彼女を淪落の女性として指弾し終す勇気ありや否や?」
徳田秋聲『土に癒ゆる』(昭和16年4月)広告文
「財政」(昭和16年6月)新刊紹介より
https://t.co/ls6OF2lN3g
07-15 18:08
「御手紙拝見。しかし私が医師を石川氏に差向けたという記憶はありません。そんな医師の記憶もありません。多分人違いだろうと思われます」
という、昭和14年1月31日付の徳田秋聲から川並宛ての返書は、残念ながら全集に入っていません。
07-15 18:07
さがある)で、実際にそれを行ったのは江馬修であったことが、
岩城之徳「石川啄木の書簡――最終期の天才を彫塑する試み」(「語文」昭和50年3月)
https://t.co/imiJcvmJzH
で立証されています。
ここで岩城が孫引きしている、
07-15 18:06
余り金持ちでは無かつたらしい〉
以上、川並秀雄「啄木と新言語学」(「書物展望」 昭和16年8月)より。
https://t.co/bpGZOYY30N
石川啄木の最晩年(明治45年1月)に徳田秋聲が啄木を診察してくれる医師を探して奔走し柿本庄六医師を連れてきたという話は、川並の捏造(単に「誤り」とはいえない悪質
07-15 18:00
【徳田秋聲でなく江馬修】
〈或日柿本〔庄六〕氏は、親友畔高定行医師に「徳田秋聲といふ文士が態々訪ねて來た、実は非常に可愛さうで……何処へ頼んで見ても来てくれない、それで先生ならと思つて頼みに来たんだと云ふので·……其時は若干の金を払ふ積りでゐたらしかつたが、其の人(徳田秋聲氏)も
07-15 17:59
この写真は額装して部屋に飾りたいですね
(徳田秋聲記念館企画展「東の旅」チラシ)
https://t.co/eFaPdYe9jE
07-15 16:19
私がこれまで見ていた解像度の低い写真では胸から上の切り抜きで、後ろの窓枠がシルクハットの円筒状のクラウンのように見えていたのですが、こうして全体像が判明してみると旅行中であることが判るので、たぶん中折帽の類でしょうね。
徳田秋聲記念館企画展「東の旅」チラシ
https://t.co/zdbVqfkVDs
07-15 08:10
Author:亀井麻美
kamei asami
德田秋聲,徳田秋声,德田秋声
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